2002年9月27日金曜日

《マイスタージンガー》のべックメッサーについて

《マイスタージンガー》に登場するベックメッサーは、ユダヤ人をカリカチュアライズしたもの(《指輪》のアルベリヒ,ミーメ,ハーゲン,クリングゾール,クンドリーもそうらしい)、と指摘しているのは「ワーグナーの世紀」を書いた三富明氏ばかりではない。もっとも、ワーグナーは匿名の著書「音楽におけるユダヤ性」において、ユダヤ人批判をあからさまに行ってはいるが、作品において人物をユダヤ人と特定したり、ユダヤ人批判を行っているわけではない。ベックメッサーがユダヤ人であると指摘されなければ、聴衆は気づくことはないだろう。エドワード・W・サイード(Edward W. Said)は、「ワーグナー唯一の喜劇作品『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の中で愚弄されるベックメッサーと、当時ユダヤ人について言われていたカリカチュアとの類似が明らかであるとしても、ベックメッサーという劇中人物はドイツのクリスチャンであって、ユダヤ人とはされていない。」*2と指摘している。

ユダヤ人を徹底的に排除(抹殺)しようとしたヒトラーが、ワーグナーの音楽をこよなく愛したという事実を(特に、《マイスタージンガー》はことさらお気に入りだったようだ。そもそもニュルンベルクそのものがヒトラーと結びついている)作品と合わせて考えると複雑な気持になるものだ。イスラエルにおいて長らくワーグナーの作品が上演禁止であったこと、2001年7月7日にイスラエル・フェスティバルに客演していたバレンボイム率いるベルリン・シュターツカペレが《トリスタンとイゾルデ》の一部ををアンコールに演奏し話題(スキャンダル)になったことも記憶に新しい。

我々のように島国に住む者にとっては、ユダヤ人差別、ユダヤ人蔑視という感情を、知識として理解はしても実感としては納得できないものだ。「ベニスの商人」のシャイロックはあまりにも有名だが、西欧人がユダヤ人を蔑視する理由のひとつに、実は彼らの優秀さへの裏返しがあるのではないかと思うこともある。

以上のことを踏まえた上でだが、作品鑑賞上ベックメッサーにユダヤ人の隠喩を嗅ぎ取るか必要があるかどうかについては論が分かれるように思う。実際、ベックメッサーは、最初からかわいそうな役どころとして登場している。第1幕においても、いつも苛立ち、怒っている。ヴァルターの才能に嫉妬し、古い因習を振りかざして新しい芸術を理解しない野暮な男として描かれている。第2、3幕となると更に悲惨な書かれ方をするのだが・・・。ワーグナーと敵対する音楽評論家のカリカチュアライズであったとしても、辛辣すぎるという気がしないでもない。

ワーグナーの意地の悪さというのはかなり徹底しており、一見善良そうなザックスについても、彼の陰謀と策略の陰湿さが気にかかるようになる。これらを「喜劇」として笑えるかどうかは、ドイツ的心情の有無により決まるようにも思える。

ドイツ的心情とはニーチェの言葉を引用するとよく雰囲気が分かると思う。

「人がよくて、悪賢い」この二つの性格が併存することは、他の全ての民族では矛盾であるが、ドイツにおいてはしばしば正当化されてしまう。(中略)ドイツ人は「率直さ」「愚直さ」を愛する。率直であり、愚直であることはなんと快いことか。ドイツ的実直さの人なつっこさ、親切、あけっぴろげなところ、これは今日ではひょっとすると、ドイツ人が心得ている最も危険で最も幸福な仮装であるかも知れない。この仮装はドイツ的メフィストフェレスの技巧であって、これによって彼らは「もっと成功する」こともできるのだ。
ニーチェ 『善悪の彼岸』


このような視座から《マイスタージンガー》を聴くならば、単純なる明朗な喜劇とばかりには響いてはこないものである。予備知識や薀蓄の弊害と言えようか。

(*2)「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」エドワード・W・サイード

2002年9月26日木曜日

CLASSICA JAPAN でのワーグナー人気投票

CLASSICA JAPAN(衛星TVでない)のHP企画、QuickVoteにおいて「ワーグナーの舞台作品、一番好んで聴くのはどれ? 正直に答えれ。」という人気投票が行なわれている。

現時点で有効投票総数1627、ニーベルングの指環、さまよえるオランダ人、一切聴かない、トリスタンとイゾルデ、ニュルンベルクのマイスタージンガー、タンホイザー、ローエングリン、パルジファルという順になっている。《指輪》が20%程度の得票率で第一位になっているのだが、ワグネリアン恐るべしという印象を受ける。あんなに長い音楽を聴いていて、いったいぜんたいワグネリアンというのは飽きる事がないのだろうか・・・(^^;;;

まだ未聴なのだが《パルジファル》に人気ないというのも分かる。悟ってしまったワーグナーになど、興味は沸かないものだ。


2002年9月16日月曜日

N響アワー「ワーグナー ふたつの顔」

��響アワーでワーグナーについて取り上げていた。題して「ワーグナーふたつの顔」。ワーグナーの持つ二面性について、作曲家の池辺晋一郎氏が解説するという趣向のもの。

最初は「リエンチ」序曲と「トリスタンとイゾルデ」前奏曲を続けて聴かせ、単純さと複雑さ、俗っぽさと聖なるものの対比を説明していた。次にはトリスタン和音をピアノで響かせ、これを「20世紀音楽幕開けの和音」であると紹介しながら、それと対極にあるような「ニュルンベルグのマイスタージンガー」序曲での単純極まりない和音を用いた体位法を紹介、古典的な音楽をひきずっている面も持ち合わせていると説明する。曲の長さにおいても、「指輪」のような4夜にも及ぶ曲もある一方で「ジークフリート牧歌」のように20分程度の曲があることも示し、その音楽の極端なことを説いていた。

ワーグナー音楽に少しは親しんできた身においては、なるほど最もだと思う反面、そのような二律的な要素だけでは、ワーグナーという巨人にして怪物を表現することなど、全く適わないのだと思うのであった。ワーグナーは、このような人物が存在したことそのものが(モーツアルトと同様に)奇跡であるとさえ思われるのだ。

最近入手した、三富明による「ワーグナーの世紀」(中央大学出版部)*1の序章に『ある時代の精神がひとりの人物の中に集約的に現れることがある。(中略)十九世紀のヨーロッパの時代精神をよく代表する芸術家もしくは思想家は誰だろう(中略)、ドイツ語圏に限るならば、私はワーグナーの名をまっ先にあげる』と書かれている。とにかく近現代ヨーロッパ思想史を専門とする大学の先生をしてそう思わせるだけの広がりと大きさがあるのだろう。

ワーグナーの音楽というものは本能の深いところで反応する。「マイスタージンガー」や「ジークフリートの葬送行進曲」などの有名な曲は、私の場合、中学の吹奏楽時代に知った曲だ。「マイスタージンガー」はひょっとしたら、練習くらいしたかもしれない。久しぶりにこれらの曲がTVから流れてくるのを聴いて、私はフラッシュバックを起こすと共に、音楽のもつ本能的な快楽にも似た感情を覚え慄然とし言葉を失ってしまう。「マイスタージンガー」の単純な盛り上がりも捨てがたいが、「ジークフリートの葬送行進曲」の不安定な音階と、弾けるようなシンバルからの響きなど、まさに血が騒ぐという感興を覚える。

それに反して、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲だけというのは、いかにも間が抜けている。緊張感や音楽としての連続性が断ち切られているようで、感興を覚えるよりも「つまらねー音楽」と思う気持ちが先に立ってしまう。ブルックナーではないが、まさにどこで終わっても聴いているものには分からない金太郎飴的な音楽であるなあと思うのだった。

(*1)「ワーグナーの世紀」オペラをとおして知る19世紀の時代思潮
ワーグナーの周辺の時代思想やら背景を知ることができるかもしれないと、インターネットで見つけて注文した本なのだが、たとえば《トリスタン》の解説は題名とは裏腹に、主観的にして下世話なワーグナー解説本という趣だ。三富氏が中央大学でワーグナーについての講義をしている(していた?)らしく、その講義を母体としてこの本が成立している。学生達のワーグナーに関する感想も載せられており、興味深いのだが、少し固めの内容を期待していた私には肩透かしな内容であったことは否めない。


2002年9月3日火曜日

楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」全3幕 ショルティ指揮/シカゴ交響楽団

マイスタージンガーを聴く (2002.09.22)

《トリスタンとイゾルデ》を聴くのに、3ヶ月という(自分でも考えてもみなかったような)長い時間を費やしてしまった。ワーグナーにはほとほと疲れきっているのだが、気が付くとつい次のCDに手が伸びている。こいつは中毒か?と思うのだが、《トリスタン》の後に、ワーグナーの超大作の《指輪》を聴くことは、さすがに躊躇する。

そこで、ちょっとした気晴らし(!)に「喜劇」である《マイスタージンガー》でも聴くことにしようと決めた。《タンホイザー》や《トリスタン》は、神聖化された悲劇であった。《マイスタージンガー》において、ワーグナーがどのような「喜劇」を演出したのかを聴くことは、(気が重いことも否定できないが)興味深いものがある。

ただし、《トリスタン》のようなマジメな聴き方は今回はやめようと思っている。あくまでも、さらりと、1回程度聞き流すだけにしようとかなと・・・・


 ■ 登場人物と配役
ジョゼ・ヴァン・ダム(ザックス)
ベン・ヘップナー(ワルター)
カリタ・マッティラ(エヴァ)
イリス・フェアミリオン(マグダレーネ)
アラン・オーピー(ベックメッサー)
ヘルベルト・リッペルト(ダヴィッド)
ルネ・パーペ(ポーグナー)
ロベルト・ザッカ(フォーゲルゲザング)
ゲイリー・マーティン(ナハティガル)
アルベルト・ドーメン(コートナー)
ジョン・ハートン・マーレー(ツォルン)
リチャード・バイアン(アイスリンガー)
スティーヴン・サープ(モーザー)
ケヴィン・デス(オルテル )
ステファン・モーシェク(シュワルツ)
ケリー・アンダーソン(フォルツ)
ケリー・アンダーソン(夜警)
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮
シカゴ交響楽団&合唱団(合唱指揮:デュエイン・ヴォルフ)
1995年9月20日~27日
マイケル・ウールコックのプロデュース、ジェームズ・ロック、ジョン・ペロウ、ニール・ハッチンソンのエンジニアリングによるシカゴ、オーケストラ・ホールにおける演奏会形式上演のライヴ録音(デジタル)
255分収録

■ HMVの評価
前回の録音から20年ぶりとなる演奏で、ショルティのワーグナーでは初のライヴ録音となります。ライヴとはいっても演奏会形式なので、声が聴こえなくなったり、足音がどかどか入ったりというようなことは無いので、サウンド面ではまったく問題ありません。
それよりもここではむしろ実演ならではの高揚感が嬉しいところで、特に終幕の大円団は、人間賛歌ともいうべき肯定精神の発露がダイナミックに表現されて、改めてショルティのすごさが実感されるところ。もちろん、それも歌手陣、オケ、コーラスのバランスよく高水準な技術力が背景にあるからこそ可能だったことですが。
■ あらすじ

《マイスタージンガー》は《トリスタンとイゾルデ》と《ニーベルングの指輪》の間の時期に作曲されている3幕の喜劇である。あらすじは、《タンホイザー》でも描かれた歌合戦である。登場人物は沢山いるのだが、要は騎士のヴァルター(Walther)が歌合戦でエヴァ(Eva)を勝ち取るという物語である。エヴァは金細工師のポーグナー親方(Pogner)の娘であり、聖ヨハネ祭での歌合戦において、その勝者に自分の財産とともに娘を差し出すという条件を付けたわけだ。

ヴァルターとエヴァは、会ったその時から既に互いに惹かれあっており(いつも恋は一目惚れ)、ヴァルターは是非とも歌合戦の勝者にならなくてはならないわけだ(というより、その歌合戦に参加する資格を得るところから始めなくてはならないのだが)。 かくして、ベックメッサー(Beckmesser)というヴァルターの恋敵や、実在の人物である靴屋の親方(マイスター)にして、新しい芸術の潮流を支持するハンス・ザックス(Hans Sachs)なども登場し、またしても4時間にも及ぶ長大なる劇が繰り広げられるというわけである、やれやれ・・・(^^;;; こうして書くと、ヴァルターとエヴァの物語のようだが、実際はハンス・ザックスが主人公の楽劇という様相であるらしいのだが、さてさて・・・

■ 第一幕への前奏曲を聴く

《マイスタージンガー》の前奏曲はあまりにも有名だ。分かりやすいメロディ、堂々とした朗々たる旋律そしてハ長調という曲調の明るさ。金管群が活躍する曲であるだけに吹奏楽編曲版で学生時代演奏した経験のある人も多いだろう。

しかし、改めてワーグナーの楽劇の前奏曲として聴いてみると、驚くほど多くのライトモチーフがちりばめられていることに気付かされる。「作曲家別名曲解説ライブラリー ワーグナー」(音楽の友の社)によれば、以下のようなライトモチーフが前奏曲に現れる。

「マイスタージンガーの動機」 冒頭の金管群による堂々とした動機、一番印象的なヤツ
「愛の場景の動機」 フルートではじまる柔和な旋律でワルターとエヴァの愛を示す
「行進の動機」 マイスターたちの行進の動機、「ダ・ダダ・ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン」てヤツである。(ああ、何度口真似して歌ったことか・・・>楽器で歌えよ)
「芸術の動機」 最初は弦であらわれる、後には金管などでも高らかにうたわれるアレ
「仕事の動機」 こいつは歌うのは難しいな(笑)
「愛の動機」 ヴァイオリンで優美に歌われる、これも本編で有効に使われる
「情熱の動機」 8分音符と三連譜による焦燥感のある不安定な動機、「愛の動機」とペア。命名からしてトリスタン的な動機だなあ
「陽気の動機」 低音弦により奏せられる、次第に高揚してゆくアレ。
とまあ、こんな具合なのだ。それが対位法的に入り乱れ、大きなクライマックスを形作って第1幕になだれ込むわけだ。前奏曲だけの演奏の場合は、終結音にて曲を終わらせるが、実際は第1幕第1場の「洗礼の合唱」がかぶるような形で歌われる、そこがよいのだよなあ。

しかし、《トリスタン》のような曖昧模糊としたウネウネ音楽を描いた作曲者が、こうも明朗な(単純ではないと思う)音楽を描きえたとは。「《トリスタン》のパリ版の上演も失敗だし(1861年頃)、ここは一つ民衆に分かりやすい、明るく健康的な曲を書いてやるっ」とワーグナーが考えたとしても不思議ではない。

■ 第1幕を聴く

各場ごとにリブレットを読み解き作品について理解してゆくような《トリスタン》での聴き方には疲れきったので、気ままに聴いてゆくことにしたい。従ってストーリーの説明や各場面の説明も、今回はやらない。興味があれば各自CDなり書籍であたってもらいたい。

■ 第1場

さて、第一場の聴き所はどこだろう。私はまず、前奏曲が終わった後の教会のコーラスの場面が最高に好きである。信徒たちが「洗礼の合唱」を歌うそのフレーズの合間に、前奏曲で聴かれた甘くせつない「愛の動機」と「情熱の動機」が挿入されるのだ。ここはヴァルターとエーヴァが目と目で互いを呼び合っている場面である。そのロマンチックさと美しさときたら、通俗的といってしまえばそれまでなのだが音楽的には見事としか言いようがないと思う。信徒たちの合唱は次第に高まり最後はパイプオルガンの強奏により締めくくられるが、それが二人の感情の高まりと次への展開の準備となっており、この数分間だけで陶然としてしまう。

第一場の最後に歌われるヴァルターとエーヴァの二重唱も(二重唱という枠組みでは一般的な形式なのだろうが)なかなか聴かせどころだ。甘くせかすような「仕事の動機」(本当にこういう名前のライトモチーフなのか? もっと重要な意味があるように思えるのだが)に導かれ「愛の動機」に乗って高らかに歌う、う~ん、

Walter
Fur euch Gut und Blut, (For you my possessions and blood)
fur euch (For you)
Dichters heil'ger Mut ! (the poet's sacred resolve)
Eva
Mein Herz, sel'ger Glut, (My heart, blessed glow)
fur euch (for you)
liebeshei'ge Hut ! (love's holy protection !)

■ 第2場

第二場は、ダーヴィットの一人舞台である。ヴァルターにマイスターになるための(うんざりするくらい多くの規則に縛られた)歌の法則を延々と教える場面だ。しかし、音楽はワーグナーの「喜劇」だけあり、コミカルにテンポよく進む。ダーヴィッドがこれでもかとばかりに、細かな規則を列挙して歌う場面は、どことなくブロードウェイのミュージカル風でさえある。

たとえば「Mein Herr ! Der SInger Meisterchlag~」で始まるところなど、伴奏の音楽さえ、あたかも「メリーポピンズ」を聴いているようではないか。または「歌の法則の動機」に乗って歌われる「Der Meister Ton und Weisen~」で始まる部分もよい。劇中のヴァルターはうんざりしているが、聴衆は楽しめる部分だ。《トリスタン》と違って「ああ、オペラを聴いている(^^)」という気にさせてくれる、ワーグナーの意図や考えがどうであってもだ。

■ 第3場

第三場は長さの点でも、また劇中の主要人物が登場する点でも重要である。劇としては「マイスターケザングの試験の席」において、ヴァルターが試されるという場面である。

ここでは、聖ヨハネ祭の歌合戦に娘と財産を提供すると言い出した、金細工師のポーグナー、ヴァルターの支持者となる靴屋のザックス、ヴァルターを恋敵と見るベックメッサ-が主要人物である。テキストと背景に立ち入ると、再び迷宮から出ることができなくなるのだが、ここでザックスがワーグナーの分身であること、最後までとことん悪者扱いされるヴェックメッサーがウィーンの有力な音楽評論家エドゥアルト・ハンスリッ(ワーグナーと敵対していた)をモデルとしており、かつユダヤ人という設定であることくらいは頭に入れておいて良いかもしれない。ワーグナーは《マイスタージンガー》を「喜劇」として仕立てたが、そこは偏屈にして自身過剰なワーグナーである、ひとくせも、ふたくせもある伏線を張っているようなのだ。さて、そういうことはワーグナー研究者や純正ワグネリアンに任せるとして、曲を聴いてみよう。

まずは「Das schone Fest, Johannistag, (聖ヨハネ祭りの素晴らしい祭典は)」ではじまる「ポーグナーの演説」。財力も地位もあるマイスターだけあって、立派なバスを響かせてくれる。堂々とした歌なのだが、伴奏は随分と複雑なことをしているように聴こえる。バスの単純さとは全然異なるような響きが随所に聴かれ、はっとさせられる。

次はヴァルターの「Am stillen Herd in Winterszeit (冬のさなかの静かな炉辺で)」で始まる有名(らしい)な歌である。ここではヴァルターは自分の先祖が12世紀の貴族で有名なミンネゼンガ-のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデであり、四季折々の自然を歌うのだと語る場面だ。ベックメッサ-にたびたび野次とともに中断されるものの、非常に美しい歌だ。歌の前にホルンなどで導かれるフレーズがなんとも言えずによい。実に夢見るような、そして暖かい日差しの春の訪れのようだ。歌のフレーズも自由奔放にしてのびのびとした旋律が用いられていて開放的だ。

次に面白いと思うのは、パン屋のコートナー(テノール)が、ヴァルターに歌の教則「タブラトゥ-ル」を教える場面だ。がんじがらめの規則に縛られた歌からの解放という劇のテーマに、自らの芸術の潮流をだぶらせたワーグナーである、コートナーの歌そのものが揶揄に富んだ滑稽な響きに聴こえる。

もう一つは、やはりヴァルターの試験となる歌で「"Fanget an !" ("始めよと")」に始まる歌だ。ここも、一聴すると、古典的な形式を取っているように思われるのだが、不思議なことに、やはりというべきなのだろうか、《マイスタージンガー》は《トリスタン》以降の音楽なのである。そして、単純な旋律の背景にも、なにかトリスタン的な響きが聴こえないでもない。不安とか死を連想させるという種類の旋律ではないのだが、何か本能の深いところに染み込むような、そういう音楽が聴こえるところが実にワーグナー的であると思う。

しかしこのヴァルターの歌も途中でベックメッサ-にさえぎられてしまい、実は最後まで聴けない。第三場のラストは、ザックスがヴァルターを弁護し歌を最後まで聴こうではないか、と提案したあとから勝手に歌うヴァルター、邪魔をするベックメッサ-、てんでに騒ぎまくる親方達、独り言をつぶやくポーグナーが入り乱れ、リブレットを追っていても何を歌っているのか全く分からない乱痴気騒ぎにだ。遠くから「マイスタージンガーの動機」まで聴こえてきて混乱のうちに幕となる。

考えてみれば歌手が舞台の上に勢ぞろいで、思い思いに歌いまくってくれているのだ、大きな聴かせどころであり、第一幕の山場とも言えるような演出になるのかもしれない。なんだか分からないが、大きな満足のもと「ああ、第一幕が終わった」という感慨も得ることができるのであった。こういう満足は《トリスタン》には一度もなかったものなあ(笑)

それにしてもベックメッサ-がヴァルターの歌の非をあげつらう部分の音楽も、何とまあカリカチュアライズされていることだろう。ワーグナーの皮肉と相当意地の悪いところが底見えるようだ。

■ 第2幕を聴く

第二幕は全部で7場に分かれている。舞台はザックスとポーグナー家の前で展開される。

■ 第1場

前奏曲に導かれ、三拍子の愛らしくも祝祭的な音楽が奏でられる。そして使途たちが「Johannistag ! Johannistag ! Blumen und Bandaer, so viel man mag ! (ヨハネ祭、ヨハネ祭 花も、リボンも好きなだけたくさん!)」という歌が聴こえる。

この使徒たちの歌は、メロディーも印象的で華やかな雰囲気なのだが、リブレットを読むと、ダヴィッドやザックスをからかう皮肉に満ちている。ダーヴィッドが恋人のマグダネーレからご馳走をもらいそびれてしまったことや、ザックスが実はエーヴァに恋心があることを揶揄している。

Der Alte freit ( The old man woos )
die junge Magd ( the young maiden, )
der Burshce die alte Jumbfe ! ( the apprentice the old maid ! )
Junchhe ! Juchhei ! Johannistag ! ( Hurrah ! Jurrah ! St John's Day ! )
表向きの愉快さや華やかさに隠された、ちょっとした毒というものがここにも示されている。これもまたドイツ的ということなんだろうか。

■ 第2場

ザックスの家の前で、ポーグナーと娘のエーヴァが明日の祭りのことを話したり、ヴァルターが予備審査で失敗してしまったことなどを知る。

そもそもポーグナーが自分の財産と娘を、祭での歌の勝者に与えようと考えたのは、芸術と美を愛するが故で、自分達市民が商取引と金にしか興味がないと非難されていることをかわすためであった(第1幕第3場)。それでも、ポーグナーは迷っている。まあ、そりゃそうだよなあ・・・

■ 第3場

ここは、ザックスの「にわとこのモノローグ」という部分だ。歌は最初、ヴェックメッサーの靴を直す仕事をののしり(「靴屋の動機」が聴こえる)、その後、審査でのヴァルターの歌を思い出し、彼の新しい歌に戸惑いながらも、新鮮にして非常に感銘を受けたことを吐露している。

ich fuhl's und kann's nicht verstehn, ( I feel it and cannot understand it )
kannn's nicht behalten, ( I cannot hold on to it, )
doch auch nicht vergessen; ( nor yet foeget it ; )
und faβ ich es ganz, kann ich's nicht messen ! ( and if I grasp it wholly, I cannot measure it ! )
Kein' Regel wollte de passen, ( No rule seemed to fit it, )
und war doch kein Fehler drin. ( and yet there was no fault in it )
今までの規則からは外れた歌だが、自らの気持ちを歌ったからこそ見事な出来栄えになったと褒め称えている。これは、ある意味でドイツロマン主義そのものを示しているようにも思える。ザックスがワーグナーの分身だとするならば、自らの芸術観を託したと考えることもできるかもしれない。

ヴァルターの歌が鳥たちが歌うような歌であった、といいながらも、

Wer ihn hort ( anyone who heard a bird singing )
und wahnbetort ( and, carried away by madness, )
sange dem Vogel nach, ( imitated its song, )
dem bracht es Spott und Schmach: ( would earn derision and disgrace !)
「あの歌を聴いてやたらな思いに取り付かれ、鳥たちの真似をしようものなら、罵りを受け恥をかくだろう」とも歌わせている。これもある意味、ワーグナーの皮肉なのだろうか。
そういう歌であるので、音楽は非常にワーグナー的である。ザックスの歌の背後のオーケストラからはさまざまな音の断片が、狂おしくも響いている。「情熱の動機」がここでも聴こえてくるが、その効果的なことと言ったら、私の文章では言語化が不可能である。

■ 第4場

この場面はエヴァとザックスの会話である。昼間の審査の様子をザックスに聞きにやってきたのだが、ここではザックスとエヴァの鞘当にも似た会話が、甘美な旋律に乗って奏でられている。タブレットからは、ザックスが昔エヴァに恋心を抱いていたことが分かる。しかしザックスは、自分の年齢を考え、また騎士の出現もあってか身を引いている。エヴァはそういうザックスの心を知りながらも、もはや騎士のヴァルターにご執心で審査の様子を聞こうとするものの、ザックスははぐらかすかのような答え方だ。

第4場は、ほかの場面から比べると重要度は低い部分かもしれないが、トリスタン以降のワーグナー的ウネウネ旋律を聴く事ができる部分で、私は非常に気に入っている。特段聴きどころとなるような盛り上がりはないのだが、というよりも、この場面全てが聴きどころと言っていいかもしれない。

マグダネーレが迎えに来て、ザックスが何とか良い知恵を搾り出そうと「Das dacht' ich wohl. Nun hieβt's: schaff Rat! ( I thought so. Now we must find a way ! )」と歌うところにかけて、これ以降、さんざんと聴かされることになる「靴屋の動機」と「ヴァルターの動機」が聴こえてくる。ここも非常にスリリングで面白い部分だ。

さてさてザックスはどのような知恵を働かせることとなるのか。

■ 第5~7場

さてさて、第ニ幕にばかり拘泥していてもはじまらない。マイスタージンガーは何と言っても、第三幕が長いのだ。実のところ、第ニ幕も各場面は独立したものではなく音楽も劇も連続している。細かいとろろははしょって、さっさと終わらせてしまおう。

第5場以降は、ヴァルターとエヴァがお互いの愛を確かめ、駆け落ちを企てるのだが、ザックスに邪魔をされてしまう。ヴェックメッサーは明日の審査に向けて、エヴァの気持を自分に傾けるため、彼女の家の下で求愛の歌をうたおうとやってくる(夜更けに迷惑なヤツだ・・・)。しかし窓辺に写る女性の影は、実はエヴァではなくエヴァの服を着せられたマグダネーレだ。(エヴァはヴァルターと駆け落ちしようとしているんだから)

一方ザックスは、明日履く予定のヴェックメッサーの靴を治している。ヴァルターがエヴァに向って歌うのを、奇妙な歌で邪魔をしたり、あるいは昼間の騎士への審査の仕返しとばかりにヴェックメッサーの歌をいちいち酷評する。

そこへマグダネーレの恋人ダヴィットがやってきて、愛するマグダネーレを誰かが誘惑していると勘違いし、ヴェックメッサーと喧嘩を始めてしまう。すると、この騒ぎを今まで耳をそばだてて聞いていた住人たちが、ここぞとばかりに飛び出してきて、街中で大喧嘩を始めてしまう・・・という筋書きだ。

下の絵は、アンジェロ・クワリーオによる初演時の舞台画(1868)である。(「オペラ対訳ライブラリー」音楽之友社~表紙より)




手前でランプの明かりのもと靴を治しているのがザックス、後姿でハープを持っているのがヴェックメッサー、右手の建物2階の窓辺にたたずむのが、エヴァに扮したマグダネーレ、木陰でトリスタンとイゾルデしているのがヴァルターとエヴァである。

「マイスタージンガー」というのは、その成立過程やテーマからして、実はヴァルターとエヴァの恋物語では全然なく、新しい芸術の潮流を認めている芸術家職人ザックスの物語である。ここでもザックスは大活躍である。ヴァルターとエヴァの恋物語は刺身のツマのようなものというと言いすぎかもしれないが。

音楽的に面白いのは、やはりヴェックメッサーが少しでも明日の歌合戦を有利に持ち運びたいと、エヴァの住む家の前で歌を歌う場面だ。それを、とことんヴェックメッサーが邪魔をする。そのしつこさと、意地の悪さときたら! ヴェックメッサーが歌うたびに、靴屋の動機とともに、意味不明の大声をがなりたてる。(Jerum ! Jerum ! Hallahallohe ! O ho ! Tralalei ! Tralalei ! O he ! ) ~ このフレーズは一たん聴いたら、当分耳から離れないというタチの悪さだ(笑)

あるいは、自ら持ってきたハープを弾きながらヴェックメッサーが歌い始めると、靴を直す槌の音で歌の審査を始める。減点部分があると槌をならすのだが、それが歌のリズムをとるかのごとくひっきりなしに鳴り続けるおかしさ。ヴェックメッサーもいいかげんにしてくれと怒るが、まったく聞く耳もたずである。(第三幕では、靴底が薄すぎると文句をつけるヴェックメッサーに、ヴァルターは採点のために靴底を叩き過ぎた=ひどい歌だったと、さらに手厳しいのだ)

ここで歌われるヴェックメッサーの歌も奇妙な節回しである。第1幕で審査員たちが歌ったような、最後を大きく震わせるような歌い方で、実にイヤラシイ響きだ。ここでも、ワーグナーの皮肉たっぷりな演出が感じられるような気がする。前にも書いたように、ヴェックメッサーはワーグナーと敵対していた批評家(ハンスリック)をモデルにしているのだから。とどのつまり、ザックスの意地が悪いのではなく、ワーグナー自身がかなり性格がワルイのである。

ここで、ハンスリック(Hanslick)のことを少し書いておこう。ワーグナーはマイスタージンガーを彼の音楽に対する批判へのリベンジとして意図したようである。ワーグナーは当初、ヴェックメッサー役の名前を「Hans Lich」と名づけたほどである。マイスタージンガーが遂に上演されたとき、ハンスリックはまたしても、辛らつな批評を書いたのだが、ワーグナーは次のように言ったという。「今日、エドワード・ハンスリックは彼の批評や文章によってではなく、無粋で学者ぶったベックメッサー ( as the inspiration for the boorish and pedantic Beckmesser ) として記憶に留められるだろう」 いやはや・・・第二幕でのヴェックメッサーなど、第三幕で遭遇する悲(喜)劇に比べれば良い方だとさえ思うが・・・



さて、少し離れてしまったが、上の絵もザックスとヴェックメッサーの絵である。最初の絵と比べてほとんど舞台設定が同じで、同一人物が描いたのではないかとさえ思ってしまう。16世紀ドイツの都市と市民風景というものがかくのごときであったと思わせるもので興味深い。

第2幕の最後の第7場は、夜中の大乱闘である。ひょんなことから生じた喧嘩沙汰であるが、日ごろの不満をここぞとばかりに噴出させたかのようだ。リブレットだけ呼んでいると、それこそ殺人でも起きかねないかのような殺伐とした乱闘劇が繰り広げられている。



上の絵で倒れているのはヴェックメッサー、殴りかかっているのがダーヴィッドである。実際第三幕第三場でヴェックメッサーは、あちこち痛そうにして登場し「危うく命にまでかかわるところだった、だがこうやって九死に一生を得た」と言っている。喜劇なので許されるドタバタなのだろうが、そんな酷い目に会っていても、歌合戦に出ようとするのだから、呑気というか、そういうものなのかと、昔はね。

死人でも出そうな大乱闘なのだが、しかしながら音楽のほうはちょっと様相が違う。街じゅうの男どもがてんでに相手をみつけて殴り合い、それを止めることもできず恐れる女たちの慌てふためく様が、渾然一体となって、すさまじい緊張と独特の統一感と、ワーグナー的ハーモニーを作りながらクライマックスへと一気に駆け上って行く。その音楽的な感興と快感ときたら見事としか言いようがない。

実際の劇においてはどのような演出をしているのだろう、この混沌劇はある意味で演出家の腕の見せ所かもしれない。

ワーグナーは乱闘場面をかなり早い時期に着想していたらしい。実際に体験した突如として起こり、あっという間に幕引きを迎える大乱闘というものが、相当印象に残ったのだろうか。しかしながら、何故にここに暴力的な乱闘場面が登場するのかは、疑問に感じないわけでもない。マイスタージンガーはワーグナーが生身の人間や市民を描いた唯一の楽劇である。当時の生き生きとした市民生活を描写していると言われれば、それはそうなんだけど・・・・

最後は、男どもが女たちに水をぶちかけられ、夜警が23時の刻を告げて第ニ幕は静寂を取り戻して終わる。私はこの夜警の歌を聞くと、トリスタンとイゾルデの第1幕冒頭に現れた水夫の歌声を思い出す。どちらも場面を転換する役割を果し、それがしかも現実世界から響いてくるように聞こえないという点でも、何か共通するものを感じる。

■ 第三幕を聴く

2002.11.16

ここまでに、ずいぶん時間をかけてしまったが、マイスタージンガーの聴きどころはやはり第三幕にある。簡単に筋を確認しておこう。

歌合戦の朝になり、ヴァルターとザックスは二人で試合の歌を検討する。途中まで出来たところでヴァルターは規則に縛られることに嫌気がさし止めてしまう。ザックスは後はまかせてとヴァルターと部屋を出て行く(第2幕)。

そこへヴェックメッサーがやってきて、先ほどのヴァルターの歌詞を盗んでしまう。それを見つけたザックスは、彼にその(不完全な)歌を進呈するから歌合戦で歌いなさいと勧める。暗にヴェックメッサーではヴァルターの歌は歌えないと踏んでいるからだ。(第3幕)

さて、いよいよ歌合戦である。まずヴェックメッサーがヴァルターの歌詞に節を付けて歌い始める。しかし、これが歌詞も間違えたとんでもない歌で、惨めにも聴衆の失笑をかってしまう。次ぎに、その歌の真の作者であるヴァルターが正しい歌詞で朗々と感動的に歌い、マイスターをはじめニュルンベルグの市民皆に認めらる。そして見事マイスターの称号とエヴァと財産を獲得するというわけである。(第5幕)

筋だけ書くと、ヴァルターの物語のようであるが、実際は第三幕も最初から最後まで、新しい芸術の潮流を理解するザックスの物語になっている。

■ 前奏曲

第三幕への前奏曲は、チェロによるくらいテーマで始まる、「諦めの動機」だ。これはザックスがエヴァの恋心を諦めたことを示すライトモチーフである。中年の渋い役どころにふさわしい音楽になっている(か?)

その後に続く「の動機」とは良い対象となっており、軽いジャブにて第1幕へと突入することになる。

■ 第1場

ここでは、ダーヴィッドとザックスの会話で展開されるのだが、実はザックスの物思いが全体を支配している。いわゆる「迷いのモノローグ」である。

ここは、昨日の乱闘騒ぎに対する反省や、これから自分がやろうとしていることに対する迷いなどと解釈されている部分なのだが、リブレットを読むと一筋縄で解釈できる内容ではない。ザックスの言っていることが分かるようで分かりにくい部分だ。ワーグナー研究家は、この部分をワーグナー自身の芸術に対する考え方と重ね合わせ、深読みするかもしれない。もっとも、内容はわかりにくいが音楽的にはザックスの歌が朗々と歌われる部分で聴かせどころだ。

「迷いのモノローグ」は難しいのだが、前半のヴァルターのボケ役は、ワーグナーの喜劇の中で、数少ない笑える部分だ。今日のヨハネ祭の歌を歌えとザックスに言われ、間違えて昨日のヴェックメッサーの奇妙なコロラトゥーラの節で歌ってしまうところなどだが。もっとも、笑えると言っても、古臭いコントかギャクのようなサムさもあるのだが…やはりワーグナーに喜劇は似合わない。ワーグナーは「ニーチェが笑ってくれない」と嘆いたらしいが、ニーチェの感性は正しい。

■ 第2場

ヴァルターとザックスが歌合戦の歌を吟味する部分だ。第5幕で歌われる「朝の薔薇色の輝きにつつまれて…」が形作られてゆく。あまり面白い場面ではないのでパス、この歌の完成形は第5場で聴くことができるし。

■ 第3場

ヴェックメッサーが、昨日の乱闘で受けた傷をさすりながら、痛々しい様子で登場するところは、非常に有名な部分である。ひたすらヴェックメッサーのパントマイムが続くのだが、音楽的には極めてワーグナー的なものになっているらしい。

ワーグナー解説本を読むと、《マイスタージンガー》は新旧の音楽様式が混ざっている、あるいは古典的な音楽形式をとりながら、実は極めて20世紀を先取りしたような音楽の素顔を隠し持っているとされている。

それは第2幕第3場のザックスの「にわとこのモノローグ」でも、「 Es klang so alt, und war doch so neu, (古くて懐かしい響きだが、とても新鮮でもあった)」と言っていることそのものである。

しかしながら面白いのは、ヴァルターが歌う歌は、その新しい様式ではないことだ。ヴェックメッサーの歌うコロラトゥーラは、非常に奇妙で誇張された歌いになっていると思うのだが、ヴァルターの歌がそれに比して極めて新しく聴こえるかと言えば、そうではない。例えば、《トリスタンとイゾルデ》で聴かれたような半音階旋律も、表立って登場しているわけではない。

しかし、ところどころに、楽譜を見ているわけではないので詳細は分からないが、裏旋律で、あるいはちょっとした断片として、トリスタン的な響きが耳をつくことがある。その瞬間、《トリスタン》の音楽に触れたことのある者ならば、おそらく間違いなく、今までの音楽とは違うということに気づかされるのだ。それはまるで、潜在意識に作用するサブリミナル効果のように、さり気なく、しかししっかりと聴く者に刻み付けるられる。

■ 第4場

さて、いよいよクライマックスが近づいてきた。まずはザックスとエーヴァの会話から始まる。

エーヴァの靴を直すザックス(ザックスは靴屋だからね)の背後から、ヴァルター表れ、熱い視線と共にエーヴァに愛を歌いかけるシーンが強烈だ。エーヴァはザックスに脚を差し出し靴を直してもらいながら、ヴァルターの愛を受けとめているのだ。なんだかエロチック!

ザックスは本当はエーヴァに恋心があるくせに、「トリスタンとイゾルデのお話の、マルケ王にはなりたくないからね」などと話すのだ。(ここで一瞬、トリスタンの半音階上昇旋律が流れ、思わずはっとしする。マルケ王とは、心ここにあらずのイゾルデをめとってしまったという不幸なる男性のこと)

まあ、イロイロドラマはあるんだが、第4幕はなんと言っても、ラストのザックス、エヴァ、マグダネーレ、ダヴィットによる四重唄が圧巻である。ワーグナーはこういう手の、従来の歌劇の形式を捨てたはずではあったのだが、マイスタージンガーにおいては臆面なく復活させているところが、わざとらしい。

場面はワルターの勝利を期待し歓喜の歌を歌い上げているところだ。音楽的な見事さときたら眩暈がしそうなほどだ。

■ 第5場

第5場はいよいよ歌合戦である。第5場冒頭はお祭りの開始であり、華やかさが演出されたまさにクライマックスを予感させるような音楽である。歌劇「アイーダ」の行進のような雰囲気だ。ある意味、陳腐に堕しているとも言えるのだが、ワーグナーは意図的にこうした構成をしているのだと思う。「おいらの楽劇の評判が全然よくないけど、やりゃーできるんだよ、やらねーだけだよ」と言っているかのようで、流行歌は作らない主張しているミュージシャンが、たまにヒットソングを作る姿を彷彿とさせる。

さて歌合戦においては、最初はベックメッサ-がザックスからもらった歌を歌うのだが、最後まで歌を理解もできず覚えもできず、さんざんな目にあってしまう。その後、この歌の真の作者として紹介されたヴァルターが見事に歌いきるわけである。

それにしてもヴェックメッサーの歌は悲惨だ。ヴァルターの歌と比較してみよう。(ヴァルターの歌は第2場、第4場、そして第5場で少しずつ形を変えながら歌われる)

第2場でのヴァルターの歌 ヴェックメッサーの歌 第5場の完成されたヴァルターの歌

Morgenlich leuchtend im rosigem Schein, 
von Blut und Duft, 
geschwellt die Luft, 
voll aller Wonnen 
nie ersonnen, 
ein Garten lud mich ein, 
Gast ihm zu sein. 

Morgen ich leuchte in rosigem Schein, 
von Blut und Duft 
geht schnell die Luft; 
wohl bald gewonnen, 
wie zerronnen; 
im Garten lud ich ein 
garstig und fein. 

Morgenlich leuchtend im rosigem Schein, 
von Blut und Duft, 
geschwellt die Luft, 
voll aller Wonnen 
nie ersonnen, 
ein Garten lud mich ein, 

朝のばら色の輝きにつつまれ、 
花の香りに 
大気は満ち満ちる。 
歓喜に溢れた、 
夢想もしなかった 
庭園が私を 
客になれと招いた 

朝、私はばら色の光につつまれ、輝いた 
血の臭いの風が 
速やかに吹く。 
勝ち取ったかと思うと、じきに 
溶け消えてしまう。 
園の中に、私は招きいれた。 
卑しく、上品に 

朝のばら色の輝きにつつまれ、 
花の香りに 
大気は満ち満ちる。 
歓喜に溢れた、 
夢想もしなかった 
庭園が私を 
客になれと招いた 

ベックメッサーの歌詞は、ヴァルターのそれと似ているようでいて、メタクタなものになってしまっている。ドイツ語圏の方ならば、歌を聴きながら笑い転げているのかもしれない。劇中でも観客はベックメッサーが一体何を歌っているのか訝る歌が挿入される。続くベックメッサーの歌はさらにめちゃめちゃになってゆく。


Wonnig entragend dem seligen Raum, 
bot gold'ner Frucht 
heilsaft'ge Wucht, 
mit hodlem Prangen 
dem Verlangen, 
an duft'ger Zweige Saum, 
herrlich ein Baum. 

Wohn'ich ertraglich im selbigen Raum, 
hol'Geld und Frucht, 
Bleisaft und Wucht... 
Mich holt am Pranger 
der Verlanger, 
auf luft'ger Steige kaum, 
hang'ich am Baum 

dort unter einem Wunderbaum, 
von Fruchten reich behangen, 
zu schaun in sel'gem Liebestraum, 
was hochstem Lustverlangen 
Erfullung kuhn verhieβ, 
das schonste Weib: 
Eva - im Paradies !  

この至福の園から喜ばしく聳え立つのは 
たわわに実った果汁ゆたかな 
黄金の木の実を 
輝かしく美しく、 
私の願いに向かって 
香り豊な枝という枝の端々から差し出す 
ひともとの素晴らしい樹 

同じ園になんとか、かんとか私は住まい、 
金と木の実を 
鉛汁と重りを取ってくる。 
曝し台で私を呼ぶのは 
願いを抱く人、 
風通しのいい坂道ではなく 
私は樹で、首を吊る 

その庭の奇跡の樹の、 
たわわに木の実のなる下に立って、 
さながら至福の愛の願いを 
叶えると大胆に 
約束してくれたのは 
こよなき美女、 
エデンの園のエーヴァ! 

混迷の度を増すベックメッサーの歌はさらにナンセンスな内容になってゆく。一方ヴァルターの完成された歌は"Eva - im Paradies ! "と高らかに愛を宣言している。

Sei euch vertraut, 
welch hehres Wunder mir geschehn: 
an meiner Seite stand ein Weib, 
so hold und schon ich nie gesehn: 
gleich einer Braut 
umfaβte sie sanft meinen Leib; 
mit Augen winkend, 
die Hand wies blinkend, 
was ich verlangend begehrt, 
die Frucht so hold und wert 
vom Lebensbaum. 

Heimlich mir graut, 
weil es hier munter will hergehn: 
an meiner Leiter stand ein Weib; 
sie schamt und wollt'mich nicht besehn; 
bleich wie ein Kraut 
umfasert mir Hanf meinen Leib; 
mit Augen zwinkend 
der Hund blies winkend, 
was ich vor langem verzehrt, 
wie Frucht so Holz und Pferd 
vom Leberbaum! 

Abendlich dammernd umschloβ mich die Nacht; 
auf steilem Pfad 
war ich genaht 
zu einer Quelle 
reiner Welle, 
dei lockend mir gelacht: 
dort unter einem Lorbeerbaum, 
von Sternen hell durchschienen, 
ich schaut'im wachen Dichtertraum, 
von heilig hodlen Mienen, 
mich netzend mit dem edlen Naβ, 
das hehrste Weib, 
die Muse des Parnaβ ! 

あなた方に伝えたいのは 
わが身に起こった気高い奇跡。 
私のかたわらに立ったのは 
世にも優美な女。 
花嫁のようにしっとりと私を抱きしめた。 
まなざしで教え、 
輝くような手で指し示したのは、 
私の憧れ求めていた、 
生命の樹の恵みゆたかに 
貴い木の実 

ひそかに私は戦慄を覚える。 
なにしろ、ここは大変に陽気だから。 
私の梯子にもたれて一人の女が立っていた。 
恥じ入って、私を見ようとしなかった。 
キャベツのように色の褪せた 
麻糸がほつれて私の体に巻きつく。 
両目をぱちくりさせ、 
犬は合図しながら吹いた。 
私がとっくの昔に、 
木の実も、材木も、馬も、 
肝臓の樹から食らっていたものを! 

たそがれゆく夕暮れの闇が私を包んだ 
けわしい山道を 
辿り行く私は 
泉に近づき 
清らかに打つその波は 
私に笑いかけ誘った 
そのほとりの月桂樹の下に 
星たちの明るい光に照らされて、 
私が、現ともつかぬ詩人の夢の中に見たのは 
優しく、清い表情を浮かべて 
貴い泉の水を私に滴らす 
こよなく気高い女 
パルナッソスのミューズ! 

聴いて頂けばわかるが、ヴァルターの歌合戦での歌は、それはそれは見事な美しき歌である。韻もしっかり踏んでいて、劇中ではなくても完璧の出来と言えようか。

対してベックメッサ-の歌は、ワーグナーの悪意が底見えてくるような変形のされ方をしている。歌詞をうまく覚えられなかったという設定なのだが、少しずつ間違えた唄は、とんでもない台詞になってしまっている!

劇中で彼は大爆笑どころか、おそらくは街における自らの地位さえ危うくなるような失笑をかってしまうのだが、これをワーグナーの『喜劇』と考えると、あまりにも仕打ちは手酷く、残酷でさえある。ベックメッサ-が、どこかマヌケで憎めないキャラクターとして登場するだけに、ここまで叩きまくることに違和感を感じないわけでもない。さらにベックメッサーのモデルが、ユダヤ人であるという説はおいておくにしても、批評家ハンス・リックを指しているわけで、ワーグナーの執拗さと意地の悪さというものが、イヤと言うほど分かるではないか。

ヴァルターの歌は、仔細に見てみると、第2場の唄よりも一層完成されたものとなっている(らしい)。ザックスに散々歌の規則を教えられただけあり、ヴァルターの歌を聴いている民衆もマイスターたちも、ただただ感心し感動しきってしまうのだ。高らかに歌われるエーヴァへの愛はストレートに心に染みわたる。ヴァルターの歌にかぶさる民衆達の感動の歌と共に劇のテンションは一気に高まる部分だ。

もっとも冷静に歌詞を読むと、「よくぞここまで言うなあ」というカンジではある、私など少々恥ずかしくなってしまうほどだ。エヴァはかくも素晴らしい女性ということなのだろう。ヴァルターは情熱的な一目惚れをしたことから類推するに、エヴァは相当物凄いフェロモンを撒き散らしている女性なのだろう(>バキ)。ヴァルターの歌に「清らかな泉」というフレーズを聴くと、《タンホイザー》のヴェヌスを不謹慎にも思い浮かべてしまうのだが・・・(>バキバキ)。

さて、満場一致でヴァルターは歌合戦の勝者となる。ポーグナー親方がヴァルターをマイスターとして迎えると言うのだが、ヴァルターはこれを固辞する。

そこで歌われるのが、ザックスによるドイツ芸術を称えまくる歌だ。

und gebt ihr ihrem Wirken Gunst, ( And if you favour their endeavoures, )
zerging'in Dunst ( even if the Holy Roman Empire )
das heil'ge rome'sche Reich, ( should dissolve in mist )
uns bliebe gleich ( for us there would yet remain )
die heil'ge deutsche Kunst ! ( holy German Art ! )

そして、マイスターの働きに好意を惜しまなければ
たとえ、神聖ローマ帝国が
霞となって消えうせようとも
神聖なドイツの芸術は
変わらず、我らの手に残るでしょう!

そうして、最後にかの有名な「マイスタージンガーの行進の動機」に乗って、ドイツ芸術とニュルンベルク、そしてザックス(つまりワーグナー)を称える民衆の大合唱が高らかに歌われ、この4時間にも渡る楽劇に幕が降りる、やれやれだ。

ヴァルターの歌からラストまでは圧巻と言うしかない出来だ。民衆の大合唱を聴くために延々と今までがまんしていたような気にさえなる。私は何度目かにこの部分を聴いているときに、明るい音楽にしてハッピーエンドの結末であることを熟知しているにも関わらず、不覚にも感極まって落涙するのを止めることができなかった。このような音楽的な体験は、またしても巨人ワーグナーにからみ取られてしまった瞬間と言えるかもしれない。

ワーグナーはザックスの台詞を借りてドイツの芸術を称えているのだが、ヒットラーがこれをゲルマン民族とドイツ帝国を称える歌として利用したことは有名である。ヒットラーはことさらにマイスタージンガーを好んだらしい。全曲を通して聴かずとも、このラストを聴くだけで政治的プロパガンダとして利用したくなる気持ちが分るというものだ。日本人の私でさえ、こんなに感極まってしまうのだから、ゲルマンな方々にとってはたまらない音楽なのだろう。

冷静に聴くとあざといほどに単純な音楽だ。裏では色々と難しいことをしているということは先にも書いたが、それでも聴こえてくる音楽は明朗にして分かりやすい。にも関わらず精神の深いところに作用してしまう音楽だ。私もそうだが、ゲルマンもヒットラーも単純な奴らなのだなあと思うのであった。



上の絵は結びの合唱の間、エーヴァがヴァルターの額から冠を取ってザックスにかぶせているところ。まさに大団円の結末である。

今更ながらとも思うが、マイスタージンガーもとてつもない音楽である。覚えきれないほどのライトモチーフ、それが音楽的な仕掛けとなって楽劇全体を縦横に編みあげている。一聴して明るく素朴な音楽であるようでいながら、裏には連綿とした別の情熱が流れている。それをトリスタンティズムとでも呼ぼうか。まさに古く聴こえる様でいながら、実は非常に新しい音楽であるのだ。ワーグナーがザックスに語らせたこと、そのものが、まさに実現されているように思える。


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今回は対訳は「オペラ対訳ライブラリー ニュルンベルクのマイスタージンガー」(高辻知義 訳 音楽之友社)のものを採用いたしました。