2001年8月29日水曜日

「今さら『運命』?」と言うなかれ!~三つのライブ録音

ラトルの「運命」が話題になっている。これを機会にと思い、その他の気になる演奏をふたつほど(フルトヴェングラー、テンシュテット)聴き比べてみた。

このほかにも、ライブで忘れられないセル&ウィーンの演奏もあるのだが、これ以上運命に付き合うのはちょっとつらいので、またの機会に譲りたい。一度聴いただけで「あたる」演奏と、何度か繰り返さないと「ピントこない」演奏、こういうのは個人差あがあるのだということが、今回の収穫か。



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音)
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
指揮:サイモン・ラトル
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァイオリン独奏:チョン・キョン=ファ
EMI TOCE-553311

ラトルとウィーン・フィルによる「運命」である。レコード芸術では絶賛級の賛辞を与えられていた、非常に刺激的な演奏である。(レコ芸の評をどう考えるかはさておき・・・)

国内版を買うのは値段の点で躊躇してしまうのであるが、どうしても聴いてみたく購入。一聴しただけで文章を書く雑さをご了承願いたいが、これはすさまじき「運命」であると感じた。

��・クライバーの怒涛のような「運命」もあるが、それ以上に刺激的な演奏に聴こえる。印象に残るのは、やはりティンパニの音やピッコロなどの音、さらには、全楽章を支配している圧倒的なリズムと切れの良さだろうか。演奏からは軋みのようなものさえ聴こえてくるではないか。今さら「運命」なんて、と思うならば聴いてみると良い。新たな感動が沸き起こるのを禁じることができないだろう。

どちらかと言うと「快速系」の演奏なのかも知れないが、軽くはない。微塵の迷いもなく突き進むその姿は、聴くものの内側に大きく質量感のある感動を落とす。ベートーベンの音楽の持つ力、硬く熱く重い金属のような力強さを我々に与えてくれる。

ぜひ聴いてみて、その音楽を感じてもらいたい(ああ、こういう演奏を聴くと、つくづく生演奏に接したくなるよ)。レヴュは気が向いたら書いてみたい。

ラトルはウィーン・フィルとのベートーベン全集の録音に取り掛かっているらしく、各交響曲の特徴を際立たせることを意図しているらしい。これからが非常に楽しみである。



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音)
指揮:フルトヴェングラー
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1947年5月27日
DG

解説不要の名盤。フルトヴェングラーが戦後ベルリンに復帰した演奏の三日目のもので、歴史的名演奏として名高いものだ。ラトルの演奏を聴いて、改めてこの演奏がどういうものなのかを知る意味で聴いてみた。

石をぶつけないでいただきたいが、この名演を聴くのは今回が初めてであった。クラシックな方々には「基礎問題的常識」であっても、この世界に疎い、あるいは足を踏み入れたばかりの若輩者には、未知の世界なのである。

さて、この演奏の凄さはあちらこちらで語り継がれている。最近のレコード芸術「21世紀の名演奏300選」でも54年版を押しのけて上位に入ってきたという演奏である。しかし、録音はモノラルだ、本当にそんなに凄いのか?と半信半疑で聴き始めたことを告白しておこう。

半ば期待を込め半ば揶揄的に聴き始めたのだが、恥ずかしい話、感動するとかいう言葉では表現できないほどの衝撃を受けてしまった。私は2楽章のあたりからから、涙を抑える事ができなかった。始終泣きどおしで最後のコーダまで聴いてしまった。あまりにも、あまりな演奏に、この盤をもう一度聴く気力がおきないほどだ。

��Dであっても「あたる」というのか、何かにシンクロしてしまう瞬間というものがある。この演奏がまさにそういう状態だったのかもしれない。何と言う「運命」がここには展開されているのであろうか。どこが凄いとか説明すること自体が無意味にさえ感じさせる鬼気せまる演奏だ。

「フルトヴェングラー的アインザッツ」とか「怒涛のアッチェレランド」とか、言葉を弄すれば何か書けるだろうが、それらは空しい行為でしかない。歴史的名盤と皆が言う意味が嫌と言うほどに分かった。

「たった一度聴いただけで分かったなんて言うな。」という人もいよう。しかし、再度聴いて、さきに始めて聴いたときほどの衝撃があるかと考えれば、それは叶わないのではないかと思うのである。衝撃は最初のものだけが真実であると思う。



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音)
指揮:テンシュテット
演奏:ロンドン交響楽団
録音:1990年8月30日
米RARE MOTH RM 401/2-S

札幌PALS21で見つけた海賊版。カップリングはブレンデルのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番である。

テンシュテットも私にはなじみの多い指揮者ではない。バーンスタインと並ぶマーラー指揮者という印象が強いが、あちこちのサイトを覗いていると、スタジオ録音とライブ録音の差が大きい指揮者であるという評が多い。マーラーのライブを探しているが、なかなか見つからず、たまたまこの盤を見つけたので買ってみたという次第だ。

フルトヴェングラーの演奏を聴いてしまって、続けてこの演奏を聴くことに意味があるのか、疑問に思ったことも確かだが、半ば強迫的な義務意識で聴いてみた。

最初に聴きとおしたときは、正攻法でなんとなく響きの柔らかい(甘い)演奏だな、という印象を超えなかった。ライブの海賊盤なんで音質もいまひとつだし。何気なく流して聴くとあまり特徴のない演奏に聴こえてしまうのかも知れない、「運命」という耳慣れた曲であるだけになおさらだ。

しかし、何度か聴いいると、音が自分の中で立ち上がってくるのを覚える瞬間がある。「・・・!!」という感じだ。この演奏でもそうだった、「ええ? 何を今まで聴いていたんだ?」と自問してしまった。

確かに正攻法のベートーベンだ。例えばラトルのような切り込んだ斬新な解釈はみられない。しかし、それでいて、ここには並々ならぬ熱気をはらんだ、すさまじきエネルギーの演奏が込められていることに気づかされた。ティンパニの叩きなども尋常とは思えない。地が沸きあがるようなベートーベンである。

カップリングされているブラームスも物凄い。ブラームスはワタシ的にはちょっと苦手なのだが(嫌いなのじゃない、とっかかりがつかめないのだ)あのブレンデルがものすごいピアノを弾いている。今回はブラームスのことを書くのが主旨ではないので割愛するが、このテンシュテットのライブ録音、類稀な熱演であることは確かなようだ。




2001年8月28日火曜日

構造改革なくして景気回復なし

この話しを考え出すと、どうしても「幸福論」に行き着くのだ。

景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。

男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。

女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。

旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。

そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。

毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。

景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。

宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。

失業率5%

失業率が5%を超えたというニュースが新聞にのっていた。失業率の捉え方もあるが、実際に準失業状態の人も含めると実数はもっと多いのかもしれない。

さて、構造改革には痛み=失業者が伴うことは自明のこととして認知されたが、いざ構造改革の具体性となるといまだ不安要素が多い。

頼みの綱のIT産業が、松下、富士通、日立、東芝などのメーカーで大幅なリストラを展開している。昨日(8月27日)の新聞では東芝が国内で1万7千人の従業員削減計画を発表していた。これは、今までの企業が海外での人員整理であったのに対し、国内でという点が注目される。

構造改革とは業種転換を意味している。IT関連産業でさえこの始末である。構造改革の痛みは特定業種に固まるという見方もある(いわゆる、建設、流通などだが)。彼らまたは我々は、では積極的に業種転換を図ろうとして、一体どういうメニューがあるというのだろうか。福祉をはじめとするサービス産業への転換というが、お題目に過ぎないのではないかと危惧する。具体的な職種と数値(骨太の方針には530万人の雇用?)を年単位で企業ごとに示してもらいたいものだ。受け入れ企業だって、助成金をもらえば済むという生易しい話ではなかろう。

40歳を過ぎて、全くの異業種に移る、一から資格を取り直してというのもかなりつらいものだろう。それが痛みというなら受け入れるしかないのか。また、40歳前後でそれなりの管理職で収入を得ていた人が、転職した場合、収入は半分くらいになってしまうとも考えられる。それも痛みというのなら受け入れるしかないのか。

無駄といわれている公共工事や行政サービス、または各種の特殊法人などなど、そのどれも、そこに働いている人たちは「自分の仕事は無駄です」「私は無駄な仕事をしてます」と言う人は(よほどのことがない限り)いないだろう。みな、意義と価値があると信じて働いている。はたからの見え方と、中での見え方はまるで異なっているとは思うが。

翻って、自分を考えてみる。「あなたの業種は将来性がないから、他に移らなくてはなりません。1ヶ月以内に目処をつけて1年以内に新しい職場についてください。」と突きつけられたら? 何を頼りに動けるだろうか? それなりに忙しく、色々なものを犠牲にして今の境遇を手に入れたのに、「あなたの20年前の選択(あるいは30年前)は間違っていたのです。先見の明がなかったのです。生活水準を維持するのは諦めなさいと宣言されるのである。

こういう痛みの先に見える、景気の回復とは何か? のっぴきならないところまで達するのに、後少しという気がする。

これは国民である我々が望んでいたことなのだ。構造改革を手段として景気を回復させることが目的として。景気が回復すれば幸せになると皆が望んだんだよな。

2001年8月26日日曜日

ついにヤマハのレッスン休会にいたる

このごろ業務とプライベート両面が多忙につき、ヤマハのレッスンも月一度受けられれば良い方になってしまった。月一度に30分のレッスンで1万数千円のレッスン料は非常に高額であるので、熟慮した末、休会届を提出した。したがって、本日がヤマハでの小松先生のレッスンは最後となる。

最後だということだが、レッスン内容は相変わらず。吹ける曲が今はヘンデルしかないんでG-mollのOp1.Nr.2を通しで吹いてみる。指使いはそれほど難しくはないが、装飾を入れたりしてセンスよく吹くにはまだ程遠い状態。特にAdagio楽章を、自分で変装を加えて吹くというのは苦手だなあ。アーティキュレーションもまた先生と復習して色々試してみる。これもどうフレーズをつなげるかひとつで、曲のイメージが変るものだ。ここら当たりもセンスなのかなと思う。

小松先生のレッスンをはじめて、おそらく3年くらいになるのだが、ヤマハでの発表会も二度出たし、レッスンもガリボルディから始めてまあよくここまで続いたなとも思う。でも、ここから先に進むというのは、ひとつの壁を乗り越えないとダメなんだろうなと思い始めたことも確かだ。

ここから先というのは、分かりやすく言うと教則本的に言えば、ケーラーのミディアム・エクササイズに入る前というか、アルテスで言ったら2巻というところだろうか。アルテスの2巻は一通り習ったのだけど、指定テンポで正確に吹けたかというと、全くもって情けないばかりで、もう一度最初からやり直してもいいくらいの出来である。

教則本や練習曲を吹きたいからフルートを始めたわけではないのだが、基礎的な指の動きというのは、どうしてもネックになるし、T&Gみたいな地道な練習が是非とも必要なわけだ。

というわけで、レッスンがあると思うと笛も持って練習もするのだけど、レッスンをこなすだけの練習になりがちだし、これを機会に、もう一度やり直してみようかなと思っているところである。

しかし、趣味なんで急ぐ必要はないと思うものの、指や歯や肺が健在で笛をいつまで吹けるのかと考えたら、他の楽器よりは満足できる年数て短いような気がする。

学生時代にオケとかやっていれば、アマチュアオケとかに入りたいと思うけど、それも無理っぽいし、同じレベルの人とアンサンブルなんかできればいいと思うけど、時間・空間・人・スキル的に難しい。

私の習っていた小松先生は、確か今現在で72歳のはず。結構もう、いいおじいさんなんだけど、肌艶はいいし白髪のきれいなヘアスタイルで、姿勢なんかもしゃきっとしていて、しかも指も私より回るてんだから、うらやましいていうか、尊敬しちゃうよね。笛を吹くという行為と、レッスンで色々な人に常に接しているというのが、いつまでも若さを保っているのだろうな。


小松先生には、フルート協会でまた会う機会もあるけれど、とりあえずはありがとうございました。



2001年8月18日土曜日

クナッパーツブッシュのブルックナー8番

ワーグナー:「ローエングリン」Vol.1 第1幕前奏曲 ほか
指揮:クナッパーツブッシュ
演奏:ミュヘン・フィル
録音:1962(ブルックナー) 1963(ワーグナー)
DG Westminster

DGのWestminsterレーベルからクナのブルックナーとワーグナーが発売されていた。クナといえば熱烈なファンも多くクナの優れたHPもいくつか拝見したことがある。クラシック初級者である私はクナの演奏をほとんど聴いたことがない。

さてこの盤はリマスターテープ版なのであるが、クナッパーツブッシュの演奏よりも、録音されている音の広がりやクリアな音質に驚かされた。ブルックナーとワーグナーの音楽が絶妙のハーモニーで響き渡り、天上のような音楽を聴かせてくれる。弦の艶やかさなどにも一点の曇りもなく、例えばローエングリンの美しいことと言ったら・・・言葉にはならないほどだ。また、ブルックナーの壮大さときたらどうだ。改めてブルックナーの素晴らしさを認識させられる思いだ

とは言っても、「クナのこの演奏は…」などと恐れ多いことは当分書けそうにない。ただ、非常に充実した一枚であることは確かなようだ、ということだけは記さずにはおかれない。(「当たり前だ!!」と怒りの声も聞こえそうだが…)


2001年8月17日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第5番

指揮:バルビローリ
演奏:ハレ管弦楽団
録音:Dec 1952
The Barbirolli Society, CDSJP 1018(輸入版)

シベリウスの5番を聴くときに、その中に何を見出し何を聴き取ることができるだろう。まずは、シベリウス自身がこの交響曲の着想を得えたときの言葉が、曲のもつイメージを端的に言い表しているように思えるので以下に引用してみたい。


「深い谷間にいる。おぼろげながら登る山が見え始めてきた。するとその瞬間、神がその扉を開いて、神のオーケストラが演奏する…」(「北欧の巨匠」音楽之友社 より)


いかがであろうか、曲を知っている人ならば成る程とうなづくのではなかろうか。シベリウスが「神」をどのように認識していたかは分からない。彼の曲からは(他の交響曲であっても)大いなる自然に対する畏敬とも畏怖ともとれるような感情を抱くことがある。シベリウスはキリストのような「神」ではなく、もっと包括的な壮大なる存在と捉えていたのではないかと思う。5番交響曲を聴いた後に残る全身に満たされた喜びや至福の感情は、偉大なる存在を身近に感じたときに得られる満足感なのだろうか。

もう一つこの交響曲のインスピレーションの源泉として語られる体験がある。すなわち白鳥がシベリウスの頭上を旋回し陽光の照る靄の中を、銀のリボンのように消えていったというものだ。彼は「生涯で最も大きな感銘の一つ」と記しているが、この経験そのものを音楽から感じ取ることは難しい。しかし、3楽章が終了した後の感興がシベリウス自身の感じた感動に近いものだとするならば、何と素晴らしい体験だったのだろうと思わずにはいられない。

このように極めて音楽的純度の高い交響曲を聴くに当たって、これから紹介しようとしているバルビローリ&ハレの演奏が他を圧しての名演奏であるかは議論が分かれると思う。ライナーノーツによると、バルビローリは交響曲第5番を57年(本演奏)、66年、68年と三度録音している。彼のほかの演奏を聴いていないため客観性を著しく欠くとは思うものの、私はこの演奏から多くの豊なイメージを感じ取ることができた。

このコンビの演奏の特質としては、熱い演奏ではないが迫力は十分である。録音が古いせいでffの部分音が割れているのが残念だが、オケの勢いなども不足なく伝わってくる。全体的にリズムの歯切れが良く、また音の重心の高さは涼しさや莉莉とした整然さを感じさせる。ロマンティシズムに流れそうになる部分においても、一歩手前で踏みとどまっているようにも思え、好感がもてる。といって、感情の入り方が少ないわけではない。むしろこの曲に対する深い愛情に裏打ちされた演奏のように思える。

例えば3楽章のラストへ向けての盛り上げ方には繊細さと美しさの中から、音の大伽藍が築き上げられる様であり圧巻である。音響の悪さを差し引いても十分に堪能することができるのではなかろうか。録音が悪いといってもそれはff部分であり、各セクションの動きなどは比較的良く聴き取ることがでるためクレバーな印象を受ける。そのようなところが、色彩豊かに聴こえる要因なのかもしれない。

以上のように書くと上出来の演奏のように読めてしまうが、先にも書いたように、これがシベリウスのあるいはバルビローリの名演奏であるかは分からない。それよりも、演奏される曲が素晴らしいのだと思う。何度も繰り返し聴くたびに色々なものが見えてきたり感じられてきたりする曲であると思う。

��楽章の壮大なるラストに酔うも、2楽章の思索的な散歩をするかのごとき逍遥を楽しむのもよし、また鐘か打ち寄せる波のうねりのような音楽に身をゆだねるのもよしである。言葉には換言できない音楽的体験を得ることができる。

最後にふと気づいたのだが、1楽章の勇壮な主題に入る以前の部分、弦のトレモロの伴奏が不安気な感じを抱かせる部分がある。4番交響曲のようなとりとめのなさや、つかみ所のない動きをしているものの、前作との決定的な違いは、その先に解決や頂点がある点だ。この時期のシベリウスの精神的な充実度を示しているように思えるのだが、いかがだろうか。

2001年8月16日木曜日

靖国神社と東京裁判

昨日の日記の視点で欠けているものがあることに気付いた。それは、「東京裁判」というものについてである。「東京裁判」とは言うまでもない、連合国の戦勝国が日本の戦争犯罪人=国家の指導者を裁いたという裁判だ。そこでA、B、C級戦犯が裁かれた。東京裁判の正当性について疑問視する主張があることも薄々は知っているが、それ以上の深い議論にまで立ち入って調べたことは、恥ずかしながら私としては皆無だ。

しかし、ここにまで立ち上らなければ「靖国」問題の真相は見えてこないのではないかと思い始めた。C級戦犯とされた者たちの遺族は、断腸の想いであるかもしれない。何故に自分の肉親が「戦犯」なのかと、靖国の御霊になり終戦の度に慰霊されることがどうして他国から非難されなくてはならないのかと。

戦争犠牲者の御霊を祀り、慰霊するという行為は何なのか。さまざまな想いが余りにも重く交錯し、今の段階では何が正しいのか結論付けるのことの難しさを感じる。

一つだけ言えるとしたら、戦争責任を含めて日本においては、真剣に戦争という行為を教えられてもいなければ、子供たちに伝えてもいないということだ。

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1/1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。

シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。

なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。

そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。

終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。

しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。

いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。

特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。

先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。

2001年8月15日水曜日

13日の参拝と小泉首相の公約

「13日に小泉首相が靖国を参拝したことは公約違反だ、これからの構造改革を推進する上でマイナス要素を投げかけた。」と言うマスコミや政治家がいる。

昨日の筑紫哲也のニュースに出ていた自民党女性政治家(名前はわかりません)も「非常に残念、公約違反だ」と公然と批判していた。

舛添氏はこれを受け、「13日参拝と構造改革推進は別問題」「政治家は色々な意見を調整しつつ最終結論を出す」ものなので、構造改革という公約をトーンダウンするつもりはない、と答えていた。(ちなみに、枡添氏の靖国参拝に対する意見は「高度に政治的判断で評価できる」というもの)

私も、枡添氏の意見に同調する。もし小泉氏が公約とおり15日に参拝していたならば、私は小泉氏を全く理解することができず、むしろ恐怖をもって彼の行動を注視することになっただろう。

「中国からの抗議に屈したと思われたくない」などという意見も多いらしいが、これにも違和感を感じる。枡添氏も言っていたように、今回の一連の首相の言動は国際社会に対して説明可能であるとは思えないからだ。そのような理不尽なものを「公約」という一点張りで「厳守」することを要求するのはいかがなものかと思うのだ。

構造改革推進はそれはそれで、進めてもらいたいが、「間違っていた」ことには修正が必要なのではないか。そして、「間違っていたこと」を小泉首相は自ら説明する責任があるということだ。

それさえ行われれば、政治活動にどこに支障があろうか。


予想とおりの反日感情

ニュースを見ていたら小泉氏の靖国参拝に抗議してのデモや小泉人形を燃やすなどの反日行動が韓国と中国で行われたらしい。この反日行動が、ごく一部の人の間だけのもので一般市民は冷ややかなのか、あるいは、大多数がこの行動を喝采しているのか、本当のところはどうなのだろう。ニュースだけ見ると、規模や広がりについてほとんど伝わってこない。我々が受ける感情は「やっぱりな」ということくらいだ。

それにしても驚くのは、他国の行動に対してここまで過剰に反応する彼らの土壌である。それほどの反発が深い根のところにあるわけだ。行動を起こす人たちを見ると結構若い層のようだから、これは教育あってのことではなかろうかと思う。中国や韓国では、日本よりも詳しく戦争と靖国の関係を理解しているのだろう。

さらには、日本を迎合しようとしながらも反日感情を捨てきれないという何かしこりのようなものがあるのではないかと思う。それだって、教育が植え付けているのではないか?

例えば、「日本は韓国や中国を搾取してアジアで圧倒的に優位な立場を築いた」と認識しているとするなら、そういう歴史認識を教育で醸成しているわけだ。

翻って、日本人が米国やその他の諸外国の行動に対して、猛烈なる抗議をすることが一体あるだろうか。沖縄の問題にしたって冷ややかなのが現状だろう。これも教育のせいなのか、それとも、単なる無関心なのか。

やはり、他国との協調と国際社会での一員となるには、お互いの歴史観を理解することが重要で、その前提には、自分たちの歴史観を明確にする作業がぜひとも必要だと思うのだが。

2001年8月14日火曜日

歴史認識の違いと他国の干渉

8月14日の産経新聞 「正論 米バンダービルト大学教授 ジェームス・アワー」~日本の教科書の検閲はやめなさい、歴史の見方は国によって違うものだ」は、なかなか面白く示唆に富む。

中国や韓国からの指摘を「内政干渉だ」などと言っているのではない。歴史認識というのは各国によって異なるのが当然であり、さまざまな見方が容認されるべきである。その上で、他国の歴史観を含めて、総合的に判断できる(あるいは相互批判)ような土壌が重要だと言っている。


戦争という歴史的事実の大きさを考えると、中国、韓国、日本の教科書がそれぞれに異なった内容をもつより、類似した内容である方がより大きな驚きではないだろうか。(引用)


という意見にもはっとさせられる。我々は隣国のことを一体どれほど理解したり、知っているのだろうか。あるいは、そのような教育をされてきただろうか。

中国や韓国の人たちが、何故にこれほどまでに半日感情を持つのかを、学校で教えてくれただろうか。何かがゆがんではいまいか。


小泉首相の靖国神社 電撃参拝

小泉首相が靖国神社に13日、繰り上げ参拝を行った。

新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。

新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。

私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。

宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。

��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。

首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。

私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。

2001年8月9日木曜日

ピアニスト ウゴルスキのインタヴュー

「レコード芸術 8月号」に、ウゴルスキのインタヴューが2ページにわたって掲載されていたが、非常にストレートな歯に絹を着せぬ内容で、少なからず驚ろいてしまった。

いわく、ブラームスのソナタややシューマンのいくつかの作品は、それほど良くできていない。今までの演奏で満足いくものはなく、私が弾くのが一番である、しかし、ブラームスを弾くのは私の本意ではない。

いわく、ワーグナーなどは「裸の王様」ともいうべき音楽だ(皆がいいと騒いでいるだけで、全然よくない)、シェーンベルクやベルクの作品は、なくなっても私は気づきもしない。

いわく、スクリャービンのソナタは非常に優れた作品で、今は評価が低いが200年も経てば名曲になっているだろう・・・

などなど・・・。手元に冊子がないので、かなり私のコトバに置き換わっているが、非常に過激な意見であることに変りはない。ウゴルスキはまだ聴いたことのないピアニストで、最近DGより新譜が多く出されているので聴いてみたいと思っていたピアニストではあった。

それにしても!! なんたる発言だろうかと、驚きを通り越してあきれてしまった。レコ芸も、「名曲300選」なんておばかな企画を繰り返しているヒマがあったら、こんな面白いインタヴューを尻切れトンボみたいに終わらせず、もっとページを割いて欲しいものである。


2001年8月7日火曜日

小泉首相と米百俵と教育改革

8月2日の首相メルマでも、「米百俵」のことが取り上げられていた。

「米百俵」とは、今さら解説するまでもないが、北越戊辰戦争の時の長岡藩の故事である。食べるものに窮していた長岡藩に、支藩の三根山藩から見舞いの米が贈られてきた。しかし、長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないときこそ、教育に金をつぎ込むのだ」と言って、その金を国漢学校に注ぎ込んだ、というものだ。

つまりは、国を支えるの「教育の重要性」や「目先のことにとらわれない明」ということを小泉首相は強調したいんだろう。

しかしだ、小泉首相はそこまで教育に熱心なんだろうか。現在の義務教育の2002年の改定(学習指導要領の改訂)などについて、議論に上ることは少ない。

私は、2002年の指導要領改訂は、愚行にも近い改悪だと思っている。こう考えるのは、昔ながらの教育を受けたから、その枠組みから逃れられないせいである、とか、学校の勉強についていけない者の気持が分からない者の発言、とか批判的に考えることもできるかもしれないが。

しかし、それでもなおかつ思う。指導要領は改悪だし、今のままでは「米百俵」を腐らせるだけのような気がするのであった。

2001年8月5日日曜日

ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」

ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)

ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。

この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。

さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。

「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。

「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。

「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。

「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。

何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。

ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。

第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。

そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。

「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。

最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。

何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。

ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。

2001年8月2日木曜日

田口ランディ:モザイク

田口ランディといえば、ネットの女王というキャッチで呼ばれるくらいの人気者である。いわれは彼女のメールマガジンの読者層の広さからきているらしい。その彼女の初めて書いた小説が、昨年度の「コンセント」。当初から三部作にしたいと公言していたように、その後「アンテナ」そして本作品の「モザイク」と発表した。

「コンセント」は各方面から賞賛と驚愕をもって迎えられた小説だった。村上龍氏も絶賛しており、10年に一度の傑作とか、こういう小説を読みたかったのだと凄い褒め様だった。私も出てすぐに読んだが、「コンセント」は衝撃的な小説だった。引きこもりの兄が、自宅で朽ちるように死んだ謎を追い求めながら、自分探しの旅と現代の社会に生きる人を炙り出すような小説だった。

今回の「モザイク」にしても、三部作というだけあって、田口の考えている方向性はひとつであることが分かる。端的に言ってしまえば、現代に生きる若者=大人たちからは理解されがたい行動をとる若者や、猟奇殺人に走る少年達は、ほんとうは異常者なのではなく、情報社会といわれる現代で生き抜くための新たなOSを持ち始めた者たちなのだ、という論点だ。

また、主人公達は「コンセント」だったり「アンテナ」だったり、ある人たちに対して巫女だったり、アースだったりするような癒しの人物も登場させ、物語を構築している。そして、「世界は記憶で成り立っている」「記憶を作るために人間がいる」「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」などの大胆な発想を展開している。


今回の小説は、家庭内などで問題を起こす人達を説得し精神病院に行くように薦める「運び屋」を職とする主人公ミミが、輸送の途中で疾走を遂げた少年を探すというストーリーだ。しかし、それは救済とか病理をえぐるとか、異常者(というカテゴリー)を肯定するというものではない。

世間で「異常」と見られてしまった少年にただより沿い、彼の感じていることを主人公ミミを通して読者に見せてくれる。またそれが、いろいろな人の心の中にあるモザイクを共振させることにつながっているのかもしれない。

一見して現代の病理を書いているような体裁をとりながら、その背景や原因を追求しているわけではない。ただ、その病理(と彼女は考えていない)の横に寄り添い、話しを聞いてあげている、彼らの言うことを受け入れている、そうすることで作者のの世界観を語る、そんな小説なのだ。

田口ランディというのは、不思議な雰囲気を持った人なのだと思う。メールマガジンを読んでいても感じるのだが、彼女の文章を読んでいると人の持つ虚飾や見栄が剥ぎ取られて、純粋にからだというものが剥き出しにされてしまうように感じることがある。難しく頭で考えることが、卑しく感じられてしまうことがある。それは、彼女が身体性とか関係性(コトバには還元できない、もっと直接的に心に響くもの)を重視しているからなんだと思う。

そして、最後には決まって、なんだか自分が他者に対してやさしくなったような気にさせてくれるのだ。

もっとも、「渋谷の底が抜ける」「渋谷が電子レンジ化する」というコトバは衝撃的であるが、小説としては、「モザイク」には及ばないような気がする。少年の言葉が説明的であり、小説としてのリアリティを欠いているとは思うからだ。また、彼女の小説に共通の、ラストのありかたにも疑問を感じないわけではない。しかし、それは作品上大きな問題ではないのかも知れない。彼女の描く圧倒的な内実は否定する気持ちを無視して心を打つのだ。

現代が、ある人たちにとってはかくも生き難く、新たなOSが必要とされているという大胆なテーマには深く考え込んでしまう。私のように古いOSに育てられ、古いOSしか身に付けなかったものには、新しいOSで生きる人たちの社会を思い描くことは、四次元を想像するよりも難しいと思うのだった。