2001年2月18日日曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】交響曲 第4番 ヘ短調 作品36 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第4番


交響曲 第4番 ヘ短調 作品36 
指揮:ロリン・マゼール 
演奏:ウィーンフィル 
録音:1963 London 430 787-2 (輸入版)
カラヤン盤との比較で聴いてしまうと、マゼールであってもどこか素朴さがが残る、まっとうな解釈の演奏であると感じてしまう。刷り込みとは恐ろしいものである。テンポの取り方も速すぎることもなく、カラヤンのような眩惑的な演奏ではない質実なアプローチである。もっとも先のカラヤン・ベルリンも決して速くはない、演奏時間を比べるとほとんど同じ程度である。
なお、眩惑的というのは、悪い意味で書いているのではない。マゼールを聴いた後、しつこくも再びカラヤンを聴いてみると、本当に1楽章からして眩暈を覚えそうになるくらいの耽美的なところが、やはりその演奏にあるのだ。
それにしても良く聴いてみると、ウィーンフィルは爆演気味の演奏であり、マゼールの指揮に良くついていっているようである。トロンボーンを始めとする金管群の迫力、それにコントラバスの低弦の動きはすざまじいばかりの迫力である。随所に現れる木管のソロや弦楽器との絡みの部分は、素朴な味わいとヒヤリとした透明感があり、ロシア臭さや自然の息吹を感じさせる。また、全ての演奏が対旋律までしっかり浮き出て聴こえ、曲のもつ面白さや構成を非常によく見通すことができるのだ。
��~3の交響曲の感想でも書いたが、この全集でのマゼール・ウィーンのコンビの演奏には、少々粗削りなところを感じる。それが本演奏の魅力ともなっているのだが、この交響曲の演奏ではその粗さが剥き出しになっており、聴くものに有無を言わさぬ運命との駆け引きと葛藤を示してくれているようだ。
��楽章はチャイコフスキーがフォン・メック未人に示した標題を念頭に聴いてみることは、音楽の本質を損なう作業だろうか。カラヤン盤(グラモフォン)の解説では、「標題は、作品への道を音楽的に誤って導くものではあっても、音楽的な方向を与えるものではなかった。(トーマス・コールハーゼ)」と書いている。マゼール盤(London)の解説を読むと、その標題とは以下である。
the melancholy which steals over us when, at evening, we sit indoors alone, weary of work, while the book we have picked up for relaxation slips unheeded from our fingers. A long procession of old memories goes by...There were moments when young blood pulsed warmly though our veins and life gave all we asked. There were also moments of sorrow, of irreparable loss."
私の下手な和訳で読むよりも、辞書を開いて読んでみたほうが雰囲気がつかめるだろう。この標題はそれほど演奏の的をはずしていないと私は考えるのだが・・・・
��楽章のスケルツオでも顕著なのだが、リズムが強調されるような演奏の仕方である。ピッコロの奏し方も激しく、キビキビした印象と若さをと弾むエネルギーを感じさせる。この演奏を聴くと、3楽章が4楽章への序奏(助走)であることがはっきり分かってくるのだ。
��楽章のモチーフ「白樺の木」はまだ白樺らしさを見せており、歓喜あるいは勝利のテーマや運命のテーマよい対象になっている。ただ、この楽章のマゼールの演奏は、やはりリズムを強調するような感じに聴こえ、少々軍隊行進曲風に聴こえる部分がないでもない。コーダの前に登場する、1楽章の第一主題(運命のテーマ)の当たりの盛り上がりと悲愴感はこの演奏の中での圧巻ともいえる部分で凄みさえ感じる。ホルンから始まるテーマからラストへは一気に駆け上り、歓喜爆裂といったところである。
いずれにしても、聴くほどに新たな発見のある演奏であり、曲であると思うのであった。

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