2001年3月30日金曜日

ヒラリー・ハーン(Vn) によるメイヤーのヴァイオリン協奏曲

指揮:ヒュ-・ウルフ
Vn :ヒラリー・ハーン
演奏:セント・ポール管弦楽団
録音:Sep 1999
SONY SRCR2571 (国内版)

エドガー・メイヤーは、CD解説によると現代アメリカの作曲家にして優れたコントラバス奏者であるらしい。代表作には「コントラバス協奏曲」「コントラバスと弦楽四重奏のための五重奏曲」などがあるとのこと。この作品はハーンのために書かれた曲であり、作曲は1999年。ハーンが世界初演にして初録音となる。

このヴァイオリン協奏曲は二楽章形式で構成されており、叙情的にしてアクティブな、またヴァイオリンの技巧(特にハーンの技巧を想定した)を十分に引き出している名曲といってよいと思う。

各楽章ともメロディアスなテーマと、(不安げな)速い動きの部分が対比されているようで、そこに静と動あるいは穏やかさと粗々しさなどの対比的なものを感じ取ることもできるかもしれない。途中でパグパイプ風(?)のメロディなども挿入されるが、全ての部分が明晰なハーンの美声により奏でられており、色彩美豊かな曲の姿を聴かせてくれる。

1楽章の出だしのメロディアスなテーマも印象的だが、2楽章の朝靄が明けるような、曖昧さとまどろみからの覚醒を感じるかのようなテーマも美しい。

ラストは非常に活発にしてヴァイオリンが躍動するかのような感じで終わるのだが、ハーン自らが解説で述べているように「パワフルでドラマチック、叙情的な美しさを持った」作品といえよう。この感想を書いてからも、何度も聴いてみたが、聴くほどにこの曲のもつ力みたいなものを感じることが出来るようになってきた。ラストに向けての盛り上がりは、非常にカッコいいと思う。

「現代音楽」というくくりが今の音楽界において有効であるかは所論あろうかと思うが、一般的な傾向として美しいメロディーの復帰というものがあるのだろうか。ともすると難解にして不快な音の連続と思われがちな「現代音楽」ではあるが、ここには音楽を聴く喜びを感じさせてくれる何かがあると思う。

「クラシック初級者」の私であるため、過去の偉大なるヴァイオリン奏者とハーンを比べて評することは今の私にはできない。若干21歳という若さの彼女だがこのCDは3枚目のもの。初めての録音をバッハのパルティータとしたことも瞠目に値するが、このような意欲的作品を奏する、あるいはアメリカの現代の作曲家(あえて現代音楽家とは呼びたくないが)が彼女のために曲を委託するという事実。こういうことは素直に喜ぶべきだと思う。

若手を育てることと、スターたるべき人材を発掘することが難しいことは、低迷久しいクラシック音楽界にあって心ある音楽関係者の口から語られることである。ヒラリーが今後どのような活躍や成長を遂げるのか、またメイヤーという同時代の作曲家が、今後どのような曲を作ってくれるのか。音楽を聴くものとしてその動向を静かに見てゆきたいと思わせる一枚であった。(残りのハーンの盤もそのうち入手しようと考えている。残り3枚なんで「コンプリート・コレクション」はすぐに出来上がるし(^^;;;)と言っても、今月はもう駄目だな・・・・

2001年3月29日木曜日

ヒラリー・ハーン(Vn) によるバーバーのヴァイオリン協奏曲 作品14

指揮:ヒュ-・ウルフ
Vn :ヒラリー・ハーン
演奏:セント・ポール管弦楽団
録音:Sep 1999
SONY SRCR2571 (国内版)

今年1月で廃刊となった「Gramophone Japan JAN 2001」で、「”ヒラリー・ハーン”という名の”引力”」というインタビュー記事が掲載されていたので、読まれた方も多いだろう。その中で同誌は彼女の演奏をして「過去の歴史の束縛から解き放たれ、限りなく伸びやか」と評している。また、「バーンスタインやバーバーの曲で表現している、友達のような親近感すら大作曲家達の曲に与えている。それでいて、作品そのものがもつ気品や、構成美も完璧な技巧の裏づけの下に提示してくれる」とある。

昨年、来日してショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲などを奏し話題になったので、生で接したことのある方も多いと思われる。  私は彼女の演奏は本CDが初めてであるが、私が彼女のこの盤の演奏を聴いて感じたのは、明確さと明晰さであった。

第一楽章はいきなりハーンの艶やかにして、そして確信を持った、たっぷりとした音色で開始される。スターン盤に比べて若々しく、青春のあこがれや若葉の煌めきを唄うかのようである。甘美さの中の陰影など逆にあまり感じられない演奏だ。録音が良いせいもあるのだろう、高音のトレモロの美しさや低音から中音域の音色は豊かである。音が非常に明確であり、それがある種の明るさを生んでいるように思える。言葉を変えれば、躍動する光と言っても良いかもしれない。

第二楽章は、哀しく美しいメロディがまず木管と弦で奏される。それに続くバイオリンソロにおいても迷いはなくストレートに曲が響いてくる。高音がなんとも言えずに美しく、また低音での歌も説明的ではない。聴き進むにつれ、いつの間にかバーバーの曲の流れに身を委ね、体の奥底からの深い充足感で満たされている自分に気付かされる。バーバーの音楽そのものがもつ魅力と、それを十分に引き出しているハーンの実力の賜物なのだろうか。

第三楽章は早いスケルツォの中にも、どこかユーモラスな響きを感じ取ることができる。これはハーンの余裕、あるいは遊び心だろうか。短い楽章だが心が浮き立ちせき立たされ、それでいて心地よい。少しバックのオケがもどかしく感じる部分もないわけではないが(後半の特にバイオリンとトランペットが絡むあたりから)それでも、ラストは激しすぎずに、しかし、決然と終わるさまは潔い。

この演奏を聴いてから、スターン盤を聴いてみて驚いた。そのスピード感の違いである。技巧を要すると言われるこの楽章を、それこそハーンは猛スピードで駆け抜けている。時間はスターンが3分54秒、ハーンは3分25秒。数値ではそれほどの差が無いように思えるが、実際聴いてみるとスターンは「ゆっくりと練習しているのではないか」とまで思ってしまう、それほどの違いだ。

全体を通じて、バーンスタイン・スターン盤で感じられたような「ハリウッド的」なメランコリックや、ガーシュイン的な響きは全く感じられない。先の演奏の感想を読んでみると、まるで別の曲を聴くかのようだ。彼女の演奏は現代的で爽快、曲の姿をくっきりと透明に描き出しているように感じられるのであった。

この感想を書いて気付いた。「ストレートに」だとか「説明的」などという抽象的な言葉が、あるいは「○○のような」などの比喩が、どれほど他の人にも通用する表現なのかは分からない。音楽を言葉にすることの難しさを感じずにはいられない。

2001年3月24日土曜日

トマス・ハリス:ハンニバル




「ハンニバル」はサイコ・スリラーの草分けたる名作「羊たちの沈黙」の続編、人喰いレクターを主人公とした物語、というだけで話題性十分の作品であろう。4月7日からは映画も公開され、その筋(^^)では話題沸騰なのではないだろうか。したがって、この感想ではストーリー展開やラストについて詳しく言及はしないつもりだ。とは言っても、この小説をこれから読もうと思われている方は、私のくだらない感想など読まないで、さっさと文庫本の頁を繰るか映画館に足を運ぶことを勧めたい。



トマス・ハリスが本書の主人公たるハンニバル・レクターに与えたキャラクターは驚きに値する。連続殺人犯にてカニバリスト、精神医学者にしてルネサンスの高名な学者にも比肩する教養、自らもチェンバロを奏するほど音楽教育の高さ、文系の高い素養ばかりではなく、高等物理学の「ひも理論」を数式展開できる知性、そして本格的な貴族趣味ともいえるスタイルなどなど…。まさに比類なき天才と呼んでも良いかもしれない。



レクターのキャラクターは「レッド・ドラゴン」で登場し、「羊たちの沈黙」で展開されたものだ。私にとってレクターは、「羊たちの沈黙」で強烈な印象を与えたことは確かだ。高い知能を有した精神科医かつ殺人者という役割は理解しても、彼がクラリスや殺人犯のプロファイルを行うという設定に乗ることができなかった。


殺人の後「ゴールドベルク変奏曲」を聴く、などのエピソードも「異常者による快楽殺人」という世間が飛びついてしまったテーマ以上の要素を感じなかったことも確かだ。もっとも映画の印象が強すぎて、小説の印象など今となっては吹き飛んでしまっているのだが。



今回の小説は、ハンニバル・レクターという人物そのもを書いたものと言えるものである。クラリス・スターリングさえここにおいては、ひとつのトリガーでしかない。「羊たちの沈黙」では、クラリスの過去が非常に重要な要素として書かれていたが、「ハンニバル」では、彼の嗜好や知性、生い立までもが細かく描写されている。その筋道における猟奇性に関する印象は薄い。


読み方によっては、「レクターとクラリスの幼児期からのトラウマと葛藤と解決の物語」とも読めるし、または「レクターとクラリスの異常なる愛の物語」という読み方も出来るかもしれない。私には、このような定型的にして陳腐なテーマよりも、ハンニバル・レクターというキャラクターと、この小説を操るトマス・ハリスの視点そのものが一番興味深かった。ラストのありようでさえ、(かなり、びっくりはしたが)それほど衝撃的な結末ではない。



緻密にそして詳細にハンニバルその人が書かれることで、あるテーマが浮かび上がってくるように思える。それは、「聖」と「俗」、あるいは「正」と「悪」、はたまた「神」と「悪魔」など、混沌として雑多な刺激に満ちた現代においては、境界があいまいになってしまった二律背反する概念である。トマス・ハリスはその概念を、一昔前ならば「勧善懲悪」的に処理したのだろうが、混沌とした概念として提示している。



人間の考えうる最大の悪といえば、殺人であろう。しかし、歴史が証明するまでもなく、殺人さえ戦場や凶悪犯罪現場においては絶対悪ではない。現に、FBI特別捜査官のクラリスは冒頭から5人の凶悪犯を射殺し、世間の注目を一身に浴びている存在だ。もっとも、それは賛辞を浴びる形ではなく、悲劇的なゴシップを好む大衆や、彼女を貶めようとするFBIの上官などの私利を絡めた、陰湿なる悪と対比されながら書かれるのだが。


このように、「悪」の境界がぼやけている現代において、醜悪にして生理的な不快感さえも与える「絶対悪の典型」として、タブーとされるカニバリズムが提示されているのではないか。しかも、生存するための人喰いではなく「快楽としての人喰い」という、最も恐ろしい形で。


一方で、人間の考えうる最も偉大なる知性のひとつである、音楽芸術や文学、高等物理学などが登場する。それが同一人物に存在するという矛盾を敢えて提示しているのだ。そう、全て併せ持つのが、主人公ハンニバル・レクターだ。小説中でも書かれているように、もはや「人間」ではなく「怪物」といっても良いかもしれない。



もっとも、最初からこれらのことが全て明確に分かっているのではない。玉葱の皮を一枚一枚剥くように、小説を通して、次第に彼の実像が明らかになってゆく。それは読んでいて畏敬の念とともに静かな恐怖さえ覚える。


彼のほかにも色々な悪が登場する。イタリアの身の毛もよだつような誘拐魔やスナフムービーを撮る映画監督などは(悪がストレートなだけ)かわいい(?)方で、自分の保身のためには手段を選ばない警察やFBIの高官たち、復讐に燃える異形の金満家などには全く同情の余地がないような描写のされ方をしている。そういう「悪」の中で、ハンニバルの冒す悪の意味は何なのだろうかと考えさせられてしまう。


俯瞰して眺めると、いろいろな人間の愚かなる行為を通して、そこに歴史観をまで含めた人間界の愚かな様が見て取れる。まるでヒエロニスム・ボスの絵を見るかのごとくだ。そこに「神」の視座はない、「神」は何もなさないのだ。



クラリス・スターリングがハンニバルの救済(それは死かもしれないのだが)に大きな影響を思すであろうことは予想していたことだ。しかし、作者の提示した結末はあまりにも意外であった。そこに言及するのは止めるが、私自身ここまで読んできて納得のいかない思いでページを閉じた。


トマス・ハリスが憎み、殺し去ったのは誰で誰が生き残ったのか、それを考えると彼の視線がおぼろげながら見えてくる気もするが、今は断定することができない。


トマス・ハリスのこの小説は、ハリス自身の視点が随所に挿入されている。これをうざったいと思う読者もいるかも知れないが、私はには非常に面白かった。示唆に富む批判は、鋭利な刃物で読むものをを貫くかのようだ。印象的なものとして、フィレンツェの「残忍な拷問器具」を見る観客の姿を描写した部分がある。私はこの部分を読んだとき、人間の業の深さを思い知るとともに、逆にこの小説を読みつづけようとしている読者そのものを、紙面の裏側から赤く光る目で眺めている、トマス・ハリス自身の目を感じたものである。


あるいは、「世俗的な名誉など屑も同然と悟ったとき、人はいかに振舞えばいいのか?」ということが示す問いは重い。また、最後の晩餐の前にハンニバルの言う言葉、「晩餐は概して味覚と嗅覚に訴えるものだが、この二つは人間にとって最も古く、精神の中核にも近い感覚だ。この味覚と嗅覚は、精神の中でも<憐憫>の上位に立つ場所におさまっている…」。この部分が他の何よりも私には恐ろしかった。その後に展開する惨劇を予測したためではなく、その事実自体に戦慄したのだ。

単なる「サイコ・スリラー」というものの枠をはみ出す、非常に示唆にとんだ小説であると思う所以である。



(追記)

以上は、結構真面目な読み方をした感想である。しかし、より直感的に考えるならば、この小説では「甘美とも言える恐怖」「人間のエゴとしての恐怖」など、色々な形での恐怖のありようが書かれており、また、「恐怖」が「快楽」と「エロス」にさえなってしまうような、危険な匂いに満ち溢れ

ている。我々はこの小説を、トマス・ハリスがどんな「残酷な」ことを書くのかを頬を紅潮させながら読み進めることとなるのだ。



背中から肺臓を剥き出しにされ、さながら天使を模して殺されたという描写にしても、それが実際に過去にあったということに、小説以上の事実に慄然としながらも、頭の中ではその死体の様子を思い浮かべ、脊髄に静かな痙攣を覚えるのを楽しんでまう自分に気付かされるのだ。



最後の章の「長いスプーン」という題からして意味深であり、読む前から大きな期待と不安にかられながらそのシーンにたどり着くのだ。高貴な残忍さというものを許容するのか嫌悪するのか。

2001年3月22日木曜日

工藤重典のフルートを聴く~J・P・ランパルへのオマージュ

日時:2001年3月22日
場所:王子ホール
フルート:工藤 重典
ピアノ:藤井一興

J.S.バッハ:無伴奏フルートのためのパルティータ イ短調 BWV.1013
ベートーベン:スプリング・ソナタ ヘ長調 Op.24
P.ゴーベール:ファンタジー
矢代秋雄編曲:さくら変奏曲
A.バッチーニ(矢代秋雄編曲):妖精の踊り
プーランク:フルート・ソナタ

昨日はパユをサントリーホールで聴き、今日は工藤重典のコンサートを聴ける。東京はなんと音楽的に潤沢な場所であろうかと思う。

この演奏においては、ランパルに捧げるとあるように、昨年亡くなったランパルの弟子であり、80年の第1回ランパル国際フルートコンクールで優勝した工藤さんが、彼にゆかりの深い曲を中心に演奏したものである。

1曲目のバッハの無伴奏パルティータは、木管を用い柔らかな響きとバッハ特有の、どこか崇高なものを求める気持ちや、まるで大きな時間の中に投げ出されたかのような感じを聴くものに届けてくれた。

2曲目のベートーベンのスプリング・ソナタのヴァイオリンのフルート編曲版なのだが、どうもこの手のロマン派の曲は、失礼ながら聴いていて飽きてしまう。技巧もメロディーも素晴らしいのだが、これは好みなのだろう。それに工藤さんは本調子ではないのか?と思わせる部分が幾度かあった。彼の演奏を聴くのは2度目だが、ミストーンがあったり高音での音の伸びやかさに欠けているように思えた。いや、これは昨日の「パユショック」のせいだろうかなどと思いながら、曲にのめりこむことが出来なかった。

休憩をはさんで、ゴーベールの後の2曲は、ランパルのために矢代が編曲した曲。演奏の前に工藤さんの説明があり奏されたが、ランパルをしのぶという意味合いからも、音色が深く会場を包む思いがした。「妖精の踊り」はヴァイオリンであっても技巧を要する曲だが、フルートではそれこそ超絶的な技巧の演奏になるのではなかろうか、圧倒的な技量に裏付けられた快演であった。工藤さんの調子が悪いなどと考えたのは私の思い過ごしと疲れのせいのようだと思い知らされた。

最後のプーランクのフルートソナタは、ランパルが初演したもの。曲の細部もプーランクとランパルが練り上げたものであるとのことで、工藤さん自らがフルート協奏曲の中でベスト2に入ると言う曲である。そういう思い入れのある曲であるためか、非常に楽しめる演奏であった。1楽章出だしのかっこよさ、2楽章の夢見るようなゆったりとした感じ、3楽章の一転した早いパッセージ、何度聴いても良い曲だ。でも、工藤さんの一番のフルート協奏曲とは何なんだろう?

アンコールはまずはチャイコフスキーの「感傷的ワルツ」。おお、これはいい。楽譜が欲しいと思ってしまう。(吹けないだろうけど)

2曲目は、武満徹をしのんでということで遺作の「Air」。実は今回の演奏会で、これが一番素晴らしかった。工藤さんは最近、武満をしのぶという形でCDも出している。武満独特の沈黙が隣り合うかのような豊穣な世界が、最初の一音から展開された。よく聴くと、武満が影響を受けたというドビュッシー的な色彩が色濃い曲である。こういうテの曲は、演奏会場で聴いたとき独特のテンションをもって聴くものをつかむ。たった数分間だが音楽とともに深く内面に入り込んでゆくような感じを受けるものだ。昨日のパユのシリンクスといい、プロの演奏家のもつ力はやはり凄い。

このごろは、アンコール3曲てのがお決まりなのか、最後はビュッセールの「プレリュードとスケルツォ」。名前を聞くとどんな曲?と思うが、聴いてみると、「ああ、あれ」と言うくらいよく知られた曲である。武満の緊張を溶かし、満足のなかコンサートは終了した。

話しは変わるが、このコンサートの客層がちょっと変わっていたので最後に付け加えておきたい。工藤さんだって世界的に有名なフルーティストだ。昨日のパユでは、オールパユのコンサートではないにも関わらず、フルートバックを抱えた「いかにも」的な人が多く目ににつた。今日の工藤さんの演奏会は、60歳前後の高齢の男女が多く目に付く。王子ホールという場所がらなのか、工藤さんであっても東京ではもはや演奏会としては珍しくもないのか、うらやましい限りである。それにしてもなぜ?と思いながら会場では場違いな思いをしながら席に座っていた。

2001年3月21日水曜日

サントリーホールN響名曲シリーズ オービック クラシック・スペシャル(その2)

日時:2001年3月21日
場所:サントリーホール
指揮:ヤコフ・クライツベルク、NHK交響楽団
モーツアルト:フルート協奏曲 第2番 ニ長調 K314
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

めったに得ることのできない充足感を得た後にマーラーの曲を聴くためにはスイッチの切り替えが必要だ。20分の休憩をこれほどありがたいと思ったことはない。

クライツベルクは名前さえ初めて聞く指揮者だ。解説によるとベルリン・コーミッシェオーパー音楽総監督、ボーンマス響常任指揮者・芸術監督もつとめるロシア出身の指揮者とある。考えてみるとモーツアルトではほとんどパユしか見ていなかったようだ。改めてマーラーを振るさまを見ると、彼はかなり長身の指揮者で、マーラーも暗譜で棒を振っている。手足が長く、指揮の仕方がどことなく固くマリオネットのような印象を受ける。その指揮姿のイメージが手伝ってか、フレージングの作り方は短めで、余韻に浸り切ったり、マーラーの頽廃や情感を必要以上に強調するタイプの指揮者ではないとの感じを受けた。演奏解釈も若々しさがあると思う。

NHK交響楽団は久しぶりに生で聴くが、非常にバランスの良い素晴らしいオーケストラであると改めて関心させられた。当たり前のことなのかもしれないが、どこの部分にも崩壊は認められず、クライツベルクの指揮に忠実についていっているように思えた。ここらが一流オケとしての貫禄なのだろうか。

私の場合、「巨人」はマーラーの曲の中でも、それほど聴く機会が多い曲ではない。他のマーラー作品に比べて、短いせいか、親しみやすいと思われている。3楽章などは有名なフレーズであるし曲のテーマ(青春の葛藤とか地獄らか天国へとか)も比較的明快だと思う。

しかし、曲に聴き入ってみると非常に複雑な曲構成であり、意表をついた展開をすることに気づく。メランコリーでロマンティックなメロディやそこに突然不安げな音がかぶさるなど、マーラー的な素材が詰め込まれ、さらに極めて前衛的な響きも聴こえてきて、興味は尽きない。

バイオリンの高音でのトレモロや木管などの4度の下降音形は、独逸の深き森の中で湿り気を帯びた木々の匂いをかぐかのごとき思いだ。深く息を吸い込むと遠くでは鳥のさえずりさえ聴こえてくる。このような、自然の息吹とメランコリックなメロディ、そして若き激情と葛藤が交互に現れるが、クライツベルクの指揮は劇的ではあるものの甘美ではなく、ストレートに感情が伝わってくる。

ラストに向けての盛り上がり方もうまく音量も十分。深い霧(それは自然の霧でもあり作者自身の心の霧でもあるのかもしれないが)を晴らすかのようなコーダは圧倒的だ。打楽器の空気を震わす重低音、その音圧は会場全体を振動させ椅子さえ震え、腹の底に響いてくる。シンバルの炸裂音、ホルンとトランペットの咆哮など、決して大音響でも崩れずそして下品にならないように持ってゆくさまは非常に心地よい。最後はホルン(8名!)とトランペットをスタンディングさせてのクライマックス。怒涛の打楽器のロールは一段と音量が高くなり鳥肌立つ思いさえした。

本演奏を聴いて感じたのは、少々憂鬱な霧が晴れた後の、清々しく凛とした大気の冷たさと、内からこみ上げてくる喜びと若きエネルギーだ。マーラーは生で聴かなくては駄目だと言う人もいるが、確かに、こういう演奏を聴いてしまうと、チマチマと再生装置を通して、しかも不満足な音量と音質でマーラーを聴くことがむなしくなると言うものだ。

というわけで、非常に大満足の演奏会であったのであった。まあ、マーラー好きの方から見たら、どういう演奏だったのかは分からないが。

サントリーホールN響名曲シリーズ オービック クラシック・スペシャル(その1)

NHK交響楽団による名曲の紹介シリーズ4回目の公演らしい。パユと「巨人」が聴けるというので、サントリーホールに駆けつけたが、行って心からよかったと思える演奏会であった。

日時:2001年3月21日
場所:サントリーホール
指揮:ヤコフ・クライツベルク エマニュエル・パユ(fl) NHK交響楽団
モーツアルト:フルート協奏曲 第2番 ニ長調 K314
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

モーツアルトとマーラーでは、全然向かうところが違うため、2回に分けて感想を書いてみたい。まずは、モーツアルトから。なお、この感想は演奏会終了後のメモを元に思い出しながら書いている。

パユが奏するモーツアルトのフルート協奏曲第2番はまさに極上の音楽であった。モーツアルトを聴いてこれほど深い充足感を味わったことはかつて無かったかもしれないとさえ思える。

冒頭の出だし、パユが演奏を始めた瞬間から、会場の空気が一変したような気にさせられた。私は特にパユのファンではなかったし、パユの生の演奏を聴くのはこれが始めてである。しかし、一瞬にして人をひきつける魅力があると感じた。最初の一音で私はパユの虜となってしまうのである。これがスター性というものだろうか。

パユの音色は時に強く、ときに弱く、宙を漂い流れるかのごとくゆるやかである。聴くものを決して挑発せず、音楽の美しさを称え、聴くものを喜びと幸福の衣で優しく包んでくれる。金の羽衣かと思うばかりの上品さと清楚さ、そして、柔なだけではないふくよかな懐の深さを兼ね備えた、これ以上何も求め得ないといえるほどの演奏であった。

カデンツァもパユのオリジナルのものということだが、技巧もさることながらテーマ旋律を巧みにそして華やかに変形させており、精緻にして華麗である。あたかもソロコンサートに接しているかのような緊張感と深い満足感を味わうことができた。モーツアルトの三楽章はそれこそあっという間に過ぎ去ってしまった。今でも眼をつぶるとパユの音色とモーツアルトの響きがよみがえってくるかのようだ。

アンコールはドビュッシーの「シリンクス」をソロで奏した。フルートが好きなリスナーやフルート吹きにはおなじみの曲だ。吹き始めたその瞬間、モーツアルトの王宮の中の華やかな雰囲気を引きずっていた会場の空気は、一転して牧神とニンフのミステリアスな世界変化した。それは本当に一瞬のできごとで、マジシャンが布を覆っていた厚い布を、さっと舞い上げたかのような印象さえ受けた。彼には会場の空気を自在に操ることができるのだろうか。

会場全体がしわぶきひとつなくパユの音色に集中するテンションの高さ。ここではモーツアルトとは違った音色で会場全体に響き染み込んでゆく。音楽の素晴らしさは、もはや表現することができない。曲の最後での消え入るようなppの美しさときたら、なんと称えたらよいだろう。金を暖めてゆるやかに伸ばしてゆき、細い糸のようになったそこに珠のような光がひと吹き煌めく・・・・、パユも万感をこめて耳に音が聴こえなくなってもフルートを構える姿勢を崩しはしないのだ。その余韻の豊かなこと。

もっとも、この沈黙と静寂と極度の緊張に我慢し切れずに、崩れてしまう観客がいないわけではなかった。しかし、2000人も収容するサントリーである。それはいた仕方ない、これほどの感興を味わわせてくれたのだ、大目にみようではないか。日々の疲れ切ってざらついた心の、深い部分までしみわたるかのようで、まさに、全身で音楽を味わったという喜びを感じる演奏であった。

2001年3月19日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ニーヨーク・フィルによる交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:Aug 1986
DG UCCG-9028(国内版)

このバーンスタイン86年の演奏は、とにかく遅いことで知られている。バーンスタインは通常45分程度のこの曲を約1時間かけて演奏している。特に第4楽章は17分と通常の倍近い遅さである。その点だけをとっても、好き嫌いの分かれる演奏だと思う。

��Dの解説によると、「レニーはチャイコフスキーの《悲愴》交響曲を指揮するとき、彼と一緒にオーケストラのメンバーの半数と、聴衆の半分が泣かなければ満足しませんでした」(ニューヨーク・フィル首席コントラバス奏者、ジョン・ディーク、バーンスタインの死後に行われたインタビューから)とある。バーンスタインがチャイコフスキーにこれ以上ないと思えるまでに感情移入し、交響曲もつ「情」の面を強調した演奏であり、曲への深い思い入れを十全に表現しきったという意味からは、比類のない名演であると言える。しかし、バーンスタインが表現した世界は、チャイコフスキーの提示した世界を凌駕しているとさえ言えるものであり、純粋にチャイコフスキー的なものを求めると、過剰表現と感じるかもしれない。

遅いことで有名な演奏ではあるものの、全体を通して良くこの演奏を聴いてみと不思議なことに数値ほどの遅さは感じないものだ。それは説得力をもったテンポであるために、聴くものを掴んで放さない力がある。もっとも、彼の描き出した世界を素直に受け入れれてしまうからそう感じるのであって、逆にいえば、この世界を受け付けなければ、「死ぬほどトロイ、ただ眠くなる」という感想も生じることも否めないだろう。

第一楽章はやはりこの交響曲の聴きどころのひとつだ。何度聴いても新たな発見に満ちている。第一主題は最初遅いテンポで奏されるが、次第に普通のテンポに近くなっている。第2主題も朗々と、(これでもかとばかりに)情感たっぷりに歌われている。この数分間で既にバーンスタインの魔力から離れることはできなくなってしまう。展開部の圧倒的な迫力は、何もかも押し潰すかのような重みを持って迫ってくる。あたかも煉獄の響きのようで、その向こうに神々しい存在まで感じてしまう。もはや畏敬の念に打ち震えてしまうようだ。再現部に入る前のティンパニの強打は運命の扉あるいは裁きの決心の槌音であろうか。再現部自体は、神の前の裁きに対するチャイコフスキー自らの弁明や告解にさえ聴こえてくる。最後のコーダでは不思議な光に包まれた至福の世界が、やはり見えてくる。

第二楽章のワルツも、遅いといえば遅いが気になるほどのものではない。非常に優しく歌っている。第二主題にしても、思ったほど情感たっぷりには歌っていない。 第三楽章は、この楽章のもつ躍動感やエネルギーは失ってはいないため、もどかしさは感じない。もともと、この楽章の存在意義がどの演奏を聴いても首を傾げざるを得ないのだが、ことさら戦闘的ではない演奏の方がしっくりするように思える。

第四楽章のテンポは、深い慟哭と魂への慰めが延々と奏されているように聴こえてくる。バーンスタインの演奏を聴いてしまうと、1~3楽章は終楽章のために存在していると思えてくる。1楽章はもちろん、2楽章の華やかなワルツや3楽章の勝利も、今までの人生の縮図を垣間見せているかのようで、4楽章で提示される深き悲しみの前では幻世のごとき儚さで回顧されるのだ。演奏が暗く遅ければ遅いほど魂は慰められ地上の煉獄から逃れることができるかのようである。最後に鳴らされるタムタム(銅鑼)は、この世との静かなる決別だろうか、何たるネガティブなアダージョであろう。

チャイコフスキーが最後に到達した世界がこの第四楽章であるとするならば、今まで誰も示さなかったような無情なるアダージョへの最大限の敬意がバーンスタインの演奏からは感じられる。

ここまで指揮者の主観や情感を打ち出した演奏を、名演と解釈してよいのかという問いも発せられるかもしれない。「バーンスタインが指揮すると、何でもマーラーのようになってしまう」との揶揄ともとれる評も目にしたことがある。でも、個人的にはそれ是とする立場である。

2001年3月18日日曜日

練習しなければ、吹けないところは永遠に吹けないままである

練習しなければ、吹けないところは永遠に吹けないままである。あまりに練習していないせいか、今日はフルートを床に落としてしまう夢を見てしまった。慌ててひろいあげて吹いてみると、傷はどこにもないのに音が鳴らない、愕然として目がさめるのであった。

こういう夢を見た日は、正夢にならないように気をつけなくてはならない。フルートの神からの警告なのだ。(そんなの居ないって)

てことで、久しぶりに練習するのだが、指の神経も唇の周りの筋肉も、フルートを吹くということを忘れてしまっており、初心者状態、やめたくなるなあ。

気を取り直して、今日はAndersen Op21の3番を練習。彼の曲は、臨時記号が多く、予想に反する音形がでてきてすっごく吹きにくい。何度やっても間違う。自分で自分の指を呪ってしまうよ。

レッスンでも出来ないところは当然吹けず、「よく指使い、練習してください」とのこと、ハア。あと、こういう曲でもきちんとフレーズを理解して吹かないと、なんだか何吹いているのか分からなくなっちゃいますなあ。

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団による交響曲第6番

交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団
録音:July 1997
PHILPS PHCP-11174(国内版)

はっきり言って、私はゲルギエフが好きである。どこが好きかというのを事細かにアナリーゼする能力は残念ながら持ち合わせていないので、凝りもせず根拠レスで感情的な感想を書いてしまうことを承知で読んでもらいたい。

 この悲愴からは、体の奥底から震えとともに湧き出してくるような、深く野太い慟哭を感じずにはいられない。重心は極めて低い。堂々とゆったりとしたテンポ設定は、荘厳な雰囲気で曲を支配している。ゲルギエフの持つ圧倒的エネルギーは、陰性の爆発を待つかのような凄みと緊張感がある。解説に「大地の底から湧き上がる重低音、炸裂する金管群が描き出す’人生の縮図’」とあるが、これは決してオーバーではない。

低弦の弦楽器の音は分厚く、肌を粗いタワシで逆さになでるかのような、ざわついた皮膚感覚を感じ、それが不安感や諦めの感情を良く表現している。フォルテに至ったときの、堰を切ったかのような響きは表現する言葉を失わしめる。トロンボーン荒々しくも強烈な咆哮、ティンパニの怒涛のロール、閃光が炸裂し一瞬目の前に無数の火花が散ったかのようなシンバルの響き。とにかく圧倒的である。激しさは鬼神か突風のごとくであり、雷鳴を伴い天地が裂けんばかりの迫力である。迫りくる暗雲の禍々しさと全てを飲み込む圧倒的な力に翻弄されるのみだ。(第一楽章の印象)

ゲルギエフの表現した運命はなんと強大なことか、あたかも、孤高の高みから人間たちを屈服させるごとき神の声だ。展開部の後に続く再現部は諭すかのような雰囲気を感じる。チャイコフスキーはそこに神の光をみたのだろうか。第一楽章最後のコーダは、この曲の中で神聖なる至福を感じる部分で、涙なしでは聴けない。

第二楽章は、ゲルギエフの盤で聴くと非常にパワフルだが、反面はかなさや優雅さは感じない。中間で現れるティンパニをバックとした第二主題の不安な翳さえも実像を伴うかのごとく擬人化されている、ちょっとやり過ぎという気もする。でも許す、ゲルギエフだもの。

第三楽章は戦闘的な楽章、完璧な戦闘配置と前線への行軍、重戦車と地対空砲撃弾を準備し、合図を待つ兵士たち、高まる緊張、上空を飛ぶ戦闘機の爆音、そして戦闘への火蓋は切られ・・・・最後は木っ端微塵に敵を蹴散らしての圧倒的勝利だ、赤き旗印のもと凱旋行軍が続く。なんだ、なんだ、これは戦争交響曲か? でも、これでもいいよ、ゲルギエフだもの(^^;;;

やはり、この曲の真価は第四楽章だ。この楽章は、彼の演奏からは以下のようなイメージが浮かんだ。

 降りしきる冷たい雨、霙まじりになるになるかのような重く垂れこめた空
 過去を振り返っても残るは深い悲しみと後悔
 あたかも自らの葬送行進をゆっくり歩むがごとし
 自らの魂を深き地中に封印する
 せめても哀愁を帯びた美しき唄をうたえよ
 雨は降り止まないが、魂は昇華してゆく
 運命を受け入れすべてを諦めよう
 深き嘆きも、もうむなしい、嘆くことさえむなしいのだ
 かつて心を動かしたものたちも、永遠に我とともに眠れ

 雨は霙から雪に変わった、棺の上には雪が積もってゆくだろう
 風が舞い雪を散らす、生きるものを眠らせる北から吹く冷たい風だ
 雪よ、全てを埋め尽くせ
 風よ、我の残滓すべてを撒き散らせ

 永遠に静かに眠るであろう、激しくも栄華と憔悴に満ちた人生への鎮魂歌たれ

こういうイメージを、ゲルギエフの演奏だから感じたのか、あるいは何度もこの曲を聴くことにより自分の中でイメージが膨らんだからかなのかは分からない。でも、彼の演奏はなぜか非常にイメージ豊かなんだと思う。私の語る言葉はへたくそでちっともイメージ豊ではないのが悲しい。

2001年3月16日金曜日

柳美里:家族シネマ

「家族シネマ」は1997年の第116回芥川賞受賞作である。家族というものの虚構と実像を書いたとか、
おそらくその手の書評は、数多く書かれているのだと思う。

 私は柳の小説を「命」「魂」しか読んだことがなく、この代表作の内容に関する事前知識もほとんどない状況でこの小説に接した。私はこの小説からは、彼女が書いた「家族の虚構」というものよりも「柳
美里」の等身大が浮き出てくるようで、切実なる思いを感じながらページを繰った。

 三つの短編、中篇が納められた文庫だが、自らの体にみみずばれに似た傷を付けるかのような自傷行為、あるいは鈍い刃物で皮膚を切り裂き、そこに生々しい肉の色が見えているような、そんな小説である。小説として語られる文体や言葉が、ぎりぎりの線で軋むかのような音を立てており、付け入る隙や、わけ知り顔で評論するような輩を冷たい視線で追い返すかのような凄みがある。

とにかく文章がすごい。解説は鈴木光司が書いているが、小説家は解説も的確だ、引用しよう。

柳美里さんが描写する風景は不思議だ。ガラス細工のように刺々しく、触れれば肌には傷が走って血が滲み出そうなほど、まさにいきりたっているように感じられる。

そう、彼女の書く風景に限らず、いろいろなものが、落ち着きおさまるところがないまま、浮遊し傷を負っている。「家族シネマ」の中で、「母はいつも百円ライターを握りしめ崖っ縁で生きている」という記述があるが、まさに主人公たちにもあてはまるかのような言葉だ。傷ついた過去や他人に絶対に理解されないような何かを持ったものたちが、現実と折り合いが付けにくく、なんとか生きあがくそのさまは、読んでいて痛々しい。

家族の虚構や再生ということで感じたことは、真摯に生きる姿を演じている自分を、自らの目では確認できず、他人からの視線(あるいはカメラ)を通してのみ現実として理解できるかのような、現代に生きるものたちのリアリティの喪失なのだが、これは多分この小説のテーマではないだろう。

文庫裏表紙に家族が価値あるものかを現代に問う名作とあるが、私にはそんな問題提起をこの小説からは感じない。そもそも、この小説で語られる家族は最初から壊れたものとして存在している。そして誰も再生させようなんて考えていない。この家族を見ていると、「家族の幸せ」なんて幻想でしかない、と暗澹たる気持ちになる。壊れた家族を持った、ある種の喪失をもったものたちの生きるさまが、柳独特の文体で迫ってくるのみだ。ただ、柳の投影たる主人公たちだけは、どこかに辿り付きたく、なにかにすがり付こうとしているかのようだ。単純な幸せ探しではない、でも、ある意味では彼女自身の再生への願いを込めた自傷行為とも言える小説であるように思えてくる。

2001年3月15日木曜日

バーミヤンの大仏破壊

イスラム原理主義者たちによるバーミヤンの大仏破壊の件は、やりきれない憤りを感じながらニュースに接している。

宗教がかんでいるので、私には理解不能の部分がどうしても生じてしまう。クラシック系のBBSで有名な「招き猫」の「カフェテリア」(*)で、何故か長いツリーが続いているが、過激な意見からなるほどと思わせるものまで、読み応えがある。

何にしても宗教という大義名分を立て、きわめてエゴイスティックな主張をしつづけることに対し怒りが沸き、彼らの無謀を留める手立てがないことに憤りを感じる。

難しいことは分からないが、「平和が戻っても昨日まであった大仏さまが、もう永遠に戻らないと思うと涙がこぼれる」と地元の人が言っていたことが心に染みる。

2001年3月12日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第6番

交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーンフィル
録音:1963
London 430 787-2(輸入版) 

チャイコフスキーは「情」を表に出した作曲家であるということは論を待たないだろう。悲愴交響曲が、チャイコフスキー自らの遺書とかレクイエムであるとの解釈も、先のカラヤン盤を聴く限りにおいては納得のできるものではあった。しかしチャイコフスキー自身としては、特定の人物や事件を想定したような「標題性」までは、この曲に付与してはいないのかも知れない。

マゼールのチャイコフスキーをここまで聴いてきて感じるのだが、全てにおいて非常に新鮮な切り口を見せてくれたように思う。悲愴においてもマゼール演奏を聴くことで、何度もはっとさせられる思いがした。

マゼール・ウィーン版で特筆すべきは、弦楽器群の美しさもさることながら、旋律と対旋律やバックの動きが非常に明確であり、曲の持つ構成美を見事に表出してくれていることだ。耳を良く澄ますと、色々な動きが聴こえてきてチャイコフスキーの言わんとすることがストレートに伝わってくるかのようだ。また、「若々しさ」とか「荒々しさ」、キビキビしたスピード感などという表現も何度も使ってきた。この演奏においても、切り口が鋭く鮮やかさであり、演奏に今までにない凄みを与えている。重心が低くない演奏であり、それ故、鋭い刃物で切りつけ、あたかも鮮血がほとばしるかのような想いを受ける。このような演奏を聴くと、粗さまで計算ずくの指揮のもと、ウィーン・フィルがそれに答えているように思えてくる。

例えば1楽章の9分ころから始まるクライマックス。激しさの中に、とてつもない運命の前への服従や諦めが見事に表現されており胸を打つ。しかも、激しさを持ちながらも、マゼールは冷静に、この曲の「情」に入り込みすぎないよう距離をおいた解釈をしていると思わる。それが逆にこの交響曲の持つ性格を見事に抽出している。1楽章の最後に見せるコーダはテーマは光に包まれた、微笑みさえ感じ2楽章へのつながりを感じさせる。

��楽章のワルツは、非常に流麗な演奏で、5/4拍子という不安定な拍子が表す揺れる不安な心がうまく伝わってくる。規則的にたたかれるティンパニは迫り来る運命の鼓動だろうか、さらりと早いものの、テンポの揺らしなども結構あり、新たな発見に満ちた演奏である。

��楽章は良く聴いてみると、行進曲風の力強いテーマの裏に、チャイコフスキー好みの繊細な動きが見え隠れし、ざわめきとして聴こえてくる。何か走馬灯のように今までの過去を振り返りながらの凱歌に聴こえてくる。華やかなこの楽章からして、過去を鎮魂するレクイエムなのかと思わせる。

��楽章は切り込むような鋭さで開始されるものの、感情過多にはなっていない。その解釈が普遍的な、悲しみの深さや諦念を見事に表現しきっていると言えようか。途中のクライマックスの悲劇的な部分も見事であり、激しくも静かな美しさに満ちている。

概して、マゼールの演奏は「情」の音楽であるチャイコフスキーの交響曲に対して、知的にして清冽なアプローチを試みた演奏であると思わせる。私は悲愴交響曲をチャイコフスキーという実像抜きに聴くことは出来ないと考えているが、マゼールはある意味、そういうものから脱皮し美しき普遍性へと昇華させた音楽を目指したと思えるのであった。マゼール盤は、純粋なチャイコフスキー党からは、好まれないタイプの演奏かもしれない。しかし、私はマゼール盤を聴かなければおそらく、チャイコフスキーの交響曲の真髄の一端に触れることはできなかったと断言できる。でも、色々なサイトで「悲愴」の名盤を読んだが、マゼール盤を推している人は・・・少ないなあ・・・

��実際マゼールが何を目指したのかは、解説には一言も書かれていないので、分からないのだが・・・、ぜーんぜん的外れかも知れないよ。)

2001年3月10日土曜日

バーンスタイン・スターン/サミュエル・バーバー:ヴァイオリン協奏曲 作品14

  • 指揮:レナード・バーンスタイン
  • ヴァイオリン:アイザック・スターン
  • 演奏:ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
  • 録音:April 27, 1964
  • SONY SMK63088(輸入版)

サミュエル・バーバーは20世紀のアメリカを代表する作曲家で、「弦楽のためのアダージョ」やこのヴァイオリン協奏曲が代表作である。

この曲は解説によると、Iso Briselli というヴァイオリン奏者のために作曲されたものである。最初の2楽章を受け取ったBriselli は、ヴァイオリンのヴィルトオーゾを振るうところがないと評した。それを受けバーバーは第三楽章を作ったが、今度は難しすぎるという。そこで、Herbert Baumel というCurtis 音楽院の学生に「2時間後に弾けるようになってこい」と命じ彼は見事に弾ききったため、Briselli の主張は退けられた(要は委託金=commission fee をバーバーは受け取ることができた)との逸話が残っている。

この逸話に表されているように全3楽章のうち最初の2楽章は、叙情的な曲である。20世紀の作曲家というと「現代音楽」というくくりにされてしまうのかもしれない。実際は、そういうつまらない先入観を持つことの愚かさを思い知らされてくれるような曲調で、非常にイメージ豊かだ。バーバーが何をイメージしたかは分からない。曲を依頼されたのは1939年、第二次世界大戦勃発前の不安な時代である。しかし、そうした時代性を抜きにこの曲を、バーンスタイン・スターンの演奏で聴くいてみると以下のようなイメージが浮かんできた。

1楽章は非常に甘美なテーマで開始される。甘美でありながら陰があり、散ることを知った花のような儚げなさがある。楽章全体を支配するのはこのようなイメージと、田園的なおおらかさである。中間部のゆったりした旋律や、ピアノが打楽器的に奏されるところでは逡巡や迷い、あるいは、ためらいや苦悩が聞こえる。5分頃ひとつの盛り上がりを見せるが、ここに至っては何かに大きく決心したかのようで、最後は安らかな解決を見る。

曲から受けるイメージとして、大時代的、語弊を覚悟で敢えて書くとすると、ハリウッド的な印象を受け、音楽の奥から女性像が透けて見えてくる。

2楽章は弦楽器に誘われて登場するオーボエの優しいテーマが奏でられる。不安な気持ちや戸惑う心に、やさしく語りかけるかのようないたわりに満ちている。2分50秒頃に始まるヴァイオリンのソロは、切々と歌われるアリアを聴いているかのよう。低音域でのうたは恋歌にさえ聴こえ、甘く限りなく切ない。儚さは1楽章と同じムードを有している。「歌えどもあの人は振り向かない」的な悲嘆が聞こえ、最後はソロが歌われ静かに終わる。こう思うのも、アメリカ=ハリウッド=恋愛映画みたいな図式からかとも思う。我ながら単純な発想である。

3楽章は演奏不可能と言われた楽章。一転して早いバイオリンの動きが続き、叙情的な楽章とは性格を異にする。短く切られた音の連続で、落ち着かなさと不安感が強調される。前の二つの楽章が田園的にして女性的叙情性に彩られていたのに対し、都会的な喧騒に満ちている。人ごみの雑踏とざわめき、車のクラクションさえ聞こえるかのような雰囲気のなか、バイオリンは極度の技巧を駆使して駆け回り、不安げな喧騒のクライマックスの後、唐突に終わる。演奏時間も4分弱と3楽章のうちで一番短く極度の緊張が凝縮され、プラスチック爆弾が炸裂したかの印象を受ける。

こうして聴いてみると、最初の2楽章は叙情的ではあるものの技巧的には緩やかなのかもしれない。時代の雰囲気を考えた場合の3楽章のありさまというのは、やはり世相を反映しているのかと思わせる。オーケストラにピアノを持ち込むことにより、音楽的雰囲気はガーシュインなどを思わせるところもあり、アメリカ的な音の作曲家であると思うのであった。

2001年3月7日水曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第6番

交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975
DG POCG-3870/1(国内版)

曲について

「悲愴」はチャイコフスキーの交響曲としての到達点であると思う。第4番交響曲から追求し始めた「運命のテーマ」が、ここでは「悲愴」という標題に象徴されるように、大いなるかなしみと諦念と陶酔的な死の陰で彩られている。彼はこの曲のわずか数週間後に命を落とす。彼の死はコレラとも、自殺とも、または同性愛であるがゆえに、当局から自殺を迫られたとの説まである。耳タコな曲だが、カラヤン・ベルリン盤でまずは曲をたどってみたい。

��楽章は憂鬱なオーボエの旋律で始まる。寄せては返すさざなみのようで、静かな夜の逝ってしまった世界(彼岸の彼方)を感じる。4分半前後から始まるバイオリンのテーマは、昔日に想いをはせ過ぎさりし幸せな日々を懐かしむような感じで胸が締め付けられる。この感情がたかまり更に心はざわめき乱れるが、全てはもう遅く万感の思いに満ちている。8分50秒くらいから始まるオーボエのテーマは、再び静かに椅子にもたれかかる老人をイメージさせる。(この手のイメージは数回書いてしまったな、ネタ切れか?)。

��分40秒に始まる突然の嵐のような激しさ、これもチャイコフスキーの交響曲によく見られる手法だ。心は千路に乱れ激しく疾走するが、解決をみないままに徐々に小さくなってゆく。しかし、不安の影は消えることはない。

��2分ごろ、再び激しく葛藤するかのような感情の渦に巻き込まれるが、ここに至っては大きな宿命の前で圧倒的屈服感と諦めの念に打ちひしがれてしまう。バイオリンのテーマが再び奏でられ慰めを求めるかのようだが、切迫感が伴い深い嘆きが聴こえる。16分ごろに先のオーボエのテーマが再び奏でられ、続くピチカートの伴奏に伴い歩むか夢見るかのような平安な旋律のもと、この楽章は締めくくられる。

��楽章はお得意のワルツである。非常に優雅な楽調ではあるものの、途中からは水をさすかのようにティンパニのリズムによる暗い影が投げ付けられる。忍び寄る運命への諦めの気持ちが支配してくる。この暗いテーマの音形がそのまま最初のワルツのテーマへと変わるさまは、幸福と避けられない宿命が表裏一体である、ということを示していると感じてしまう。もっとも、これとて、チャイコフスキーが今までの交響曲で表現してきたテーマであるのだが。解説によると、チャイコフスキー指揮者のアルトゥ-ル・ニキシュはこのワルツを、「涙を通じてのほほえみ」と称したとある。そうして聴いてみると、確かにと思わせるものがある。

��楽章はスケルツォだが、第4番、第5番の4楽章で見せたような、圧倒的な開放感と目くるめくような弦の動きにより、眩暈さえ覚えるのうな音楽となっている。打楽器の力強いリズムと弦の強振により行進曲風の堂々とした盛り上がりを見せる。運命に対する勝利感あるいは、最後の力を振り絞った抵抗と考えられなくもない。自らを鼓舞しているかのごとくであるが、この交響曲の性格を考えると異質であり、何故これほどの盛り上が必要なのか?と疑問を感じてしまう。

��楽章は、「ばか騒ぎ」とさえ思えた前章とは一転した楽章である。弦による哀しみのうたである。3楽章のでの喧騒の後だけに、一層さびしさが際立ち、一気に何歳も年を取ったかのような気を味わう。3楽章も昔日の自分の姿を表しているのだろうか、一度は宿命の力に打ち勝ったと錯覚した自分を。あるいは、この寂寥感を味わわせるために3楽章は存在しているのか。

��分30秒あたりで、ゆったりとした旋律がホルンなどをバックに流れるが、これはチャイコフスキーの到達した美の極致といっても良いかもしれない。ほとんど陶酔的と称してもよい。(カラヤン盤だからか?)

次第にクレッシェンドしてゆき、4分10秒に至って破れられる。寄せては返す哀しみの波と感情の高ぶりに、人生に対する侮恨と嘆きが聞こえる。もはや跳ね返すべき力はどこにも残されてはいない。弦楽器による半音階の上昇音形は何たる深い悲しみを表現していることか。チャイコフスキーが力なく漏らすため息や、泣き崩れている姿がだぶる。何故にここまで絶望しているのか。7分前後でティンパニーのロールのもと冒頭のテーマに戻るものの、最後は新たな悲しみを提示し、「人生は暗く厳しい」的な諦念をあらわにし、深いため息を漏らしながら、消え入るように終わる。

カラヤン盤について

この、哀しみの美学とも言うべき曲を、カラヤン・ベルリンのコンビは哀愁たっぷりに、そしてオーケストラが到達しうる最高の美しさで表現しているといっても過言ではないと思う。弦楽器を中心としたきめの細かさがすばらしく、どの断面を切り取っても深い感情が溢れ出してくる。哀愁は弦がほとんど、すすり泣いているかのごとく、明るい場面ではあくまでもきらびやかで、激しいところは怒涛を伴う鬼神のごとく、そして、ワルツはたとえ様もなく優雅である。  

ときに「耽美的」とも称されるカラヤンの演奏であるが、多くの感情や幾多のときを詰め込んだ、この偉大なる交響曲の演奏をするに当たり、逆にやり過ぎとさえ思えるほど美しく奏でられるが故に、人生のかなしみを表現するのにふさわしかったように思える。

久しぶりにこの演奏を聴いて、私は再び深く心を動かされた(だからって、毎回毎回涙はしないけどね)。感傷的過ぎる演奏という向きもあるかもしれない。しかし、曲が曲なのである。もうチャイコフスキーは諦めちゃって、どうしようもないのである。このような、特上の美しさで慰めを与えたって良いじゃないか、これはチャイコフスキーの遺書であり、また、自らに捧げる鎮魂の曲であると考えてしまうのも無理からぬことである。(しかし、こんなにストレートに悲しんでしまっていいの?て気もするんだけどね)

2001年3月4日日曜日

BERNSTEIN & The New York Philharmonic ADAGIO FOR STRING

  • 指揮:レナード・バーンスタイン
  • 演奏:ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
  • 録音:Jan 12,1971
  • Sony SMK63088(輸入版)

このような名曲を知らずに過ごしてきたことを、恥ずかしいとしか今は言えない。たかだか69小節程度のこの曲、弦楽四重奏曲の第二楽章の編曲版らしい。予備知識が全くない状態でこの曲を聴いた。聴きはじめて、そう最初の15小節が過ぎたあたりからだ、涙腺が緩み涙がぼろぼろとこぼれてしまった、それは止めようもない、自分でも制御不能となった感情の高まりであった。  

楽譜を見るとフラット5つのb-mol、音階に限りなく近い音符が並んでいるだけである。それが、どうしてこんなにも人の心を揺さぶりを感動させるのであろうか。

人間の持つ神聖さ、敬虔な祈り、悲しみや慈しみなどの、非常に気高くも冒しがたい感情の動きが表出されているのか、いや、言葉はこの音楽の美しさとかなしみの前では無力でしかない。あまりの深く静かな衝撃に呆然とするばかりで、文章を書くことを放棄せざるを得ない。今できることと言えば、深く頭を垂れこの10分弱の体験の中に身をゆだね、全ての許し受け入れることだけだ。私の葬式の場ではこの曲を流してもらおうとさえ思った。恐るべきバーバー、そして、恐るべきバーンスタイン!

曲のもつ雰囲気を、George Santayana がよく言い表していると解説にあるので、そのまま引用しておく。(誰かうまい日本語訳していただけないだろうか・・・)

"Thus divine beauty is evident, fugitive, impalpable, and homeless in a world of material fact; yet it is unmistakably individual and sufficient unto itself, and although perhaps soon eclipses, is never really extinguished: for it visits time and belongs to eternity."

感情の赴くままにキーボードを打つことは自省せねばと思うが、それでもこの衝撃を書かずにはいられなかった。なお楽譜は、フルート編曲版を基にしているので実際とは異なるかもしれない。

テレマンソナタの3楽章と4楽章を練習

テレマンソナタの3楽章と4楽章を練習。

��楽章を吹く前に、アンブシュアを小さくしつつも息のスピードは下げないで吹くというのをH2~Gに下がる音形で何度か吹かされる。倍音を多くした太い音の練習とのこと、腹圧を下げてはいけない。

��楽章は、リピート二度目に、ちょっとした変奏を加えることを教えてもらう。確かにCDで聴いていても二度目は華やかに変奏している。しかし指定スピードでは吹けないなあ。もう少し練習しないとだめだと痛感。ここが上手く吹けないと曲にならんぜよ。





2001年3月3日土曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 スヴェトラーノフ指揮 NHK交響楽団による第5番交響曲

NHK交響楽団 第1328回 定期公演

日時:1997年9月5日
場所:NHKホール
曲目:オールチャイコフスキー プログラム

スラブ行進曲
ピアノ協奏曲 第1番
交響曲 第5番

指揮:エフゲニー・スヴェトラーノフ
ピアノ:中村 紘子
演奏:NHK交響楽団

スヴェトラーノフ・N響のコンビによる5番を、かなり以前だが聴いたことがある。Nifty クラコンか何かに書いたログを、当日の雰囲気を伝える意味で全文掲載しておきたい。

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上京する機会があり、N響定期公演に行ってきました。N響は、初体験です。FCLAの皆さんは、N響に対する評価が非常に厳しいのですが、私には新鮮にして驚きの演奏会でした。プログラムはオールチャイコフスキー。席は1階L03列09番(舞台の左側)です。演奏は休憩をはさんで2時間20分。定期としては長い演奏会だったと思います。

まず、NHKホール自体が始めてだったのですが、その大きさに圧倒されました。4000人近く入るホールというのは、ちょっと大きすぎると思っていましたが、それが満席状態。札幌とは客層が違いますね。中村さんのファンなのか、女性が目に付きました。

スヴェトラーノフは、指揮棒を持たないタイプ。おなかがとても大きいです。

まず、スラブ行進曲。非常にゆったりしたテンポで始まりましたが、けれん味がなく素直に聴ける演奏でした。それほど大きく揺らすわけでもないのですが、ラストに向かって、心地よいリズムとなり、納得のできるものでした。

さて、次は中村紘子のコンチェルトです。これについては、ちょっとコメントを差し控えたいです。ただ一つ言えることは、私の好みではなかったこと。スヴェトラーノフとN響が表現している音楽と、中村さんが表現しているものが異質であったと感じられました。オケの弦の響き、木管のやさしさや、かなしい響きが、彼女にはどう伝わっていたのでしょう?でも帰り際に、「ピアノ凄かったねえ」と言い合っている女性も何人かいましたので、繰り返しますが私の好みであると断っておきます。

チャイ5は、非常に好きな曲にランクされますが、期待を裏切らない演奏でした。細やかなアナリーゼはできませんが、1楽章、スラブ行進曲のときのような遅めの店舗で始まります。でも、その遅さが聞き進むにつれて、納得の出来るもので違和感なく心に入ってくるのです。弦の響きも木管や管の鳴らし方も、やりすぎのような嫌らしさが全くなく、非常に素直な表現と相まって、曲が浮き彫りにされてくるような印象です。

��楽章のホルンは素晴らしいの一言。今まで私の心象に現れる風景と、違った風景を見せてくれました。4楽章は、この楽章の持ち味の疾走感がうまく伝わってきました。盛り上げ方も自然で、思わず「これはいい」と拍手をしながらつぶやいてしまいました。

私は、札幌で札響を中心にオケの演奏会を最近聴き始めましたが、N響は素晴らしいですね。特に金管の音色、チェロ、コントラバスの低弦の支えなど素晴らしいと感じました。

(1997.9.6)

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ずいぶん昔の感想を引っ張り出してきたが、今読み返してもあのときの感動がよみがえる。

この演奏は、「やる気のない」とか「ヘロヘロの金管」とか、一部の心無いマニアの間で酷評されていたN響が久々に素晴らしい演奏をした、との感想が多かったようだ。(しかし、ファンなのか何なのか分かりませんが、聴衆というのは勝手で残酷なものだ。)

��楽章と2楽章の合間に、スベトラーノフが客席に向かって、「この第2楽章(アンダンテ)をプリンセス・ダイアナに捧げます」て言ったらしい。終演後、ホルンの松崎さんも指揮台に上がるように言われるなど、熱演だったのだと思う。何だか、思い出して書いていると、ずいぶん時間がたったんだなあ、としみじみしてしまうなあ・・・。

演奏会の後、フルーティストの小出信也さんと、Nifty のパティオの方と一緒させてもらったのも思い出に残る。あのときの写真はどこに行ってしまったのだろう・・・・

(2001.3.2)

2001年3月1日木曜日

坂東眞砂子:道祖土家の猿嫁

 坂東 眞砂子といえば、「死国<93>」「狗神<93>」「蛇鏡<94>」「蟲<94」などに始まる一連のホラー物で有名になった作家という印象が強いだろう。実際私も彼女の作品は「蟲」を、角川ホラー文庫で読んだのが始めてだった。彼女は日本的な習俗に根ざした、極めて土俗的な恐怖を書き出すことに特色があった。映画化された「死国」や、古代の鏡をテーマにした恐怖を書き出した「蛇鏡」など、その作品の魅力を語り出せばきりはない。「蟲」は94年
日本ホラー小説大賞の佳作作品である。

 そんな彼女だったが、「山姥」にて1996年
第116回直木賞を受賞した。この作品はホラー色から踏み出し、越後を舞台とした壮絶な物語を書き出していた。内容のもつリアリティと迫力、濃密さ、ラストに至るプロットの設定など、確かに直木賞をとるだけあると思わせる小説だった。




 そして、今回の「道祖土家の花嫁」である。道祖土家=さいどけ
と読む。解説帯にあるように、土佐の山奥の名家、道祖土家に嫁いできた蕗という嫁(これが顔が猿に似ていることから猿嫁とあだ名された)を通して、明治から現代にいたるまでの約100年を書ききった小説である。

 「山姥」においてはまだ伝奇的要素に寄りかかった面があったが、「道祖土家の猿嫁」にはもはやホラーはかけらも見出せない。彼女の好んだホラー要素は、純粋に土俗信仰的なものに還元され、日常として存在しているのだ。そのリアリティは、日本人から失われた何かを象徴しているかのようだ。

 小説の物語を考えた場合、大きなストーリーというものは存在しない。蕗という極めて従順な嫁を通して、地方の地主と小作人、明治時代の自由民権運動のころ、二つの戦争時の地方のありさま、そして終戦から復興にいたる昭和の時代、そして現代が淡々と描かれてゆく。その抑えられた筆致から、にじむようにして壮大なる日本としての物語が浮かんでくるのだ。その意味からも、女性の視点からの日本近代史という見方もできるかもしれない。

 作品をどのように解釈するかは、読んだ人の捉え方によるだろう。常に「臆病者」という内的コンプレックスを抱いていた地主「道祖土一族」に焦点を当てるか、道祖土家という「家社会」にはめ込まれ、そこに違和感を感じつつも抜け出せないでいた
猿嫁の蕗を通し、をれを現代の社会の隠喩ととるか。時代に翻弄されつづけた、地方の地主と小作人たちの悲劇を読むか。はたまた、「夜這い」などに象徴されるような、極めて開放的であった日本の性習俗を俯瞰するか。土俗信仰や祭ごと、本当にいろいろなものが読み取れる。

 登場してくる人物は数多いが、それぞれの周辺人物の生き様を深く掘り下げることはせずに、あえて総花的に色々なタイプの人物を登場させているように思える。時代が変わるごとに、時代の匂いや風景を書き分け、私のような若輩者にて北海道という振興地に住むものでも、心ざわめくものを感じさせるのだ。

 読後の感想として、これらの書かれた内容が、驚くことについ数十年前までの日本の姿であったことに気付かされ、一瞬言葉を失ってしまう。あまりといえば、あまりな変わりようではないか。しかし、彼女の筆致には批判も否定も見られない。彼女の書いた人物と時代を土台として、現代の日本が成り立っていることにも想いを至らせざるを得ないのだが、「犠牲」とか「虐げられた」というようなテーマ性も希薄であるように感じた。その時代に生きた人間たちの、その枠の中での精一杯にもがき生きるさまが書かれているだけだ。

 また、彼女はこの物語を書くことで、もう一つ、彼女が今までのホラー・伝奇小説で使ってきた、「伝承」や「語り部」を自ら再構築し、ひとつの日本人の歴史(郷土史)を作り上げてしまったとさえ思える。 ドラマがない分、面白みにも欠けるし地味である。おそらく話題性も低い作品だと思うが、彼女の試みた内容は深く心の深淵に沈みこんでゆくかのようだ。