2001年6月29日金曜日

小泉首相のメールマガジン その3

世間と隔絶された1週間が過ぎてしまった。またしてもメルマで時の移っていることに気づかされる。

今回は武部農林水産大臣の話題が心に残る。彼は北海道斜里町の出身なんですね。

カリフォルニアよりも小さな国で、『「都市だ」「地方だ」という風に考えること自体、おかしなこと』というけど、それに対する是非はさておき、都会と農村という対立図式が、彼が書くようなインフラ整備だけで可能になるのかは疑問が残る。

北海道に住んでいるせいか、田舎に時間をかけていくよりも、都会から車で1時間以内のところに豊かな農村が広がるという図式が望ましいと思うのだよな。私はマンション暮らしなんで、家庭菜園どころか、せいぜい日曜日にベランダの植物に水をやるくらいですがね。

日本の農業をどうするか=何を将来食べてゆくのかという議論は「経済効率」以上に重要な問題だとは思うのですよ。

2001年6月27日水曜日

プレビン、アシュケナージのラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18
プレヴィン 指揮 アシュケナージ(p) ロンドンso.
4.1970 DECCA

この頃業務多忙で仕事中心の生活になってしまっていた。ゲンナリした気分だったので、買ったままになっていたラフマニノフ/プレヴィン・アシュケナージのボックスから気紛れにピアノ協奏曲第2番を選んで聴いてみた。

聴いて気づいた、この曲を真面目に聴くのは実に数年ぶりかもしれないと。余りにも有名な曲なので改めて聴く気もしないでいたのだ。しかしながら、予想に反してというのだろうか、萎えた気持を奮い立たせ、内側から太いエネルギーと活力を与えてくれるかのような曲であり久しぶりに堪能することができた。

ピアノ協奏曲第2番は、解説などによると28歳の作品である。若さと独特の抒情性に裏打ちされた曲であると思う。チャイコフスキーのピアノコンチェルトと並んで評されるのもむべなるかなと思う。

第一楽章は、霧の中から現れるようなフレーズとともに、続く流れるような情緒たっぷりの旋律が奏でられる。余りにも有名なメロディだが手垢に汚れるようなことは全くなく、ストレートに心に染みわたる。深く黒い水をたたえた洋々たるロシアの大河のようなイメージが浮かぶ。冒頭部分を聴くと、この曲を映画音楽などで使いたくなる気持も分からないでもない。哀愁と憧れのような複雑な気持のない交ぜにななったような曲だ。後半の主題の再現部のカッコよさは身震いするほどであり、続く旋律の何たる切ないことか。万感の思いが満ちてゆく。

第二楽章のピアノ伴奏のもとフルートとクラリネットが奏でる旋律の、気だるさと心地よさは特筆物で目をつぶっていつまでも浸っていたい気持にさせる。中間部から哀愁を帯びた抒情的な部分に移る部分は、明るい音ながらも結構想いを詰め込んだ演奏になっているように思える。しかし、感傷的ではなく鼻につくほどではない。しかし、この楽章は本当に美しい。月光降り注ぐイメージも湧き言葉ではたとえ様がない。

第三楽章、弦楽器との掛け合いや独走ピアノのデンツァの力強さ、そして華やかさは圧巻。中間で現れる旋律の(これまた有名なものだが)素晴らしさ。ラフマニノフは何と見事なメロディメーカーなことか。若さゆえの不安や逡巡、走駆や漲る自信など…色々な感情的なドラマが詰まった楽章だと思う。ラストの再び大河の流れを思わすかのような堂々たるメロディーは、全ての苦難や悩みを乗り切った末の想いが込められているかのようだ。

こうして聴いてくると、この曲は交響曲第1番で失った自信を精神科医の治療により回復させた時期に生まれたことに思いが至る。まさにラフマニノフ回生の曲なのであろうか。自信と輝きに満ちており、生の喜びさえ歌い上げているかのようだ。内側から激しく鼓舞されるようにさえ聴こえるのは、ラフマニノフがこの曲に賭けた再生への願いなのだろうか。(そんなもの賭けてないって?)

30分強の短い曲であるが、素直にこの曲は名曲だと思う。いわゆる名曲のもつ分かりやすさ、ストレートさ、明るさや叙情性、そしてポジティブな雰囲気、その全てがここにはある。ピアノ交響曲としての面白み、ピアニズムの繊細な美しさと激しさ、オーケストレーションの雄大さなどどこを切っても名曲であると思わせる。

ピアノ曲に多く接しているわけではないので、アシュケナージのピアニズムについて論ずることがほとんど出来ないのが悲しい(^^;;; アシュケナージとプレヴィンは思い入れたっぷりに、そして若々しい演奏を展開しているように思える。アシュケナージのピアノは繊細さと力強さ、そして弱音でのコロコロと転がるような音色が見事で、その対比に聴き惚れてしまう。

なじみ易いフレーズや、耳慣れた旋律が出てくるもの疲れきった時は、名曲に浸るのが良いのかもしれないと改めて感じ入るのであった。

2001年6月22日金曜日

ヴェルディにの一端に触れる

ヴェルディ オペラ名場面集
ナブッコ:シノーポリ&ベルリン・ドイツ・オペラ管
椿姫:クライバー&バイエルン国立管
リゴレット:クーベリック&ミラノ・スカラ座管
運命の力:シノーポリ&フィルハーモニア管
トロヴァトーレ:セラフィン&ミラノ・スカラ座管
アイーダ:アバド&ミラノ・スカラ座管

北海道は梅雨がないとは言うものの、このごろは余り天気もすぐれず、肌寒い日々が続いている。なんだかジメジメして気分が晴れないので、以前買い置きしておいたオペラの名曲集を引っ張り出した。

クラシック音楽のダイジェスト版とか、「アダージョ・カラヤン」などに代表されるようなものは、邪道のような気がして触手は全く伸びない。オペラは全く聴かないため、素人の状態、恥ずかしい話、椿姫の「ああ、そはかの人か」さえ知らないほどである。最初は「名曲集」みたいのは抵抗があったのだが、割り切ってしまえば、こんなにオイシイ盤はないかもしれないと思う。

CD2枚組で、ヴェルディの名曲が名演奏で、それこそいいところだけ納められている。歌手もドミンゴとかカレーラスとか、超有名どころが歌っており、ヴェルディの明るい世界が堪能できる。これが2000円というのだから、お買い得であった。

オペラを聴かないとは言っても、アイーダやらリゴレットのフレーズは、どこかで聴いたことのあるものだし、何と言ってもヴェルディの曲は、スコーンと抜けた感じがして気持ちがいい。やっぱりイタリア人なんだなあと思う。

梅雨で気分のすぐれないときは、能天気な(?)イタリアものが似合うかもしれない


アンドレア・ボチェッリ/ヴェルディ・アリア集
ドロヴァトーレ、リゴレット、仮面舞踏会、アイーダ
椿姫、十字軍のロンバルディア人、エルナーニ
ドン・カルロ、ルイザ・ミラー、運命の力
メータ 指揮  イスラエル・フィルハーモニー管
PHILIPS UCCP-1003(国内版)

もう一つ、ヴェルディを聴いてみた。人気のテノール歌手アンドレア・ボチェッリの第6段目のリリースのものらしい。人気のと言われても、オペラ音痴の私には「オペラ歌手てのはやっぱりヒゲ面の人が多いのかな」くらいのものしか分からない。

聴いてみるとなんとも伸びやかにして気持ちがいい。体の中から全ての細胞が陽性に入れ替わってしまうかのようで、何だか分からないが、これぞイタリア!これぞヴェルディ!という気持ちになってくる。こういう風に前向きに生きなきゃダメだなとさえ思う。

いても立ってもいられなくなって、両手を広げて大きな声で歌いたくなる。ヴェルディというのは、こぶしの使い方といい、「クラシック道場入門」で玉木正之さんが書いていたが、まさに「演歌師」だと思う。♪ブンチャカチャッチャ、ブンチャカチャッチャ♪だものなあ~~(笑)


2001年6月21日木曜日

あっという間に1週間たってしまったことが、小泉のメルマが届いて気づいた。

感動することは、大事だ。自分にもパワーがみなぎってくる。常に感動できる心を持って、皆さんに感動をあたえられるようなそんな政治をしていきたい。

というメッセージで結ばれているが、感動というのは確かに重要だ。音楽もスポーツもある種の感動を与えてくれる。仕事ばかりしていると、感動が薄れてきて惰性で日々を過ごすようになってくる。他のことに興味が持てなくなり、覇気がなくなってゆく。ここ数日、そんな状態が続いている・・・

札幌の犬の虐待事件

札幌で、犬を虐待して殺している事件が続いているらしい。

犬の脚を縛って、足首から先を切断したり、腹を切り裂いたりなど残虐極まりない手口らしい。事件現場には「生犬が好き」とかの書置きもあるらしく、完全に殺犬を楽しんでいる様子。

神戸の事件の時もそうだが、危険で陰湿な事件に発展しないことを祈るばかりだ。(そもそも、犬を散歩に連れて行って、店の前につないだままなんかには出来ないな)

2001年6月16日土曜日

酸性雨

東京で酸性雨が降っていて、その度合いが酢とレモンの酸性度の中間くらいになっているというハナシを人づてに聞いた。なめてもすっぱくはないらしいが、結構植物とかがやられてしまっているらしい。

願わくは、香港に行けなくとも、将来的にも、帽子や手袋をはめずに外出できる世界であって欲しいと思う。

オゾン層の件についてもそうだけど、半袖はダメとか日中の外出はダメとかの過剰反応もいかがなものかと思うけど。実態がどうなているのか、分かっている様で何も分からないだけに、どう反応してよいのか判断に苦しむんだよね・・・・

♪(*^-゚)⌒☆

小泉内閣メールマガジンで・・

小泉内閣メールマガジンを登録しただろうか。登録者数があっという間に100万人を超えてしまったらしく、ちょっとコワイ気もする。そういう私も登録したし、家人も登録しているのではあるが・・・

今回はジャブといったところだろうが、扇国土交通大臣の「台所からの政治」というので気になった。彼女は、スマートな週末の過ごし方として、「曜日の夜から香港に出かけて、土曜日は飲茶と夜景を楽しみ、日曜日はショッピング、帰りはETC(ノンストップ自動料金収受システム)で料金所も止まらず高速道路で空港へ向かい月曜朝には何食わぬ顔で出勤」(長いがメルマより引用)というライフスタイルを描いた。

そういうライフスタイル、できれば確かにいいよね。でも、それが実現できるのは、ハコものや制度ばかりじゃなくて、経済状況や労働環境なども重要だよね。

一体、どれだけの人が、扇さんの描く優雅なライフスタイルを享受できるようになるのだろうね。それが「台所からの政治」なのかな? 夢を語るのもいいんだけど、感覚的なずれを感じずにはいられない一文なのであった。

まあ、国民の大多数がそのような生活を享受できるのならば、多分幸せだろうから目指すことに異論はないけどさ。

景気の悪化

内閣府がきのう発表した今年一~三月期の国内総生産(GDP)は、二・四半期ぶりのマイナスとなった。また、竹中平蔵経済財政担当相は、景気の現状について、「悪化しつつある」という判断に修正した。

経済の牽引であったIT産業のかげりやアメリカの景気の影響か、小泉内閣になっても、いまひとつ景気回復の兆しは見えない。そもそも「構造改革なくして景気回復なし」と小泉内閣は唱えているので、「構造改革」がまだなされていない今において、「景気は回復しない」のは予測済みというわけだ。

もっとも「構造改革」が成功すると「景気が必ず回復」するのかは疑問で、改革に伴い切り捨てられる業種の雇用や生活をどのように守るのかという論議も必要だろう。考えて見れば、それが上手くいけば産業構造が変革しているわけで、「構造改革」は成功したと言ってもいいのだろう。しかし、傾斜配分による一人がちみたいな状況が生じるのだとすると、最悪の改革結果と言わねばならない。地方と都市部でも状況は大きく異なると思う。

都議選も始まったが(北海道民には余り関係ないが)、自分が「勝ち組」なのか「負け組み」になるのか、うすうすとは分かっていつつも、「最悪のことはあるまい」とタカをくくりながら改革の行く末を、傍観者的に見守っているかのようだ。企業姿勢として、この改革で「負け組み」とならないような施策は、ウチの会社ではまだ聞こえて来ない。

2001年6月13日水曜日

大阪の小学校 殺傷事件で思う(2)

大阪の小学校殺傷事件のことを思わずにはいられない。「治療処分」「保安処分」などの是非が議論されてゆくだろう。

今日の朝日新聞は、安易な保安処分に進むことを諌め、「病院に長く閉じこめるのは、人権侵害であるうえ治りを遅くする」という基本発想のもと「不起訴などになった後の処置が、医療側の判断だけに任される」ことに触れ、「治療・社会復帰の過程に、何らかの形で司法がかかわる、という方向での論議は欠かせない」と結んでいる。

一方、産経新聞は、治療処分を「先進国では当たり前の制度である」といい、「精神障害者の犯罪は九割が不起訴になっている」現実に言及し「専門施設で充実した医療を受けさせる方が、加害者の人権を尊重する道ではないか」としている。

朝日は人権重視の前提で司法のありかたや精神治療のありかたを、産経は治療処分を前提とし治療しくみの改革などを訴えている。一方が治療処分反対、一方が賛成というような単純な図式ではない。やはり根本的に、刑法39条を含め、一般の我々が安心できるシステムが確立されていないのだ。

昨日の感想で、人権以前に極刑をという極論が生じやすいことを書いた。犯罪というものが何故発生したのか=人の心の闇がどうして生じたのかを、犯罪者を通して研究することは必要だ。もし今回、アメリカのように犯人が即刻、散弾銃で殺されていたとしたら真相はそれこそ闇の中だ。

一時的に心身喪失状態であったとしても、人間としての心や人格までもが全て消滅していない限り人権を有することは認めよう。しかしなのだ、殺されたものたちの人権は、何によって償われるのだろう。犯人が「真人間」になって社会に復帰することなのだろうか? 今回のような犯罪が起きないような社会に変ることだろうか?

一時はやったサイコスリラーものでの快楽殺人犯とは少々異なるが、彼らを調べてゆくと必ず幼児期に虐待を受けているというのを読んだことがある。幼児虐待を受けたから必ず殺人犯になるものでもない。人間の心に潜む闇に向かうには何が必要なんだろうか。

この問題を考えると、ますます混乱してしまう。

2001年6月12日火曜日

大阪の小学校 殺傷事件で思う

大阪の小学校襲撃事件のような事件が起こるたびに「精神鑑定」とか「心神喪失」「刑事責任能力」などの問題が持ち上がってくる。心情的には、「人を殺傷せしめた者に人権などあるか、殺された者の人権をないがしろにするような犯人の人権やら責任能力を議論するのは片腹痛い」という極論に傾く気持がないわけではない。(一時的に)判断能力が欠如していたとしても、何の罪も無い8人の子供を殺した犯人に弁護士が付き、税金を使って事件の真相を何ヶ月以上もかけて追究する必要があるのか、彼を更生させることが社会的に意味あることなのかと疑問を感じないわけではない。

しかしだ、ちょっと冷静にならなくてはならない。こういう考え方は危険な極論なのだと思う。もしそのような社会であったとしたら、つまり、情状酌量の余地のない犯罪を犯したら、即刻極刑に処せられる社会だとしたら、我々は恐ろしくて生きてはいけないのではなかろうか。そもそも、前提条件の「情状酌量の余地のない犯罪」というのは誰が客観的に証明するのか。はたまた、冤罪である可能性はないのかなど。

それだけに、重大事件が起きたときの対応については、深い議論が必要だろう。個人の命ばかりか、その周りの人たちの生活や夢を全てこなごなに砕いた責任をどう負わせ償わせるのか。犯人の死だけが償いになるとは思えない。

今回の事件は、① 精神鑑定の結果、心身喪失状態で責任を問えないとされた犯人の処遇 ② 措置入院させた場合の患者のフォロー体制 という点を考えさせるきっかけになるのかもしれない。学校の安全確保ということや、宅間容疑者のような人間を生み出さない社会の実現(鳩山代表)ということも議論されねばならないだろう。後者の議論は、倫理面と制度面の両者で考える必要があろう。倫理面での追求をするためには、犯人を詳しく調べる必要が、あると思う。

また、責任を問えないとした刑法(第39条)に問題があると思うのだが、そもそも精神鑑定の客観性などにも問題があるのかもしれない。

ただ、これらの議論が「犯罪を起こすおそれのある者を隔離する」という制度に行き着くことには、不安と恐怖を覚えないわけでもない。それを誰がどうやって判断するのか、中世の「魔女狩り」を彷彿とさせる情景がよぎるのは考えすぎかもしれないが。

少年犯罪と少年法の問題も含め、日本の社会はかつてなかったような、凶悪犯罪の増加を経験しつつある。大昔に作られた法律では現在の犯罪状況に対応できにくくなってきていることだけは確実なようだ。この問題になると、私はどちらの立場を取ってよいのか分からず混乱するばかりだ。

それにしても、何度もニュースに接するたびに、やりきれなさと凶悪犯罪に対する無力感に言葉を失ってしまう。

2001年6月11日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第3番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Oct 1997
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)

先のデイヴィス&ボストン響の演奏を何度も繰り返し聴き、交響曲第3番は愛らしくも節度のある曲という印象を持ち始めていた。いいかげん慣れ親しんだつもりで改めてベルグルンドの演奏を聴いてみるたのだが、これがまた全く新鮮であり、静かにして深い感動が沸き起こってくるのを避けることができないかった、非常にすばらしい演奏である。

抑えられた感情表現が深く音楽の中に透徹しており、シベリウスが「混沌の中から明らかになる思考」と表現した何かが見えてくるかのようである。演奏の感想を書こうとしたが、書いてみたら、演奏から得られたイマジネーションを書くに終始してしまったが、ご容赦願いたい。弦がどうのとか打楽器がとかいう評は、本来的には音楽を聴いていることにはならないと思うので、こういう感想でも良いじゃない、て、言い訳に近いが(^^;;

第一楽章はクリアな音質とスピード感により曲が浮き立ってくる。第一主題から盛り上がってゆくところは霧が晴れたかのような印象を受けるが、迷いからの開放の象徴なのだろうか、非常に内的な満足感を覚える部分である。この数分間はこの交響曲を貫く基本的なイメージを凝縮しているように思える、極めて密度の高いテーマ設定だ。

引き続く第二主題との明暗の対比も見事であり、ここには深く考え込むかのような姿勢が見える。中間部の静かにして複雑な絡み合う部分は、テーマが展開されてゆき色彩豊かに語りかけてくる。弱音の中にも聴き所が多くハッとさせられる美しさが込められている。

再現部は歯切れのよさと粒の際立ちがすばらしく、シベリウス自身の内的な心情の吐露のようでもあるし、あるいは北欧の光に満ちた風景の描写のようにも聴こえる。透明感と輝きはシベリウス独自の世界であり、この楽章だけでシベリウス的な音響を十二分に満喫することができる。

第二楽章は、森の精が優しく語りかけるのに耳を傾けている、あるいは、そよ風が頬をなで、移ろい流れてゆく光と影を追うかのような印象を受ける。重層的に単純なテーマが展開されてゆき、ひとつひとつの感情が織り込まれてゆく。さまよい探るように進める歩みは、何かを発見する期待と喜び、はたまた、見つけることのできない不安と戸惑いを感じさせる。この楽章のテーマは聴くたびに、違った感情を抱かせ驚くばかりである。ピチカートにより導かれる後半は、何かを見出し歩み始めた姿を見ることができる。着実に歩みはじめるが、彼の見つけたものは何だったのだろう。風を感じる・・・・・全身を吹き抜ける風・・・、立ち止まって全身で風を感じるが心は満たされており、進むことに不安はない。

第三楽章では、いきなり扉は開けられたと感じる。新たな生命の宿りと息吹をイメージさせるような冒頭、止まることのない運動性を感じる楽章である。経過的な断片的フレーズを積み重ねながら、ある結末への期待を孕ませたまま、賛美歌風の終結部に至るのだが、その移行部分の厳かさと敬虔さには、胸を打たれる。決して大げさに歌っていないのに全身に喜びのようなものが満ち溢れてくるのを留めることが出来ない。この部位でも光を感じることができ、それは、何かに対する大いなる祈りと感謝の気持ちに昇華してゆく。解説にある「賛美歌風」という表現の適切さに納得させられる。

こうして聴いてくると、この短い交響曲だが3番を抜きにしてシベリウスを語ることはできないのではないかと思う。初演時、聴衆には4番ほどではないにしろ「わかりにくい」と取られたらしが、この曲のどこに難解さがあろうか。

この演奏からは、シベリウスの描き出した光と風を全身に浴び、その至福の中に生きていることの喜びと素晴らしさ、あるいは自然の美しさを、感謝の気持ちを込めて静かに深く祈るかのような気持ちを感じ取ることができる。世俗的な雑事を離れた純粋なる感情であるだけに、曲には質素さと清潔さが必要であり、彼のテーマから得られた必然による交響曲の構成という気さえしてくるのだ。

デイヴィス盤も決して悪くはない。しかし、これほどの内的な満足を感じさせてはくれなかった。聴くほどに全く別物の演奏であると感じ入るばかりである。

2001年6月10日日曜日

何てことだ!練習日誌、実に1ヶ月ぶりではないか

何てことだ!練習日誌、実に1ヶ月ぶりではないか(日誌じゃなくて月誌だな)。

フルートフェスティバルも出られなかったし、目標がないと練習しないもんだなあと改めて反省。練習しなきゃ上手くなるわけないのにな。ゴルフの坂田信弘も言っているではないか「練習もしないで100を切れればプロになれますよ」て。

今日のレッスンは、何を吹いて誤魔化そうかと思案した挙句、ヘンデルのソナタ1の5をもう一度はじめから受けることにした。ご存知のように、指的には、あまり難しい曲じゃないので、とりあえず通して吹ければいいみたいな感じ。

ヘンデルのソナタは3楽章は、全体的に平易にかかれているものが多いらしく、ここは演奏者が独自の装飾やらカデンツァで変奏する部分であるとのこと。なるほど、とは思うが和声だの全く理解していない私には、即興に近いような演奏は全然できないのであった。
 まあ、そんなわけで、「後少し指の怪しいところは練習しておくように」てな感じで、誤魔化しのヘンデルも終わってしまった。困ったことに、練習していないんで、持ち曲の駒が切れてしまった!次に何を練習するのか困惑してしまうのであった。アンデルセンのOp21の6番は当分歯が立ちそうにもないんで・・・

思い立ったように、タファネル&ゴーベールのEJ1、2をやってみるが、ああ、毎日やらないとダメだなあと・・・再び暗澹たる気分になるのであった。




2001年6月8日金曜日

党首討論と外交戦略など・・・

国会での党首討論が行われTVで放映された。私はその模様を見てはいないが、小泉首相の「集団的自衛権、周辺事態、米国のミサイル防衛戦略」に関する考え方は、真意を測りかねる。

小泉首相は『「実現すれば安全保障上の考えは一変する。核兵器、弾道ミサイルがまったく意味をなさなくなるかもしれない」と高い関心を示し』『集団的自衛権は研究の余地がある』(毎日新聞)と答えているらしい。

「研究の余地がある」とは、彼一流のかわしかただが、政府の今までの見解から少し踏み込んだ、米国の期待にそった発言であるとの印象を受ける。

一方、田中外相は風聞を否定することに必死で、自らの外交理念については封印したかのような感がある。しかし田中外相の一連のリーク発言からは、米国よりの安全保障に立脚した政策からの転換を見据えているようで、21世紀の世界と日本という観点からは、二歩くらい先を進んだ理念を持っていると高く評価できると私は考えている。

「周辺事態」という造語まで持ち出して、自衛権の拡大と米国よりの戦略をとろうとするのが、大きな流れなのだが果たしてこれでよいのか、という議論、どこから火の手が上がるのだろうか。自民党内部からのはずもないが、立脚点が揃わない野党でもなさそうで、何とも情けなさを感じる。

鳩山代表や土井代表の発言を聞いていると、政党の枠組みさえ緩やかに崩壊してきたことを感じずにはいられない。

派閥どころか、政界大編成が行われなければ日本の未来への舵取りはできないのではないかという気にさせられた。

2001年6月6日水曜日

報道に対する憤り

田中外相と豪ダウナー外相との会話に関する問題はどこまでが真実なのか。

昨日、ダウナー外相は「田中外相の米国批判の内容を米国に伝えることを橋本龍太郎氏に話した」ことを「事実無根」であるという声明を発表した。

なんなんだ? 田中外相がミサイル構想に疑義を呈したのは事実のようだが、どこまでが本当なのだ?

野党はこれを機にと、外相の資質にまで言及し辞任を強く求めてくるだろう。今のままでは、外交手腕に不安を感じることは確かだ。5日の朝日新聞の社説でも「第六感」に頼るような外交を批判していた。

米国務省のバウチャー報道官は、田中発言を重視しない発言をしている。日本が今までの「協調路線」を踏み外すことはないと思っているからだ。福田官房長官の言うように「同盟国は米国」なのだから。

明らかになったのは、田中外相の大臣としての資質ではなく、政府個人レベルでの意見の食い違いである。したがって、議論すべきは、政府としての統一見解、与野党間の意見調整にこそ議論が裂かれるべきで、一外相の進退問題を汲々と論じるのはいかがなのか。田中外相も批判を浴びていることを真摯に受け止め言動を考えてもらいたいとは思うが。

それにしても、一連の報道の中で真実と真意はどこにあるのか、正確に伝わってこない憤りを感じる。それに、一番最初の情報の発信源は「誰」なんだ? 彼の目的は何だ?

2001年6月5日火曜日

田中外相のミサイル発言にからめて

田中外相の「ミサイル発言」をめぐって、外交および小泉政権にまた、マイナス要因が発生してしまったようだ。なぜこのような「発現」がリークしてしまうのかも疑問なのだが、田中外相の真意が読み取りにくくなってきていることは確かだ。(発現撤回を含めて)

そもそも、アメリカの示すNMD(国家ミサイル防衛)とTMD(戦域ミサイル防衛)構想を日本が支持しないわけがない、というのが今までの日米関係である。これはアメリカを中心とした経済・軍事影響下にある諸国ならば、同調せざるを得ないものなのだろう。日本がTMD開発に対し「技術協力」を含めてこれを支援する(している)ことは以前から表明されていた。

��MDとNMDは、全く違うものだ(両方あわせてBMDという)。TMDは短距離のミサイルを対象とし、アメリカと同盟国にミサイルが落ちないことを抑止するもので、NMDはアメリカ本土への弾道ミサイルの抑止だ。当然技術レベルはNMDの方がケタはずれに大きい。

中国・北朝鮮などの軍事力が脅威であるとの前提のもと「抑止力」としての軍事だが、これは昔から議論されている「盾と矛」の論理である。(脅威がある以上)TMDについては平和を維持するために必要であるとする人も多いと思う。今の日本において、北朝鮮からのテポドンを迎え撃つ手段はないことも認めよう。

��MD推進者は上記の現実を掲げ、「際限なき軍拡とは違う」と主張するだろう。現実をよく知らない平和論者は、「ミサイルのない国際社会を目指すことこそ本筋」というだろう。

しかし、この政策を推進することで「最終的に真に利益を被るのは」誰なのか? が明確に見えねばならない。この件を調べてゆくと、TMDとNMDに対する各国の反応も微妙に異なることが伺える。しかし、日本においてはどうなのだろうか。TMDのためのミサイルを日本が有することということに対する、政策的・憲法的議論が必要な気がする。防衛庁だってTMD開発に対する「費用対効果」には疑問を投げ掛ける人もいたのではないか。


田中外相の投げかけた「波紋」というのは、日中関係を意識しての発言とか、政府の意見の不一致というよりも、日本としての意見の不一致、防衛構想に対する「迷走」ということの象徴のように思える。報道は、田中外相パッシングを繰り返すのではなく、本来の日本が取るべき道筋を議論するように導くべきではないのか。(賛成・反対論も含めて)

 わたしの個人的立場としては、心情的には反対論を唱えるだろうが、複雑怪奇なる国際社会と国家関係に思いを馳せると、安易な結論を出すことが出来ず勉強不足を恥じ入るばかりである、ということを田中報道を眺めつつ感じた。

2001年6月3日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第3番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの交響曲第3番というと、人気の2番と暗い(^^)4番にはさまれた曲であり、印象が薄い曲であったが改めて聴いてみると見事なまでの構成美と簡潔な表現が心地よく、しかも随所にシベリウスの音楽の特徴とも言えるようなサウンドや書法が見て取れ、名曲であることに気付かされた。開放感と明るさは、ハ長調という調性を象徴しているかのようである。イメージ的にはベートーベンの第4交響曲のような印象を受けた。

��・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみたのだが、何故、交響曲第一番を聴いたときに彼の演奏を「シベリウス的ではない」と感じたのか疑問である。オーケストラの編成のせいもあるのだろうか、この演奏からは、スリムさと清涼感や爽快感そして、若々しい推進力を感じることのできる演奏で、曲のもつ魅力を十二分に表現しているのではないかと思うのだ。まさにどこを切ってもシベリウスの世界がここにはある。

第一楽章は、何の前触れもなくそして唐突にチェロとコントラバスの主題により始まるのだが、この細かく刻まれるリズムと躍動感は楽章全体を支配する雰囲気である。それに絡む木管とともに一気に盛り上がりを見せるが、走っている途中から至福にいたり視界が一気に開けたかのような印象を受ける。第二主題が幾分ノスタルジックに繰り返されるも、湿った感情はそこにはなく、さわやかさを全身に感じる楽章である。

第二楽章も最初にフルートで提示されたテーマが色々な楽器に引き継がれ展開してゆくが、森の中を一歩づつゆっくりと進むがごとくの感がある。時に立ち止まり森の中の鳥のさえずりや水の音に耳を傾けるかのように思えるところもある。第一楽章もそうだが、だからといって情景描写的な音楽ではない。むしろ、自然の風景や音に耳を澄ますことで、自らの内面世界を見据えているかのようなところがある。その内省もネガティブな方向に向かうことはなく、若干の寂寞感を伴う部位はあるにしても、第一楽章同様にどちらかというと躍動感と静かに満ちてくる内的な満足と至福を感じるのだ。

このような音楽のありようは、シベリウス本人が都会の生活を離れヤルヴェンバーの田園の家に移り住んだ環境の変化と無縁ではないように思える。この交響曲を聴くと、シベリウスはこの地で、新たな境地を開いたということに気付くのだ。

第三楽章は、第二交響曲でもそうであったように、性格の異なる楽章が単一楽章として有機的に結び付けられている。スケルツォからフィナーレへの移行は非常に巧みであり、いつのまにかすばやい躍動が、雄大ではあるものの過剰ではないコラールに変化しているさまは、聴くものに大きな満足と喜びを与えてくれる。しかし、その感動も第二交響曲のようなある種のあざとさというものはなく、簡潔にして慎ましやかでさえある。ラストの終わり方など、あっさりしすぎていると感じる人もいるかもしれない。演奏時間もこの8分半くらいと短いにも関わらず、短さによる不満は微塵も感じさせない。

全体を通してわずか30分弱の曲であるため、マーラーやブルックナーなどの曲を聴きなれているといかにも「短い」と感じるのだが、交響曲のもつ美しさと、シベリウス的世界の美しさが見事な構成美の中とともに、幾重にも折り重なるように微妙な襞をえがき出したている。やはり、この曲は以前のシベリウスとは完全に一線を画する曲であると認識するのであった。

��番に関しては他の演奏との比較がまだ、できていない段階であるため、デイヴィス&ボストン響の演奏について評することは難しい。明晰にして非常に歯切れの良い演奏であり、また弦楽器の切れも良く何度聴いても心地の良い演奏に仕上がっている。


2001年6月2日土曜日

外国人との対応

外国人との対応とか受け入れということでの問題は、日本が「アジアの一員」という自覚があるのだろうか。「欧米列強諸国(笑)」の一員になりたいと、今でも思っているかは別として。

韓国、中国と仲良く盟主として手をつなげるか、アジア経済圏として日本の役割の位置付けは重要なテーマであろうし、アメリカとの関係以上に論議されなくてはならない点だと思う。

中国を単なる肉体的労働力の供給源と考えるだけならば限界もあろう。将来的には韓国からインドまで含めて知的労働力の供給源になるかもしれないのだ。

そういう状況において、小泉政権の示す外交路線と対中・対韓政策および靖国問題は危うさと表裏一体の印象を受ける。

��仕事がひと段落したんで息抜き・・・・てこんなテーマで息抜くなよてか)


経済財政諮問会議つらつら

経済財政諮問会議の経済・財政運営に関する基本方針が出され、徐々に改革の内容が具体化してきた。
色々な分野や、改革をすることで不利益を被る団体からの反発は予期されるだろうが、大きな流れとしては賛同できるものである。もっとも、ワタシの業界は不利益を被る典型的な団体のひとつなのだが・・・

改革に当たって、資源の再配分ということが言われていて、ひとつ気になった。
産業的には今までの土建業中心の経済から情報産業へと移行させたい、生活の場も都市型を目指すというのが根底のようだ。

さて、今後の日本社会を考えた場合、少子化は避けられず、投資をシフトさせた先の産業が隆盛になるのかというとこれには大きな疑問を呈せざるを得ない。現状の教育システムと文部省(今でもあったっけ?)の掲げた教育方針では、日本の教育は荒廃するだろう。今の企業の体力が維持できるという前提は実は破綻していると思わざるを得ない。

一方で、外国人をどのように受け入れ、日本社会を活性化させるのか。グローバリゼーションの流れにさらされ、日本社会が大きく変質してゆく様を、もしかしたらこれから体験することになるのかもしれない。

外国人に限らず、公的な負担と受けることを約束された利益(医療・福祉)という問題も横たわっており、長期的なシミュレーションのもとに正確な現状認識が、この21世紀の初頭に必要であると思わざるを得ない。

最終的に笑うのは、誰になるのだろう? 実は政治家たちだけだったりして・・・・(だって、高齢なのにあんなにバリバリ仕事して、ボケ知らず。地位も名誉もあって、というのは政治家しかいないんじゃない=て、そこに落とすなよ)