2001年6月11日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第3番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
先のデイヴィス&ボストン響の演奏を何度も繰り返し聴き、交響曲第3番は愛らしくも節度のある曲という印象を持ち始めていた。いいかげん慣れ親しんだつもりで改めてベルグルンドの演奏を聴いてみるたのだが、これがまた全く新鮮であり、静かにして深い感動が沸き起こってくるのを避けることができないかった、非常にすばらしい演奏である。
抑えられた感情表現が深く音楽の中に透徹しており、シベリウスが「混沌の中から明らかになる思考」と表現した何かが見えてくるかのようである。演奏の感想を書こうとしたが、書いてみたら、演奏から得られたイマジネーションを書くに終始してしまったが、ご容赦願いたい。弦がどうのとか打楽器がとかいう評は、本来的には音楽を聴いていることにはならないと思うので、こういう感想でも良いじゃない、て、言い訳に近いが(^^;;
第一楽章はクリアな音質とスピード感により曲が浮き立ってくる。第一主題から盛り上がってゆくところは霧が晴れたかのような印象を受けるが、迷いからの開放の象徴なのだろうか、非常に内的な満足感を覚える部分である。この数分間はこの交響曲を貫く基本的なイメージを凝縮しているように思える、極めて密度の高いテーマ設定だ。
引き続く第二主題との明暗の対比も見事であり、ここには深く考え込むかのような姿勢が見える。中間部の静かにして複雑な絡み合う部分は、テーマが展開されてゆき色彩豊かに語りかけてくる。弱音の中にも聴き所が多くハッとさせられる美しさが込められている。
再現部は歯切れのよさと粒の際立ちがすばらしく、シベリウス自身の内的な心情の吐露のようでもあるし、あるいは北欧の光に満ちた風景の描写のようにも聴こえる。透明感と輝きはシベリウス独自の世界であり、この楽章だけでシベリウス的な音響を十二分に満喫することができる。
第二楽章は、森の精が優しく語りかけるのに耳を傾けている、あるいは、そよ風が頬をなで、移ろい流れてゆく光と影を追うかのような印象を受ける。重層的に単純なテーマが展開されてゆき、ひとつひとつの感情が織り込まれてゆく。さまよい探るように進める歩みは、何かを発見する期待と喜び、はたまた、見つけることのできない不安と戸惑いを感じさせる。この楽章のテーマは聴くたびに、違った感情を抱かせ驚くばかりである。ピチカートにより導かれる後半は、何かを見出し歩み始めた姿を見ることができる。着実に歩みはじめるが、彼の見つけたものは何だったのだろう。風を感じる・・・・・全身を吹き抜ける風・・・、立ち止まって全身で風を感じるが心は満たされており、進むことに不安はない。
第三楽章では、いきなり扉は開けられたと感じる。新たな生命の宿りと息吹をイメージさせるような冒頭、止まることのない運動性を感じる楽章である。経過的な断片的フレーズを積み重ねながら、ある結末への期待を孕ませたまま、賛美歌風の終結部に至るのだが、その移行部分の厳かさと敬虔さには、胸を打たれる。決して大げさに歌っていないのに全身に喜びのようなものが満ち溢れてくるのを留めることが出来ない。この部位でも光を感じることができ、それは、何かに対する大いなる祈りと感謝の気持ちに昇華してゆく。解説にある「賛美歌風」という表現の適切さに納得させられる。
こうして聴いてくると、この短い交響曲だが3番を抜きにしてシベリウスを語ることはできないのではないかと思う。初演時、聴衆には4番ほどではないにしろ「わかりにくい」と取られたらしが、この曲のどこに難解さがあろうか。
この演奏からは、シベリウスの描き出した光と風を全身に浴び、その至福の中に生きていることの喜びと素晴らしさ、あるいは自然の美しさを、感謝の気持ちを込めて静かに深く祈るかのような気持ちを感じ取ることができる。世俗的な雑事を離れた純粋なる感情であるだけに、曲には質素さと清潔さが必要であり、彼のテーマから得られた必然による交響曲の構成という気さえしてくるのだ。
デイヴィス盤も決して悪くはない。しかし、これほどの内的な満足を感じさせてはくれなかった。聴くほどに全く別物の演奏であると感じ入るばかりである。

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