2002年4月28日日曜日

フルートカルテットを聴く

フルートというのは同属楽器だけでカルテットやらオケを組んでしまえるという、幸せにして排他的な(笑)楽器である。フルートカルテットといえば、女性4人組のリンクスがその筋では有名であるが、今日紹介するのは男性ばかりでの演奏。それでも全員が本当のオケ(爆)で活動しているメンバーが集まっての演奏である。

ベルトミュー:猫 ザ・フルート・カルテット
��.ベルトミュー:猫
��.ボザ:4本のフルートのための3つの小品
��.ドビュッシー:小舟にて(小組曲より)
��.サン=サーンス:アダージョ(交響曲第3番より)
��.リムスキー=コルサコフ:若い王子と王女(シェエラザードより)
��.ドヴォルジャーク:アレグレット・グラツィオーソ(交響曲第8番第3楽章)
��.H.グリーグ:前奏曲(組曲「ホルベアの時代から」より)
��.ドヴォルジャーク:スラブ舞曲第1集 No.7
��.ワーグナー:ローエングリン 第三幕への前奏曲
相澤 政宏(東京交響楽団)、大村 知樹(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)
神田 寛明(NHK交響楽団)、柴田 勲 (日本フィルハーモニー交響楽団)
MISTER MUSIC MM-1108

メンバーの名前を見るだけで何と贅沢なカルテットなんだろうと思ってしまう。曲それぞれで受け持つパートも入れ替えての演奏である。例えば一番知名度があるN響の神田さんは、ドヴォルジャークとグリーグでトップを吹いている。

ベルトミュー(1906-91)という作曲家ははじめて聴いた。解説に「フルート・カルテットをたしなむ人にとってはおなじみの名前」なんだとか、非常に洒落た曲である。それにしてもドボルジャークなどの聴き慣れた名曲が、何とチャーミングに変身していることか。スラブ舞曲の柴田さんのピッコロの美しさなど、いやあ惚れ惚れ。

最後はローエングリンだが、「フルート4本でワーグナーをやるか(!)だから、フルート吹きって閉鎖的て言われるんだよな」とか思いつつも、しっかり楽しんでしまっている(^^)

こういう盤につついて、個々の音色の違いや原曲との差異などを述べるような野暮はしない。何も予定のない午後に、珈琲か紅茶でも飲みながらゆるやかに聴きたい。

ここからは、ローカルな話題だが、アーティスト・プロフィールを眺めて、「なになに相澤さんは宮城県、大村さんは北海道出身か、なるほどねえ。あれー?柴田さんがムラマツ(DN)を吹く以外は、他の3人ともパールを吹いているんぢゃない! 何これ、パールが後押ししているの? パールていえば音質的には・・・・なるほどねえ、ほー」とか思いながら聴くのも楽しいものである。


2002年4月27日土曜日

「展覧会の絵」を聴く(2)

引き続き「展覧会の絵」を聴いてみた。かのチェリがミュンヘンを振ったEMI盤である。これも有名すぎて聴きのがしていた1枚である。

チェリビダッケ指揮 ミュンヘンフィル
1993年 ミュンヘン、ガスタイクザール ライブ

この有名なる「展覧会の絵」を評することには大きな困難を伴うことをまず述べねばならない。CD解説の中で、チェリビダッケの息子が指摘するように、CDで聴く限り「遅すぎるテンポ設定」と感じてしまうからだ。しかし、ライブを重視し「与えられた会場の音響とそこで生じる副現象をすべて計算していた上で、いつも指揮していた」チェリビダッケにとっては、当然の帰結のテンポであり音楽だったのかもしれない。

1976年の演奏時間の比較を以下に示しておきたい。こういう対比自体が無意味であるとは思うのであるが・・・CDで聴く限りふたつの演奏はもはや別物である。

表 チェリビダッケ ふたつの演奏時間の比較
曲  目 1976 1993
プロムナード 2:10 2:33
グノムス(小人) 3:06 3:30
プロムナード 1:13 1:29
古い城 4:19 5:10
プロムナード 0:40 0:44
テュイルリーの庭 1:09 1:16
ビィドロ 2:39 3:42
プロムナード 1:00 1:09
卵の殻をつけたヒナの踊り 1:12 1:22
サムエル・ゴールデンベルクとシュレイク 2:42 3:01
リモージュの市場 1:22 1:36
カタコンブ 2:14 2:33
死者との対話 2:22 2:56
パパヤガーの小屋 3:42 4:22
キエフの大門 6:06 6:52

2002年4月26日金曜日

チェリビダッケ指揮/ミュンヘン・フィル 「展覧会の絵」

ムソルグスキー組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
録音:1993年9月24,25日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
ムソルグスキー ボレロ
録音:1994年6月18日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
演奏:ミュンヘン・フィル
EMI TOCE-11608


音楽雑記帳に1976年のシュツットガルト放送響との演奏時間の比較を記載した。これを見ても分かるように尋常なるテンポ設定ではない、ここまで遅いとは思ってもいなかったというのが正直な感想だ。しかし、雑記帳にも書いたように、録音された演奏を聴くだけで、遅いだの速いだのと評することに意味があるのかは疑問である。チェリビダッケの演奏は、そのEMIからリリースされたいきさつからして、演奏評を拒絶しているところがある。そういう意味からはCDの感想を書くことには困難がつきまとうと感じざるを得ない。

しかし、考えてみれば私はクラシック初級者で一ファンでしかないので、まあそういうことを気にかける必要もないだろう。

さてだ。プロムナードの開始最初からして遅い出だしである。他の部分も全てが遅い。まるでオケが練習でもしているのではないかと思わせるほどのテンポだ。

しかし、その遅さゆえに、例えばトランペットの柔らかい響きはやゆっくりとしたリズムは、諭すようだったり、回顧するようだったりで、限りなく慈しみと優しさが根底に流れるかのようである。遅さが逆に音楽の構成や意味を見事に聴かせてくれるかのようだ。「死者との対話」がこんなにも美しい音楽であったか、しかも極めてムソルグスキー的なサウンドであることは、この演奏で再発見させてくれた。

「バーバヤガー」も「キエフの大門」も、止まるのではないかと思うほどだ。もはや今まで聴いたことがない音楽が展開されている。しかし最後まで聴き通したとき、言い知れぬ感動に包まれていることに気づかされる。なにか大きなものに懐かれるかのようなあたたかさと、安心感、そして宗教的な境地にも似た至福さえ覚える。

それにしても、遅いテンポが、音楽の構成をこんなにも残酷なまでに露わにしてしまうものなのだろうかと、驚きを感じてしまう。ここに納められている15の断片のどれもが、顕微鏡的な精度で眼前にその細部を表した上で、マクロな調和と統一の結晶を見せている。CD解説の中で、許光俊があらゆるリズムや音型が目の前で生々しい形をもって誕生し、全体を構成していくという壮大な演奏を実現したと書いているが、これには全面的に同意する。まさに私が感じた感覚もそういうものであった。細部の拡大と再構築された全体像のすばらしさは、言葉にできないほどだ。

私はチェリのこの作品を何度も聴き返すことは止めにした。チェリのEMI録音がどのような経緯で発売されたかは、皆さんはご存じだろう。チェリの息子の言葉をいまは尊重しておきたいと思うからだ。

聴き手は、録音を繰り返し再生すればするほど、自発的に演奏というイヴェントを共同体験する意欲を失います(セルジュ・イオアン・チェリビダッケ)

そうとばかり言えない面もあるとは思うが、とにかく今はその意見に賛同する。

ゼネコンの再編について

4月29日朝日新聞に「実るかゼネコンの再編策」という記事が掲載されていた。

内容は、国土交通省がゼネコンの再編促進策を打ち出しているとの内容なのだが、実際に業界にいて再編策については疑問を感じている。

2002年4月24日水曜日

フェルマータコンサート 山崎 衆&武川 奈穂子

日時:2002年4月22日(月)19時00~21時00時
場所:カフェ フェルマータ(札幌芸術の森 入口前 011-592-9131)
演奏:山崎 衆(フルート)*1)、武川 奈穂子*2)

J.S.バッハ: ソナタ 変ホ長調
ヘンデル: ラルゴ
ドニゼッティ: ソナタ ト長調
ドビュッシー: シリンクス(フルート独奏
フォーレ: シシリエンヌ
フォーレ: コンクール用小品
シュテックメスト: 「歌の翼」による幻想曲
休憩
イベール: 間奏曲
アッセルマン: 泉(ハープ独奏)
ニールセン: The Fog is Lifting
ドップラー=ザマーラ: カジルダ幻想曲
ドップラー: 愛のうた
アンコール
山田耕作: この道
ドップラー: 森の小鳥

山崎衆さんと武川奈穂子さんのデュオコンサートが、札幌芸術の森のすぐ目の前の喫茶店で催された。2階も含めて40人も入ると満席になってしまうような開場であったが、演奏は行く前に考えていた以上のものであった。演奏会が終わった後に誰かと話したくなる演奏と、ひとり静かに演奏を反芻してい演奏とがあるが、今日の演奏は後者のもので、久々に充実したひとときを過ごすことができた。演奏者には感謝の意を称したい。

山崎さんの演奏を聴くのは三度目、武川さんは始めてである。曲目は上記のようであったが、客層(高齢の女性が多い)に合わせてか、親しみやすい曲目が並ぶ。しかし量的には休憩をはさんで2時間、ものすごい密度の演奏ではあった。

山崎さんはご存知の方も多いだろうが、フランスのルイ・ロットという19世紀後半から20世紀前半にかけて製作されたフルート(木管、銀管)を吹く。ルイ・ロットに関する造詣においても日本で屈指の方ではないかと思う。ロットの銀管は現在のモダンフルートと見た目は変わるところがないのだが、音色においては現代のフルートとは少し性格を異にしている。オケの中で音量を確保するために改造されたモダンフルートと木管の響きの間に位置すると言うのは、素人の乱暴な説明だとは思うものの、まあそういう感じである。彼はロットの音色に関しては非常にこだわりを持っていると聞く。

武川さんは、今日始めて聴かせていただいた。楽器は札響のハープを借りての演奏である。彼女は「(ハーピストは楽器の移動が大変なので、私は山崎さんのように)楽器そのもに関しては詳しくはない、むしろどんな音楽を奏でるかの方に興味がある」と話していた。

さて、そういう二人での演奏はバッハのソナタから開始された。ここで山崎さんは木管(初代ルイ・ロット 1871年製作 円錐管)を用いて演奏した。山崎さんの言を借りるならば、「バッハなどの演奏は、本来はトラベルソを使いたいところだが、(1キーシステムであり)指使いが難しい。しかし金属で吹くよりはベーム式(モダンフルートと同じキーシステムの楽器)の木管で吹くことを好む」とのこと。最近では、日本の工藤さんや細川さんを筆頭に木管フルートがブームではあるが。

このバッハは、いい表現ではないと思うが「枯れた風情のバッハ」であった。木管だけあって、きらびやかさよりも明るさとぬくもりのある音ではあるが、さらにそこに独特の音がかぶさる。低音で幾分くぐもったように、中音も独特の音に聴こえるが、それは会場のせいだけではないかもしれない。しかし、その暖かみのある音色は独特であり、その音に慣れてくると、緩やかな音楽の流れに身を任せることが、この上なく心地よいもとなる。ヘンデルのラルゴも、非常にポピュラーな曲、「ウィスキーのCFでキャスリン・バトルが歌っていた曲です」と解説をして始めたが、これもゆったりとした中に、大きな流れを感じさせるような悠久の時間が流れてゆく。一方で、この音色と対比した場合、バランス的にハープの伴奏は少し金属的に響きすぎると感じた。

ドビュッシーのシリンクスは、同じ木管でも円筒管に持ち替えての演奏である。こちらもロットであるが、1900年初頭の楽器であり、先の木管よりも響きが大きくなっているのを聴くことができた。先の円錐管では音量やパワーの点で、多少物足りなさを感じるが、こちらはシリンクスには十分なものである。フルート関係者にポピュラーなこの曲は1912年の作、ドビュッシーの頃は銀管も製作されてはいたが、木管フルートもずいぶん製作されていたとのこと。木管でシリンクスか、と少し意外な思いにとらわれていたのだが、奏でられた音楽には少なからぬ驚きを覚えた。最初の一音からして何かが違うのだ。木管の抑制された音色が、逆にシリンクスの焦がれる気持ちやら悲しさを如実に伝えるかのようで、全身に鳥肌が立つような音楽であった。

ここで、以前にパユの演奏するシリンクスを聴いたことを思い出した。あの時は、パユの硬質の音がサントリーの隅々まで浸透し、水を打ったような冷ややかにして透明な世界が現出して驚いたものだ。今回の演奏は雰囲気が全く違う、パユは全面に感情を歌い上げているのに対し、山崎さんは草葉の陰から想いを寄せるような雰囲気なのだ。これはこれで強烈なシリンクスだ。全く見当はずれな解釈かもしれないが、そういうふうに聴こえた(演奏を受け手がどう勘違いしようと自由なのだ、ワハハ参ったか)

今日は長いな、少し休憩しようか・・・・(^^;;;

さて、演奏の方も休憩をはさみ、次には銀管に持ち替えての演奏となった。銀管とは言ってもやはりこちらもルイ・ロット(初代 No.1850 1873年製)の楽器である。

最初に奏でられた曲はイベールの間奏曲。アレグロの強い音から開始されるのであるが、今までの木管の柔らかな響きとは性格を異にした音色表現で、激しさとスピード感あふれる演奏であった。その音楽表現の差の演出は憎いばかりで、颯爽と吹きぬける風のような演奏であった。ここに至ってはハープとの相性も良い、武川さんの演奏は粒立ち、すばらしくスリリングなデュオであった。出だしの部分の中高音域の音はまだ耳について離れない。

しかし、ここでもなのだ、イベールを吹いてもと言うべきか、山崎さんの奏でるロットは、強く押し付けがましくはない。変な言い方をさせてもらえば、高音域であっても聴いていて疲れないのだ。それは、包まれるかのような音色だったり、漂よう羽衣のようだったり、天から降り注ぐ柔らかな光のようだったり、何と表現したら良いのか適切な言葉が浮かばない、とにかく心地良いのだ。誤解されると困るが、そのように感じることの裏返しとして、表現としての幅が狭いとかいとか、パワー(音量)が足りないとか、芯が細いと言うことなのではない。

ルイ・ロットは現代の「大きな音」の出る楽器と比べると、絶対的なパワー(音量)はないのかもしれないが、「音」にそういう「パワー」が必要なんだろうかと思ってしまう。彼の奏でる音楽は、聴衆を捕らえてはなさない魅力を持ったもので、そこからは「音楽のもつパワー」というものが伝わってくる。その上で、その心地よさに浸ることで、いつまで聴いていても良いと思ってしまう、これを音楽の至福と言わずして何と言おうか。

「音」あるいは「音色」と「音楽」というものを微妙に混同しながら書いているきらいもあるが、雰囲気は分かっていただけるだろうか・・・

ここまで聴いていて気づいたことがある。山崎さんの音楽表現と音に関してなのだ。彼はどちらかというと、音楽の中に自分の主張を込めまくるというタイプではなさそうだ。出きるだけ音楽に忠実に演奏するということに神経を使っているように思える。ビブラートなどが抑制された音色やアクのない音楽の作り方にもそう言うものを感じる。とは言っても一辺倒な音楽であったり、W.ベネットのような端正が前面の音楽でもない。例えば(木管であっても銀管であっても)高音からトリルや速いパッセージで下降してくる音形の品のある表現など、全く持って惚れ惚れする。彼がオケの中でピッコロなどを吹くことが楽しいと感じているようなスタンスと、通じるものがあるのかもしれない(違っていたらメンゴ!!)

私がフルート吹きなので、フルートのことばかり書いて恐縮である。実は曲目も多すぎて、個々の演奏に付いてはさすがに覚えきれていない。またちょっと休もうか。

ハープの武川さんの演奏は聴くのが始めてだし、ハープの生演奏といえば吉野直子さんを二度ほど聴いたことがあるばかりなので、詳しいことはわからない。ただ、ハーピストは舞ちゃんもそうだが、みな美人であるなあと感心。

ヲヤジセクハラ発言はさておき、ハープというのは優雅で華麗というイメージがあるが、彼女の演奏は、粒がしっかりしていて力強い印象。表現の嫌味さが少なく、かっちりとした構成美とともに音楽を作ってくれるように感じた。ソロで演奏された「泉」も、ハープとしては有名な曲であるが、これまたとてつもなく素晴らしいものであった。

という具合に、二時間の演奏はあっという間に過ぎ去ったのであった。アンコールを含めて13曲、それぞれが小品であるとはいえ、非常に盛りだくさんな演奏会で、終わった後は「おなかいっぱい」という感じ。そして改めて、感動をかみしめるのであった(反芻動物かえ?)

アップする前に慎重に読み返してみたが、ちょっと思い入れの強いレビュになってしまっていることは自分でも認める。演奏会の雰囲気が覚めないうちに書いているので、まあご容赦願いたい。

ふーーーーっ、レビュ書くの疲れた、もうよろしいでしょうか。聴かれなかった方や山崎さんを知る方、雰囲気が分かったでしょうか(^^;;
一部の「関係者」の方におかれましては「何書いているんだか・・・まった分かってねーな」と思うことがあったら教えてください。

山崎 衆(フルーティスト)
東京藝術大学音楽学部器楽科卒業 その後ドイツ留学 札響在籍

武川 奈穂子(ハーピスト)
桐朋学園大卒業 パリ国立高等音楽院にてパープ専攻。ISSEKIミュージックスクールハープ教室主催

2002年4月22日月曜日

カラヤン指揮/ベルリンフィル ショスタコービッチ交響曲第10番(モスクワライブ)

カラヤン モスクワライブ
J・S・バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
録音:1969年5月29日

指揮:カラヤン
演奏:ベルリンフィル
露ARS NOVA ARS 008


以前掲示板で話題にしたカラヤンのショスタコービッチ交響曲第10番 モスクワライブを聴いた(通称カラタコモス)。

ショスタコービッチ(以下ショスタコ)の作品について書くことは難しい。どうしてもその歴史的背景などに言及せざるを得ない気にさせられるからだ。しかし、ショスタコの全ての作品をスターリンや戦争と結びつけたり、「証言」を参照したりすることが、作品を鑑賞する上で幸福なことなのかは疑問がある。作品が作られてから50年の歳月が経っている、作品背景の束縛がいつまで有効なのかを考えることは難しい判断かも知れない。

それで、このカラヤンの演奏だ。カラヤンはショスタコに関しては10番だけ録音しおり、この盤も入れると4つの録音を耳にすることができる。81年のBPOとの演奏がタコ10の演奏として名高いことはファンとしては周知のことだろう。最も現時点で私は81年盤は未聴であるし、また作品背景についてもCDライナー以上の知識があるわけではないので、ここは素直にCDを聴いた印象だけを記しておきたい。

この演奏は、カラヤンがモスクワに乗り込み、会場にいるショスタコービッチの前で演奏したもので、終了後ショスタコービッチが感動のあまり舞台に上がったという有名な演奏である(カラヤンとショスタコが一緒に写っている写真もある)。今回のCDはLPからの復刻盤であるらしくLPのノイズも聴き取れるが音質は非常に良好。

カラヤンの他の演奏と比べ、このモスクワライブがどういう演奏であるかを論ずることもできないが、はっきり言って私はたまげた。カラヤン壮年期の演奏であるが、流麗とか華麗とかいうものでは全くなく、非常にアグレッシブにして戦闘的な演奏が展開されている。作曲者自らの前で演奏するという気負いもあるのだろうか、また東側諸国というアウェーでの演奏と言う意味もあるのだろうか、とにかく攻めに攻めている。その演奏からは、恐怖感さえ感じるほどだ。(2楽章を何度も聴いていたら、家人が何事かと部屋に飛び込んできたよ)

演奏を聴いて印象に残るのは、これでもかというぐらいに重い低弦の響きだ。LPからの復刻ということもあるのだろうか、多少もこもことくぐもった音であるのは残念だが、低い重心から奏でられる弦の響きは圧巻である。そして、もうひとつは打楽器、とくにスネアドラムの機関銃掃射のような硬質にして破壊的な響きである。実際の演奏でこんなにもスネアが響くだろうかと疑問を感じないわけではないが、このスネアの響きが演奏そのものの方向性を強く決定付けていることに異論はなかろう。それ以外の打楽器でも、特徴的なフレーズを与えられている木管群(オーボエ、クラリネット、フルート、そしてピッコロ)もすごい。強烈なトランペットの響きと共に炸裂するシンバルの音などは、破壊的でさえあり、何か鬼気迫るものを感じる演奏である。低弦とスネアに支配された音楽は、アダージョだろうとアレグロだろうと、一部の隙もなく怒涛のごとく進む。

タコ10と言えば、暗い出だしと短いアレグロの2楽章、そして少し冗長な3楽章と混沌とした4楽章という感じで、決して親しみ、理解しやすい音楽ではない。圧迫や慟哭、葛藤や闘争、諧謔やユーモア、そしてカタルシス、非常に多くの複雑な心情がこめられた曲で、一筋縄でゆくものではない。「今日はちょっとブルーだからタコ10でも聴くかな」なんていう気分で聴ける曲ではない。クラシック初心者に「これ聴いてみたら」と薦められる曲でもない。はっきり言って、レビュを書くためにこの曲を聴きつづけるのはしんどいものである。しかし、一度は聴くべき衝撃の音楽であることは認めざるを得ない。

ショスタコも恐るべしだが、それ以上にカラヤン恐るべしである。カラヤンがここに示されたような危険なアグレッシブさを発揮できるとは考えてもいなかった。

2002年4月20日土曜日

「展覧会の絵」を聴く

ゲルギエフの展覧会の絵を聴いたついでに、家にある他の盤を2枚ほど聴いてみた。2枚しかないのでは聴き比べも何もあったものではないとは思うが。いまさら展覧会でも・・・という気持ちもあり、盤は増えないのである。

カラヤン指揮 ベルリンフィル
イエスキリスト教会 1965年

私が初めて展覧会を聴いたのは、このLPだ。高校生の時に購入したのだと思う。カラヤンというカリスマと、曲のもつおもしろさ、ソロイスティックなフレーズに魅了され、何度針を落として親しんだことか。グラモフォンの両開きジャケットは高校生には高嶺の花で、買ったときはジャケットの分厚さと解説の量に、感動の涙を流した(ウソ)ことを思い出す。

演奏は、カラヤンとしては二度目の録音で、その実力を十分に発揮している時期であり、独特の華やかなサウンドに仕上がっている。ベルリンフィルのソロも旨い、申し分ない出来であるとは思うのだが、一方で逆にそれ以上のものが聴き取れない、というのは高望みなのであろか。

チェリビダッケ指揮 シュツットガルト放送響(Stuttgart Radio Orchestra)
1976年 ライブ

チェリビダッケの晩年の演奏(1993年9月24,25日、ミュンヘン)ではないが、それでも十分に「遅い」演奏であると思う。ゲルギエフ盤との比較で話せば、演奏時間にしてチェリは35分56秒、ゲルギは32分5秒である。また最後のキエフの大門だけ比較しても、チェリの6分6秒に対しゲルギは5分23秒で駆け抜ける。この時間の差は、数字でみるよりも聴いてみると顕著で、二つは全く違った音楽として聴こえる。

チェリの遅さはしばしば指摘されるものだが、嫌みなものではなく、地から沸き上がるように音楽を積み重ね構築してゆくさまは、確たる足取りとともに聴衆を音楽に引きずり込む。この演奏でも、着実な歩みは、あたかもゆっくりと味わうかのように展覧会場を巡るようであり、目の前に彷彿とその情景が浮かんでくる。ラストのキエフにしても、遅くはあるが大きな盛り上がりを見せ、決して不完全燃焼で終わってしまう演奏になっていない、さすがと言うべきだろうか、聴き終わったあと、ひとり静かにブラボーと叫んでしまう。


ゲルギエフ指揮 ウィーンフィル
2000年 ムジク・フェライン ライブ

ゲルギ盤は何度聴いても異質であり、すさまじい。全身の肌が粟立ちラストに向かって放心状態となってしまう。しかし、そういう演奏がこの曲にとって幸福なことだろうかと疑問を感じないわけではない。特にチェリ&ミュンヘンと比べると、ゲルギエフのグロテクスクなまでなまでの音楽性というものが顕著だ。しかし、雑だというのではない、これまたチェリとは対極にある究極の演奏と言うことだ。

2002年4月19日金曜日

ゲルギエフ指揮/ウィーンフィル 「展覧会の絵」

ムソルグスキー
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
  録音:2000年4月28日、ムジークフェラインにおけるライブ
歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲(モスクワ河の夜明け)(ショスタコーヴィッチ編)
交響詩「はげ山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編)
ゴパック:歌劇「ソロチンスクの市」から(リャードフ編)
  録音:2000年12月22日、ムジークフェライン

指揮:ゲルギエフ
演奏:ウィーンフィル
PHILIPS UCCP-1053

何とも凄まじい「展覧会の絵」だ。私はゲルギエフのファンであるので贔屓として聴いてしまう傾向がなきにしもあらずではあるが、この演奏には心底驚かされた。あの「春の祭典」の後のリリースであるので、発売と同時に購入し(ゲルギエフ読本もオマケでついてくるし)何度も聴いているのだが、聴くたびに何度も打ちのめされてしまっている。

「展覧会の絵」というのはご存知のとおり、非常に描写的な曲である。そのため聴き所も多いと思う。「ブイドロ」の重々しさ、トランペットソロの秀逸な「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」、「カタコンブ」の暗さ、そして「バーバ・ヤーガの小屋」から「キエフの大門」に至るクライマックス。どこを取っても音楽的に申し分がない。

そういう音楽なだけに数多くの名演奏があるのだと思うが、これほどに衝撃的な演奏は少ないかもしれない。何といってもものすごいのは、ウィーンフィルの音である。もはやこれがウィーンの音なのだろうかと訝ってしまう。

ゲルギエフとウィーンの組み合わせと言えば、チャイコフスキーの交響曲5番もすごかった。この演奏を聴いて、改めて思う、オケのイメージなどどれほど正しいのだろうかと。ウィーンだから「洗練された美しさ」というイメージのみで語ることが間違っているのだと思わされる。彼らこそ世界一流のスーパースター軍団、指揮者の好みに合わせて優雅にもなれば破壊的な暴力を振るうことさえ茶飯事なのかもしれない。それほどにゲルギエフ的な(=と聴衆が期待し予測する)サウンドが展開されている。

それでもウィーンだけあってというべきなのか、細かな描写力もさすがである。力強く荒々しいだけの野蛮で雑な音楽になっていない。ソロの説得力もなるほどと思わせるし繊細な表現もある。

しかし、「バーバ・ヤーガの小屋」を聴いた瞬間には、あたかも棍棒で殴られているかのように脳天が白く弾けてしまい、正常なレビュを書くことができなくなってしまうのだ。それほどに凄まじき力と引力だ。「土俗的」とか「バーバリアンな」「ロシア的」「土臭さ」なとかのキーワード好まれるが、音楽を聴くとそれらの言葉の陳腐さと限界に思い知らされるだろう。

グイグイと引っ張られて強烈なシンバルの音のはじけた先の「キエフの大門」の広がりとパースペクティブの壮大さ。ものすごいドラマチックな音楽が構成されている。ラストに近くの鐘の音の乱舞と、ワンテンポ遅れて入る大太鼓の強靭なる響き(何と効果的なことか)に彩られた大伽藍を目の当たりにすると、もはや涙がこぼれてくるのを止めることが出来ない(・・・て、簡単に泣くなよ、音楽聴いて)。何度聴いても、何回聴いても、同じように打ちのめされる。音楽が終わった後の、壮大なるカタルシスときたら何に例えることができようか(たとえなくたっていいよ)。

この演奏はライブらしい。CDには拍手が入っていないので良く分からないが、こんな演奏を生で聴かされたら、理性を数万光年彼方へ吹き飛ばされたまま、当分社会復帰が出来ないかもしれないと思うのであった。(じゃあ、帰ってこなくていいよ)

ただだよ、付け加えておくと、「展覧会の絵」でこんなに感動するなんて、まだまだ甘いなあ、若いなあ、とも思うのだけどね、冷静になるとだよ。(冷静にならなきゃ分からんかね)

この盤にはまだ他にもイロイロな曲が収録されているのだが、力尽きた、他のレビュについてはマタコンブ(=また今度)!(ゲロゲロ)

2002年4月15日月曜日

夢枕獏:陽陰師

「来たか」
「よくわかったな、どうして俺が来ることが分かったのだ」
言いながら、Yはソファの上に胡座をかいた。
「公園駅の前のコンビニで、ワインとチーズを買ってきただろう」
「ああ買った。どうしてそんなことを知っている」
Sはそれには答えず、ふふんと小さく笑って奥の方を見やった。
「あちこちに色人(しきじん)を置いて見晴らせているという噂だが、本当か?」
「まあ、よいではないか、それより今日は何の用だ」
「うむ、実はおまえと酒でも飲みながら、話したいことがある」
「Yにしては珍しいな」と言って、二人は酒を飲みはじめた。
「うむ」
「うむ」
「これはブルゴーニュのワインだな、良い酒だ」
「うむ」

「で、話とは何だ」
「陰陽師というのを知っておろう」
「あの、呪を操るとかいう平安時代の幻術師の話か」
「そうだ、そうと分かっているのなら話は早い。そのことについての書を読んだのだ。劇画にも映画にもなっているから、相当有名なものなのだが、恥ずかしながらやっと読んだのだ」
「それで」
「憑かれたのだ、やはりよくできている、面白いのだ。夢枕の語り口もうまい。人気が出るのもうなずけるというものだ、いやはや大した力量だよ。しかし今更言うのも気が引ける」
「ふふん」
「何がおかしい」
「Yは正直者よの」
「冷やかすなよ、おまえはどう思っているのだ」
「さてな、ところでその包みの中はチーズだろう、早く食わせろ」
「ずうずうしい奴だな、遠慮というものを知らんのか」
「わかっているよ、おまえはよい漢だな。しかし、まさか、そのまま持ち帰るために、わざわざ包みを下げてきたわけではなかろうに」
「鬼に食わしてやってもよいのだが、おまえは口がうまいな」
そういって、いつの間にか切り分けられたチーズが皿に乗っている。
「美味いな」
「ううむ、美味い」

「で、続きを聞かせろ」
「うむ、でだな、妖怪や化け物退治というオカルトB級の話かと思って読んでいたのだが、何かこう独特の雰囲気が書に漂っているのだ。平安時代という雅な闇の時代の雰囲気と、瓢とした男の雰囲気がとても良いのだ。話のリズムもよい。まさに人気がでるのも宜なるかなというところなのだ。闇の中で鬼の話をしているのに、どこか健康的な雰囲気さえあるのだが、これは夢枕の性格なのだろうかな。で、おまえの意見も少しは聞かせろ」
「いましがた、あのワインを飲んだろう、コンビニで売っているのだ、値段はそんなに高いものではあるまい。」

「人の酒を飲んでいて失礼な奴だな」
「値段の安い酒でも、極上のものもあるであろう、それを美味いと言ったからと、恥ずかしがることなんてなかろうさ」

「ううむ、ワインと書が同じだというのか、よく分からないが、そういうものか」
「わからぬでもいいさ、してまた読んでみるつもりか」
「うむ、そうだな」
「では行こうか」
「これからか」
「おれも笛の音でも聴きながらその書をまた読んでみたくなった」
「よかろう」
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(注)夢枕の小説を「安物のワイン」と言うつもりは全くありません。ファンの方、誤解しないでくださいね。

2002年4月14日日曜日

レッスンメモ

��ヶ月ほど空いてしまったが、レッスンを受けてきた。


○ ルイ・ロットを吹く
今日のレッスンは、先生のルイ・ロットを借りて行った。先生のとは言っても普段演奏で使っているものではなく売りに出しているもの。ロット4代目で製造年で言うと1900年初頭だが程度は非常に良い。

私のヘインズ(78年頃)と比べると、巻管と管厚のせいなのかドッチリと重い感じ、吹奏感も密度と抵抗感がある。最初は鳴らしにくいと感じたのだが、ポイントを探してゆくうちに響きを得ることができた。

先生の印象では楽器から音が鳴るのではなく、その背後から響いてくるようで非常に良い、私のヘインズは柔らかな印象、どちらも良い音で吹いているが、ロットの方が遠くまで響いて行くような感じ、とのこと。

ここで先生は面白いことを言っていた。ロットの音を傍らで聴くのは非常に気持ちがいいと。高音域では、私の耳元でビンビン鳴っているので、うるさいのではなかろうかと思うのだが、嫌な感じが全くせずに非常に気持ちが良いとおっしゃる。自分の持っている楽器を自分で吹いても、その楽器の音は聴けないからねというような意味のことも言っていた。そりゃそうだ、半分以上はお世辞だろうが、音が良いと褒められれば悪い気はしない(と思うのは気のせいか?)

さて、そこでロットを借りたままレッスンにかからせていただいた。行っているのは変わらずにソノリテとT&Gだけである。

○ レッスンのポイント
あとで詳しく書くが(自分のメモとしてだが)、今日のレッスンで修正しなくてはならないと感じたのは以下の点である、箇条書きにしておこう。以下の欠点は全て同じ根っこに行きつくような気がしている。

  • 楽器の角度が下がりすぎている、頭を右に少し傾け楽器はもっと持ち上げる
  • 右手の指が、楽器に対して斜めに傾きすぎている、自然な指の形で楽器と垂直になるような指の角度でキーを押さえる
  • 音階をレガートに吹くのと同じように、運指もばたばたさせずにレガートにする
  • 指はできるだけキーからあげないように、特に右手の薬指と小指、左手の親指と人差し指、薬指の行儀が悪い(ほとんどではないか!)


○ ソノリテの練習
さて、それでは練習内容についてメモしておこう。まずはソノリテ、半音ずつ下がるものからはじめ2音、3音・・と増やしてゆく。注意されるところは依然として変わらず、音柱の長さが変わっても響きが変わらないようにとは繰り返し注意される。響きを作る、なめらかに、低音で強く吹きすて響きを壊すことのないように・・・などなど、単純だが難しい練習だ。

高音に向かう場合も同じ。最初から響きを作ってノンビブラートで吹く。「CiSやDisは特に響きが暗くならないように気をつけるとのこと。何も考えないで吹くのと、意識して吹くのではまるで変わってくる。ちょっとした注意で変わるのでそれを常に心がければ、自然と意識しなくても吹けるようになる」と言われる。

実はこのときに先生は、ダメな吹き方と良い吹き方の手本を奏して下さっているのだが、音色の違いをどうやって得るかの具体的な指導はない。音を明るくするには自分でもどうやると良いのかよく分からないのだが、口蓋を大きく喉を開いた状態で吹くようにすると「明るく」なっているらしい。これで良いのだろうか?

○ T&G EJ1の練習
��&GはEJ1を八分音符で112のスピードで吹く。できない運指は徹底した部分練習をやらされる。「難しい指ほどそこをゆっくり吹くつもりで意識する。えてして難しい部位は滑って速くなりがちになる。」 なるほど。部分練習の付点のリズムは、できるだけ付点を短くするようにとのこと。「高音のクロスフィンガリングはひたすら脳に覚え込ませて、条件反射的にできるようになるまでたたき込むしかない。できない部位ほどたくさん練習すること」 はい(^^;;

今日新たに注意されたのは、右手の指の角度が少し傾きすぎているとのこと。手を下にだらんと下げた脱力した状態のままキーの上に乗せたい。斜めになりすぎているので、低音のCis、D、Disなどが出にくくなっているようである。もう一つは指のアクションをできるだけ小さくすること。指のアクションを小さくすることが目的ではないものの、ランパルなどは遠くでみていて指が動いていないかのようである。鏡を見て練習するように言われる。

でも前回よりは、力が抜けてきているとのこと、響きからも堅さがとれてきたと言われる、うーん、自分では何が変わってきたのか余りよく分かっていないのだが、そう言われれば、少しは良くなっているのだろう。歩みは遅々としていて、自分でも嫌になるのだが、かといってそんなに練習時間がとれる訳でもない、仕方がないなあ。

「言われたことをすぐできるようにはならないけど、少しでもうまくなれば良しとしなくては。今からランパルになるわけでもないでしょうし、ゆっくり、あせらず、今みたいな練習をしていれば、指の回転を速くするのは難しくないよ」と再び励まされる。

○ ロットについての感想
今日は自分の楽器を吹かず、ロットを吹かせていただいたが、自分の楽器に持ちかえると、慣れのせいもあろうがよく鳴っているように感じる(気のせい?)。最近色々な楽器を試奏してみて、ピンとくる楽器が全然なく楽器に対する未練どころか、楽器による違いも分からなくなってしまったのかと思うようになっていた。

今日、長々とロットを吹かせていただいて、楽器によってこんなにも吹奏感が違うものかと改めて感じた。非常に気に入った楽器であったが、手の届くようなものではないし、私のような腕前ではロットが泣いてしまう。どなたか腕の立つ方がお持ちになって演奏会で音色を聴かせてもらいたいものである。

○ おまけ
実は私のレッスンの後に来られた方の楽器も見せていただいた。数日前にアキヤマフルートを買われたとのこと。ネットオークションで購入したというトラベルソまで持参である。先生のトラベルソなどもずらりと並べた様は壮観であった。もっとも、かなり偏った品揃えであることは否定しないが(笑)

楽器のありようと言うのは難しい。それぞれが、それぞれに工夫を重ね自分の楽器と音楽を作っている。万人が良いという楽器は、フルートには存在しないように思える。その点において、ルイ・ロットという年代物の楽器と、たとえばバイオリンのストラディヴァリウスとでは違いがあるように思える(素人考えだが)。それにしても、楽器へのこだわりというものは、プロにとって思想と音楽そのものであるのだなと思うのであった。



2002年4月1日月曜日

向山 淳子+向山 貴彦:ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本

村上龍も坂本龍一も絶賛しているので、どんな本なのかと読んでみた。対象は学校教育で一通り英語を学んだものの、全然英語が理解できなかったという人向けという感じの本である。

かく言う私も、今の英語力ときたら覚えている単語数ときたら中学生並み、小説やインターネット英語どころかCDのライナーノーツさえ満足に読めないというナサケナイ英語力。しかし、この本を読んで、「A→B」という文型(いわゆるSVO文型)を見つけろということは、高校1年の文法の授業で叩き込まれたことを懐かしく思い出したものだ。動詞を見つけたら見失わないように、逆三角形でシルシを付けろと教師は繰り返していた。あの頃からさぼらずに真面目にやっていれば、もっと英語に親しんでいたかもしれないなあ、と思う。

さて本書だが、丁寧に最後まで読み通すことで、たぶん中学2~3年生程度の読解力を身につける基礎、あるいはきっかけをつかむことができるようになっている。斬新なのは、文法を先に書いた非常に簡単な「A→B」というコアを中心に、難しい文法用語を使わないで解説している点にある。特に日本人が苦手な前置詞(筆者は「接着剤」という言葉で説明する)に関する最後の説明などは、なるほどと思わせるものがある。ここだけでも読む価値があるのではと思う。

ただし、筆者も書いているように、厳密に文法などを身につけている人から見ると、違和感を覚えたり、当たり前過ぎる内容と感じられるかもしれない、何を今更と。それでも、筆者の経験に基づいた『「英会話」というジャンルも「ヒアリング」というジャンルも存在しない』『英語は英語なのです』という主張には同意するだろう。中学から高校卒業までの6年間(あるいは大学を含めて10年間)『ほとんどの学生は一冊の本も読み終わりません』という指摘も、改めてされると不思議なことだと思い知らされるのだ。

彼女は、英語を習得するには『まず「読む」こと』という。沢山読むことで、英語としてのストックが蓄積され、総合的な英語力が付くのだと指摘する。英語を使えるようになるためには、『基本はとにかく「溢れるまで貯める」こと』だと説く。その「読む」ことの基本中の基本ルールを示したのが本書というわけである。

この本を読んだからといって、すぐに英語力がつくわけでもなく、これをきっかけにじっくりと時間をかけて英語の本に接して欲しいというのが筆者の願いのようだ。中学生も3年生くらいになればこの本に接することを薦めても良いと思う。

問題は、この本を読んだ後に接する英語なのだが、考えてみれば中学高校と、そのレベルに応じた面白い副読本というものが少なすぎると思うのは私だけだろうか?