2001年7月8日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第4番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:11/1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの交響曲第4番を聴くのは、結構しんどいものである。今までの交響曲とは違い、雰囲気も非常に暗く、救いがない音楽という人もいる。いわゆる主題を展開してゆくような明快な音楽構成もとられていないため、音楽的にもとらえどころがない印象を受ける。
全曲を通じて、鬱屈した雰囲気を吹き飛ばすような部分もほとんどなく、ひたすら内省的に内側へこもってゆく世界を聴くことになるのだが、暗さを聴くことで得られるカタルシスも得にくい曲ではないかと思う。プロの演奏家でも「二度と演奏したくない曲のひとつ」という感想も、どこかのBBSで読んだことがある。
シベリウスがどうしてこのような暗い曲を書いてしまったかは、CDの解説やシベリウスのHPを参照くだされば詳しく書かれているので割愛させていただくが、人生のどん底のような気分においても曲を描かなくてはならなかった彼が、このような音楽を描く事で癒されたのだろうか、と考えずにはいられない。モーツアルトのようにいかにも天上の音楽としか聴こえないような曲を描いたのとは対照的ではあると思う。
この曲を最初に、C・デイヴィス&ボストン響の演奏で聴いてみた。この演奏を通して曲の概要を眺めてみたい。
第一楽章のチェロの出だしの不気味さと続く寂寞とした主題は、まさに死の淵を思わせる絶望さに満ちている。この雰囲気は全編を支配する感情だと思う。中間部分も色々なモチーフが受け継がれながら、感情の浮き沈みのようなものを感じるのだが、楽器が和音を奏でている中からスッとソロが現れる部分の寂しさなどは、ふと気付いたら自分しか残されていなかった、というような気にさせられる。楽譜を見ながら演奏を聴いているわけではないので、ぼんやり聴いていると、捉えどころのない楽章である。徐々にたかまり、ひとつのクライマックスに達するかに見えるが今までのシベリウスのように弾けることはなく、再び最初の暗い雰囲気に何時の間にか連れ戻されている。
第二楽章は田園風のスケルツォで始まるのだが、下降音形から金管に受け継がれたあたりから、急速に日は翳り暗さが支配してくる。フルートが軽妙に主題を奏で、彩りを添え上に駆け上ろうとする雰囲気が現れはするのだが、もやもやした感情が抜けきることはない。切り込むような弦のやコントラバスの低い響きが、暗雲が立ち込めるかのような寒々さや不安定な感情を表出しているかのようだ。
第三楽章はフルートが非常に印象的なテーマを奏でて始まるが、この楽章にくると明るさは全く消えうせる。前楽章の田園的な雰囲気も何か良き遠い日の思い出と感じるようで、深く内省的で、自分の中にひたすらこもってゆくかのような音楽で、思いは取りとめがない。中間でチェロが哀愁ただようテーマを奏でるが、これは嘆きのテーマなのだろうか。寂寞茫洋とした楽章の中で唯一発展を感じさせ、核となって聴こえてくる。聴き様によっては泣きの旋律であろうが、うたいすぎるとチャイコフスキー的にいやらしくなりそうなテーマだ。デイヴィスはそうはなっていない点、演奏的にはマルである。
第4楽章は鉄琴が効果的に使われており、煌きや光が垣間見えたかのような印象で開始される。音楽の構成もシベリウス的な雰囲気が漂い、曲としての救いが見えてくるように思える部分である。シベリウスの上方と光や希望を希求する気持ちが込められた部分だろうか。しかし、ポジティブな気分はこの交響曲を支配しない。ティンパニの連打とともに、剥ぎ取られるかのように明るさは掻き消え、何時の間にか回りは冬になっているかのような寒々とした風景が広がり、またしても自分だけが取り残されていることに気付かされて、音楽は終わる。
シベリウスがどう意図したかは別として、私はこの部分を聴くたびに「北国の作曲家の音楽だな」と思わずにはいられない。北国の短い夏、太陽を満喫して馬鹿騒ぎしているのもつかの間である。秋とは名ばかりの季節が駆け足のように冷たい風とともに通り抜け、気が付くと冬景色になっている、という感覚。何かやり切れず、取り残され騙されたと思うような感覚。こういう気持ちは、南国育ちの人にはなかなか分からないかもしれないと思うのである。
さて、このような曲をC・デイヴィスは、しかしながら、ひたすら暗く内省的になることを避けるような演奏をしているような気がする。
聴きとおした後に、虚無に教われるような絶望感や疲れはあまり感じない。むしろ、そこかしこにちりばめられた、何か光を予感させるような響きの方が印象に残り、果てしない絶望感を救っているように思えるのだ。
何が何でも作曲家の心象や当時の境遇を曲や演奏に反映させなくてはならないというものでもない、という意思表示のような気もする。曲を曲としてありのままに捉えた演奏というのだろうか。ラストにしても、一人舞台の中央にスポットが当たった状態で、取り残されはするが、そこからどこにも歩めないというような終わり方には聴こえてこない。
演奏自体も新鮮な響きに満ちており、低い重心で押しまくるという演奏ではない。感情をこめた重い演奏とはせずに、この曲のもつ怜悧な美しさと寂寞感をうたいあげている。それが、この演奏の弱さや説得力のなさにつながると感じる人もいるかもしれないが、私はそうは感じない。この演奏を、「聴きたい」と思ったときに余り抵抗なく、しかもシベリウス的な響きを感じながら思いに耽ることのできる演奏だと思うからである。良く聴き込むと「とりとめがない」と感じる断片が、輝きをもって立ち上がってくる部分も多々あり、「暗い、重い、救いがない」というレッテルだけで聴かずにいるにはもったいない曲であると思うのである。

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