2001年11月26日月曜日

KOEHLERのエクササイズ 2

さて、ケーラーのエクササイズ、「やさしい」の2番と「ふつう」の1番を相変わらず練習しているが、スピードの点で一つの壁にぶち当たった。

メトロノームで ♪=60から始めて順次スピードアップを目指したことは先に書いたが、四分音符にして80~96くらいが限界なのだ。難しい指使いの部分でひっかかるのは差し置いても、なんと言うか流れの中で曲として吹ける余裕がこのスピードだと全くない。酷いときなどは音になっていない。できなければスピードを落としできるようになるまで練習するしかないのだろうが、80~96といえばメトロノーム表示では Andante である。練習曲のスピード指定は Allegretto と Allegro だ。Allegro ならば、少なくとも四分音符120程度では吹けるようになりたいと思うものの、前途は多難なのであった。

特に憎たらしい指使い、「ふつう」2番なら10小節目のG3が絡む部分や12小節目のE3の絡む部分、また13小節目から始まる上昇と下降音形の部分の低音のCisやDがしっかりと出ない。23小節目以降のG2を絡めた音階も音の跳躍が上手く出来ずに喉がグエグエ鳴っているだけで音が鳴らない・・・などなど・・・

試しに、120のスピードでソルフェージュを試みてみたが、全く譜読みが出来ないことが分かった。ソルフェージュも満足に出来なければ笛で吹けるわけないんだよなと思い直し、再びメトロノームの目盛りを三つほど下げて練習するのであった。

ということで、全然進まねーよとは思うが、まだ2週間しか、それも週3回しか練習してないのだ、すぐにできるわけがない。今年はこの2曲だけで年が終わるだろうな多分。ケーラーも手本があった方がいいと思い、加藤元章のCDを注文したのであった。



【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)による交響曲第6番

指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ベルリン放送交響楽団(東ドイツ)
録音:1970
BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)

同曲異演を聴くという作業に意味があるのだろうかと考える瞬間がないわけではない。何の為に聴き続けるのか、そして書くのかということを自問する。ある演奏を聴いて感動したりイメージが固まったとしても、それが曲の魅力を十全に表してるかというと、おそらくそうではないと思うのだ。作曲家ならぬ演奏家の解釈の介在が大きな要素として立ちはだかっていることを、別の演奏を聴いて気付かされる。同じ曲をいくつもの演奏で聴き比べるという作業は、傍から見ると僅かな差異に拘泥しているだけにうつるかもしれないし、聴く時の体調や主観の入る極めて曖昧な作業でもあることも認めざるを得ない。それを分かっていながらもレビュを書くという行為を続けてみる。

ベルグルンドは最新盤の全集を含め、シベリウス全集を3つ録音している。ここでは、あえてベルグルンドの全集版ではなく70年にベルリン放送交響楽団と演奏したシベリウスの6番に耳を傾けてみた。

シベリウスの6番のレヴュを書くに当たっては、先のデイビス&ボストン盤を繰り返し聴き細部を確かめてきたつもりであった。しかしながら、ベルグルンドの演奏を耳にすると改めて驚きと発見に満ち溢れており、シベリウスの示した音楽的世界に深く打たれる思いがするのである。

この盤で聴くとシベリウスの作ったこの交響曲が、立体的に浮き上がってくるようのを感じる。音楽の持つ構成美や構造などが明確になりそして、雄大さと敬虔さのなかで聴くものに大いなる感興をあふれさせるような演奏に仕上がっている。

断っておくが、先のデイビス盤が平坦で音楽的に優れていないなどと評しているのではない。先のレビュを書いた時点ではストレートで立派な演奏であると感じたし、それは今も変わらないだろう。しかし、ベルグルンドの形作った音楽造型と比較すると、デイビス盤は宗教的な風景絵画を思わせる。一方でベルグルンドのそれは、立体感を伴った迫力のあるトルソ(彫像)のような趣さえ感じるのだ。音楽の作り方は、ドラマチックであり、意外さと霊感に満ちていると感じるのだ。これは演奏の出来不出来という問題ではなく、おそらくはアプローチの違いによるのだろうか。

ベルグルンドの音楽を通して感じるのは、シベリウスの示した世界の限りき美しさ(と書いた瞬間に言葉が陳腐化するが)と慈しみや祈りにも似たやさしさと、畏怖に似た敬虔さであり、それらが全て内側から音楽的な至福となって心を満たすのだ。なんと素晴らしき音楽であろう。

第一楽章の冒頭の弦によるテーマにしても、やさしさといたわりを感じさせ、喜びに満ちていると感じる。デイビス盤で感じたような雪や冬のイメージは全く浮かんでこない。むしろ暖かな光に包まれ祝福されているかのようだ。演奏によって内側に生ずるイメージがこんなにも異なることに改めて気付かされる。小休符の後から、リズミカルなバックに伴いチェロのテーマが奏でられる部分も旋律的な対比が艶やかである。一楽章ラスト、ホルンの和音で始まる部分からは雰囲気を一転させてることに見事に成功している。テンポを落とした曲調から煌然と立ち上がる存在の重さ、そしてそれに応える弦の音色は不思議な説得力がある。

第二楽章にしても、デイビス盤で聴くとどうも今ひとつピンと来なかったのだが、この盤で聴くと非常にインスピレーション豊な楽章に仕上がっていることに気付かされる。

終楽章の冒頭も、何度も聴き慣れたフレーズでありながら、ハッとさせられた。スタッカートやシンコペーションの扱いルバートのかけかたなどに工夫があるのだろうか、音楽的な説明ができないのがもどかしいが。切迫した走句からティンパニのアクセント音を伴いながら畳み掛けるような部分も見事で、去来する断片的なイメージが多くの回想を呼び起こす。テンションは一つもゆるむことなく音楽は進行しラストの結尾主題へとごく自然に導かれてゆく。ここに至っては納得づくのものを感じ、静かなるピアニッシモの消え入るような弦の音色に思わず目をつぶり何かに祈ってしまう。

シベリウスが交響曲第6番で何を表現したかったのかを推し量ることは難しい。彼の伝記やシベリウスの音楽に関する文献を読んでいるわけでもない。それでも解説などによくある「清明」「透明」「永遠性」などを指向した音楽であることは疑いもなく、ベルグルンド盤は見事に表現していると思えるのだ。ただ、先のデイビス盤と比べると無骨という印象を感じる部分もあり、流麗さという点ではデイビス盤の方が(ふたつだけを比較するなら)優れているかもしれない。

2001年11月25日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第6番

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1976
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)

シベリウスの交響曲の中で何を最高傑作としてあげるのかを考えることは、難しくも楽しい作業だ。シベリウスをこよなく理解し愛している人にとっては、ことさら悩ましい問題であるとは思うものの、おそらくは7番を、交響曲の示した形式と内容を含めて一番にあげるのではないかと予想する。私としても、まだ7番のレヴュウは書いていないが、その考えに同意する。一方で、シベリウスを余り聴いたことのない方は2番をもって最高と考えるかもしれない。これとて無理のないことだ。シベリウスの演奏機会を考えれば2番とバイオリンコンチェルトが演奏される機会が圧倒的であろうし。

しかし、この6番をじっくり聴いてみると良い。たかだか30分弱の短い曲ではあるが、まさにシベリウス的な世界が、それもフィンランディアや交響曲第2番のような主張的な部分のない、独自の世界が広がっていることに気付くだろう。7番と優劣をつけにくいと思わせるのだ。

デイビス&ボストン盤を幾度も繰り返し聴きイメージを固めてみた。聴くにつれ、この曲の持つ深遠さと美しさに文章にとして記すことの限界を痛切に感じたものである。標題性や人間的な克苦などを感じさせない、純粋にして音楽的な感動が広がるのだ。それでもレヴュを書くに当たってはイメージしたことを文章にせざるを得ない。ある比喩は、その瞬間に浮かんだ心象でしかないため、明日あるいは数年後に同じようなイメージが浮かぶことは保証できない。ましてや作曲家のイメージとはかけ離れたものであろう。それでも、そのような文章でしか今は音楽を語ることができない、ということを前提に読んでいただきたい(久しぶりに書くとくどいな)。

さて、この曲を語るときに第一楽章の美しさは圧倒的であるということからはじめなくてはならい。冒頭のヴァイオリンで奏でられる第一主題の透明感と広がり、そして神々しさはシベリウスの作った最も美しいメロディにあげられるかもしれない。彼の音楽の持つ独特の煌きの中に永遠にも続くと思われる至福の時間が込められていることを思うのだ。

私は今までに何度か、シベリウスの音楽の魅力は煌きのようなものだと書いてきた。この冒頭主題にいたっては、氷点下の凍て付いた空気の中でキラキラと輝く氷のような煌きさえ感じるのだ。

曖昧な捉えどころのない副主題からチェロのモチーフに至る部分も聴き所だろう。チェロは若干哀愁を帯びるものの感傷的ではない。この後も、冒頭のテンションがひとつも緩むことなく駆け抜けてゆく感があり、あたかも広々とした雪原を颯爽と馬車で駆け抜けているかのようなイメージが続く。

最後に総休符をはさんだ後の金管群による額句が挿入されるが、これは何をイメージしているのだろうか。私は、その厳かさと神々しさに何か偉大なる存在さえ感じる。他の交響曲でも感じたことだが、それは極めて崇高で宗教的体験に近いが、キリスト教のような特定の宗派を想定させるものではない。むしろ自然に対する畏敬や畏怖から生じるようなものといったほうが適切かもしれない。

第二楽章と第三楽章は非常に短い。繊細さと静けさを感じさせる冒頭から後半の明るさの対比が美しい第二楽章、スケルツオ風の騎行的なリズムにのって軽快に唄われる第三楽章など曲としての面白さも多い。響きも極めてシベリウス的でありしかも内省的であると感じる。第三楽章の軽快なリズムさえ、どこかへと一足ごとに進んでゆく足音を感じる。

第四楽章は再び深遠にして崇高なる世界に引き戻される。冒頭の切迫と哀愁を帯びた弦と木管による上昇と下降の音形による応答が繰り返され変形しながら音楽は進んでゆく。何かに対し問いかけている作曲家の姿なのだろうか。優しい調べがフルートで添えられる。音楽はその後急速に駆け出し盛り上がりを作り始めるが、開放し外に叫ぶような高揚ではなく、内部の高まりと喜びを抑制しながら歌い上げているように感じる。

金管によるクライマックスがあるかと思ったら、はぐらかすように音が殺ぎ落とされ冒頭主題が回帰するあたりは第4交響曲を彷彿とさせる。この部分は何度聴いてもぞっとする。最後に盛り上げて終わることをせず、あえて素朴なる弦による結尾主題で静かに曲を閉じたシベリウスの意図について推し量るのは難しい。消え入るような終わり方は、冒頭主題へ円環のようにつながる永遠性を感じるというと、考えすぎだろう。この主題の終わり方には何かへの深い祈りのようなものを感じさせずにはいられない。

��・デイヴィス&ボストン盤を本シリーズのベース演奏にしているが、これがシベリウス演奏の最良盤であるからという理由ではない。たまたま家にあった全集版であるという以外には明確な理由はない。それでも、こうして聴いてくると、クセのない素直な演奏なのではないかと思えてくる。デイヴィスには新録もあるし、ボストン響も十分に上手いわけではないという評価もあるのだろう。それでもストレートに曲のよさを、過度の装飾や思い入れを入れずに演奏しているという点では評価できるものであると思うのだ。

2001年11月19日月曜日

ペーター・ルーカス・グラーフのチェックアップ

��週間たったが、それなりに練習はしている。アンサンブルの練習をしたり、ある方所有のルイ・ロットやボン・ヴィル(銀管・木管・ピッコロなど)を見せていただいたりとか、フルート生活に厚みがでた感じはあるのだが、個人的なレベルの点では以前と全然変わらずである。

「高木綾子さんのフルートの音がよいのは、ひとえにブレスコントロールの上手さだ」と教えてもらい、ペーター・ルーカス・グラーフの「チェックアップ」を始めてみた。やってみたのは”1.呼吸 課題1 複式呼吸”の部分。

知らない方もいると思うので解説すると、この練習はロングトーンの練習で (1)息が完全になくなるまで吹く:腹筋は緊張したまま (2)この息を出し切った状態のままじっとする(約2・1/4秒程度) (3)突然緊張を解く:空気は自然に肺に流れ込む〔約3/4秒程度) (4)直ちに吹奏を続ける:息は10~15秒程度吹くのに充分足りるはず というもの。

やってみると死にそうに苦しい。そもそもロングトーンが苦手であったことを思い出す。(2)の息を出し切ったままじっとする ということを経ると、確かに嫌でも息が「ガバっと」肺に入る。そのときに胸部を動かさずに、また喉が鳴らないように息を吸い込むというのが難しい。

ロングトーンというのは音をよくするという目的のほかに、呼吸(ブレス、腹筋の動き、支え)を体得するものだとすると、欠かすことの出来ない練習だと思うのであった。考えてみれば数年もフルートを練習していたが、こういう練習は誰も教えてくれなかったと思うのであった。



2001年11月12日月曜日

Koehlerのエクササイズ

先週Andersenのエチュードをやったと書いたが、やはり時期尚早の感があるため再び封印。Koehlerのエクササイズを取り出してきた。

Koehlerの「Easy」は数年前に終了しているが、やったなどとは恥ずかしくて言えない。そこで再び取り組むこととしたのだが、「Easy」を最初から繰り返すのも芸がない。そこで、「Easy」と「Medium」を同時に練習してみることとした。「Easy」は以前は全くできなかった(=今もできない)音楽性を考えて余裕で吹くことを目指して、「Medium」はステップアップのために多少ムリ目を覚悟でということだ。

再びKoehlerにとりかかるのだから、今回こそはまともに吹けるようになることが目標。レッスンに合わせて曲を仕上げる必要もないので、じっくり取り組むこととした。そこでとった方法は八分音符♪をメトロノーム60のテンポ設定から始めることである。

♪=60というのは本当に遅い。でもこのスピードでもチェックする項目が実に多いことに気付いた。腹筋の支えを取り十分に音を鳴らすこと、特に低音域や高音域で音がかすれないようにすること、このスピードで音が鳴らなかったら終わっている。ブレスは大きく深く余裕をもって取ること。次に、スラーのつながりで別の音が混ざらないように滑らかに吹くこと、音の跳躍をしっかりすること、そしてメカニックな指の動きはできるだけ小さく、キーから指を浮かさないようにすることなどなど・・・

できたと思ったら、メトロノームのひと目盛りずつ上げてゆく。するとあろうことか、♪=80位のスピードでさえ怪しいところが生じるのだ。例えば「Easy」の2番なら5小節目の半音階の下降から三度で上がる分散和音のところ=右手薬指がからむ部分や、「Medium」1番ならば、10小節目のG4が出てくるところや23小節から始まる、オクターブを含む音の跳躍部分など・・・。特に第3オクターブ音域が出てくるととたんにダメだ。気付いてはいたが、こんなにできないとは思っていなかった。そこで、ここが出来ないうちは先に進まないことにした。

メカニックどころか♪=80~104くらいまでのスピードでも(4分音符にしたら60以下のLargoなのにだよ)音が十分に鳴らないことにも気付くの。これでは、Allegroなどのスピードになって音楽になるはずもない。

 しかし今までこういう練習をしていなかったなあ。考えてみれば、T&GのEJ1、2だって私の限界のスピードは4分音符120そこそこだ、それにしたって怪しい指は数多く音にならない部分も多い、ブレスがめちゃめちゃだから連続して吹けないのだ。こんな基本の音形でさえAllegro指定で吹けなければ楽曲や練習曲をこれ以上のスピードで吹けるわけがない。

こういう亀のようなスピードの練習を数日続けてみたが、ふとした拍子にヒョイと音が出るときがある。急に余裕を感じるときがある。急がば回れの確実な練習法なのかもしれないと思ったのであった。さてさて、いつまで続きますかねえ?

瀬尾和紀のフルート

瀬尾和紀のフルートを聴いていみた。このごろフルートばかり聴いているが、親切にも友人が貸してくれたもの。

瀬尾さんは、ランパル国際コンクール、カール・ニールセン国際コンクールなどのコンクールにも上位入賞、今年の第5回神戸国際フルートコンクールでも入賞を果たしている気鋭である。74年生まれ、17歳で渡仏しパリ国際高等音楽院に首席で入学、98年にはフルート科を優秀なる成績で卒業(プルミエ・プリ)、卒業後は大学院課程に在籍しフルートを学んでいる。

早くから日本を離れ、海外で研鑚を積んだその姿勢は彼の音楽に対する思いを象徴しているようである。そんな彼が、Naxosに次いで録音したものが「シランクス フランス近代フルート作品集」である。

彼の笛は、先に聴いた高木綾子とは違う、厳しさと鋭さを感じさせる音だ。高木綾子は神戸では本選に進めなかった、だからといって、どちらの方が上手いとか言うことは私にはできない。1曲目のシリンクスにしてもだ、高木綾子とは随分趣の違う曲に仕上がっている、それぞれがおもしろい。

シランクス~フランス近代フルート作品集~
瀬尾和紀 Kazunori SEO

ドビュッシー: シランクス
フランセ: ディヴェルティメント
プーランク: ソナタ
ドビュッシー: 牧神の午後への前奏曲
ピエルネ: ソナタ Op.36
ゴダール: ジョスランの子守唄
ワックスマン: カルメン・ファンタジー

ローラン・ワグシャル(Pf.)
ワーナーミュージック・ジャパン WPCS10970
2001年録音 ステレオ

集められた曲は私には新鮮な曲が多く聴いていて飽きない。とくにフランセのディヴェルティメントの諧謔さと洒脱さはには脱帽である。プーランクも私は非常に好きな曲だが、イマジネーション豊かで素晴らしい。ジョスランの子守唄も非常によい曲だ。

��Dでは自らが曲などにつて解説しているほか、彼のHPでは神戸国際フルートコンクールについての感想も述べている。興味のある方は覗いてみてはいかがか?もっとも、レビュを書くつもりではなかったので、私はこれらの彼の文章を読んではいない。音楽家の書く文章は嫌いではないが、聴き込む前に演奏者自らの「感性」やイメージを言葉で知る必要はないと思うからだ。



2001年11月6日火曜日

高木綾子「Latin America」~南の想い

ワルツ風に~「アクアレル」より セルジオ・アサド
イマジナ  アントニオ・カルロス・ジョビン
11月のある日  レオ・ブローウェル
想いのとどく日  カルロス・ガルデル
わが愛のミロンガ ロレンツ
小麦のダンス アルベルト・ヒナステエラ
波 アントニオ・カルロス・ジョビン
マズルカ第2番 マヌエル・ポンセ
はちすずめ エルネスト・ナザレ
黒いオルフェ ルイス・ポンファ
パリャーソ(道化師) エグベルト・ジスモンテ
モコヴィの地で アリエル・ラミレス
チキリン・デ・バチン アストル・ピアソラ
アリア~「ブラジル風バッハ第5番」より ヴィラ=ロボス
歌と瞬間 ミルトン・ナシメント
白い道 アントニオ・カルロス・ジョビン

高木綾子(fl) 西脇千花(p) 古川展生(vc)
録音:2000年12月5,11~14日 日本コロムビア第1スタジオ COCQ-83501(国内版)

クラシックのHPであるが、このCDを紹介することに全く躊躇はない。高木綾子ファンならば、是非とも聴いてもらいたいCDである。彼女の魅力が十分に詰まった一枚である。クラシック系ではないからと敬遠しているならば、もったいないことだと思う。

昨年12月に発売されたものだが、新譜の「Air Bleu」を聴いてからこのCDを聴くと、雰囲気の違いと、なんとも言えぬ心地よさに驚かれることだろう。「Latin America」というタイトルの示すとおりラテン音楽を集めた音楽だが、ラテンの熱狂的よりも包まれるような優しさと暖かさに満ちた音楽が展開されている。やさしさと、生暖かい空気に乗って漂う色香と哀しさのなんと素晴らしいことか。

選曲はスローな曲がほとんどである。それはサブタイトルが「南の想い」と付けられていることを考えると、彼女の意図がくみ取れるように思える。どちらかというと、アンニュイで気だるげな雰囲気を漂わせ、南のぬくもりに満ちた皮膚感覚を彼女のふくよかな笛の音は伝えてくれるのだ。どこかのリゾート地のベランダで、ゆっくりと沈む太陽を眺めるような、あるいは、ほてりに似た熱狂を海からの風でそっとなで冷ますような、そんな感じだ。

5曲目の「わが愛のミロンガ」や9曲目の「はちすずめ」はアップテンポの曲だが、その愛嬌とリズム感の見事さ。こういう曲を吹いても、彼女が吹くとあざとさやわざとらしさがなく、いかにも自然な音楽が聴こえる。そうなのだ、ここが彼女の笛の魅力なのだ。そして、きらびやかな音の奥に一瞬垣間見える情念とデモーニッシュな美しさ。女神が笑いながらも仮面の奥に別の顔を隠しているような、そんなぞっとするような音が時々聴こえるのは気のせいだろうか。

8曲目の「マズルカ第2番」も、どこかで耳にしたことのあるような懐かしさを持った音楽。ひとつも人を攻撃せずあおることもしない。それでいて音楽が心のひだの中に染みてゆくのを感じることだろう。ざらついて干からびてしまった部分を、そっとなでさすり柔らかくほぐしてゆくような感さえある。とは言っても、今流行りの癒し系とかヒーリングというくくりはしたくない。

10曲目の「黒いオルフェ」は、これもブラジル音楽としては有名な曲で、聴けばあの曲かと思われる方も多いだろうが、ここでの歌心のあでやかさときたら言葉にしようがない。

14曲目の「ブラジル風バッハ」、ヴィラ=ロボスの名曲をどう吹くのかと一番の楽しみであったが、このかなしさのなかのやさしさ、涙をふくんだ微笑みの表現(それがこの曲のテーマかどうかは知らないが)、切羽詰った高音での響きはなどなど、これだけでも聴く価値があると断言しておこう。

この盤では、彼女の超絶的なテクニックは抑え気味であり、「Air Bleu」や「Gentle Dreams」に聴かれるような、息を呑むような迫力や切り込んだ音楽は聴かれない。むしろというか当然というか、彼女は唄うことに徹している。それも、べたべたと情感を込めて唄うのではなく、あくまでも自然にあるがままに、それゆえに先に書いたように素直に心の底まで音楽が届いてしまう、素晴らしきフルートの歌姫といえよると思う。

15曲目の「歌と瞬間」もよい。チェロとの掛け合いが絶妙。もう、なんてったっていい。

(うーーん、なんつーか、ベタ褒め状態だなあ・・・。実のところ、私はこの盤も昨日の盤も知り合いから借りてレヴュを書いている、ちょっとあんまりだな。今度の休日にきちんと買うことにしようっと ^_^;;;)

2001年11月5日月曜日

高木綾子「Air Bleu」~青の余白

マラン・マレ:スペインのフォリア
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 I-Poco adagio
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 II-Allegro
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 III-Allegro
ドビュッシー:シランクス
フェルー:恋にとらわれた羊飼い~3つの小品より
ボザ:イマージュ
イサン・ユン:エチュード第5番
リーバーマン:ソリロキー(独白)

武満徹:エア
高木綾子(fl)
録音:2001年5月29~30日 福島市音楽堂 COCQ-83553(国内版)

高木綾子というフルーティストがいることは以前から知っていた。東京芸術大学在学中にCDを発売、カーペンターズやユーミンの聴きやすい曲を録音していること、ジャケットに見られるヴィジュアル系の容貌。レコード会社がいかにも「売り出し」たい人材なのだという先入観が先に立ってしまって、いままで彼女のフルートを聴かずにすごしてしまった。

今年2001年の神戸国際フルートコンクールで惜しくも本選への出場ができなかったものの、第70回日本音楽コンクールでは第1位を(ついにというべきなのだろう)獲得し、名実ともに実力が認められた感がある。知り合いのフルーティストが「素晴らしい」と絶賛するので、これを機会に聴いてみた。(ここまで条件が整わないと、新人とか新譜を聴かないというのは、自分の固定観念と閉塞感を象徴を象徴していると思うのだが・・・)

このCDは、フルート独奏曲だけを集めたものである。フルーティストの音楽性がモロに表出される、まぎれもごまかしもできない世界だ。

期待と不安が混ざった気持で最初のマレの「スペインのフォリア」を聴いたたのだが、出だしから打ちのめされてしまった。何と言う音だろうか。ヴィジュアルな外見とは裏腹の、物凄い芯の太い力量感のある音だ。偏見かもしれないが、これが女性の出す音なのだろうか。この曲が終わるまで、私は自分が息をしていることさえ忘れてしまった。

何がここまで惹きつけるのだろう、バッハのソナタにしても武満にしても、ほかの演奏を聴いたことがないわけではない。しかし彼女の演奏は何度も聴いてしまう、何か今までにない新鮮さに満ちている。

例えば、イサン・ユンのエチュード第5番、この曲ははじめて聴く曲であったし、この手の曲が得意でない人には楽しい曲ではないかも知れない。しかし、ここに表現された自在さはどうだ。アジア的な曲調をフルートという一本の笛で、限界に近いまでの表現力で描ききる。テクニックの完璧さにも目を見張るが、裏打ちされたテクの上に、まるで両翼を広げて羽ばたいているかのような印象を受けるではないか。その軽やかさと、そして鋭さよ。

音は「きれいな」という言葉を超えている。単にきれいというより、独特の摩擦感があるのだ。フルートというとヒャラヒャラと美しく奏でるという印象をもたれる方も多いかもしれないが、彼女の笛の抵抗感と重さを受け止めると考えを改めるかも知れない。

彼女の吹く独奏曲を聴いていて、私はふと現代美術のさきがけとなった、ブランクーシの「空間概念」という作品が頭に浮かんだ。あの作品も、空間のある一点において極度に緊張を凝縮させた見事な作品であるが、彼女の造形する音には、それに似たゴツゴツしつつもステンレススチールの鈍く光るがごとき緊張感に満ちている。(こういう比喩はよくないと思いつつも使ってしまうなあ・・・ああ、貧困)

またはドビュッシーの「シリンクス」。フルートを愛好するものならば聴きなれた曲を(ほとんどミミタコ状態の曲をだ)、これほど面白く聴けた事は近年なかったのではないかとさえ思った。ふくよかに立ち上る香気に夢幻の世界を浮遊するかのごとき。それは続くフェルーの「恋にとらわれた羊飼い」においても同じことが言える、気品と裏腹の恐ろしさに満ちた演奏だ。

彼女が内外を問わず、数多くのフルーティストの中でどのような評価を受けてるのかは分からない。ほとんど予備知識なくこのレヴュウを書いている。従来の演奏とどこが違うかを述べることは今は出来ない。誰それよりも上手いとか言うことも、意味がないかもしれない。ただ、何かわからないが心を捉えて放さない魅力に満ちた演奏家であることは確かなようで、とにかく、そう感じてしまったということなのだ。

2001年11月4日日曜日

練習室

訳あってかなり練習しないとだめなことになったので、11月からは週3回は音を出す練習をしようと決心した。ウチはマンションであるから音を出せる時間は限られる。平日の帰りが21時前ということはほとんどないため、自宅での練習は諦めざるを得ない。

そこで、以前から気になっていた練習スタジオに行ってみた。駐車場はないものの地下鉄からすぐの場所で地の利は良い。録音スタジオやピアノ練習室が数室用意されている。楽器は持ち込みなので1時間500円と安価なのもうれしい。

昨日は空いているから広いほうでやっていいよということでバンドルームで練習した。バンドルームといっても、地下室のコンクリートにペンキをしただけのような、綺麗・豪華とはとても言いにくい部屋。したがって音が良く響く。私の部屋は本棚やら洋服やらものが多く超デッドな空間。自分で出した直接音しか聴こえないようなところなので、響きのある部屋で練習すると音が良くなったような気になってうれしい。もっともこれは錯覚でしかないのだが・・・・

どんなところか様子をみるだけだったので、まともに楽譜を持っていかなかった。とりあえずロングトーンをやったあと、T&Gから始める。久しぶりにEJ4をゆっくりと通して最後まで、高音域の指使いは相変わらずできない。次にEJ10をこれもゆっくりと、最後に無理のない速さでEJ1をする。これだけで40分以上かかってしまった。楽曲を持ってきていなかったので、Andersen の Op.21 から5番と6番を、超ゆっくり練習。

Andersen は何度も書いているように、とても私の手におえるエチュードではない。しかるに何故これをやるかというとだ。作品21はとにかく臨時記号が多く、ダブルシャープ・ダブルフラット系が苦手な私には譜読みの練習になることと、音の跳躍幅がKoehlerのエクササイズよりも広く、音の跳躍が苦手な私には良い練習になること、そして、何より曲が美しい。加藤元章のCDで聴くと本当に素晴らしい曲に聴こえる(Koehler もCDが出ていたはずだが)。もっとも音の跳躍の練習をしたいのなら、Berbiguier の 18Etudes の方が簡単なことは知っている。

まあそういうわけなのだが、たとえば6番は Andantino の速度で3/8拍子、32分音符の伴奏の中からアタマのスタッカートで打たれた旋律が浮かび上がるという、まことにフルート的な曲である。これも、いかにこのアタマの旋律を浮かび上がらせるかがポイントなんだろうが、とにかくとにかく難しい。ゆっくりだと、どこが旋律なのか迷子になる。でも、こういう曲を吹けるといいだろうなあと思うのであった。Andersen も8番あたりを見ると、トリルのできない私にはゼツボーにしか見えないのだが・・・(トリルができないって、Altes の2巻もイチオーやったのにね、いまじゃ、全然吹けないな)