2001年2月27日火曜日

古畑亜紀のモダントランペットコレクション

  • 西区文化フェスタ2001
  • 古畑亜紀のモダントランペットコレクション
  • 日時:2001年2月27日(火)18:30会場 19:00開演
  • 場所:札幌市西区パトス文化フェスタ
  • トランペット  古畑 亜紀
  • ピアノ     石橋 克史、豊口 健
  • チェロ     荒木 均(札幌交響楽団チェロ奏者、客演)
  1. イベール    トランペットとピアノの為の「即興曲」
  2. バッハ     無伴奏チェロ組曲 第5番よりサラバンドBWV1011~チェロ独奏
  3. タイガー大越  WORLD TO ME~トランペットとチェロとピアノのための(編曲 豊口健)
  4. ボザ       トランペットとピアノの為の「ルステイーク」
  5. ドビュッシー  前奏曲集第2集より「枯葉」「水の精」「喜びの島」~ピアノ独奏
  6. ピルス     トランペットとピアノの為のソナタ

古畑亜紀さんのトランペットを聴きに行って来た。古畑さんは自らのホームページも有する札幌でご活躍中の若手トランペッターである。

古畑さんを聴くのは昨年10月のリサイタルに続き二度目である。今回は、西区文化フェスタの一環でのコンサート。場所は地下鉄琴似駅から直結のPatosというイベントホール。スタジオをでかくしたような作りで、詰め込むと150人くらいまで収容可能。ステージはなく、演奏者を折りたたみ椅子の席でコの字形に囲んだ配置で、非常にアットホームな雰囲気のコンサートが期待された。

ホール自体は、壁がコンクリートブロック、天井はダクトや配管剥き出しのロフト状態であるため、かなり響くのかと思ったら、逆にデッドな様子。壁の後ろからは、地下鉄の音(?)がコトコト聴こえる。クラシック系の生演奏にはちょっとつらいかなという印象を受けたので、席はピアノ奏者を斜め後ろから見る位置をキープした。

用意された曲目は、近代物が中心のプログラム。チェロとピアノ独奏曲以外はあまりなじみのない作曲家だ。ピルスというのは名前さえ初めて聞く。

演奏は静かにイベールから始まった。イベールといえば管弦楽組曲「寄港地」とか、「フルート協奏曲」などが有名であるが、「即興曲」というだけあって、それこそアットいう間に終わってしまった。その後は札響のチェロ奏者 荒木さんによる独奏。プログラム構成上ちょっと物足りなさを感じながらも荒木さんの音色にはまり込む。無伴奏チェロはサラバンドだけであったが、バッハはいつ聴いても敬虔な気持ちを蘇らせてくれる。自分たちが悠久の時間の流れの中のひとつの泡沫でしかないことを思い出させるのだ。(うーん、これはキリスト教の概念じゃあないな・・・)

次は打って変わって、ジャズピアニスト豊口さん、チェロの荒木さん、そして古畑さんによるタイガー大越さんの作品が二曲奏された。これは良かった。トランペットとピアノによるJazzyな響きを聴くと、体の奥底に眠っていたものが再び呼び起こされるかのような気になってしまう。チェロが入ってどういう響きになるのかと興味深かったが、バスの役割と声部の役割を見事に演じ分け、豊口さんのピアノと相まって非常にスリリングな演奏であった。1×年前くらいに、東京の六本木 Pit In とかうろうろしていた頃を思い出す。

トリオ最後のBad Dreamは、古畑さんの思いが詰まった非常に美しい曲であった。切なさや憧れなどいろんなものが聴こえてくる、バックの二人のサポートもすばらしい。いま思い出すと、ラフマニノフの交響曲第2番のアダージョ楽章をふと彷彿させるような、甘くそれでいて胸が締め付けられるような曲調だ。この演奏がこのコンサートのひとつの山場だったと思う。

休憩をはさんでのボザは、途中でジャズが入ったせいか会場の雰囲気の緊張も解け、音楽に入り込みやすかった。石橋さんのドビュッシーは、ドビュッシーという作曲家が前衛以外の何者でもないことを改めて認識させてくれた。ドビュッシーは印象派というレッテルが貼られているが、確かに彼の曲を聴くと色々な色彩を思い浮かべるものだ。

最後のピルスは、このコンサートで一番良かったと思う。初めて聴く曲という新鮮さもあったが、古畑さんも非常に伸びやかに奏していたのではないだろうか。美しくそしてかっこいい曲であった。2楽章の雰囲気も良く、満足いく快演奏という感じ。

石橋さんのピアノもすばらしい伴奏だったと思う。ピアノ伴奏というと、ピアノばかりが目立ったり主張したりする演奏というのもあるのだが、良い意味で一歩下がってサポートしているという印象を受けた。また、私はよくフルートのリサイタルに行くのだが、ともすると独奏フルートがピアノに負け気味になったり、ピアノ萎縮気味に抑えたりすることがある。その点、トランペットくらいになると、ピアノと遜色なく堂々と渡り合えるのだなあと妙な関心をした。(実際は違うかもしれないよ、素人の浅はかな感じ方です)

アンコールなしの1時間40分ほどのコンサートであったが、プログラム構成の妙か、当日の客層を考えると成功だったのではなかろうかと思う。(西区文化フェスタというイベントであるため、近所に住むオバチャンたちが多い感じを受けた)

古畑さんの語りも交えての演奏であったが、あのような会場では「語り」を聴衆、少なくとも私ははどうしても期待してしまうものだ。言葉による過度の語りは、音楽で語るという行為をないがしろにしてしまうためバランスが難しと思うが、あれは良かったと思う。語りが入ることで、聴衆と演奏者の一体感は急速に密になるものだ。ライブな空間において、聴衆の雰囲気が演奏者にどんな影響を与えるのかは素人の私になど知る由もないが、聴く側にとっても演奏者の温度をじかに感じ取ることのできる瞬間であり、演奏を聴くのと同じように貴重な体験である。

だらだらと書いてしまったが、これからも古畑さんには頑張ってもらいたい(て書くとなんだか偉そうに響くが、そういうつもりはないのでご了承ください)。願わくは、良いホールでの近現代物のプログラムや、暗く狭く猥雑な空間でのJazzyなライブも聴いてみたいと思い会場を後にした。

~うーん、しかし表現が硬いなあ、悪評高き新聞評論みたいにならないことを心がけなくては・・・・

2001年2月26日月曜日

小林研一郎 指揮 チェコ・フィルによる第5番交響曲

  1. 指揮:小林 研一郎
  2. 演奏:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
  3. 録音:25-26 Feb 1999 「芸術の家」ドボルザークホール

小林 研一郎とチェコ・フィルによる第5である。彼のディスクは他にも日フィルを指揮したものなどいくつかあるようだ。小林 研一郎といえば「炎のコバケン」の愛称があるくらいに、熱く激しい指揮者と言う印象がある。クラシック経験の浅い私は、コバケンの演奏を聴くのは本CDが初めてであるため、大いなる熱演を期待したのだが、聴き終った後の感想は最初のイメージとは少し異なるものだった。

まず、1楽章から深く響きの重心が低い。不安感の混ざった、ざわざわとした感じが上手い。打楽器の音もしっかりして激しく、弦楽器が憂愁を帯びた旋律を奏するところは、十分に歌わせてる。解説にある「叙情的な表現と力強い表現との力関係」というこの交響曲の持つ性格を、十分に把握した上でのテンポ設定や、弦・管楽器の歌わせ方を考えていると思わせる。両者の力関係ということで書けば対比が見事であり、強いドラマ性を感じさせる解釈である。

上手く表現できないのだが、激しいところはひたすら激しい。打楽器と弦楽器によるリズムの刻みは、精緻さや鋭さはないが底から迫ってくるようなストレートな迫力がある。逆にゆったり奏するところは、不思議な抑揚と余韻がある。比喩が適切とは思えないが、重いはずみ車を回した後、慣性で回りつづける・・・といった余韻、あるいは非常に粘性の高い液体の中を棒でかき回すときの抵抗感といったらよいのか。ただしこれを好むか好まないかは意見が分かれるかもれない。(適切な比喩じゃないなあ・・・)

2楽章のホルンの旋律の部分も響きが分厚い。チャイコフスキー自らの問いかけとそれに対する答えがやさしい。懐の広さと、包み込むような解答がこめられているかのよう。第1楽章で感じたような粘性感が上手くこの楽章の表現にマッチしている。

3楽章のワルツはちょっと野暮ったい感じを受ける。丁寧すぎる奏し方と相まって優雅さに欠ける。6分25秒という演奏時間は、今までの中でカラヤン・ベルリンに次いで長く、一番短い盤に比べると1分近くも遅い。演奏時間の長短を比較することに意味あるかはさておき、全体にのったりした印象を受けることも否めない。もっとも他の盤との比較による相対的な感じ方なのだろうが・・・

4楽章序奏部の堂々としたリズムと余韻は、言いようのない懐かしさが漂う。トランペットの不思議な抑揚や弦の響きが気持ちを揺さぶる。幾多の旅の果てにここにたどり着いたかのよう。3分過ぎからは、一転して早く激しくなる。1楽章で感じた余韻や粘着感がこの楽章でも感じられる。それはそれで、一つの解釈の結果なのだと思うが、例えば金管群の奏し方が甘く曖昧にも感じられる。いわゆる切り込むような鋭利さは感じられない。悪い意味で評しているのではない、逆に金管群がうるさすぎないため、ある種のロマンチシズムをたたえた、やわらかさのある演奏である。CD解説には「堂々とした曖昧さのない出来栄え」とか「金管などを強調しつつも・・・」とあるのだが、私の受けた感じ方は少々異なるものだ。(まあ、冷静に聴けば金管も凄いよ)

ラストに向けて、打楽器の響きも凄くなり、緩急自在のテンポ設定がいやがおうにも、大きなクライマックスを感じさせてくれるものの、全体に暑苦しく汗たぎる演奏ではない。コバケンに「汗臭い」イメージを聴く前に持っていただけに、少々意外であったのだが、それでも物凄い熱演であることに変わりはない。緩急のつけ方や強弱の対比、楽器群の差異など非常に明確で、曲の持つ性格を十分に表出していると言える。激しさとやさしさを併せ持った演奏という印象を受ける。演奏時間のトータルを見ると、他の盤に比べて特別速いわけではないのだが、躍進するリズム感や推進力をも見事である。以上のような意味合いからは「炎のコバケン」と言われるのも、分からないでもない。

ただし、指揮者の唸り声が随所に聴こえる。ゲルギエフ盤でも唸りが聞こえるのだが、これはちょっといただけないなと個人的には思う。演奏にのめりこめばそれほど気になるものでもないか・・・(ヘッドフォンで聴くことはお薦めしない、近隣に注意しながらスピーカーを通して聴きましょう)

蛇足だが、スラヴ行進曲は凄い! 何たる演奏と重み!!!!!!!

フルート協会の練習日

フルート協会の練習日。1時間半ほど送れて着く。本日の指揮は佐々木先生。モーツアルトのティヴェルティメントNo14(K270)の2楽章を練習していたので、早速加わる。この曲も本日が初見だがセカンドフルートのパートはそれほど指使いも難しくない。モーツアルトといえば、音階練習ばかりしているような嫌いがあるのだが、それでも演奏していて何とも幸せな気分になる。佐々木先生はしきりに、「もたつかない」「進むように」「リズム」を強調する。

モーツアルトでずいぶん時間を取られた。最後はバーバーのアダージョ(Adagio for String)。こんな有名な曲(名前だけは知っているてやつ)を実は私は聴いたことがなく、何やってんのか全然わからないまま終わってしまった。仕方ないので、帰りにTowerRecordでバーンスタイン版をゲット。



【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 ゲルギエフ指揮 ウィーン・フィルによる第5番交響曲

交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:7/1998 ザルツブルク音楽祭 
PHILIPS PHCP-11149(国内版)

こういう演奏を聴かされてしまったら、何を書けば良いというのであろうか。極めて音楽的な体験を言葉にした瞬間に、大事なものは手の中から零れ落ちてゆくというのに。

この盤は、ゲルギエフがウィーン・フィルを振った98年ザルツブルク音楽祭のライブ録音である。購入したのは、99年4月であった。まず、そのときの感想メモをそのまま引用した方が、この盤の温度が伝わるかもしれない。

以下メモより

今までのチャイ5を全て吹き飛ばすほどの圧倒的な迫力と音の塊。ただただ、ゲルギエフとウィーン・フィルに脱帽。途中何度も背筋がぞくぞくする感じを味わう。

とにかくぶったまげた。ウィーン・フィルも良くぞここまでゲルギエフの棒についてゆくものだ。ティンパニも物凄く、もはや絶句もののフィナーレ。演奏終了後、聴衆の怒号とさえ思える「ブラボー」と拍手に戦慄さえ覚えた。

カラヤンの眩暈のするような流麗な美しさではない、骨太の強いチャイ5がここにはある。癖とアクも強いから好みは分かれるかもしれないが、一聴の価値はある。

メモ終わり

本当にたまげたことを思い出した。ライブ録音ならではの迫力もある。しかし、それ以上にゲルギエフの、この曲に対する強い共感と熱いドラマが溢れる演奏である。

強弱の揺れもテンポの揺れもある、ダイナミックレンジの幅も広い。低弦とくにコントラバスの、弦が軋むかのような音や、破けるのではないかと思われるほどのティンパニーの轟き、そしてゲルギエフの息遣いまでが聴こえる。クレッシェンドからffへの盛り上がりは疾風怒涛の嵐だ。

ゲルギエフが、あのウィーン・フィルを自在に操っている。それも、Drive だの Ride だのの上品さではない。ゲルギエフの毛むくじゃらのゴリゴリした指揮に強引に引っ張られてゆくかのようだ。たとえば、何度も書いてきたマゼールとウィーンの演奏。「若造め、そんなにやりたいんなら、こうしてやるぞ!」みたいなところが見え、それが粗さとも聴こえる。ただし、そういうウィーン・フィルの上前をはねてしまったのがマゼールだった。ゲルギエフとウィーンは、ゲルギエフが完全にウィーン・フィルをねじ伏せ、軍門に下らせ、自分のオケにしてしまっているのだ。それでも破綻なくついてゆくウィーン・フィルの底知れなさには驚きを禁じえない。(当たっていないかもしれないが・・)

乱れはある、傷もある、出だしの合わないところもある。しかしライブな音楽だ、我々の聴いているのは。精緻な機械のようなアンサンブルを期待しているわけではない。

��楽章の出だし「運命のテーマ」からして、波のようにゆらいで聴こえる。ここを聴いただけで、ただ事ではないと感じさせるに十分である。楽章が進むにつれ、強い推進力とドラマへの期待は高まってゆく。畳み込むようなアッチェレランドは息を呑むばかりである。強大にして人智の及ばない運命の波は、怒涛のように押し寄せ聴くものを飲み込み翻弄する。そういうテーマが非常に良く語られている。

��楽章、出だしの低弦の憂愁を帯びたそれでいて底力のある音量、その晴れ間から見えるホルンの音色の何たる切なさよ。人生の中での喜びや愛、あるいは不安感の象徴なのか。運命のテーマの再現の前のアッチェレランド、後に続く部分の遅いテンポ設定は、運命の波に飲み込まれまいとしている姿と、解決を見出そうとしているチャイコフスキーの姿がだぶる。そこい覆い被さる残酷に口を開く運命の暗い蓋の出現・・・なんと見事な描出力か。この盤を聴くとマゼール盤と同じくホルンがチャイコフスキーの姿であり、弦の調べがそれに対する慰めや癒しであることがよく分かる。(本当は違うかもしれないよ)

��楽章はやや切迫した伴奏のリズムを強調しながら過ぎていく。弦の刻みは鋭く速い、ファゴットやオーボエのテーマも揺れる。しかしそれでいて優雅だ、艶やかさを失わない。

奏者が楽譜をめくる時間も惜むかのように4楽章に突入してゆく。堂々たる音躯、雄雄しい姿に変化した運命のテーマの出現。「どうだと!」言わんばかりに力瘤に満ちており、不安感は微塵もない。最初のうちは、まだ目をつぶっている静かさがある、ジャケットの裏のゲルギエフの顔そのもの。しかし2分過ぎから、硬く凍りついた大地に裂け目が生じるかのように、熱いマグマが溢れ出す。融けて流れ出す氷たち、一気に開花し突き抜け流れる。力強い奔流となって全てを飲み込み、有無を言わさす隙さえ与えない。

最後のフィナーレの入り方は勝利感以外何ものでもない。女々しさも不安も後悔も全て組み伏せ、雄たけびさえを伴った凱歌だ。1楽章は運命の奔流に翻弄されたが、この楽章に至っては逆に圧倒的なまでの生命力の渦に全てを飲み込んでしまっている。これを音楽的なドラマと言わずに何と言おうか。

し、しかし、またしても感情に流されすぎたCD試聴記を書いてしまった・・・・ああ、懲りない奴・・・

2001年2月25日日曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 アバド指揮 シカゴ響による第5番交響曲

交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮:クラウディオ・アバド
演奏:シカゴ交響楽団
録音:1985
SONY SRCR2013(国内盤) 

どういうときに演奏とシンクロしてしまうのか分からないが、マゼール盤から受けた印象は今考えてみても、自分でも予想外の反応であった。CDの感想に過度の思い入れを付与するスタンスが望ましいかは判断が分かれるだろう。もっとも、ある曲を聴くたびに深く心を動かされているのでは、私自身たまったものではないとも思う。

そこで頭を冷やす意味で、アバド・シカゴによる5番を聴いてみた。ご存知のようにアバド2度目の録音であり名演の誉れ高い演奏である。

アバドというと「燃えない指揮者」として嫌う人もいるらしく、また最近話題のベルリン・フィルとのベートーベン全集も、An die Musik の伊東さんは新しいベートーベンとして絶賛しているが、むしろ珍しい批評であり、この演奏を嫌う人が多いことをBBSで何度か目にした。アバドの録音と生演奏の差異に言及する人もいる。「結局生を聴かなければ分からない」と彼らは口をそろえる。

しかし、「レコード芸術」というのは生演奏とは一線を画するものであると思う。カラヤンのようなパッチワークであっても、それは確たる録音された演奏芸術なのだ。最近のCD海賊版ばやりやLIVEものの隆盛は、スタジオ録音の閉塞感を示しているのかもしれない。

さて、非常に前置きが長くなった。この演奏をずいぶん前に始めて聴いたとき、アバドファンには申し訳ない限りだが、「なんてあっさりした演奏なんだ」という印象で、オクラに入ってしまった盤であった。今回改めて聞いてみたが、シカゴ響の精緻な響きと、恐ろしいまでのアンサンブル良さは特筆ものである。とにかく上手い。弦、管、打楽器各セクションのバランスも良く、聴いていて非常に心地よい。後半部分の盛り上がりもなかなかすざまじく、適度なスリルとそれに相反する、ある種の安心感のある演奏というのが率直な感想である。

そう、よくも悪くも安心感なのだ。逆に言うと意外性がないと言っても良い。真っ当にこの曲を演奏しきっているが、いわゆるこのシンフォニーへの切込みが少ないと感じられるのだ。曲の強弱はあるし、盛り上がるところは十分に盛り上がっており迫力満点であるのだが、いわゆる聴く物に迫るドラマ性、音楽の持つ物語性が希薄なのである。

これは、アバドの曲に対する理解度などという素人が考えるような低レベルの問題ではないのだと思う。むしろアバドは意識的にこのような要素を排除したのではないかと考える。したがってマゼール盤のように驚き、そして知らないうちに感動で震えているという体験はここにはない。

誤解を招くといけないので、繰り返すが、演奏が良いとか悪いとかという問題ではないと思う。指揮者の曲に対するアプローチの仕方、接し方の一つなのではなかろうか。例えばカラヤン・ベルリン盤(75年)にしても、むしろ「美」というものを全面的に追求した演奏だと思う。アバドにもカラヤンと似たアプローチを感じることもあるのだが、彼ほどあざとくはない。

聴き終わった後の感想は、充実した深い満足感というよりも爽快さが勝る演奏であり、あるベクトルを考えたときには、類い稀なる名演だと思うのだ。先にも書いたが、いつでもマゼール盤で得たような感情の揺さぶりをかけられたのでは、曲を当分聴く気はなくなってしまうというものだ。良いか悪いかでなく、好きか嫌いかと問われれば「こういう演奏も悪くない」ということだ。

蛇足になるが、「お前は耳が聞こえんのか! この嵐のような感動を覚えんのか?」と憤慨するアバドファンもいるかと思う。所詮私の書くCDの感想など、聴くときの体調、空腹度、精神状況、または今までの先入観やら固定観念など様様なものに影響される流動的にして主観的なものであると思っているので、ご容赦願いたい。

2001年2月24日土曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第5番

交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1963
London 430 787-2(輸入版) 

なんと書いてよいのか分からない。マゼール盤でこのチャイコフスキーの5番をこんな感動をもって聴けるなどとは、予想だにしなかった。次に書くゲルギエフ盤へのつなぎくらいの気持ちでいたのだ。他の人の評価がどうかは知らないが、私はこの演奏をはじめて聴いたとき、2楽章の途中から体の震えと涙が止まらない想いをさせられた。これほど、慣れ親しんでいた曲であるのにだ。

何が違ったのか、いや、根本からして違ったのだ。私のこの曲に対する認識もそしてここに納められた演奏も。

この曲は、脳内に麻薬物質をばら撒くだけの曲なんかではなかったのだ。虚飾と余計な感傷を排除したときにこの曲が見せる姿は、運命に対する勝利などではなく、慈しみと受容であるのだと感じた。4番交響曲とはテーマに対する回答が違う、10年経ったチャイコフスキーの姿をそこに見ることができる。こんな風にこの曲を聴いたことがなかった。

1楽章の出だしから音が非常にクリアで新鮮さがある。カラヤン・ベルリン盤に比べアンサンブルも粗い、テンポもゆれるし強弱の幅も大きい。また、時に強いアタックやアクセントを楽器に要求しているが、それらはアクの強さとはならずストレートに心に響いてくる。マゼールは熱くなりまくって棒を振っているわけではなさそうだ、冷静な分析のもとに作品を見据えているように思う。

曲の進み方もカラヤン・ベルリン盤より速い。1楽章で2分、2楽章でも1分半、3楽章でも1分速い。快速系というわけではないが、この演奏の粗削りなところが、逆に切れ味の鋭さを呼んでいる。弦も強い、ティンパニの叩は乾いているが決然とした意思がある。無駄が排除された音が聴くものに訴えかけてくる。

1楽章の最終部から2楽章への渡りの音楽のつなぎ方がまた見事である。暗く憂愁の想いをこめた弦の響きの美しさ。そして、主題を奏でるホルンの音色もくぐもった暗めの音色で、年輪を経た木質系響きを感じる。これに絡むクラリネットやオーボエとの掛け合いは、親しい友人たちと語らいであったのか。この楽章では色々な楽器たちが話しに加わる。カラヤン盤でイメージされた月光の心象風景は浮かばない(!)。ここには甘美な世界はなく、淡々とした語りと思考がある。弦が受け持つ主題はホルンが象徴するもの(チャイコフスキー自身か)に対する慰めや諭しにさえ聴こえてくる。

運命のモチーフが最初に出現する7分すぎに、テンポがぐっと遅くなり引っ張るのだが、それが唐突に終わる意外さ。その後のテーマは元のテンポに戻っているがピチカートがクリアだ。そこに進み始めたドラマがを感じる。11分で現れるティンパニとトロンボーンによる暗く強いテーマの部、その突然さは人生に用意された陥穽の暗示なのか。しかし、その後に続く優しい弦の響きにを聴かされたとき、思わず涙が浮かんでしった。今まで、ここで感動したことはなかった、慈しみという言葉が頭をよぎる。

3楽章は速い、軽快に駆け抜けてゆく、べたべたした感傷はない。5分半と短いためさらに経過句的な意味合いを強めている。ワルツだがこの演奏ではワルツは踊れない。

4楽章の出だしの滑らかさと優しさ、そしてオケの緊張感、鳥肌が立った(出だしの一音めが合っていないことを差し引いても)。3分すぎからの展開部の入り方、駆けてはいるが逃げてはいないことに気付く、目指したのは運命との共存か。トロンボーンからトランペットに引き継がれる上昇音形の前は、いたずらに昂ぶらない。トロンボーンとトランペットが奏でるフレーズの二度目の決然とした意思の表明という明確さ。

最後のフィナーレも運命に対する勝利ではない、チャイコフスキーが10年かけて見つけたのは、優しさと受容だったのか。マゼールは、決してチャイコ節をブリブリ言わせていない、しかし、その突き放したような演奏が逆に本質をえぐっているのか。各声部が明確に聴こえ、音楽を聴くものに語りかけるかのような説得力をもっていると感じた。

なぜかこの演奏と聴いたときの感情がシンクロしてしまったようだ。後日再び同じ感想となるかは分からないが、とりあえず日を改めて二度まじめに聴いてみた感想であると付しておこう。

2001年2月22日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第5番

交響曲第5番 ホ短調 作品64
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975
DG POCG-3870/1(国内版)

曲について

第4交響曲の10年後に書かれた交響曲であり、チャイコフスキー円熟の時期の作品と言っても良い。第4交響曲で示された「運命の主題」が明確に打ち出されている。

第1楽章は、まずクラリネットにより「運命の動機」が奏される、暗く物憂い主題だ。これは全楽章を貫く本交響曲の主要テーマであるばかりではなく、交響曲第4番で提示された「宿命」に対する、ひとつの回答でもある。

第2主題は切迫感を持ちながら、高揚してゆくように書かれている。中間部にゆったりした優しい部分や、昂ぶりを表現するようなテーマも現れるが、この楽章を聴いて受ける印象は、宿命に対する諦念や屈服感の方が強い。オーケストレーションは木管の響きと弦のゆるやかな歌いとピチカートなどが随所で聴かれ、多彩なオーケストレーションの楽しめる楽章になっている。

第2楽章は最初、弦の暗い旋律で始まるがその後のホルンのテーマは息を呑むばかりだ。私はマーラーのアダージョ楽章を知った後であっても、この楽章特有の美しさに、聴くたび心を打たれる。それは作曲家の心の深淵に迫るような、深く暗い森と湖が心象に浮かぶ。湖面には波ひとつなく晧々とした月明かりが映し出されている。あるいは、人生や仕事に疲れ、暖炉の前の椅子にもたれ深く昔を想うような、そんな優しさと哀しさにあふれた音楽だ。昔日のことを想い心さざめく瞬間があっても、そこには全てを受け入れた受容があるような気さえする。

中間部に「運命の動機」の変形が高揚感を伴って現れるところから、ピチカートを伴奏にした弦とオーボエの掛け合いの部分は、体の奥底に不思議なエネルギーを湧き出させているようである。突然訪れる「破」は人生の突風かはたまた、運命からの逆襲かと思わせるが、再び静かなテーマで楽章は締めくくられる。何時の間にかまた暖炉の前の椅子に座っている自分に気がつくのだ。

第3楽章はワルツだ。チャイコフスキーは今までも、交響曲の中に盛んにワルツ、舞踏の曲を挿入してきた。ここでも踊りは踊られるが、どこか淋しげであり、またファゴットによる不思議な跳躍旋律に代表されるような、独特のユーモラスさがある。しかし、この楽章も4楽章の主題が先取りされているようで、経過句的な意味合いになっていることにも気付かされる。

そして第4楽章である。運命のテーマは再び形を変えて堂々と奏される。これはこの楽章を貫くように流れる主要テーマだが、1楽章で聴かれた諦念はない。リズムに象徴されるように淡々と歩み始めているのだ。弦の伴奏が複雑な動きをしており、内的なもやもやを表しているかのようだが、そこには毅然とした決意が見て取れる。

��分前後からの部分は、歩みを速め疾走感がいやがおうにも増してゆく。もはや、運命は追いついてはこれないほどの爽快さだ。この楽章を聴くと、ややもすると、冷静な思考が私はできなくなってしまう。トロンボーンからトランペットに引き継がれる上昇音形のあたりになると、もう空を飛ばんばかりの快感である。考えてみると、ここらあたりを作曲者自ら「過剰すぎる」と称したのだろうか。

第4交響曲では運命への抗いを、馬鹿騒ぎとさえ思える喧騒で紛らわせた。ここに至っては、受容あるいは共存、そして疾走という相反する対応で逃げ切っているように思える。提示された運命の強さは、第4交響曲に示されたほど断定的でない点も、特徴かもしれない。

もっとも以上の解釈は、いままでの一連の感想と同様に、私個人の感じ方がベースになっている。厳密にチャイコフスキーの自伝や作品解説には違ったことが書かれているかもしれない。

カラヤン盤について

以上のことを、中学時代に刷り込みを行ったカラヤン、ベルリン・フィル盤(75年)より改めて聴き取ったのだが、書いていて非常にまだるっこしい。私の好きな曲にも書いたが、この曲は本当によく聴いたものだ。はっきり言って「運命の主題」だの、そんな能書きはどうでも良いのである。こんな風にこの交響曲を解釈したのは、実は今回が始めてだ。いい加減なリスナーなのである、本来は。

第2楽章のホルンの奏でる旋律の美しさで、私の脳内に麻薬物質がばら撒かれてしまい、3楽章のちょっとした休息のあと、第4楽章に至るともはや思考能力はなくなり、曲の疾走に身を任せるばかりとなってしまう。

この版の特徴としては、やはりベルリン・フィル奏者のソロ部分の美しさや抜群の合奏力が挙げられると思う。トロンボーンの音色や、2楽章の甘美というには言葉が足りないホルンの響き、随所で重要な役割を果たすクラリネット、ティンパニーの叩きなど(ものすごくクリア!)、数え上げればきりがない。チャイ5の権威 みっふぃーまにあ さんは、「合奏力はピカイチだが、いまひとつ」というのだが、私はこの合奏力の高さには脱帽せざるを得ないし、物凄いまでのオーケストラとしてのまとまりと、そこから生み出される緊張感があると思うのである。

カラヤン・ベルリンの4番交響曲においても書いたが、シンフォニーを聴くという面白さを中学生の私に開眼せしめた1枚であるし、4楽章の疾走部の眩暈を感じるような快感は、やはりこの版に特有のものだと思う。私はこの1枚を転校した友人に餞別としてあげてしまい、以来十数年この演奏を聴かずにいた。改めてCDとして聴いたときに「やっぱりこれだあ!」と叫んでしまったものである。なんとも、幼いころの刷り込みとはげに恐ろしい・・・

ただし、である。さんざん誉めておきながらであるが、この演奏がチャイコフスキーの目指した「5番シンフォニー」であったのかは分からない。「何か違う」と心にひっかかる部分があるのだ。みっふぃーまにあ さん推薦のカラヤン・ウィーン(84年)は聴いていないので、機会があれば比べてみたい。

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第5番



【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第5番



【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第5番



2001年2月20日火曜日

武満徹を聴く

以前、尾高指揮・札幌交響楽団のCDの紹介を書いた。それ以来、武満徹という作曲家が気になっている。

彼の曲を聴くのはほとんどが始めてである。現代音楽もほとんど聴かないのに武満について何かを書くことは無謀とさえ思えるのだが、書くこを通して少しでも彼に近づいてゆきたいと願っている。

荘村清志/武満徹へのオマージュ

武満という日本の生んだ作曲家について、私の知るところは情けないかなわずかばかりである。彼が数年前に亡くなったとき、音楽界は大きな損失とその死を嘆き悲しんだが、彼の音楽を「現代音楽のひとつ」と考えていたわたしには、遠い世界の出来事であった。

武満の音楽に始めて接したのは、札幌KITARAホールで開催された「武満徹のメモリアルコンサート」であった。このコンサートの情報は、BBSでこのコンサートに実際に出演する札響のフルーティストから聴いた。直接の面識はないものの、いくつかの書き込みで知っていた演奏家が出るということに興味をそそられ、コンサートに足を運ぶことにした。

まったくの予備知識がない状態ではと思い、予習のため武満のフルート作品をひとつ手に取った。それが「武満徹へのオマージュ」というタイトルのCDであった。演奏会には荘村さんも出演するというので買ったのだと思う。



荘村清志/武満徹へのオマージュ




  • 荘村 清志(g) 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463


まず、フルートの「海へ」を聴いた。聴いてびっくりしてしまった。これが現代音楽なのかと。自分の固定観念を覆すような曲であった。静謐にして多彩、曲の美しさと深さに驚きそしてCDを聴きながら「鯨岬」のところでは涙してしまった。
これはCDで聴く曲じゃあないと心から思った。自宅のステレオの前では、目に映るもの、雑音として聴こえるものが多すぎるのだ。目を閉じると、暗く青いインディゴ色をした海の中を、鉛色に鈍く光る巨大な体躯の鯨が、悠々と泳いでいる姿が浮かんだ。これが、始めて接した武満の音楽であった。
「森の中で」もすばらしいものだった。この曲は武満が荘村さんのために書いた曲だそうだが、技巧的にも難しいこの曲から、すばらしく音楽的な体験が得られるのであった。

武満徹 の世界 in KITARA ~1998年2月7日 Flute Music


  • フルート:山崎 衆
  • ギター:荘村 清志
  • ピアノ:高橋 アキ
  • 司会:小室 等

非常に期待を持って当日はコンサートに向かった。
KITARAの小ホールは収容人員が500人ほどで、音響も非常に良いことで評判のあるホールである。当日は、小室等さんの司会とトークで非常にアットホームな雰囲気でコンサートは開始された。
コンサートはすばらしい音楽的体験であった。物凄いまでの緊張感と、そして寂しさや、どこか包まれるような安らぎに満ちた世界が展開されていた。また武満徹を演奏家も聴衆も、いとおしむかのような雰囲気があり、それこそあっという間に過ぎた演奏会であった。
山崎さんの奏でる「海へ」は、CDで聴いていた予備知識もあったせいか、非常に多弁に音楽的世界を見せてくれた。鯨のささやく声さえ聴こえてくる様で、たった十数分の曲であったが聴き終えた後の充足感は格別のものであった。
演奏会の後BBSで山崎さんは、「海へ」も「エア」もCDで聴いているのとはだいぶん違う吹き方をした・・・みたいなことを書かれていたが、残念ながら、その「違い」が分かるほどに私は良い聴衆ではなかった。
途中で、高橋さんと荘村さんがスライドを数枚映し出しながら、小室さんと武満さんの思い出を語るという趣向も用意されており、武満ファンにはたまらない企画であったのかもしれない。
武満というと、近寄りがたい雰囲気を有した作曲家というイメージがあったのだが、この企画は彼を身近に感じさせるものであった。

武満という音楽家



まだ私は武満を語る言葉を有していない。彼の膨大なる著作群も読んだこともない。今年1月で「ゲネラル・パウゼ」を迎えた新潮社の「Gramophon Japan」は、武満特集であった。大江健三郎は、武満の音楽は60年から70年代のものが良い、それ以降は音楽のパワーみたいなものがなくなっている、と評していた。
その真意も私には判断がつかない。
そもそも、武満という音楽家はいったいどういう存在だったのだろうか?
彼と同時代に生きていながら、彼の生きている間に生の演奏を聴いてこなかった事は、もしかすると人生における大きな損失だったのではないかと漠然と思う。
何故そう考えるのか? その答えは分からない。ただ、彼の音楽は心の深淵に訴えかけるのだ。現在の猥雑な日常、自然への畏敬を忘れた生活。ただひたすら消費されるだけの音楽たち・・・・
「芸術」という言葉は80年ころをもって死語とさえなった感がある。真面目に取り組むことがばかばかしいといった風潮も、あの頃から醸成されたと思う。そういった中において、彼の音楽に接すると、あまりの高みと純粋さに心打たれるのだ。どこに茶化して誤魔化す要素が介在しようか。
いったいこれはどういうことなのだろうかと考えている。

Patrick Gallois/I Hear The Water Dreaming






Patrick Gallois/I Hear The Water Dreaming


  1. I hear the water dreaming <10:59>
  2. Toward the sea 1 <11:11>
  3. I hear the water dreaming
  4. Toward the sea 1
  5. Le fils des etoiles
  6. Toward the sea 2
  7. And then I knew 'twas wind
  8. Toward the sea 3
  9. Air


  • Patrick Gallois(fl)
  • Andrew Davis・BBC Symphony Orchestra


彼がフルートを特に好んだということも言われている。笛という機構特有の、素朴でありながら無数の音色を表現できる可能性に惹かれたのだろうか。
たとえば日本の伝統楽器の尺八にしても、オーバーブロー気味の複雑な音になっている。倍音の多いバイオリンなどとは違った音色が生み出す世界というものが、確かにあるのかもしれない。
武満はフルートという楽器に、音色に関しては限界とも言えるような要求をしているようにも思える。フラッターの多用やオクターブ倍音を含むオーバーブロー、またノーマルなフルートだけではなく4度ほど音程の低いアルト・フルートの使用など・・・

そこから生み出される武満のフルート曲は、饒舌とは正反対のところにあると思う。静謐と畏敬やミステリアスさを含んだ曲が多く、聴いていると別次元に連れてゆかれるかのようだ。武満の作品には彼独特のにほいがあり、「Takemitsu tone」と呼ばれる何かを感じることができる

現代音楽というくくりで聴いてしまうことにも意味がないと思う。たしかにメシアンに影響されたかもしれず、当時のセリエ音楽に関する理解も必要かもしれない。西洋音楽と日本の伝統音楽との対比など、色々な音楽を取り巻くテーマや現代性と無縁のところに彼の音楽がないのだろうとは理解する。しかし、聴くに耐えない現代音楽という印象の中にあって、彼の音楽が語りかける内容は非常に豊穣である。
このCDでは、うれしいことに「海へ」が1から3まで全て収められている。ご存知のように、それぞれのバージョンはアルトフルートと伴奏する楽器が変わる。1はギター、2はハープにオーケストラ、そして3はハープとの曲である。曲は3部に分かれ、1) The Night 2) Moby Dick 3) Cape Cod と名づけられており、題材をメルヴィルの「白鯨」から取っている。この曲を聴くと、はるか海原に鯨たちが泳ぐ様が目に浮かぶ。アルトフルートの深みのある音色は鯨たちの鳴き声さえ聴こえてくるようである。猥雑な日常とかけ離れた世界がたった10分間にこめられているのである。
この曲はどのバージョンもそれぞれ趣きがあり、違った曲に聴こえる。
遺作となった「Air」は、最初の出だしがドビュッシーのフルート曲「シリンクス」に似たところを感じる。しかし、曲が持つ内容は、もっと厳しいものでフルートのここでは鋭利で透明な音が何かを切り取り流れてゆくかのようである。



































2001年2月18日日曜日

テレマンのソナタの2楽章と3楽章をあたる

テレマンのソナタの2楽章と3楽章をあたる。

��楽章は、弱と強が交互にでてくるリズミカルで推進力のある曲だ。スラーとスタッカートのアーティキュレーションが楽譜とおりに吹けていない。指摘されるまで自分では吹けているつもりになっていたのだが・・・。きちんと自分の出す音を聴かなくては駄目だと反省。強弱はエコーになる部分をうまく吹くことができない。フォルテで始まる部分も特に高音域に入ると乱暴になってしまう。決して速く難しいパッセージではないのに、途中の16分音符のところを急いでしまい音が出ない。一音一音ばらつかないように練習するしかない。

��楽章はアンダンテ、暗く淋しげな曲調だ。ゆっくりだからといって易しいわけじゃない。一つ一つの音を十分にゆったりと吹けるようになれば良いのだが、だめだね~。こんなことでは、Vivaceの4楽章に辿り着けないぞ。


【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第4番

交響曲 第4番 ヘ短調 作品3
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1963
London 430 787-2 (輸入版)

カラヤン盤との比較で聴いてしまうと、マゼールであってもどこか素朴さがが残る、まっとうな解釈の演奏であると感じてしまう。刷り込みとは恐ろしいものである。テンポの取り方も速すぎることもなく、カラヤンのような眩惑的な演奏ではない質実なアプローチである。もっとも先のカラヤン・ベルリンも決して速くはない、演奏時間を比べるとほとんど同じ程度である。

なお、眩惑的というのは、悪い意味で書いているのではない。マゼールを聴いた後、しつこくも再びカラヤンを聴いてみると、本当に1楽章からして眩暈を覚えそうになるくらいの耽美的なところが、やはりその演奏にあるのだ。

それにしても良く聴いてみると、ウィーンフィルは爆演気味の演奏であり、マゼールの指揮に良くついていっているようである。トロンボーンを始めとする金管群の迫力、それにコントラバスの低弦の動きはすざまじいばかりの迫力である。随所に現れる木管のソロや弦楽器との絡みの部分は、素朴な味わいとヒヤリとした透明感があり、ロシア臭さや自然の息吹を感じさせる。また、全ての演奏が対旋律までしっかり浮き出て聴こえ、曲のもつ面白さや構成を非常によく見通すことができるのだ。

��~3の交響曲の感想でも書いたが、この全集でのマゼール・ウィーンのコンビの演奏には、少々粗削りなところを感じる。それが本演奏の魅力ともなっているのだが、この交響曲の演奏ではその粗さが剥き出しになっており、聴くものに有無を言わさぬ運命との駆け引きと葛藤を示してくれているようだ。

��楽章はチャイコフスキーがフォン・メック未人に示した標題を念頭に聴いてみることは、音楽の本質を損なう作業だろうか。カラヤン盤(グラモフォン)の解説では、「標題は、作品への道を音楽的に誤って導くものではあっても、音楽的な方向を与えるものではなかった。(トーマス・コールハーゼ)」と書いている。マゼール盤(London)の解説を読むと、その標題とは以下である。


the melancholy which steals over us when, at evening, we sit indoors alone, weary of work, while the book we have picked up for relaxation slips unheeded from our fingers. A long procession of old memories goes by...There were moments when young blood pulsed warmly though our veins and life gave all we asked. There were also moments of sorrow, of irreparable loss."

私の下手な和訳で読むよりも、辞書を開いて読んでみたほうが雰囲気がつかめるだろう。この標題はそれほど演奏の的をはずしていないと私は考えるのだが・・・・

��楽章のスケルツオでも顕著なのだが、リズムが強調されるような演奏の仕方である。ピッコロの奏し方も激しく、キビキビした印象と若さをと弾むエネルギーを感じさせる。この演奏を聴くと、3楽章が4楽章への序奏(助走)であることがはっきり分かってくるのだ。

��楽章のモチーフ「白樺の木」はまだ白樺らしさを見せており、歓喜あるいは勝利のテーマや運命のテーマよい対象になっている。ただ、この楽章のマゼールの演奏は、やはりリズムを強調するような感じに聴こえ、少々軍隊行進曲風に聴こえる部分がないでもない。コーダの前に登場する、1楽章の第一主題(運命のテーマ)の当たりの盛り上がりと悲愴感はこの演奏の中での圧巻ともいえる部分で凄みさえ感じる。ホルンから始まるテーマからラストへは一気に駆け上り、歓喜爆裂といったところである。

いずれにしても、聴くほどに新たな発見のある演奏であり、曲であると思うのであった。

2001年2月15日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルの交響曲第4番

交響曲 第4番 ヘ短調 作品3
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1976
DG POCG-3870/1(国内版)

チャイコフスキーの交響曲第4番というと、4楽章があまりにも有名である。中学時代に吹奏楽を経験された方であれば、自由曲として演奏したことがあるかもしれない。ついもすると、有名な4楽章ばかりに気をとられてしまうのだが、シリーズを書くに当たりこの曲を何度も聴くことで見えてきたことがあるので記してみたい。ベースとした盤は、上記のカラヤン・ベルリンのものである。

曲について

��楽章はヘ短調である。象徴的な運命を象徴するような、暗く断定的なテーマで始まる。ベートーベンの交響曲第5番ではないが、さながら「運命の動機」である。チャイコフスキーに特有の宿命のテーマ (Fate motif) と呼ぶ人もいる。運命の動機は、弦のせかせるような旋律と交互しながら何度も現れる。途中で賛歌的なところや美しい緩やかな舞踏の音楽も現れるが、楽章全体を支配しているのは、いかんともしがたい暗く不安な動機である。たとえば8分前後からの部分、喜びのテーマが高らかに、しかも力強く奏されるのだが、すぐその後で下降旋律が導入となり運命の動機へ直結してゆく。

聴くものは喜びと不安が交錯した感情を抱くが、この楽章から受けるのは自分の力ではどうしようもない、まさに「宿命的な力」の前に諦念さえ覚える。このような音楽のありようは、フォンメック夫人に出会う前のチャイコフスキーの心理状態を表しているのだろうか、あるいは浮いては沈む芸術家としての苦悩なのだろうか。多くの要素が詰め込まれた非常に長い楽章である。

��楽章は舞踏の曲だが、支配するのはロ短調という象徴的な調性である。舞踏としての華やかさや軽やかさよりも、憂鬱さや移ろいやすい不安を感じる楽章だ。捕らえどころのないこの楽章だけ、何度も聴いてみたが、なんともすわり心地の悪さを覚える。カラヤン・ベルリンの絶妙なるハーモニーで聴いてもだ。

��楽章は脅威のスケルツォ。弦のピチカートの動きは、音楽を聴くものの足を地に付かせず、爪先立ちのまませかされ、どこかに移行するかのようなイメージを湧かせる。中間部の木管と金管群の絡みも見事であり、色彩感のある楽章だ。最期は再びピチカートに戻り、曲は進みせかされ消えいるように終わる。

そして、3楽章の静寂を一気に突き破るかのような、4楽章のExplosion、突然ともいえる堰を切ったような大爆発に度肝を抜かされる。感情の暴発といってもいい。今までの不安感を吹き飛ばし、全ての感情を飲み込む勢いだ。そしてすぐその後に、ロシア民謡からのテーマが展開されるが、この華やかな喧騒のメインテーマの裏側では、やはり運命の動機が用意されている。今まで歓喜に叫んでいたのに、あたりを見渡すと1楽章の運命のテーマに移っていることに気づかされるのだ。しかしながら第4交響曲において最終的な曲としての結論は、避けられぬ運命ではなく、「ばか騒ぎ」とさえ思える喧騒さと歓喜だ。ホルンの不思議な助走から、再びめくるめく第1テーマが再現され、突き抜けた歓喜を歌い曲を締めくくる。

長々とへたくそな解釈を書いてみたが、彼の初期交響曲でも不安や喧騒は曲にこめられていた。しかしこの曲と比べてみると、作曲者自身の内面に切り込むようなものではなく、第三者的な描写に留まっているように思える。第4番交響曲では、はじめて赤裸々な等身大のチャイコフスキーが曲に表現されているように感じられる。ベートーベンの5番「運命」のように、苦悩からの再生に向けてのドロドロした感情とまでは行かないが、チャイコフスキーの繊細な感情の揺れ動く様が、チャイコフスキーとしての様式感を感じさせながら表現しつくされていると言ってよいと思う。またこの交響曲には、鬱的な宿命論を全面的にまだ受け入れるのではなく、それをはね飛ばすエネルギーがみなぎっていると思う。

こうして聴いてみると、初期の三つの交響曲と比べ音楽的に成長した姿を見て取ることができる。また「宿命のテーマ ( Fate motif )」というものが、チャイコフスキーに投げ掛ける意味ということも考え合わせると、今までの交響曲とは1線を画すものであることがわかる。色々な意味において、やはり第4番交響曲の人気の高いわけも、彼の代表作とするのもむべなるかなと改めて認識した。

カラヤン盤について

カラヤン指揮、ベルリン・フィルの76年版といえば、カラヤンの絶頂期の演奏と言ってよいかもしれない。

この盤を聴いてまず感じるのは、消え入るようなppから壮大なffまでの(もしかしたら、4番もpppとかfffという標記があるのかもしれないが)驚くほどのダイナミックレンジの広さである。pppを聴き取ろうとしてボリュームを合わせると、間違いなく4楽章の冒頭ではその大音響に耳を覆ってしまうだろう。ff部分のすさまじいばかりの迫力は、まさに音の塊が洪水となって聴くものを包み込んでしまうかのようである(観てはいないが、さながら映画「パーフェクト・ストーム」だな)。

��fの一瞬後、ホール全体の空気が振動しているかのような残響音や、息を呑むほどのppの弦や木管の美しさなど、どこをとっても「シンフォニーの色彩感を楽しむ、音楽を聴く」という喜びに満ちている。

��楽章の断定的な宿命のテーマも迫力十分で迫ってくるし、4楽章の冒頭などその音量とスピード感から、ほとんど眩暈を感じてしまうような陶酔感さえある。全体に、豊穣にして琥珀色のような音楽が展開されていると言えようか。

私のチャイコフスキー原体験はこのカラヤン・ベルリンで刷り込まれている。したがって、この盤を聴いた後の充実感は格別であるのだが、ふと考える。チャイコフスキーの目指した音楽は、果たしてこの盤のような演奏であったのだろうかと。それに対する回答は、他の多くの演奏に接していないため、今のところ留保しておこう。

2001年2月12日月曜日

TAKEMITSU-HOSOKAWA-OTAKA/尾高&札響

  • 武満 徹:組曲「波の盆」(フルオーケストラ版)
  • 武満 徹:「乱」
  1. 細川 俊夫:「記憶の海へ-」ヒロシマ・シンフォニー」
  2. 指揮:尾高 忠明 札幌交響楽団 Bryan Ashley(org)
  3. Sapporo Concert Hall 'Kitara' 8-11 May2000 CHANDOS

札幌交響楽団というと、どういうイメージを抱かれるだろうか。札幌という北国の凛々とした音、岩城に思い出される現代音楽をよくする地方のオケ・・・・。

「北国だがらシベリウスが得意」みたいなメージを持つ人もいるかもしれない。それが当たっているかどうかは、札響をほんの5年まえ位から聴き始めた私には判断がつかない。

私の数少ない札響コンサート体験によると、非常に弦セクションが美しいオケであるという印象が強い。

さて、ここに収められた曲は、日本の作曲家による現代音楽である。現代音楽というと敬遠しがちであるが、そう思ってこのCDを買うのをやめたあなたは非常に損をしたことになる。

まずは騙されたと思って、武満を聴いてみると良い。それほどに、武満の「波の盆」はすばらしい。たかが18分半の曲だが、至宝ともいうべき音楽だ。

 解説によるとテレビドラマのために書かれたらしいが、この曲の美しさを表現する言葉を私は持たない。夢見るようで、それでいて体の奥底から、なにか熱く懐かしいものが湧き上がってくるような、非常にせつない音楽である。武満が超一級のメロディーメーカーであったことが、この1曲だけで分かる。

6楽章からなる曲だが、4楽章で行進曲風の喧騒が混じるがそれも一瞬で記憶の彼方へ消えてゆく。ほとんど全章アダージョ楽章のような構成のエモーティブな音楽を、尾高と札響は、あくまでも透み切った音で聴かせてくれる。

解説に指揮者の尾高は書いている。「レコーディングの最中、私は涙を禁じえなかった、そしてファーストバイオリニストの眼にも涙が浮かんでいることに気づいた・・・」と。実際、私はこの曲を何度も聴いた。ひとり静かに聴き入っているときに、知らず涙がこぼれていた、そんな曲だ。演歌調の「泣き」の世界とは対極にありながら、きわめて「日本的」とも感じられるこのメロディー。とにかく聴いてみれば分かる。

「乱」は言わずと知れた、黒沢明の映画の曲。武満はこの曲の演奏を武満の友人である岩城の率いていた札響に依頼した。「札響の音は自分の音楽に最適だ」と武満はよく言っていたらしい。冒頭に疑問符を付けたような、シベリウスのイメージに代表されるような、凛とした音が札響にあるのだろう。「乱」は1985年の作品、現在の札響は武満を満足させただろうか。

断っておくと、私は他の武満の作品はいくつかしか知らない。彼の代表作たる60年から70年の曲もほとんど聴いたことがない。武満ファンの方から見たら、笑止な感想かもしれないので、蛇足とは思ったが付け加えておく。
ディスクの1曲目に収められている「オルガンと管弦楽のためのファンタジー」は、尾高の兄の作曲によるもの。彼がパリで音楽を学んでいるときに、教会の近くを散策しているとき聴こえてきたオルガンの音から得たイメージ(言葉にできないような感情の昂ぶりを覚えたとか)を曲にしたらしい。

オルガンとオーケストラの精緻なアンサンブル、フォルテッシモでの圧倒的な音の塊りが凄い。本当にこれが、あのKITARA大ホールのオルガンと札響なのか・・・と驚く(驚くとは失礼なと言う人もいるでしょうが・・・・)

4曲目の「記憶の海へ」もそうだが、現代音楽は実にいろいろな音が聞こえてくる。潮騒のようなざわめきやら日本的な音、顔をしかめたくなるような不協和、海かはたまた、心の深淵に沈み込むような響き。例えばベートーベンを聞くように、心の焦点をなかなか絞ることができない。しかし、気づくと、心の奥底で何かと対話している自分に気づかされる。

「ヒロシマ・シンフォニー」という副題なので「原爆かなにかの反戦か鎮魂の曲か?」と思った。だって、武満ていえば大江だし、大江ていえば「ヒロシマ・ノート」だ。同じカップリングであれば、誰だってつなげたくなる。(かなり偏見の強い強引な解釈だが)

英語の解説を読んだら、そうじゃないらしい。細川の生まれ育った広島の、自然の持つ圧倒的な美しさや再生の力を賛歌として表現したとのこと(当たっているかな?)。そう思い、再度聴いてみるが神秘的で大きなパワーを秘めた曲であることが感じ取れる。

いずれの曲も、尾高が非常に愛してやまない作曲家や曲たちらしく、それを精緻な表現力で演奏している札響に、改めて驚きとうれしさを覚える。

2001年2月11日日曜日

エマニュエル・パユ/J・S・バッハ

  1. ブランデンブルグ協奏曲 第5番 BWV1050

  2. トリオ・ソナタ BWV1038

  3. 無伴奏フルートのためのパルティータ BWV1013

  4. 管弦楽組曲 第2番 BWV1067

  5. フルート・ソナタ ニ長調 作品3の6
  • エマニュエル・パユ(fl) ベルリン・バロック・ゾリスデン
  • 2000 EMI
昨年(2000年)6月、やはりというべきか、ベルリン・フィルを辞めてソリストになった。もったいないと思うか、歓迎すべきと思うかは人それぞれだろう。私はベルリン・フィルどころかパユの生演奏も聴いたことがないので、いい加減なことしか書けないが、彼ほどのスター性がある奏者が、ひとつの強力な団体に留まり続けるのはもはや難しいのではないかと思っていた。 ベルリン・フィルであるから、パユだけに限らずどのパートであってもソリスト級の名人が揃っているのだろうが、その中でもパユはあまりに話題性がありすぎた。23歳でのベルリン就任、89年の神戸国際フルートコンクールで1位、幾たびも日本でコンサートを開いているため、日本のファンも多いと思う。 抜群のテクニックと名声、そしてジャケットのような端正な顔立ち。私が女でなくても、「かっこいい」と思ってしまう。(上の写真は「必殺仕事人」みたいだが・・・) 日本でのコンサートの模様を、以前どこかのBBSで読んだが、感想はばらけていたと記憶している。想像していたように良かった派と、テクニックは凄いが訴えるものがない派に分かれていた。 今回のバッハの演奏、パユにとっては初めてのバッハ録音だ。ベーム式の現代フルートを駆使して奏でるバッハは、想像していたよりもずっと心地よく暖かい。産毛の立ったビロードで包まれるかのような、温度を感じる演奏だと感じた。 パユを聴くなら、無伴奏パルティータから始めるのが良いかもしれない。眼を閉じて聴いていると永遠の時の流れとを感じ、果てしなき高みに持ち上げられるかのようだ。 バッハの音楽には、いたずらな昂ぶりはない、感情を抑えた端麗なる演奏に静かな拍手を送りたい。 ブランデンブルグ協奏曲 第5番は、全6曲中最も有名な曲だ。通俗名曲のごとく聞きなれた冒頭から、水が流れるかのごとく緩やかに滑らかに演奏している。パユのソロ部分とベルリン・バロック・ゾリスデンのアンサンブルは絶妙である。しかし、この5番はやはり1楽章のチェンバロ(*)の65小節にもわたるカデンツアが聴き所だ。2楽章の憂鬱な雰囲気、3楽章の軽快なフーガもいい。彼らの演奏に、改めてこの曲のすばらしさを思い知らされた。
(*)ライナーには  Christine Schornsheim/harpsichord Cornelis Bom Schoonhoven 1997 Pitch:441Hz とある。古楽器ではないようだ。(輸入版のCDなんで、解説も大まかにしか分からん)

管弦楽組曲は「バッハ・ライプツィヒ・コレギウム・ムジカム」の演奏会のために書かれたもので、祝典的な雰囲気の曲である。この曲は「フルート協奏曲」と称しても良いくらいに、フルートが活躍するため、フルーティストには好まれている曲だ。POLONAISEのパユの言い知れぬ深みのある音色に酔わされる。

最後のBADINERIEは「戯れ」を意味する「あらかじめ用意されたアンコール」であるが、まさに技巧を駆使したパユの音楽性を満喫できる。余りにも見事で、ここだけ何度も何度も聴いてしまった。私が女で、コンサート行って聴いていたら、やっぱりファンになるかも知れない・・・・

今日のレッスンは Andersen Op21 から2番を再度

今日のレッスンは Andersen Op21 から2番を再度。レッスンに行く前に何度かさらてっていたのだが、先生の前で吹くと、ぎくしゃくとしてしかも苦しげな演奏になってしまう。やはり練習不足だと痛感。ちっとも Allegro でなんか吹けやしない。

16分音符がずーっと続く音形は息継ぎやフレーズの作り方が難しい。それに単純なスケールやアルペジオであっても、ギタバタしてしまう。替え指を積極的に使い、滑らかに吹けるように練習したほうが良いとのこと。また、Andersen は練習曲であるが、ダイナミクスを十分に表現して十分に歌うように吹くこと、音符やメトロノームとおりに吹いても曲にならないとのアドバイス。ああ、超基本だよな、これって音楽の。

��、ppの部分を本当にきれいにアクセントを付かないように吹くのは本当に難しい・・・・

テレマンのソナタは2楽章を少し吹いてみる。スタッカートとテヌートが楽譜にかかれているのだが(吉田雅夫 校訂)3拍の裏からフレーズが始まることを意識するように吹くとのこと。

指使いもそれ程難しくなく、音の跳躍もない平易な曲なのだが、この Allegro 楽章を生き生きとスピード感を持って奏するのは結構難しい。


2001年2月10日土曜日

有田正広/ブラヴェ:フルートソナタ集

  1. フルート・ソナタ ロ短調 作品3の2
  2. フルート・ソナタ ニ長調 作品2の5
  3. フルート・ソナタ ニ短調 作品2の2
  4. フルート・ソナタ ト短調 作品2の4
    フルート・ソナタ ニ長調 作品3の6
  • フラウト・トラヴェルソ:有田 正広
  • チェンバロ:有田 千代子
  • 録音:Sep-Oct 1991 中新田バッハ・ホール
  • DENON COCQ-85203

プラヴェ(1700-1763)という作曲家を知っているだろうか。18世紀フランスで最高のフルート奏者と称えられ、当時あらゆる賛辞を浴びており、彼の演奏は現在の”フレンチ・フルート・スクール”の基礎となったものである。ここに納められたのは”フルートとバッソ・コンティヌオのためのソナタ集”「作品2」と「作品3」から選んだものである。(ほとんど解説書の写しだな)

有田氏は日本を代表するトラヴェルト奏者であるが、彼をして「プラヴェという音楽家はつねに私の理想でありつづけた」と本アルバム解説の冒頭に書かせている。

イタリア趣味に彩られたとかフランス様式とかは、この時代の音楽の趣向を語るときには避けて通ることのできないキーワードだが、私には、それを語るほどの音楽的知識や素養を持ち合わせてはいない。ここは、様式や背景などの難しいことを考えずに、ひたすらこの典雅な世界に浸りきってみたい。暖かさ、華麗さ、憂鬱、不安さと安堵など、たった二つの楽器が奏でる響きから、音楽の喜びというものを十分に感じることができよう。

有田氏の使うトラベルソは1735年頃にトーマ・ロットにより製作されたもので、演奏ピッチは A=400Hzである。かの有名なルイ・ロットはトーマ・ロットの末裔であるとのこと。バロック系の音楽といえば415から435Hzに設定しているのはよく耳にするが、ここではさらに低いピッチでの設定である。このピッチと木質系の暖かい、ぼやけたようでいて芯のある響きを聴いていると、体の中の不純なものが浄化されてゆくような心地よさを感じる。

響きもさることながら、この木の筒に穴があいたあだけのトラベルソ(1つのキーだけはついているようだが)をほとんど超人的な技巧で駆使する有田氏の演奏には驚ろきを禁じえない。

本アルバムは DENON BEST MASTERRS というシリーズで1700円、お買い得である。

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先に紹介した工藤重典の「バロック・名曲集」にもプラヴェのソナタ 作品2の4が納められいる。工藤氏は最近木管も使うのだが、あのアルバムでは現代フルートである。

聴き比べてみると、工藤氏の演奏が非常にクリアで軽やかな事がわかる。この違いが楽器の違いなのか、奏法の違いなのか、はたまた解釈の違いなのかは別としても、同じ曲でありながらその肌に触れる感触=皮膚感覚がまるで異なることに気づかされる。

確かに演奏スピードも違う。有田:工藤で比較すると Presto 2:50 - 2:31 Allegro 2:01 - 1:36 ほどの違いがある。まさに工藤は超絶的なスピードで疾走するスーパーカーのごとき演奏だ。いやがおうにも聴くもののテンションがあがる。工藤を聴いた後に有田の演奏を聴くと、なんともゆったりとした歩みで、わが道を行く別世界がある。

どちらが優れているという種類のものではない。バロックものを聴くスリルと楽しみ、現代楽器と古楽器との違いを楽しむ、そういう態度で接したい。

2001年2月9日金曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 マズア指揮によマンフレッド交響曲

マンフレッド交響曲 ロ単調 作品58
指揮:クルト・マズア
演奏:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
録音:1991
Teldec WPCS-5948 Diamonds Classical (国内版)

マンフレッド交響曲は交響曲4番と5番の間に作曲されたもので、バイロンの劇詩「マンフレッド」をもとにした標題交響曲である。チャイコフスキーの場合、3番、4番、5番で標題なしの音楽を作曲したが、標題性への欲求が抜きがたかったのか。(3番は「ポーランド」との題名がついているが、意味のあるものではないと思う)

これをマズアの演奏で聴いてみた。あまり聴きこんでいる曲でもないし、指揮者マズアについて知るところも少ないため曲の解説みたいになってしまうのだが(それもへたくそな)、以下に印象を書いてみたい。

��楽章はマンフレッドの苦悩と暗い運命をあらわすテーマが強烈で、かきむしられるような想いがにじみ出た音楽になっている。途中で女性的なものが登場するが、楽章を貫くのはマンフレッドの不幸な人生で、非常に完結した物語性を有した劇的な楽章である。チャイコにはよくあるのだが、この楽章だけでもう十分というくらいの出来だ。

��楽章は一転する。最初の細かな動きは、小動物たちが森から駆け出してくるような情景が目に浮かぶ。「アルプスの霊」の章だから妖精たちなのかもしれない。ゆったりとしたバイオリンのテーマから、美しい中間部にむけて非常に繊細で女性的な楽章である。楽章最後の消え入るようなバイオリンの音色は格別で息をのむばかり。道ならぬ恋をして、死に至らしめてしまったアスタテーテをイメージした楽章だろうか。

引き続く3楽章はAndanteで再び心が開放される。このゆったりした世界に、マンフレッドが登場したりするのだが、楽章の印象は2楽章同様に女性的な優しさと安らかさに満ちている。2楽章の終わりに登場する不気味な旋律と鐘の音は、安らぎの中にも迫り来る不幸な結末を象徴しているようである。解説によると、マンフレッドの自殺を表しているとも。

自分がフルートを吹くからではないが、フルートが2楽章でも3楽章でも効果的に用いられている。うーん、ここだけ吹いてみたい。

二つの中間楽章は非常に美しい楽章であるが、強い主張を持った1楽章と4楽章にはさまれており、聴きようによっては位置の定まらない楽章とも言えるかも知れない。

��楽章は再びマンフレッドの章。邪神アリマネスの神殿へ向かうところから始まっている。オーケストレーションと不安な推進力は聴き所だ。中間部(5分あたり)から、ゆったりとしたテーマが出現、これがアマネリスか?白髪の老人を思わせる描写、実際の劇ではどうなるのかは知らないが。交響曲1番、3番でも試みたフーガがまたも用いられているが、この曲ではマンフレッドの混乱した想いやらなにやらを表現したのか。

続いて登場するアスタテーテのテーマはひたすら哀しく優しい。ハープの音色が儚さをよく表現している。短いテーマだが印象的で、地獄で見た唯一の燭光といってもいい。

この後に、第1楽章のコーダが展開されるが、マンフレッドはその最期に向かってまっしぐらに不幸な時間を早めていく。この部分は、非常に非常にチャイコフスキー的な「泣き」のオーケストレーションである。最期はパイプオルガンが入る!が、ここにきてやっと安らかな終わり方となる。

改めて聴いてみると、非常に盛りだくさんな音楽に仕上がっていることに気づかされる。マズアは、この劇的な交響曲を比較的淡々と、決してマンフレッドの激情に流されないように振っている。マンフレッド交響曲はオルガンまで含む非常に大編成のオーケストラで演奏されるのだけあり、マズアの真面目な指揮ぶりにあっても、盛り上がるところは十分過ぎるくらいの迫力で迫ってくる。曲の持つ内容からすると、激情系の演奏に走りやすい気もするが、こういう曲を冷静に振るとは、なんともドイツな指揮者である。(最期意味不明)

標題交響曲といえば、ベルリオーズの幻想交響曲が思い浮かぶ。曲調などで似通った点があるので、思い出しながら聴いてみるのも面白いかもしれない。ただし、「どこが似ているんだ、ええ?」なんて突っ込みは入れてはいけない。

2001年2月7日水曜日

東野圭吾:悪意

真に申し訳ない。この有名なミステリ作家の作品を読むのは、本作が初めてである。以前から気にはなっていた。「秘密」がヒットしている頃、読もうかと思った。思っているうちに映画化されて、読む気をなくし機会を逸した。その本を手に取るかとらないかなんて、色々な偶然に支配されるものだ、もっとも、私の場合だが。

さて、ミステリなので内容に触れることは避けたいが、凝ったストーリー作りの割には、のめりこむことができず、はっきり言ってそれほど面白くなかった。以下はネタバレになるが、簡単に感想を書いておく。

ストーリーや、話の展開は非常に良くできていて、単細胞な私など、犯人どころかその最大のテーマである動機に至るまで、「なるほどねえ、良く考えるねえ」などと関心してしまう作りだ。では、何が(私に)だめだったのか。

本作は主に野々口という殺人の第一発見者と加賀という刑事の手記という形で進められる。野々口は作家らしいから、まだよい。刑事の手記とか独白とか、はたまた記録という形であらわれる文章の部分が。「刑事がこんな文章したためるかいな」てなことを感じてしまい、物語の世界に入ってゆけないのだ。

途中から、この「記録」と言う形式に、作者東野のしくんだトラップがあることに気付くのだが、そこを面白いと考え、トラップを見つけ出そうとするか、あるいはそれに乗れないかは、この作品を楽しむ上で重要な要素だと思う。

「彼らを知るものたちの話」という章も、まだるっこしい。最後の解明の章も、文体が・・・。
 小説を組み立てていく上での一つのスキルを見せられているようで、そこの作者のあざとさを感じてしまう。最後まで読んだときにも、犯人の暗い動機に深く共感を覚えることも出来ず、うすぼやけた霧の中に墨汁を垂らしたような犯人像と、粘着質の刑事のドラマが、ミステリを読んだ後の手ごたえさえぼやけさせてしまっているように感じる。

けなしてばかりで申し訳ない。この作品は、合わなかった。別な東野の作品読んで、出直してみる。

2001年2月4日日曜日

工藤重典/フルートバロック名演集

  1. シェドヴィル/ソナタ第6番ト短調「忠実な羊飼い」
  2. C.P.E.バッハ/フルート・ソナタ ト長調「ハンブルガー・ソナタ」
  3. F.クープラン/王宮のコンセール第4番ホ短調
  4. ヘンデル:ソナタ第4番ト長調 op.1-5
  5. テレマン:フルート・ソナタ ヘ短調「忠実な音楽の師」より
  6. ブラヴェ:フルート・ソナタ ト短調「ルマーニュ」 op.2-4
  • フルート:工藤重典
  • チェンバロ:リチャード・シーゲル
  • 録音:1994 水戸芸術館
  • Mister Music

工藤重典氏による、軽目のバロック音楽を集めたCDである。工藤氏は最近、木管フルートもよく用いているが(サイトウキネンでも木管だった)、ここではどうやら金属製の現代フルートのようである。

廉価版CDが氾濫するなかで、3000円という価格設定に割高感があるのは否めない。しかし、工藤を聴きたくば買うしかない、そして買った後決して後悔しないと断言できる。繰り返し何度も聴いてしまう心地よさがある。

最初に納められている「忠実な羊飼い」は、長くヴィヴァルディの作とされていたが、最近では二ニコラ・シェドヴィルの作品であることが確認されている。当時の売れっ子ヴィヴァルディの名を語って、楽譜を多く売ったのではないかと推察する。

このソナタは1番から6番まであり、6番だけが異質だという人もいる。私も他の曲の中で、とりわけこの6番が好きで、できもしないのに、フルートの発表会で取り上げ見事自爆してしまった曲だ。工藤氏はあくまでも、軽やかに吹き抜けるように演奏していて快い。

C.P.E.バッハのソナタは、どこかで耳にしたことがあるのではなかろうか。初めて聴くとしても親しみやすい曲だ。非常に瑞々し小品である。工藤の音色で聞くと、朝日のさす緑の庭園をゆっくりと散歩しているかのような気持ちにさせてくれる。なんたる至福の瞬間か。

「王宮のコンセール」はフランソワ・クープランの作である。クープランというと、一家が音楽家だったらしく、色々なクープランがいるらしい。クラヴサンの曲でもフランソワの華やかさは、遠くルイ王朝の時代の栄華を思い起こさせるものがある。この曲は全部で7楽章に分かれているが、まさに天上の響きである。

テレマンのフルート・ソナタも見事で終楽章には技巧を駆使した装飾が施されており、見事というしかない。もうため息のでるばかりである。もう、ここらは聴いてもらうしかない。

フルートばかりのCDとか演奏会は、最後には少々飽いてくるものだ。特に同じ時代の音楽ばかりだとなおさらで、だからフルーティストは演奏会のプログアムを様様に工夫している。

このCDはバロックばかり集めたものでありながら、約1時間もの長きに渡り、非常に甘美な時間を我々に提供してくれる。

オケばかり聴いて、なんだか食傷気味だったり、おなかいっぱいになってしまったとき、日曜の朝のひと時、フルートとチェンバロの絶妙なハーモニーを楽しみたい。(そういう私はこれを冬の夜に聴いているのだが)

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 交響曲 第3番 ニ長調 作品29 「ポーランド」

交響曲 第3番 ニ長調 作品29 「ポーランド」
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1964
London 430 787-2

スヴェトラーノフ版との比較で聴いてしまうと、マゼールのこの演奏は、別の曲のような印象を受けてしまう。

��楽章の出だしの暗いテーマからして、なにやら軽やかであり華が感じられる。序奏から盛り上がりを見せてゆく部分から、堂々たるテーマが奏される部分に至まで何たる上品な音つくりよ。ウィーン風と称してもよいかもしれない。チャイコフスキーのちょっと野暮ったいテーマや扱いも、指揮者の軽妙さとドライブ感のためずいぶんとスマートに感じる。

マゼールは1楽章のもつ高揚感を、粗さと流麗さで見事に表現している。どの版で聴いても、この楽章だけで「ごちそうさま」という気分にさせられるのだが。(マッタク、チャイコフスキーは何を考えていたのだろうか)改めて、この楽章を聴いてみると、どこがというわけではないものの、第4番交響曲につながるような処理が仄見えてくるようで面白い。

��楽章の木管による最初のテーマやっぱりいい。この不思議な気持ちにさせてくれる曲をずっと聴いていたい気にさせてくれる。これも踊りなのだろうか。チャイコフスキーというとバレエ音楽と連想されるような固定観念のせいだろうか。交響曲第3番は「白鳥の湖」と同時期に作曲されたものらしいが、彼の根底に潜むものとして、踊りの音楽というのがあったような気がする。それゆえに、ガンガン鳴らす楽章の魅力も捨てがたいが、チャイコフスキーの交響曲は、こういった楽章に真価が表れているように思える。

もっとも、主題の展開や変奏などの面白み、人間的な苦悩や深みみたいなものは(いわゆるドイツ系の大作曲家が表現したような)、これら初期の交響曲群から発見することができないのだが、そこに彼の交響曲の賛否があるのかもしれない。

マゼールの演奏にしても、熱狂と静かさの対比の中で音楽を掘り出すことに終始せざるを得ないと思える。その点、スヴェトラーノフの場合はロシアとしての血がそれ以上のものを生み出すのだろうか。

演奏にもどると、全体に低音(主に低弦と打楽器の扱いの違いだろうか)の迫りくるような響きはないかわりに、バイオリンなどの弦の美しさと優雅さが特筆されるかもしれない。ロシアのオケでなくウィーンフィルが演奏しているという思い込みによるものかもしれないが・・・・

マゼールは全体に早めのテンポ設定で駆け抜けてゆく指揮をしている。特に5楽章などは開始早々、フルスロットルのスピード感である。

何度も聴いてみると、かなり粗削りな印象も受けないではない。結構勢いでオケをドライブしているようでもある。フーガに至るところでも、比較的あっさりと曲を処理して快速さを失わないような指揮さばきをしているようだ。ここら辺も、粗さとも感じられる部位だ。

低音が響かないと書いたが、軽い演奏というわけではない。フィナーレの金管群の咆哮はそれはそれで聴き所だと思う。(前にも書いたが、低音の響きだの音量などは再生装置で聴く限りにおいては主観的な評価をであることを免れないと思う。)

総じて非常に若々しさと瑞々しさに溢れる演奏である。ロシア系の重厚な演奏も良いが、このようなアプローチも楽しいものである。

2001年2月3日土曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 交響曲 第2番 ハ短調 作品17 「小ロシア」/マゼール ウィーン・フィル

交響曲 第2番 ハ短調 作品17 「小ロシア」
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1964
London 430 787-2

これもまた、熱演であると思う。

��楽章の刻みのリズムと低弦の響きは、ここ1~2週間この曲を聴き続けたが、改めて背筋に戦慄を覚えるような思いだ。楽章の終わりのほうはテンポを速めてゆくのだが、それが効果的で感情を高めてゆく。そして、そのあとの弦のたゆたうような響きでそれを緩める。この起伏の作り方は見事である。(正確に何小節目という表現ができず、申し訳ない)

��楽章からスケルツオの3楽章へ向けての推進力は少しもたるみや衰えをみせずに、4楽章の冒頭へとつながってゆく。起伏のつけ方も非常にドラマチックである。

それにしても4楽章の冒頭の華やかな感じときたら、「展覧会の絵」のキエフの大門を少し髣髴とさせる。音楽的なアイデアにやはりロシア人としての共通の枠組みがあるのだろうか。

��楽章の弦のピチカートから始まる部分で提示されるテーマは、まさに聴く物を弾ませるようなワクワクさせるような、そんな演奏である。楽章中に二度ほどあらわれる、金管による下降音のあとのドラのフレーズ(?)は、どの版で聴いても不可解な部分だ。マゼールで聴いてもよく分からないのだがチャイコフスキーは何を意図したのだろう?(苦笑を禁じえない部分なんだよな)

感想としては、総じて非常に精力的な演奏で、聴き終わったあとの爽快感はチャイコフスキーを聴けた満足に十分にひたることのできる演奏である。実際に、この版もそろそろチャイコフスキーにも飽きてきたと言うのに、30分ちょっとの長さであるため、何度も聴いていて、それでいて新たに色々なことが発見されるのである。

2001年2月2日金曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 交響曲第1番/マゼール ウィーン・フィル

交響曲 第1番 ト短調 作品13 「冬の日の幻想」
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1964(チャイコフスキー交響曲全集より)

1964年の録音であるから、マゼールが35歳ころの若かりしころの録音である。この若さにしてウィーンフィルとチャイコフスキーと全集を録音するというのだから、マゼールの早熟ぶりが伺えるというところなのだろうか。

これを聴く前に書いた、スヴェトラーノフとティルソン・トーマスの演奏を改めて聴きなおしているわけではないので、あくまでも頭に残っている印象として、比較を読んでいただきたい。

スヴェトラーノフ版をベースとしてこのチャイコフスキーの初期交響曲群を聴いているが、曲のもつ迫力はこの版であっても決して遜色ない。いやそれどころか、勢いとともに優美さを兼ね備えたチャイコフスキーになっているのではなかろうか。(その代わり、スヴェトラーノフ版のようなロシア臭はやはり薄いのだが)

マゼールは、ウィーンフィルをしっかり鳴らしきっており、それでいてフォルテッシモにおいても金管群がうるさすぎたり、シンバルの音が強すぎるような演奏になっていないところが、ウィーンフィルたるところか。低弦もしっかりとした音量で、木管のうたいを支えている。当たり前といえば当たり前の感想だが、非常にバランスの良い演奏になっていると思う。

��楽章の夢見るような美しさはどうだ。陰気な霧の多い土地とのイメージはないが、湖のほとりで、静かに鳥の囀りを聞いているような、または湖に移る月光をみるような、そんな本当にゆったりと美しい楽章である。スヴェトラーノフではちょっと、演歌調かと思わせたが、マゼール・ウィーンフィルはあくまでも上等なコニャックのような音楽を提供してくれる。2楽章最後の盛り上がりの部分の金管の響きは圧倒される思いだ。

��楽章は、スヴェトラーノフでもMTTでもピンとこない印象を受けた。以前のCD感想を読んでも余り言及がない。しかし、このマゼール版のこの楽章の素晴らしさは特筆ものか。細やかなリズムとそれを支える弦の動き、それと中間部の美しい旋律。なんと優雅に奏することか。ホルンの音色のまた良いこと。この楽章だけ取り出して聴いても十分に満足できる仕上がりではなかろうか。

��楽章の懐の大きさを感じる。オケの揺らし方も決してガリガリとやるのではなく、大きな振り子か揺りかごの中をスイングするよう。ppからフォルテにかけての感情の高まりもすごく、この楽章のもつ面白さを十分に表現しきっていおり、熱狂的なまでの仕上がりになっているといえよう。最後、テンポを落としぎみにしたところに感情の溜めがあり、壮大にして華麗な幕切れである。

もっとも、どうしてこんな盛り上がりになるのかという、解釈の問題や、曲自体が単純すぎる(!)という思いも残るのだが、まあ難しいことはとりあえず脇においておいてこの曲を楽しむのが良いかと。

ということで、若かりしマゼールに「ブラボー!」を送りたい。このCD全集が、3080円(4枚組)なのだから、何とも・・・・


2001年2月1日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 交響曲第3番 「ポーランド」/スヴェトラーノフ ロシア国立響

交響曲 第3番 ニ長調 作品29 「ポーランド」
指揮:スヴェトラーノフ
演奏:ロシア国立交響楽団
録音:11,12 Jun.1993
CANYON Classics PCCL-00512

この第3番交響曲のみ、5楽章形式で構成されている。

1楽章は静かな暗い序奏で始まる。フルートほの暗い中にアクセントを与える。解説によると「葬送行進曲のテンポで」と指示されているらしい。

しかし、この葬送のテーマ(約4分)のあと、Allegro に入り一気に盛り上がりを見せる。まるで躁鬱質の鬱から躁に変わったかのよう。弦楽器の強い響きとオーボエやフルートなどの木管の絡みがすごい。この部分もよく聴くと、なんだか輪になって民族舞踊を舞っているように思えないでもない、あるいは躍動感と流麗感の対比によるバレエのような・・・。最初の葬送のテーマはどこにやらと言った印象で、音楽は進行する。

非常に多くの要素を詰め込んだ楽章である。まるでこの楽章で完結せんばかりの勢いで、演奏会場でこの演奏を聴いていたら、楽章の終わりには「つられ拍手」をしてしまいそうである。スヴェトラーノフもここぞとばかりにオケをドライブさせ楽章を終えている。思わず含み笑いがこぼれてしまう。

��楽章も舞曲である。ミステリアスな異国風の踊りが踊られるよう。非常に浮いた感じのとらえどころのない、センチメンタリックな、ときにとぼけたような味があり、そこがまたチャイコフスキー的な楽章である。ガンガン鳴らす楽章も良いけれど、こういう楽章の組立てはチャイコフスキーはうまいと思う。

��楽章も少し暗めで始まったあとに、弦による非常にゆったりとしたロマンチックな旋律が奏でられる。例えが適切かはさておき、マーラー5番の4楽章のような雰囲気(あくまでも、雰囲気ね。あんなに切なく甘美じゃないし、目指しているものも全然ちがうから)。

��楽章はスケルツオが挿入されている。細かな動きが繊細さを感じさせる感情を抑え目の楽章。何かを予感させるような印象を与え短く終わる。

��楽章は前楽章とは対照的に、ふっきったかのような断定的なリズムで堂々と開始される。序奏から始まるテーマが終わったあとに、民謡風なテーマもあらわれるが、楽章を統一するのは最初で提示されたテーマ。これが発展(そんなに発展はしないんだが)しつつ繰り返される。
テーマのそのまんまの再現と繰り返しみたいなのは、チャイコフスキーの初期の交響曲に共通のように感じる。(厳密に音楽的にどうか、ということは詳しい方の解説を期待したい)

中間部にフーガ調の部分があるが、第1番交響曲でも使われた手法かな。後半に向かってはまた、例のごとく壮大に盛り上がってゆくのだが、ロシア国立管もそれに答えるように、金管は吼えるし弦は切れんとばかりにに鳴き、ティンパニはもう叩くたたく。

ラストへ向けて徐々に徐々に盛り上がってゆくところは、非常にカタルシスが発散できる部分だ。その到達した先の、トランペットのテーマの部分ではもう、頭がどっかに吹っ飛んでしまうかのよう。ここらへんからは、手を抜かずにいくぞいくぞ、みたいなエネルギーを感じる。

ただし、チャイコフスキーの第1、2番交響曲と比べてみると、叙情性みたいなものは一番少ないかなとも思う。

しかし、チャイコの交響曲って・・・・・・いい意味でも悪いいみでもチャイコフスキーにしか書けなかった世界だなと思うね。その特異性という点からも、もっと評価されてもいいかなと思う。

 

 カップリングはスラヴ行進曲。この曲は、何も考えずに、許される限りの音量で(近隣や家族から苦情のこない、ウォークマンなら電車の中で変な奴と思われない範囲で)聴くのが正しいかなと(^^) スヴェトラーノフ、ここではかなり速いテンポで一気に駆け抜けている。あんまりオケを鳴かせるような演奏ではなく、さらりと驀進する。これはこれで、ブラボーかなと。