2003年7月24日木曜日

横山秀夫:陰の季節

解説曰く

横山秀夫『陰の季節』が決定的に新しかったのは、警察小説でありながら捜査畑の人を登場させなかったことだ。(中略)横山秀夫の警察小説は、捜査小説というよりも、「管理部門小説」といっていい

(中略)読み終えても残り続けるのは、管理部門で働く人間の悲哀をも描いているからである。その切なさが、我々と同じような些細な悩みをかかえる日々の営みが、鋭く活写されているからこそ、読み終えるとふと隣の人に話しかけたくなるのである。(北上次郎)

これは褒めているのだろうな、と思う。帯も「驚愕の警察小説」だ。私はこういう小説に少しばかり馴染めない。「中間管理職の悲哀」というステロタイプのテーマだけでゲンナリだ。スポーツ新聞や夕刊フジ、整髪料と育毛剤の匂い、肩から下がる型の崩れた黒い鞄。会社では人事と自分の保身に全神経を集中させ、陰では罵倒しながらも表では上司を媚び、組織を維持することを是とし、小さなムラの中で階級がひとつ上がること人生の目的とする。

毎日そんなものを、嫌でも見せられて、そして自らもその一部をしっかり演じていて、いまさらミステリ小説で、その姿を活写されたところで、もう結構だよという気になる。小説の中での彼らの奮闘振りに共感を覚えるより、私達は何と下らなく、ばかみたいな問題に汲々として、何かを捨てて残り少ない人生を走っているものかと改めて思ってしまう。

もっとも、殺人や猟奇ばかりで救いのない小説などよりは、かなり良質な作品であることは認める。また作者の人間に対する暖かい視線が滲み出ており、単なる警察小説の枠を越えた味わいがあるとも思う。ただ、何と言うか浪花節というか演歌的というか・・・そういう点が、私が好きになれない点なのだろうと思う。

動機」も合わせて買ってしまったので、こちらも読んではみるが。

2003年7月17日木曜日

貫井徳朗:慟哭

本作は93年に発表され世間を驚かせた作品である。作品の内容や質、仕掛けられたトリック、そしてこれが貫井氏のデビュー作であり、かつ彼はまだ24歳程度であったということにミステリファンは驚いた。文庫本の高村氏の帯びが振るっている(上)。たった3行のキャッチに惹かれて私は本書を手に取った。私にとっての貫井作品を読むのははこれが始めて。

物語は、心に大きな傷と空洞をかかえ職も放棄してさ迷う松本という男と、警察内ではエリートコースを走る佐伯警視(キャリアで刑事部の捜査一課長)の二本立てで進んで行く。佐伯は妻の父親が警視庁長官というであるため、さまざまな妬みや中傷を浴びながらも、孤独に峻烈なまでな厳しさで自己と他者を律して行動する男として書かれている。私生活においては、家庭とは全く疎遠になり、妻とは別居状態、娘からは憎まれてさえいて、愛人宅から通うという生活だ。一方の松本は、絶えられない心の傷を癒すため、新興宗教に救いを求めて行く。そして両者の物語は連続幼女誘拐殺人という今時の事件を鍵として収斂して行く。

読みながら、ラストに佐伯の警察人生を変えるほどの「悲劇的」物語が仕組まれているのだろう、おそらくは佐伯の娘が誘拐され、そこに「慟哭」ともいうべきものが生じるのだろうとは想像できた。ラストまでグイグイと読ませる。文庫本解説でも、ネット上の多くのレビュでも、トリックの奇抜さ、殺人に至るまでの心理、まさに慟哭というべき悲しみ、ミステリを越えたテーマ性、そして独特の文体について絶賛している。私も最後のトリックにまでは思い至らなかったため、作者の陥穽にまんまとはまってしまったと言えなくもない。

でもなのである。ミステリの上手さは認めるものの、私はこの小説に心酔も承服もできない。読後の救いのなさと、希望のかけらもない虚無さに私は耐えられない。

一旦、小説の構築に合い入れないとなると、否定的な面ばかりが目に付く。例えば黒魔術だ。作者は小説を書くに当たって新興宗教をボーリングしたふしはあるものの、宗教に対する偏見を感じるし黒魔術が登場した時点でリアリティが飛んでしまった。娘を失うという深い喪失感のため宗教に救いを求めるということまでは是認したとしても、その後に、黒魔術を駆使して娘を蘇らせるなどという行為に走ることをどうして承服できよう。亡くした子供を蘇らせるという物語だと、ホラー小説だがS・キングの「ペット・セマタリー」を思い出すが、こちらもこれも全く救いのない小説で読後感はサイアクだった。

自分の子供を誘拐殺害された父親が、別の目的で連続誘拐殺人を行う、このことも認めがたい。子供をなくした親が、連続誘拐殺人犯ではありえないと言ったのは、はからずも佐伯の恋人であったはずだ。

妻とも不仲になり、愛人からも見放され、職場でも自らの厳しさゆえに孤立し、自分を唯一支えていると考えた娘(それは彼の一方的で勝手な思い入れなのだろうが)さえも、自ら陣頭指揮をしていた事件に巻き込まれ死なせてしまう。しかも、妻から娘が誘拐されたかもしれないというメッセージを無視し、捜査一課長としての体面を取り繕うために初動が遅れたという落ち度を犯すというオマケまで付けてだ。この時点で、彼は最後の砦である職場での立場さえ失い、まさに自分を支えるもの一切を喪失することになる。ここまでの悲劇に見まわれたならば、私ならばとてもではないが耐えられないだろう、もはや正気でいられるとは思えない。

よほど気がふれてしまった方が楽であったろうにと思う。彼の脳は現実から逃避するという方向には向わない。ただ救済されたいがために宗教へと、そして娘を蘇らせる目的での魔術と殺人に走る。悲しみの深さには同情できても、そこから筋に乗ることができない。自分も同じ立場になるとオカルトにでもすがるのであろうか。

もうひとつ、気になるのことがある。そこまで佐伯が娘を愛していたのならば、普段の家庭を無視した行動は何だったのかということだ。仕事に没頭し、夫であることと父親であることを放棄し、疲れた自分を癒すのは家庭でなく不倫相手。そういう彼が、実は子供だけは心から愛していると言うのは、彼にとっては本心なのではあろうが、娘や妻にとっては自己中心的な愛でしかなく不実以外の何物でもないように思えてしまうのだ。彼は事件の後、妻との関係を修復する方向にも、犯人をとことん追い尽くすという方向にもパワーを向けることができず、深い喪失感ゆえ捩れた考えを持つようになってしまう。あくまでも自分中心の考えのように思えてしまうのは、私だけだろうか。

これらの仕組みは、トリックがすべて明かされた読了後に始めて分かる事柄だ。従って、ミステリとして読むならば極めて秀逸であると思う。ただやはり、救いのなさにおいて読後感はサイアクで、私はこういう小説を好きになれない。

2003年7月13日日曜日

東京交響楽団第505回定期演奏会

日時:2003年7月12日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ユベール・スダーン   ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
演奏:東京交響楽団

ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
ベートーベン:交響曲 第7番 イ長調 作品92

ピアノのオピッツ氏といえば、1994年のNHKテレビ「ベートーベンを弾く」という番組で出演されていたので知っている方も多いと思う。彼は「ドイツ・ピアノの正統派」としてその筋では有名である。そういう彼がブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するというので期待してでかけた。

ブラームスのピアノ協奏曲第2番は、1番と違って明るく美しい曲であるが、「ドイツ正統派」がどういうことなのか全く理解していない私は、ガッチリと構成的で硬い演奏を思い浮かべていたのである。しかしオピッツ氏の奏でる音楽は、そんなイメージのものでは全くなかった。

この曲は冒頭で薄靄の中から立ちあがるホルンの響きと、それに導かれて登場するピアノのカデンツァが印象的だが、今日この部分を聴いた時、大げさではなく私はこのまま死んでもいいと思ってしまった。それほどの至福の音色が聴こえてきたのだ。オピッツ氏のピアノは風貌とも風評から抱いたイメージとも全く異なり、そっと撫でるような、あるいは天使がもらす溜息のような(ゲロゲロ!恥かしい表現!)柔らかなタッチで、全く私を別次元の世界へと誘ってしまったのであった。自我や自己を主張しすぎず、バックのオーケストラに柔らかく溶け込むかのような音色は、夢見るごときであった。

決してもって弱々しく女性的という演奏なのではない。締めるところは締め、そして感情の高まるところでは激しくあるのだが、全体的な印象としてはブラームスのアンニュイな感じや、優雅さ、そしてどこか懐かしんだり物思うような雰囲気が非常によく表現されているようで、そういう語りの部分がとにかくCDなどを聴いていては決して感じることができないような雰囲気として伝わってくるのだ。

そうなんだよなと思う。ブラームスは押し付けがましくないのだ。技巧をバリバリとひけらかしたり、力瘤をためて挑みかかるようなことはしないのだ。嗚呼、今までブラームスをベートーベンのように聴いてはいなかったか、と彼のピアノを聴いていて思った。

だからというわけではないが、3楽章はチェロの主旋律が美しいくチェロ協奏曲とでも言いたくなるような部分なのだが、オピッツ氏のピアニズムとは少し異なった表現に聴こてしまったのが惜しい。チェロの音色はふくよかで、それだけを取り出して聴くと全くもって実に素晴らしい演奏なのだが、オピッツ氏のピアノと対話する部分になると、違った話しをしているように聴こえてしまったというのは、私だけの感想だろうか。

満足いかなかったのはそこだけで、全体にピアノを中心とした懐古や対話、そして訥訥とした語りなどを、明るい光の注ぐ部屋で、香り高い紅茶でも飲みながら聞いているような、あるいは寄せては返す波を見ているような、激しすぎずに流れる奔流か、色々なイメージや光を見せてくれる演奏であった。激しい感動ではないが、深い心地よさにブラボー!

さて、お次はベートーベンの第7シンフォニーだ。第一楽章を聴いていて私は思わず笑ってしまった。演奏にではない、こんなに単純にしてくどいフレーズの繰り返しなのに、期待して高ぶってしまう自分がおかしく、そして何とブラームスとは異なるのだろうと改めて思ったのだ。

スダーン氏の指揮に注目すると、彼の指揮は非常に分かりやすいように思えた。キビキビと弾ける様に奏でて欲しい時には、あたかもバスケットボールのショートパスのような振りで指示を投げかける。第2楽章では、主旋律が重々しいテーマを奏でるとき、ビオラなどが裏旋律を奏でるのだが、スダーン氏は主旋律の方は見向きもせず、ビオラにガシと正面から対峙し音を引き出してくる。そういう指揮振りから音楽が多重的かつ立体的に浮き上がってくる。

まあそれ以外にもイロイロあるのだが、ベト7には細かいことはいらない(^^;; 小気味良く歯切れの良い音楽がビュンビュン進んで行くことを楽しめればよいとも思う。スダーン氏の指揮においても、この軽快さは第3楽章からラストまで延々と続く。あたかもはずみ車が、慣性によって一度廻り始めたらもはや止まらないとでもいうかのようだ。非常に健康的な感情の発露を全身で表現しているかのようで、例えばかりで恐縮だが(悪文の典型ってやつだな)陸上の400m走のように、ひと時も力を抜かずに走り抜けたかのような感じを受けた。

実際、弦セクションは猛働きであったようで、演奏が終了し拍手喝采を浴びているときに、コンマスの大谷さんは汗を拭うような仕草をしていたし、大谷さんの隣の奏者は「手がしびれちゃいましたよ」みたいな仕草で大谷さんに笑いかけていた。

東京交響楽団を聴くのは今日が二度目なのだが、ヴァイオリンセクションの上手さには改めて感嘆した。少しハイキーで透明な感じの音色を特色とし、特に弱音での美しさが際立つ。ブラームスで聴かれた、ピアノをバックに静かに裏で支えている部分など、涙ものの美しさだった。ヴァイオリンだけではないが、フレーズの出だしのアンサンブルの合い方は、若々しさと小気味良ささえ感じる、実に丁寧だ。そして演奏からは音楽以上の、いや音楽というものの喜びそのものが伝わってくるような気がするのだ。それがコンマスの大谷さんのキャラクターによるものなのか、このオーケストラを育てた秋山和慶氏の影響なのか、それは分からない。

今日は定期演奏会ではあったが、明日は新潟公演になる。それだからだろうか、アンコールにはシューベルトの「ロザムンデ」から第3楽章が演奏された。アンコールについて語るのはもはや野暮というものであろう。

2003年7月12日土曜日

高村薫:わが手に拳銃を

これは「李歐」のもととなった小説である。「李歐」を先に読んだのだが、本作も興味深く読むことができた。登場する人物などはほとんど「李歐」と同じなのだが、やはり作品としては全く別物であった。登場人物の設定や末路が若干異なっているし、主人公の一彰やリ・オウに与えられた性格も微妙に異なっていることに気づく。こちらでの二人は、もっと直接的で外発的なように見える。

「李歐」のなかで一彰は、ひたすら李歐を焦がれて待ちつづける男として書かれていたが、ここでは、暴力団の原口にも惹かれながら、それでも心の底でリ・オウを渇望し、かつ、自分の中での狂気と戦っているかのような姿として書かれている。一方、そのリ・オウも天性の明るさと才能は十分に発揮しているが、妖しいまでの魅力にまでは昇華しておらず、どことなく汗臭くオレ様王国を夢見る若者という殻をひきずっているようにも思えた。

こんなことをいちいち比較していても、しかし意味のないことだ。作品はモロに高村ワールドであるし、文句なく面白い。

五十発の銃声がいつまでも耳から離れず、目を閉じると網膜に血の色の花が散る。それがまた、身の毛のよだつ美しさだった。
この美しさに札束の夢と蒼白の月。
このリ・オウの晴朗な狂気。男ひとり狂うのに、これ以上何が要るか、と一彰は思った。

という描写は本書のラストだが、こんなにも痛快な終わり方があるだろうか。さすればこれは、男と男が惚れ合い、惹かれ合った深い恩義と友情の話でもあるし、男と男の心からの約束の話しでもあるし、そして、男が組織や家族や国家などのしがらみを脱ぎ捨て「自由人」として翔び出す話でもある。

それ故にといおうか、あまり捩れたところや屈折したところはなく、感情も行動もストレートなため分かりやすい。「李歐」では何もかもがはっきりしなかった背景が、こちらでは詳細に解説されているので、「李歐」を先に読んだ私は、謎解きをされているような気分になったものだ。

どちらが作品としてお奨めできるかというモノでもなさそうだ。それぞれが別で、読後に感じる感慨も全く別のものだからだ。ただ、「李歐」の方が深く感動してしまったことは確かだ。作品としては実は「わが手に拳銃を」のタッチの方が私は好きなのだが。

「わが手に~」を上梓していながら高村氏が改めて「李歐」を書こうとした意図を考えると興味はつきない。やはり、彼女は李歐という存在そのものを書き尽くしたかったのだろうと思う。「李歐」が高村氏の小説にして始めて、女性による小説という雰囲気を醸し出しているわけも納得できるというものだ。

2003年7月10日木曜日

長崎の幼児投げ捨て事件などに思う

またしても信じ難いと世間を言わせるような事件が起きた。幼児を全裸にし悪戯をしようとし、騒いだのでとっさに駐車場から20m下に突き落としてしまった犯人が、12歳の中学1年生であったという事実。

この事件を聞いて、かつての神戸市での事件を思い出す人も多いだろう。少年法の改正を主張する人も出てくるかもしれない。しかし、そうではない、おかしくて、間違っているのは、自分たち大人の世界なのではないかと自問することはないのか。

少し前に起きた、早稲田大学でのレイプ事件もしかりだ。一部の大学生が学生であることを放棄して久しい。それをもはや誰も奇異なこととは感じない、そうして学生であることを放棄した者も、この不況下ではあるものの、ある時期になれば社会に旅立つ。

ことは12歳の少年や大学生の話ではない、欲望を制御できないままの子供のような大人たち、その大人たちを見て育つ子供たち。親が厳しく教育すればよいと言うものでもない。社会からの情報を遮断して、隠匿生活でもしていれば別だろうが、いやおうなく、様々な刺激情報が流れてくる。刺激を再生産し消費するように仕向けているのは、はからずも大人たちだ。

早稲田の事件や長崎の事件について糾弾したり背景を書く週刊誌が、その自らの頁で、ほとんどポルノまがいの記事も載せているという矛盾と破廉恥さ無節操さ。

自分で自分の脚を食う蛸のように、自らの方向性を食いつづけているツケが、ある時期に噴出してくる・・・そんなやりきれなさを味わう。12歳の少年にしても、学生たちにしても、どこで何が狂ってしまったのか、考え始めると事件の根は深いと思わざるを得ない。



2003年7月5日土曜日

ホロヴィッツの展覧会の絵など

Mussorgsky:Pictueres at an Exhibition
Scriabin:Etude Op.2 No.1、Prelude Op.11 No.5、Plelude Op.22 No.1
Horowitz:Danse excenrique
Scriabin:Sonata No.9 Op.68
Tchaikovsky:Dumka, Op.59
Bizet-Horowitz:Variations on a Theme from "Carmen"
Prokofiev:Sonata No.7 Op.83:Ⅲ.Precipitato
Rachmaninoff:Humoresque, Op.10, No.5, Barcarolle, Op.10,No.3
Debussy:Serenade to the Doll
Sousa-Horowitz:The Stars and Stripes Forever

BMG CLASSICS 09026-60526-2(輸入版)
以前、アファナシエフの「展覧会の絵」のことを書いた。アファナシエフの演奏が「狂気」だとしたら、この演奏は何と言ったらいいのだろう。ホロヴィッツ版によるこの演奏は、よく「悪魔に魂を売り渡した」演奏とか評される。「狂気」だの「悪魔」だのの言葉を連発するほどに、演奏が薄っぺらく消費されてしまうような危惧を覚えるのだが、聴いてみれば果して演奏の凄まじさに無防備にもあてられてしまう。

ホロヴィッツの「展覧会の絵」は1951年のカーネギーライブが名盤として名高いが、これは1947年のスタジオ録音。ラヴェル編曲によるオーケストラ版をホロヴィッツが更にピアノ用に編曲した版である(これだけでもヘンタイ的であることが伺える)。

音質はレコードのヒスノイズが入っていて決して良好ではないが、浮かび上がる音楽に慄然とし背筋に悪寒を覚えるほど。特にBydloやCatacombsの激しさと重さときたら気が違ってしまっているのではなかろうかと思うほどだ。Baba Yaga から The Great Gate at Kiev を経てラストに至るところは圧巻の一語。緩急自在にして色彩豊か、そしてそこかしこの凄みには感服し、ピアノという楽器を極限まで使いきる技芸に脱帽。特に叩きつけるような低音表現は重い楔が暴力的に撃ちこまれるかのようだ。ホロヴィッツの悪意さえ感じるヴィルトオーゾ性は遺憾なく発揮されていると言えよう。

他の曲は気にせずに買ったのだが、開いてみればホロヴィッツお得意のスクリャービンやプロコフィエフのほか、彼が好んで編曲したアンコールピースが納められているではないか。プロコフィエフのソナタ第7番とスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」は1953年2月25日のカーネギーホールでのコンサートライブのもの。久々にホロヴィッツのスクリャービンを聴いたが、こういう演奏が残っていることを神と悪魔に感謝。

「カルメン」変奏曲や、有名な「星条旗よ永遠なれ」(1950.12.29)などもアンコールの戯れなどと言えるような曲ではなく、もとが軽く明るい通俗名曲であるくせに、編曲された演奏は別物だ。扇情的にして言葉を失うほどの技巧が披露されるのだが、それでいて本人は極めて冷静で、ピアノの裏からニヤリと笑うような嘲笑と暗い炎のような情念さえ感じてしまう(=だから「悪魔」なんだって)。聴き終わった後に、体温は確実に一度くらい上昇したような気がし、全身にはうっすらと汗さえ浮かんででしまった。

ホロヴィッツの超絶技巧というものも、ファンにとっては語り始めればきりがないのだろうが、さてそれでは、私はこういう演奏が好きなのだろうかとふと考える。彼の技巧のひけらかしを嫌う聴衆も多いとは思う。私はこの盤を何度も聴き直して思った、ホロヴィッツの技巧も凄いとは思うものの、それを通して聴こえてくる暗さやグロテスクさ、そしてアイロニー、更には天才故の孤高の孤独のようなものが滲み出しているかのようで、実は惹かれてしまうのだ(それが嫌いだという人も多いと思う)。ただし、あまりにも演奏はホロヴィッツ色に染まりすぎており、曲本来の構造や構成を考えると、彼の演奏が曲にとって最高のものであるということは別問題として置いておかなくてはならないだろう。

いずれにしても、こういうCDはキケンである、しばらく封印しなくてはならない。

広上淳一&東京都交響楽団

マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典

日時:2003年7月4日 17:00~
場所:東京オペラシティコンサートホール
指揮:広上淳一   ヴァイオリン:庄司紗矢香
演奏:東京都交響楽団

マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典
本日の演奏は本来、指揮者は大野和士氏であったのだが、頚椎捻挫のため広上氏が代役で振ったプログラムだった。大野氏の指揮を期待していた人は残念な思いをされた方も多かったのではなかったろうか。私はひとえに庄司さんのヴァイオリンを聴きたかっただけであったので、指揮者が変わったことに期待も不安もなかったと書いては失礼になるだろうか。

さて、その庄司さんの演奏するのが、日本初演になるというマックス・レーガ-のヴァイオリン協奏曲である。演奏時間が60分という大作だ。CDなどで予習もしていないので、ここで聴くのが始めての曲であった。

一度聴いただけでは、どこに感動を持って行けば良いのか分かりにくい曲であったというのが正直な感想なのだが、思い出すままに書いてみよう。

第一楽章だけで30分もあるのだが、聴いていて旋律線が良く分からない、盛りあがっているのか盛り下がっているのか、うれしいのか、哀しいのか、まるで混沌として夢見るようなフレーズが延々と続く。でも決して不快な音ではない。ゆるやかな波動やうねりのようなものを感じ、深層を漂うがごとき心境になる。はじまりも終わりもなく、精神の表層と奥を行き来するかのような趣さえする中に、ときどき突如とした閃きやパッションが迸る。自分自身、眠いのか覚醒しているのか分からないなかで、庄司さんのヴァオリンの音色だけが綿々と連なっている。

レーガ-はヴィルトオーゾ風の協奏曲を嫌ったらしく、確かに聴いていてヴァイオリン協奏曲というよりはヴァイオリンを伴った交響曲風なつくりではあるのだが、庄司さんの音色はひとときもオーケストラに埋没することなく、何かを唄い続けている。音色は多彩で複雑でそして確かにブラームスを思わせるようにロマン的だ。目をつぶって聴いていると、ほんとうにヴァイオリンを一人の奏者が弾いているのだろうか、という気にさせられる。決してバリバリ弾きまくっているのではないのに、オケをバックにしたこの存在感は何だろうと思わされる。それが曲の構成なのか、あるいは庄司さんの力量なのか。

解説はマックス・レーガ-研究所のスーザンネ・ポップ氏の寄稿によるものだが、「精巧に造られたからみあう蔦のような音形総体」との表現は、聴き終わってみてなるほどと妙な説得力をもちえているように思われた。60分が長いのか短いのか、それさえ分からない。1942年のアメリカの初演では「節度のない量のビールとソーセージ」と酷評されたらしい。

たった一度聴いただけでは、全貌を掴むことはできなかったものの、演奏が終わった後も庄司さんのヴァイオリンが頭の中で鳴りつづけていた。

余談だが、休憩時間中にホワイエで初老の女性が「1楽章のカデンツァは本当に素晴らしかったわね!」と興奮して話しているのが耳に入ってきた。私はそうだったかしらと思い返し、聴衆として未熟なのかと思ってしまった。そういう言い方をするならば、素晴らしかったのはカデンツァだけではなかったのだし。

そんな余韻に浸っていた中で始まったのが春の祭典だ。改めて都響の音色に耳を傾けるなら、響きの重心がかなり低めであることに気づかされる。深みとコクのある音色は独逸ものに強そうな印象を受けた。

さて広上氏の指揮するハルサイであるが、これはレーガ-の雰囲気をまったくかき消すような響きであり、その対比に最初は少なからず違和感と抵抗を覚えたことも否定できない。何と言ってもハルサイである、さもありなんと思い、はてさてこの20世紀の前衛ともいうべき古典を、どう料理してくれるかと期待したのだが、地を蠢き噴き上げる凶暴さを感じはしたものの、予定調和の出来レースのようも聴こえはじめ、妙にまとまった音楽に感じてしまった。そう思って広上氏の指揮を見ていると、前後左右上下に大きく動くその指揮振りも、ダンスを指導する振付師のように見えてきて、鼻白むところもなきにしもあらず。

そうは言っても都響の響きや音量は驚くほど大きく、迫力などの点では全く申し分ないことは認めざるを得ない。オペラシティホールも非常に音響的に優れたホールで、こういう環境で都響が奏でる独逸ものを聴けば、さぞかし壮大なる満足を得るのだろうなと思いながらも、今聴いているのはストラヴィンスキーで、ああ、そうだそうだ、こんな余計なことを考えていたら、あっという間に終わってしまうぞと自分に言い聞かせるのであった。

都響は聴けば聴くほど上手いオケだし、音量がクライマックスのときに、ほんの少し荒れた印象を受けることもあったが、それは曲調のなせるわざなのか。粗さを重心の低さでカバーしているようにも聴こえ、分厚い響きはさすが在京オケだと思うのだが、最後まで何かひとつ充たされずに終わってしまった。

それにつけても思い出すのは、いつ終わるとも知れなかった庄司さんのヴァイオリンなのである。夢の中の深層に(実際眠りそうにもなったし)、サブリミナル効果のように刷り込まれてしまったようだ。聴けるならもう一度聴いてみたいと思いながら。(明日サントリーでまた演奏するらしいが・・・)

2003年7月1日火曜日

高村薫:李歐



先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではないのでご注意願いたく。


高村薫氏の小説を読むことにそろそろ飽きてきたか?と自問するならば、まだまだ、とことん毒を食らわば皿までもという心境になってきた。




この作品は1992年の「わが手に拳銃を」を下書きに新たに描き直したものとのこと。「わが手に~」は(このレビュを書く段階では)まだ読んでいないが、高村氏はここにきて遂に"恋愛小説"に手を染めてしまったかと苦笑いを禁じ得ない。この物語は結局は李歐という男に惚れた男の話でしかないし、機械や拳銃に対する偏愛的な描写も不必要なほど克明だ。彼女が書きたいものを制約を取り払って書き尽くしたという潔ささえ感じる。


"恋愛"とは言っても、彼女が繰り返して書いてきたテーマは"男と男の深いつながり"のことだ。それは"友情"という青さを残したものではないし、男女とのつながりとも決定的に違う、抗うことの出来ない熱情を感じるつながりだ。今までの作品で、それが描かれてはいても、男同士の関係性を包み込むドラマやストーリーが壮大で、そちらの方に主眼が置かれてきた。本書では高村的国際裏舞台は完全に背景にまで後退し、変わりに臆面もなく、そして全面的に"恋愛"が登場したというわけだ。


主人公は吉田一彰。自分が何物かわからず、地につながれた風船のように希望もなく漂っていたのだが、全てにおいて圧倒的で妖しいほどの魅力をもった殺し屋の李歐に出会い、惚れてしまう。桜の季節をうまく組み合わせたところは、作品に儚くも脆い夢のような雰囲気を与えるのに成功している。李歐のもつ妖しげで危険な匂いとともに、まるで妖術に陥るかのように読むものも李歐に惹かれてしまう。


後半になって李歐が単なる殺し屋ではなく、表の金融世界で成功者となってゆく点には違和感を覚えないでもない。李歐の持つ圧倒的パワーは認めるものの、彼のキャラクターと表での成功というのがなかなか結びつかない。また、数奇な運命を辿り、成功者となった李歐が、十数年も前のひと時に出会った一彰という"行きずりの"男を焦がれる理由も判然としない。"一目惚れ"による"両想い"の"恋"なのだから、理由などいらないと言えばそれまでなのだが。一彰にしても、登場早々に勤務先の麻薬中毒の上司をスパナで殴り倒し警察に突き出すという凶暴性や自己破壊願望が、李歐と出会ってからはひたすら真面目で大人しくなってしまう様も納得しがたいところだ。


しかし、まあ良い、全ては"恋愛小説"だと思えば、常軌を逸した関係も設定のおかしさも許容できるというものだ。一彰が最後に自分を解放したように、高村氏も自分自身をこの作品で解放したような気がする。男と男の関係が理想的過に過ぎること、男同士の体臭が少し薄れていること、読んでいて気恥ずかしくなる描写なども、高村氏がただただ、李歐を書きたかったというふうに考えれば承服できるものだ。


だから「リヴィエラを撃て」や「神の火」のような重い読後感はない、人間をえぐるような深さも薄いという感想も成り立とう。それでも文庫本403頁で李歐の幽霊が現れたところからラストまで、ほとんど出来レースのようなストーリー展開だと分かってはいても、高村氏には嵌められてしまう。一気に読ませ、単純な私は深く感動してしまう。


それにしても高村氏の描く男性は、なぜに冷徹で残酷な殺し屋が、かくも美しく知的であるのか。彼女が描いたモモや良、モーガンなど、皆テロリストとしての哀しい末路を辿ったが、ここで高村氏は李歐を殺すことをためらった、李歐と一彰には連れ子まで用意して第二の人生を与えた。今まで散々スパイやテロリストを小説の上で葬ってきたことを贖うかのような、あっぱれな結末だ。やはり高村氏は李歐に"惚れた"か。それ故に生ぬるさも残るのではあるが、こういう救いのある小説も破壊と破滅と神の啓示しか残らないような暗い小説と比べて悪くはないと思いなおしたりする。


一彰が真面目に働き誠実に振舞えば振舞うほど、自分自身の本心を隠蔽し、そしてその行為自体が不実を働いているという矛盾した姿は印象的だ。これは多くの高村氏の主人公が有する捩れた二重性だ。不実であることはいつかは破綻を来すものなのか、あるいは自己破壊に向かうのか。最後まで騙しおおせないのは他者ではなく自分の内実であるということを今回も高村氏は教えてはいる。それが犯罪行為としての破壊衝動へと突き進むほどには一彰は若くも無謀でもないのだが、逆に不確かな男(李歐)との約束を信じ、妻子を捨てたという点においては、自己破壊を突き進む者よりも更にたちの悪い不実を働いたことになったような気がしないでもない。ある意味において、一彰の視点は高村氏の視点そのものであるのかもしれないと思うのであった。