2002年3月31日日曜日

工藤重典公開レッスン

  • オネゲル:牝山羊の歌 受講者:清水 あゆみ
  • ゴーベール:ロマンス 受講者:谷内 由布子
  • ボザ:イマージュ 受講者:三浦 茜
  • ドップラー:ヴァラキアの歌 受講者:林 加奈子

札幌フルート協会主催、ヤマハ北海道支店協力による工藤重典さんの公開レッスンが開催された。レッスン曲は、私の技術レベルを遥かに越えているものであるが、生工藤に接することができるので聴講してきた。

聴講するには本来楽譜を持って、しかもあらかじめその曲に接していないと、ほとんど意味のないものだ。それでも、曲解釈における考え方や、短いレッスンの中で受講者がどのようにアドバイスを受け止め、音楽的に表現するのかということ見聴きするだけでも、少しばかりは得るところはあると思う。今回も、受講者が工藤さんの模範演奏などを耳にしながら、少しあるいは劇的にその表現を変えてゆく様を見ることができ、興味深いものであった。

それにしても、工藤さんの表現力の幅の広さとドラマチックなことときたらどうだろう、一瞬のフレーズ、いやたった一音の中にまで物語が出来上がるのだ。どんな音も「死んだ」音となっては音楽にならないということを教えてくれるものであった。

はっきり言って、個別の曲に関することは、難しすぎてよく分かりませんでしたっ! 公開レッスンの後は工藤さんのミニコンサートが開催された。こちらも素晴らしいものであった。

��閑話休題)

ボザのイマージュを受講者が演奏した後に、工藤さんが興味深いことを述べていたので思い出して書いてみたい。ただし、言葉使いは工藤さんのものではないし、ニュアンスなどにも間違いがあるかもしれない。録音やメモを元に書いているのではないので、間違いなどがあればご指摘願えると幸いである。

「ボザのこの曲もそうだが、武満徹の楽譜も非常に事細かに演奏上の指示が書かれている。それこそ一音ごとに記号がついている場合もあり、考えようによっては誰が演奏しても同じ音楽になってしまうのではないか、と思うフシさえある。」

「武満さんの作曲した曲を、彼の前で演奏したことがある。自分(工藤)としては、作曲家の意図とおりに吹くのは難しかったのだが、武満さんは演奏を聴いて『フランスの香りがして非常に良いですね』と言ってくれた。」

「武満さんは、私にだけではなく、他の人にも同じように言っていたのかもしれない。でも例えばガロアが武満の前で同じ曲を演奏したなら『ドイツ的で非常に良いですね』と言ったかもしれない。」

「そう云いう風に、演奏家の演奏スタイルが、作曲家のイマジネーションに還元されるということはある。」

「演奏にはある程度演奏家の自由な奏法というものが許される。今の受講生の演奏のように、作曲家の意図したことを忠実に演奏できたのなら、それから先に、演奏者がその曲を自分のものとして消化し、新たな表現として何を加えるということが重要になってくる。非常に難しく高度な問題だが、演奏家として考えなくてはならないことで、そこにこそ演奏する意義がある。」

だいたい、以上のような内容だったと思う。工藤さんは、全く作曲家の意図しないことを自由きままに演奏すれば良いと言っているのではない。演奏家に残された数パーセントの表現ということについての言及なのだが、当たり前のようで非常に難しいことを彼は提示したように思える。

まあ、いずれにしても私には到底及びも想像もつかない境地なのだが・・・

2002年3月30日土曜日

工藤重典のフルートを聴く

日時:2002年3月30日(土)17時50~18時30時
場所:メッセビル6階(札幌)
演奏:工藤重典

モーツアルト: アンダンテK315、ロンドK184
プーランク: フルート・ソナタ
ドップラー: 愛のうた(ピアノ:阿部 佳子)

札幌キクヤ楽器で工藤重典の公開レッスンがあり、その最後に工藤さんによるミニコンサートが催された。工藤さんの生演奏を聴くのは昨年の3月、王子ホール以来、ちょうど一年振りである。

二週間前の、森&高橋さんのデュオもここメッセホールで行われたが、決して音響的に優れた空間ではない。それでも200近くは入るのだろうか、仮設ステージとパイプ椅子を持ち込んだ会場はほぼ満席の聴衆と換気の悪い空間のため少しデッドで暑く、息苦しい感じ。

しかし、工藤さんの演奏は冴え渡っていた。14時から17時半までのレッスンの後だというのに、素晴らし演奏を聴かせてくれた。

工藤さんは今回はゴールドフルートにての演奏。ピアノは阿部博光さんの奥様(阿部佳子さん)による伴奏だ。工藤さんの音はどちらかというとふくよかで豊なひびきだと思う。繊細なというよりは幅の広い音だ(繊細な表現ができないとか言うのでは決してない、誤解のなきように)。時にはきらびやかに、そして、時には朗々と彼の音は響きわたる。中音域で少し「割れた」ような音に聴こえる瞬間があったが、これも彼の音の持ち味なのかもしれない。

最初のモーツアルトも良かったが、なんと言ってもプーランクのソナタは圧巻であった。思い起こせば昨年の王子ホールでの演奏でもプーランクを演奏した。工藤さんにとっては特別思い入れのある曲なのかと思う。この曲を聴いて、工藤さんの素晴らしさは、その音色の劇的なまでの変化にあるように思えた。1楽章の最初の出だしの天から降ってくるような音から始まり、湧き上がるような音楽作りをするかと思えば、次の瞬間にはガラリと雰囲気を変えた音色を聴かせ、会場の空気感さえ変えてしまう、その絶妙さ。それとともに、こんなにも「語りかけてくる」プーランクというものは初めて聴いたように思える。物凄い音楽的な説得力なのだ、さすが! と思ってしまった。

会場が小さいせいもあってか、ホールでの響きとは違い、フルートの微妙なニュアンスまで聴き取ることができたように思える。3楽章が始まる前に、工藤さんが一瞬笛を放し「緊張しますね」と言って汗を拭いたのは、会場の雰囲気がプレッシャーとなったということなのだろうか・・・?(まさか前席の聴衆に向かって話し掛けたわけではないだろうし)アンコールとして用意された「愛のうた」も素晴らしいものだったが、とにかく今日は工藤さんのプーランクを再度聴けただけでも行ったかいがあった。

最後になるが、阿部佳子さんのピアノも素晴らしかった。音色の柔らかさ、微妙なニュアンス、そして力強さ、決してフルートを殺さずそれでいてピアノの美しさを表現している、素晴らしいピアノ演奏であったと思う。

この公開レッスンとミニコンサートが無料なのだから、二週続けて得をしたと思うのであった。

2002年3月26日火曜日

昨日帰宅すると、TBSの筑紫哲也ニュース23に辻本議員が出演していて、疑惑に対する弁明を行っており少なからず驚いた。朝日新聞夕刊などは「議員辞職を決意」「看板娘あっけなく退場」というような見出しで報道されていたが、彼女としては進退をまだ迷っていること、かなり無念であることは番組から伺えた。

その中で彼女は、二つのことを提案していた。ひとつは国会へ証人喚問として呼んで貰うこと、その上で秘書のあり方の問題点を提起したいと。もうひとつは議員辞職勧告決議案を提出してもらい、本会議で記名投票で採決してほしいということだ。これも、勧告決議案のあり方に対する問題を提起したいとの思いらしい。

彼女の意見に対して、番組に出演していたほかの議員やキャスター、政治ジャーナリストの見方は厳しかった。それは問題のすり替えであり、自分の進退を明らかにすることをまず行わなくてはならないのだと主張していた。彼女は土井党首との協議を拒否したまま番組に出演してしまったということも問題だ。今朝の新聞各社は厳しい見方をしているようで、読売新聞は社説で彼女の言動を批判している。

昨日私は、「このままウヤムヤあるいはただ退陣されたのでは」と書いた。しかし、今の時期に彼女にこのようなことを期待したわけではない。言い分はわかるが、ここはやはり自らの疑惑(詐欺罪に当たるかも含め)を晴らした後の活動でなくてはならないと思う。彼女の責任感の強さと政治意識の強さがこのような行動を取らせるのだろう。しかし、その裏には、今回の「前参院議員の私設秘書の女性を政策秘書として登録していた問題」を、「本心としては、大きな問題ではない。皆が私を誤解している」という認識があるのではないだろうか。だからこそ、無念であり、このままでは終わりたくないとの思いが残るのだろう。

詳しいことはわからない、しかし、彼女の現在ではなく未来の政治生命まで絶つような事態にだけはならないで欲しいと願うのみだ。


先ほど、日経新聞HPを読んでいたら、辻本議員が議員辞職を決意したことが報じられていた。ただし社民党は離党せずに党員活動は続けるらしい。断腸の思いの決断であったと推察する。昨日の朝日新聞で誰かが「今回の件で辻本氏の資金を調べたが、こんなにも金がなかったのかと驚いた」と書いていた。政治を実現するには潔癖と情熱と信念だけでは出来ぬことは分かる。今回の一件は、さまざまな政治上の問題を浮彫りにしたように思えてならない。

2002年3月25日月曜日

社民党の辻元清美衆院議員の責任

何ともやりきれない思いの残る事件だ。社民党辻本議員の政策担当秘書への給与問題である。彼女はある時期「誰でもがやっていること、それほど大きな問題にはならずに、かわせるだろう」とタカをくくっていたのではないだろうか。それが、最初の告発があったときの虚偽の答弁となったのではないかと思う。

事実はそうなのかもしれない。しかし、彼女の今までの言動から考えて、これは政治家として不誠実であったと言わざるを得ない。特に、鈴木宗男議員に対する、かなり厳しい国会での追及の後であっただけに、彼女の政治責任と言動は重いといわざるを得ない。議員辞職を求める声が強まっていると報道されているが、やむを得ないと考える。

このような時期に、どうして議員生命を脅かすような情報がリークされたのかは分からない。勘ぐれば、最近こうるさい「ナニワのチンコロネ-チャン」とまで言われた(どこかのTV番組で辻本議員と一緒に出ていた人がそう言っていた)を、叩いてしまおうという悪意があったのではと思いたくもなる。

しかしだ、彼女の場合市民活動家から出発し「私達は派閥とかではなくて政策で国会に上がってきた」と言う次世代を担う政治家のひとりであったことは疑いもない。それゆえに再度「政策を掲げて」出直してもらうしかないのだと思う。その上で、政治に金がかかりすぎること、今回のような詐欺まがいのことを経営的に行わなくてはならないことなどを追求すべきなのではなかろうか。

彼女の政治活動においては大きな後退かもしれないが、彼女に強い意思があるのならば頑張ってもらいたい。このままウヤムヤあるいはただ退陣されたのでは、政治に対する希望も未来も、更には不正に対して声を大にするという行為さえ、みな潰れてしまうように感じられてならない。確かに、彼女のいい方はきついが、・・・

同じことは先に自民党を離職した加藤議員に対しても思う。辻本議員の辞職がきっかけとなって、鈴木、加藤両氏への議員辞職勧告の声も強まるだろう。それにしても激動の3月だ、思い起こすと小泉政権が誕生してまだ1年も経っていないのだ。

2002年3月17日日曜日

森圭吾&髙橋聖純デュオコンサート

演奏会の感想にコンサートの模様は書いた。もっとも後から書いているので、あのときの細かなニュアンスまでは覚えておらず小学生の感想みたいになってしまったが・・・・さて、ここでは演奏の合間のQ&Aでのフルートに関することを書いておこう。

アルタスフルートに関して、森さんが持論を展開してくれた。

いわく


「フルーティストは大きな音の出る楽器と小さな音の出る楽器を並べられたら、間違いなく大きな音の楽器を選ぶ。だからメーカーもその要望に答えようと、アンダーカットやオーバーカットに工夫を重ねてきた。結果として大きな音は出るが、響きが損なわれる結果となった」

「響きを損なわないように、アルタスと一緒になって色々と改良を加えてきたのが今の楽器だ。吹いてみると分かるが、鳴り難いと感じるかもしれない、しかしポイントに正しく当たったら非常によい響きが得られる」

「息の弱い人(という表現だったかは覚えていない)は、金とかプラチナの楽器を吹くべきではない、それらは相応のパワーを必要とする」

「リングとカバードの違いは、キーに穴が空いているか空いていないかである、そんなに音が違うと気にするほどではない」

「アルタスの森モデルは、いくつかのキーがリングキーであってもオフセットされている。プロはミスが許されない、ミスをしないように楽器を改良している」

「響きを得るためには力いっぱい吹いてもダメである。力むだけでは音のキャパが狭い。遠くに響くようにと念じて綺麗な音をイメージする。例えばフォーレのファンタジーのような出だしの音を」

「楽器の三点支持というのは、正しいが理想的すぎる。私は楽器を下から支えている」 髙橋さんは「小指も使って強く押さえつけている」


いちいち納得のゆく話しであるし、始めて耳にする考え方でもない。むしろ心ある演奏者なら誰でもが同じことを言っているに過ぎないとさえ思う。演奏を聴きに来ている人のレベルに合わせた話ということもあるため、その全てを鵜呑みにすることもできないとは思うものの、世の中の大多数の考え方と違うことはないと思う。

そう思ったときに不思議な思いにとらわれる。ではどうして結果としての楽器のあり方や演奏に、かくも違いが出ているのかと。素人の私には想像もできない深い世界が言葉の裏側に横たわっていることを垣間見せてくれるトークであった。



2002年3月16日土曜日

森圭吾&髙橋聖純デュオコンサート

演奏:森圭吾、髙橋聖純
日時:2002年3月16日(土)18時30~20時
場所:メッセビル6階(札幌)

C.P.Eバッハ: ソナタ E-dur
(フルート:森&髙橋)
ブゾーニ: ディベルティメント
(フルート:髙橋 ピアノ:森 可奈子)
タファネル: 魔弾の射手幻想曲
(フルート:森)
ドップラー: アンダンテとロンド
(フルート:森&髙橋)
(ピアノ:森 可奈子)


何とも贅沢なコンサートだ。札響のフルーティスト二人によるデュオコンサートなのだが、これはアルタスという日本のフルートメーカ-の新作発表にちなんだ無料コンサートだ。

髙橋聖純さんは、昨年札響に入団した若手である。森さんの紹介によると「名前のとおり純な性格」な人で、さらに「若手でこれだけ音が良くて指のまわる奏者はいない」ということである。

森さんはもともとアルタスフルートを長く使われているそうで、管体はプラチナ、メカ系が金勢の楽器を長い間にアルタスとの施行錯誤で自分に合うように作り上げてきたものらしい。一方髙橋さんは普段はムラマツの金製の楽器を使っているが、3日前にアルタスフルート(銀管)を渡され、今回のコンサートにのぞんだらしい。(間違っていたら指摘してください)

これも森さんのハナシによると(森さんは「ザ・フルート」(アルソ出版)にも連載をしているが、想像したとおり話し好き、話し上手である)、「彼の場合はアルタスの中では銀管の方が良い音が出ていた」「楽器を渡されてすぐに吹きこなすことは、プロでも難しいが、彼は難なくこなしている」とのこと。

さて、演奏はというと、森さんは風邪で体調が悪く、さらにはこの演奏会の前に市内の病院でコンサートをこなしてきたという多忙な状況ながら、デュオでは息の合った演奏を聴かせてくれ、非常に満足であった。

ただ、正直に話してしまうと、ここでも今まで私が森さんに抱いていた音とは違う音が奏でられており、意外な思いにとらわれていた。彼の音のイメージは、もっと肉感的で大きな音というような捕らえ方をしていたのだ。それがどういうことなのか、演奏の合間の森さん自身の解説によって、少しだけ明らかになった。彼いわく「フルートは綺麗な音が出るもの、オケに負けないくらい大きな音が出れば良いというわけではない。昔は私も、交響曲の中でも大きな音で吹いていた。ブラームスのシンフォニーを演奏しても、フルートコンチェルトと言われるような具合だった・・・・」と。私が森さんの音としてイメージしていたのは、その頃の音だったのかもしれない。(かなり省略して書いているので、彼の主旨とずれてしまっているかもしれないので、そこのところは各自修正して読んでいただきたい)

それにしても森さんもさることながら、髙橋さんの演奏はまったく素晴らしかった。森さんが褒めるのは決して身内贔屓ではないことを、その演奏から知ることができた。何と言っても音が良い、そして、からだの大きさには全く似合わない(と書くと失礼に当たるだろうが)純にして繊細な音楽を奏でてくれる。ソロのドップラーはまさに聴き入ってしまった。

お決まりのアンコールも1曲だけ演奏してくれたが(ケーラーか何かだったかな?忘れてしまった)、こちらも良い演奏であった。

このように、非常に得をした気分の演奏会であったのに、演奏終了後にハプニングがあった。何とファンと挨拶しているときに、森さんが楽器を(あれだけ改良を重ねて、最近やっと理想の笛が完成したと言っていたその楽器を)落としてしまったのだ!!! 今はただ、一日も早く楽器が直ることを祈るだけである。

2002年3月8日金曜日

演奏会の感想2002~ジュネス札幌室内合奏団

日時:2002年3月9日(土)18時30~
場所:札幌コンサートホール Kitara 小ホール
演奏:ジュネス札幌室内合奏団

G.Ph.テレマン(1681-1767):「ターフェルムジーク」第1集より”序曲(組曲)ホ短調”
(フルート:河崎 亜希子、山本 昭喜子
A.コレルリ(1653-1713): 合奏協奏曲第8番ト長調「クリスマス協奏曲」Op.6
(バイオリン:佐々木 啓子、成田 ナツキ)、(チェロ:貞広 典子)
J.スーク(1874-1935): 弦楽のためのセレナード変ホ長調 Op.6

ジュネス室内合奏団はJMJ(青少年音楽日本連合)の傘下で「世界の若者達が音楽を通じて理解を深め、音楽を身近なものにする」という基本精神のもと活動している団体。JMJはベルギーのブリュッセルに本部を置くFIJM(青少年音楽国際連合)の日本支部であるらしい。どうりでメンバーが皆、若い人たちなわけである。今回の出演者は20名前後だが、女性が半数以上というのもメンバーの特色かもしれない。

ジュネスの演奏を聴くのは初めてだが、メンバーのバイオリニストと、今回最初に演奏する「ターフェルムジク」のフルーティストと知り合いであったため、これを機会に聴きに行った。

アマチュアの演奏ということで、正直なところ期待と不安が半ばという状態であったが、最初の合奏の音を聴いた瞬間に、それは杞憂であることに気付かされた。メンバーの交代などもあったと推察されるが、1980年から活動を開始し今回で21回のコンサートを重ねているというだけあり、ハイレベルのアマチュア合奏団という印象だ。(もっとも他のアマチュア合奏団は知らないのだけどね)

アンサンブルの音は低弦に重心が置かれたどっしりとした音色、全体合奏部分や速いパッセージなどにおいても安定感があり音楽的な表現の幅も広い。ソロ部分や逆にゆったりとしたメロディなどの聴かせる部分などは、やはりプロの演奏や音色と比べると遜色はあるし、音程面での不安を感じる部分もあったが、それは仕方のないこと。全体的には、音楽の持つ楽しさや美しさ、曲の素晴らしさを感じさせてくれる演奏であり、充分に楽しませてもらうことができた。

本来なら、ここで感想を終えても良いのだが、せっかくなのでもう少し曲ごとに感じたことを書いてみたい。ただし、あくまでも個人的な好みに基づいた感想であることを断っておく。音楽的な解釈とか細かなことは分からない。また聴く席によっても印象は異なることも加味して読んでいただきたい。今回の私の席は2階席のど真ん中であった(キタラの小ホールは2階の方が音響が良いと思う)。

まず1曲目の「ターフェルムジーク」。これは二本のフルートとの合奏組曲と言ってよい。重々しく若干翳りを帯びた序奏から始まり、フーガやフルートのソロなどをはさみ、多彩な色彩をちりばめながら奏でられる名曲である。私の好きな曲の一つでもあり期待を込めて聴いていた。

冒頭からバランスの良い響きだ、「悪くない、いやいや、予想よりも良いではないか」と思ったと書いては失礼に当たるだろうか。コントラバスはひとり、チェロも4人だが(いや3人だったかなこの演奏は?)、低弦に重心のある音で心地よい。チェンバロが加わっているが、こちらは少し音が小さい。もう少し響いても良いとは思ったが、チェンバロの性格上そんなに大きな音は期待できない。フルートは中低音域の音が多く、柔らかくまろやかな音色で現代的なきらびやかな響きとは少し異質のもの。もともとこの曲は木管を想定して作曲されている。そういう意味では、フルート奏者の意図はこの音楽の性格を忠実に再現していると言えるかもしれない。もっとも、バランス的にフルートがもう少し前に出てきても良かったのではないかしらと思ったのだが、それは私がフルート好きだからだろう。そんなことをしたら音楽が壊れてしまうだろうから(^^;;

合奏として少し不満がないわけではない。この曲は「ターフェルムジク」の冒頭を飾る曲であり、また祝宴の開始を示すような厳かさと、期待と若干の不安がない交ぜになったような、それでいて華やかな雰囲気を有した曲である。低弦に重心を置き、縦の線を合わせてきっちりと演奏するのは好ましいものだが、一方でリズムと音楽が重くなりがちに感じた。静と動の変化の妙などをもう少し軽やかに演奏すると、洒落た感じになったのにと少し残念である。フランス風な要素とイタリア風の要素というのが、演奏解釈上どのような違いなのかまでは分らない。しかし、ある種いい加減さのような軽さが欲しかったというのは高望みであろうか。

休憩をはさんでの「クリスマス協奏曲」は、有名な曲でありながら家にCDもないので聴くのが始めて。この演奏は、先の「ターフェルムジク」とは一転して、合奏団が少しリラックスして弾いているような感じを受けた。ソリストを前に立たせての演奏であったが、合奏とソロの掛け合いも生き生きとしたもので、先に感じたリズムの重さも払拭されている。音楽の楽しさが伝わってくるような演奏であったと思う。今回の演奏で一番良かったものだ。先のリズムの重さは意図したものだったのかとふと思う。

最後の「弦楽のためのセレナード」は今までで一番大きな編成として演奏されたが、パンフレットの解説にあるように難曲であると感じた。これも聴くのが初めてなので細かなことまでは覚えていないのだが、1楽章の雰囲気は良かった。ピチカートの音色や明るい優雅な旋律が、この曲の素晴らしさを伝えてくれる。非常に得をした気分にさせてくれるのがうれしい。ところどころ和音に不安があり、崩れそうになる一歩手前で演奏しているような印象を受けるところもあったが、こういう部分はこれからの課題なのだろう。音楽というのは、速いところよりも、ゆっくりしたところの方が難しい。音色、音程などを正確にかつ音楽的に説得力のあるように演奏するというのは、基本でありながら本当に難しいものだと思う。とはいってもそれらは致命的なものでは全くなく、全体によくまとまっていて、優美な曲の持つ性格と美しさを浮き彫りにできた演奏であったと思う。

読み返してみると、少し辛口の感想になってしまったようで恐縮である。ほかに聴かれた方は違う感想を持たれていると思うし、演奏した方々も、全然違う印象であると思う。そもそも音楽の感想は、ごく個人的なものである点をご容赦願いたい。ひとつだけ付け加えさせていただくが、私としては大変に楽しめる演奏会で、終わった後に優しいものが心に残された。それを得ることは、演奏を聴く幸福以外のなにものでもないと思う。演奏に携わった方々、本当にお疲れ様でした、そしてありがとう。

なお、この演奏は3月31日(日)午後2時~3時にNHK・FM(全道放送)にて放送される予定であることを付記しておこう。

食品業界の不正に関連して

食品の信頼性と安全性がこのところ音を立てて崩れ去ってしまった。雪印食品の牛肉ラベル改竄事件にはじまり、最近の全農チキンフーズの事件まで、あれよあれよと言う間に多くの不正が消費者である我々の目にさらされることとなった。

監督官庁である行政の責任も問われなくてはならないし、食品の信頼性を保証するシステム上の欠陥も問題にしなくてはならないだろう。食品においてもトレーサビリティの確保などが、今より厳密に求められてゆくものだろう。

しかし、システム欠陥が明らかにり、形として是正されたとしても、それを運用する企業と人のモラルが欠陥していては、絵に描いた餅以外の何物でもない。

今日本が直面している最大の問題は、モラルハザードということなのだ。ではなぜ「勤勉」という「幻想」のもとにまとまってきた「日本人」がかくも堕落してしまったのだろうか。その原因を突き詰めることは、日本の将来を占う上で最も重要な問題だと思う。何も、食品業界だけの問題ではないはずなのだ。

モラルハザードの背景としては、競争力の弱くなった国内産業という問題もあるだろう。高コスト体質から脱却できず、中国、韓国の追い上げなどに追われている姿もだぶる。はたまた、デフレの中での消費者の低価格志向や、消費の二極化という構造にも考えるべき点があるのかもしれない。

企業は不況化にあっても社員や株主のために収益を上げなくてはならない。去年と同じものを今年は更に数%売値を下げて販売しなくてはならない。しかし品質に対する要求は、逆に高くなる・・・・かつては、工業製品においては、そのことが技術開発と技術革新により「安く良いもの」という循環により日本の技術力や信頼性を高めた。おそらく、農業にしても同じような循環があったのではないかと推察する。今は、逆にこれが悪循環となっているのだろうか。モラルハザードの背景がこればかりではなかろうが、企業人として考える点は多い。

2002年3月2日土曜日

瀬尾和紀/L.ホフマン フルート協奏曲全集 第1集

L.ホフマン Leopold Hofmann
フルート協奏曲 ト長調 (Badley G2)
フルート協奏曲 ニ長調 (Badley D1)
フルート協奏曲 イ長調 (Badley A2)
フルート協奏曲 ニ長調 (Badley D6)

指揮:ベーラ・ドラホシュ
演奏:ニコラウス・エステルハージ・シンフォニア
フルート:瀬尾和紀 録音:1999.11 ブタペスト フェニックス・スタジオ
NAXOS


音楽雑記帳で瀬尾和紀を以前取り上げた。Naxosに録音した演奏があるというので、CDショップに行くたびに探していたが、やっと見つけることができた。L.ホフマンのフルート協奏曲集である。これは瀬尾のNaxosへのデビュー盤であるとともに、ホフマンのフルート協奏曲全集の録音としては世界初のものらしい。

L.ホフマン(1738-1793)という作曲家は馴染みがない。CD紹介によると「ハイドンと同時代にウィーンで活躍した名職人」とある。当事のウィーンで、おそらく一番ポピュラーで成功した作曲家であるらしい。さらに解説を読み進めると、D1のニ長調協奏曲は長らくハイドン作と考えられていたらしい。ホフマンは多くの室内楽とともに13のフルート協奏曲も書いたと伝えられている。残念ながらそのすべてが現存しているわけでも、曲について分かっていることも少ないとのこと。

早速聴いてみたが、冒頭から華やかな管弦楽の音が響いてくる、よき宮廷時代の音楽だ。「優雅で上品、そして快活」「極上の耳の御馳走」とCD紹介に書かれるのも納得である。確かに毒もなければ「罪もない音楽」だ。でも、日々の生活や仕事に疲れきったときには、このような音楽を聴くことで再生する何かがあることは否定できない。ヒーリングというのとは少し違う、体の芯の方に染みてゆくき、何かが確実に活性化される。

瀬尾は、その言動などから誤解を招くことも多いようだが、フルートの実力は既に充分なものを身につけていると思う。さらには、彼独特の硬質かつ精緻な雰囲気が、音や音楽に個性として現れているように感じる。Naxosの初録音も、なぜ18世紀のホフマンの音楽なのかと考えてみたが、ホフマンの世界初の全集盤ということに彼の自信と意欲が現れているのかもしれない。

ここで聴かれる瀬尾の音はクリアだ。そしてある確信をもって奏されるさまは、その音の出だしから惹きつけられる。装飾音符の正確さや音の伸びやかさなどは、聴いていて清清しい思いがする。音楽に生きと若さのようなものを感じるが、それは瀬尾の音楽家としての若さということではない。ストレートに音楽を表現している分、アクやクセがなく、淀みなく音楽が奏されるさまは清流の透明な水で口を漱ぐかのような快感を伴うものだ。カデンツァもそんなに長くはないが、聴きごたえのあるものだ。さりげなくはさまれる名人芸には心から静かに拍手を送りたい。

ただ、それがホフマンの音楽性なのかは分からないが、きらびやかにして天上にも上るかのような至福にも似た華やかさや、逆に至福の翳として暗さなどは期待できない。それをして音楽的な深みがないと言うつもりはない。逆に素直な屈託のなさゆえに身構えずに聴くことができる。それ故に当事は万人に受けしたのかもしれない。瀬尾のフルートはそういう、曲の持つ性格までも端的にあぶりり出しているようである。

最後に付け加えるが、バックのオケも悪くない。こういうCDを1000円以下で提供しているのだから、Naxosというのはやっぱり侮れない。第2集も発売されているはずなので、そのうち入手しようと思う。