2003年8月25日月曜日

【風見鶏】柳井一隆 写真展 ~ Metal road

アサヒカメラでも紹介されていた柳井一隆氏の写真展(KODAK PHOTO SALON Gallery1)を観てきた。この写真展は高速道路の夜景を撮ったもの。



ポストカードの写真を見ても分かるように、普段見慣れていて、むしろ酷い景観の代名詞とも言える高速道路が、妖しく光彩を放ちながらも圧倒的な重量感を有して細部まで曝け出している。

夜の高速道路(深夜ではなく、まだ人が生活を営んでいる時間帯)を、長時間露光によって浮かび上がらせているが、出来あがっている写真は驚くほど美しい。これが、渋滞と排気ガスで充満している高速道路であるとは到底思えず、擬似都市の写真を見ているような気にさせられる。

細部までにピントの合った写真は、見ていて快感を呼び起こす。高速道路や橋脚、光る螺旋階段などが、かくも美しいものであったかと認識を新たにする。

しかしながら現実世界においては、このような色彩は決して現出するわけもなく、柳井氏の美意識によって構築された "Metal road" と現実のギャップに、心がざわめくような異質な軋みを感じる。美の感覚は、ものごとをちょっとした角度から眺めることで再発見できるものであるし、また柳井氏が "高速道路" という素材に拘った理由も、ある意味で同時代的であると感じ、共感を覚える。

HIYORIみどり 「柳井氏によると、この写真はネガフィルムなんですって。焼き上がりをイメージできるのなら、ポジよりもネガの方が格段に扱いやすいんですって」
KAZAみどり 「写真技術のことはよく分からないけど、思ったとおり若手の写真家だったわね」

2003年8月23日土曜日

スヴェトラーノフのシェヘラザードと法悦の詩

Nikolai Rimsky-Korsakov
 Mlada:Procession of the Nobles
 Scheherazade, Op.35
 London Symphony Orchestra
Alexander Scriabin
 Le Poeme de l'extase, Op.54
 USSR State Symphony Orchestra

Evgeny Svetlanov
Recording:
Royal Festival Hall,London, 21 February 1978
Royal Albert Hall,London, 22 August 1968


今年の夏は記録的な冷夏だとかで、夏休みも気温が上がらずに全く冴えなかった。北海道から来た身には涼しいに越したことはないのだが、都会のうだるような酷暑を心の底で期待していた私には、肩透かしな思いであったことも否定はできない。気温が上がって欲しいときに思ったような結果が得られないと、気分まで萎えてしまい、日の当たらないモヤシのような気分になっていた。

しかし、今週半ばから、思い出したかのように暑さがもどってきた。休日の今日などは軽く30度を越える暑さで息をするのも苦しいほどであった。こうなると気分は単純に盛りあがり、「ガーッ!!」とした音楽を能天気に聴いてみたくなるものである。

そういう訳で登場するのが、スヴェトラーノフの「シェヘラザード」と「法悦の詩」である。スヴェトラーノフの演奏であるから、ここは細かいことを考えないで音響の洪水に浸りたい。

「シェヘラザード」の爆演としてはゲルギエフ版が記憶に新しいが、こちらも負けずとエネルギー全開の演奏になっている。弦はうなる、シンバルははじける、打楽器は轟然とロールする、ハープは手から血が出るのではと思うような音を奏でる。それでいて音楽には破綻を来さない。もっとも少し力任せのように聴こえる部分もある。例えば、第三楽章の"The Young Prince and the Young Princess"でバイオリンが甘いメロディを奏でる部分などは、もう少し絡みつくような熱情やロマンが欲しいと感じる部分がなきにしもあらずではある。にしても演奏はLSOであり決して性能は悪くない。特に第四楽章のスネアドラムの硬質な刻みと弦の凄まじいばかりの強奏、麻薬でもやっているのではと思うようなクラリネットの節回し、血管がブチ切れそうなトランペットのタンギングなど軽い眩暈さえ覚える。クライマックスの大音量はもはや底を抜けている。冷静に聴けば結構粗いところも気付くのだろうが、全てはラストの静けさに入る前の一撃で吹っ飛んでしまう。

「法悦の詩」もゲルギエフ版があるが、私はこの曲になかなか馴染めないでいる。男女の営みを音楽的に表現したものだと言われるが、経験が浅いせいか(^^;;どうもその気になれない。スヴェトラーノフ版を聴いてみたが、もしこれが「男女の営み」だとするならばあんまりであるとは思った。音楽は相変わらずストレートに押し寄せる音の洪水を聴かせてくれているし、スヴェトラーノフファンならば垂涎の演奏とはなっていると思う。それに、クライマックスのモノ凄さときたら、もはやバーバリアンなエクスタシーに満ち溢れ、更には超新星爆発を起こし宇宙と一体になったかのような感覚さえ覚える。要するにブッ飛び演奏ということだ。たぶんこれが「行為」だとしたら全てのエネルギーを発散し尽くして死んでるな。そうは思ってみても「法悦~」に、乗りきれない自分を感じる。演奏そのものよりも、演奏終了後の聴衆の気が狂ったような絶叫と拍手に驚いてしまう。紳士然としたロンドンの人の秘めたる情熱か?

それでも、狂おしいほどの暑き夏の夜には、これ以上ない濃い音楽ではあった、嗚呼汗だくだよ。

【風見鶏】表参道の界隈

久々に表参道をウロウロしてみた。33度は越えるのではないかという中、JR原宿駅を降りると、何やら聴きなれた民謡調ロック音楽が流れている。まさか!と思ったら「スーパーよさこい2003」というイベントであった。ほへ~と関心、ついに、よさこいも竹の子の聖地に戻ってきたか(藁)

そのまま表参道を青山一丁目方面へ歩く、青山には超高級ブティックが目白押しだ。超某人気ブランド店の前で親子連れが記念写真を撮ろうとして、警備員に咎められていた。写真くらいいいぢゃないの・・・。

高級ブランドは大胆な建築意匠を用いてイメージを高めようと躍起だ。ブランドには全く興味がないのだが、建物を見ているだけでも興味はつきない。

しばらく歩くと同潤会アパートのあったところは、工事現場に様代りしていた。延々400m近くもあったはずの同建物がなくなった景色は異様だ。安藤忠雄氏設計の建物ができるのは2006年1月とか。

更に進んで246の手前には、今の日本の建築会では無敵である隈研吾氏設計による商業ビルが完成を間近に控え聳え立っていた。

さて実は今日の目的は、246を越え根津美術館の近くに出来たプラダ ブティック青山店をこの眼で見ることである。この建物は、今をときめく建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計で、日本の建築家たちに大きな衝撃を与えた建物だ。(ゴメンなさい、写真は「日経アーキテクチュア750号」のものです)

写真を見てお分かりのように、常識的な形態を全く逸脱したガラスのボックスだ。わたしもこんな建物を見るのははじめてだ。

意を決して(藁)中にも入ってみたが、近未来映画のセットにタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。ちなみにふと手にとったサマーセーターの値段も、一瞬頭が白くなるようなものでもあったが(獏)

こうして1.5km程度の距離を歩いてみると、日本の商業ビジネスシーンの実験場のような体裁を現していることに気付かされるのであった。



HIYORIみどり 「とにかく、建物もいいけど暑かったわね。歩くだけで水を1リットルも摂取したわよ。日差しはお肌に悪いし、こりごりだわ」

KAZAみどり 「オープンカフェで飲んだ、アイスモカショコラが美味しかったわ。スタバの2倍以上の値段だったけどね」

2003年8月19日火曜日

某室内楽ホールの音響改善後の演奏会

東京都内の某室内楽専用ホールで音響改善工事が行われたとかで、改善後のお披露目兼音響測定会の機会を得たので行ってきた。

音響設計者にも会ったので今回の改修の経緯を伺ってみた。ホールは出来てから10年近く経っているのだが、ホールが出来て直ぐにピアノ演奏用に向くようにデッドなホールに改装してしまったたらしい。そのため弦関係の演奏家からは苦情が多かったとのこと。このたびホールの所有者が室内楽専用ホールに改めたいとの意向を示し音響改善を行った(というか改装前の原設計に戻した)とのこと。目指したのは、ホールの音響性能の指標のひとつである残響時間で示すならば、約1.2秒程度にすること。測定の結果、空席時および客が入った状態でほぼ想定の残響時間が得られたらしい(ホールの性能は残響時間だけで測られるものではないのだが)。

さて、そういうホールでの演奏は、アマチュアの弦楽四重奏によるモーツアルトのティベルティメントと、N響コンサートマスターの篠崎史紀氏によるヴァイオリン演奏会であった。弦四はアマチュアながら、ハイレベルな演奏。篠崎さんのソロに至っては言うことは何もない。アンコール三曲を含め、ヴァイオリンを堪能させていただいた。

音を聴いた感想としては、個人的には木質系の柔和な響きを特色とするホールになっているように思えた。一方で伴奏のピアノの音がモコモコと聴こえ、もう少し響いても良いのではないかと思ったものである。今回の改修は残響時間を長くする方向のものであったと後で聞き、何と私の耳は主観的で当てにならないかと思った次第。ホールの良し悪しなど聴き分ける高度な耳など持ち合わせていないようだ。

2003年8月16日土曜日

夏目漱石:こころ

何故に今さら漱石なのかと思うだろうが、盆休みに読むものがなかったので、書棚にあった本書を戯れに読み始めたら、思いのほか面白かったのということなのだ。文庫の発効日が昭和5×年とあるので、中学三年生の頃に読んだようだ。

当時は漱石を結構読んでいたようで、「虞美人草」「坑夫」「明暗」など、あまり読みやすいとは言えないような作品も本棚で埃をかぶっている。"読んでいたよう"などと他人事のような書き方をするのは、今回改めて「それから」を読んで気付いたのだが、小説の細部をほとんど覚えておらず、始めて読むがごとき新鮮さを味わうことができたからである。というよりも、中学三年生で「それから」を読んでいたとしても、読めたことになっていたのかとも思う。

ご存知のように「それから」は恋愛小説であり、前作の「三四郎」と続作の「門」で三部作となっている漱石の代表作のひとつだ。主人公の代助は30歳でありながら、働きもせず親からの支援でのらりくらりと生きている。その彼が、親友の妻である三千代と道をはずれた恋の道に落ちるというストーリーだ。

漱石は、代助という「食うために働くのは堕落だ」と思うような主人公を設定し、自分の信念も、家族も、親友も、全てを裏切って愛の道を取るというテーマを書ききった。今でもかつても不倫であることに変わりはないが、その重さも意味もまるで異なる時代においてのそれは非常にスリリングだ。後半に代助が三千代に愛を告白する場面、嫂に自分の思いを語る場面など、まさに手に汗握る展開である。

しかし、少し本を置いて考えてみると、これを単に代助と八千代の不倫の物語と捉えるのだけでは済まない問題が含まれているようにも思える。職を持たずに親の援助だけで生活しているモラトリアム人生の代助と、彼の親友であり、いち早く実社会で成功と挫折を経験している平岡との葛藤や対立、そして代助自らは意識しないところでの平岡に対するコンプレックスなどと絡め、何故代助が現在の安住した生活を捨て、八千代との茨の道を選んだのか考えなくてはならないようだ。

代助は父親の進める政略結婚によって父や兄の住む実業の世界に絡み取られることこそに反発を覚えた。食うために働くことは堕落であると自覚しながらも、結果としてそれを放棄しなくてはならない八千代との愛の路を選んだことは、彼の矛盾した心象を表している。いやむしろ、他人に絡み取られることを拒むが故にこそ、自らの墓穴を掘り、新たな世界に飛び出すために八千代との愛を選択したというように読めないこともない。

自立するために職を選ぶにしても、今の自分の世界を捨てる理由が欲しかったということなのだろうか。社会的道徳理念とは反するが、自らの心情に従った純粋な愛の形を漱石が書きたかったのかどうか、詳しい漱石論を読んでいないので真意はわからないが、代助の屈折した感情が印象的ではあった。このような、一見積極的な愛の形に見えるものが、一方で消去法的な逃避的な愛の形にも見えるてしまうのだが、気まぐれな彼の情熱が覚めた先の世界については、本書では語られていない。

それにしても漱石はなかなか面白い。休日にぶらりと、この小説の舞台となった今の神楽坂でも見てこようかという気にさせられた。

2003年8月10日日曜日

桐野夏生:顔に降りかかる雨

本作は93年、第39回江戸川乱歩賞を受賞した作品である。桐野氏といえば、もはや押しも押されぬミステリー作家としての地位を築いているとは思うが、これは彼女の初期の作品に当たるのだろう。

ミステリー界には三F現象とか四F現象という言葉があるらしい。すなわち作者、主人公、読者の三者がいずれも女性なのが三F、これに翻訳者が加わると四Fなのだとか。


言われてみると、この小説は女性が書いたという雰囲気や匂いに満ち溢れている。登場人物を紹介するときの描写の仕方、服装や香水・アクセサリーなどの小物についての記述など、ブランド名が明確に用いられており、記号として知る人ならばイメージが膨らむように書かれている。あるいは、主人公の村野ミロと一緒に失踪した女性を追う村瀬の描写の仕方、そしてラブシーンへと至る描写・・・あざといほどの「女性の視点」という描写が、逆に私には鼻についてしまう。主人公の村野ミロが、最初は嫌悪しながらも成瀬に惹かれてゆく過程も、やっぱりなあ・・・という思い。

こういう気分は何なのだろうかと、読みながらずっと考える。男社会の描写や視点に慣れすぎている事から来る違和感か、我々男性がしがらみに縛られて逆立ちしてもできないような垣根を、女性たちが軽々と越えてしまうことへの羨望か、あるいは営々と築きあげられてきた男性社会に対して、そういう生きざまをみっともないと思わせられることへの悪あがきか。

もっとも桐野氏はそんなことを意図して書いているのではないようではある。女性にも気持の良い、フットワークの軽い、そして面白いミステリーを書いているだけなのだろう。従ってミステリーとしての面白さは十分、そこにアングラ的なSM風俗や、東独逸のありようとの対比、女性の野心と願望などが織り交ぜて書きこまれており、読物としても悪くはない。

しかし読後感としては、ミステリーとしての味わいよりも彼女の文体そのものの印象が強すぎるため、ゲンナリしてしまう。女性のビビッドなパワーに当てられたというところだろうか。彼女がロマンス小説やレディースコミックの原作者としても活躍している、との解説を読み、成る程と納得した次第。世の中の、女性と男性の妄想の違いに思い至る小説でもあった。

こうしてレビュを書いて気付いたが、私はミステリー読んでも、ミステリーのトリックや質そのものには全然関心も感心もないのだな・・・

2003年8月4日月曜日

貫井徳朗:迷宮遡行

貫井氏は「慟哭」が絶賛を博したため、第二作目を書くことにかなりのプレッシャーを感じたらしい。彼は悩んだ末に「烙印」(1994)を書き上げるが、作品として成功したものとは言えず、そこで今回「迷宮遡行」という作品に全面改稿しとのこと。

貫井氏は今となっては、書店の人気ミステリーコーナーを賑わしている作家であることは認めるのだが、この作品を読んでも、私にはピンと来なかった。

貫井氏は、本作においては、会社をリストラされ、恋女房にも逃げられた冴えない男性を主人公とし、女房を探すうちに、まわりには暴力団の陰がちらつき始め、そして意外な結末へと向うのだが、それを意図的に軽妙な語り口で書いている。

(主人公がヤクザに脅されながら吐く言葉)

「そんなつもりはありません。で、でも教えてくれるなら、ちょっと嬉しいかなぁ―――って嘘です。冗談です。」(P.152)

こういう文体や作風については好みが分かれると思う。喜劇として読むならば良い。それだけに、「慟哭」でもそうであったが、どうしてもラストが承服できない。

いったい貫井氏は何を書きたいのだろう。意外さや奇抜さで読者をあっと言わせたいがために、ハードボイルドやミステリを選択しているのだろうか。手品やコントを見るような楽しみはあっても、私はその先に進めない。

それに、貫井氏は若いのに(というのも変だが)、どうして「全てを失った男」が好きなのだろう。喪失と再生というテーマならば良い。貫井氏の場合は、喪失から喪失へなのだ。それは悲劇であろうが喜劇であろうが、私には救いが見出せない。

2003年8月1日金曜日

横山秀夫:動機

陰の季節」で否定的なレビュを書いた気持のまま、ほとんど期待もせずに本書を読み始めたのだが、その感想を全面撤回させていただかなくてはならない。横山氏の小説は、非常に面白いし着想にしても、確かに言われてみれば今までになかった視点だと、やっと分かった。

今回の4つの小説は、警察もの(「動機」)だけではなはない。前科物の出所後の運命的な物語(「逆転の夏」)や、地方新聞の女性記者(「ネタ元」)、そして地方の裁判官が主人公(「密室の人」)だ。これらの物語に共通しているのは、生じる事件がごく身近なものであり、時にそれは「陰の季節」でもそうだったように、内部組織の不祥事に近いものだったりする。それのどれもこれもが、人間の一寸した「魔」をついて生じた事件に端を発している点が、題材に対し感情移入しやすくなっている。また、彼の書く人物は、殺人前科者であっても裁判官であっても、結局は「ただの人」として描かれ、それが極めて印象的なのである。

例えば「密室の人」の「魔」とは、裁判の審理の間についつい居眠りをしてしまうということから、話しは予想もしない方向へ展開してゆくし、「逆転の夏」においては、事件の発端が女子高生の中絶手術代稼ぎの売春に、これもひょんなことからひっかかってしまった男が、金銭トラブルから女子高生を成り行きで殺してしまったという事件が鍵となって物語は進行する。

「ネタ元」にしても、地方新聞の女性記者を中央新聞が「引き抜き」をかけるということを題材して扱っている。引き抜きという人間の虚栄心や出世欲などを微妙にくすぐる誘いに対し、男社会で果敢に奮闘している主人公の心が揺れる様の描写は見事だ。

横山氏の書く小説は、人間に対する活写が(少しステロタイプに感じることもあるのだが)非常に生き生きとしており見事だ。ごくふつうの人生を真面目に送ってきた人たちの姿、あるいは、暗い過去や哀しい過去を背負った人間の苦悩や悔しさというものが、実にギリギリとするほどの迫力で描き出されている。そして、やはり彼の小説からは、そういう人間たちに対する暖かい視線があるのだ。

こういう営みや描写が。「陰の季節」では、わざとらしく、そして少し古いタイプの小説であると感じ、違和感を覚えたのだ。彼や彼女らが守ろうとしているものや戦っているものが、あまりにも小さな組織内のできごとであり、矮小な世界の出来事であるため、目を塞ぎたい気持になってしまったのだ。

しかし、こういう世界に目をつぶってしまったならば、そして、普通の営みを否定すると嘘いてしまったならば、いったい自分自身は何を守っているというのか、自分の矜持はどこにあるのかと問わねばならないだろう。

「聞いたふうなことぬかすんじゃねえ! てめえらの仕事って何だよ。俺らは体張ってんだ。街ィ守ってんだよ。てめえは何守ってんだ? 本部長か? てめえ自身か? 言ってみろ!」

「馬鹿野郎、そんなもん家族に決まっているだろうが!」

増川の手がふっと緩んだ。(「動機」P.53)
「鬼畜じゃなかった。山本はただの男だった。気が小さくて……誘惑に弱くて……どこにでもいるつまらない男だった。獣でも鬼畜でもないただの……」(「逆転の夏」(P.179)

こういう描写が、ちょっとクサイというかわざとらしく、鼻白む思いもするのだが、今回は許す。何故なら、私はここの表現に救いを見出し、そして打たれてしまったのだから。

ああ、大事なことを書くのを忘れていた。横山氏の小説は人情ドラマではない。あくまでも、そういう世界を基盤とした上質なるミステリーである。横山氏が今では押しも押されぬミステリ作家であることは誰もが認めるところだが、やっと端っこを掴むことができた思いだ。

(……にしても、こうまでレビュ変わるかよ(--;;;