2003年6月20日金曜日

高村薫とシューマンとブラームス

シューマン:
 歌曲集「リーダークライス」作品39
 歌曲集「女の愛と生涯」作品42
 
エリザベート・シュワルツコップ ソプラノ
ジョフリー・パーソンズ ピアノ
1974年4月 ベルリン
EMI TOCE-59088(国内版)


 

ブラームス:
 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
 4つのピアノ小品 作品119
 
アンネローゼ・シュミット ピアノ
ヘルベルト・ケーゲル 指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1979年9月10-13日 ドレスデン、ルカ教会(作品83)
1979年11月18-19日 日本コロムビア第1スタジオ(作品119)
DENON COCO-70536(CREST1000



小説家の高村氏はブラームスとシューマンがことのほか好きらしい。彼女が二人の作曲家に抱く思いについては「半眼訥訥」というエッセイ集の中で『ブラームス的造詣』『ブラームスとヴァイオリン』『シューマンという魔物』という形でまとめられている。これらの文章の初出はウィーン・フィルハーモニー日本公演のパンフレットである(それぞれ1995、1996、1997年)。

特にブラームスのくだりは、彼女の創作活動とブラームスのそれを重ね合わせて書いている点が興味深い。たとえばこうだ。

��ブラームスは)一つの音楽的直感を表現するときに、AとBのどちらが全体の構成の中で相応しいかを厳密に考えた人だったという気がする。ブラームスの作品を聴くとき、すべての部分と部分の間に強固な関係性が感じられるのはそのせいであろう(同書 230頁)
一方シューマンについては、シューマンの歌曲が幼い頃の心をとらえたとし、その音楽について

形式はあっても感性のたえまない奔流がそれを押し流していくような、(中略)さらに、叙情的に聞こえるものが実は、ほとんど魔物のような完成の確かな結実なのであって、そうした果実が次から次へと溢れ出してくるような、そういう空間(同書 242頁)
と書いている。

高村氏はシューマンの天才に憧れてはいるが、彼女の小説からシューマン的感性を感じ取ることは少ない。彼女の文章は、どちらかと言えばブラームス的であるかもしれない。

「リヴィエラを撃て」においては、シューマンの歌曲が効果的に使われている。高村氏は主人公のテロリストにリーダクライスの「異郷にて」を歌わせるのだが、それが小説の中で何とも物悲しいトーンを奏でている。小説での描写はこういう具合だ。

詩人が異郷の森に静めた諦観は、ジャックの語る階段の夢想に、どこか似てなくもなかった。《伝書鳩》は今やっと、ジャックがこの歌を歌い続ける理由を、自分なりに納得したように思った。(同書下巻142頁)
シューマンの歌曲には疎いので、早速右のシュワルツコップの盤で聴いてみた。異郷に住む孤独が哀しくも美し切々と唄われるのは何度聴いても胸に迫る。それにしてもシューマンの歌曲を口ずさむテロリストなど、いったい想像できるだろうか。


In der Fremde (異郷にて)

稲妻の赤くきらめく彼方、
故郷の方から、雲が流れてくる。
父も母も世を去って久しく
あそこではもう私を知るひともない。

私もまたいこいに入る、その静かな時が
ああ、なんとまぢかに迫っていることだろう、
美しい、人気のない森が私の頭上で葉ずれの音をさせ
ここでも私が忘れられる時が。

一方、同じ小説に登場するピアニストが、積年追ってきた人物の前で披露するのがブラームスのピアノ協奏曲第2番だ。この曲は1番とは違って明るさと光に満ちた力強い曲である。苦悩や深刻さを感じることは少ない曲だが、ブラームスらしい響きと陰影はやはり随所に聴くことができ、控えめながら内に秘められた激情を感じ取ることができる。小説においてピアニストがどのような思いでこの曲を弾いたのかを、作品を思い出しながら聴くのも一興ではある。

小説ではウィーン・フィルの演奏であったが右の盤は旧東独のアーティストからなる演奏である。