2002年5月19日日曜日

エマニュエル・パユ/夢のあとに


大きな鳥篭(「動物の謝肉祭」より)~サン=サーンス
パヴァーヌ~ラヴェル
ボレロ~ラヴェル
夢のあとに~フォーレ
春、夏、秋、冬(「四季」より)~ヴィヴァルディ
ジャンボの子守唄(「子供の領分」より)~ドヴュッシー
トルコ行進曲~モーツアルト
見知らぬ国から~シューマン
無窮動~パガニーニ
熊ん蜂の飛行~リムスキー=コルサコフ
ヴェローチェ~ボラン
エマニュエル・パユ(fl) ジャッキー・テラソン(p)
EMI TOCE-55396(国内版)
音楽雑記帳でも触れたがパユの新譜を聴いている。5月9日に日本先行発売、日本オリジナルジャケットの採用と限定のオマケビデオ付というEMIの策略にすっかりはまってしまった(^^;;

「クラシックの名曲をジャズ風にアレンジする」というのは簡単なようで難しく、危険な作業だと思う。名曲であればあるほど、通俗的にイメージが固定化されているため、聴かせる編曲に仕上げることは至難だ。ジャズやラテン風アレンジもちょっと間違うと「クサイ」演奏(編曲)になりがちで、センスも問われる。さて、このアルバムはどうだろうか。

聴く限りにおいては、パユの演奏は通俗に脱しそうになる数歩手間で踏みとどまっており、独特のドライブ感を感じさせてくれる。それは、彼の抜群のテクニックに負うところが大きいようだ。ありふれたフレーズのすぐ後に、意表をついた断片を垣間見せてくれる。彼の発する音は空気を切り裂き、または絡めとる。消え入るように天上に上ったかと思えば、再び艶やかに舞い戻ってくる。硬質さと柔らかさを自在に使い分ける表現力と軽ろやかさ、まさに笛を吹くために生まれてきたかのような印象だ。音色の色彩感、リズム感、躍動感など、どれをとっても音楽のよろこびが凝縮されていると思う。アレンジされる作曲者にフランス系が多いと言うのも、洒落た雰囲気に仕上がった一因だろう。

ところで、ここ数日ずーっと聴いているのだが、「ジャズアルバム」としてこれを捉えることには抵抗がある。ジャズとかクラシックとか分類することに意味があるのか、ということはさておいてだ。特に生粋のジャズファン(私じゃないよ)は、物足りなさを感じるかもしれない。ビデオの中でジャッキー・テラソンはパユに向かって「ファンキーに!」と繰り返す。「好きにやれよ、後はついてゆく」みたいなノリだ。確かにビデオの中のパユは、最初まるでバッハの無伴奏でも奏でているような雰囲気だったが、次第にJazzyに傾いてゆくようで興味深かった。(ビデオの構成がそういう作りだから、そう感じたというのもあるが)

それでもJazzくささというものは希薄なように感じる。ジャズの真髄がどこにあるのかは、クラシックについて語るよりも難しい、何が物足りないのだろう。JAZZ的な泥くささや力量感と書いてみても、少し違うようだ。もしかしたあら、パユはジャズを演奏するには、ウマすぎるのではないかとも思う。例えばジャズピアノの元祖セロニアス・モンクはミストーンバリバリで弾きまくっていたが、非常にソウルフルだ。パユの音楽はパーフェクトで、聴いていて心地よく感心するのだが、JAZZ的な音楽として聴いた場合、ソウルの部分が食い足りないように思うのだろうか。(ミストーンがあるのがソウルフルといっているのでもない。ジャズピアニストでも技巧派もいることは認める)

あるいは、パユは今回そういう「いかにもJAZZ的」な音楽を目指さなかったのかもしれない。それ故に、何度もこの盤を聴いていると、計算された意外性(=高度な戯れ)というように感じられてしまうところもなきにしもあらずだ。また一流のジャズプレーヤーが見せる、恐ろしいまでの緊張感に満ちた即興性にまでは至っていない、まあ、そういうところが、純粋ジャズとして聴くと物足りないかなと・・・あ、欲張り?(>だからそういう音楽ぢゃないんだってば)

どんんなに優れた演奏も、繰り返して聴けば飽きるのは当たり前なのだが、飽きるほどに続けて聴いてしまうほどの盤だということは保証する♪(*^-゚)⌒☆ (褒めているんだか貶しているんだかわかりゃしない=パユファンの方 気を悪くしたらごめんなさいね)

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