2001年12月31日月曜日

レッスンメモ

年末も晦日になって、家の手伝いもせんとピーヒャラばかりやっているわけにもいかないのであるが、ソノリテからEJ1、EJ3、EJ6(A)、EJ7と一通りやってみたが1時間たっぷりかかってしまった。

鏡の前に立ち、指があばれないように、かつ音が均一になることを考えて吹いてみた。高音域とC1からみの部分は特別に練習しないとダメなようだ。

こんな練習を素人=アマチュアがやる意味があるのか、むしろ楽曲に当たって出来なかったら立ち戻るという方がいいのではないのか、と思う方もいるかもしれない。楽しい練習ではないし社会人には限られた時間がない。それはそれで正しい意見だと思う。この先、どんなに頑張ってもプロのように上手く吹けるようになるわけもないのだ。従って、このような指導には賛否があると思う。

まあ、いつまで続いてどういう効果があるのか、そもそも練習時間の絶対量を確保しないとどうにもならないが、やれるだけやってみようと思うのであった。

ということで、2001年の練習メモは終了する。



2001年12月30日日曜日

レッスンメモ

プロの演奏家のレッスンを受ける機会を得ることができ2時間ほど基礎をみていただいた。今日はそのレッスンの様子を書くこととする。ただし、これを読まれる方は以下の点を注意しなくてはならない。受けた指摘は、先生が私の吹き方や音を聴いての指摘であり、これがあなたにそのまま当てはまるわけでは決してないということだ。本テキストは私の防備録として書いているに過ぎない。

1.姿勢と楽器の持ち方

最初に注意されたことは、楽器の構え方。楽器に頭を近づけるような方法ではなく、姿勢を伸ばし胸も開きその上で楽器の方を唇に近づけるということ。

次には楽器と唇の角度。構えた楽器が下がりすぎていて、唇から出される息がねじれてエッジに当たってしまうので、楽器を水平にそして頭は少し右手の方に傾けるように指摘された。

指もガチガチに硬いとのこと。指は手を脱力して下げた場合、手のひらと指は軽く湾曲するがその形のままキーの上に置くように心がけたい。右手親指は人差し指の下あたりに伸ばして、左手親指は逆に曲がった状態としておきたい(伸ばすと手のひらの湾曲が損なわれる)とのこと。

上記は鏡をみながらではないとすぐにもとに戻ってしまう。

2.ソノリテの練習の仕方

まず何か吹いてみて、というので持参したケーラーの「Easy Exercises」の1番をまず通して吹いた。そこで先生は「だいたい分かりました」と言った後ケーラーを閉じ、ソノリテから始めることとなった。

さて、ソノリテである。トレバーの1巻にしても解説は何度も読んでいたのだが、音をつくるということがどういうことなのか、いままで全く分からないで吹いていたことに気付かされた。まず、ベースとなるH2音の作り方からはじめて、そこでクリアなH2が出たらその響きを崩さないように半音づつ降りてゆくということの意味。もしもある音がおかしくなったとしたら、それはアンブシュアの加減や歌口の開き方、そして唇とエッジの距離が本当に微妙に理想とは狂っているということなのだ。

ベースとなるH音の探し方は、まずD2の指でD2からD3に倍音で上がる。その後、正規のD3の指に替えCis3→C3→H2ともっていくというやり方だ。倍音を出してもにごらない音を出さなくてはならない。倍音は裏声を出すような感じで、最後のH2に向かってクレッシェンドしていくように心がける。

音はできるだけ、遠くに飛ばすようにイメージすることを、先生は繰り返す。また吹きながら固くならないように、歩けるくらいにリラックスすることを要求する。「音を遠くへ」という指摘は具体性を欠くという風に思う方もいるかもしれないが、これは非常に重要なイメージだ。以前、ある高名な方に教わったときも「音を遠くへ」ということを繰り返し繰り返し耳元で言いつづけた。そうすると不思議なことだが音に伸びと艶やかさが増してくるのだ。音に対するイメージというのは重要だと思う。

ソノリテの練習は、集中して自分の音に耳を澄まさなくては、その違いを理解して修正することは不可能である。そのことに今まで、トレバーの本を何度も読んでいても理解できないでいた。

3.歌口を空けるということ

「歌口はふさぎすぎないこと」これだけは、最初から注意していたつもりであったのに「ふさぎすぎている」と指摘された。

大きな勘違いがここでもあったのだ。歌口を「明ける=ふさがない」ことと「開く」ということは別のことなのだ。私の場合は逆に開きすぎていて、音が放散してしまっているという状態らしい。歌口はふさいでも1/3程度、そうするために歌口を当てる位置を随分と上方に修正された。その上で、歌口を外側に回しすぎないように注意された。

これは、おそらくエッジと唇の距離ということなのだろうと理解した。「歌口は空けその上で外側に開き過ぎないように、息のビームは下方に向けて」ということに注意して吹くようにすると良いようだということが分かってきた。

4.アンブシュアについて

理想的には唇の形=アンブシュアは全音域で変わらないらしい。その上で、例えばC4を出すような小さな穴で全ての音域を本来ならば吹きたいとのこと。例えば高木綾子がなぜあんなに音量がありながら息が続くのかといえば、それは小さな穴から効率よく息を出しているかららしい。

フォルテやピアノによって息のスピードは当然変わるが、それでも穴の形を変えないように唇の周りの筋肉?をコントロールできるようにならなくてはだめだとのこと。

この文章を書いていて、おそらく誤解を与える文章だと気になっている、読み飛ばしておいていただきたい。ひとつだけいえたことは、先生が全音域やら音の跳躍をやってみせてくれたのだが、確かに唇の形はほとんど変わることはなかった。日本音楽コンクールのビデオで高木綾子の演奏も見たが、彼女もまるで吹いていないかのごとき唇で全ての演奏を行っていた。

私の場合、高音では唇を緊張させ穴を小さく、低音に至るにつれ、ダバーと穴が大きくなっているらしく息を無駄にしているとのこと。歌口の穴以上の幅で息を出したところで全ては無駄な息である。むしろ、高音では力を抜き、低音に至るほど穴を小さくするようにと指摘された。横にも縦にも小さくである。

以上のことを十分に音が通るように、ブレスをしてもアンブシュアが崩れず常に同じ音が出せるように練習するのがソノリテの練習なのだと。これはとてつもなく時間のかかる練習であったのだ。

5.T&G EJ1

次にT&Gである。練習は遅くやること、音が出ないのに速く指だけが廻っても意味がないこと、先のソノリテの練習の連続であることを意識した上で、メトロノームを使って練習するようにと教えられた。体でリズムをとらず、メトロノームの音を頼りに正確に吹くこと。メトロノームは使い慣れていないと、うまくリズムに乗れないものだ。

八分音符108程度の速さから始めることとした。T&GはD1から始まっているが必ずC1から始めること、必ず正規の指使いで行うこと、音や指にムラができていないかよく聴きながら着実に練習することが重要なのだと繰り返された。自分の弱点のチェックなのだと。

最初は全てスラーで、滑らかな山を作るようなスラーで、メトロノームにきっちりと合わせて確実に吹くこと。もしもある音と音の間にムラがあるならば、いろいろなアーティキュレーションで練習することなどを実際に指導していただく。

低音のC1からはじめて高音のC4までフルートの通常音域をムラなく確実に吹くこと。やってみて分かったが、このスピードでも満足には吹けないのだ。特に高音域、G3より上となるとメタメタになり始める。Gis3については正規運指だと高すぎるのでできる限り替え指を使うとのこと、これも知らなかった。

低音から初めて吹いていくと、ある音からつぶれたようながさついた音になる。そのたびに歌口とアンブシュアをチェック、最良のH2の響きに立ち戻って再度スケールに戻る・・・こうして練習すると、あっという間に2時間くらい経ってしまうものだ。

6.T&Gのその他の練習

先生のT&Gも見せていただいた。昔のハードカバーの今の大きさの倍のサイズで、EJ1が見開き1ページで納められている。

先生の学生時代の教本にはイロイロな書き込みがある。「フルート演奏の基礎~練習のヒント」(小泉剛)にも書かれているが、T&Gは考え方次第では無限の練習方法があるとのこと。やたらと多くの教本に接せず、T&G一冊をじっくり取り組むことを薦められた。ただし、それには練習方法を最初にしっかりと教えてもらわなくてはできないとのこと。私はフルート初めてもう6年くらいになるが、誰一人としてそういうことは教えてくれなかった。

例えばT&GならばEJ1の他には、EJ3(B)、EJ6 アーティキュレーションは少なくとも1と8で、そしてEJ7をオクターブ上も含めて練習すると良いとのこと。小泉剛の練習のヒントにも述べられているが、EJ1に臨時記号を付け加えることで、すべての指使いが練習できるとのこと。

先生はその他にもモイーズの教本とかを見せてくれたが、楽譜の横にメトロノームの速度指定を順次書き加えたあとなどが、それこそすべの練習に残されている。「やはりこんなに練習しているんだ・・・・」と思わずつぶやいたら「そりゃそうだよ」とのこと。まったく「そりゃそうだよな(藁)」

7.そして分かったこと

最後にいわく、「これらは、すべて曲を吹くための基礎体力みたいなものなんだよ。エチュードをやるのもいいけれど、基礎体力がないと、できないフレーズが出てくるたびにひっかかってしまい、面白くないでしょう。指だけ動いても音が出なければ意味がないし、基本はまずいい音に尽きるんだよ。まずはここから練習した方がいいね。」

そうなのですよ、何故に今までレッスンを受けて、ガリボルディからケーラー、ベルビギエ、ドルーエなどと難しいエチュードに上がっていっても、振り返ると未だにガリボルディの131も満足に吹けないのかといえばひとえに、基礎体力がないことに尽きるのだ。

自分ではそれなりにやっているつもりだったのだが、「それなりに」であり、「徹底的に」ではなかったのだ。だからある線から一向に上達しないのだ。

本日教えてもらった練習をひととおりやるだけで、おそらく2時間はかかると思う。これを毎日というのは社会人には無理だが、「効率的な方法=短い時間で効果を上げる」というのはあるレベルに達した人がそれを維持するためにあるもので、基礎体力をつけようとする者にとっては、効率的な練習はないのだと知った。間違った練習を延々と続けても悪い癖を付けるだけだが、正しい合理的な練習であれば、それをひたすらやるしかないのだった。ただ、素人にはそれが合理的で正しい練習かどうかを判断できない。やはり定期的なチェックは必要だと痛感したのであった。

今日のレッスンは、今年最後にして、いままでで最大の収穫であったといえるかもしれない。


2001年12月28日金曜日

受験生の正月

私の息子は中学受験します。これに対する是非や賛否はいろいろあると思います。私もずいぶん考えました。しかし最終的には私立進学を決定しました。この経緯はそのうち書きましょう。

で、全国ネットの塾に行っているのですが、これが何と休みは正月1、2日だけなんです。大晦日も塾通いです。東京の私立モードに地方も合せているからこうなるのですが、塾講師の「受験生に正月はない」という雰囲気と、地方で受ける学校が限られている中での受験生とその親では、気持が全然違うようです。何もそこまでやらなくても、という声が聞こえてきます。

本命を受ける前に試し受験をいくつも行い、万全を期して確実に受かるところを目指すというのが、東京方面の指導方向のようです。

学習指導要領の改正とゆとり教育、学力の低下、中高一貫教育、公立と私立のあり方、考えるといろいろありますが。そもそも学生とは、学習とはということも考えねばなりません。さてさて・・・

2001年12月27日木曜日

HPの紹介と地方都市ということ

あるBBSで以下のHPが紹介されていました。「超絶技巧的ピアノ編曲の世界」」~体育会系ピアニズムの系譜
という名前からして凄いページなのですが、その内容も圧巻です。編曲ものの超絶技巧曲のデータベースなど膨大な量のテキストが公開されています。

サイトの中には音楽と関係のない「いいたい放題」というページもあり、これまた物凄いテキスト量です。

で、ここからが本題なのですが(藁)「秋田に未来はあるか」という文章があり興味深く読ませてもらいました。というのも、先日書いた「札幌と福岡の差異」を考える上でのアナロジーのようなことが述べられているからなのです。

内容は、秋田に覇気がないのはなぜか、隣県の岩手と何が違うのかということを独自の視点で展開しています。秋田県が「各地の拠点となるべき都市が見当たらない」ということから初めて、秋田県人の「画期的なこと,革新的なことをどこか恐れ」る風潮を指摘し、それを「『不作のない』風土」に原因があると結び付けています。そのため「創意工夫に賭ける熱意」に欠ける人が多いのだと導いています。さらには、教育の展望のなさやビジョンの欠如をあげ、秋田の未来を憂慮してます。

牽強付会の感は免れないと思いますが、秋田に住んでの実感なのでしょう。ただ、後半の秋田県のばかさ加減をあげつらう部分や、将来に対する展望のなさについては、何も秋田県だけの問題ではなく、日本全国に蔓延している傾向ではないかと思えるのです。北海道や札幌も同様ですし、他県にしても同じような話はころがっているでしょう。

だとすると、秋田の活気のなさやふがいなさは、ひとつ日本の縮図であると思えるのです。札幌と福岡がどう違うかということについては、また日を改めなくてはならないようですな。

2001年12月24日月曜日

福岡の印象

出張で福岡市に行って来た。たかだか一日しかいないので何が分かるかという気もするのであるが、福岡市の札幌市との違いに少なからず驚きを覚えた。

人口だけで比較すると、札幌が180万人、福岡は135万人であり数字だけから見ると札幌市の方が大都市である。周辺の市町村まで集めた人口となると、どうなるのかは分からないが、この印象からだけだと札幌とさほど変らない規模の(あるいはもう少し小さな)都市を想像していた。商圏の広がりにしてもさほどではないのではないかと思っていた。

しかし、実際は全然違った。都市の成り立ちとか色々本来ならば考えねばならない問題があるのだが、全てをオミットしての印象だけから話すと、「福岡は非常に活気にあふれている」「商業ゾーンも平日の昼間から人があふれている」そして「街全体のカラーリングが古いものとあたらしいものが同居しながら、きわめてアジア的な色彩をはなっている」ということだ。

翻って札幌市を考えてみると、冬と雪のハンデはあるものの、住んでいて、どうしても明るいイメージが沸かない。何がこの印象に影響しているのだろうか。住んでみたい都市として札幌、福岡はよく名前が挙げられる都市であるが、両者には大きな差異があるように思えたのだった。


2001年12月20日木曜日

MOSTLY CLASSIC 12月号に札響の特集

MOSTLY CLASSICの12月号に「札響の英国ご機嫌よう」という特集記事が掲載されている。かなりのページをさいての紹介である。

 「札響旅日記」と称する記事は、自らのHPも作成されている真貝(ティンパニ)さんが文章を、写真は荒木(チェロ)さんほかが撮影されたもので構成されている。両氏のHPで英国公演の様子を読まれているファン諸氏には目新しいものはないかもしれないが、こうして記事になっているものを読むとまた格別ではある。指揮者尾高忠明や札響の白鳥専務理事のインタヴューなどもあり読み応えがある。

 今回のツアーは米国のテロでもめたほか、金銭的にもイロイロな問題を抱えているのだろうとは思うが、海外での演奏が、札響のひとつのステップになったことは間違いないのだろうと予想する。田中良幸(MOSTLY編集長)の記事によると、「ホルンのズッコケぶりも目立った」らしい。もっとも彼はそれを否定的に書いているのではない。尾高の言葉にもあるが、この演奏を通して札響が自分たちの音や演奏をどう見つめなおしたのかということが一番重要なのだろう。

 残念ながら、英国公演後の札響の演奏をまだ聴けてはいないが、そこに何か違った音を聴くことができたとしたら、こんなにうれしいことはないと思う。実際に金曜日の定期公演を聴かれた方はどういった感想をもたれただろうか。

2001年12月15日土曜日

第54回 三岸好太郎美術館コンサート クリスマス賛歌:グレゴリオ聖歌からマルタンまで

日時:2001年12月15日
場所:三岸好太郎美術館
指揮:
明楽みゆき(ピアノ) 徳永ふさこ(ソプラノ) 山崎 衆(フルート)

グレゴリオ聖歌 聖マリアの祝日のための ミサ曲9番
C.グノー アヴェマリア
L.ルッツィ アヴェマリア
G.Ph.テレマン 無伴奏フルートのための幻想曲より第5番 ハ長調
F.マルタン クリスマスの3つの歌
モーツアルト 微笑みつつ、静けさが/すみれ
シューベルト 笑いと涙/あなたは安らぎ/ズライカの歌
グレゴリオ聖歌 アヴェマリア/ひとり児がわれらのためにお生まれになった
G.F.ヘンデル 心地よい木陰・私は涙
キャロル まきびと羊を/荒野のはてに/もみの木

普段は声楽系のコンサートに行くことは全くないのだが、知り合いから誘いを受けコンサート会場の美術館に足をのばしてみた。三岸好太郎というのは北海道が生んだ画家で、美術館に展示されている絵を眺めると、フォービズムの影響を受けたルオー風(?)の絵を描いた画家のようだ。この小さな個人美術館の展示室を演奏会場としてのコンサートは、実に54回目を数えることをパンフレットで知った。

今回は、徳永ふさ子さんというソプラノ歌手によるクリスマスにちなんだ曲が中心のコンサート。前半には彼女が学んだ大学で後輩に当たる、山崎 衆さん(札響副首席フルート奏者)によるソロと徳永さんと山崎さんにピアノ伴奏をまじえたマルタンの曲も演奏されるなど、小さな美術館でのリサイタルにしては、充分過ぎるほど聴きごたえのあるものであった。

最初に書いたように、声楽にはなじみがない。したがって、ソプラノというとアタマのてっぺんから高い声がビンビンと響いてくるというようなイメージを持っていたのだが(失礼!)、身近で接したソプラノ奏者の声は、そんな陳腐な印象を変えてくれるに充分なものであった。徳永さんのソプラノは、暖かな歌声の中にある種の芯の太さ強さを感じさせるようなもので、決して刺激的に響いてはこない。ふくよかに包まれるような歌声で独特の魅力がある。選んだ曲目のせいなのか、あるいは彼女の人柄なのか、聴きながら温かなものが体の奥底にともるような、そんな感じの演奏であった。(演奏の合間にはいる彼女の語りの チャーミングなことときたら)

それにしても声楽の迫力というものには改めて感心させられる。ソプラノ歌手のいったいどこからあのような音量と声が出てくるのだろう。全身から放射される音楽というものに打ちのめされると同時に音楽の基本はやはり歌にあるのかと思い知らされた。

曲目もよかった。グレゴリオ聖歌などの敬虔なる曲から、おなじみのアヴェマリアをはさみながら、モーツアルト、ヘンデルという曲目が並ぶ。モーツアルトの「すみれ」での表現も素晴らしく多く親近感とアットホームな雰囲気の中で、楽しみと慈しみを与えてくれるひと時であった。

一方、山崎さんのフルートは、彼の説明によると130年ほど前の木管を使用してのテレマンであった。山崎さんは知る人ぞしるルイ・ロットの愛好家である。彼の奏でるテレマンは、挑発的に放出するものではなく優雅に奏でられ、綿毛のような心地よさを与えてくれた。木管の持つぬくもりなのだろうか、金属の楽器からは聴くことができないような温度と肌触りの演奏であり興味深かった。

徳永さんと山崎さんそして、ピアノの相楽さんによるマルタンも楽しめる演奏であった。山崎さんは、この演奏では銀製の楽器に持ち替えての演奏。マルタン(1890~1974)は名前は知っているが親しみのない作曲家である。パンフレットによると12音技法の調整音楽とあるので現代音楽に近い。しかし、フルートと声楽のハーモニーは、決して理解しがたいものではなく、適度な緊張をはらんだスリリングな音楽であり、本プログラムの中で異彩を放っていた。

声楽とフルートという組み合わせが、ポピュラーなものなのか不勉強にして知らないのだが(ドニゼッティの「ルチア」にフルートとソプラノの掛け合いがあるが・・・)、悪くはない組み合わせであると思った。

今回のコンサートは徳永さんの生徒たちなのだろうか、合唱をしている人が多かったように思う。美術館でやるのでミニコンサートかなと思って行ったのだが、決して内容的には普通のホールで行われるものと全く遜色のないものであった。

2001年12月13日木曜日

青木建設の破綻

長らく不良債権問題の牙城といわれていたゼネコンの中で、中堅ゼネコンである青木建設がついに民事再生法の申請に踏み切ったのは記憶に新しい。ゼネコン・ウォッチをしていたので「ついに牙城が崩れ始めたか」という思いで受け止めた。

青木建設の破綻は、同社の再建計画を(債務放棄していながら)市場が認めなかったこと、そして直接的にはメインバンクが自らの生き残りをかけて処理をしはじめたということでもある。瀕死の患者に生命維持装置とカンフルを与えつづけることを止めたということだ。

思い起こせば、ゼネコンの莫大なる不良債権はバブル期の本業以外でのものがほとんどである。当時、不動産取得や開発を手がけなかった企業は、これまで比較的安定した財務体質を維持しており、今から考えると賢明な判断だったとなるのだろうか。

当時はイケイケドンドンの雰囲気で、経営目標にも「脱建設業」「受注の創造」「多角経営」といった前向きな経営方針が踊ったものだ。バブル崩壊後の土地や株価の低迷による含み資産の減少、それに伴う受注の減少から本業回帰がうたわれたが、内部的にはバルブ前の企業体質にも企業風土にも戻ることはできていない。バブルをはさんだ前後を知るものは、その質的差異に気付き愕然としている。

「勝ち組」と「負け組み」という表現を、評論家やマスコミは好むが、建設業の全体市場は今でも約50兆円である。ただし、そこに不況になってもかえって増えた58万社が、スーパー大手から一人親方の会社まで群がっているのだ、どこかおかしい。青木とて民事再生法だ、企業として破綻したわけではなく再建を選んでいる。

ゼネコン問題は非常に根深いものがあるように思える。一つだけいえることはバブル以前には間違っても戻れない(バブルに戻るとっているのではない)。だとすると、新たなビジネスモデルを構築できるのかが、これからを考えるポイントであることに疑いはないのだが、その羅針盤は関係者に見えているのだろうか。

2001年12月11日火曜日

山下洋輔がクラシックに乱入?

12月7日(金)の朝日新聞を読んでいたら、『山下洋輔が室内楽に「乱入」新春コンサートで新作披露』という記事が目にとまった。

山下洋輔といえばフリージャズの元祖、最近ではNHK大河ドラマ「北条時宗」の最後で、番組ゆかりの地を訪ねるコーナーのBGMを担当していた。過激でない彼の音楽をしばし楽しんだ方も多いだろう。

しかし山下洋輔の本来の姿といえば、ジャズの中でもかなり過激だ。クラシックしか知らない人が見たら仰天するのでは?という印象かもしれない。実際、生で聴いた演奏は凄かった。肘打ちはあるし、シッチャカメッチャカな感じでピアノが壊れるのではと思ったものだ。

もっとも、肘打ちは何もジャズ特有のものではない。ポリーニの弾くシュトックハウゼンなどを聴くと(見ると)分かるが、肘打ちどころか不協和音の塊りにおいて、山下の奏でるジャズ同様にスリリングで衝撃と緊張に充ちている。

先週続けてジャズ・クラブに行く機会があった。ひとつはジャズピアノのソロの店、もうひとつはトリオ演奏の聴ける老舗である。老舗の専属ピアニストが言う、「クラシックやっている人はピアノの粒が揃っていて、やっぱり違うね」と。

それを聞いて思い出した。ジャズ畑の人がクラシックに対して、ある種の引け目やコンプレックスを感じているのではないかということをだ。キース・ジャレットはバッハの平均律などを録音しているし、かの天才トランペッタ、ウィントン・マルサリスもクラシック系の超絶技巧物を録音している。ある種のチャレンジなのだろうか、それとも自分としての表現を求めての行為なのだろうか。購入して聴いていないので私にはコメントできないが、クラシック界の評判はそれほど高いものではなかったと思う。

新聞記事によると山下は、「若いころって、ジャズやっていると、とてもじゃないけど、クラシックには入っていけないんです。でも、ある年齢になると、自分の力がどこまでクラシックに通用するか、本当のところが知りたくなる」(記事引用)と語っている。山下洋輔にしてか、と驚いたというのが正直な感想だ。

今の私には、クラシックとジャズの両方をフォローするほどの時間も金銭的な余裕もない。しかし、山下の試みはどこか気にかかかるのであった。


2001年12月10日月曜日

KOEHLERのエクササイズ 3

��2月になってしまった。週3回は音出し練習をしたいと思っているのだが、やれ残業だ忘年会だという具合で平日は時間が思うようにとれない。嘆くばかりでも仕方ないので土日だけでも練習をと思うのだが、いつまでたっても進歩がないと練習もつまらなく身が入らないものだ。

ケーラーのエクササイズを続けているが、加藤元章のCDを入手したので早速聴いてみた。アルテスやガリボルディをはじめて加藤のCDで聴いたときのような驚きはあまりなかった。というのも、何度も練習を重ね、到達すべきスピードをとりあえずはイメージしながら練習していたため、「なるほど、やはりこのような曲調であったか」という思いで聴いた。もっとも、イメージは出来ているが音にはできないのだが。

それでも、詳細に聴けばブレス位置やら強弱のつけ方、全体的な曲の流れのつかみ方など、勘違いしている部分も多く、譜面を読むのと実際の模範演奏を聴くことの違いに気付かされる。

模範となる流麗な演奏を聴き、そのイメージが崩れないうちに、とにかく理想とするスピードで吹くことを試みると、ふとした瞬間に流れの中で、今まで出来なかった部位がすんなりできることがある。ゆっくりしたスピードでひとつひとつ練習することも大切なのだが、音楽というのはキチキチと割り切る部分だけでできているわけでもなく、ある種の勢いとか流れが重要で、そういう雰囲気をからだで感じることの重要性を改めて感じるのであった。やっぱりひとりでやる練習には限界があるなあ・・・



2001年12月7日金曜日

村上龍:アウェーで戦うために


最初に断っておくが(笑)、私は熱心な村上ファンではないし、サッカーファンでもない。Jリーグにも疎いので、知っている選手の名前は数人だし、W杯が日本で開催されるからと俄かサッカーファンを気取るつもりもない。

それでもこの本は面白い。「フィジカル・インテンシティ」というサッカー・エッセーの第3弾であり、シドニー五輪予選からセリエAまで、ナカタを軸としながら日本と海外のサッカーの温度差、ナカタのありよう、さらには彼独自の日本観を提示しているものだ。

純粋にサッカーファン(?)ならば、彼の視点はうざったいかもしれない。日本のサッカーは海外のそれに比べ、スピードも技術もない。セリエAのサッカーが速く早いものであるが、日本には足の早い選手はひとりもいない。みな遅いから、足の遅いことに気付かないなど、熱烈なファンが読んだら熱くなる部分も多いのではないかと思う。

しかし、私はサッカーに疎い。村上のサッカー論は「そういうものか」という程度の受け止め方で、理解はしても共感はしない(だって知らないのだもの)。だが、本書を通した村上の主張はダイレクトに響いてくる。それは「最後の家族」でも述べていた主張だ。

端的に言ってしまおう。本書を前にして引用しているわけではないので、多少ニュアンスは異なると思うが、彼の主張は以下に尽きる。

「生きるためには、本当に好きなものが必要である。」

「本当に好きなものが見つかると、対象と自分の間には直接的な関係性しかなくなり孤独になる。そういうときに、人と同じことをする、同好会に入るなどのような行為を取らず、自らが個として向かってゆくことが重要である。」

「人と同じであれば良いという共同体の幻想はもはや崩れ去っている。」

「ナカタのようなポジティブな人生観をマスメディアをはじめ、日本では誰も正確に伝えていない。皆がナカタになりたいと希望をもち、努力させるような伝え方、教え方をしていない」

「個人としての責任の所在が不明確な日本。不祥事やミスを犯したときの個人の責任のとり方は、その個人があとで挽回できるような形では解決されず、それが不祥事を組織内で隠蔽する温床となっている」

「コスト対利益(ベネフィット)という考え方の重要性」

「このような観点でみたとき、ナカタも自分も日本では生きにくい。」

明確かつ鋭い視点だ。上の記述だけでは分かりにくいと思うが、琴線に触れた方は是非読んでもらいたい。私のレビュなど読むよりはるかにマシである。「ゆきひろの意見箱」でもたびたび書いているが、村上の「希望の国のエクソダス」を読んで依頼、私は日本における「幸福論」というものを考え始めている。

彼の本を読んでいると、居酒屋・カラオケ的なコミュニケーションも楽しいものではあるし、共同体を認識する上には必要な行為である、しかしそればかりでは、コミュニケーションから享受できるものは恐ろしく少なく、個としての自立を阻害さえしているのではないか、ということに気付かされる。彼に言わせると、日本人は「大人気ない」という以前に「子供である」ということになってしまい、ほとんどトホホ状態であるのだが、分からなくもない。

最後に付け加えておく。村上はこれを人生教訓本や日本人論を意図して書いたわけではないと思う。結果としてそうなったというだけだ。彼のエッセーは、沢木耕太郎のスポーツエッセーや小説を読むがごとく(比較して申し訳ない!)、スポーツの真髄に触れており、スポーツエッセーとして一流のものであると思う。スポーツを通して結果として上のものが見えてきてしまったという感じだ。

2001年12月3日月曜日

基礎練習のやりかた

フルート専門雑誌「The Flute No.54」の特集記事が「ロングトーン・スケール練習をもっと楽しく」というものだった。ロングトーンやらスケールの練習の重要性を解き、いかに無味乾燥にならないように練習するかという記事だ。目新しいものはあまりないが購入して読んでみた。

その中で、「ソノリテ」を行うのに当たって、H2-A2と下がる例の音を出す前にE1の音をまず出し、その指使いのまま倍音でH2を出し、音を出しながら正規のH2の指使いに移行するという練習が紹介されていた。ショボイ音ばかりしか出ない私にとって、割と効果的な練習法であると思った。

スケールの練習というのは、実のところ私はそんなにつまらないと思ってはいない。それでも、こんな地味な練習を続けていて本当に上手くなるのだろうかと疑問に感じる瞬間がないわけではない。

基礎練習は時間のある音大生ならば、地道に練習できるだろう。しかしアマチュアには時間がない。私のこのごろ採用する方法は、あるフレーズが出来ないときに、それの出来ない数音のみ取り出し、その音に対してT&Gの音階パターンや、T・ワイ6巻のパターンを当てはめて練習するというやり方である。16分音符のつながりにムラがあるとしたら、わざとムラを強調させたり、逆にムラをつけたりと極端な吹き方をしてから、正規の吹き方をするということもしてみる。意外と効果があるやり方だと思っている。

しかし、これとて結構時間がかかるものだ・・・と、気付いた瞬間に「プロの方は本当に気の遠くなるような練習をしているんだなあ・・・」という事実に思い至り、ひれ伏すのであった。



2001年12月2日日曜日

村上龍:最後の家族


 最初に断っておくが、私は熱心な村上ファンではない。したがって、村上龍たらしめているような、セックス・暴力・ドラッグなどを扱った小説に、親しんでいるわけでもなければ共感を覚えるものでもない。それでも、村上の従来からの読者にとって、この小説は異質な小説かもしれないと思う。あまりにも普通の家庭が(リストラされる者とひきこもりの息子という登場人物であっても)書かれているため、毒気がなく拍子抜けするファンも多いと思うのだ。逆に私のように村上に親しんでいない者には共感を呼ぶかもしれない。

「希望の国のエクソダス」「共生虫」を読んでくると、村上はひとつの共通のテーマのもとに考えを集約させているように思える。もっとも同じ”ひきこもり”を扱ってはいるが「共生虫」とは雰囲気がかなり異なる小説だ。村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。

ここに書かれた、「最後の家族」の「最後」という意味に込められた村上のメッセージについて考えてみたい。村上は家族そのものが崩壊し、希望も夢も喪失したということを書いているのではない。最後に彼は新たな家族像を彼は提示してみせている。崩壊させたのは、戦後の高度成長期以降の日本の家族像であり、父親が中心の家族像だ。父親が強大な権力を持ち、それでいながら家庭の事象にはあまり感心を示さず、会社に奉仕することで、それを家族のためと思っているような人物像。最後になるまで自分の立場を理解できなかった、主人公のひとり(秀吉)は、会社でもリストラされ、家庭からもリストラされ二重の悲劇を被るが、そうしなければ新たに出発できないほど旧来の考えに縛られていることに驚きを覚えてしまう。


題材としては、リストラされる父親、ひきこもりの息子を中心として、父(夫)・母(妻)・息子・娘のそれぞれの視点での数日間が記されている。引きこもりの息子を理解できない父親と、カウンセラーを受けながら次第に子供との距離間をつかむことの出来た母親、ジュエリーデザイナーの恋人(?)により自立を促された娘、そして、引きこもりをしていることで、たまたま隣の家で行われる、DV(ドメスティック・バイオレンス)を目撃し、引きこもりから脱してゆく息子。

この四人がそれぞれの立場で個を自覚してゆく課程はドラマチックで新鮮だ。また「誰かを救うことで自分も救われるということはない。他人を救うことができるのは、個人が自立する=ひとりで生きていけることを示すこと以外にない」というメッセージは強烈だ。

考えてみれば、暖かな団欒のある家庭像など村上が示す前にとっくに崩壊している。しかし崩壊しただけでは後が続かない。村上は、ここに新たな再生の道として、個々の自立ということを強く主張している。自立とは他人に頼らないことだが、「自分のことを自分の意志で決める」「自分の意見、意思を伝える、話す」ということの重要性を村上は説いているように思える。ある見方からは、現状の全否定であり、ぬるま湯のような中で、相手との衝突をさけ、回りに合わせ流されながら、積極的に生きることを止めている者達への痛烈な批判でもあるように思える。

「希望の国のエクソダス」と同様に、ここに村上の持つ過激なまでの希望を目にするのだ。「希望の国~」も本作品も、考え様によっては、楽天的過ぎる結末であり大甘のファンタジーだ。もっと否定的な結末をシニカルに用意しているのではないかと途中で不安になったが、クサイとまで思えるような結末を用意したことに、村上が希望と再生を心から願っているということを理解するのである。

��追記)
実を言うと、「共生虫」は出版されてすぐ読んだのだが、全く内容を忘れている(^^;;機会があったら読み直してみたい。

2001年11月26日月曜日

KOEHLERのエクササイズ 2

さて、ケーラーのエクササイズ、「やさしい」の2番と「ふつう」の1番を相変わらず練習しているが、スピードの点で一つの壁にぶち当たった。

メトロノームで ♪=60から始めて順次スピードアップを目指したことは先に書いたが、四分音符にして80~96くらいが限界なのだ。難しい指使いの部分でひっかかるのは差し置いても、なんと言うか流れの中で曲として吹ける余裕がこのスピードだと全くない。酷いときなどは音になっていない。できなければスピードを落としできるようになるまで練習するしかないのだろうが、80~96といえばメトロノーム表示では Andante である。練習曲のスピード指定は Allegretto と Allegro だ。Allegro ならば、少なくとも四分音符120程度では吹けるようになりたいと思うものの、前途は多難なのであった。

特に憎たらしい指使い、「ふつう」2番なら10小節目のG3が絡む部分や12小節目のE3の絡む部分、また13小節目から始まる上昇と下降音形の部分の低音のCisやDがしっかりと出ない。23小節目以降のG2を絡めた音階も音の跳躍が上手く出来ずに喉がグエグエ鳴っているだけで音が鳴らない・・・などなど・・・

試しに、120のスピードでソルフェージュを試みてみたが、全く譜読みが出来ないことが分かった。ソルフェージュも満足に出来なければ笛で吹けるわけないんだよなと思い直し、再びメトロノームの目盛りを三つほど下げて練習するのであった。

ということで、全然進まねーよとは思うが、まだ2週間しか、それも週3回しか練習してないのだ、すぐにできるわけがない。今年はこの2曲だけで年が終わるだろうな多分。ケーラーも手本があった方がいいと思い、加藤元章のCDを注文したのであった。



【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)による交響曲第6番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)
録音:1970
BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)

同曲異演を聴くという作業に意味があるのだろうかと考える瞬間がないわけではない。何の為に聴き続けるのか、そして書くのかということを自問する。ある演奏を聴いて感動したりイメージが固まったとしても、それが曲の魅力を十全に表してるかというと、おそらくそうではないと思うのだ。作曲家ならぬ演奏家の解釈の介在が大きな要素として立ちはだかっていることを、別の演奏を聴いて気付かされる。同じ曲をいくつもの演奏で聴き比べるという作業は、傍から見ると僅かな差異に拘泥しているだけにうつるかもしれないし、聴く時の体調や主観の入る極めて曖昧な作業でもあることも認めざるを得ない。それを分かっていながらもレビュを書くという行為を続けてみる。

ベルグルンドは最新盤の全集を含め、シベリウス全集を3つ録音している。ここでは、あえてベルグルンドの全集版ではなく70年にベルリン放送交響楽団と演奏したシベリウスの6番に耳を傾けてみた。

シベリウスの6番のレヴュを書くに当たっては、先のデイビス&ボストン盤を繰り返し聴き細部を確かめてきたつもりであった。しかしながら、ベルグルンドの演奏を耳にすると改めて驚きと発見に満ち溢れており、シベリウスの示した音楽的世界に深く打たれる思いがするのである。

この盤で聴くとシベリウスの作ったこの交響曲が、立体的に浮き上がってくるようのを感じる。音楽の持つ構成美や構造などが明確になりそして、雄大さと敬虔さのなかで聴くものに大いなる感興をあふれさせるような演奏に仕上がっている。

断っておくが、先のデイビス盤が平坦で音楽的に優れていないなどと評しているのではない。先のレビュを書いた時点ではストレートで立派な演奏であると感じたし、それは今も変わらないだろう。しかし、ベルグルンドの形作った音楽造型と比較すると、デイビス盤は宗教的な風景絵画を思わせる。一方でベルグルンドのそれは、立体感を伴った迫力のあるトルソ(彫像)のような趣さえ感じるのだ。音楽の作り方は、ドラマチックであり、意外さと霊感に満ちていると感じるのだ。これは演奏の出来不出来という問題ではなく、おそらくはアプローチの違いによるのだろうか。

ベルグルンドの音楽を通して感じるのは、シベリウスの示した世界の限りき美しさ(と書いた瞬間に言葉が陳腐化するが)と慈しみや祈りにも似たやさしさと、畏怖に似た敬虔さであり、それらが全て内側から音楽的な至福となって心を満たすのだ。なんと素晴らしき音楽であろう。

第一楽章の冒頭の弦によるテーマにしても、やさしさといたわりを感じさせ、喜びに満ちていると感じる。デイビス盤で感じたような雪や冬のイメージは全く浮かんでこない。むしろ暖かな光に包まれ祝福されているかのようだ。演奏によって内側に生ずるイメージがこんなにも異なることに改めて気付かされる。小休符の後から、リズミカルなバックに伴いチェロのテーマが奏でられる部分も旋律的な対比が艶やかである。一楽章ラスト、ホルンの和音で始まる部分からは雰囲気を一転させてることに見事に成功している。テンポを落とした曲調から煌然と立ち上がる存在の重さ、そしてそれに応える弦の音色は不思議な説得力がある。

第二楽章にしても、デイビス盤で聴くとどうも今ひとつピンと来なかったのだが、この盤で聴くと非常にインスピレーション豊な楽章に仕上がっていることに気付かされる。

終楽章の冒頭も、何度も聴き慣れたフレーズでありながら、ハッとさせられた。スタッカートやシンコペーションの扱いルバートのかけかたなどに工夫があるのだろうか、音楽的な説明ができないのがもどかしいが。切迫した走句からティンパニのアクセント音を伴いながら畳み掛けるような部分も見事で、去来する断片的なイメージが多くの回想を呼び起こす。テンションは一つもゆるむことなく音楽は進行しラストの結尾主題へとごく自然に導かれてゆく。ここに至っては納得づくのものを感じ、静かなるピアニッシモの消え入るような弦の音色に思わず目をつぶり何かに祈ってしまう。

シベリウスが交響曲第6番で何を表現したかったのかを推し量ることは難しい。彼の伝記やシベリウスの音楽に関する文献を読んでいるわけでもない。それでも解説などによくある「清明」「透明」「永遠性」などを指向した音楽であることは疑いもなく、ベルグルンド盤は見事に表現していると思えるのだ。ただ、先のデイビス盤と比べると無骨という印象を感じる部分もあり、流麗さという点ではデイビス盤の方が(ふたつだけを比較するなら)優れているかもしれない。

2001年11月25日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第6番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの交響曲の中で何を最高傑作としてあげるのかを考えることは、難しくも楽しい作業だ。シベリウスをこよなく理解し愛している人にとっては、ことさら悩ましい問題であるとは思うものの、おそらくは7番を、交響曲の示した形式と内容を含めて一番にあげるのではないかと予想する。私としても、まだ7番のレヴュウは書いていないが、その考えに同意する。一方で、シベリウスを余り聴いたことのない方は2番をもって最高と考えるかもしれない。これとて無理のないことだ。シベリウスの演奏機会を考えれば2番とバイオリンコンチェルトが演奏される機会が圧倒的であろうし。

しかし、この6番をじっくり聴いてみると良い。たかだか30分弱の短い曲ではあるが、まさにシベリウス的な世界が、それもフィンランディアや交響曲第2番のような主張的な部分のない、独自の世界が広がっていることに気付くだろう。7番と優劣をつけにくいと思わせるのだ。

デイビス&ボストン盤を幾度も繰り返し聴きイメージを固めてみた。聴くにつれ、この曲の持つ深遠さと美しさに文章にとして記すことの限界を痛切に感じたものである。標題性や人間的な克苦などを感じさせない、純粋にして音楽的な感動が広がるのだ。それでもレヴュを書くに当たってはイメージしたことを文章にせざるを得ない。ある比喩は、その瞬間に浮かんだ心象でしかないため、明日あるいは数年後に同じようなイメージが浮かぶことは保証できない。ましてや作曲家のイメージとはかけ離れたものであろう。それでも、そのような文章でしか今は音楽を語ることができない、ということを前提に読んでいただきたい(久しぶりに書くとくどいな)。

さて、この曲を語るときに第一楽章の美しさは圧倒的であるということからはじめなくてはならい。冒頭のヴァイオリンで奏でられる第一主題の透明感と広がり、そして神々しさはシベリウスの作った最も美しいメロディにあげられるかもしれない。彼の音楽の持つ独特の煌きの中に永遠にも続くと思われる至福の時間が込められていることを思うのだ。

私は今までに何度か、シベリウスの音楽の魅力は煌きのようなものだと書いてきた。この冒頭主題にいたっては、氷点下の凍て付いた空気の中でキラキラと輝く氷のような煌きさえ感じるのだ。

曖昧な捉えどころのない副主題からチェロのモチーフに至る部分も聴き所だろう。チェロは若干哀愁を帯びるものの感傷的ではない。この後も、冒頭のテンションがひとつも緩むことなく駆け抜けてゆく感があり、あたかも広々とした雪原を颯爽と馬車で駆け抜けているかのようなイメージが続く。

最後に総休符をはさんだ後の金管群による額句が挿入されるが、これは何をイメージしているのだろうか。私は、その厳かさと神々しさに何か偉大なる存在さえ感じる。他の交響曲でも感じたことだが、それは極めて崇高で宗教的体験に近いが、キリスト教のような特定の宗派を想定させるものではない。むしろ自然に対する畏敬や畏怖から生じるようなものといったほうが適切かもしれない。

第二楽章と第三楽章は非常に短い。繊細さと静けさを感じさせる冒頭から後半の明るさの対比が美しい第二楽章、スケルツオ風の騎行的なリズムにのって軽快に唄われる第三楽章など曲としての面白さも多い。響きも極めてシベリウス的でありしかも内省的であると感じる。第三楽章の軽快なリズムさえ、どこかへと一足ごとに進んでゆく足音を感じる。

第四楽章は再び深遠にして崇高なる世界に引き戻される。冒頭の切迫と哀愁を帯びた弦と木管による上昇と下降の音形による応答が繰り返され変形しながら音楽は進んでゆく。何かに対し問いかけている作曲家の姿なのだろうか。優しい調べがフルートで添えられる。音楽はその後急速に駆け出し盛り上がりを作り始めるが、開放し外に叫ぶような高揚ではなく、内部の高まりと喜びを抑制しながら歌い上げているように感じる。

金管によるクライマックスがあるかと思ったら、はぐらかすように音が殺ぎ落とされ冒頭主題が回帰するあたりは第4交響曲を彷彿とさせる。この部分は何度聴いてもぞっとする。最後に盛り上げて終わることをせず、あえて素朴なる弦による結尾主題で静かに曲を閉じたシベリウスの意図について推し量るのは難しい。消え入るような終わり方は、冒頭主題へ円環のようにつながる永遠性を感じるというと、考えすぎだろう。この主題の終わり方には何かへの深い祈りのようなものを感じさせずにはいられない。

��・デイヴィス&ボストン盤を本シリーズのベース演奏にしているが、これがシベリウス演奏の最良盤であるからという理由ではない。たまたま家にあった全集版であるという以外には明確な理由はない。それでも、こうして聴いてくると、クセのない素直な演奏なのではないかと思えてくる。デイヴィスには新録もあるし、ボストン響も十分に上手いわけではないという評価もあるのだろう。それでもストレートに曲のよさを、過度の装飾や思い入れを入れずに演奏しているという点では評価できるものであると思うのだ。

2001年11月19日月曜日

ペーター・ルーカス・グラーフのチェックアップ

��週間たったが、それなりに練習はしている。アンサンブルの練習をしたり、ある方所有のルイ・ロットやボン・ヴィル(銀管・木管・ピッコロなど)を見せていただいたりとか、フルート生活に厚みがでた感じはあるのだが、個人的なレベルの点では以前と全然変わらずである。

「高木綾子さんのフルートの音がよいのは、ひとえにブレスコントロールの上手さだ」と教えてもらい、ペーター・ルーカス・グラーフの「チェックアップ」を始めてみた。やってみたのは”1.呼吸 課題1 複式呼吸”の部分。

知らない方もいると思うので解説すると、この練習はロングトーンの練習で (1)息が完全になくなるまで吹く:腹筋は緊張したまま (2)この息を出し切った状態のままじっとする(約2・1/4秒程度) (3)突然緊張を解く:空気は自然に肺に流れ込む〔約3/4秒程度) (4)直ちに吹奏を続ける:息は10~15秒程度吹くのに充分足りるはず というもの。

やってみると死にそうに苦しい。そもそもロングトーンが苦手であったことを思い出す。(2)の息を出し切ったままじっとする ということを経ると、確かに嫌でも息が「ガバっと」肺に入る。そのときに胸部を動かさずに、また喉が鳴らないように息を吸い込むというのが難しい。

ロングトーンというのは音をよくするという目的のほかに、呼吸(ブレス、腹筋の動き、支え)を体得するものだとすると、欠かすことの出来ない練習だと思うのであった。考えてみれば数年もフルートを練習していたが、こういう練習は誰も教えてくれなかったと思うのであった。



2001年11月12日月曜日

Koehlerのエクササイズ

先週Andersenのエチュードをやったと書いたが、やはり時期尚早の感があるため再び封印。Koehlerのエクササイズを取り出してきた。

Koehlerの「Easy」は数年前に終了しているが、やったなどとは恥ずかしくて言えない。そこで再び取り組むこととしたのだが、「Easy」を最初から繰り返すのも芸がない。そこで、「Easy」と「Medium」を同時に練習してみることとした。「Easy」は以前は全くできなかった(=今もできない)音楽性を考えて余裕で吹くことを目指して、「Medium」はステップアップのために多少ムリ目を覚悟でということだ。

再びKoehlerにとりかかるのだから、今回こそはまともに吹けるようになることが目標。レッスンに合わせて曲を仕上げる必要もないので、じっくり取り組むこととした。そこでとった方法は八分音符♪をメトロノーム60のテンポ設定から始めることである。

♪=60というのは本当に遅い。でもこのスピードでもチェックする項目が実に多いことに気付いた。腹筋の支えを取り十分に音を鳴らすこと、特に低音域や高音域で音がかすれないようにすること、このスピードで音が鳴らなかったら終わっている。ブレスは大きく深く余裕をもって取ること。次に、スラーのつながりで別の音が混ざらないように滑らかに吹くこと、音の跳躍をしっかりすること、そしてメカニックな指の動きはできるだけ小さく、キーから指を浮かさないようにすることなどなど・・・

できたと思ったら、メトロノームのひと目盛りずつ上げてゆく。するとあろうことか、♪=80位のスピードでさえ怪しいところが生じるのだ。例えば「Easy」の2番なら5小節目の半音階の下降から三度で上がる分散和音のところ=右手薬指がからむ部分や、「Medium」1番ならば、10小節目のG4が出てくるところや23小節から始まる、オクターブを含む音の跳躍部分など・・・。特に第3オクターブ音域が出てくるととたんにダメだ。気付いてはいたが、こんなにできないとは思っていなかった。そこで、ここが出来ないうちは先に進まないことにした。

メカニックどころか♪=80~104くらいまでのスピードでも(4分音符にしたら60以下のLargoなのにだよ)音が十分に鳴らないことにも気付くの。これでは、Allegroなどのスピードになって音楽になるはずもない。

 しかし今までこういう練習をしていなかったなあ。考えてみれば、T&GのEJ1、2だって私の限界のスピードは4分音符120そこそこだ、それにしたって怪しい指は数多く音にならない部分も多い、ブレスがめちゃめちゃだから連続して吹けないのだ。こんな基本の音形でさえAllegro指定で吹けなければ楽曲や練習曲をこれ以上のスピードで吹けるわけがない。

こういう亀のようなスピードの練習を数日続けてみたが、ふとした拍子にヒョイと音が出るときがある。急に余裕を感じるときがある。急がば回れの確実な練習法なのかもしれないと思ったのであった。さてさて、いつまで続きますかねえ?

瀬尾和紀のフルート

瀬尾和紀のフルートを聴いていみた。このごろフルートばかり聴いているが、親切にも友人が貸してくれたもの。

瀬尾さんは、ランパル国際コンクール、カール・ニールセン国際コンクールなどのコンクールにも上位入賞、今年の第5回神戸国際フルートコンクールでも入賞を果たしている気鋭である。74年生まれ、17歳で渡仏しパリ国際高等音楽院に首席で入学、98年にはフルート科を優秀なる成績で卒業(プルミエ・プリ)、卒業後は大学院課程に在籍しフルートを学んでいる。

早くから日本を離れ、海外で研鑚を積んだその姿勢は彼の音楽に対する思いを象徴しているようである。そんな彼が、Naxosに次いで録音したものが「シランクス フランス近代フルート作品集」である。

彼の笛は、先に聴いた高木綾子とは違う、厳しさと鋭さを感じさせる音だ。高木綾子は神戸では本選に進めなかった、だからといって、どちらの方が上手いとか言うことは私にはできない。1曲目のシリンクスにしてもだ、高木綾子とは随分趣の違う曲に仕上がっている、それぞれがおもしろい。

シランクス~フランス近代フルート作品集~
瀬尾和紀 Kazunori SEO

ドビュッシー: シランクス
フランセ: ディヴェルティメント
プーランク: ソナタ
ドビュッシー: 牧神の午後への前奏曲
ピエルネ: ソナタ Op.36
ゴダール: ジョスランの子守唄
ワックスマン: カルメン・ファンタジー

ローラン・ワグシャル(Pf.)
ワーナーミュージック・ジャパン WPCS10970
2001年録音 ステレオ

集められた曲は私には新鮮な曲が多く聴いていて飽きない。とくにフランセのディヴェルティメントの諧謔さと洒脱さはには脱帽である。プーランクも私は非常に好きな曲だが、イマジネーション豊かで素晴らしい。ジョスランの子守唄も非常によい曲だ。

��Dでは自らが曲などにつて解説しているほか、彼のHPでは神戸国際フルートコンクールについての感想も述べている。興味のある方は覗いてみてはいかがか?もっとも、レビュを書くつもりではなかったので、私はこれらの彼の文章を読んではいない。音楽家の書く文章は嫌いではないが、聴き込む前に演奏者自らの「感性」やイメージを言葉で知る必要はないと思うからだ。



2001年11月6日火曜日

高木綾子「Latin America」~南の想い

ワルツ風に~「アクアレル」より セルジオ・アサド
イマジナ  アントニオ・カルロス・ジョビン
11月のある日  レオ・ブローウェル
想いのとどく日  カルロス・ガルデル
わが愛のミロンガ ロレンツ
小麦のダンス アルベルト・ヒナステエラ
波 アントニオ・カルロス・ジョビン
マズルカ第2番 マヌエル・ポンセ
はちすずめ エルネスト・ナザレ
黒いオルフェ ルイス・ポンファ
パリャーソ(道化師) エグベルト・ジスモンテ
モコヴィの地で アリエル・ラミレス
チキリン・デ・バチン アストル・ピアソラ
アリア~「ブラジル風バッハ第5番」より ヴィラ=ロボス
歌と瞬間 ミルトン・ナシメント
白い道 アントニオ・カルロス・ジョビン

高木綾子(fl) 西脇千花(p) 古川展生(vc)
録音:2000年12月5,11~14日 日本コロムビア第1スタジオ COCQ-83501(国内版)

クラシックのHPであるが、このCDを紹介することに全く躊躇はない。高木綾子ファンならば、是非とも聴いてもらいたいCDである。彼女の魅力が十分に詰まった一枚である。クラシック系ではないからと敬遠しているならば、もったいないことだと思う。

昨年12月に発売されたものだが、新譜の「Air Bleu」を聴いてからこのCDを聴くと、雰囲気の違いと、なんとも言えぬ心地よさに驚かれることだろう。「Latin America」というタイトルの示すとおりラテン音楽を集めた音楽だが、ラテンの熱狂的よりも包まれるような優しさと暖かさに満ちた音楽が展開されている。やさしさと、生暖かい空気に乗って漂う色香と哀しさのなんと素晴らしいことか。

選曲はスローな曲がほとんどである。それはサブタイトルが「南の想い」と付けられていることを考えると、彼女の意図がくみ取れるように思える。どちらかというと、アンニュイで気だるげな雰囲気を漂わせ、南のぬくもりに満ちた皮膚感覚を彼女のふくよかな笛の音は伝えてくれるのだ。どこかのリゾート地のベランダで、ゆっくりと沈む太陽を眺めるような、あるいは、ほてりに似た熱狂を海からの風でそっとなで冷ますような、そんな感じだ。

5曲目の「わが愛のミロンガ」や9曲目の「はちすずめ」はアップテンポの曲だが、その愛嬌とリズム感の見事さ。こういう曲を吹いても、彼女が吹くとあざとさやわざとらしさがなく、いかにも自然な音楽が聴こえる。そうなのだ、ここが彼女の笛の魅力なのだ。そして、きらびやかな音の奥に一瞬垣間見える情念とデモーニッシュな美しさ。女神が笑いながらも仮面の奥に別の顔を隠しているような、そんなぞっとするような音が時々聴こえるのは気のせいだろうか。

8曲目の「マズルカ第2番」も、どこかで耳にしたことのあるような懐かしさを持った音楽。ひとつも人を攻撃せずあおることもしない。それでいて音楽が心のひだの中に染みてゆくのを感じることだろう。ざらついて干からびてしまった部分を、そっとなでさすり柔らかくほぐしてゆくような感さえある。とは言っても、今流行りの癒し系とかヒーリングというくくりはしたくない。

10曲目の「黒いオルフェ」は、これもブラジル音楽としては有名な曲で、聴けばあの曲かと思われる方も多いだろうが、ここでの歌心のあでやかさときたら言葉にしようがない。

14曲目の「ブラジル風バッハ」、ヴィラ=ロボスの名曲をどう吹くのかと一番の楽しみであったが、このかなしさのなかのやさしさ、涙をふくんだ微笑みの表現(それがこの曲のテーマかどうかは知らないが)、切羽詰った高音での響きはなどなど、これだけでも聴く価値があると断言しておこう。

この盤では、彼女の超絶的なテクニックは抑え気味であり、「Air Bleu」や「Gentle Dreams」に聴かれるような、息を呑むような迫力や切り込んだ音楽は聴かれない。むしろというか当然というか、彼女は唄うことに徹している。それも、べたべたと情感を込めて唄うのではなく、あくまでも自然にあるがままに、それゆえに先に書いたように素直に心の底まで音楽が届いてしまう、素晴らしきフルートの歌姫といえよると思う。

15曲目の「歌と瞬間」もよい。チェロとの掛け合いが絶妙。もう、なんてったっていい。

(うーーん、なんつーか、ベタ褒め状態だなあ・・・。実のところ、私はこの盤も昨日の盤も知り合いから借りてレヴュを書いている、ちょっとあんまりだな。今度の休日にきちんと買うことにしようっと ^_^;;;)

2001年11月5日月曜日

高木綾子「Air Bleu」~青の余白

マラン・マレ:スペインのフォリア
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 I-Poco adagio
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 II-Allegro
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 III-Allegro
ドビュッシー:シランクス
フェルー:恋にとらわれた羊飼い~3つの小品より
ボザ:イマージュ
イサン・ユン:エチュード第5番
リーバーマン:ソリロキー(独白)

武満徹:エア
高木綾子(fl)
録音:2001年5月29~30日 福島市音楽堂 COCQ-83553(国内版)

高木綾子というフルーティストがいることは以前から知っていた。東京芸術大学在学中にCDを発売、カーペンターズやユーミンの聴きやすい曲を録音していること、ジャケットに見られるヴィジュアル系の容貌。レコード会社がいかにも「売り出し」たい人材なのだという先入観が先に立ってしまって、いままで彼女のフルートを聴かずにすごしてしまった。

今年2001年の神戸国際フルートコンクールで惜しくも本選への出場ができなかったものの、第70回日本音楽コンクールでは第1位を(ついにというべきなのだろう)獲得し、名実ともに実力が認められた感がある。知り合いのフルーティストが「素晴らしい」と絶賛するので、これを機会に聴いてみた。(ここまで条件が整わないと、新人とか新譜を聴かないというのは、自分の固定観念と閉塞感を象徴を象徴していると思うのだが・・・)

このCDは、フルート独奏曲だけを集めたものである。フルーティストの音楽性がモロに表出される、まぎれもごまかしもできない世界だ。

期待と不安が混ざった気持で最初のマレの「スペインのフォリア」を聴いたたのだが、出だしから打ちのめされてしまった。何と言う音だろうか。ヴィジュアルな外見とは裏腹の、物凄い芯の太い力量感のある音だ。偏見かもしれないが、これが女性の出す音なのだろうか。この曲が終わるまで、私は自分が息をしていることさえ忘れてしまった。

何がここまで惹きつけるのだろう、バッハのソナタにしても武満にしても、ほかの演奏を聴いたことがないわけではない。しかし彼女の演奏は何度も聴いてしまう、何か今までにない新鮮さに満ちている。

例えば、イサン・ユンのエチュード第5番、この曲ははじめて聴く曲であったし、この手の曲が得意でない人には楽しい曲ではないかも知れない。しかし、ここに表現された自在さはどうだ。アジア的な曲調をフルートという一本の笛で、限界に近いまでの表現力で描ききる。テクニックの完璧さにも目を見張るが、裏打ちされたテクの上に、まるで両翼を広げて羽ばたいているかのような印象を受けるではないか。その軽やかさと、そして鋭さよ。

音は「きれいな」という言葉を超えている。単にきれいというより、独特の摩擦感があるのだ。フルートというとヒャラヒャラと美しく奏でるという印象をもたれる方も多いかもしれないが、彼女の笛の抵抗感と重さを受け止めると考えを改めるかも知れない。

彼女の吹く独奏曲を聴いていて、私はふと現代美術のさきがけとなった、ブランクーシの「空間概念」という作品が頭に浮かんだ。あの作品も、空間のある一点において極度に緊張を凝縮させた見事な作品であるが、彼女の造形する音には、それに似たゴツゴツしつつもステンレススチールの鈍く光るがごとき緊張感に満ちている。(こういう比喩はよくないと思いつつも使ってしまうなあ・・・ああ、貧困)

またはドビュッシーの「シリンクス」。フルートを愛好するものならば聴きなれた曲を(ほとんどミミタコ状態の曲をだ)、これほど面白く聴けた事は近年なかったのではないかとさえ思った。ふくよかに立ち上る香気に夢幻の世界を浮遊するかのごとき。それは続くフェルーの「恋にとらわれた羊飼い」においても同じことが言える、気品と裏腹の恐ろしさに満ちた演奏だ。

彼女が内外を問わず、数多くのフルーティストの中でどのような評価を受けてるのかは分からない。ほとんど予備知識なくこのレヴュウを書いている。従来の演奏とどこが違うかを述べることは今は出来ない。誰それよりも上手いとか言うことも、意味がないかもしれない。ただ、何かわからないが心を捉えて放さない魅力に満ちた演奏家であることは確かなようで、とにかく、そう感じてしまったということなのだ。

2001年11月4日日曜日

練習室

訳あってかなり練習しないとだめなことになったので、11月からは週3回は音を出す練習をしようと決心した。ウチはマンションであるから音を出せる時間は限られる。平日の帰りが21時前ということはほとんどないため、自宅での練習は諦めざるを得ない。

そこで、以前から気になっていた練習スタジオに行ってみた。駐車場はないものの地下鉄からすぐの場所で地の利は良い。録音スタジオやピアノ練習室が数室用意されている。楽器は持ち込みなので1時間500円と安価なのもうれしい。

昨日は空いているから広いほうでやっていいよということでバンドルームで練習した。バンドルームといっても、地下室のコンクリートにペンキをしただけのような、綺麗・豪華とはとても言いにくい部屋。したがって音が良く響く。私の部屋は本棚やら洋服やらものが多く超デッドな空間。自分で出した直接音しか聴こえないようなところなので、響きのある部屋で練習すると音が良くなったような気になってうれしい。もっともこれは錯覚でしかないのだが・・・・

どんなところか様子をみるだけだったので、まともに楽譜を持っていかなかった。とりあえずロングトーンをやったあと、T&Gから始める。久しぶりにEJ4をゆっくりと通して最後まで、高音域の指使いは相変わらずできない。次にEJ10をこれもゆっくりと、最後に無理のない速さでEJ1をする。これだけで40分以上かかってしまった。楽曲を持ってきていなかったので、Andersen の Op.21 から5番と6番を、超ゆっくり練習。

Andersen は何度も書いているように、とても私の手におえるエチュードではない。しかるに何故これをやるかというとだ。作品21はとにかく臨時記号が多く、ダブルシャープ・ダブルフラット系が苦手な私には譜読みの練習になることと、音の跳躍幅がKoehlerのエクササイズよりも広く、音の跳躍が苦手な私には良い練習になること、そして、何より曲が美しい。加藤元章のCDで聴くと本当に素晴らしい曲に聴こえる(Koehler もCDが出ていたはずだが)。もっとも音の跳躍の練習をしたいのなら、Berbiguier の 18Etudes の方が簡単なことは知っている。

まあそういうわけなのだが、たとえば6番は Andantino の速度で3/8拍子、32分音符の伴奏の中からアタマのスタッカートで打たれた旋律が浮かび上がるという、まことにフルート的な曲である。これも、いかにこのアタマの旋律を浮かび上がらせるかがポイントなんだろうが、とにかくとにかく難しい。ゆっくりだと、どこが旋律なのか迷子になる。でも、こういう曲を吹けるといいだろうなあと思うのであった。Andersen も8番あたりを見ると、トリルのできない私にはゼツボーにしか見えないのだが・・・(トリルができないって、Altes の2巻もイチオーやったのにね、いまじゃ、全然吹けないな)


2001年10月29日月曜日

久々の練習

音楽雑記帳でもちょっと触れたが高木綾子のCDを聴いている。聴いていて音楽が体に染み込み、むしょうに練習しなくてはならないという気になってしまった。

しばらく真面目に練習などしていない、難しいものは駄目だ。レッスンも休会しているのでノルマはとりあえずない。ということで、エチュードを引っ張り出して片っ端から吹いてみた。ケーラー、ガリボルディ、アンデルセンなどなど。できないところは相変わらずできない。しかし、何故できないのだ?とふと思った。

例えば、フルートをやった人ならば必ずやる、ガリボルディの作品131の練習曲。日本フルートクラブの巻末についているあれだ。当時できなかった運指のところではやはりつまづく。あの頃よりはマシじゃないかとは思うが、傍から見れば五十歩百歩だと思う。

そうなんだよなと、これを練習していたのはもうずいぶん前だ。でもそのときも、完全にできていなくても「では後は練習しておいて、次の曲に」という具合にレッスンが進んでいったのだ。できないところができるようになっているわけがない。あるレベルにおいては、一つの曲に時間をかけるよりも、多くの曲に接することが良いこともあるのかもしれない。しかし、いつまでもそれを続けていても、アマチュアの場合はすぐに限界にぶつかってしまうのじゃないかと思う。

どうして、このフレーズが吹けないのか、どうして指が回らないのか。なぜ、そこで息が切れてしまうのか、どうしてその音がかすれてしまうのか。さらには、どうしていくら吹いても、音楽的にならないのか。考え始めると、簡単な練習曲でも課題は多い。

難しい曲はしばらくやらないほうが良いのかもしれない。簡単な曲を音楽的に作曲家の意図したスピードで吹く。当たり前のことをしていないのだ。いくらレッスンを積み重ねても、上手くなるはずがない。

いまさら昔の練習曲を仕上げる意味があるのか疑問を感じないわけではないが、なにか一つ超えるためには今までと同じことをしていては駄目だと思い至った。でも、さらに自問する。その練習の果てに自分の目指す処はどこにあるのかと?ここがもしかしたら一番重要なんだよな。

少なくても、シドヴィルの「忠実な羊飼い」を、きちんとしたスピードと美しい装飾をまじえて、とりあえず止まらずに吹けるくらいのところまでにはなりたいものだなあ、先は長い!



2001年10月28日日曜日

今日買ったCD

しばらくCDを買っていなかったので、久しぶりに札幌PALS21に出かけて物色した。

まずは、2001年 第70回 日本音楽コンクールで1位を獲得した高木綾子さんのCD。フルートを吹かれる方が太鼓判を押すので、どんなものかと試聴してみた。ソロアルバム「Air Bleu」を何気に聴いてみてびっくり。甘さを排除した確たる世界がそこに屹立として存在しており、試聴していることを忘れさせるほど。なんということなのか、その美形に騙されて「お嬢さん芸なのかな」などと思っていた先入観が、ものの見事の打ち砕かれた、いやはや…

そこで、PALS21は新譜のポスターサービスがないみたいなので、既発売の「ジェントル・ドリームズ~20世紀のフルート音楽」と「青春の輝き~プレイズ・カーペンターズ」を購入。これらも、なかなかに素晴らしく、いっぺんでファンになってしまった。今まで買わないでいたことが悔やまれる。人のハナシは素直に聞くもんのだな・・・

次は、今月はじめに紹介したラヴェルの室内楽作品集をゲット。曲目は聴きたいと思っていたヴァイオリンとチェロのためのソナタやピアノ三重奏曲などが収録された二枚組。ヴァイオリンはカントロフ、チェロはフィリップ・ミュレ、ピアノはルヴェル。ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタも収録されており聴くのが楽しみ。レーベルはERATOで1900円だからお買い得だ。

ラストは超重量級、テンシュテットと北ドイツ放送響によるマーラーの交響曲第2番「復活」、ラッキー・ボールという海賊盤レーベルのもの。海賊盤は見つけたら買っておかないと、すぐになくなる恐れがある。とくにテンシュテットは、海賊のエースであるのでなおのこと。これがかねていてから欲しかった盤であるのか確かめる必要があったのだが、エイ!とばかりに買い物籠へ。海賊版は当然のことながら解説がないので不安である。

ということで、本当に久々にCDで散財してしまった(^^) さてさて、ゆっくり楽しみますか。レヴュは期待しないこと。




2001年10月22日月曜日

ヤマハ・スタディコンサートを聴く

ヤマハのレッスンを休会(ほとんど止めたも同じだが)していたのだが、知り合いが発表会に出るというので聴きに行った。私は昨年も発表会には出られなかったが、その前は二度ほど出させてもらった。以前も書いたようにシドヴィルの「忠実な羊飼い 第6番」、ドニゼッティのソナタを吹き、実力に全くふさわしくない曲であったため、ものの見事に自爆した記憶も新しい。

自分が吹かなければ気楽なものである、素人の演奏会ではあるが楽しめた。ただ、ヤマハのホールは本来が子供のピアノの発表会用に作られているせいか、フルートにはデッドな音響である。PA(マイク)を使っていたが、本来ならばマイクなしで響かせるようなことができるような音場を作るべきであると思う。フルートというのは発生原理からして単純で、微妙なニュアンスや息遣いがマイクで増幅されたり消されたりするのは残念だ。デッドになりすぎるなら、反射板などを多少用意するなどの細工はできると思うのだが。

さて演奏の方はといえば、それこそ数ヶ月前に始めたばかりで音がやっと出るという人から、場慣れしていて堂々と演奏している方まだ幅広く、下手な人は下手なりに、上手い人は余裕をもって楽しんでいる様子であった。今年出ることになっていたら、多分ヘンデルかプラヴェのソナタを吹いたんだろうな、とぼんやり思った。

レッスン生の演奏を聴いていて感じたことがある。当たり前のハナシなのだが、演奏する上で重要なことは、その曲に対する思い入れと、そして何よりもやはり音色なのではないかいうことだ。早いパッセージをそれなりに吹いて、聴く人を「なかなかやるじゃない」と唸らせるのも快感かもしれない。しかし、最終的には音が、音楽が聴くものに届かなくては、何のために吹いているのか分からない。

わたしもレッスンを受けているときは、先生に「次はこの曲でもどう?」という風に決められていたのだが、いったいフルートを通して何を吹きたいのか、ということを改めて考える必要があるのかもしれない。


札響の台所事情

10月19日(金)の朝日新聞夕刊 道内ページに、「札響 不況の波紋受け財政深刻~細る企業・自治体からの支援」という記事が掲載されていた。

札響の深刻な財政難の原因として、企業や自治体が不況の影響で文化事業に予算をつける余裕がなくなったこと、札響を育ててて来た北海道拓殖銀行がなくなったこと、また定期演奏会の客員動員率もホールのキャパの6割程度で、採算ラインに届かないこと、定期会員数も減少していることを挙げている。札響の赤字額は2000年単年度で5200万円、累積赤字で3億6千万円にものぼるらしく、また「札響基金」の利息も落ち込み財政を圧迫しているという。さらに加えて札幌市からの補助金も減額の方向にあり、まさに「一般企業なら破綻してる状況」と札響白鳥専務理事の言葉を引用している。

私もクラシックのHPを作ってはいるが、それほど演奏会に足を運べるわけではない。KITARAでの演奏会は開演時間が19時と比較的遅めの公演になってはいるものの、仕事を終えて演奏会に行くとなると18時くらいには仕事を切り上げなくては到底間に合わない。行きたくとも急な仕事や宴席が入ってしまい、やむなく断念せざるを得ないことも度々である。

そんな状況だから、年に数度KITARAに行かれれば幸せと考えなくてはならない。その数度しかない機会を、外来オケやその他の演奏と天秤にかけながら札響に行くというのは、やはり、ある程度の愛着がなければできるものではないと、思うのだ。ましてや、一般のそれほどクラシック音楽に親しんでいない層をひきつけるには、それ相当の努力が必要かもしれない。例えば札響定期に来る客層と、外来の有名オケに来る客層(客層という言葉は誤解をまねきやすいが、あえて使うと)は、かなり異なっていることにも気付く。

ただ、自分たちの街にオーケストラがあるということは、大いに自慢してよいことだと思うし、また誇りに思う。そして何よりも大変贅沢なことであるというふうに私は思う。オケのない都市では、生のオケを聴く機会はなかなか得られないことを思うとなおさらだ。

どうしたら、札響という事業が成立するのかを考えることは難しい。札響のチェロ奏者 荒木さんのHPでも「札響定期を満席に」キャンペーンを行ったり、その具体的方策をBBSで議論したりしているが特効薬はみつからない。

ただ、何とか札響には頑張ってもらいたい。今回の英国公演も札響には一つの大きなステップとなる重要なイベントだろう。ひとつだけ確実にいえる事は、札幌から札響がなくなったら、それは想像もつかないくらい寂しく、取り返しのつかないくらい大きな損失であるということだ。なんとしても、それだけは避けねばならないと思うのだ。



2001年10月19日金曜日

狂牛病と安全宣言

狂牛病に対する安全宣言が出された。「世界一厳しい基準」と自負しているらしいが、果たしてこれを信じることができるかと問われれば、首を傾げざるを得ない。

そもそも、狂牛病を日本に発生させてしまった行政責任、急場しのぎ的な対策など、どれをとっても消費者である私たちが心の底から「安心」できるようなものではない。「全数検査」というが、今までは行っていなかったのに、どうやって人まで含めてこれだけ期間に体制を整えることができたのか。検査方法は完璧かも知れないが、それを実施する人の教育は十分なのか、今の食肉解体方法や肉骨粉の餌の問題も解決されたのか、はなはだ疑問が多い。

安全という言葉と、わけの分からない牛肉食べようキャンペーンを見せられた日には、私たちが何を不安に思っているのか彼らは気付いていないのだろう、と思わざるを得ない。

最近の小泉首相の自衛隊派遣に対する答弁を聞いていても思う。はぐらかしと論理の飛躍、何かばかにされているような気になって、情けなくなる。結局私たちは信用のおけない政府のもとにいて、いったい誰に守られているのだろうか。



2001年10月18日木曜日

戦争や残虐行為の背景について

あるBBSに書いたことなのですが、改めてここにまとめておきます。テーマは人間は何故残虐行為を繰り返すことができるのか、といったものです。

戦争では相手を殺すことはもちろんですが、ときに過剰なまでの残虐行為を伴うことがあります。この、残虐行為というのは、相手を同じ人間と見ていないのではないかと思うことがあります。民族・人種的な偏見もあるでしょう。外見的な姿形が少しだけ違うだけ、あるいは、生活の程度や文化のあり方が少しだけ異なるだけなのに、どうしてそれほど残虐になれるのか。あるいは、残虐行為は慣れるものなのか。人間としての不思議を見る思いです。

私は、画家の中でスペインの生んだ偉大なる画家ゴヤに独特の感情を抱いているのですが、銅版画で戦争の愚かしさを描いたものをご存知でしょうか?ありとあらゆる残虐行為が行われたことを、しっかりと記録しています。

あるいは、本多勝一の「殺す側の論理」だったか「殺される側の論理」だったか忘失しましたが、その中でアメリカ兵が、機関銃で撃ち殺し胸から下が吹き飛んでしまったベトナムの子供を、まるで汚い雑巾でも持つかのようにつ持ち上げている写真が掲載されており、物凄いショックを受けたものです。あれは、どう見ても、同じ人間を哀れむ眼ではなかったように思います。

おそらく、この手のハナシは戦争について言及してゆくと枚挙にいとまがないでしょう。

残虐さとは、相手を認めないという気持があれば、どこにでも生ずるものではないでしょうか。イジメ問題にしても根はそこです。日本では異質なものを極端に排除する傾向があると思います。均質さと同質さを求めるような雰囲気が。ルーズがはやれば皆ルーズみたいな。仲間からはずれるのって怖くないですか?  同質化した世界しか認めないという偏狭な考えは、ときに残虐さの温床になるように思えてなりません。

もうひとつ。残虐行為というのは時代や思想が生む概念だと思うのです。

例えば私たちが親しんでいる時代劇や大河ドラマ。真剣で相手を叩き切ります。今の世の中では正気の沙汰ではありません。しかし、当時はどこの世界でも刃物を用いている文化では、当然の行為であり、刃物を使う人間をことさら残虐とは考えていなかったと思います。

人間性が確保されたから、刃物で人を殺傷する行為は野蛮でありかつ残虐な行為となりました。大きな違いは、個人としての他者を尊重したという西欧的な民主主義の影響でしょうか?

さて、ここで今回のテロと報復です。

アメリカ陣営とそれ以外などという、単純かつ危険な二極論を振り回す米国の大統領の知性レベルにはあきれ返りますが、他者を他者として認めるという行為が、アメリカ人はなかなかできないということなのでしょうか。

よく、アメリカは、どこの国に行ってもそこに「アメリカそのもの」を作ってしまうと言われますよね。米軍基地まわりにしてもそうなんだと思います。他者と交わって赤くなるというような発想、他者を取り込んで協調しようという発想。他者をおなじ対等と考える発想。むずかしいでしょうね。

最後にひとつ、誤解を招くといけないので補足しますが、「アメリカ人は・・・」とか「和を尊ぶのは日本の文化だ」という発想には同意しません。アメリカ人と人くくりにして論ずるのは分かりやすいものですが、そんなに単純なものではないでしょう。

2001年10月12日金曜日

柳美里:生

柳美里と東由多加の壮絶なる闘病記の三作目だ。久しぶりに入る書店の店頭に、この第三作目が山と詰まれているのを目にしたときに、私は目を見張り驚いてしまった。また書いたのかと、前ニ作でもまだ書き足りていないのか、東由多加を何度死なせると気が済むのかと。

話しの内容が重く決して愉快ではないことなど百も承知だ(そもそも彼女の小説は皆暗く重い)。しかし、その表紙を見た瞬間から、私は店頭で一ページも繰ることなく書店のカウンターに本を運んでしまう。もはや読まないでいることができない吸引力だ。

「命」「魂」も壮絶であった。なぜこのような自らの傷口を押し広げるような、それも赤い肉と鮮血がほとばしるような傷を書き続けるのかと疑問に思いながら読み進んだものだ。今回もその思いは消えない。

柳は喪失感と疲労の限界の発狂寸前の状態の中で末期癌の柳を看病し、生まれたばかりの丈陽をいとおしみ、そして書くという行為を止められないでいる。書くことが彼女の生活の糧=収入源である、という現実もあるのだろうが、あのような状況でも書きつづけなくてはならないということは、彼女にとって書くことが生きることそのものなのかも知れないと思わせる。あるいは、「書くこと」を柳に運命付けたのが他ならぬ東であったから、だからこそ書きつづけずにはいられないのか。彼女の書くという行為に打算は読み取れない。そこにある、純粋で偽りのない感情の奔流に読むものは打ちのめされる。そういう意味では、彼女くらい強いひとはいないと感じる。「強い」ということをおそらく柳は全否定するだろうが。

今回は国立がんセンターから昭和大学付属豊洲病院に移っての闘病生活の1ヶ月の物語だ。柳の息子の丈陽に絵本を残したいという東の強い思いと生への執着、東を犠牲的な労力で支える柳、大塚、北村の三人の女性、それを取り巻く人々が描かれる。前ニ作より当然死期に近いため、東からは以前のような傲慢なまでの生へのエネルギーは消えている。残るのは想いと薄くなりつつある希望だ。だから、前二作以上に闘病生活は壮絶なものとなる。癌で苦しいとかいう壮絶さではなく、生きることの重さを問うている。

小説の中では柳と東の昔の関係や想い出が、限界に近い疲労の中で現れる夢のように挿話されてゆく。読者である私は、どうしてここまでに柳が東に献身的であるのか、アタマで理解しながらも現実感を持って受け入れることができないことに気付いてしまう。

この小説においてはストーリーなどはあまり大きな問題ではないかもしれない。読んで涙して感動するというたぐいの小説ではもはやない。重いテーマを突きつけられながらも、生きること、生きることの、本当の幸せというものを、ふと考えてしまう。

水をごくごくと飲めること、食事が食べられること、毎日トイレに行き排泄できること、自分の部屋で眠れること、人をいとおしく思うこと、愛すること、相手をいたわること、両親がいること、子供が健やかであること、そういう普通のことが、ただの普通の生活が送れることがどんなに、どんなにかけがいのないことなのか、それを今の私には実感できない。

また、小説に書かれた事実以上に、柳の生き様を考えてしまう。

 彼女は東と自分と丈陽の物語を三部作の形で書いたが、彼女の中で柳は集結してはいない。息子の丈陽を東の生き写しと思っているのかは分からない。おそらく彼女に生まれたばかりの丈陽がいなければ、彼女は東の死とともに自らの命も絶っていたかもしれない。

いまは丈陽と生きることを選んだ。これからも大きな重荷と深い傷を負いながら、そして決して消えない、また、絶対に他人など理解できないような底知れぬ喪失感と哀しみを胸に秘めながら、彼女はこれからも書くことを止められないのだろう。

彼女の暗さの裏返しとして彼女の小説から勇気をもらうのではない。書かずにはいられない、東を看護せずには生きていけなかった、かなしいまでの純粋さともろさと、本人が否定するだろう凄まじいまでの強靭さに我々は目を見張り、心の深いところが打ち震えるのだ。

2001年10月1日月曜日

高橋尚子のベルリンマラソン

��ちゃんこと高橋尚子のベルリンマラソンには、本当にびっくりした。

シドニー後のマラソンで、残る世界新を期待されながら、それらの重圧を全くものともせずに実現してしまった。いや、重圧はあるんだろう。でも、レース終了後の彼女の清々しい顔を見たら、そんなことを全く感じさせない。

師を信じ、自分を信じ、そして、限界まで自分を追い込むその精神力と体力のすさまじさ。監督が「モノが違う」と彼女を評しているが、それは心肺機能や筋力などの肉体面ばかりではなく、彼女の計り知れぬ精神力をも言い当てているのだと感じ入った。師や自分をそこまで信頼できるということは、並大抵のことをしていたのでは決して得られない境地だ。

私は学生時代、体育会系の競技をしていたが、厳しい練習は強くなるため、自分の限界を超えるために行っていたつもりだった。でも、最後のレースの場で、苦しい中で朦朧とする意識のむこうに、最後の最後で自分を信じきれていないもう一人の自分がいた。当然、そのようなレースは負ける。

大和證券グループのCFが何度もかかり、うざったかったのだが、「彼女の走る姿がみんなの勇気になった」とかいうくさいコピーが(正確なコピーを失念!)、本当になったとき、やっぱり私は涙して彼女を見てしまった。

��月は、小泉の経済回復に関することが中心の日記となると思いきや、テロの話題一色になってしまった。10月の最初に、喜ばしい出来事から書けることを素直に今は喜びたい。

2001年9月30日日曜日

カルテット 事前練習する

さて、結成するが早いか練習しようということで、本日集まれる3人が中島公園ヤマハ店に集結し合わせてみた。練習は、先の曲集から比較的易しいものをいくつか吹いてみる。やってみて分かったが、アンサンブルは難しい!!

「人の音を全然聴くことができない」「勝手に走ってしまう」「易しい楽譜なのに落ちてしまう」「リズム間違えて小節がずれていても平気で吹いてしまう」などなど・・・ヒョエー(@◇@)て感じ。他のひとが何やっているのかなんて、ぜーんぜんわからなかったぞ。

ワタシ個人の課題がいろいろあることを身にしみて感じる・・・しかしリズム音痴だなあ、アウフタクトの入りがぜんぜんだあ。

��時間の練習(?)というのはあっという間である。適度の緊張を感じながらもアンサンブルをする楽しさを味わうことができた。音色やリズム、最後のコーダなど息があった瞬間の快感は格別だものね。こういう機会を与えてくれた皆さんに感謝!

いままでは、ずっと一人のレッスンだったし、レッスンの1時間というのはケッコー地獄を見ることもあったのだけど、複数で吹くのはいいものですね。

��さんは、「少しはハモリが聴こえたね」と言ってくれたが、あのフルート独特の眩暈のするような和音は実現するだろうか? また、今後このカルテットは発展をるのか、それともかけ離れた実力のメンバーのため霧散してしまうのか?4人以外期待しないで待て!といったところか。 (て、いったい誰が読んでいるんだ?ココ)

次回までにやる曲は以下に決定。


  • ヘンデル・・・・<水上の音楽>より
  • バッハ・・・・・コラール「目覚めよと呼ぶ声あり」
  • ジョルダーニ・・カロ ミオ ベン
  • ヘンデル・・・・ラルゴ(歌劇セルセより)      


ヘンデルのラルゴは、指使いは難しくないが、意外とこういう曲を合わせるのは至難のわざなんだよな。


【シベリウスの交響曲を聴く】 ヴァンスカ指揮 ラハティ響による交響曲第5番(1915原典版)

指揮:オスモ・ヴァンスカ
演奏:ラハティ交響楽団
録音:May 1995
BIS KKCC-2206

交響曲第5番 オリジナル1915版での演奏としては、この演奏が最初で最後のものかもしれない。演奏するに当たって、遺族の許可を得て一度だけという条件付きで録音されたらしい。

オリジナル版と現在耳にする原稿版との違いをひとつひとつあげつらうことはここではしない。CDを買うと吉松 隆氏による二つの違いが細かく書かれているのでその必要もないだろう。

ただ、この曲を聴くと原稿版との印象がまるで異なって聴こえてくることに少なからず驚きを覚える。たとえば楽章構成を4楽章から3楽章形式に変えた構成的な違いは大きな変更点だろう。もっともここでの演奏は1楽章から2楽章への移行をごく自然に行っているため、不自然さを感じないのだが。

全体を通して聴こえてくるのは、よりピュアな響きで、さらさらと流れ行く風の音を聴くかの感がある。これはオリジナル版のオーケストレーションの特徴なのか、あるいはヴァンスカ&ラハティの独特さなのかは今の段階で断定することができない。決して「軽い」というのではないが、明らかにここにはシベリウスの核心に近い精神があるように感じられる。

厳密に聴き比べて書いているわけではないので、正確さに欠けるとは思うが、気になる点をいくつか挙げてみたい。

まず冒頭のフレーズから「あれ」と思わせる。何か音が足りない、そうホルンの旋律がなく、よりもやもやした感じなのだ。それでもオリジナル版が原稿版と比べて劣っているとか、悪いという気はしない、むしろすがすがしさを感じさせ好ましい始まり方であると思うこともできる。

また、2楽章の終わり方なども原稿版のようにさらに一歩踏み込んだ壮大さを示すのではなく、比較的あっさりとまとめたという風に感じる。

ほかにも特徴的な違いはあると思うが、最大の印象の違いは終楽章の終わり方にであることには異論がなかろう。あの特徴的な断続的和音による終結が、この版では聴かれないのだ。はじめて原稿版のラストを聴いたときは、その唐突さと不自然さに違和感を覚えたものである。それでも、ああいう終わり方をせねばならなかったシベリウスについて、思い馳せるのだったが、それが初稿版ではないのである。

吉松隆はこのオーソドックスな終わり方の方が「自然のような気がする」と書いている。確かにそうなのだが、やはりそうならば、考えてしまう。どうしてあんな不自然さを最後に持ってきたのかと。

この曲を聴いた後に、誰のでもよい、原稿版を聴くと音楽的和音とか構成がしっかりとした輪郭を得ているように思うかもしれない。そしてより感動的に仕上がっている。逆に言えば、オリジナル版はどこか不安気な印象や捉えどころのない茫漠たる印象を受ける。ひんやりとした空気を漂う妖精の音楽を、水滴を集めるかのように一粒一粒、葉に受けて音楽をつくっているかのような霊感と神秘性を漂わせていると感じるのは私だけだろうか。それゆえにオリジナル版として気に入らず、破棄したのだろうか。

曲を聴きながら、同時並行に文章を書いているので脈絡がなくなって恐縮だが、4楽章は吉松隆の解説によると「ホルンが二分音符で呼応する『大自然の呼吸』のような印象のテーマ」とあるが、なるほどと思わせる表現だ。そうやって聴いてみれば、木々深き霧の森のなかでの息吹をひやりと肌で感じたような気になる。確かにオリジナル版のこの楽章は長い、しかし、吉松も指摘しているように「ブルックナーを思わせるような壮大で充実したオルガン的響き」が続き、それはそれで面白いと私は思う。

音楽的な完成度という点では、やはり原稿版の方に軍配が上がるのであろう。しかし、オリジナル版からは、何か世俗的なものを一枚はぎとったピュアさを感じとることができ、シベリウスファンであれば聴いてみる価値はあると考える。

二つの版の違いの詳しい解説などは、だれかがどこかでしてくれないものだろうか。

2001年9月26日水曜日

憎しみの源泉

昨日のテレビ朝日「ニュースステーション」で、タリバン政権下のアフガニスタンの状況が、進入したカメラのもとに映し出されていた。かなりショックを受ける状況だ。

タリバンは、アフガニスタン国民には「恐怖政治」でしかない、暗黒時代だと言う。「自分の国でありながら囚人と同じだ」と答える店の主人。「金も夫もいずに、どこに幸せなど感じられるか」とインタヴューに答える女性たち・・・

地雷で足を(両足も!)失った多くの人たち。公然と行われる公開処刑。子供の教育にまず教え込む「ジハード」。子供達にまず憎しみを植え付けようとしているのだろうか、公教育として。この世は不幸なので、ジハードで命を捧げ、あの世で幸せになろう、などという宗教観は末世成仏と同じで人間に未来を提示しない。

これらすべて、タリバンという圧制による民衆の抑圧だ、そこから開放してあげることこそ、(西、イスラムを問わず)我々の役割だという意見は、おそらく正しい。

しかし、そこの論理から、テロ組織を根絶やしにすることが正なのかとなると私は混乱する。テロ組織とその土壌は、日本の曖昧なる「周辺」への定義と同様に、まわりにどこまでも広がってゆく・・・・

ふと思ったが、「憎しみを植え付ける教育」の存在である。例えば、韓国や中国では、日本の戦争での悪逆を繰返し教えている。「憎しみ」を教えているつもりはなかろう。しかし、その教育の先に、相互理解の道は見えないと思う。「憎しみ」や「差別」を植え付けられた子供達を、真に救うということなど可能なのだろうか。

我々の西側寄りの社会には、昔風の論理を踏襲すれば「搾取する側」と「搾取される側」が今も厳然と存在している。 誰も、もはや「搾取される側」にはなりたくない。そう全ての国民が気づいた瞬間に、私はアメリカ的資本主義の終焉を見る思いがするのである。決してオーバーな話ではなく。


フルート・カルテット結成・・・・・か???

ヤマハを辞めたら、ちっとも練習しなくなってしまっていた。やはり目標がないと駄目なものだなあと思っていたそんな折、ネットで知り合った方たちとフルートカルテットを結成しないかという話になった。

集まったメンバーは男性2名と女性2名。Oさんは中学高校と札幌生まれのフルーティストM.K氏と同じ学校、学生時代に徹底的にしこまれたという実力派。Nさんはフルートをご専門にされている方。Mさんはブランクはあるものの中学生時代に吹奏楽でフルート吹いていた経験の持ち主。おそらく私が一番、ヘタッピのようですっごく不安。

家人に「今度にネット知り合いの仲間4人で演奏(練習)することになった」と話したら、「あなたの実力、他の人分かっているんでしょうね?」とさとされてしまった・・・・さらに不安は募る!

��さんの話ではフルートカルテットの曲集は探す気で探してみると意外と見つからなく、仮にあったとしても難易度がかなり高いらしい。まずは、「フルート・カルテット60選」(内田有洸 編曲)という曲集を見つたとのこと。私は札幌フルート協会で佐々木先生が編曲してくださったものを、いくつか借りれないかななどと、虫の良いことを考えたりしているが、あれはあれで難しかったよな。(それにこのごろ協会に出ていないし・・・)


2001年9月25日火曜日

狂牛病とテロ

公私忙しく、ニュースをじっくりと熟読している時間がない。

思ったことをメモる程度に今回は留めるが、狂牛病である。いままでは遠く、ヨーロッパの話であるという認識しかなかった。日本は安全なのだと、過信していた。

しかし、今回の狂牛病の発覚により、世界の中で日本だけが特別ではないことを知らされた。

これは、アメリカへのテロ問題についても同様の認識を持たねばならないことを示唆している。ニュースキャスターも指摘するように、米国がテロ社会に報復をすると、日本へのテロが発生しないとは言い切れないのだ。テロ対策としての政府の対応はどうであろうか。

数日前の朝日新聞に、民主党議員が、テロの翌朝の永田町ののんびりと珈琲をすすりながらテロについて話す風景に、危機意識の薄さを嘆いた一文がよせられていた。テロの後、国民への呼びかけや、迅速な対応が日本にあっただろうか。

テロも、狂牛病も、イスラム問題も、すべて自国のこととして考える主体性が必要なのだ。米国に付いていきます、自衛隊を新法つくって派遣します、ということで、国際的地位の回復を図ろうとすることは、本来の方向からずれたものだと私には思えてしまう。米国は、決して日本を対等などとは見なしていないだろうし。

日本政府や官僚は、日本国民を守るというという意識が、抜け落ちているのではなかろうか。

2001年9月23日日曜日

基礎て重要だよな・・・

基礎て重要だよなと改めて思い、タファネル&ゴーベールだのアルテスの1巻(!)とか昔やった練習曲とか、引っ張り出してきて吹いてみたのだが・・・・

��&Gは音階練習(EJ1~4)のところしかやっていないから、数度離れた音階とか分散和音などに挑戦してみるも見事に跳ね返されてしまう。臨時記号なんてつけている余裕がなく、練習になりやしない。

暗澹たる気分で、アルテスの1巻(なぜ1巻なのかを書き始めると長くなるので書かない)を取り出してみた。指定速度にメトロノームを合わせて吹こうとして愕然! 「なんだなんだ、こんなに速かったのか!」 と叫んでしまう。

アルテス2巻もやるにはやったが考えてみれば速度記号は全く無視してのハナシ。1巻なら出来るかなと思っていたら甘かった!

我が手の中のフルートをぢっと見つめ「ぜんぜん、進歩してないぢゃん・・・・」と、くら~い気持ちになり、愛機ヘインズを箱にしまってしまうのであった(>しまわないで、練習しろよとか思うけど)


2001年9月22日土曜日

ブッシュの報復演説

アメリカは、今回のテロの首謀者をビン・ラディンと特定し、アルカイーダ組織の撲滅を宣言した。実質的な戦線布告である。アルカイーダとそれをかくまうタリバン政権とは、もはや一切の交渉はないという一方的かつ強硬な姿勢だ。議会はほとんど満場一致でブッシュを支持、ABCの世論調査でも国民の90%が報復攻撃を支持しているという。私は、こんなに過激な演説は生まれてはじめて聞いた。こんなことを話す国家主導者が現在生きていることに恐れをなした。

タリバン政権は、「証拠を示せ」というが、アメリカはそれを拒否している。

昨日のテレビ朝日では、「アメリカが(協力各国に)証拠を提示していないのに、日本も協力すると言っていいのか」と久米宏が自民党 阿部氏に問うていた。それに対し「証拠を提示してくれなければ協力しない、というのは通る話ではない」と答えていた。もはや協力が前提だ。

「敵」は状況証拠からアルカイーダなどの国際テロ組織、米国を中心とする西側資本主義社会に攻撃をしかける彼らだ。それを武力を使い「根絶やしに撲滅」するのが目的だ。「Justice will be done!」という超極太のゴシック文字がアメリカの新聞に踊っている。

ちょっと待って欲しい。確かに5000人近い人たちが、それも民間人が、狂気のテロ行為により殺された。でも、そこまで憎しみを持つのはどうしてなんだ。彼らとの対話は、本当にもはやないのか、残されていないのか。テロ組織を撲滅して、新たなテロの芽を生むことにはならないのか。

テロ組織の作ったビデオが放映されていた。彼らは訓練している。肉体的にも、精神的にも。子供達にも「アメリカが悪である」と教育している。

今回は、そういう子供達も「根絶やし」にするつもりなのか? 最終的な勝利は何をもって宣言するのだ? そういうことが提示されない作戦に、やすやすと「協力」という言葉を口にする政治家は誰か、われわれはしっかり覚えておかなくてはならない。これを機に、集団的自衛権とか周辺事態法案などを有利に持っていこうとする人たちを覚えておかなくてはならない。

そして、「自国の主体性に基づいたテロ対策」や「アメリカ追従でない自国の平和的安全保障と国際外交戦略」というテーマで論じる人が誰なのか、見極めなくてはならない。おそらく、私たちの安全保障の将来がかかっている。

 いま、日本は湾岸での恥さらしの汚名を挽回しようと、あせっていないだろうか。

日本フィルハーモニー交響楽団 北海道定期を聴く

日時:2001年9月21日
場所:札幌コンサートホール(KITARA)
グスタフ・マーラー:歌曲集《さすらう若人の歌》
グスタフ・マーラー:交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」
指揮:井上 道義
ソプラノ:下原 千恵子
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団

日フィルの第25回北海道定期札幌演奏会に行ってきた。この前の札響の時と同じような(もっとひどい)悪天候。偶然今日の演奏会のあることを知り、仕事を途中で切り上げ駆けつけた。天気のせいなのか客の入りは7割くらいといったところだろうか。

日フィルも井上さんの指揮も聴くのが始めてであるので期待をもってでかけた。演奏は、ソプラノの下原さんもすばらしく、演奏の出だしをあでやかに彩ってくれた。ソプラノの声の凄さに改めて感心。すばらしい。もっと聴きたかったが、演奏時間16分というのはちょっと短すぎなかったろうか。

休憩をはさんでの「巨人」は、これもダイナミックにして若々しさを感じる演奏だった。ラストへ向けての盛り上げも素晴らしく、コーダにとてつもないクライマックスを用意するあたり、井上さんはけっこうショーマンだなと思った。

金管群を聴くと、これは札響よりもうまいと感じたのだが、このあいだの札響の弦セクションの音を思い出すと、比較することに意味があるのかは不明だが、札響の弦てすごく美しいのだと思った。日フィルが悪いというのではない、誤解しないでもらいたい。

ただ、今週は体力的にも精神的にも疲れていたせいか、最後まで演奏が体に浸透してくれなかった。何度か、鳥肌立つような部分もあったが、心から震撼できなかった。ブラボーの声はあちらこちらからあがっていただけに、残念に思った。

こういう重量級のプログラムの後にはアンコールはいらないのだが、会場の誕生日の人に向けて「ハッピバースデー・ボレロ版」というものを演奏した。これは、井上さんがよくやるものなのかは分からないけど、洒落ていて素晴らしかった。ここでやっと緊張が解けた感じ。

本当はもう少し細かなレヴュを書きたいが、適うだろうか?

蛇足になるが、今日は2階CB席7列という絶好のポジション(当日券)。斜め前で、女性が演奏にあわせて体を動かしたり、ティンパニをたたく動作を繰り返していたけど、女性でもいるんだなあ、そういう人。



2001年9月16日日曜日

いくつもの世界

ここまで書いてきてひとつ気づいたことがある。私の場合だが、中東やポスニア紛争の報道に接してもここまで暗澹たる気分に陥ることはないと思う。

なぜか。それは、彼らの紛争を「別の世界の出来事」ととらえているからではなかろうか。中東問題やアラブ諸国も日本から見ると「別世界である」。

逆に、アメリカを敵対視するアラブ諸国やビン・ラディンも「西側世界が我々の世界を抑圧している」という見方かもしれない。彼らとは別の世界にわれわれは住んでいるのだ。

ふたつある(あるいは複数)の、そのひとつの中にしか、われわれは属していない。他者の痛みなど決して分からないのかもしれない。

他者の痛みなど決して分からない国に、他者の扮装の仲裁などどうしてできようか。人道的には正しいと思ったとしてもだ。だとすると、対米追従型の路線を貫くしかないのだろうか。今の私にはわからない。

2001年9月15日土曜日

テロを境として

テロの報に接し、謹慎しているわけにも、不謹慎な言動を取ることもできない。では、何ができるのか、ということになる。

��機目がWTCに突入したのをNHKの生放送で接し「これはテロだ、大変なことになるぞ」と思った。数十分後に国防総省へのテロの報を聞き、もはや日本も傍観者ではいられず、我々の生活にも大きな影響を及ぼす重大なる局面を迎えるという予感を感じた。

傍観者ではいられない、ということは、何をすることなのだろうか。

昨日の朝日新聞の「視点」で小田実が書いていた。こういうときこそ、平和憲法を有する日本のするべき立場があると。米国の武力をもった報復攻撃に協力支援することではなく、中東問題の解決に向けての尽力をするべきなのだと。それが真の「構造改革」ではないかと。

いかにも小田実的な意見である。しかし、世の動きは米国追従である。小泉首相は「いかなる協力も惜しまない」という主旨の発言をしているが、それは、自衛隊を動かし後方支援するということなのか。あるいはもっと踏み込むのか。もはや人は出さずに金だけ出すということは許されないだろう。

テロを境として、今までの防衛論の根底からなし崩し的に変革する恐れさえはらんでいるように思える。タカ派的な意見がこれから、巾をきかせるだろう。いままで防衛論について先送りしてきただけに、これからの成り行きが不安である。

こういう風な世の中の気配を感じると、音楽を聴きいたり、日々家族と何気ない生活をしているというだけのことが、どんなに幸福なことか、ということを身にしみて感じるのである。

2001年9月14日金曜日

蝕まれる心

有事という異常事態が、いかに人間としての人間らしい感情を阻害してしまうものかということを、ここ数日思い知らされている。

阪神大震災のときもそうだった。仕事の関係で震災後、神戸入りし二日ほど現地調査を行った。壊滅的な都市状況がそこに展開されているにも関わらず、隣町の大阪は何も変らない日常がそこにあったことに不思議な違和感を感じた。たった電車で数十分の距離(分断されていたのでバスや徒歩が混じるが)に厳然とした不連続線が存在していた。

今回も同じような断層を感じる。まさに戦場状態のNYの一地域、大リーグや証券取引が停止しているとは言っても、世界は日常を過ぎることを止めはしない。

しかし、私たちの心にはどこか浮かないしこりが深く沈んでしまったのではないだろうか。TVでふざけた番組が流れると、あるいは、スポーツ番組が放映されていると、違和感を感じてチャンネルを回してしまう。本当はそんなことをする必要はないのに。不謹慎というと言い過ぎだろうが、心にブレーキがかかるのを止めることができない。

2001年9月12日水曜日

テロの映像を見て

世界貿易センターに航空機が突入するシーンを、まるで映画のロケのように多方向のカメラアングルで、いやというほど繰返し放映している。また、本当に信じがたいことに、その400mもある世界有数の超高層ビルがダイナマイトでのビル破壊を見るかのような具合に崩壊するシーンを見る。

映像を見ながら慄然とするとともに、「映画を観ているかのような」非現実感を伴い、大いなるカタストロフにカタルシスを感じている自分にふと気づかされる。そう、これはまだ自分の身に起こった悲劇ではないから、傍観者たれるのだ。

このような映像(表現)に慣れすぎているが故に「映画的」と思う心を止めることができない、不謹慎と思ってもだ。心の中に固いしこりとともに、大いなる断層を感じながらニュース映像から眼をそらすことができない。 

テロの映像や写真は、間違いなく21世紀の一頁に(世界が21世紀まで存続していれば)残るだけのニュースバリューを持ちつづけるだろう。

しかし、この映像の持つ恐怖は心の奥に澱のように沈んでしまったのではなかろうか。仕事をしながら、ふと窓の外をよぎる影に気づき、あるいは不穏なジェット機のエンジンのような音を耳にし、不安気に窓の外に視線を泳がせる自分に、今日気づくのである。まさか・・・・と、一瞬後に自分を笑い飛ばしながらも。

2001年9月9日日曜日

尾高忠明指揮 札幌交響楽団のシベリウス

札幌交響楽団 第438回定期演奏会
日時:2001年9月9日
場所:札幌コンサートホール KITARA
指揮:尾高 忠明
ヴァイオリン:竹澤 恭子

シベリウス 交響曲第1番 作品35(没後50周年記念
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ単調 作品47
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調 作品43

最初の尾高忠明(1911~51)は、指揮者・尾高尚忠の父の作品である。彼37歳のときの作品。解説には「札幌交響楽団初演曲」とある。

どんな曲かと思いきや、最初から打楽器などの激しい出だしでかましてくれる。始終緊張感に富んだ曲だが、現代音楽というような難解さは全くない。はじめて聴く曲だが心の中に徐々に入ってくる。激しく荒い部分や、暗く不安な部分があるものの、最後は希望が見えるかのような前向きな感情を残して音楽は終わる。

結構、かっこいい曲であるという印象。「通俗的」という評ももしかしたらあるかもしれないが、私としては好きである。聞くところによると、尾高のフルート協奏曲は指揮者の尾高忠明が手を入れているが、この曲は忠明の手によるものらしい(ある方からのメールで、教えていただきました)。こうなるとフルート協奏曲も聴きたくなってくる。

さて次は竹澤さんのシベリウスのVnコンチェルト。実は数年前にサントリーホールで、C・デイヴィス率いるロンドン響で、同じプログラムを彼女のヴァイオリンで聴いたことがある。そのときは、ロンドン響の音に負けてしまっているような感じで、音が届いてこない印象があった。そのため、若干不安をもち演奏にのぞんだ(失礼)。

しかし、そんな杞憂は最初の震えるような出だしの音で打ち消されたてしまった。そして、のっけから凄い音で聴かせてくれるのだ、オイオイというぐらい響いてくる。ヴァイオリンの音って、こんなに美しかったかしらと改めて感歎するほどだ。

私の席はRAだったのだだが、あの小さな楽器と小さな体かを用いて、それこそ全身を楽器とするかのような共鳴感を感じた。ぐいぐいと迫ってくる迫力は見事であった。
ひとつ気になったのは、札響の演奏である。竹澤さんの豊穣にして情感あふれる演奏とは少し一線を画した音つくりのように思えたのだ。ミスマッチというわけではない、しかし、最後まで何かしっくりこない違和感を感じたのは何故だろうか。最初に違和感を覚えてしまうと、それを打ち消そうと思っても、演奏に没頭でなくなってしまう、悪い癖だ。このように感じるのは、ごく個人的な印象でしかなく、「分かってね-な」と言われかねないのだが・・・

竹澤さんは、リサイタルなどあれば是非聴きたいと思わせてくれた、今までのマイナス印象払拭で満足というところ。  

最後のシベリウスの2番、これは熱演であった。改めて思うが札響はヴァイオリンをはじめとし、弦楽器の音色の素晴らしさは眼をみはる。なんと流麗に、そしてあでやかに奏でることであろうか。チェロやコントラバスの支えもしっかりしており、特にコントラバスの力の入り方は見ていてあわ立つ思いさえした。

打楽器(といってもシベ2では真貝 さんのティンパニだけだが)も、打つところはしっかり打ち、つぼを得ている(なんて書いたら殴られそう、失礼!)。

金管群には若干の不安が残るものの、ホルンも立派であったしトランペットもしっかりとオケに溶け込み壮大なるドラマの重要なる役割を果たしてくれ非常に満足である。ただ、ときどき異様に耳につくチューバの響きには、首を傾げることもあったのだが、RA席のせいだろうか・・・

木管というのはオケの音色を左右する重要なセクションであると思う。特にオーボエとフルートは特にそうだと思う。このふたつについては、札響の音色はどちらかというとふくよかで豊かな音色であると感じた。その点がシベリウスとして期待する音色感と合致していたか、というと、ワタシの好みとしてはいまひとつだ。しかし、体勢に影響するような問題ではない。瑣末的な感想だ。

尾高さんの音作りなのか、それとも札響のオーケストレーションなのか、今回の演奏からは、細部の組立てが浮き上がるような構成美と対比感を強く感じた。もっとも、すべからく生演奏というのはクリアなものなのであり、いつもいい加減にCDばかり聴いているから、たまに生を聴くとそういう風に感じてしまうのかもしれない。これは、多くの演奏(札響を含め)に接していないだけに、なんとも言えない。

しかし、そのようなことを前提としつつも、主と従の対立関係というものが見事に浮き彫りにされ、音響的な立体感を感じさせる演奏であると感じた。また、音響的には厚みよりもお互いの共鳴感が際立ち、フライパンの中ではじけるポップコーンのような粒立ちを感じた。(比喩がなっとらーーーーーん)

シベリウスの特集をしているせいで、最近この曲は何度も聴いていた。それにもかかわらず、具体的にその個所を指摘することは今となってはできないが、何度も「お、こんな表現だったか」と思わせる部分に遭遇し、眼を見張り耳をそばだてた。

一方で、これを若干オーケストラとしてのまとまりに欠ける、という具合に解釈することもできるのかもしれない。例えば、突出して聴こえたチューバの響きにしても、どちらとも取れるかもしれない。クラシック初級者の私には、それらの点については、指揮者と団員の意図はわからない。

ただ、このように非常に興味深い演奏であり、熱のこもった演奏(と聴こえる)であるにも関わらず、非常に清冽なる印象を受けるのはどうしてなのだろうか、尾高のシベリウスに対する解釈なのか、札響の特質なのか。アッチェレランドやリタルダンドも多い(ように感じた)、強弱の巾も大きい、しかしそこから表現される世界は透明なる大容量の水が堰をきってあふれるかのような盛り上がり方なのだ。

そして、もうひとつ、シベリウスの音楽に私が始終聴いてきた「上からあふれてくる光」というものを感じさせてくれる演奏であることには、大きな喜びを感じた。この光とは、尾高の交響曲でもその裏に感じたが、「希望」というものを思うのだ。ラストのコーダに向けての部分は、やりすぎるといやらしくなるのだが、抑制の中に素晴らしい盛り上げを聴かせてくれ、個人的には心が震撼するのを止めることができなかった。

シベ2といえば人気の名曲だが、覚えやすいフレーズの間にはさまれた部分が、美しいくも複雑な動きをしていて驚かされる。霊感に満ちた音楽であることにも気づかされたのである。

そういうわけで、非常に満足のいく演奏であったのだが、冷静に考えればオケを聴くのは実に半年振りで、過剰に反応してしまっただけなのかもしれない。演奏会に行かれた皆さんは、どのように聴かれただろうか。

税金返せ

今日の朝日新聞の「声」のところで、40代の主婦の意見が寄せられていた。外務省の税金詐取事件に心底怒った声だ。

いわく、自分たちは少しでも安い商品を買うために、安売りの情報を仕入れ苦労しているというのに何たることか、消費税分をレシートをもって税務署に押しかけて返してもらわないと気がすまない、という内容だ。

先に私は、外務省の詐欺事件を日本人に蔓延している公私の境界のあいまいさという観点から書いたが、この投書を読んで、いかに企業的な観点にアタマが毒されているかということに気付かされた。

そうだよな、冷静に考えれば「税金返せ」といって暴動起こしたっていいくらいだよな。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第5番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Dec 1996
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)

ベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏の素晴らしさは今まで何度も述べてきた。シベリウスの音楽の特徴とも言える抑制され余分なものを殺ぎ落とすように形作られるあり方や簡素さ、それでいて曲の内部に包括する複雑さや襞など、彼らの演奏を聴くと新しい音楽に接するかのように新鮮に響いてくる。

この演奏も、派手さや華麗さなどを全面に出すことなく淡々と演奏しているのだが、しかしどうだろう、雲の合間から幾重にも重なる光の筋とともに降り注ぐきらびやかな光を浴びるかのような演奏だ。表現として比喩を用いることの不適切さを承知しながらも敢えて書くとすると(ケーゲルの4番でも書いたように)、上からバーと降り注ぐ光のようなイメージなのだ。しかも非常に硬質な煌きをもった光だ。

上方から降り注ぐ光を全身に浴びるうちに、からだの内側から得も言われぬ至福の喜びがこみ上げてくる。例えばこの演奏の第三楽章を聴いてみるといい。次第に高まる音楽が、あたかも呼吸のように身体と同化し、極めて音楽的な境地に達することができる。

ラストに向けてのテンポの落としてゆく部分など、演奏の美しさはもはや言葉にならないほど壮大なドラマを演出している。孤高の高みはキリスト教的な大伽藍ではなく、山岳の頂に重なる太陽の陽光のような宇宙的な広がりと大きさを感じることができる。冒頭の霧の中の音楽から、ここに至って一切の靄は消えうせ光の世界に突入したかのようだ。

このようなシベリウスの世界を、輝く煌きでベルグルンドは表現しつくしている。いやはや素晴らしい。 彼の演奏を何度も聴いていると、決してノーマルで正統的な演奏に終始はしていないことに気付く。

強烈なアタックやリタルダンド、や多少癖のあるフレーズ作り(一楽章4分半のtpの響き)、金管を十分に鳴らしたクレッシェンドとフォルテでの表現、逆にピアノ部分での弦のトレモロの美しさや木管の音色など、オーケストラの色彩感は非常に多彩である。強弱のダイナミズムの幅も大きい。

それでいて演奏が重くない、あるいは、どろどろとした情念のようなものを感じず、さわやかな透明感と凛とした涼しさに彩られた演奏だ。これは不思議な感覚と言ってよい。

例えば1楽章の終わり方の迫力を比べたら、さきの2枚の中ではデイヴィス盤の方が圧倒的と言えるかもしれない。しかし、ベルグルンドの演奏を通して聴いてみると、そんなに大げさな表現をしなくても十分であると思えてくるのだ。シベリウスはそんな恥ずかしい、あからさまな音楽を書いたのではなかったのではないか、という気にさせられる。それでも音楽は深く心に入ってくるのだ。

もっとも、これは演奏者の解釈、聴く者の受け取り方次第だとは思う。とはいえ、私としては清冽な美しさと力強さを湛えたベルグルンドの演奏に聴くほどに引き込まれてしまうのである。

2001年9月8日土曜日

景気回復の暁に・・・

長くなったので項を改めるが、構造改革なって景気回復したとき、皆さんどういう生活をしたいのだろうか?

会社に勤める人なら、夜のクラブでドンペリ飲んで、ゴルフ場に通いまくりたいのだろうか(私は経験ない)? あるいは、経費で韓国や東南アジアに行ってカジノに行きたいのだろうか(これもない)?  女性なら、ブランドバックやコートを身にまとい、海外旅行や香港買い物ツアーに毎年のように行きたいのだろうか?

そういう生活が、豊かな生活なのか?・・・・確かに豊かだとは思う。

でも、私はそんな生活をしたくはない。

情報や流行に追われず、家族や友人と、自由に豊かに、安心して過ごせる環境と時間をください、と言いたい。

隠居するということじゃない。イベント的な派手な楽しみではなく、日々の生活での楽しみみたいなものが少なすぎると思うのだ。

いまの日本の社会で、子供の成長を十分な余裕をもって、ともに喜んで見守ってあげられる大人はどのくらいいるだろうか。

2001年9月7日金曜日

外務省の詐欺容疑事件に思う・・・日本の体質

外務省のホテル代水増し請求事件(外務省の元課長補佐が詐欺容疑で逮捕された事件)に、皆さんはどのような思いで接しておられるだろう。地位を利用して詐欺まがいの着服をして本当にけしからん、というの感想が多いと思う。金額といい、外務省の体質といい、われわれの感覚とはかけ離れたものを感じて、憤りを感じるのだと思う。

しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。

例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。

うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)

このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。

これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。

日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。

いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。

私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。

構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。

個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。

まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。

2001年9月5日水曜日

職業訓練の報道

9月3日の朝日新聞朝刊に、再就職における雇用のミスマッチと、職業訓練あるいは技術を学ぶ学校において「学級崩壊」が生じていることに触れていた。

学級崩壊の原因はふたつのケースがあるらしく、ひとつは教える内容が難しすぎて分からないというもの、もうひとつは、自分のやりたい内容が十分に得られない(易しすぎて実務に使えない)というものらしい。どちらもIT関連産業における技術者養成の教室として取り上げていたが、確かにキーボードを触ったことがなく、ワープロや表計0算を覚えてたいというニーズと、表計算とデータベースソフトを使ってプログラムを組むような、今風のシステムエンジニアを目指すニーズは同じ教室では扱えまい。

さらに、それらの職業訓練をたったの数ヶ月で終え、再雇用の道が開かれているのかということにも疑義を呈していた。福祉関連の職業にしても、3ヶ月やそこらで「プロ」になれるものではなかろう。数年から数十年を実務で働いていた正社員とどうして渡り合えようか。

ここに、セーフティーネットの限界が見えてくる。4日の朝日新聞(だったかな)では、中高年技術者にアジア方面からの雇用ニーズがあることを報じていた。これから技術的に発展しようとしている国が、例えば松下の大量リストラ要因を吸収するという構図だ しかし、これも給与面で満足のいく結果が得られる人は極わずかであるらしい。

ここまで雇用情勢が悪くなると「一度入った会社に、なんとしてもしがみつこう」という意識が強くなることも否定できまい。企業とて、自己啓発だ資格取得義務だの個人の付加価値を上げるように尻を叩く。付加価値の低い社員は出世させないとまで言い切る。

またしても企業論理での人としての付加価値。企業至上主義である以上は、再就職の道は極めて狭いというのが実感である。すんなり希望職に就ける人は、おそらく会社の中でも成功するタイプの人だろう。

2001年9月3日月曜日

失業時代を迎えて

IT関連企業のリストラなどを新聞で見るにつけ、恐ろしい時代に突入しつつあるという実感が湧いてくる。リストラされる対象社員(国内・国外を問わず)は、企業の狭い価値観の中で「不要」という烙印を押されるわけである。

この企業の価値観というものが今のの社会を支配しているわけだが、仮にこれを「正」とした場合、企業が求める人物像が教育などを通して育成されているのかという疑問が湧いてくる。

勉強しなくなった大学生(かくいう私も昔はそうであった)や、勉強をさせなくなってきた義務教育など、こと基礎学問に関しては教育は荒廃の一途を辿っているように思える。(というよりも、文部科学省は「できるもの、使えるもの」と「それなりの人」の二極化を図ろうとしているように思えるのだが、これは以前も書いてきた。)

さて、企業にとって有用とはいかなることであるか、少しだけ考えてみた。

企業が求める人物像を考えるに、まずタフであること(これは体力・精神力ともにである)が第一条件である。 次に、対外折衝能力に長けること。タフネゴシエーターであることは、一方的に自分の論理を展開するのではなく、人から信頼されることが必須であり、このような資質が最も重要であると考える。学習で得られるスキルとしては、専門分野におけるゆるぎなき知識があり、専門外の分野にもある程度明るいことが求められるだろう。公教育はこの点を担っているのだろうと思う。これらを有した上で、内政重視の組織型人間ではなく、外向きで前向きかつ独創的な発想ができ、思考の柔軟性と確たる意思を有し(相反する資質だが)、ジョブにおけるリスク管理ができており、いくつかの考えられるケースに対応可能な用意をしておけることなどなど・・・。そして、人物的には、人から好かれ他者への配慮と思いやりがあり、仕事オンリーの人物ではないこと、などなど。(列挙してきて うんざり してきた。「そんな奴いねーよ」てね)

こういう人物を企業が求めるとしたら、学校教育や家庭教育でできることは少ないと思えてきた。企業側は、大学まで出ていながら、使える学生が少ないと嘆くが、大学側はそれには抵抗を示しているようだ。企業への就職予備軍を作るのが教育の役割ではないと、仮にとなえるならば、教育の役割とは何か。ゆとり教育で何を見出させるのか。

失業率5%というと、すぐにセーフティーネットというが、不幸にもリストラされた方に再就職させ企業で成功するほどの「スキル」を後から身につけさせることなど可能なのだろうか。といって、学習で得られるスキル以外で自分を売り込めるとしたら、上にあげた資質を含めて他に何があるだろうか。自分を振り返ってみると、いまの立場が砂上の楼閣でしかないことに慄然とする。

一方で、企業の価値観から「正」とする人物像を否定する人物像というのは考えられるだろうか。企業=組織として捉えているわけではないので、独立した事業家みたいなものはそれには入らないような気がする。

このような社会で生きてゆく上での、道しるべが見えないのは私だけだろうか。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番

指揮:ヘルベルト・ケーゲル
演奏:ライプチヒ放送交響楽団
録音:1969
BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)

この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。

しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。

特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。

演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。

奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。

しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。

ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。

ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。

どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。

2001年8月29日水曜日

「今さら『運命』?」と言うなかれ!~三つのライブ録音

ラトルの「運命」が話題になっている。これを機会にと思い、その他の気になる演奏をふたつほど(フルトヴェングラー、テンシュテット)聴き比べてみた。

このほかにも、ライブで忘れられないセル&ウィーンの演奏もあるのだが、これ以上運命に付き合うのはちょっとつらいので、またの機会に譲りたい。一度聴いただけで「あたる」演奏と、何度か繰り返さないと「ピントこない」演奏、こういうのは個人差あがあるのだということが、今回の収穫か。



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音)
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
指揮:サイモン・ラトル
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァイオリン独奏:チョン・キョン=ファ
EMI TOCE-553311

ラトルとウィーン・フィルによる「運命」である。レコード芸術では絶賛級の賛辞を与えられていた、非常に刺激的な演奏である。(レコ芸の評をどう考えるかはさておき・・・)

国内版を買うのは値段の点で躊躇してしまうのであるが、どうしても聴いてみたく購入。一聴しただけで文章を書く雑さをご了承願いたいが、これはすさまじき「運命」であると感じた。

��・クライバーの怒涛のような「運命」もあるが、それ以上に刺激的な演奏に聴こえる。印象に残るのは、やはりティンパニの音やピッコロなどの音、さらには、全楽章を支配している圧倒的なリズムと切れの良さだろうか。演奏からは軋みのようなものさえ聴こえてくるではないか。今さら「運命」なんて、と思うならば聴いてみると良い。新たな感動が沸き起こるのを禁じることができないだろう。

どちらかと言うと「快速系」の演奏なのかも知れないが、軽くはない。微塵の迷いもなく突き進むその姿は、聴くものの内側に大きく質量感のある感動を落とす。ベートーベンの音楽の持つ力、硬く熱く重い金属のような力強さを我々に与えてくれる。

ぜひ聴いてみて、その音楽を感じてもらいたい(ああ、こういう演奏を聴くと、つくづく生演奏に接したくなるよ)。レヴュは気が向いたら書いてみたい。

ラトルはウィーン・フィルとのベートーベン全集の録音に取り掛かっているらしく、各交響曲の特徴を際立たせることを意図しているらしい。これからが非常に楽しみである。



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音)
指揮:フルトヴェングラー
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1947年5月27日
DG

解説不要の名盤。フルトヴェングラーが戦後ベルリンに復帰した演奏の三日目のもので、歴史的名演奏として名高いものだ。ラトルの演奏を聴いて、改めてこの演奏がどういうものなのかを知る意味で聴いてみた。

石をぶつけないでいただきたいが、この名演を聴くのは今回が初めてであった。クラシックな方々には「基礎問題的常識」であっても、この世界に疎い、あるいは足を踏み入れたばかりの若輩者には、未知の世界なのである。

さて、この演奏の凄さはあちらこちらで語り継がれている。最近のレコード芸術「21世紀の名演奏300選」でも54年版を押しのけて上位に入ってきたという演奏である。しかし、録音はモノラルだ、本当にそんなに凄いのか?と半信半疑で聴き始めたことを告白しておこう。

半ば期待を込め半ば揶揄的に聴き始めたのだが、恥ずかしい話、感動するとかいう言葉では表現できないほどの衝撃を受けてしまった。私は2楽章のあたりからから、涙を抑える事ができなかった。始終泣きどおしで最後のコーダまで聴いてしまった。あまりにも、あまりな演奏に、この盤をもう一度聴く気力がおきないほどだ。

��Dであっても「あたる」というのか、何かにシンクロしてしまう瞬間というものがある。この演奏がまさにそういう状態だったのかもしれない。何と言う「運命」がここには展開されているのであろうか。どこが凄いとか説明すること自体が無意味にさえ感じさせる鬼気せまる演奏だ。

「フルトヴェングラー的アインザッツ」とか「怒涛のアッチェレランド」とか、言葉を弄すれば何か書けるだろうが、それらは空しい行為でしかない。歴史的名盤と皆が言う意味が嫌と言うほどに分かった。

「たった一度聴いただけで分かったなんて言うな。」という人もいよう。しかし、再度聴いて、さきに始めて聴いたときほどの衝撃があるかと考えれば、それは叶わないのではないかと思うのである。衝撃は最初のものだけが真実であると思う。



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音)
指揮:テンシュテット
演奏:ロンドン交響楽団
録音:1990年8月30日
米RARE MOTH RM 401/2-S

札幌PALS21で見つけた海賊版。カップリングはブレンデルのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番である。

テンシュテットも私にはなじみの多い指揮者ではない。バーンスタインと並ぶマーラー指揮者という印象が強いが、あちこちのサイトを覗いていると、スタジオ録音とライブ録音の差が大きい指揮者であるという評が多い。マーラーのライブを探しているが、なかなか見つからず、たまたまこの盤を見つけたので買ってみたという次第だ。

フルトヴェングラーの演奏を聴いてしまって、続けてこの演奏を聴くことに意味があるのか、疑問に思ったことも確かだが、半ば強迫的な義務意識で聴いてみた。

最初に聴きとおしたときは、正攻法でなんとなく響きの柔らかい(甘い)演奏だな、という印象を超えなかった。ライブの海賊盤なんで音質もいまひとつだし。何気なく流して聴くとあまり特徴のない演奏に聴こえてしまうのかも知れない、「運命」という耳慣れた曲であるだけになおさらだ。

しかし、何度か聴いいると、音が自分の中で立ち上がってくるのを覚える瞬間がある。「・・・!!」という感じだ。この演奏でもそうだった、「ええ? 何を今まで聴いていたんだ?」と自問してしまった。

確かに正攻法のベートーベンだ。例えばラトルのような切り込んだ斬新な解釈はみられない。しかし、それでいて、ここには並々ならぬ熱気をはらんだ、すさまじきエネルギーの演奏が込められていることに気づかされた。ティンパニの叩きなども尋常とは思えない。地が沸きあがるようなベートーベンである。

カップリングされているブラームスも物凄い。ブラームスはワタシ的にはちょっと苦手なのだが(嫌いなのじゃない、とっかかりがつかめないのだ)あのブレンデルがものすごいピアノを弾いている。今回はブラームスのことを書くのが主旨ではないので割愛するが、このテンシュテットのライブ録音、類稀な熱演であることは確かなようだ。




2001年8月28日火曜日

構造改革なくして景気回復なし

この話しを考え出すと、どうしても「幸福論」に行き着くのだ。

景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。

男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。

女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。

旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。

そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。

毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。

景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。

宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。

失業率5%

失業率が5%を超えたというニュースが新聞にのっていた。失業率の捉え方もあるが、実際に準失業状態の人も含めると実数はもっと多いのかもしれない。

さて、構造改革には痛み=失業者が伴うことは自明のこととして認知されたが、いざ構造改革の具体性となるといまだ不安要素が多い。

頼みの綱のIT産業が、松下、富士通、日立、東芝などのメーカーで大幅なリストラを展開している。昨日(8月27日)の新聞では東芝が国内で1万7千人の従業員削減計画を発表していた。これは、今までの企業が海外での人員整理であったのに対し、国内でという点が注目される。

構造改革とは業種転換を意味している。IT関連産業でさえこの始末である。構造改革の痛みは特定業種に固まるという見方もある(いわゆる、建設、流通などだが)。彼らまたは我々は、では積極的に業種転換を図ろうとして、一体どういうメニューがあるというのだろうか。福祉をはじめとするサービス産業への転換というが、お題目に過ぎないのではないかと危惧する。具体的な職種と数値(骨太の方針には530万人の雇用?)を年単位で企業ごとに示してもらいたいものだ。受け入れ企業だって、助成金をもらえば済むという生易しい話ではなかろう。

40歳を過ぎて、全くの異業種に移る、一から資格を取り直してというのもかなりつらいものだろう。それが痛みというなら受け入れるしかないのか。また、40歳前後でそれなりの管理職で収入を得ていた人が、転職した場合、収入は半分くらいになってしまうとも考えられる。それも痛みというのなら受け入れるしかないのか。

無駄といわれている公共工事や行政サービス、または各種の特殊法人などなど、そのどれも、そこに働いている人たちは「自分の仕事は無駄です」「私は無駄な仕事をしてます」と言う人は(よほどのことがない限り)いないだろう。みな、意義と価値があると信じて働いている。はたからの見え方と、中での見え方はまるで異なっているとは思うが。

翻って、自分を考えてみる。「あなたの業種は将来性がないから、他に移らなくてはなりません。1ヶ月以内に目処をつけて1年以内に新しい職場についてください。」と突きつけられたら? 何を頼りに動けるだろうか? それなりに忙しく、色々なものを犠牲にして今の境遇を手に入れたのに、「あなたの20年前の選択(あるいは30年前)は間違っていたのです。先見の明がなかったのです。生活水準を維持するのは諦めなさいと宣言されるのである。

こういう痛みの先に見える、景気の回復とは何か? のっぴきならないところまで達するのに、後少しという気がする。

これは国民である我々が望んでいたことなのだ。構造改革を手段として景気を回復させることが目的として。景気が回復すれば幸せになると皆が望んだんだよな。

2001年8月26日日曜日

ついにヤマハのレッスン休会にいたる

このごろ業務とプライベート両面が多忙につき、ヤマハのレッスンも月一度受けられれば良い方になってしまった。月一度に30分のレッスンで1万数千円のレッスン料は非常に高額であるので、熟慮した末、休会届を提出した。したがって、本日がヤマハでの小松先生のレッスンは最後となる。

最後だということだが、レッスン内容は相変わらず。吹ける曲が今はヘンデルしかないんでG-mollのOp1.Nr.2を通しで吹いてみる。指使いはそれほど難しくはないが、装飾を入れたりしてセンスよく吹くにはまだ程遠い状態。特にAdagio楽章を、自分で変装を加えて吹くというのは苦手だなあ。アーティキュレーションもまた先生と復習して色々試してみる。これもどうフレーズをつなげるかひとつで、曲のイメージが変るものだ。ここら当たりもセンスなのかなと思う。

小松先生のレッスンをはじめて、おそらく3年くらいになるのだが、ヤマハでの発表会も二度出たし、レッスンもガリボルディから始めてまあよくここまで続いたなとも思う。でも、ここから先に進むというのは、ひとつの壁を乗り越えないとダメなんだろうなと思い始めたことも確かだ。

ここから先というのは、分かりやすく言うと教則本的に言えば、ケーラーのミディアム・エクササイズに入る前というか、アルテスで言ったら2巻というところだろうか。アルテスの2巻は一通り習ったのだけど、指定テンポで正確に吹けたかというと、全くもって情けないばかりで、もう一度最初からやり直してもいいくらいの出来である。

教則本や練習曲を吹きたいからフルートを始めたわけではないのだが、基礎的な指の動きというのは、どうしてもネックになるし、T&Gみたいな地道な練習が是非とも必要なわけだ。

というわけで、レッスンがあると思うと笛も持って練習もするのだけど、レッスンをこなすだけの練習になりがちだし、これを機会に、もう一度やり直してみようかなと思っているところである。

しかし、趣味なんで急ぐ必要はないと思うものの、指や歯や肺が健在で笛をいつまで吹けるのかと考えたら、他の楽器よりは満足できる年数て短いような気がする。

学生時代にオケとかやっていれば、アマチュアオケとかに入りたいと思うけど、それも無理っぽいし、同じレベルの人とアンサンブルなんかできればいいと思うけど、時間・空間・人・スキル的に難しい。

私の習っていた小松先生は、確か今現在で72歳のはず。結構もう、いいおじいさんなんだけど、肌艶はいいし白髪のきれいなヘアスタイルで、姿勢なんかもしゃきっとしていて、しかも指も私より回るてんだから、うらやましいていうか、尊敬しちゃうよね。笛を吹くという行為と、レッスンで色々な人に常に接しているというのが、いつまでも若さを保っているのだろうな。


小松先生には、フルート協会でまた会う機会もあるけれど、とりあえずはありがとうございました。



2001年8月18日土曜日

クナッパーツブッシュのブルックナー8番

ワーグナー:「ローエングリン」Vol.1 第1幕前奏曲 ほか
指揮:クナッパーツブッシュ
演奏:ミュヘン・フィル
録音:1962(ブルックナー) 1963(ワーグナー)
DG Westminster

DGのWestminsterレーベルからクナのブルックナーとワーグナーが発売されていた。クナといえば熱烈なファンも多くクナの優れたHPもいくつか拝見したことがある。クラシック初級者である私はクナの演奏をほとんど聴いたことがない。

さてこの盤はリマスターテープ版なのであるが、クナッパーツブッシュの演奏よりも、録音されている音の広がりやクリアな音質に驚かされた。ブルックナーとワーグナーの音楽が絶妙のハーモニーで響き渡り、天上のような音楽を聴かせてくれる。弦の艶やかさなどにも一点の曇りもなく、例えばローエングリンの美しいことと言ったら・・・言葉にはならないほどだ。また、ブルックナーの壮大さときたらどうだ。改めてブルックナーの素晴らしさを認識させられる思いだ

とは言っても、「クナのこの演奏は…」などと恐れ多いことは当分書けそうにない。ただ、非常に充実した一枚であることは確かなようだ、ということだけは記さずにはおかれない。(「当たり前だ!!」と怒りの声も聞こえそうだが…)


2001年8月17日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第5番

指揮:バルビローリ
演奏:ハレ管弦楽団
録音:Dec 1952
The Barbirolli Society, CDSJP 1018(輸入版)

シベリウスの5番を聴くときに、その中に何を見出し何を聴き取ることができるだろう。まずは、シベリウス自身がこの交響曲の着想を得えたときの言葉が、曲のもつイメージを端的に言い表しているように思えるので以下に引用してみたい。


「深い谷間にいる。おぼろげながら登る山が見え始めてきた。するとその瞬間、神がその扉を開いて、神のオーケストラが演奏する…」(「北欧の巨匠」音楽之友社 より)


いかがであろうか、曲を知っている人ならば成る程とうなづくのではなかろうか。シベリウスが「神」をどのように認識していたかは分からない。彼の曲からは(他の交響曲であっても)大いなる自然に対する畏敬とも畏怖ともとれるような感情を抱くことがある。シベリウスはキリストのような「神」ではなく、もっと包括的な壮大なる存在と捉えていたのではないかと思う。5番交響曲を聴いた後に残る全身に満たされた喜びや至福の感情は、偉大なる存在を身近に感じたときに得られる満足感なのだろうか。

もう一つこの交響曲のインスピレーションの源泉として語られる体験がある。すなわち白鳥がシベリウスの頭上を旋回し陽光の照る靄の中を、銀のリボンのように消えていったというものだ。彼は「生涯で最も大きな感銘の一つ」と記しているが、この経験そのものを音楽から感じ取ることは難しい。しかし、3楽章が終了した後の感興がシベリウス自身の感じた感動に近いものだとするならば、何と素晴らしい体験だったのだろうと思わずにはいられない。

このように極めて音楽的純度の高い交響曲を聴くに当たって、これから紹介しようとしているバルビローリ&ハレの演奏が他を圧しての名演奏であるかは議論が分かれると思う。ライナーノーツによると、バルビローリは交響曲第5番を57年(本演奏)、66年、68年と三度録音している。彼のほかの演奏を聴いていないため客観性を著しく欠くとは思うものの、私はこの演奏から多くの豊なイメージを感じ取ることができた。

このコンビの演奏の特質としては、熱い演奏ではないが迫力は十分である。録音が古いせいでffの部分音が割れているのが残念だが、オケの勢いなども不足なく伝わってくる。全体的にリズムの歯切れが良く、また音の重心の高さは涼しさや莉莉とした整然さを感じさせる。ロマンティシズムに流れそうになる部分においても、一歩手前で踏みとどまっているようにも思え、好感がもてる。といって、感情の入り方が少ないわけではない。むしろこの曲に対する深い愛情に裏打ちされた演奏のように思える。

例えば3楽章のラストへ向けての盛り上げ方には繊細さと美しさの中から、音の大伽藍が築き上げられる様であり圧巻である。音響の悪さを差し引いても十分に堪能することができるのではなかろうか。録音が悪いといってもそれはff部分であり、各セクションの動きなどは比較的良く聴き取ることがでるためクレバーな印象を受ける。そのようなところが、色彩豊かに聴こえる要因なのかもしれない。

以上のように書くと上出来の演奏のように読めてしまうが、先にも書いたように、これがシベリウスのあるいはバルビローリの名演奏であるかは分からない。それよりも、演奏される曲が素晴らしいのだと思う。何度も繰り返し聴くたびに色々なものが見えてきたり感じられてきたりする曲であると思う。

��楽章の壮大なるラストに酔うも、2楽章の思索的な散歩をするかのごとき逍遥を楽しむのもよし、また鐘か打ち寄せる波のうねりのような音楽に身をゆだねるのもよしである。言葉には換言できない音楽的体験を得ることができる。

最後にふと気づいたのだが、1楽章の勇壮な主題に入る以前の部分、弦のトレモロの伴奏が不安気な感じを抱かせる部分がある。4番交響曲のようなとりとめのなさや、つかみ所のない動きをしているものの、前作との決定的な違いは、その先に解決や頂点がある点だ。この時期のシベリウスの精神的な充実度を示しているように思えるのだが、いかがだろうか。

2001年8月16日木曜日

靖国神社と東京裁判

昨日の日記の視点で欠けているものがあることに気付いた。それは、「東京裁判」というものについてである。「東京裁判」とは言うまでもない、連合国の戦勝国が日本の戦争犯罪人=国家の指導者を裁いたという裁判だ。そこでA、B、C級戦犯が裁かれた。東京裁判の正当性について疑問視する主張があることも薄々は知っているが、それ以上の深い議論にまで立ち入って調べたことは、恥ずかしながら私としては皆無だ。

しかし、ここにまで立ち上らなければ「靖国」問題の真相は見えてこないのではないかと思い始めた。C級戦犯とされた者たちの遺族は、断腸の想いであるかもしれない。何故に自分の肉親が「戦犯」なのかと、靖国の御霊になり終戦の度に慰霊されることがどうして他国から非難されなくてはならないのかと。

戦争犠牲者の御霊を祀り、慰霊するという行為は何なのか。さまざまな想いが余りにも重く交錯し、今の段階では何が正しいのか結論付けるのことの難しさを感じる。

一つだけ言えるとしたら、戦争責任を含めて日本においては、真剣に戦争という行為を教えられてもいなければ、子供たちに伝えてもいないということだ。

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1/1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。

シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。

なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。

そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。

終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。

しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。

いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。

特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。

先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。

2001年8月15日水曜日

13日の参拝と小泉首相の公約

「13日に小泉首相が靖国を参拝したことは公約違反だ、これからの構造改革を推進する上でマイナス要素を投げかけた。」と言うマスコミや政治家がいる。

昨日の筑紫哲也のニュースに出ていた自民党女性政治家(名前はわかりません)も「非常に残念、公約違反だ」と公然と批判していた。

舛添氏はこれを受け、「13日参拝と構造改革推進は別問題」「政治家は色々な意見を調整しつつ最終結論を出す」ものなので、構造改革という公約をトーンダウンするつもりはない、と答えていた。(ちなみに、枡添氏の靖国参拝に対する意見は「高度に政治的判断で評価できる」というもの)

私も、枡添氏の意見に同調する。もし小泉氏が公約とおり15日に参拝していたならば、私は小泉氏を全く理解することができず、むしろ恐怖をもって彼の行動を注視することになっただろう。

「中国からの抗議に屈したと思われたくない」などという意見も多いらしいが、これにも違和感を感じる。枡添氏も言っていたように、今回の一連の首相の言動は国際社会に対して説明可能であるとは思えないからだ。そのような理不尽なものを「公約」という一点張りで「厳守」することを要求するのはいかがなものかと思うのだ。

構造改革推進はそれはそれで、進めてもらいたいが、「間違っていた」ことには修正が必要なのではないか。そして、「間違っていたこと」を小泉首相は自ら説明する責任があるということだ。

それさえ行われれば、政治活動にどこに支障があろうか。


予想とおりの反日感情

ニュースを見ていたら小泉氏の靖国参拝に抗議してのデモや小泉人形を燃やすなどの反日行動が韓国と中国で行われたらしい。この反日行動が、ごく一部の人の間だけのもので一般市民は冷ややかなのか、あるいは、大多数がこの行動を喝采しているのか、本当のところはどうなのだろう。ニュースだけ見ると、規模や広がりについてほとんど伝わってこない。我々が受ける感情は「やっぱりな」ということくらいだ。

それにしても驚くのは、他国の行動に対してここまで過剰に反応する彼らの土壌である。それほどの反発が深い根のところにあるわけだ。行動を起こす人たちを見ると結構若い層のようだから、これは教育あってのことではなかろうかと思う。中国や韓国では、日本よりも詳しく戦争と靖国の関係を理解しているのだろう。

さらには、日本を迎合しようとしながらも反日感情を捨てきれないという何かしこりのようなものがあるのではないかと思う。それだって、教育が植え付けているのではないか?

例えば、「日本は韓国や中国を搾取してアジアで圧倒的に優位な立場を築いた」と認識しているとするなら、そういう歴史認識を教育で醸成しているわけだ。

翻って、日本人が米国やその他の諸外国の行動に対して、猛烈なる抗議をすることが一体あるだろうか。沖縄の問題にしたって冷ややかなのが現状だろう。これも教育のせいなのか、それとも、単なる無関心なのか。

やはり、他国との協調と国際社会での一員となるには、お互いの歴史観を理解することが重要で、その前提には、自分たちの歴史観を明確にする作業がぜひとも必要だと思うのだが。

2001年8月14日火曜日

歴史認識の違いと他国の干渉

8月14日の産経新聞 「正論 米バンダービルト大学教授 ジェームス・アワー」~日本の教科書の検閲はやめなさい、歴史の見方は国によって違うものだ」は、なかなか面白く示唆に富む。

中国や韓国からの指摘を「内政干渉だ」などと言っているのではない。歴史認識というのは各国によって異なるのが当然であり、さまざまな見方が容認されるべきである。その上で、他国の歴史観を含めて、総合的に判断できる(あるいは相互批判)ような土壌が重要だと言っている。


戦争という歴史的事実の大きさを考えると、中国、韓国、日本の教科書がそれぞれに異なった内容をもつより、類似した内容である方がより大きな驚きではないだろうか。(引用)


という意見にもはっとさせられる。我々は隣国のことを一体どれほど理解したり、知っているのだろうか。あるいは、そのような教育をされてきただろうか。

中国や韓国の人たちが、何故にこれほどまでに半日感情を持つのかを、学校で教えてくれただろうか。何かがゆがんではいまいか。


小泉首相の靖国神社 電撃参拝

小泉首相が靖国神社に13日、繰り上げ参拝を行った。

新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。

新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。

私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。

宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。

��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。

首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。

私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。

2001年8月9日木曜日

ピアニスト ウゴルスキのインタヴュー

「レコード芸術 8月号」に、ウゴルスキのインタヴューが2ページにわたって掲載されていたが、非常にストレートな歯に絹を着せぬ内容で、少なからず驚ろいてしまった。

いわく、ブラームスのソナタややシューマンのいくつかの作品は、それほど良くできていない。今までの演奏で満足いくものはなく、私が弾くのが一番である、しかし、ブラームスを弾くのは私の本意ではない。

いわく、ワーグナーなどは「裸の王様」ともいうべき音楽だ(皆がいいと騒いでいるだけで、全然よくない)、シェーンベルクやベルクの作品は、なくなっても私は気づきもしない。

いわく、スクリャービンのソナタは非常に優れた作品で、今は評価が低いが200年も経てば名曲になっているだろう・・・

などなど・・・。手元に冊子がないので、かなり私のコトバに置き換わっているが、非常に過激な意見であることに変りはない。ウゴルスキはまだ聴いたことのないピアニストで、最近DGより新譜が多く出されているので聴いてみたいと思っていたピアニストではあった。

それにしても!! なんたる発言だろうかと、驚きを通り越してあきれてしまった。レコ芸も、「名曲300選」なんておばかな企画を繰り返しているヒマがあったら、こんな面白いインタヴューを尻切れトンボみたいに終わらせず、もっとページを割いて欲しいものである。


2001年8月7日火曜日

小泉首相と米百俵と教育改革

8月2日の首相メルマでも、「米百俵」のことが取り上げられていた。

「米百俵」とは、今さら解説するまでもないが、北越戊辰戦争の時の長岡藩の故事である。食べるものに窮していた長岡藩に、支藩の三根山藩から見舞いの米が贈られてきた。しかし、長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないときこそ、教育に金をつぎ込むのだ」と言って、その金を国漢学校に注ぎ込んだ、というものだ。

つまりは、国を支えるの「教育の重要性」や「目先のことにとらわれない明」ということを小泉首相は強調したいんだろう。

しかしだ、小泉首相はそこまで教育に熱心なんだろうか。現在の義務教育の2002年の改定(学習指導要領の改訂)などについて、議論に上ることは少ない。

私は、2002年の指導要領改訂は、愚行にも近い改悪だと思っている。こう考えるのは、昔ながらの教育を受けたから、その枠組みから逃れられないせいである、とか、学校の勉強についていけない者の気持が分からない者の発言、とか批判的に考えることもできるかもしれないが。

しかし、それでもなおかつ思う。指導要領は改悪だし、今のままでは「米百俵」を腐らせるだけのような気がするのであった。

2001年8月5日日曜日

ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」

ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)

ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。

この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。

さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。

「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。

「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。

「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。

「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。

何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。

ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。

第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。

そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。

「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。

最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。

何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。

ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。

2001年8月2日木曜日

田口ランディ:モザイク

田口ランディといえば、ネットの女王というキャッチで呼ばれるくらいの人気者である。いわれは彼女のメールマガジンの読者層の広さからきているらしい。その彼女の初めて書いた小説が、昨年度の「コンセント」。当初から三部作にしたいと公言していたように、その後「アンテナ」そして本作品の「モザイク」と発表した。

「コンセント」は各方面から賞賛と驚愕をもって迎えられた小説だった。村上龍氏も絶賛しており、10年に一度の傑作とか、こういう小説を読みたかったのだと凄い褒め様だった。私も出てすぐに読んだが、「コンセント」は衝撃的な小説だった。引きこもりの兄が、自宅で朽ちるように死んだ謎を追い求めながら、自分探しの旅と現代の社会に生きる人を炙り出すような小説だった。

今回の「モザイク」にしても、三部作というだけあって、田口の考えている方向性はひとつであることが分かる。端的に言ってしまえば、現代に生きる若者=大人たちからは理解されがたい行動をとる若者や、猟奇殺人に走る少年達は、ほんとうは異常者なのではなく、情報社会といわれる現代で生き抜くための新たなOSを持ち始めた者たちなのだ、という論点だ。

また、主人公達は「コンセント」だったり「アンテナ」だったり、ある人たちに対して巫女だったり、アースだったりするような癒しの人物も登場させ、物語を構築している。そして、「世界は記憶で成り立っている」「記憶を作るために人間がいる」「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」などの大胆な発想を展開している。


今回の小説は、家庭内などで問題を起こす人達を説得し精神病院に行くように薦める「運び屋」を職とする主人公ミミが、輸送の途中で疾走を遂げた少年を探すというストーリーだ。しかし、それは救済とか病理をえぐるとか、異常者(というカテゴリー)を肯定するというものではない。

世間で「異常」と見られてしまった少年にただより沿い、彼の感じていることを主人公ミミを通して読者に見せてくれる。またそれが、いろいろな人の心の中にあるモザイクを共振させることにつながっているのかもしれない。

一見して現代の病理を書いているような体裁をとりながら、その背景や原因を追求しているわけではない。ただ、その病理(と彼女は考えていない)の横に寄り添い、話しを聞いてあげている、彼らの言うことを受け入れている、そうすることで作者のの世界観を語る、そんな小説なのだ。

田口ランディというのは、不思議な雰囲気を持った人なのだと思う。メールマガジンを読んでいても感じるのだが、彼女の文章を読んでいると人の持つ虚飾や見栄が剥ぎ取られて、純粋にからだというものが剥き出しにされてしまうように感じることがある。難しく頭で考えることが、卑しく感じられてしまうことがある。それは、彼女が身体性とか関係性(コトバには還元できない、もっと直接的に心に響くもの)を重視しているからなんだと思う。

そして、最後には決まって、なんだか自分が他者に対してやさしくなったような気にさせてくれるのだ。

もっとも、「渋谷の底が抜ける」「渋谷が電子レンジ化する」というコトバは衝撃的であるが、小説としては、「モザイク」には及ばないような気がする。少年の言葉が説明的であり、小説としてのリアリティを欠いているとは思うからだ。また、彼女の小説に共通の、ラストのありかたにも疑問を感じないわけではない。しかし、それは作品上大きな問題ではないのかも知れない。彼女の描く圧倒的な内実は否定する気持ちを無視して心を打つのだ。

現代が、ある人たちにとってはかくも生き難く、新たなOSが必要とされているという大胆なテーマには深く考え込んでしまう。私のように古いOSに育てられ、古いOSしか身に付けなかったものには、新しいOSで生きる人たちの社会を思い描くことは、四次元を想像するよりも難しいと思うのだった。

2001年7月30日月曜日

久しぶりに Andersen 吹いてみたら、全然できなくてしばし呆然

久しぶりに Andersen 吹いてみたら、全然できなくてしばし呆然。

こういうときは気を取り直して気楽に吹こうと思い、フルート名曲集300(アルソ出版やらドレミ出版やら音友とか、いろいろ出ているでしょ)を取り出して、頭から吹いてみる。

以前できなかった部分が、比較的すらすらと吹けたり、指も回ったりするんで「ああ、少しは進歩しているんだなあ」と、ちょっとだけ立ち直る。ヘンデルのソナタなんかも原譜と編集者がアーティキュレーションつけたものが併記されている。「な~んだ、ここにあったのか」とか思いながら吹いてみるが、装飾てのは難しいね。

出来ない曲は相変わらず吹けないのだが、ドビュッシーとかの仏蘭西物て、拍の数えるのも大変だけど優雅に吹くのってホントに苦手!! 原曲聴いていないせいもあるけど、仏蘭西物をバリバリ吹けるとカッコいいだろうなあと思う。(て、おフランスをバリバリなんて野蛮に吹いちゃだめですよね。


2001年7月29日日曜日

投票してきましたが

参議院選挙に行って来た。どこの党に投票するのか迷ったが最終的には民主党にを選択してしまった。小泉首相になって政治的空気は変革したものの、彼の唱える論点で以下が不明確であることと、政治的な健全性と対抗勢力(自民内ではなく二大政党という意味での)を保つという意味である。

小泉首相の論点で気になるのは、以下の部分である。

  1. 痛みを伴う構造改革は理解する(野党も理解している)が、それを実行するためのセーフガードが不明確、5年間530万人(だったっけ?)の雇用の創出という考えの不透明さ。また、痛みをどこの業種に向けるつもりなのか、不良債権処理についても党内で一致しているかが見えない点。(不良債権は大手ゼネコンと流通だと言い切る人もいるが)
  2. 靖国問題や教科書問題における近隣アジア諸国に対する、歴史認識の甘さと外交感覚の幼稚さ。
  3. 京都議定書に見られる優柔不断と対米追従型外交のあり方に対する疑問。
  4. アメリカのMD構想に対する政府方針(対米協力)に対する疑問(私はブッシュのMD構想を支持しない)
  5. ひいては憲法9条と周辺事態に関する見解への疑問。


郵政の民営化や道路特定財源などについては、どんどん進めていただきたいが、どちらかというと瑣末的な事項のように思える。自由党の小沢氏が唱えるように、これらを含めたもっと大き問題が横たわっている。「構造改革」は重要だと思うことには変わりない。

民主党がその全てに明快であるのかということでもない。民主党だって小泉首相への対応は何度か変わった。変革を唱える彼らでさえ自分たちの機軸を示しきれていないという印象だ。

しかし、小泉氏は「自分を選出した自民なのだから、私の唱える政策は自民も支持している」と言うが、これにも疑問がつくのだ。今の自民ではやはり将来の日本は成り立たないと思うのである。

小泉政権になってからの景気と株価の低下は今のところ判断材料にはなっていない。具体的施策が施されていないのだもの、景気がよくなろうはずがないではないか。竹中蔵相だって、一時的に悪くなることを肯定していたはずだ。

小泉内閣自体には、小泉首相と田中外相の人気で持っている雰囲気だが、二人に共通した協調性のなさと公私の発言の混同という、政治家としての資質を問われる部分が多く、危うい印象を受けざるを得ない。個人的には二人の政治家の登場には活目すべき点はあるもののだ。

さて、皆さんはどこに投票しただろうか。

フルートを夏に自宅(マンション)で練習するのって、結構つらいよな

フルートを夏に自宅(マンション)で練習するのって、結構つらいよな。北海道とはいえ冷房のない部屋で、隣りへの音が気になるから窓を締め切ってだろ、暑いし息苦しいし、歌口の部分は汗で滑るし・・・・なんとかなんないかねえ。という程には実は練習なんてしていなくて、あっという間に1ヶ月経ってしまった。練習していないことに気付くだけでも、Lesson日誌(月誌だろ)の意義はあるんだな、などと思う。

今月のレッスンは一回しか受けられなかったが、相変わらずヘンデルのソナタは Op.1 Nr.1b をやっている。十六分音符のつながりが上手く吹けない。「アーティキュレーションを色々と工夫して、メロディラインが浮き出るように」と言われるけれど、ばたばたとするだけで、ちっともエレガントにならない。指と舌も合わないし基礎練習がやっぱり重要だよなと思う。

アーティキュレーションのかけ方は、色々吹いてみて一番いいと思うように研究しなくてはだめだな。これって、センスとか趣味も問われそう。

Adagioの楽章は、即興で装飾などをするといいらしいが、これまたセンス良く吹くのって難しい。一番簡単なのは、間の音を付け足す(例えば、シーレという楽譜だったら、シ-ド-レと言う具合に)といいらしいけど・・・・

次回は Op.1 Nr.2 をやろうと思うけど、これはランパルのCDがあったんで、楽譜を見ながら聴いてみたんだけど、課題は多い!! ヘンデルのソナタが全部入った音盤てのも探してみようと思うのであった。

アンデルセンはこのごろ全然やっとらんなあ・・・


2001年7月24日火曜日

選挙が近いが・・・・


日本経済新聞社が29日投票の第19回参院通常選挙を前に実施した全国世論調査で、小泉純一郎内閣の支持率は過去最高を記録した前回6月調査(85%)から16ポイント低下し、69%となった。(6月23日 日経新聞)

そうである。約7割が支持という状況は、それでも依然として高支持率であることに変りはない。

小泉内閣が「構造改革」と「景気回復」をうたって登場してきたが、今週末の参議院選挙で、いったいどの政党に投票すべきかは今もってワタシ的には流動的だ。

小泉内閣は、外交問題については「対米路線」「アジアへの視点」のふたつの点について、大きな違和感を感じるし、彼の歴史認識と日本の位置付けの甘さは一国の首相としての資質を欠いていると思う。また、「構造改革」に向ける意気込みは認めるものの、具体策となると彼が一体何をしたいのかが見えてこない。骨太の方針は確かにある。「痛み」を伴うということも、与野党共通の認識だ。しかし、「痛み」の後が見えない。本当に任せていいのか、「骨太方針」の前提は本当に正しいのか? と思ってしまう。

かといって、民主党や自由党である。今でも一番しっかりしているのは、民主党だと思うのだが、鳩山さんと菅さんの論点も微妙に異なっているように思える。

一番の問題は、もはや「与党」「野党」とかの政党が、その政治立脚点であるはずの政策を含めて崩れてしまっているのに、誰一人としてその枠組みを今回は越えられない点にあるのではないか。小泉さんが「自民党にいなければ改革なし」というのも分かる。「加藤の乱」のときの彼もそういう立場だった。自由党の小沢さんなど、今の状況をどう思っているのだろうか。

政治家というのは、立場になると言いたい事を言えなくなるものなのか、とも思うが、例えば22日のテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」、各党の幹事長クラスが集まって討論を行っていたが、あの自民党の山崎さんでさえ、自らの立脚点を明確に示すことができないでいた。「極めて政治的発言」に慎重になるのは当然だと思うものの、政治家というのは、だとすると自分の考えを述べられないのか? ここからが、一体誰を支持すべきなのか曖昧にしてしまうと思うのだ。

2001年7月22日日曜日

伊島りすと:「ジュリエット」



こう言っては何だが、私は結構ホラー小説が好きである。かといって古今東西のホラーものを熟読しているほどの熱心な読者ではないが、昨今の「ホラー小説大賞作」などはある程度読んでいる。

だから、本書の帯び(下に引用した文章)に、「これは期待できるか!」と思い、「考えてみたら昨年度(2000年)は大賞なしだったものな」などというこも思い出しながら本書を読み始めてみた。

こういう小説であるからして、筋について言及するのは避けたいが、私的には今ひとつの感がぬぐえなかった。この小説をまだ読んでおらず、これから読もうとする人は、以下の拙い書評は読まないほうがいいと思う。
南の島で親子三人が対面した蘇る思い出たち。
狂おしく、切ないまでの、異常な世界・・・・
ホラー小説史上にエポックメイキングな作品として
新たなページを刻み付ける名作、誕生!
「感想は?」と聞かれれば、面白いし質の高いエンターテイメントに仕上がっていることは認める。しかし、プロットの根幹がスティーブン・キングの「シャイニング」と「ペット・セマタリー」の合作のような雰囲気を漂わせており、新規性を感じない点はマイナスだ。

「ペット・セマタリー」を読んだことがあるならお分かりだろうが、蘇る死者というテーマは私には好きになれない。それも単なる幽霊とか言う形ではなく、人の一番大切にしておきたい、または、辛すぎて思い出したくない「思い出」を題材にしていると言う点で、読み進めるのが苦痛になってしまう。これは個人的な感情だとは思うが・・・・こういうテーマは心情的に受け入れにくいのだ。

S・キングの「シャイニング」は、非常にすぐれた小説であったが、この小説はそれほどのパワーも完成度も見られない。もっとも、作者は「シャイニング」を意識などしていないかもしれないが。

こうして書くと”全然ダメ”なようにう感じてしまうかもしれないが、実際はそうではない。読み始めたら止められなくなるような魅力に富んでいるし、一気に読ませるだけの筆力は十分である。特に水字貝の「魂抜け」のエピソードは、小説の一番の核となる部分であるが、ここの書き方はなんとも憎いまでに成功していると言える。後半のココ(主人公ルカの友人)が蘇るあたりなど、気色悪いがホラーとしての怖さは十分である。

ただ、小説に多くの要素を盛り込みすぎているのという気がしないでもない。主人公たちが阪神大震災の心的障害を負ってしまっているということは、小説家に多くのイマジネーションを与えるのだろうか、貴志祐介の「十三番目の人格」を思い出す。また、主人公健次の失業やバブル崩壊の傷跡、母親の幼児虐待と娘のルカの自傷行為など、一見して現代の病理を組み入れているように思えるものの、その掘り下げ方は甘く、どういうホラーを書きたいのかが見えてこない点にもどかしさを感じる。ストーリーのラストに向けての緊張感はあるものの、意外性はほとんどない。また、タイトルの「ジュリエット」というキーワードが全く生きていない点も残念だ。

伊島りすとの他の作品は読んだことがないが、むしろホラー以外でじっくりと小説を組み立てたほうが良いのではないかと思える。そんなわけで、本書帯の「ホラーの新たな領域」と言う点には、全く賛同できないものの、作者の次回作については期待してみたいと思わせるのである。

ブラームスの交響曲を久々に聴いてみたが・・・

シベリウスの4番というウニョウニョした音楽ばかり聴いていたら、急に独逸系の正統的な交響曲を聴きたくなった。ここはやっぱりブラームスとばかりに、久しぶりにワルター指揮 コロンビア交響楽団(1960)の演奏で2番と3番を聴いてみた。

この演奏がブラームスの名盤であるかは論が分かれるだろうが、私にとってはブラームスを(ベートーベンもそうだが)まじめに聴くきっかけとなった「名盤」である。

ブラームスの2番や3番は、名曲であることは認めるものの、1番や4番に比べて地味な印象がないわけではない。しかし、シベリウスを聴きつづけた耳には、骨格のしっかりした、まるで両足で地をふんばっているかのような安定感と、堂々とした物凄い立派な曲に聴こえて、改めて驚くのであった。構成美と言ってもいいのかもしれない。切々たる旋律もあるが、全体の流れの中で破綻せずに訴えかけてくる。それが心地よいし安心感がある、ととれる反面、余りにもストレートすぎて気恥ずかしさを感じないわけでもない。

こういう交響曲が独逸の伝統だとすると、シベリウスの音楽というのは、極北の音楽であると称される意味もわかるというものだ。どちらが良いとかの問題ではない。目指した音楽性も、そして時代背景も全く違うということだろう。ワルター&コロンビアの演奏は、ブラームスを熱くそして独特の粘りをもって分厚い演奏に仕上げており、非常に満足のゆくものだ。ただ、ひとつだけ気になるのは音質なのだ。

私の聴いている盤は、SONY(SRCR1663)20bit Mastering のものなのだが、特に弦の音がシャリシャリとした金属的なトゲトゲしい音に聴こえる。マスタリングのせいなのだろうか、弦は決してこういう音は出さないだろうと思うだけに、惜しまれるのであった。


2001年7月20日金曜日

アムランのピアノ バーミンガム市響による ブゾーニのピアノ協奏曲

Prologo e intorroito (15:38)
Pezzo giocoso (9:47)
Pezzo serioso:
Introductio (4:02) Prima Pars (4:43)
Altera Pars (11:30) Ultima Pars (2:57)
All'Italiana (12:17)
Cantico (10:50)

指揮:マーク・エルダー
ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
演奏:バーミンガム市交響楽団
録音:June 1999
hyperion CDA67143 (輸入版)

「レコード芸術 6月号(2001)」に『名曲!?奇曲!? ブゾーニ《ピアノ協奏曲》の魅力 M・A・アムランによる日本初演事件簿』(高久 暁)として、この曲が紹介されていた。アムランといえば、超絶技巧のピアニストとして知られている。音楽関係のBBSなどを眺めていると、賛否あい半ばする形で語られているのを目にするが、高度な技術を有する演奏家にはよくあることだ。

ピアノ・パートは難しい、と言うも愚かなほど難しい(長木誠司)というブゾーニのピアノ協奏曲をアムランが演奏しまた録音したというのだから、モノ好きだとは思うが聴いてみたいと思うではないか。さっそく、札幌のPALS21に出かけてCDをゲット。店員さんに「アムランに興味があるのですか?」と聞かれても、なんだかアムラン買うの初めてですと言い出せず、「はあ・・」と曖昧な返事を返すのみであったが、親切にもhyperionのチラシを渡してくれた。心の中で(ええ!? こんなにCD出しているんだ! と恥じ入る)

さて、まず聴いてみて非常にびっくりした。ブゾーニというから知的で緻密な音楽が展開されているのかという、訳のない先入観を持っていたが、ものの見事に覆された。なんだか良く分からないけど凄い、かっこいいと思った。爆発するようなエネルギーを撒き散らしているような男性的な音楽だ。

何度か聴いてみたのだが、繰返し聴くにつけ、すさまじき音楽であると思う。力強さ、爆発するパワー、グロテスクさ、はじけるような陽気さ、春の祭典的な雰囲気さえ漂わせながら怒涛のごとく進む音楽の威力には圧倒されるのみだ。不勉強にして知らなかったが、ブゾーニはイタリア人であるらしい。そう思って聴いてみると、これまた先入観のなせる技か、レスピーギのローマ三部作をふと思い出しながら聴いてしまう。(曲は全然似ていないけどね)

解説は英語なので、レコード芸術と、拙い読解力で把握したところによると、この曲は全部で五つの楽章に分かれている。第1楽章は「プロローグと入祭唱」、第2楽章は「おどけた楽曲」、第3楽章は非常に長く「厳粛な楽曲」「序奏」「最初の部分」「次の部分」「最後の部分」に分けられている。第4楽章は「イタリアの風に」そして第5楽章はデンマークの作家、エーレンスレーアの「アラーへの賛歌」が歌われる。

ブゾーニ自身の妻に当てた手紙によると、1、3、5楽章は三つの建築物を意味し、間の二つはスケルツォとタランテラを配した構成だという。三つの建物はそれぞれ、"Graeco-Roman"、"Egyptian"、"Babylonian"とされているらしいが、私にはそれらを視覚的にイメージできる知識はない。

レコード芸術の長木氏とのインタビューで、アムラン自身が作品のパワーや魅力は正しく演奏すれば自ずから分かる音楽作品に付いて絵画的あるいは思想的な連想や考えは持ちません。それは結局音楽そのものではないので…と語るのは意味深い。しかし、聴きながらどうしても、「言葉」による手がかりを求めてしまうことを避けることができない。

これらの曲からイメージされるものは、壮大にして荘厳なるイメージやら(1楽章)、非常に暗くグロテスクな舞踏であったり(2楽章)、荘厳にしてかつ暴力的なまでのカタストロフィクを感じたり(第3楽章)、猛烈なエネルギーの爆発による生命力の発散だったり(実際「ヴェスヴィオス火山の噴火」とされる)、自然の神秘に対する畏敬だったりする。また、爆発するばかりではなく、ピアノとしての美しさも十二分に堪能できるところも多い。

第四楽章の圧倒的コーダの後に配置された、長調から短調に至る非常にテンションのピチカートの戦慄(not 旋律)や、ピアノのことなど何も知らない私には理解できないくらいテクニック的に難しいらしい、重音のトレモロやら畳み込むようなピアノの轟き、圧倒的なカデンツァなどなども舌を巻く(アムランが「殺人的」というくらい)。第5楽章コーダの男性合唱の美しさと力強さといったらどうだ。

とにかく上品な曲ではない、名曲でもないかもしれない。しかし、この圧倒的な恐ろしく南イタリア的な太陽と空気が、さながら熱風のように聴く物の体を吹き抜けてゆく快感!

ブゾーニ自身が、「建築物」にこの曲を例えたように、通して聞いてみてもまた、ある楽章だけ取り出して聴いても、骨格がはっきりした(ある部分ピラミッド的な美しさを感じる)音楽に聴こえ、決して奔放にして放埓なだけの音楽ではないことも確かだ。従って聴いた後には、何と言うか壮大なる旅をしてきたかのような満足感に浸ることが出来るのだ。ああ、イタリアに行きたい!と思うよ。

もはや、こればかりは聴いてもらうしかない。他に類例がないと思われるこの音楽を言葉にするには余りにも語彙が不足しており、これ以上書き続けることの限界を感じてしまうのであった。

選択するとしたら その2

以前に書いたこと(7月16日)の繰返しになるのですが、再び思うことを書いてみます。

村上氏の前提は、競争社会と階層差の発生を容認することが前提だと思うのです。競争するかしないかは個人の自由であるとしても、全ての人がそれを放棄することはあり得ません。結果として非常に高給をとる人たちと、そこそこの人たちに分化すると思います。

年収2億円の人と、年収200~1000万円程度の人(大部分でしょう)が一緒の場所に住めるとは、到底思えず、ローカルな都市としてのセキュリティや階層化ということも発生するのかもしれません。今でも入りづらい店や会員制などの場所は存在しますが、前提として「入ることが出来ない領域」が増加するかもしれません。現にアメリカでは、ゲートで街に入る人をチェックするように囲い込まれた都市が存在すると聞きます。もっとも、日本では狭い土地しかありませんし、都市の成り立ちを考えても、そうは(したくても)ならないという気もしますが。

これらの社会構造が、不公正感(公平にはならない)なしに実現されなくば、階層間(日本に階層がないという考えはもはや幻想でしょうか)での不満は増大し、今までになかった形での犯罪が増加するかもしれません。教育に対する投資ということで考えると、ますます階層差を助長する仕組みになってしまい、教育を受けられる層と受けられない層に分かれることも考えられます。

教育投資や教育闘争から離脱して、それでも年収2億を得たいという人はいるわけで、芸能やスポーツ面、芸術面などに競争の場を移すでしょうし、棚ボタ的な報酬を期待する人も増えるでしょう。

金持ち(ああ、嫌なコトバ)の家庭が世間体とは裏腹にバラバラで精神的には決して幸せじゃないとか、ヘッジファンドで高額な報酬を得たエリートが自分の仕事の虚偽性に不満を感じるとか、忙しさの中に自分を見失っていると気づくとかは、ドラマ的ではありますがステロタイプ過ぎて実態を表しているようには思えません。たぶん、彼らの多くは不満の方が少ないんじゃないかと思います(あくまで 多分)。

容認するしないに関わらず、競争社会というのは、勝者には幸せかもしれませんが、非常に救いのない社会構造のように思えるのです。

物質的、刺激受容型の幸福のみを求めるならば、年収2億円の人が幸せなのは自明かもしれません。それぞれの階層(ああ馴染めないコトバ)の人たちが、それぞれに幸せを感じ取れる社会というのは、人は何を持って「幸福」と感ずるかという問題に行き着くと思うのです。

人は一人で生きてはおらず、その存在を誰かに認められることで生きています。それは強者だろうが弱者だろうが大人だろうが子供だろうが、根本は同じだと思います。誰かに認めて欲しいということは、誰かを認めることで、それは人と人のつながりの相互の関係です。「努力の報われる社会」とはよく言われますが、「努力して報われなくても、認めてくれれば」救われるものです。

自分の仕事(家事にしても)が、誰かの役に立っていると思うから誇りも生じるのです。自分の仕事を「凄いね」とか「ありがとう」と言ってくれる人がいるから、やっていけるのです。

人が人として幸福を感ずるということの基本は、こういうことだとは思うのです。でも、そういう甘やかな理想論だけでは生きてはいけないのです。人は幸福感とともに刺激も求めてしまうのです。

そこで、なのです。あるべき社会の理想型というのは一体だれが示すことができるのかと考えてしまうのです。政治家は社会の仕組みを作りますが、現状では思想までは作りえないでしょう。(政治というのは高度な思想集団だと個人的には思いますが・・・・) 宗教が廃頽(と言うと怒られるでしょうが、一般論です)した今では宗教家でもだめですね、彼らとて経済幻想の枠組から自由ではありません。

社会の枠組みにつかりきった私のような親は、子に何を示せるのでしょう?

村上 龍の主張

村上龍のメールマガジンはご存知だろうか?JMM [Japan Mail Media]として、毎週非常にハードな内容のメールが送られてくる。

No.123 Wednesday edition のラストでの村上の提言は、今月私が引っかかっていた問題を、ものの見事に言い切っているので、一部を引用したい。


まず競争社会の中で戦っていくのか、それとも自分の好きな道を極めていくのか、その二つくらいの道筋は示していかないといけないと思います。競争社会に適した人と適さない人がいますから。それに加えて、別に全員が競争の中で生きていかなくてもいいんだとアナウンスすることで、すごく楽になる人がいると思うんです。本が好きだったら図書館で働けばいいし、花が好きなら花屋さんで働いてもいい。そういう生き方が、年収2億円より劣った生き方では決してないということを、誰かがアナウンスしないといけないと思います。


ところでです。例えば図書館や花屋で働く収入の低い(と言い切るのも何だが、今は二極論での話なので、例えとしてです)人の生活が、十分に幸せであることが保障されている必要があるわけです。少なくとも、生活を楽しむことが出来るだけの余裕がなければ成立しない考えでしょう。また、職業に対する「誇り」と「尊敬」も必要です。

物価水準や社会保障制度、公的施設の充実度、税率の問題、さらには教育(内容と教育への投資金額)と社会道徳的な問題など、非常に多くの要素が立ちふさがってるような気がします。

個人的には、仕事は住宅から30分以内の職場で午前8時から14時まで働き、帰って昼寝して、夕方から自由な生活を楽んだり、地域活動やボランティアをできるような生活(まるでイタリアかスペインのよき時代か)が理想ですなあ・・・全く程遠い生活しているけど。

村上龍のメールマガジンは、下記で申し込み出来ます。

【WEB】    http://jmm.cogen.co.jp/

2001年7月18日水曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第4番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Sep 1995
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)

シベリウスの4番は本当に暗く救いのない音楽なのだろうか。今まで、デイヴィス、カラヤン、マゼールと聴いてきたが、これらの演奏は暗さだけではなく静かな煌きを感じさせる演奏であるように思えた。

ベルグルンドの盤も、どちらかというと美しさや静謐さが強調された演奏であると思える。加えるに、先の盤と比べて決定的なのは、ベルグルンドとヨーロッパ室内管で奏でられる音楽の純度の高さと、孤高という言葉さえ浮かぶような美しさ、そしてシベリウスの音楽に対する深い造詣のようなものさえ感じることができる演奏であるということだ。

端正さという点では、思わず居住まいを正して聴かざるを得ないような雰囲気さえある。演奏自体に贅肉がなく、室内楽を聴くかのごとき簡素さを感じるが、それが何と曲の雰囲気に合っていることだろうか。以前にも書いたが、オケの響きには雑なところや粗さは全く発見できず、完成された美しはまさに特筆ものである。隅々まで神経の行き渡った演奏からは、暗い楽句であっても救いや解決のないというイメージよりも、深い思慮に沈む哲学的静けさを感じる。いろいろな人が「別格級」と称する意味が分からないでもない演奏である。

第一楽章冒頭の低弦とチェロの響きは本作品を特徴付ける部分だと思うのだが、この演奏からは余計な感傷や感情のようなものを感じず、虚空に投げ出されたかのような所在無い印象が受ける。その枯れた感じは極限まで切り詰められた緊張感に満ちており、何かひとつが加わっただけで崩れてしまうかのような、純度の高さを感じる。続いてかぶさるヴァイオリンの透明な美しさには宇宙的な広がりさえ感じ、音楽のイマジネーションの豊かさには陶然としてしまう。

曲の解説などによると、風光明媚で知られるコリへの旅行から曲のインスピレーション得たことに言及されている。シベリウスの音楽はR・シュトラウスのような標題音楽ではないことには同意するが、一方で過度に作品の成立背景を解釈の足がかりにするのもいかがなものかと思う。確かに聴きようによっては、視界がひらけたかのような音楽的な広がりが、「アルプス交響曲」にも似た感興を湧かせる部分がないわけでもない。しかし、音楽のありようと演奏を聴く限りにおいては、ベルグルンドは何か音楽そのものを忠実に演奏しているようなスタンスを感じるのだ。そこから湧き上がってくるのは、純粋に音楽的な満足と広がりである。

第二楽章にしても、風景描写的な演奏と感じるのは聴き手のイメージのふくらみ、あるいは思い込みのせいだろうか。俄かに翳をさすかのような音楽の移り変わりにしても、浮き沈みする感情の振幅と感じさせる場合もあれば、北国の短い夏を思わせる場合もある。しかし、音楽に深く耳を傾けるならば、そのどちらもイメージは正しくないのだと思い至る。あるのは、流れ行く音楽だけだ、この楽章も言葉には還元できないことを知らされる。

第三楽章はフルートの調べやホルン、チェロの響きがあたかも幽玄の世界をさまようかのごとき感がある。フィンランドの深く暗い森の中を、あてどもなく逡巡する姿や、楽章最後に現れるテーマが断片的に見えるさまは、霧の中から垣間見える雄大な景色か、あるいは作曲者自信の哀愁の感情表現なのだろうか。風景描写的と思って聴けば、そう聴こえるし、過度に思い入れを入れると、あたかも悲愴なる運命との出会いのようにも、シベリウス本人の嘆きにも聴こえる。

シベリウスはこの曲を「心理的交響曲」と呼んだらしいが、これにさえそれほど拘泥する必要はないのかもしれない。主題群が断片から姿をあらわし始めるさまなどは、ここでも宇宙的な創造を、あるいはブルックナー的な峻厳ささえ漂わせているではないか、何と美しき音楽であることか。もしかすると、この楽章はシベリウスの書いたレクイエムなのではないだろうか。

終楽章の明るい煌きから、全てが解体され殺ぎ落とされるラストの対比も見事である。今までの虚飾や光を全て失い、丸裸の状態で放置されるという音楽のありようは、残酷さや救いのなさを感じる人もいるかもしれない。しかし、ラストは決して孤独や絶望、諦めだけではなようにも思える。

もっとも、以上のイメージとて、これを聴いたときの感情に支配されるものだろう。ただ、ひとつだけ言える事は、交響曲第4番というのは、暗いだけの音楽ではなく、素晴らしくイマジネーション豊かな世界であり、また北欧的な美しさや静謐さ、北国的な生命力や死生観、人生における喜びや哀しみ、感情の振幅など多くの要素を、非常に凝縮した音楽に結実した稀に見る名曲なのではないか、と思い至ったのである。地味目の曲だが広がりはまさに宇宙的なのである。

繰り返すが、まさにそういう印象を与えるという点においても、ベルグルンドの演奏は別格級であるのかもしれない。こうなると、暗さの極致といわれるケーゲル盤をぜひとも入手して聴きたくなるのであった。

2001年7月17日火曜日

外務省のタクシー券 水増請求

外務省の信用を地に落とすかのような(マスコミの書き方)事件がまた起きた。タクシー券を水増し請求して(それも2000万円!)、着服していたという言語道断とも言うべき破廉恥さである。

新聞報道を読んで、怒りに震える人も多いだろう。

しかしなのだよ、狭い会社や官僚などの組織において、常識・当たり前のこと・皆がやっていること、という感覚で罪悪感が麻痺していたんじゃないか、と思うのだ。

あなたの常識は世間の非常識

ということはあらゆる場面で自省しなくてはならない格言だ。突然に悪は生まれない、生むための土壌は存在しているのだ。

外務官僚のモラルの低さに怒りを発する以前に、自分の常識の正しさを自問せざるを得ないのであった・・・・それは、公的保護や既得権益など、今構造改革の槍玉に上がっていることにも普及する事項であるのだ。

唾を吐くのは天に向かって吐くのと同義、いつかは自分にも降りかかってくるのだ。

2001年7月16日月曜日

努力と成果

年功序列から能力主義への移行は、私の勤める旧態依然とした会社でもささやかれ始めた考え方だ。

「努力すると報われる」というと聞こえは良いが、つまりは「努力しない者は報われず」「努力しても成果を上がられなかった者も報われない」ということを意味している。

企業によっては、行き過ぎた成果主義(結果重視)から、経過も重視する方向での評価制度を導入し始めた企業もある。望ましい方向のように思えるものの、「評価」の客観性を更に難しくするものという懸念もある。いずれにしても、「勝ち残る」者はごく少数であり、あなたも私も、勝者たることはないという世界だ。

このような世界が、「望ましい方向」なのだろうか・・・・??? 企業も政治家も、どんな社会がお望みなのか?今の私には、何が薔薇色かはわからない。

ところで、努力をするかしないかは、個人の選択である。公平ではなく公正な社会とは、機会がだれにも均等である社会であるのかも知れない。しかし、既にして、生まれたときから人は機会均等ではない。機会が均等でなければ、望ましい方向とは、敗者(というと語弊があるが)復活できる社会であるか、ということになるのだろうか。

そういう観点から今の社会の仕組みを見たときに、二世議員が跋扈する政治家達に、敗者ならざるを得ずにいる人たちのことが分かるだろうかと思いはじめた。

いや、そもそもだ。ここでいう「敗者」とは何のことなのだと自問せざるを得ない。地位と権力と財力が得られれば勝者か? しかし、それではばかばかしすぎる。

「努力の報われる社会」とは良く言われるが、「努力」を何を求めてするのか? 努力しなくちゃダメなのか? 全てが分からなくなってくるのであった。

久しぶりに書き始めたら、考えが発散してしまった。こういう袋小路的な考えに陥るということは、今の社会に哲学や宗教的などメンタルな部分が欠如しているからという気がしないでもないのであった。だからと言って、五木寛之とか池田大作なんかの著書を読もうなんて、思いもしないけどね ♪(*^-゚)⌒☆

選択するとしたら

共産党は好きになれないし、どうも論点がぼけていて、どうにもならないと思うことも多いのだが、彼らは「ワークシェアリング」ということを提案していたと思う。

ワークシェアリングとは、一人で今までやっていた仕事を複数の人に分け与えてこなしましょうという発想で、私の記憶が正しければドイツ(西)などで実施していた考え方だと思う。

当然、一人あたりの賃金は減るわけだが逆に自由時間は増えるというわけである。考え方は雇用の創出ということにあるのだが、共産党は「サービス残業をなくして、仕事を分け与える」とか、すこしズレた感覚で提案していたように思う。

共産党の主張がどうかはさておき、賃金が今の半分となるが仕事時間も減るか、賃金は今のままだが、労働時間も今か今以上というのを選択しろと言われたら、どちらを選ぶだろう?

そのときの物価水準がどうなっているのかという問題もあると思うが。豊かな生活て、なんだろうと、やっぱり思うのである。

最近の朝日新聞で、日本の企業も、優秀で企業を引っ張ってゆくゴールドカラー(当然、高給である)と、そこそこの業績だけど給与もそこそこという層に二極分化する、同期であっても年収で1千万円以上の差がつくこともあるかもしれない、と書いていた。

考えてみれば、今の教育制度にしたところで、一握りのエリートとそれ以外のフツーの人を作るという方向で進んでいるように思える。

どちらに入るのが幸せなんだろう?

党首のTV討論

参議院選挙まであと2週間。昨日の日曜日の朝は、NHKおよびテレビ朝日で党首すべてがTV出演し、論戦を張っていた。私はNHKの方は観なかったが、「サンデー・プロジェクト」はなかなかに面白かった。

その中で、司会の田原さんがしきりに「YesかNoか、やるのかやらないのか」と二者択一的に回答を迫っても、相変わらず回答を濁す小泉首相の答弁が気になった。首相たるもの、おいそれと白黒つけることは難しいのだろうが、首相としての真意と自民党の真意の微妙なずれを、浮き彫りにすることができないもどかしさを感じた。

一方、野党の方は野党で、扇国土相に「選挙のためだけの団結、不良債権処理さえ意見がばらばらではないか」と指摘されるように、足並みの乱れとスタンスの不確かさが逆に露呈してしまったように思える。国会の党首討論よりもよほど面白いと思うのは私だけだろうか。

さて、それぞれの政党の論点を書く気はないが、「痛みを伴う構造改革」とは「倒産し失業する可能性」であることを出演党首は全て認識していたし、与野党含めてそれを「止む無し」とする姿勢も明らかにはなった。それならばである、50万人の雇用創出にしても、セーフガードにしてももっと具体的な対策として打ち出されなければ、本当に未来があるのかは見えてこない。5年後に自分は失業していないと言い切れるだろうか?

さて、ここで、全くレベルの違うことを、ついつい思ってしまう。以上の議論は、「発展すること、進歩することが是である」という、前提のもとに全ての議論は展開されている。そうなのだ、京都議定書の件についてもなのだ、「進歩しつづけること」が前提なのである。それは人間社会が高度に経済的な活動に置きかわっているからだけではなく、「常に進歩しつづける=新たな刺激を求めつづける」動物としてプログラムされてしまったことからくる悲劇なのだろうか・・・と。

2001年7月10日火曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第4番

指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:4/1968
EMI DECCA POCL-6043 Legends (国内版)

マゼールの演奏は、数あるシベリウスの録音の中でどのような位置付けだろうか。少なくともシベリウスの名演という点では候補からはずされてしまうかもしれない。しかし、チャイコフスキーの交響曲の特集でも感じたのだが、この時期のマゼール&ウィーンの演奏は若さと切れの良さが程よくマッチし、多少粗削りな印象を受けるものの、曲の持つ構成を見事に浮き彫りにしてくれる名演であると感じる。全ての音が明確に聴こえ、複雑な音楽の見通しが非常に良いことも演奏の特徴だと思う。音楽が余計な感情を抜きにして聴く者にせまってくる迫力があるのだ。実際、解説によると当時の評価としてはマゼールのシベリウスの全集の中でも4番の評価は非常に高く「この音楽の神秘に近づいたビーチャム以来の初めての指揮者」とされたらしい。

第一楽章の出だしから切り込むよな激しさが感じられ、続くチェロの音の枯れた音と低弦の支えには、一切の妥協のなさを感じる。そこから立ち昇ってくる金管の和音にも厳しさと激しさを感じ慄然とさせられる。音楽により導かれた先は、澄み切り凍てついたかのような虚空の世界さえ感じ取ることができようか。しかし、何と美しい世界であることか。

第二楽章のスケルツォをどう考えるかは演奏のポイントかもしれない。マゼールの演奏からは、素早い動きの中から生命感や若々しい躍動感を感じ、前向きのムーブメントを表現しているように思える。不安さはすぐに翳を落としはするものの、ポジティブな方向での音楽作りを目指しているように思える。また、この楽章については、やたら懐古的や田園風に描写するのを避け、むしろ推進力を前に出し厳しい走句を形作っているように聴こえ、それがかえって心地よく響く。

第三楽章の冒頭はフルートの主題が象徴的である。続くホルンの音色を契機に深く想いに沈んでゆくような音楽つくりは曲想に従順であるように思える。時々現れるチェロのテーマは、ここでも何の飾り気もなく澄み渡り、あたかも波ひとつない湖面を眺めるかごとき静謐さがある。後半になりテーマが展開され大きなさざ波が立ち始めるが、ここでもマゼールは感情の波を押さえ込み冷静に棒を振っているように思える。感情の波は山を迎えても崩れることはなく、再びうちに秘められてゆくのだ。クライマックスの苦悩でさえ救済を求めるかのように吐露しているが、一人日記に感情をぶつけているかのような感がある。

第四楽章はマゼール盤でも鉄琴が使われている。音楽は素早く進行してゆく。この楽章でもそうなのだが、とにかくマゼールの演奏はイキがよく勢いが最大の魅力だと想う。さらに先に述べた音のクリアさと構成の明快さにより音楽的にスリリングに仕上がっており、辛口にして全く退屈しない演奏に仕上がっている。後半に明るさが消え失せてゆく部分の劇的さは余りにもドラマチックで、背筋に刃物を突きつけられたかのような冷ややかさと恐怖さえ感じる。

もっとも、4番へのアプローチというのは、苦悩や暗さよりも、むしろ明るさと推進力に重きを置いた演奏に聴こえる。ムダを配したキリリとした(多少、粗いという印象も受けるが)音作りは辛口の印象を受けるが、演奏解釈的には希望をもたせた演奏であると感じる。ラストにしても救いが全くないという終わり方ではないと思える。

2001年7月9日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第4番

指揮:ヘリベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:12/1976
EMI TOCE-3441 Grandmaster Series (国内版)

この演奏は、1976年のものでカラヤンのシベリウスの4番としては最後にして3回目の録音でのものである。カラヤンがシベリウス指揮者の一人であるということは、定評のあるところだ。カラヤンはこの演奏からはシベリウスの何を抽出したであろうか。

第1楽章からそうだが、デイビス版よりもゆっくりとしたテンポで演奏されている。そのため、デイビスを聴いた後に聴くと、雄大さやオーケストラのハーモニーを心行くまでに堪能することができる。また、カラヤン流というのであろうか、ティンパニの響きも激しくまた低弦部分は地響きのような迫力で迫ってくる。また他の演奏でもそうだが、アダージョな部分は耽美的とも言えるほどの美しさで思わずため息がでるほどである。しかしそれゆえにというのが適切かはさておき、デイヴィスで感じたような怜悧さは感じられない。

第2楽章の出だしにしたって、ゆったりとしたテンポは変わらずにオーボエが旋律を奏でるが、田園交響曲を聴くかのような趣さえ、ひと時だが感じてしまう。いや田園的な情緒というよりも都会でワルツを踊るかのような趣のほうが強いだろうか。上品にして典雅であるが、さらに豊穣さを感じる。考えてみれば、シベリウスが死の予感に打ち震え、社交界での思い出に浸っていたという解釈だって間違ってはいるまい。この楽章でもそうだが、表現の幅はあざといほど大きく聴く者をのみこんでしまうかのような迫力だ。

第3楽章は「瞑想的な雰囲気」とか「非現実的な雰囲気」「内的緊張感」などが特徴と本CDの解説には記されている。確かにもの思うかのようなフシや、抑えられたものを感じる部分もある。しかし、どうしてもチェロ以上の弦が奏でる、この楽章全体を貫く主題が強く支配しているように感じてしまう。この交響曲で唯一覚えやすいモチーフであるからかもしれないが、姿や形を変え、色々な断片で演奏されるこのモチーフはシベリウスの散り散りになった思いの現われだろうか。楽章後半で全容を表すさまは、巨大な氷山のごとき寒々とした巨大な感情の塊りを見るかのような気にさせられる。カラヤンは実に見事に、最後の収束に向けてこの楽章を組み立てている。しかしながら聴いていて、R・シュトラウスの交響詩を聴いているような気にならないわけでもない。「あれ、これはシベリウスだったっけ?」てね。

第4楽章はこの演奏でも鉄琴(グロッケンシュピール)が愛らしい。本来は鐘(グロッケン)が使われるような指示らしいが…デイヴィスも鉄琴だったな。カラヤンはエネルギッシュにしてエモーショナルにこの楽章を開始しており、3番以前のシベリウスの曲を彷彿とさせ心地よい。中間部の弦の刻みにのった曲の推進感は見事で、さすがと思わせるつくりだ。オケも十分にドライブして鳴らしまくり分厚い音を作り上げている。強弱のポイントも的確であり見事だ。ラストの終わり方も、大きな悲劇を演じた後に、主人公は舞台に突っ伏して幕というような重々しい雰囲気であり、それはそれで劇的でありかつ感動的であることは否定できまい。

カラヤン・ベルリンのコンビだけあって、オケの個々の技量がボストンと比べると光るし、音響的にも非常に重厚感あふれるものになっている。デイヴィスを素材の味を生かした魚料理とするならば、こちらは凝ったソースをかけたステーキといった趣だろうか。

カラヤン盤も満足を持って聴くことができるとは思うのだが、これがシベリウス的なのかと言うと、少し首を傾げざるを得ない。というのは、ここで表現された音響的世界にしても思索的な組み立てにしても、シベリウスの独自性というものが、逆にこの演奏からは薄まっているように思えるのだ。こういうアプローチなのであれば、素材はシベリウスではなくても良いのではないか、という印象をぬぐうことができない。

しかし、私の言う「シベリウス的」というもの自体が、自分でもはっきりと文章にできないだけに、論点がボケてしまうことは認めざるを得ない。まだ今の段階で「シベリウス的」を表現することができない。ただ、一つだけ言うとするならば、カラヤンの世界は饒舌にして豊穣すぎる音楽であり、シベリウスの目指した(と私が考える)簡素さとか無駄のなさという方向とは逆の世界であると感じるのである。彼の描いた世界は、暗くはあっても限りなき美しさに彩られているのだ。

だからといって、この演奏が価値のないものだとは全く思わない。演奏から受ける感動は紛れもないものであるし、このような演奏があってこそであるのだから。


2001年7月8日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第4番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:11/1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの交響曲第4番を聴くのは、結構しんどいものである。今までの交響曲とは違い、雰囲気も非常に暗く、救いがない音楽という人もいる。いわゆる主題を展開してゆくような明快な音楽構成もとられていないため、音楽的にもとらえどころがない印象を受ける。

全曲を通じて、鬱屈した雰囲気を吹き飛ばすような部分もほとんどなく、ひたすら内省的に内側へこもってゆく世界を聴くことになるのだが、暗さを聴くことで得られるカタルシスも得にくい曲ではないかと思う。プロの演奏家でも「二度と演奏したくない曲のひとつ」という感想も、どこかのBBSで読んだことがある。

シベリウスがどうしてこのような暗い曲を書いてしまったかは、CDの解説やシベリウスのHPを参照くだされば詳しく書かれているので割愛させていただくが、人生のどん底のような気分においても曲を描かなくてはならなかった彼が、このような音楽を描く事で癒されたのだろうか、と考えずにはいられない。モーツアルトのようにいかにも天上の音楽としか聴こえないような曲を描いたのとは対照的ではあると思う。

この曲を最初に、C・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみた。この演奏を通して曲の概要を眺めてみたい。

第一楽章のチェロの出だしの不気味さと続く寂寞とした主題は、まさに死の淵を思わせる絶望さに満ちている。この雰囲気は全編を支配する感情だと思う。中間部分も色々なモチーフが受け継がれながら、感情の浮き沈みのようなものを感じるのだが、楽器が和音を奏でている中からスッとソロが現れる部分の寂しさなどは、ふと気付いたら自分しか残されていなかった、というような気にさせられる。楽譜を見ながら演奏を聴いているわけではないので、ぼんやり聴いていると、捉えどころのない楽章である。徐々にたかまり、ひとつのクライマックスに達するかに見えるが今までのシベリウスのように弾けることはなく、再び最初の暗い雰囲気に何時の間にか連れ戻されている。

第二楽章は田園風のスケルツォで始まるのだが、下降音形から金管に受け継がれたあたりから、急速に日は翳り暗さが支配してくる。フルートが軽妙に主題を奏で、彩りを添え上に駆け上ろうとする雰囲気が現れはするのだが、もやもやした感情が抜けきることはない。切り込むような弦のやコントラバスの低い響きが、暗雲が立ち込めるかのような寒々さや不安定な感情を表出しているかのようだ。

第三楽章はフルートが非常に印象的なテーマを奏でて始まるが、この楽章にくると明るさは全く消えうせる。前楽章の田園的な雰囲気も何か良き遠い日の思い出と感じるようで、深く内省的で、自分の中にひたすらこもってゆくかのような音楽で、思いは取りとめがない。中間でチェロが哀愁ただようテーマを奏でるが、これは嘆きのテーマなのだろうか。寂寞茫洋とした楽章の中で唯一発展を感じさせ、核となって聴こえてくる。聴き様によっては泣きの旋律であろうが、うたいすぎるとチャイコフスキー的にいやらしくなりそうなテーマだ。デイヴィスはそうはなっていない点、演奏的にはマルである。

第4楽章は鉄琴が効果的に使われており、煌きや光が垣間見えたかのような印象で開始される。音楽の構成もシベリウス的な雰囲気が漂い、曲としての救いが見えてくるように思える部分である。シベリウスの上方と光や希望を希求する気持ちが込められた部分だろうか。しかし、ポジティブな気分はこの交響曲を支配しない。ティンパニの連打とともに、剥ぎ取られるかのように明るさは掻き消え、何時の間にか回りは冬になっているかのような寒々とした風景が広がり、またしても自分だけが取り残されていることに気付かされて、音楽は終わる。

シベリウスがどう意図したかは別として、私はこの部分を聴くたびに「北国の作曲家の音楽だな」と思わずにはいられない。北国の短い夏、太陽を満喫して馬鹿騒ぎしているのもつかの間である。秋とは名ばかりの季節が駆け足のように冷たい風とともに通り抜け、気が付くと冬景色になっている、という感覚。何かやり切れず、取り残され騙されたと思うような感覚。こういう気持ちは、南国育ちの人にはなかなか分からないかもしれないと思うのである。

さて、このような曲をC・デイヴィスは、しかしながら、ひたすら暗く内省的になることを避けるような演奏をしているような気がする。

聴きとおした後に、虚無に教われるような絶望感や疲れはあまり感じない。むしろ、そこかしこにちりばめられた、何か光を予感させるような響きの方が印象に残り、果てしない絶望感を救っているように思えるのだ。

何が何でも作曲家の心象や当時の境遇を曲や演奏に反映させなくてはならないというものでもない、という意思表示のような気もする。曲を曲としてありのままに捉えた演奏というのだろうか。ラストにしても、一人舞台の中央にスポットが当たった状態で、取り残されはするが、そこからどこにも歩めないというような終わり方には聴こえてこない。

演奏自体も新鮮な響きに満ちており、低い重心で押しまくるという演奏ではない。感情をこめた重い演奏とはせずに、この曲のもつ怜悧な美しさと寂寞感をうたいあげている。それが、この演奏の弱さや説得力のなさにつながると感じる人もいるかもしれないが、私はそうは感じない。この演奏を、「聴きたい」と思ったときに余り抵抗なく、しかもシベリウス的な響きを感じながら思いに耽ることのできる演奏だと思うからである。良く聴き込むと「とりとめがない」と感じる断片が、輝きをもって立ち上がってくる部分も多々あり、「暗い、重い、救いがない」というレッテルだけで聴かずにいるにはもったいない曲であると思うのである。