2001年2月24日土曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】交響曲第5番 ホ短調 作品64  マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第5番


交響曲第5番 ホ短調 作品64 
指揮:ロリン・マゼール 
演奏:ウィーンフィル 録音:1963 London 430 787-2(輸入版) 
 
なんと書いてよいのか分からない。マゼール盤でこのチャイコフスキーの5番をこんな感動をもって聴けるなどとは、予想だにしなかった。次に書くゲルギエフ盤へのつなぎくらいの気持ちでいたのだ。他の人の評価がどうかは知らないが、私はこの演奏をはじめて聴いたとき、2楽章の途中から体の震えと涙が止まらない想いをさせられた。これほど、慣れ親しんでいた曲であるのにだ。
何が違ったのか、いや、根本からして違ったのだ。私のこの曲に対する認識もそしてここに納められた演奏も。
この曲は、脳内に麻薬物質をばら撒くだけの曲なんかではなかったのだ。虚飾と余計な感傷を排除したときにこの曲が見せる姿は、運命に対する勝利などではなく、慈しみと受容であるのだと感じた。4番交響曲とはテーマに対する回答が違う、10年経ったチャイコフスキーの姿をそこに見ることができる。こんな風にこの曲を聴いたことがなかった。
1楽章の出だしから音が非常にクリアで新鮮さがある。カラヤン・ベルリン盤に比べアンサンブルも粗い、テンポもゆれるし強弱の幅も大きい。また、時に強いアタックやアクセントを楽器に要求しているが、それらはアクの強さとはならずストレートに心に響いてくる。マゼールは熱くなりまくって棒を振っているわけではなさそうだ、冷静な分析のもとに作品を見据えているように思う。
曲の進み方もカラヤン・ベルリン盤より速い。1楽章で2分、2楽章でも1分半、3楽章でも1分速い。快速系というわけではないが、この演奏の粗削りなところが、逆に切れ味の鋭さを呼んでいる。弦も強い、ティンパニの叩は乾いているが決然とした意思がある。無駄が排除された音が聴くものに訴えかけてくる。
1楽章の最終部から2楽章への渡りの音楽のつなぎ方がまた見事である。暗く憂愁の想いをこめた弦の響きの美しさ。そして、主題を奏でるホルンの音色もくぐもった暗めの音色で、年輪を経た木質系響きを感じる。これに絡むクラリネットやオーボエとの掛け合いは、親しい友人たちと語らいであったのか。この楽章では色々な楽器たちが話しに加わる。カラヤン盤でイメージされた月光の心象風景は浮かばない(!)。ここには甘美な世界はなく、淡々とした語りと思考がある。弦が受け持つ主題はホルンが象徴するもの(チャイコフスキー自身か)に対する慰めや諭しにさえ聴こえてくる。
運命のモチーフが最初に出現する7分すぎに、テンポがぐっと遅くなり引っ張るのだが、それが唐突に終わる意外さ。その後のテーマは元のテンポに戻っているがピチカートがクリアだ。そこに進み始めたドラマがを感じる。11分で現れるティンパニとトロンボーンによる暗く強いテーマの部、その突然さは人生に用意された陥穽の暗示なのか。しかし、その後に続く優しい弦の響きにを聴かされたとき、思わず涙が浮かんでしった。今まで、ここで感動したことはなかった、慈しみという言葉が頭をよぎる。
3楽章は速い、軽快に駆け抜けてゆく、べたべたした感傷はない。5分半と短いためさらに経過句的な意味合いを強めている。ワルツだがこの演奏ではワルツは踊れない。
4楽章の出だしの滑らかさと優しさ、そしてオケの緊張感、鳥肌が立った(出だしの一音めが合っていないことを差し引いても)。3分すぎからの展開部の入り方、駆けてはいるが逃げてはいないことに気付く、目指したのは運命との共存か。トロンボーンからトランペットに引き継がれる上昇音形の前は、いたずらに昂ぶらない。トロンボーンとトランペットが奏でるフレーズの二度目の決然とした意思の表明という明確さ。
最後のフィナーレも運命に対する勝利ではない、チャイコフスキーが10年かけて見つけたのは、優しさと受容だったのか。マゼールは、決してチャイコ節をブリブリ言わせていない、しかし、その突き放したような演奏が逆に本質をえぐっているのか。各声部が明確に聴こえ、音楽を聴くものに語りかけるかのような説得力をもっていると感じた。
なぜかこの演奏と聴いたときの感情がシンクロしてしまったようだ。後日再び同じ感想となるかは分からないが、とりあえず日を改めて二度まじめに聴いてみた感想であると付しておこう。

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