2001年9月3日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番

指揮:ヘルベルト・ケーゲル 演奏:ライプチヒ放送交響楽団 録音:1969 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。

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