2002年11月28日木曜日

【風見鶏】「社説 次の矢に期待する構造改革特区」~教育への株式会社参入

11.28 日本経済新聞 社説

このごろ忙しく新聞をゆっくり読む時間がないのだが、28日付け日経新聞社説に「経済活性化への突破口として期待される構造改革特別区域法案が12月に成立の見通し」との記事が目にとまった。

その中で、「株式会社による病院や学校の経営は、それぞれ厚生労働省、文部科学省の反対で見送りになった」とある。これには疑問を感じざるを得ない。医療はさておき教育の民間参入拒む理由は何か。文部科学省は「教育の質を保証できない」としているが、社説同様に不可解の念にとらわれる。

私は教育にも大規模な改革が必要だと思っている。それは義務教育から生涯学習を含めたスパンでの改革だ。教育には多様性が必要だと言う認識が、まだ醸成されないのだろうか。今のままでは学校教育は、社会に出ても「使い物にならない」(=だから勉強しない)ものでしかないのではなかろうか。

産経新聞の「教育を考える」2002/10/28も合わせて読んでみた。株式会社がによる学校経営の是非については判断が難しい。しかし、現行の教育制度、教育機関に対する「深い不信感」だけは、更に深まるのであった。



HIYORIみどり 「学校経営が失敗したら、やっぱり生徒を保護するために企業に公的資金注入するの~? つぶれたら卒業証書もらえなくなっちゃうじゃない」

KAZAみどり 「その考えそのものが硬直化しているわ。卒業証書や学歴に何の意味があって? 学校が潰れそうなら別なところに移る、自分が何を学びたいのか見極めた上で学校を選ぶという発想はできないの」

HIYORIみどり 「あなたのはデキル人の論理よ。転職だってままならない社会で、子供と親にそれを求めるのは無謀ぢゃない。今なら籍さえあれば卒業できるのよ」

2002年11月27日水曜日

小樽国際音楽祭/華麗なるフルートの世界

小樽で加藤元章さんのコンサートがあり聴いてきた。ホールは駅からほど近いマリンホール、収容人員450人程度、木質系の内装でよく響くホールだ。お客さんの入りは開催が小樽で、しかも火曜日の雨天ということもあるのだろうか、7割程度という印象。(かなりもったいない)

加藤さんの演奏といえば今年の6月、札幌フルートフェスティバルのゲスト演奏を鮮烈に思い出す。今日の演奏は、そのときに得た期待を裏切らないばかりか、遥かにそれを上回る「加藤ワールド」を聴かせてくれた。曲目は6月の演奏とバッハ、サラサーテが重なっているが、彼のお気に入りの曲ということだろうか。モーツアルトは彼にしては異色であるらしい、観客を意識した選曲か。笛は、ムラマツのプラチナで,管体プラチナ,メカは 14k という組み合わせであるらしい(加藤さんに詳しい方からの情報)。

加藤さんの演奏には、どうしたって「華麗なるフルートの世界」「高度なテクニック」という陳腐なるキャッチを思い浮かべてしまうのだが、演奏を聴くと、それ以外に表現のしようがないことにも思い至ってしまうのである。フルート界のアムラン、体育界系フルーティズムの雄というべきか。

高性能なスポーツカーに乗せられて、サーキットをビュンビュン飛ばしているような愉悦と言ったら良いだろうか。彼の笛から奏でられる音には、圧倒的なスピードと迫力、強弱のダイナミックさ、そしてエネルギッシュな強靭さに溢れている。聴く側がまともに受けとめるには、ふんばりさえ必要だ。

彼の持ち味は、近代の曲やカルメンファンタジー、あるいはアンコールに奏されたヴァイオリン・ソナタのような、高度なテクニックを要求される曲にこそ発揮されるように思える。高音から低音に至るまでの均一にして煌びやかな目も廻るような演奏は、「凄まじい」としか表現できない。そこまでするか!とさえ思ってしまう。音楽が終わった後には、体温が1.5度くらい上昇してしまっているかのような感覚だ。不適切な例えかもしれないが、スターマインに酔うかのごときだ。

技術の卓越とは、単に指が廻るということだけではなく、彼の場合は、音楽的な表現力が恐ろしく幅広いということだ。そこかしこで聴かれる音色の変化、重音かと思わせるような音、自在な音曲げ、消え入るようなピアニッシモ、恐ろしく太く大きな低音などなど・・・。

そういう意味から、今日のプログラムは変化に富んでいて面白かったと思う。

��月にも奏したが、彼のバッハも聴きものであった。普通の演奏よりもかなり早目の演奏ではないかと思うが、敬謙さや、渋さ深さなど、精神性を重視したと思われがちな不明瞭なアプローチを彼は取らない。音の流れの中で一気呵成に聴かせる事で、曲の持つ構造や美しさ、面白さというものをくっきりと浮かび上がらせているように、私は感じた。実際に何度も聴き(自分でもあるフレーズを吹いてみたりもして)慣れ親しんでいる曲であるにも関わらず、意外なところに天から降り注ぐ一条の光のごとき二声部が聴こえてきたときには、うれしい驚きを感じた。

一方で彼のモーツアルトというのは珍しいらしい。札響の弦セクションとの演奏であったが、これはこれで私には楽しめる演奏であった。何と言ってもてらいやクセがなく、明るいモーツアルトだ。闊達で無邪気な子供が、やわらかな日溜りで暖かくなった積み藁の上で、遊び興じているような雰囲気を感じた。アンサンブルはどちらかというと、加藤がヒュンヒュンひっぱるという印象で、弦セクションが少し固かったようにも思えないでもない。加藤さんの余裕と遊びについてゆくには、何かが足りないという気にさせられた。

フンメルやライネッケなど、フルーティストにはお馴染みの曲も素晴らしい演奏であったのだが、感想はここまでとしておく。

ところで、加藤さんと野平さんは、デュオを組んで久しい。野平さんのピアノがまた絶妙である。例えばカルメンファンタジーにおける、素早いパッセージとトリルを含む装飾音が、タイミング、リズム、音色、バランスなど、どれを取っても完璧な一致をみる見事さ。野平さんが時々加藤さんを振りかえりタイミングや音楽の流れを確認しているのだが、そういう仕草さえごく自然な演奏の一部になっているように感じた。

実は最初、野平さんのピアノの音は大きすぎるのではないかと思った。加藤さんほどの音響マニアがどうしたのだろうと訝った。良く響くホールであるためかピアノリサイタルのような趣なのだ。しかし、それはすぐに思い違いであると気づかされた。加藤さんの音量によるところも大きいと思うが、ピアノとフルートが対等な会話をする上では、あのぐらいのバランスの方が良いのだと思い直したからである。フルート奏者に遠慮をしすぎないピアノ演奏であるからこそ、ピアノとフルートの相互の良さが引き出されるのだ。


2002年11月26日火曜日

アムラン/カレイドスコープ


  1. エドナ・ベンツ・ウッズ:幻想的ワルツ(ヴァルス・ファンタスティーク)
  2. セルゲイ・ラフマニノフ:V Rのポルカ
  3. ヨーゼフ・ホフマン:夜想曲
  4. ヨーゼフ・ホフマン:カレイドスコープ(万華鏡)
  5. マルク=アンドレ・アムラン:練習曲第3番(パガニーニ=リスト「ラ・カンパネラ」に基づく)
  6. フェリクス・ブルーメンフェルド:左手独奏のための練習曲
  7. ジェイコブ・ギンペル:「海兵隊賛歌」による演奏会用パラフレーズ
  8. マルク=アンドレ・アムラン短調による練習曲第6番(ドメニコ・スカルラッティを讃えて)
  9. ジュール・マスネ:狂ったワルツ(ヴァルズ・フォル)
  10. モリッツ・モシュコフスキ:練習曲変イ短調
  11. フランシス・プーランク:間奏曲変イ長調
  12. レオポルド・ゴドフスキー:アルト・ウィーン
  13. アレクサンドル・ミシャロフスキ:ショパン「即興曲第1番」変イ長調に基づく練習曲
  14. アーサー・ルリエ:ジーグ
  15. エミール・ブランシェ:古い後宮の庭で
  16. アルフレート・カセッラ:「2つのコントラスト」――グラツィオーソ(ショパンを讃えて)
  17. アルフレート・カセッラ:「2つのコントラスト」――反グラツィオーソ
  18. ジョン・ヴァリアー:トッカティーナ
  19. アレクサンドル・グラズノフ:小アダージョ――バレエ音楽「四季」より
  20. ニコライ・カプースチン:トッカティーナ
  • ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
  • 録音:2001年2月、ヘンリー・ウッド・ホールでのデジタル録音
  • 英HYPERION CDA 67275(輸入版)
アムランのアンコールピースを集めた曲集だ。リストのパガニーニの主題による練習曲も技巧の冴えに驚いたものだが、この盤はそれを遥かに凌駕している(発売はリストの前のもの)。まさに空いた口がふさがらないという他ない。私の拙い感想よりも、まずはHMVによるレビュを読んでもらいたい。
ヴィルトゥオーゾ、アムランのアンコール・ピース集。このディスクはアムランならではのアンコール・ピースで、彼にしか弾けないような難易度の高い作品がぎっしり収められています。 たとえばアムラン自作の練習曲第3番は、パガニーニ=リストの「ラ・カンパネラ」を複雑にしたもので、リストの原曲より難易度もはるかに高くなっています。ギンペルの「海兵隊賛歌」はホロヴィッツ版「星条旗よ永遠なれ」の伝統を踏襲したかのような派手なパフォーマンスが聴きものです。 マスネの「狂ったワルツ」は昨年、一昨年のアムラン来日公演でのアンコール曲目。それこそ「狂ったように」難しい曲という印象です。最後のカプースチンも聴きものです。ロックのリズムを大胆に導入したこの「小トッカータ」には、すでにカプースチンの自作自演CDがリリースされていますが、アムランは作曲者本人と親交がある数少ないピアニストの一人なので、演奏内容も万全です。その他、表題にもなったヨゼフ・ホフマンの「万華鏡」や、ゴドフスキーの作品に至るまで、超絶技巧を前提にし、しかも親しみやすい作品が大量に収録されているのはピアノ好きには堪らないポイントと言えるでしょう。 (HMVサイトより引用)
こういう超絶技巧曲がいとも容易く弾かれるのを聴くと、個々の曲がどうだ、などという細かなことを論じる気さえなくなってしまう。そもそもこれらの曲は、アムランのアンコールピースなのだ。それにしても何と言うアンコールピースであることか!これぞ「体育会系ピアニズム」の極致と言えるかもしれない。

��MVの解説にもあるが、例えば耳慣れたリストの「ラ・カンパネラ」! リストの曲を知っている人も、パガニーニの原曲を知っている人も、肝を潰してしまうような音楽になっている。難しさという点ではなく、技術を駆使したその先のグロテスクなまでに変形させられた音楽の持つ、まがまがしくさえある強烈な魅力に驚いてしまう。

しかし仔細に聴いてみれば、アムランは技巧をひけらかすためだけにアンコールピース集を録音したととばかりにも思えない。リストの曲集でも感じたが、技巧派のレッテルにありがちな機械的な味気なさとは違うものを、アムランのピアニズムからは感じる。ピアノという楽器の能力を最大限にまで弾き出しているような演奏からは、アムランの偏執的とも思えるほどのピアノへの愛が伝わってはこないだろうか。

実際「狂ったように難しい曲」ばかりが納められているのではないのだ。たとえばMOSZKOWSKI(1854-1925)の練習曲やPOULENC(1899-1963)の間奏曲などは哀愁を帯びた美しさを湛えた小品であるし、GODOWSKY(1870-1938)の Alt Wien ('Old Vienna')や、GLAZUNOV(1865-1936)のバレエ音楽をもとにしてアムランがアレンジした「Petit Adagio」も、初めて聴くものにとってさえ、これらが愛すべき美しい曲であることを知らせてくれる。

最後のKAPUSTIN(1937-)の「Toccatina」は、CD解説に「Oscar Peterson ? No, a succinct and dizzying toccata by a Russian composer.」とあるように、ロックのリズムというよりは洒落たジャズ風の曲で楽しませてくれる。

まさにあっという間の、圧倒的な20曲だ。思わずブラボーと叫んでしまう。ピアノ曲を聴くという快感と醍醐味を存分に味わえる一枚と言えるかもしれない。

2002年11月21日木曜日

分かりにくい経済再生

日本経済がデフレだと言われて久しい。日本はバブル後の不況から12年経った今も脱出できずにもがいている。日本の決断の遅さ、実行力のなさは西欧のみならずアジア諸国からも呆れられ始めている。

竹中-木村による経済再生プログラムはメガバンクの猛烈な反対にあった。竹中-木村派に反対する意見の多くは、銀行の不良債権をアメリカのハゲタカファンドに買わせ、日本経済をめちゃめちゃにしようとしている、という考えが強いようだ。

一方、竹中-木村派は日本が真に再生するためには、構造的な改革を含めた金融政策(銀行の不良債権処理と問題企業の淘汰も含む)を期待するというものだ。

銀行に注入した公的資金の優先株を普通株として経営権を国が持つとか、自己資本比率を違った基準で査定しなおし、銀行に資金注入するとかの話しは、私のように経済に全く素人のものでも(意味は分からなくとも)言葉だけは覚えてしまった。

どちらが日本を再生する力を持っているのか、「門前の小僧」以前の私には判断できない。ただ、メガバンクの猛烈な反発は自己保身と既得権益の確保という姿が見え隠れするように感じてしまったことは否定できない。

さらに不良債権と言われているものの実態がよく分からない。銀行は間接償却のための引当金を用意したくないため、不良債権の査定において実体隠しのようなことをしているとの指摘もある。銀行が生き延びるために、破綻懸念先に分類させず、延々と点滴を続けているようなものだ。そういう実態があるとしたら、それは、不良債権たる企業と銀行双方に責任があるわけで、もはや構造的な問題といわざるを得ない。

青木参幹事長は竹中案に対し「(経済政策に失敗したら)誰が責任を取るのか」と国会で首相に詰め寄った。しかし日本で一体、いままで経済政策の失敗で政治家の誰が責任をとっだろうか。どの銀行トップが自らの責任を認めただろうか。これを理不尽と言わずに何と言おうか。

正しい実態も分からない、処方すべき方策も混迷している、しかも、責任の所在も、責任の取り方も不明確であるとしたら日本経済は、いったいこれからどこに向うのか。

かてて加えて、日本外交の自立性のなさである。あと数年もすると、世界の誰も日本など気にしなくなり、十数年のうちに、少子化と教育問題の弊害が重なることで日本という国が消滅してしまうのではないか、という危機感はないのだろうか。自分の会社がなくなるということなど、些細なことかもしれない。

それにしてもと思う。政界も金融界も、普通ならとっくに隠居するか病院にいるような老人=重鎮たちが、若者以上に元気いっぱいで発言力があるのか・・・私には全く理解できない。あなたたちの残りの人生の間だけ、日本が潰れなければそれでいいのか?

極端な自閉的状況は、愛国ナショナリズムを生みやすい。世界も日本も大きな岐路にさしかかっていると、感じないだろうか。ここ数年の動きが、その後の日本と世界の枠組みを決定付けるように思えてならない。


2002年11月18日月曜日

アムラン/フランツ・リスト作品集

パガニーニによる大練習曲S.141 Six Grandes Etudes de Paganini S141
葬送行進曲 Trauermarsh - Grande Marche funebre
アレグレット・フオコーソ Grande Marche
騎兵隊行進曲 Grande Marche caracteristique

ピアノ:マルク=アンドレ・アムラン
録音:2002年2月、ヘンリー・ウッド・ホールでのデジタル録音
英HYPERION CDA 67370(輸入版)

アムランといえば技巧派のピアニストとして有名だ。CD試聴記でもブゾーニのピアノ協奏曲のレビュを、驚きと感動を持って書いたことを思い出す。そんなアムランが、リストの超絶技巧練習曲を録音したというのであるから、少なからず興味を持っていた。

リストという作曲家が好きかと問われれば、否というか、好きと答えるほどには親しんでいないというのが正直な回答だ。中学時代にジョルジ・シラフが弾くハンガリア狂詩曲 第2番のLP聴いたときの衝撃は忘れられないが(それこそ擦り切れるほど聴いたものだ)、それ以降リストの作品に食指が伸びることはあまりない。

さて、今回のアルバムは疎遠なリストを私に近づけることができる一枚になったであろうか。

まずは、パガニーニによる第練習曲。リストがパガニーニの演奏を聴いて「ピアノのパガニーニになる」と決意したという逸話は有名だ。この練習曲はパガニーニの原曲以上に難しいと言われてきた難曲であるらしい。第3番「ラ・カンパネラ(鐘)」は有名でよく演奏されていると思うが、全曲を通して演奏されることは、最近までは少なかったようだ。

私はピアノを弾かないので、聴いていてもどこが難しいのか、真に理解し驚嘆することはできないのだが、それでも、恐ろしく複雑にして多層にわたるアルペジオやら音階がスピーディーに弾かれるのを聴いていると、ほとほと感心してしまう。

アムランはこれらの「超絶技巧」といわれる難曲を(今では多くの演奏家が演奏可能なのだろうが)いともたやすく、弾いているように聴こえる。一部の隙もない演奏からは、技術を落とさないための日課練習をしているような余裕さえ感じられるところがオソロシイ。

しかし、この演奏を聴いて感動するかと問われれると、首を傾げざるを得ない。原曲のパガニーニのカプリ-スをどうしても思い出してしまう。原曲以上に難しいというが、原曲に漲る、悪魔的ともいえるほどの魅力と、技術的な冴えのようなものが、薄められてしまっているように思えてならない。

パガニーニ大練習曲、シューベルトの行進曲/マルク=アンドレ・アムラン(pf)フランツ・リストの有名なエピソードに、1832年、パリでヴァイオリンの名手パガニーニの超人的技巧と悪魔的容貌に接した際、「ピアノにおけるパガニーニ」になることを決意したという話があります。その若きリストの思いがストレートにあらわれたのがこの「パガニーニ大練習曲」だと言われています。 リスト初期の成功作となったこの作品、6曲のうち5曲が「24のカプリース」をとことん技巧的にピアノ編曲したもので、有名な第3番「ラ・カンパネッラ」のみヴァイオリン協奏曲第2番から編まれています。 これまで、「リスト弾き」といわれる人でも、特に有名なこの「ラ・カンパネッラ」のみを弾くことが多かったのですが、昨今のフランツ・リスト・ルネッサンスと、超絶技巧ピアノ・ブームの盛り上がりにより、全6曲の本格的な演奏がなされる機会も着実に増えてきているようです。 

その先鞭を付けたのも実は、このhyperionレーベルだったのかもしれません。レスリー・ハワードによるリスト:ピアノ作品全集の第48巻(CDA 67193)で、全曲版を2ヴァージョン ―― 1838年版と1851年版 ―― とも録音して大評判となったのはかれこれ4年ほど前のこととなります。 空前絶後のテクニックで不滅の金字塔を打ち立ててきたアムランの、これが待望の最新作。アムランにとってCD一枚丸ごとリスト作品というのは、96年録音のライヴ盤「プレイズ・リスト」(CDA66874/国内仕様MCDA66874)以来となります。今回の録音は、今年2月にヘンリー・ウッド・ホールで入念にセッション・レコーディングされたものです。 

今考えればアムランは「パガニーニ・エチュード」全曲録音のための伏線も、実はしっかり張り巡らしていたのでした。2001年2月に録音された「万華鏡(カレイドスコープ)」(CDA67275/国内仕様MCDA67275)で、アムラン自作のエチュード第3番「パガニーニ=リスト:ラ・カンパネッラによる」を入れていたのです。このアムラン流・超絶技巧てんこ盛りの「ラ・カンパネッラ」は、今回のアルバムへとつらなる明らかな道しるべだったと言えるでしょう。 

コンポーザー=ピアニストにこだわり続けるアムランの評価は、ヨーロッパでもこのところますますうなぎり。前作のゴドフスキー:ピアノ・ソナタ ホ短調/パッサカリア(CDA67300/国内仕様MCDA67300)はhyperionの数あるニュー・リリースの中でも空前のセールスを記録。ヨーロッパの店頭では「飛ぶように売れ、あっという間に売り切れた」と伝わっています。持ち前の超絶技巧に加え、音楽的にも深みを増しつつある、アムランの躍進ぶりには目を見張るばかり。 パガニーニ=リスト=アムラン、という3人のコンポーザー=ヴィルトゥオーゾの時空を越えた邂逅は、聴く者にきっと最高のカタルシスを与えてくれることでしょう。

 超絶技巧の作品を果敢に演奏し続けているアムランがリストの難曲を録音したCDが発売されたのを見つけさっそく入手して聴いてみることにしました。パガニーニによる超絶技巧練習曲はリストの作品の中でもポピュラーなものですが,シューベルトによる行進曲の録音は比較的珍しい録音に属するのではないでしょうか。  ここで聴かれるアムランの演奏は相変わらず見事で,最初の超絶技巧練習曲集では,目まぐるしいパッセージをものともせずに冷静なコントロールによって生み出される精妙な表情の変化には唖然とするばかりですし,表情の幅や力感も十二分に発揮されており,表現が無味乾燥になることがありません。  私自身,この演奏の複雑で困難なパッセージがハイスピードで正確に再現されているのを聴いているだけでも,メカニカルな快感と,スポーティな爽快感と,高度なものを成し遂げた達成感を感じ,自分が弾いているわけでもないのに大いなる満足感に浸ることができました。  ただそれでも,この演奏は精密な機械仕掛けのからくりを聴いているような気もしてしまうのも事実で,冷静かつ完璧なコントロールに耳を奪われながらも,聴き手に迫るパワーや迫力といったものは感じられないので,リストの超絶技巧作品を聴くにしてはクールに過ぎるのではないかとも思えます。  しかしそれは,これまで聴いてきたリストの演奏によって蓄積されてきた作品のイメージに過ぎず,そもそもリストはパガニーニの演奏を聴いて,自分は「ピアノのパガニーニ」になろうと思ったというのですから,パガニーニのようなクールビューティな演奏こそ作品の姿を伝えるのかもしれないなという気もしています。  続いて収録されているシューベルトによる3つの行進曲は,シューベルトのD819の6つの大行進曲とロンド,D859の葬送大行進曲,D886の2つの性格的な行進曲から再構成した作品で,原曲はいずれもピアノ連弾曲なのをピアノソロにアレンジしたという難曲です。  こちらは,オリジナルのシューベルトの作品そのままといった印象があるのですが,声部が増えたときには独りで弾いているとは思えないような対比が聴かれ,それをアムランが鮮やかに弾き分けているのは全く見事で,表現そのものというか,メッセージ性は淡泊といえるのですが,フォルテでの力感や,華やかなパッセージのブリリアントな響き,そして軽快なリズム感も聴き応え十分で,アムランの表現のパレットの様々な階調を堪能できるものでした。  こうして聴いてみると,いずれも難曲になればなるほど持ち味を発揮するアムランの超絶技巧が遺憾なく発揮された,鮮烈な演奏に唖然とするばかりでしたが,それが持てるテクニックのぎりぎりのところで演奏されているのではなく,余裕を持ったコントロールの範疇内でなしえていることに,アムランの技量の途方もなさを感じます。これは豪快なリストを聴きたい方にはお薦めできないかもしれませんが,技術の粋を尽くした1つの究極を思わせるリストの名演として強く推薦したいと思います。


2002年11月15日金曜日

【風見鶏】「Daschel Doubts Terror War's Progress」

11.15
washingtonpost By Johon J.Lumpkin
Thursday, November 14, 2002; 2:16 PM

Osama bin Laden のテープがまだ生きていると思わせるテープが出現した。日本のTVでは声紋鑑定の結果、ラディン本人にほぼ間違いないと報道していた。

��4日付けの washingtonpost では、上院の民主党のトップである Daschel 氏が、ビン・ラディンを捕まえることに失敗したことから、「テロとの戦いに勝利しているのか否か」と疑問を呈していると報じていた。このような声はアメリカでは多いのではないかと思われる。

一方、ホワイトハウスのスポークスマンは、テロとの戦いに「多大な進展(tremendous progress)」と述べている。

このテープは新たなるテロへの警告である、と受け取る政府関係者も多いという。ブッシュ大統領は「Whoever put the tape out has put the world on notice yet again that we're at war」と述べている。

こうして考えると、ビン・ラディンが生きていようがいまいが、アメリカは彼の存在を十分に利用しているように思えてならない。アル・カイーダが実はアメリカの援助を受けてテロを組織していると分析する専門家もいるが、いずれにせよ暗雲は晴れずといった印象だ。



HIYORIみどり 「ビンラディンて生きていたのね~」

KAZAみどり 「米英の新聞を見ていると、インドネシアやあちこちで、アルカイーダの幹部やテロ関係者が捕まるというニュースを、ここ数週間目にしていたわ。でも肝心のラディンは行方知れず。反テロ組織の担当官は、ラディンがもし生きているなら、アフガニスタン国境沿いのパキスタン山中に潜伏していると見ているらしいわ」

HIYORIみどり 「イラクは国連の査察を受け入れたけど、戦争はするのかしら」

KAZAみどり 「例の増田俊男氏のサイトを読むと、アメリカはとにかく"今後5年間は戦争しなくてはならない"らしいわ。日本も困ったものだけど、アメリカはもっと困ったものね。

2002年11月14日木曜日

思いつくままに

最近の米国の発表を聞いていると、どうやら米国はブッシュを教祖とするカルト教団と手法が変わらないことに気づく。

オウム真理教はサリンをばらまき、不安と恐怖を演出することで自らの教義の正しさを増強しようとした。 今アメリカは、世界中にイラクとテロと北朝鮮に関する不安をあおり(これで不安を感じない国はテロ国会以外ありえなくなる)、自らの政策を増強させている。「我々につくかテロ国家につくか」と大胆かつ幼稚にも世界を二分した論理は健在だ。

アメリカでは中間選挙で共和党の圧勝し、新聞では米国の大多数が共和党の外交政策を支持しているというから驚きだ。(USA Today, CNN, ギャラップ社の共同世論調査)

フセイン大統領の選挙も、投票率100%と言っていたようだが、どこまで本当なのかは分からない。100%の投票率が信じられないのと同様、米国の中間選挙の投票率は30%台という感心の低さだ。「投票に行かせない戦略」をとっていると指摘する人もいる。選挙活動がビジネスになるほどの国だ。ちなみにドイツの総選挙は80%台、英国ブレア再選の総選挙も、低投票率と言われながらも59%だそうだ。手元にメモがないので日本の選挙の投票率は分からないが。

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思考停止ということがある。911テロ後のアメリカだ。共和党どころか民主党もこぞって、テロ批判に傾いた。少し前の北朝鮮のテポドン、日本中も慌てふためいて「北朝鮮はなんてキケンな国だ」となった。あの頃ならどんな超法規的軍事対応も可能だったかもしれない。

有事は平時にこそ考えておかなくてはならない。日本には軍事関連を増強させるためにテロを利用したり、さらにはテロを演出さえするようなことまではしていないが、米国はそうは見られていないようだ。英国のGardian誌には、米国で著名な作家であるゴア・ヴィダル氏(イタリア在住)が、米国のテロに関する疑惑を発表したことを紹介していた。(Gore Vidal claims 'Bush junta' complict in 9/11)

��AZAみどりで、既に戦争は始まっていると書いた。実際イラクの飛行禁止区域では米英が爆撃を続けている。米英のイラク攻撃は、この先100年以上の石油利権を賭けた(フランス、中国、ロシアとの)覇権争いであると指摘する人もいる。私には、それを否定することも鵜呑みにすることもできない。

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一方、拉致被害者にの家族に対し、石原東京都知事の「軍隊を出して取り返してくるくらいの気持が必要」という問題発言についてKAZAみどりで触れた。こういう反応は過激だと思われがちだが、軍隊を有した主権国家の国民としては当然の反応かもしれない。「およそ国民と国土を守るために徴税している国が、自国民の安全確保さえできない」ということは、考えられないのである。

ただ、拉致被害者の北朝鮮の家族を日本に連れ戻すということは、別問題であるような気がしてならない。彼らの国籍はどこにあるのか、彼らを「守る」国はどこなのか。拉致被害者が帰国してずいぶん時間が経った。北朝鮮の家族はどのような説明を受けているのだろう。

拉致被害者の、死亡したとされる残りの方や、それ以外にも何十人もいると思われている人たちの疑惑解明は、日本外交として強力に交渉するべきだと思う。しかし、今回の帰国家族は外交カードとするには、問題がないのだろうか。今こそ「人道的問題」となったのではなかろうか。

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ハナシは飛ぶが、最近もうひとつ、よく分からないのが「産業再生機構」なるもの。整理再生機構でもできたことを、改めて組織をつくり、過去の失敗者を性懲りもなく責任者に据え、彼らに何をやらせようとしているのか。考えるだびに、ため息しか出ない。

企業が潰れること、弱い企業が資本主義の市場から撤退することは、市場原理の原則といわれればそれまでだ。しかし市場にまかせるだけではなく、日本の産業構造をどう変革するのかというビジョンが欠けている。産業の空洞化、技術立国の衰退と叫ぶけど、ではどこを育てるのかと。このままではつぶされもせず、かといって生き返りもせず。またしても 「茹で蛙」 か?

2002年11月11日月曜日

【風見鶏】「米大統領が25万人動員の対イラク戦承認と米紙」

「米大統領が25万人動員の対イラク戦承認と米紙」
11.11 日本経済新聞

 「War Plan in Iraq Sees Large Force and Quick Strikes」
November 10,2002
New York Times

先週の8日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器の全面査察を受け入れるように迫る決議案を、全会一致で採択した。今までスタンスの異なっていた仏ロもアメリカ側に立つことで、ついにアメリカは全西側諸国の同意のもとに強硬路線を取ることが可能な状況になった。

それを受けて、イラクが査察を拒否した場合にアメリカは大規模な軍事作戦を展開する準備を整えたと言うわけだ。パウエル国務長官は10日から12日にかけてソウルを訪問し、北朝鮮問題についての協議をすることになっていたが、安保理の決議を受けて訪韓を中止している。

ついにここまで来たかという感じである。昨年の9.11テロを大きな契機とし、アメリカはテロとの対立を明確にし、国民感情も民主党さえ見方につけ、さらに諸外国の同意も得た上で、イラク攻撃に向けての準備を完了させたわけだ。その周到さには、ほとほと舌を巻く。これから何が起き、アメリカに対しどういう覇権と国益がもたらされることになるのか、見守るしかないというのか。

ちなみに、イラクは国連決議を受諾する方向で動き始めたようだ。



HIYORIみどり 「ほとんど戦争が始まっているような印象を受けるけど」

KAZAみどり 「そうね、報道されない部分での諜報活動は盛んでしょうし。ただ、またしてもアメリカ本土や関連施設は傷つかない戦争ということにはなりそうね。」

HIYORIみどり 「何のための戦争なの、アメリカの中東における原油支配という説が一般的だけど」

KAZAみどり 「そう単純なハナシばかりでもなさそうね。ロシアも西側諸国の仲間入りを果したことになっているし、世界情勢は冷戦終結後、大きな山場を迎えていると考えていいかもしれないわ。世界の勢力地図は大きく変わるかもしれないわ。アメリカは北朝鮮とコトを構えるより、イラクをやはり重視したということね」

HIYORIみどり 「北朝鮮問題は日本にまかせると?」

KAZAみどり 「パウエル国務長官は北朝鮮問題について "All of those nations should have a greater concern about this than we do. They are within range" と言っているわ。those nations は、北朝鮮の近隣諸国(日本、韓国、中国)で、this は当然北朝鮮問題、そして、within range は"射程距離内"という意味よ。日本にそういう危機意識があるかしら。ノドンはアラスカには届いても米国本土には届かないわ。ただし、沖縄などの米軍基地には届くけどね」

HIYORIみどり 「イラクのスカッドミサイルも米国本土には届かないけど?」

KAZAみどり 「そうよ、そして同じように米軍基地にも届かないのよ。」

HIYORIみどり 「ん~、ワカラナイわ~」>YUKIみどり「同じく!」


ラトル/ベルリン・フィルの「マーラー 交響曲 第5番」

サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo.
録音:2002年9月7-10日  Philharmonie, Berlin (Live) EMI TOCE-55463(国内版)

マーラーの交響曲を評することは難しい。特にマーラーの中でも比較的ポピュラーであると考えられているこの第5番交響曲さえも、作品解釈における正しい理解のもとに接しているかと自問するならば、否と答えざるを得ないだろう。

マーラーの交響曲としては、第1番交響曲に次いで親しみやすいため名演奏も多い。家にあるCDだけでも、定番とも言うべきバーンスタイン&ウィーン(1987)、同じくバーンスタイン&ウィーンの87年ロンドンライブ、テンシュテット&ロンドン響(1978)、ドボナーニ&クリーヴランド管(1988)、ショルティ&シカゴ(1970)、ガッティ&ロイヤル・フィルハーモニー(1997)などがある。

以上の演奏の中ではバーンスタインのロンドンライブの圧倒的な演奏、ガッティの熱い演奏、そしてショルティの精密機械のような演奏などが特に印象に残る。

意外なことに、私の持っているCDでベルリン・フィルのものがないことに気付いたが、そういう偏った方手落ちなCD試聴経験からラトル&ベルリンの新盤を聴いてみたが、今までのどれとも異なる演奏が展開されているように思えた。

演奏にはラトルらしい歯切れの良さ、そして独特の強調された強弱のつけ方や緩急などが際立ち、音楽的な立体像がくっきりと浮かび上がってくる印象だ。さらに、何か颯爽としており、瑞々しささえ湛えた演奏で、これが何度も聴き慣れたマーラーの5番かと思わせる部分がなきにしもあらずだ。少しただれたような、そしてとろけるような耽美的にして廃頽的な香りは、この演奏からは感じられない。

音楽の盛り上げ方シャープであり劇的である。例えば第一楽章冒頭のトランペットのファンファーのすぐあとに来るオーケストラによる表現なども、音のカタマリとなって聴くものを圧倒する、しかし決して暴力的ではない。よく耳をそば立てれば、随所で色々な音が聴こえてきて、曲の持つ構成にパースペクティブを与えているようにも思える。

ラトルはニコラス・ケンヨンとのインタヴュー(2002年8月2日)の中で「この曲は有名で、演奏される機会が多いという理由で、演奏は簡単だと思われがちですが、本当は演奏が大変難しい曲」と述べている。以前はラトル自身、曲の意味や構造を全くつかめなかったという。

ラトルはこの曲を録音するに当たり、随分と研究を重ねたらしい。もっともだからと言って、微分的に分析的な演奏というわけではない。むしろマーラーの心情(それがアルマへの迷える愛なのかは分からないが)が揺れ動く、しかも複雑な多層的心情の揺れが、あるときは時系列的に、あるときは過去も未来も前後して、混沌として渦巻く様を追体験しているような気にさせられる。音楽は感情的に高まるよりも、内省へと傾き最後に行き着くように思える。作曲者の心情と一体化するのではなく、かといって心理学者のようなスタンスでもなく、客観的に捕らえているという印象だ。

もっとも、これは私の個人的な感じ方だ。CD解説の中でコリン・マシューズはこの作品を「全体的に個人的感情を交えない作品」、4楽章のみを「ここだけ内面を見つめた個人的な内容」と記している。

一方ラトルは、先のインタビューでこの曲を「死すべき運命への答えは何か?」との問いに対する「愛との対位旋律こそが全てを癒す」というマーラーの答えだと述べている。

ところで私は、あまりにも、バーンスタインのような、思い入れの強い演奏に慣れ親しみすぎているのだろうかと思わざるを得ない。もしラトルの演奏に物足りなさを感じるとすると、そういう点だ。聴きながら握りこぶしを固めてしまい、音楽に没頭するような瞬間は少ない。

例えば第2楽章の「嵐のように激しく、いっそう大きな激しさで」という指示の曲も、泣きが入るような感情の吐露ではなく、一歩引いた、窓の外の実際の嵐を見ながら自らの心情を確認しているような響きを感じる。有名な第4楽章のアダージェットにしても演奏時間は何と9分半という短さだ。死の匂いのする耽美主義は感じられない。

だからと言って、ラトルが「死」というものを避けて演奏を意図したというわけではなさそうだ。彼の棒からオーケストラが奏でる響きは、時として残酷なくらいの深く鋭い人生の深淵を垣間見せている。そのざくりとした裂け目の暗さが冷たく鋭いがために、逆に曲の最終テーマであろうか、深淵からの復帰と勝利は、強い憧れととともに見事な賛歌となって我々を打つ。

あまり良い聴き方ではないが、ここで第5楽章の最後3分、いわゆる金管軍が咆哮するラストのコラールのみ、いくつかの演奏と聴き比べてみた。アルマが「取って付けたようで古臭い」と評し、マーラーが「だってブルックナーだってやってるぢゃない」と言った部分だ。(ラストのたった3分のみで比較することに意味があるとは思えないということは分かっているが、座興として読んでもらいたい)

まずはバーンスタインのロンドンライブ。ここの部分だけであっても、バーンスタインの演奏を聴くと、全身の細胞が熱を帯びたように振動し、涙腺は緩み、地に足がつかないかのような感じに私は陥ってしまう。たった数分間でバーンスタインの魔力にあてられ、押し潰され、演奏後の爆発するような拍手を聴きつづけることができない。

次にテンシュテット&ロンドン(全集盤)。バーンスタインとは全く違ったアプローチでありながら、ゆったりとしたテンポの中に、音の大伽藍が築かれており、思わず頭を垂れてしまうほどの荘厳さだ。

最後はガッティ&ロイヤルフィルだが、この演奏の構築力と旋律の対比の見事さは、他のどの演奏をも押して顕著でありクラシックを越えた新鮮さを感じる。

��これ以上やるとヲタクと思われかねないので、もうやらない)

振り返って、ラトルのコラールも、実に見事な立体像で我々に迫ってくる。スピード感とダイナミックさを伴い「颯爽」と駆け抜けるといった趣だ。聴き終った後にふと我に返って恥ずかしくなるようなことはない。

マーラーに「颯爽」は要らないと評するファンの声も耳にする。どちらが好きかは、趣味の問題だろう。ただ、バーンスタインの演奏を再び、そして何度も聴こうとは思わない。あまりにも特別なのだと改めて感じた。

ラトルとベルリン・フィルのこれから10年間を、私たちクラシックファンは、おそらく期待と不安、そして肯定と反感を感じながらも、無視することができずに眺めてゆくことになるだろう。そういう新しい時代を拓くという意味において、そして20世紀的なマーラー呪縛からの解放という意味でも、一聴の値はあると思う。(ブーレーズのマーラーというものあるが、あれは別物かもしれないので言及しません)


2002年11月8日金曜日

【風見鶏】「米国フェデラルファンド金利引下げ」

11.08 日経、毎日、産経社説

米連邦準備理事会(FRB)は定例の連邦公開市場委員会(FOMC)で、政策金利であるフェデラルファンド(FF)金利を0.5%引き下げ、1.25%とすることを決めた(41年ぶりの低水準)。公定歩合は同0.75%と1%を切り、物価上昇率を勘案すれば、実質短期金利はゼロということらしい。

11月8日付け日本の新聞各誌が報道しているように、先の中間選挙で共和党が圧勝したこと(かなり私は驚いたが)を受け、対テロ対策(特にイラク攻撃)への「戦時経済」に入ったことを意識した景気高揚策であるとの見方が強い。

日本経済新聞社説は『「戦時経済」を意識した米の大幅利下げ』と題し、低金利政策により消費者の購買力や企業の設備投資などが行われることに疑問を投げている。「減税を追加すれば、財政赤字拡大懸念から長期金利が上昇し、効果が減殺される公算もある」と指摘している。

毎日新聞社説も同様の論調だ。『米利下げ 日米ともゼロ金利は間違い』として、ブッシュ政権がITバブルの精算を出来ていないことを指摘し、減税も意識したゼロ金利政策は日本においても景気高揚には効果がなかったことと同様、「(米国の)財政赤字を恒常化させる政策以外の何ものでもない」としている。

一方、産経新聞社説は『減税と相乗効果の発揮を』として、世界同時不況を回避するためにも「減税と金融緩和の相乗効果で、この難局を乗り切る以外に手段はないだろう。日本も総合デフレ対策の効果的な実行で、世界経済の回復に協力すべきである」と米国の政策に好意的である。

米国の経済の翳りと先行きの不安感が払拭できないなか、ブッシュが中間選挙での圧勝を背景に対テロ対策で強行路線を取ることは明白であろう。米国経済の影響を少なからず受ける日本においても、共和党の経済外交路線には注意を払う必要があるのかもしれない。



HIYORIみどり 「気になるニュースといえば、北朝鮮の難民へ食料を供給するNGOの方が中国側に不法に拘束されていたということもあったわね」

KAZAみどり 「中国側外務省の報道官とNGOの方の話しがずいぶん異なっているような印象を受けるわ。藩陽領事館事件の時もそうだったけど、"中国は信用ならない国"というイメージを増強させているような気がする」

HIYORIみどり 「中国は資本主義へ移行しようとしているし、もしかすると、ものすごい潜在能力を秘めた大国に伸し上るわよね」

KAZAみどり 「世界情勢は、アメリカ、ロシア、中国、EU連合などの覇権争いが、色々な鞘当などを通して虎視眈々と進んでいるという気がするわ。日本はいつまでもアメリカの小判鮫でいいのかしら、日本には政界戦略という考えがないものね。アジアのナンバーワンの地位さえ怪しいわ」

HIYRIみどり 「で、米国金利の話しは?」

KAZAみどり 「週末は札幌は雪になりそうね・・・」

2002年11月3日日曜日

【風見鶏】「Why reforming Japan's banks could ruin the U.S. ~ The dollar dilemma」

11.03
International Herald Tribune
Akio Mikuni and R.taggart Murphy The New York Times
Saturday, November 2, 2002

IHTのEditorials & Opinionsに、エコノミストの三國陽夫氏が The New York Timesに寄稿した文章が掲載されていた。

竹中金融相の不良債権処理加速策が、与党からも反発にあって骨抜きにされたこと、しかし竹中の方針は sincere であり、日本経済は大いなる危機に直面していることには変わりがないと指摘。しかしながら日本の「不良債権」の捉え方は、世界の常識からはかけ離れており、日本の金融は西欧から見ると「不思議の国のアリス」のようだと書いている。

その後、ここ数年間の日本の経済の構図を説明した後に、日本政府は派閥の圧力などをまとめる真の意味でのリーダーシップを発揮できず、過去においても他の全ての改革におけるイニシャチブが取れず、政策も骨抜きでしか進められないと指摘してる。

一方で、日本にはドル立てで3兆ドルもの資産があること、また不況下においても対米貿易黒字を維持していることに言及、もし銀行が債権取りたてを余儀なくされれば、日本企業は(貿易黒字で得ている)ドル売りをせざるを得ず、結果的に米国経済を弱める結果となるとしている。

不良債権処理は、日本経済にとっても米国経済にとっても大きなジレンマを抱えていると言えそうである。

HIYORIみどり 「よくわかんな~い」
KAZAみどり 「はっきり言って私もよく分からないの(><) 英文以前に経済が良く飲みこめていないようなのね。間違っているかもしれないからこれ以上書かないわ、ムチはイヤだわ」
YORIDORIみどり 「(-_-)/~~~~ ピシ-、ピシ-! もっと勉強して出なおしてらっしゃい!」