2001年7月30日月曜日

久しぶりに Andersen 吹いてみたら、全然できなくてしばし呆然

久しぶりに Andersen 吹いてみたら、全然できなくてしばし呆然。

こういうときは気を取り直して気楽に吹こうと思い、フルート名曲集300(アルソ出版やらドレミ出版やら音友とか、いろいろ出ているでしょ)を取り出して、頭から吹いてみる。

以前できなかった部分が、比較的すらすらと吹けたり、指も回ったりするんで「ああ、少しは進歩しているんだなあ」と、ちょっとだけ立ち直る。ヘンデルのソナタなんかも原譜と編集者がアーティキュレーションつけたものが併記されている。「な~んだ、ここにあったのか」とか思いながら吹いてみるが、装飾てのは難しいね。

出来ない曲は相変わらず吹けないのだが、ドビュッシーとかの仏蘭西物て、拍の数えるのも大変だけど優雅に吹くのってホントに苦手!! 原曲聴いていないせいもあるけど、仏蘭西物をバリバリ吹けるとカッコいいだろうなあと思う。(て、おフランスをバリバリなんて野蛮に吹いちゃだめですよね。


2001年7月29日日曜日

投票してきましたが

参議院選挙に行って来た。どこの党に投票するのか迷ったが最終的には民主党にを選択してしまった。小泉首相になって政治的空気は変革したものの、彼の唱える論点で以下が不明確であることと、政治的な健全性と対抗勢力(自民内ではなく二大政党という意味での)を保つという意味である。

小泉首相の論点で気になるのは、以下の部分である。

  1. 痛みを伴う構造改革は理解する(野党も理解している)が、それを実行するためのセーフガードが不明確、5年間530万人(だったっけ?)の雇用の創出という考えの不透明さ。また、痛みをどこの業種に向けるつもりなのか、不良債権処理についても党内で一致しているかが見えない点。(不良債権は大手ゼネコンと流通だと言い切る人もいるが)
  2. 靖国問題や教科書問題における近隣アジア諸国に対する、歴史認識の甘さと外交感覚の幼稚さ。
  3. 京都議定書に見られる優柔不断と対米追従型外交のあり方に対する疑問。
  4. アメリカのMD構想に対する政府方針(対米協力)に対する疑問(私はブッシュのMD構想を支持しない)
  5. ひいては憲法9条と周辺事態に関する見解への疑問。


郵政の民営化や道路特定財源などについては、どんどん進めていただきたいが、どちらかというと瑣末的な事項のように思える。自由党の小沢氏が唱えるように、これらを含めたもっと大き問題が横たわっている。「構造改革」は重要だと思うことには変わりない。

民主党がその全てに明快であるのかということでもない。民主党だって小泉首相への対応は何度か変わった。変革を唱える彼らでさえ自分たちの機軸を示しきれていないという印象だ。

しかし、小泉氏は「自分を選出した自民なのだから、私の唱える政策は自民も支持している」と言うが、これにも疑問がつくのだ。今の自民ではやはり将来の日本は成り立たないと思うのである。

小泉政権になってからの景気と株価の低下は今のところ判断材料にはなっていない。具体的施策が施されていないのだもの、景気がよくなろうはずがないではないか。竹中蔵相だって、一時的に悪くなることを肯定していたはずだ。

小泉内閣自体には、小泉首相と田中外相の人気で持っている雰囲気だが、二人に共通した協調性のなさと公私の発言の混同という、政治家としての資質を問われる部分が多く、危うい印象を受けざるを得ない。個人的には二人の政治家の登場には活目すべき点はあるもののだ。

さて、皆さんはどこに投票しただろうか。

フルートを夏に自宅(マンション)で練習するのって、結構つらいよな

フルートを夏に自宅(マンション)で練習するのって、結構つらいよな。北海道とはいえ冷房のない部屋で、隣りへの音が気になるから窓を締め切ってだろ、暑いし息苦しいし、歌口の部分は汗で滑るし・・・・なんとかなんないかねえ。という程には実は練習なんてしていなくて、あっという間に1ヶ月経ってしまった。練習していないことに気付くだけでも、Lesson日誌(月誌だろ)の意義はあるんだな、などと思う。

今月のレッスンは一回しか受けられなかったが、相変わらずヘンデルのソナタは Op.1 Nr.1b をやっている。十六分音符のつながりが上手く吹けない。「アーティキュレーションを色々と工夫して、メロディラインが浮き出るように」と言われるけれど、ばたばたとするだけで、ちっともエレガントにならない。指と舌も合わないし基礎練習がやっぱり重要だよなと思う。

アーティキュレーションのかけ方は、色々吹いてみて一番いいと思うように研究しなくてはだめだな。これって、センスとか趣味も問われそう。

Adagioの楽章は、即興で装飾などをするといいらしいが、これまたセンス良く吹くのって難しい。一番簡単なのは、間の音を付け足す(例えば、シーレという楽譜だったら、シ-ド-レと言う具合に)といいらしいけど・・・・

次回は Op.1 Nr.2 をやろうと思うけど、これはランパルのCDがあったんで、楽譜を見ながら聴いてみたんだけど、課題は多い!! ヘンデルのソナタが全部入った音盤てのも探してみようと思うのであった。

アンデルセンはこのごろ全然やっとらんなあ・・・


2001年7月24日火曜日

選挙が近いが・・・・


日本経済新聞社が29日投票の第19回参院通常選挙を前に実施した全国世論調査で、小泉純一郎内閣の支持率は過去最高を記録した前回6月調査(85%)から16ポイント低下し、69%となった。(6月23日 日経新聞)

そうである。約7割が支持という状況は、それでも依然として高支持率であることに変りはない。

小泉内閣が「構造改革」と「景気回復」をうたって登場してきたが、今週末の参議院選挙で、いったいどの政党に投票すべきかは今もってワタシ的には流動的だ。

小泉内閣は、外交問題については「対米路線」「アジアへの視点」のふたつの点について、大きな違和感を感じるし、彼の歴史認識と日本の位置付けの甘さは一国の首相としての資質を欠いていると思う。また、「構造改革」に向ける意気込みは認めるものの、具体策となると彼が一体何をしたいのかが見えてこない。骨太の方針は確かにある。「痛み」を伴うということも、与野党共通の認識だ。しかし、「痛み」の後が見えない。本当に任せていいのか、「骨太方針」の前提は本当に正しいのか? と思ってしまう。

かといって、民主党や自由党である。今でも一番しっかりしているのは、民主党だと思うのだが、鳩山さんと菅さんの論点も微妙に異なっているように思える。

一番の問題は、もはや「与党」「野党」とかの政党が、その政治立脚点であるはずの政策を含めて崩れてしまっているのに、誰一人としてその枠組みを今回は越えられない点にあるのではないか。小泉さんが「自民党にいなければ改革なし」というのも分かる。「加藤の乱」のときの彼もそういう立場だった。自由党の小沢さんなど、今の状況をどう思っているのだろうか。

政治家というのは、立場になると言いたい事を言えなくなるものなのか、とも思うが、例えば22日のテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」、各党の幹事長クラスが集まって討論を行っていたが、あの自民党の山崎さんでさえ、自らの立脚点を明確に示すことができないでいた。「極めて政治的発言」に慎重になるのは当然だと思うものの、政治家というのは、だとすると自分の考えを述べられないのか? ここからが、一体誰を支持すべきなのか曖昧にしてしまうと思うのだ。

2001年7月22日日曜日

伊島りすと:「ジュリエット」



こう言っては何だが、私は結構ホラー小説が好きである。かといって古今東西のホラーものを熟読しているほどの熱心な読者ではないが、昨今の「ホラー小説大賞作」などはある程度読んでいる。

だから、本書の帯び(下に引用した文章)に、「これは期待できるか!」と思い、「考えてみたら昨年度(2000年)は大賞なしだったものな」などというこも思い出しながら本書を読み始めてみた。

こういう小説であるからして、筋について言及するのは避けたいが、私的には今ひとつの感がぬぐえなかった。この小説をまだ読んでおらず、これから読もうとする人は、以下の拙い書評は読まないほうがいいと思う。
南の島で親子三人が対面した蘇る思い出たち。
狂おしく、切ないまでの、異常な世界・・・・
ホラー小説史上にエポックメイキングな作品として
新たなページを刻み付ける名作、誕生!
「感想は?」と聞かれれば、面白いし質の高いエンターテイメントに仕上がっていることは認める。しかし、プロットの根幹がスティーブン・キングの「シャイニング」と「ペット・セマタリー」の合作のような雰囲気を漂わせており、新規性を感じない点はマイナスだ。

「ペット・セマタリー」を読んだことがあるならお分かりだろうが、蘇る死者というテーマは私には好きになれない。それも単なる幽霊とか言う形ではなく、人の一番大切にしておきたい、または、辛すぎて思い出したくない「思い出」を題材にしていると言う点で、読み進めるのが苦痛になってしまう。これは個人的な感情だとは思うが・・・・こういうテーマは心情的に受け入れにくいのだ。

S・キングの「シャイニング」は、非常にすぐれた小説であったが、この小説はそれほどのパワーも完成度も見られない。もっとも、作者は「シャイニング」を意識などしていないかもしれないが。

こうして書くと”全然ダメ”なようにう感じてしまうかもしれないが、実際はそうではない。読み始めたら止められなくなるような魅力に富んでいるし、一気に読ませるだけの筆力は十分である。特に水字貝の「魂抜け」のエピソードは、小説の一番の核となる部分であるが、ここの書き方はなんとも憎いまでに成功していると言える。後半のココ(主人公ルカの友人)が蘇るあたりなど、気色悪いがホラーとしての怖さは十分である。

ただ、小説に多くの要素を盛り込みすぎているのという気がしないでもない。主人公たちが阪神大震災の心的障害を負ってしまっているということは、小説家に多くのイマジネーションを与えるのだろうか、貴志祐介の「十三番目の人格」を思い出す。また、主人公健次の失業やバブル崩壊の傷跡、母親の幼児虐待と娘のルカの自傷行為など、一見して現代の病理を組み入れているように思えるものの、その掘り下げ方は甘く、どういうホラーを書きたいのかが見えてこない点にもどかしさを感じる。ストーリーのラストに向けての緊張感はあるものの、意外性はほとんどない。また、タイトルの「ジュリエット」というキーワードが全く生きていない点も残念だ。

伊島りすとの他の作品は読んだことがないが、むしろホラー以外でじっくりと小説を組み立てたほうが良いのではないかと思える。そんなわけで、本書帯の「ホラーの新たな領域」と言う点には、全く賛同できないものの、作者の次回作については期待してみたいと思わせるのである。

ブラームスの交響曲を久々に聴いてみたが・・・

シベリウスの4番というウニョウニョした音楽ばかり聴いていたら、急に独逸系の正統的な交響曲を聴きたくなった。ここはやっぱりブラームスとばかりに、久しぶりにワルター指揮 コロンビア交響楽団(1960)の演奏で2番と3番を聴いてみた。

この演奏がブラームスの名盤であるかは論が分かれるだろうが、私にとってはブラームスを(ベートーベンもそうだが)まじめに聴くきっかけとなった「名盤」である。

ブラームスの2番や3番は、名曲であることは認めるものの、1番や4番に比べて地味な印象がないわけではない。しかし、シベリウスを聴きつづけた耳には、骨格のしっかりした、まるで両足で地をふんばっているかのような安定感と、堂々とした物凄い立派な曲に聴こえて、改めて驚くのであった。構成美と言ってもいいのかもしれない。切々たる旋律もあるが、全体の流れの中で破綻せずに訴えかけてくる。それが心地よいし安心感がある、ととれる反面、余りにもストレートすぎて気恥ずかしさを感じないわけでもない。

こういう交響曲が独逸の伝統だとすると、シベリウスの音楽というのは、極北の音楽であると称される意味もわかるというものだ。どちらが良いとかの問題ではない。目指した音楽性も、そして時代背景も全く違うということだろう。ワルター&コロンビアの演奏は、ブラームスを熱くそして独特の粘りをもって分厚い演奏に仕上げており、非常に満足のゆくものだ。ただ、ひとつだけ気になるのは音質なのだ。

私の聴いている盤は、SONY(SRCR1663)20bit Mastering のものなのだが、特に弦の音がシャリシャリとした金属的なトゲトゲしい音に聴こえる。マスタリングのせいなのだろうか、弦は決してこういう音は出さないだろうと思うだけに、惜しまれるのであった。


2001年7月20日金曜日

アムランのピアノ バーミンガム市響による ブゾーニのピアノ協奏曲

Prologo e intorroito (15:38)
Pezzo giocoso (9:47)
Pezzo serioso:
Introductio (4:02) Prima Pars (4:43)
Altera Pars (11:30) Ultima Pars (2:57)
All'Italiana (12:17)
Cantico (10:50)

指揮:マーク・エルダー
ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
演奏:バーミンガム市交響楽団
録音:June 1999
hyperion CDA67143 (輸入版)

「レコード芸術 6月号(2001)」に『名曲!?奇曲!? ブゾーニ《ピアノ協奏曲》の魅力 M・A・アムランによる日本初演事件簿』(高久 暁)として、この曲が紹介されていた。アムランといえば、超絶技巧のピアニストとして知られている。音楽関係のBBSなどを眺めていると、賛否あい半ばする形で語られているのを目にするが、高度な技術を有する演奏家にはよくあることだ。

ピアノ・パートは難しい、と言うも愚かなほど難しい(長木誠司)というブゾーニのピアノ協奏曲をアムランが演奏しまた録音したというのだから、モノ好きだとは思うが聴いてみたいと思うではないか。さっそく、札幌のPALS21に出かけてCDをゲット。店員さんに「アムランに興味があるのですか?」と聞かれても、なんだかアムラン買うの初めてですと言い出せず、「はあ・・」と曖昧な返事を返すのみであったが、親切にもhyperionのチラシを渡してくれた。心の中で(ええ!? こんなにCD出しているんだ! と恥じ入る)

さて、まず聴いてみて非常にびっくりした。ブゾーニというから知的で緻密な音楽が展開されているのかという、訳のない先入観を持っていたが、ものの見事に覆された。なんだか良く分からないけど凄い、かっこいいと思った。爆発するようなエネルギーを撒き散らしているような男性的な音楽だ。

何度か聴いてみたのだが、繰返し聴くにつけ、すさまじき音楽であると思う。力強さ、爆発するパワー、グロテスクさ、はじけるような陽気さ、春の祭典的な雰囲気さえ漂わせながら怒涛のごとく進む音楽の威力には圧倒されるのみだ。不勉強にして知らなかったが、ブゾーニはイタリア人であるらしい。そう思って聴いてみると、これまた先入観のなせる技か、レスピーギのローマ三部作をふと思い出しながら聴いてしまう。(曲は全然似ていないけどね)

解説は英語なので、レコード芸術と、拙い読解力で把握したところによると、この曲は全部で五つの楽章に分かれている。第1楽章は「プロローグと入祭唱」、第2楽章は「おどけた楽曲」、第3楽章は非常に長く「厳粛な楽曲」「序奏」「最初の部分」「次の部分」「最後の部分」に分けられている。第4楽章は「イタリアの風に」そして第5楽章はデンマークの作家、エーレンスレーアの「アラーへの賛歌」が歌われる。

ブゾーニ自身の妻に当てた手紙によると、1、3、5楽章は三つの建築物を意味し、間の二つはスケルツォとタランテラを配した構成だという。三つの建物はそれぞれ、"Graeco-Roman"、"Egyptian"、"Babylonian"とされているらしいが、私にはそれらを視覚的にイメージできる知識はない。

レコード芸術の長木氏とのインタビューで、アムラン自身が作品のパワーや魅力は正しく演奏すれば自ずから分かる音楽作品に付いて絵画的あるいは思想的な連想や考えは持ちません。それは結局音楽そのものではないので…と語るのは意味深い。しかし、聴きながらどうしても、「言葉」による手がかりを求めてしまうことを避けることができない。

これらの曲からイメージされるものは、壮大にして荘厳なるイメージやら(1楽章)、非常に暗くグロテスクな舞踏であったり(2楽章)、荘厳にしてかつ暴力的なまでのカタストロフィクを感じたり(第3楽章)、猛烈なエネルギーの爆発による生命力の発散だったり(実際「ヴェスヴィオス火山の噴火」とされる)、自然の神秘に対する畏敬だったりする。また、爆発するばかりではなく、ピアノとしての美しさも十二分に堪能できるところも多い。

第四楽章の圧倒的コーダの後に配置された、長調から短調に至る非常にテンションのピチカートの戦慄(not 旋律)や、ピアノのことなど何も知らない私には理解できないくらいテクニック的に難しいらしい、重音のトレモロやら畳み込むようなピアノの轟き、圧倒的なカデンツァなどなども舌を巻く(アムランが「殺人的」というくらい)。第5楽章コーダの男性合唱の美しさと力強さといったらどうだ。

とにかく上品な曲ではない、名曲でもないかもしれない。しかし、この圧倒的な恐ろしく南イタリア的な太陽と空気が、さながら熱風のように聴く物の体を吹き抜けてゆく快感!

ブゾーニ自身が、「建築物」にこの曲を例えたように、通して聞いてみてもまた、ある楽章だけ取り出して聴いても、骨格がはっきりした(ある部分ピラミッド的な美しさを感じる)音楽に聴こえ、決して奔放にして放埓なだけの音楽ではないことも確かだ。従って聴いた後には、何と言うか壮大なる旅をしてきたかのような満足感に浸ることが出来るのだ。ああ、イタリアに行きたい!と思うよ。

もはや、こればかりは聴いてもらうしかない。他に類例がないと思われるこの音楽を言葉にするには余りにも語彙が不足しており、これ以上書き続けることの限界を感じてしまうのであった。

選択するとしたら その2

以前に書いたこと(7月16日)の繰返しになるのですが、再び思うことを書いてみます。

村上氏の前提は、競争社会と階層差の発生を容認することが前提だと思うのです。競争するかしないかは個人の自由であるとしても、全ての人がそれを放棄することはあり得ません。結果として非常に高給をとる人たちと、そこそこの人たちに分化すると思います。

年収2億円の人と、年収200~1000万円程度の人(大部分でしょう)が一緒の場所に住めるとは、到底思えず、ローカルな都市としてのセキュリティや階層化ということも発生するのかもしれません。今でも入りづらい店や会員制などの場所は存在しますが、前提として「入ることが出来ない領域」が増加するかもしれません。現にアメリカでは、ゲートで街に入る人をチェックするように囲い込まれた都市が存在すると聞きます。もっとも、日本では狭い土地しかありませんし、都市の成り立ちを考えても、そうは(したくても)ならないという気もしますが。

これらの社会構造が、不公正感(公平にはならない)なしに実現されなくば、階層間(日本に階層がないという考えはもはや幻想でしょうか)での不満は増大し、今までになかった形での犯罪が増加するかもしれません。教育に対する投資ということで考えると、ますます階層差を助長する仕組みになってしまい、教育を受けられる層と受けられない層に分かれることも考えられます。

教育投資や教育闘争から離脱して、それでも年収2億を得たいという人はいるわけで、芸能やスポーツ面、芸術面などに競争の場を移すでしょうし、棚ボタ的な報酬を期待する人も増えるでしょう。

金持ち(ああ、嫌なコトバ)の家庭が世間体とは裏腹にバラバラで精神的には決して幸せじゃないとか、ヘッジファンドで高額な報酬を得たエリートが自分の仕事の虚偽性に不満を感じるとか、忙しさの中に自分を見失っていると気づくとかは、ドラマ的ではありますがステロタイプ過ぎて実態を表しているようには思えません。たぶん、彼らの多くは不満の方が少ないんじゃないかと思います(あくまで 多分)。

容認するしないに関わらず、競争社会というのは、勝者には幸せかもしれませんが、非常に救いのない社会構造のように思えるのです。

物質的、刺激受容型の幸福のみを求めるならば、年収2億円の人が幸せなのは自明かもしれません。それぞれの階層(ああ馴染めないコトバ)の人たちが、それぞれに幸せを感じ取れる社会というのは、人は何を持って「幸福」と感ずるかという問題に行き着くと思うのです。

人は一人で生きてはおらず、その存在を誰かに認められることで生きています。それは強者だろうが弱者だろうが大人だろうが子供だろうが、根本は同じだと思います。誰かに認めて欲しいということは、誰かを認めることで、それは人と人のつながりの相互の関係です。「努力の報われる社会」とはよく言われますが、「努力して報われなくても、認めてくれれば」救われるものです。

自分の仕事(家事にしても)が、誰かの役に立っていると思うから誇りも生じるのです。自分の仕事を「凄いね」とか「ありがとう」と言ってくれる人がいるから、やっていけるのです。

人が人として幸福を感ずるということの基本は、こういうことだとは思うのです。でも、そういう甘やかな理想論だけでは生きてはいけないのです。人は幸福感とともに刺激も求めてしまうのです。

そこで、なのです。あるべき社会の理想型というのは一体だれが示すことができるのかと考えてしまうのです。政治家は社会の仕組みを作りますが、現状では思想までは作りえないでしょう。(政治というのは高度な思想集団だと個人的には思いますが・・・・) 宗教が廃頽(と言うと怒られるでしょうが、一般論です)した今では宗教家でもだめですね、彼らとて経済幻想の枠組から自由ではありません。

社会の枠組みにつかりきった私のような親は、子に何を示せるのでしょう?

村上 龍の主張

村上龍のメールマガジンはご存知だろうか?JMM [Japan Mail Media]として、毎週非常にハードな内容のメールが送られてくる。

No.123 Wednesday edition のラストでの村上の提言は、今月私が引っかかっていた問題を、ものの見事に言い切っているので、一部を引用したい。


まず競争社会の中で戦っていくのか、それとも自分の好きな道を極めていくのか、その二つくらいの道筋は示していかないといけないと思います。競争社会に適した人と適さない人がいますから。それに加えて、別に全員が競争の中で生きていかなくてもいいんだとアナウンスすることで、すごく楽になる人がいると思うんです。本が好きだったら図書館で働けばいいし、花が好きなら花屋さんで働いてもいい。そういう生き方が、年収2億円より劣った生き方では決してないということを、誰かがアナウンスしないといけないと思います。


ところでです。例えば図書館や花屋で働く収入の低い(と言い切るのも何だが、今は二極論での話なので、例えとしてです)人の生活が、十分に幸せであることが保障されている必要があるわけです。少なくとも、生活を楽しむことが出来るだけの余裕がなければ成立しない考えでしょう。また、職業に対する「誇り」と「尊敬」も必要です。

物価水準や社会保障制度、公的施設の充実度、税率の問題、さらには教育(内容と教育への投資金額)と社会道徳的な問題など、非常に多くの要素が立ちふさがってるような気がします。

個人的には、仕事は住宅から30分以内の職場で午前8時から14時まで働き、帰って昼寝して、夕方から自由な生活を楽んだり、地域活動やボランティアをできるような生活(まるでイタリアかスペインのよき時代か)が理想ですなあ・・・全く程遠い生活しているけど。

村上龍のメールマガジンは、下記で申し込み出来ます。

【WEB】    http://jmm.cogen.co.jp/

2001年7月18日水曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第4番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Sep 1995
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)

シベリウスの4番は本当に暗く救いのない音楽なのだろうか。今まで、デイヴィス、カラヤン、マゼールと聴いてきたが、これらの演奏は暗さだけではなく静かな煌きを感じさせる演奏であるように思えた。

ベルグルンドの盤も、どちらかというと美しさや静謐さが強調された演奏であると思える。加えるに、先の盤と比べて決定的なのは、ベルグルンドとヨーロッパ室内管で奏でられる音楽の純度の高さと、孤高という言葉さえ浮かぶような美しさ、そしてシベリウスの音楽に対する深い造詣のようなものさえ感じることができる演奏であるということだ。

端正さという点では、思わず居住まいを正して聴かざるを得ないような雰囲気さえある。演奏自体に贅肉がなく、室内楽を聴くかのごとき簡素さを感じるが、それが何と曲の雰囲気に合っていることだろうか。以前にも書いたが、オケの響きには雑なところや粗さは全く発見できず、完成された美しはまさに特筆ものである。隅々まで神経の行き渡った演奏からは、暗い楽句であっても救いや解決のないというイメージよりも、深い思慮に沈む哲学的静けさを感じる。いろいろな人が「別格級」と称する意味が分からないでもない演奏である。

第一楽章冒頭の低弦とチェロの響きは本作品を特徴付ける部分だと思うのだが、この演奏からは余計な感傷や感情のようなものを感じず、虚空に投げ出されたかのような所在無い印象が受ける。その枯れた感じは極限まで切り詰められた緊張感に満ちており、何かひとつが加わっただけで崩れてしまうかのような、純度の高さを感じる。続いてかぶさるヴァイオリンの透明な美しさには宇宙的な広がりさえ感じ、音楽のイマジネーションの豊かさには陶然としてしまう。

曲の解説などによると、風光明媚で知られるコリへの旅行から曲のインスピレーション得たことに言及されている。シベリウスの音楽はR・シュトラウスのような標題音楽ではないことには同意するが、一方で過度に作品の成立背景を解釈の足がかりにするのもいかがなものかと思う。確かに聴きようによっては、視界がひらけたかのような音楽的な広がりが、「アルプス交響曲」にも似た感興を湧かせる部分がないわけでもない。しかし、音楽のありようと演奏を聴く限りにおいては、ベルグルンドは何か音楽そのものを忠実に演奏しているようなスタンスを感じるのだ。そこから湧き上がってくるのは、純粋に音楽的な満足と広がりである。

第二楽章にしても、風景描写的な演奏と感じるのは聴き手のイメージのふくらみ、あるいは思い込みのせいだろうか。俄かに翳をさすかのような音楽の移り変わりにしても、浮き沈みする感情の振幅と感じさせる場合もあれば、北国の短い夏を思わせる場合もある。しかし、音楽に深く耳を傾けるならば、そのどちらもイメージは正しくないのだと思い至る。あるのは、流れ行く音楽だけだ、この楽章も言葉には還元できないことを知らされる。

第三楽章はフルートの調べやホルン、チェロの響きがあたかも幽玄の世界をさまようかのごとき感がある。フィンランドの深く暗い森の中を、あてどもなく逡巡する姿や、楽章最後に現れるテーマが断片的に見えるさまは、霧の中から垣間見える雄大な景色か、あるいは作曲者自信の哀愁の感情表現なのだろうか。風景描写的と思って聴けば、そう聴こえるし、過度に思い入れを入れると、あたかも悲愴なる運命との出会いのようにも、シベリウス本人の嘆きにも聴こえる。

シベリウスはこの曲を「心理的交響曲」と呼んだらしいが、これにさえそれほど拘泥する必要はないのかもしれない。主題群が断片から姿をあらわし始めるさまなどは、ここでも宇宙的な創造を、あるいはブルックナー的な峻厳ささえ漂わせているではないか、何と美しき音楽であることか。もしかすると、この楽章はシベリウスの書いたレクイエムなのではないだろうか。

終楽章の明るい煌きから、全てが解体され殺ぎ落とされるラストの対比も見事である。今までの虚飾や光を全て失い、丸裸の状態で放置されるという音楽のありようは、残酷さや救いのなさを感じる人もいるかもしれない。しかし、ラストは決して孤独や絶望、諦めだけではなようにも思える。

もっとも、以上のイメージとて、これを聴いたときの感情に支配されるものだろう。ただ、ひとつだけ言える事は、交響曲第4番というのは、暗いだけの音楽ではなく、素晴らしくイマジネーション豊かな世界であり、また北欧的な美しさや静謐さ、北国的な生命力や死生観、人生における喜びや哀しみ、感情の振幅など多くの要素を、非常に凝縮した音楽に結実した稀に見る名曲なのではないか、と思い至ったのである。地味目の曲だが広がりはまさに宇宙的なのである。

繰り返すが、まさにそういう印象を与えるという点においても、ベルグルンドの演奏は別格級であるのかもしれない。こうなると、暗さの極致といわれるケーゲル盤をぜひとも入手して聴きたくなるのであった。

2001年7月17日火曜日

外務省のタクシー券 水増請求

外務省の信用を地に落とすかのような(マスコミの書き方)事件がまた起きた。タクシー券を水増し請求して(それも2000万円!)、着服していたという言語道断とも言うべき破廉恥さである。

新聞報道を読んで、怒りに震える人も多いだろう。

しかしなのだよ、狭い会社や官僚などの組織において、常識・当たり前のこと・皆がやっていること、という感覚で罪悪感が麻痺していたんじゃないか、と思うのだ。

あなたの常識は世間の非常識

ということはあらゆる場面で自省しなくてはならない格言だ。突然に悪は生まれない、生むための土壌は存在しているのだ。

外務官僚のモラルの低さに怒りを発する以前に、自分の常識の正しさを自問せざるを得ないのであった・・・・それは、公的保護や既得権益など、今構造改革の槍玉に上がっていることにも普及する事項であるのだ。

唾を吐くのは天に向かって吐くのと同義、いつかは自分にも降りかかってくるのだ。

2001年7月16日月曜日

努力と成果

年功序列から能力主義への移行は、私の勤める旧態依然とした会社でもささやかれ始めた考え方だ。

「努力すると報われる」というと聞こえは良いが、つまりは「努力しない者は報われず」「努力しても成果を上がられなかった者も報われない」ということを意味している。

企業によっては、行き過ぎた成果主義(結果重視)から、経過も重視する方向での評価制度を導入し始めた企業もある。望ましい方向のように思えるものの、「評価」の客観性を更に難しくするものという懸念もある。いずれにしても、「勝ち残る」者はごく少数であり、あなたも私も、勝者たることはないという世界だ。

このような世界が、「望ましい方向」なのだろうか・・・・??? 企業も政治家も、どんな社会がお望みなのか?今の私には、何が薔薇色かはわからない。

ところで、努力をするかしないかは、個人の選択である。公平ではなく公正な社会とは、機会がだれにも均等である社会であるのかも知れない。しかし、既にして、生まれたときから人は機会均等ではない。機会が均等でなければ、望ましい方向とは、敗者(というと語弊があるが)復活できる社会であるか、ということになるのだろうか。

そういう観点から今の社会の仕組みを見たときに、二世議員が跋扈する政治家達に、敗者ならざるを得ずにいる人たちのことが分かるだろうかと思いはじめた。

いや、そもそもだ。ここでいう「敗者」とは何のことなのだと自問せざるを得ない。地位と権力と財力が得られれば勝者か? しかし、それではばかばかしすぎる。

「努力の報われる社会」とは良く言われるが、「努力」を何を求めてするのか? 努力しなくちゃダメなのか? 全てが分からなくなってくるのであった。

久しぶりに書き始めたら、考えが発散してしまった。こういう袋小路的な考えに陥るということは、今の社会に哲学や宗教的などメンタルな部分が欠如しているからという気がしないでもないのであった。だからと言って、五木寛之とか池田大作なんかの著書を読もうなんて、思いもしないけどね ♪(*^-゚)⌒☆

選択するとしたら

共産党は好きになれないし、どうも論点がぼけていて、どうにもならないと思うことも多いのだが、彼らは「ワークシェアリング」ということを提案していたと思う。

ワークシェアリングとは、一人で今までやっていた仕事を複数の人に分け与えてこなしましょうという発想で、私の記憶が正しければドイツ(西)などで実施していた考え方だと思う。

当然、一人あたりの賃金は減るわけだが逆に自由時間は増えるというわけである。考え方は雇用の創出ということにあるのだが、共産党は「サービス残業をなくして、仕事を分け与える」とか、すこしズレた感覚で提案していたように思う。

共産党の主張がどうかはさておき、賃金が今の半分となるが仕事時間も減るか、賃金は今のままだが、労働時間も今か今以上というのを選択しろと言われたら、どちらを選ぶだろう?

そのときの物価水準がどうなっているのかという問題もあると思うが。豊かな生活て、なんだろうと、やっぱり思うのである。

最近の朝日新聞で、日本の企業も、優秀で企業を引っ張ってゆくゴールドカラー(当然、高給である)と、そこそこの業績だけど給与もそこそこという層に二極分化する、同期であっても年収で1千万円以上の差がつくこともあるかもしれない、と書いていた。

考えてみれば、今の教育制度にしたところで、一握りのエリートとそれ以外のフツーの人を作るという方向で進んでいるように思える。

どちらに入るのが幸せなんだろう?

党首のTV討論

参議院選挙まであと2週間。昨日の日曜日の朝は、NHKおよびテレビ朝日で党首すべてがTV出演し、論戦を張っていた。私はNHKの方は観なかったが、「サンデー・プロジェクト」はなかなかに面白かった。

その中で、司会の田原さんがしきりに「YesかNoか、やるのかやらないのか」と二者択一的に回答を迫っても、相変わらず回答を濁す小泉首相の答弁が気になった。首相たるもの、おいそれと白黒つけることは難しいのだろうが、首相としての真意と自民党の真意の微妙なずれを、浮き彫りにすることができないもどかしさを感じた。

一方、野党の方は野党で、扇国土相に「選挙のためだけの団結、不良債権処理さえ意見がばらばらではないか」と指摘されるように、足並みの乱れとスタンスの不確かさが逆に露呈してしまったように思える。国会の党首討論よりもよほど面白いと思うのは私だけだろうか。

さて、それぞれの政党の論点を書く気はないが、「痛みを伴う構造改革」とは「倒産し失業する可能性」であることを出演党首は全て認識していたし、与野党含めてそれを「止む無し」とする姿勢も明らかにはなった。それならばである、50万人の雇用創出にしても、セーフガードにしてももっと具体的な対策として打ち出されなければ、本当に未来があるのかは見えてこない。5年後に自分は失業していないと言い切れるだろうか?

さて、ここで、全くレベルの違うことを、ついつい思ってしまう。以上の議論は、「発展すること、進歩することが是である」という、前提のもとに全ての議論は展開されている。そうなのだ、京都議定書の件についてもなのだ、「進歩しつづけること」が前提なのである。それは人間社会が高度に経済的な活動に置きかわっているからだけではなく、「常に進歩しつづける=新たな刺激を求めつづける」動物としてプログラムされてしまったことからくる悲劇なのだろうか・・・と。

2001年7月10日火曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第4番

指揮:ロリン・マゼール
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:4/1968
EMI DECCA POCL-6043 Legends (国内版)

マゼールの演奏は、数あるシベリウスの録音の中でどのような位置付けだろうか。少なくともシベリウスの名演という点では候補からはずされてしまうかもしれない。しかし、チャイコフスキーの交響曲の特集でも感じたのだが、この時期のマゼール&ウィーンの演奏は若さと切れの良さが程よくマッチし、多少粗削りな印象を受けるものの、曲の持つ構成を見事に浮き彫りにしてくれる名演であると感じる。全ての音が明確に聴こえ、複雑な音楽の見通しが非常に良いことも演奏の特徴だと思う。音楽が余計な感情を抜きにして聴く者にせまってくる迫力があるのだ。実際、解説によると当時の評価としてはマゼールのシベリウスの全集の中でも4番の評価は非常に高く「この音楽の神秘に近づいたビーチャム以来の初めての指揮者」とされたらしい。

第一楽章の出だしから切り込むよな激しさが感じられ、続くチェロの音の枯れた音と低弦の支えには、一切の妥協のなさを感じる。そこから立ち昇ってくる金管の和音にも厳しさと激しさを感じ慄然とさせられる。音楽により導かれた先は、澄み切り凍てついたかのような虚空の世界さえ感じ取ることができようか。しかし、何と美しい世界であることか。

第二楽章のスケルツォをどう考えるかは演奏のポイントかもしれない。マゼールの演奏からは、素早い動きの中から生命感や若々しい躍動感を感じ、前向きのムーブメントを表現しているように思える。不安さはすぐに翳を落としはするものの、ポジティブな方向での音楽作りを目指しているように思える。また、この楽章については、やたら懐古的や田園風に描写するのを避け、むしろ推進力を前に出し厳しい走句を形作っているように聴こえ、それがかえって心地よく響く。

第三楽章の冒頭はフルートの主題が象徴的である。続くホルンの音色を契機に深く想いに沈んでゆくような音楽つくりは曲想に従順であるように思える。時々現れるチェロのテーマは、ここでも何の飾り気もなく澄み渡り、あたかも波ひとつない湖面を眺めるかごとき静謐さがある。後半になりテーマが展開され大きなさざ波が立ち始めるが、ここでもマゼールは感情の波を押さえ込み冷静に棒を振っているように思える。感情の波は山を迎えても崩れることはなく、再びうちに秘められてゆくのだ。クライマックスの苦悩でさえ救済を求めるかのように吐露しているが、一人日記に感情をぶつけているかのような感がある。

第四楽章はマゼール盤でも鉄琴が使われている。音楽は素早く進行してゆく。この楽章でもそうなのだが、とにかくマゼールの演奏はイキがよく勢いが最大の魅力だと想う。さらに先に述べた音のクリアさと構成の明快さにより音楽的にスリリングに仕上がっており、辛口にして全く退屈しない演奏に仕上がっている。後半に明るさが消え失せてゆく部分の劇的さは余りにもドラマチックで、背筋に刃物を突きつけられたかのような冷ややかさと恐怖さえ感じる。

もっとも、4番へのアプローチというのは、苦悩や暗さよりも、むしろ明るさと推進力に重きを置いた演奏に聴こえる。ムダを配したキリリとした(多少、粗いという印象も受けるが)音作りは辛口の印象を受けるが、演奏解釈的には希望をもたせた演奏であると感じる。ラストにしても救いが全くないという終わり方ではないと思える。

2001年7月9日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第4番

指揮:ヘリベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:12/1976
EMI TOCE-3441 Grandmaster Series (国内版)

この演奏は、1976年のものでカラヤンのシベリウスの4番としては最後にして3回目の録音でのものである。カラヤンがシベリウス指揮者の一人であるということは、定評のあるところだ。カラヤンはこの演奏からはシベリウスの何を抽出したであろうか。

第1楽章からそうだが、デイビス版よりもゆっくりとしたテンポで演奏されている。そのため、デイビスを聴いた後に聴くと、雄大さやオーケストラのハーモニーを心行くまでに堪能することができる。また、カラヤン流というのであろうか、ティンパニの響きも激しくまた低弦部分は地響きのような迫力で迫ってくる。また他の演奏でもそうだが、アダージョな部分は耽美的とも言えるほどの美しさで思わずため息がでるほどである。しかしそれゆえにというのが適切かはさておき、デイヴィスで感じたような怜悧さは感じられない。

第2楽章の出だしにしたって、ゆったりとしたテンポは変わらずにオーボエが旋律を奏でるが、田園交響曲を聴くかのような趣さえ、ひと時だが感じてしまう。いや田園的な情緒というよりも都会でワルツを踊るかのような趣のほうが強いだろうか。上品にして典雅であるが、さらに豊穣さを感じる。考えてみれば、シベリウスが死の予感に打ち震え、社交界での思い出に浸っていたという解釈だって間違ってはいるまい。この楽章でもそうだが、表現の幅はあざといほど大きく聴く者をのみこんでしまうかのような迫力だ。

第3楽章は「瞑想的な雰囲気」とか「非現実的な雰囲気」「内的緊張感」などが特徴と本CDの解説には記されている。確かにもの思うかのようなフシや、抑えられたものを感じる部分もある。しかし、どうしてもチェロ以上の弦が奏でる、この楽章全体を貫く主題が強く支配しているように感じてしまう。この交響曲で唯一覚えやすいモチーフであるからかもしれないが、姿や形を変え、色々な断片で演奏されるこのモチーフはシベリウスの散り散りになった思いの現われだろうか。楽章後半で全容を表すさまは、巨大な氷山のごとき寒々とした巨大な感情の塊りを見るかのような気にさせられる。カラヤンは実に見事に、最後の収束に向けてこの楽章を組み立てている。しかしながら聴いていて、R・シュトラウスの交響詩を聴いているような気にならないわけでもない。「あれ、これはシベリウスだったっけ?」てね。

第4楽章はこの演奏でも鉄琴(グロッケンシュピール)が愛らしい。本来は鐘(グロッケン)が使われるような指示らしいが…デイヴィスも鉄琴だったな。カラヤンはエネルギッシュにしてエモーショナルにこの楽章を開始しており、3番以前のシベリウスの曲を彷彿とさせ心地よい。中間部の弦の刻みにのった曲の推進感は見事で、さすがと思わせるつくりだ。オケも十分にドライブして鳴らしまくり分厚い音を作り上げている。強弱のポイントも的確であり見事だ。ラストの終わり方も、大きな悲劇を演じた後に、主人公は舞台に突っ伏して幕というような重々しい雰囲気であり、それはそれで劇的でありかつ感動的であることは否定できまい。

カラヤン・ベルリンのコンビだけあって、オケの個々の技量がボストンと比べると光るし、音響的にも非常に重厚感あふれるものになっている。デイヴィスを素材の味を生かした魚料理とするならば、こちらは凝ったソースをかけたステーキといった趣だろうか。

カラヤン盤も満足を持って聴くことができるとは思うのだが、これがシベリウス的なのかと言うと、少し首を傾げざるを得ない。というのは、ここで表現された音響的世界にしても思索的な組み立てにしても、シベリウスの独自性というものが、逆にこの演奏からは薄まっているように思えるのだ。こういうアプローチなのであれば、素材はシベリウスではなくても良いのではないか、という印象をぬぐうことができない。

しかし、私の言う「シベリウス的」というもの自体が、自分でもはっきりと文章にできないだけに、論点がボケてしまうことは認めざるを得ない。まだ今の段階で「シベリウス的」を表現することができない。ただ、一つだけ言うとするならば、カラヤンの世界は饒舌にして豊穣すぎる音楽であり、シベリウスの目指した(と私が考える)簡素さとか無駄のなさという方向とは逆の世界であると感じるのである。彼の描いた世界は、暗くはあっても限りなき美しさに彩られているのだ。

だからといって、この演奏が価値のないものだとは全く思わない。演奏から受ける感動は紛れもないものであるし、このような演奏があってこそであるのだから。


2001年7月8日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第4番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:11/1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの交響曲第4番を聴くのは、結構しんどいものである。今までの交響曲とは違い、雰囲気も非常に暗く、救いがない音楽という人もいる。いわゆる主題を展開してゆくような明快な音楽構成もとられていないため、音楽的にもとらえどころがない印象を受ける。

全曲を通じて、鬱屈した雰囲気を吹き飛ばすような部分もほとんどなく、ひたすら内省的に内側へこもってゆく世界を聴くことになるのだが、暗さを聴くことで得られるカタルシスも得にくい曲ではないかと思う。プロの演奏家でも「二度と演奏したくない曲のひとつ」という感想も、どこかのBBSで読んだことがある。

シベリウスがどうしてこのような暗い曲を書いてしまったかは、CDの解説やシベリウスのHPを参照くだされば詳しく書かれているので割愛させていただくが、人生のどん底のような気分においても曲を描かなくてはならなかった彼が、このような音楽を描く事で癒されたのだろうか、と考えずにはいられない。モーツアルトのようにいかにも天上の音楽としか聴こえないような曲を描いたのとは対照的ではあると思う。

この曲を最初に、C・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみた。この演奏を通して曲の概要を眺めてみたい。

第一楽章のチェロの出だしの不気味さと続く寂寞とした主題は、まさに死の淵を思わせる絶望さに満ちている。この雰囲気は全編を支配する感情だと思う。中間部分も色々なモチーフが受け継がれながら、感情の浮き沈みのようなものを感じるのだが、楽器が和音を奏でている中からスッとソロが現れる部分の寂しさなどは、ふと気付いたら自分しか残されていなかった、というような気にさせられる。楽譜を見ながら演奏を聴いているわけではないので、ぼんやり聴いていると、捉えどころのない楽章である。徐々にたかまり、ひとつのクライマックスに達するかに見えるが今までのシベリウスのように弾けることはなく、再び最初の暗い雰囲気に何時の間にか連れ戻されている。

第二楽章は田園風のスケルツォで始まるのだが、下降音形から金管に受け継がれたあたりから、急速に日は翳り暗さが支配してくる。フルートが軽妙に主題を奏で、彩りを添え上に駆け上ろうとする雰囲気が現れはするのだが、もやもやした感情が抜けきることはない。切り込むような弦のやコントラバスの低い響きが、暗雲が立ち込めるかのような寒々さや不安定な感情を表出しているかのようだ。

第三楽章はフルートが非常に印象的なテーマを奏でて始まるが、この楽章にくると明るさは全く消えうせる。前楽章の田園的な雰囲気も何か良き遠い日の思い出と感じるようで、深く内省的で、自分の中にひたすらこもってゆくかのような音楽で、思いは取りとめがない。中間でチェロが哀愁ただようテーマを奏でるが、これは嘆きのテーマなのだろうか。寂寞茫洋とした楽章の中で唯一発展を感じさせ、核となって聴こえてくる。聴き様によっては泣きの旋律であろうが、うたいすぎるとチャイコフスキー的にいやらしくなりそうなテーマだ。デイヴィスはそうはなっていない点、演奏的にはマルである。

第4楽章は鉄琴が効果的に使われており、煌きや光が垣間見えたかのような印象で開始される。音楽の構成もシベリウス的な雰囲気が漂い、曲としての救いが見えてくるように思える部分である。シベリウスの上方と光や希望を希求する気持ちが込められた部分だろうか。しかし、ポジティブな気分はこの交響曲を支配しない。ティンパニの連打とともに、剥ぎ取られるかのように明るさは掻き消え、何時の間にか回りは冬になっているかのような寒々とした風景が広がり、またしても自分だけが取り残されていることに気付かされて、音楽は終わる。

シベリウスがどう意図したかは別として、私はこの部分を聴くたびに「北国の作曲家の音楽だな」と思わずにはいられない。北国の短い夏、太陽を満喫して馬鹿騒ぎしているのもつかの間である。秋とは名ばかりの季節が駆け足のように冷たい風とともに通り抜け、気が付くと冬景色になっている、という感覚。何かやり切れず、取り残され騙されたと思うような感覚。こういう気持ちは、南国育ちの人にはなかなか分からないかもしれないと思うのである。

さて、このような曲をC・デイヴィスは、しかしながら、ひたすら暗く内省的になることを避けるような演奏をしているような気がする。

聴きとおした後に、虚無に教われるような絶望感や疲れはあまり感じない。むしろ、そこかしこにちりばめられた、何か光を予感させるような響きの方が印象に残り、果てしない絶望感を救っているように思えるのだ。

何が何でも作曲家の心象や当時の境遇を曲や演奏に反映させなくてはならないというものでもない、という意思表示のような気もする。曲を曲としてありのままに捉えた演奏というのだろうか。ラストにしても、一人舞台の中央にスポットが当たった状態で、取り残されはするが、そこからどこにも歩めないというような終わり方には聴こえてこない。

演奏自体も新鮮な響きに満ちており、低い重心で押しまくるという演奏ではない。感情をこめた重い演奏とはせずに、この曲のもつ怜悧な美しさと寂寞感をうたいあげている。それが、この演奏の弱さや説得力のなさにつながると感じる人もいるかもしれないが、私はそうは感じない。この演奏を、「聴きたい」と思ったときに余り抵抗なく、しかもシベリウス的な響きを感じながら思いに耽ることのできる演奏だと思うからである。良く聴き込むと「とりとめがない」と感じる断片が、輝きをもって立ち上がってくる部分も多々あり、「暗い、重い、救いがない」というレッテルだけで聴かずにいるにはもったいない曲であると思うのである。


2001年7月1日日曜日

練習日誌をつけていなかったが、レッスンは今月はまじめに受けていた

練習日誌をつけていなかったが、レッスンは今月はまじめに受けていた。

ヘンデルのフルートソナタE-moll Op1 Nr.1a てやつをやっていたのだ。この作品は5楽章形式なんだが、Nr.1b とG-moll のNr.2 とダブっている部分の多い曲だ。ヘンデルがどういうことを意図してこの三つの曲を作ったのかはわからないが、一般的なのは後ろの二つのものかもしれない。

曲の指使い自体は比較的平易(とは言っても、指定速度では吹けないのだが)だが、今回はベーレンライター版の楽譜を使っているため、アーティキュレーションの指示がほとんどない。16分音符の連続する部分など曲としてのつながりを意識して吹かないと、音がバラバラと並ぶだけで曲どころか練習曲にさえ聴こえないという悲惨なことになる。

先生とアーティキュレーションを考えながら吹いてみると、なんとなくそれらしくなってくる。3/4拍子とか3/8拍子とかの3拍子系の曲て、どうも上手く吹けないなあ。

しかし、古典ものばかり練習しているが、少し飽きてきたぞ。何か他の曲集でも探してみようかなあ。




ゲルギエフ指揮 ヴェルディのレクイエム

ヴェルディ/レクイエム
指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演奏:サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団
ソプラノ:ルネ、フレミング
メゾ・ソプラノ:オリガ・ボロディナ
テノール:アンドレア・ボチェッリ
バス:イルデブランド・ダルカンジェロ
録音:7/2000 PHILIPS UCCP-1026/7 (国内版)

ヴェルディのオペラ名曲集を聴いたり、ボチェッリのテノールを聴いたからというわけではなく、ゲルギエフ&キーロフだからという理由で買った盤である。これがヴェルディのレクイエムの決定版かはさておき、豪華キャスト(らしいが、私はボチェッリしか知らない)を配した演奏で、かつパッケージも凝っていて楽しめるCDに仕上がっている。

ゲルギエフといえばエネルギッシュにして濃い演奏を期待するとことで定評がある。この演奏も音響的な迫力は十分であり、ことに繰り返されるディエス・レイ(怒りの日)のテーマの恐ろしさは格別だ。しかし、いわゆる「ゲルギエフ的な濃さ」という点では今一つであるように思える。彼のファンの中には、この演奏を不満を感じる人もいるかもしれない。近々「春の祭典」が発売されるらしいが、こちらも楽しみである。

ボチェッリはビールか何かのCFでの曲でも歌っているらしく、CDショップに行くと彼のコーナーが出来ているほど。人気があるのかな? この中では、唯一声を知っている歌手であるが、ちょっと異質な声に聴こえるのは気のせいだろうか。