2001年7月20日金曜日

選択するとしたら その2

以前に書いたこと(7月16日)の繰返しになるのですが、再び思うことを書いてみます。
 
村上氏の前提は、競争社会と階層差の発生を容認することが前提だと思うのです。競争するかしないかは個人の自由であるとしても、全ての人がそれを放棄することはあり得ません。結果として非常に高給をとる人たちと、そこそこの人たちに分化すると思います。
 
年収2億円の人と、年収200~1000万円程度の人(大部分でしょう)が一緒の場所に住めるとは、到底思えず、ローカルな都市としてのセキュリティや階層化ということも発生するのかもしれません。今でも入りづらい店や会員制などの場所は存在しますが、前提として「入ることが出来ない領域」が増加するかもしれません。現にアメリカでは、ゲートで街に入る人をチェックするように囲い込まれた都市が存在すると聞きます。もっとも、日本では狭い土地しかありませんし、都市の成り立ちを考えても、そうは(したくても)ならないという気もしますが。
これらの社会構造が、不公正感(公平にはならない)なしに実現されなくば、階層間(日本に階層がないという考えはもはや幻想でしょうか)での不満は増大し、今までになかった形での犯罪が増加するかもしれません。教育に対する投資ということで考えると、ますます階層差を助長する仕組みになってしまい、教育を受けられる層と受けられない層に分かれることも考えられます。
 
教育投資や教育闘争から離脱して、それでも年収2億を得たいという人はいるわけで、芸能やスポーツ面、芸術面などに競争の場を移すでしょうし、棚ボタ的な報酬を期待する人も増えるでしょう。
 
金持ち(ああ、嫌なコトバ)の家庭が世間体とは裏腹にバラバラで精神的には決して幸せじゃないとか、ヘッジファンドで高額な報酬を得たエリートが自分の仕事の虚偽性に不満を感じるとか、忙しさの中に自分を見失っていると気づくとかは、ドラマ的ではありますがステロタイプ過ぎて実態を表しているようには思えません。たぶん、彼らの多くは不満の方が少ないんじゃないかと思います(あくまで 多分)。
 
容認するしないに関わらず、競争社会というのは、勝者には幸せかもしれませんが、非常に救いのない社会構造のように思えるのです。
 
物質的、刺激受容型の幸福のみを求めるならば、年収2億円の人が幸せなのは自明かもしれません。それぞれの階層(ああ馴染めないコトバ)の人たちが、それぞれに幸せを感じ取れる社会というのは、人は何を持って「幸福」と感ずるかという問題に行き着くと思うのです。
 
人は一人で生きてはおらず、その存在を誰かに認められることで生きています。それは強者だろうが弱者だろうが大人だろうが子供だろうが、根本は同じだと思います。誰かに認めて欲しいということは、誰かを認めることで、それは人と人のつながりの相互の関係です。「努力の報われる社会」とはよく言われますが、「努力して報われなくても、認めてくれれば」救われるものです。
 
自分の仕事(家事にしても)が、誰かの役に立っていると思うから誇りも生じるのです。自分の仕事を「凄いね」とか「ありがとう」と言ってくれる人がいるから、やっていけるのです。
人が人として幸福を感ずるということの基本は、こういうことだとは思うのです。でも、そういう甘やかな理想論だけでは生きてはいけないのです。人は幸福感とともに刺激も求めてしまうのです。
 
そこで、なのです。あるべき社会の理想型というのは一体だれが示すことができるのかと考えてしまうのです。政治家は社会の仕組みを作りますが、現状では思想までは作りえないでしょう。(政治というのは高度な思想集団だと個人的には思いますが・・・・) 宗教が廃頽(と言うと怒られるでしょうが、一般論です)した今では宗教家でもだめですね、彼らとて経済幻想の枠組から自由ではありません。
 
社会の枠組みにつかりきった私のような親は、子に何を示せるのでしょう?

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