2003年10月17日金曜日

高村薫:レディ・ジョーカー



読み終わった後に静かに、そして深く震撼してしまった。この小説は高村作品の中でも、また日本の現代小説の中でも最高傑作のひとつなのではないかと思った。彼女は自分の作品について、ミステリーを書いているつもりはないと言っている。読んでみれば確かに小説の中で書かれるビール会社を相手にした企業テロは、江崎グリコ事件を題材にしてはいるが、ミステリーはひとつの素材でしかない。

最初に読み始めたときは、初期作品に認められた高村らしさが薄く、大衆性を得て変化したかと感じさせたものだ。ふと横井秀夫氏や貫井徳朗氏の小説のような雰囲気さえ感じた。

しかし読み進むにつれ、個人というものを阻害してできている組織社会、日本社会に縦横に張り巡らされた裏社会、どうにも変え様のない現実をしょった個々の人生などが、どこに焦点を当てるというわけでもなく、全てに無影燈のように等価に光を当て、しつこいほどの描写で綴られてゆくことに引き込まれてしまった。

何がテーマかということを考えるのをためらうほどに、込められた思いは複雑だ。ただひとつ言えるのは、この物語は、すべて日本と組織で働く、あるいは日本と組織から阻害された男たちの、自己清算あるいは自己解放の物語であるといえる。(女性はほとんど脇役以下なのも相変わらず高村小説である)

合田刑事が、半田との最終決着をつける前の場面、

合田はもう何年も味わうことのなかった深い解放感に満たされた。(中略)己の人生を、こうして全て放り出そうとしている解放感といっても、実態は身の丈相応の、その程度のものだった。(下巻 421頁)

毎日ビール副社長の倉田が社長の城山に、内部告発とその後の刑事被告の件を告げた場面で城山がひとりごちる、

時分と同じサラリーマン人生を歩んでいた男が、ここまで完璧に己の三十数年を捨てて新たな世界へ飛び出していけるものなのか。(中略)城山はその場は結局、まったく自分の頭を整理することができずに終わった。(下巻 323頁)

その城山が最終的に辿りついた境地は、

志半ばの無念や失意よりも、間もなく訪れる自由への手放しの渇望の方が、自分の中で確実に大きくなっていることに、城山は驚いていた。会社と決別してまったく新しい何者かになることが、長年背負い続けてきた肩書きや懸案をすべて下ろして裸に戻ることが、これほど心を躍らせ、沸かせるとは。まさに、この自由の悦びを味わうために、長年の会社生活があったのかと思うほどだった。(下巻 411頁)

自己清算あるいは自己解放ということは、己の中で燻るもうひとつの自分の解放でもあり、あるいはそれが「悪鬼」であったりもする。東北戸村出身の老人である物井の場合、自分の兄 清二が亡くなったときに感じたことは、

<人間なんてこの程度のものだ><これが明日のお前だ>といった自分の声が聞こえ、そのざわめきがやがて形もなくなると、代わりに降りてきた放心の隣で、物井は今度は<清二さん、仇を討ってやるぞ>という別の声を聞いた。(上巻 162頁)

生きることや働くことの意味、日々の仕事の中で忙殺され、つかの間の充足感を味わいながらも、一方でさらさらと広がる巨大な虚無と空洞を鋭く抉りながら、男たちのつまらなくも重い人生を書ききっている。そして、凡百の男たちには、いくらあがいても変えようのない巨大なシステムと不公正の存在。そんな憤りと燻りの中から、生と破壊への暴発を始める男たち。自己発見をできたり何者かに変わることができた者は幸せで、結局何を起こしても身の丈程度とうそぶくか、あるいは完全に自己を破滅させてしまうか、その差は何であったか。

そうだ、書きながら気づいた。『レディ・ジョーカー』も、高村小説が一貫して追及してきた「いまのどこにもない、もうひとつの自分」への物語なのだ。その意味では集大成とも言える小説に仕上がっている。

企業テロの詳細や、表社会と裏社会と政治の結びつきなど、ここでも背景となる組立ては緻密で高村の取材力には改めて関心するのだが、この点は割愛する。

物凄い小説ではあるが、一点だけ言えることはある。細部と人物の緻密な描写によって書かれた驚くべき現実感を有した小説であるが、これは高村理想郷に住むの男たちの物語ということだ。往年の少女マンガが絶対にありえないプロットで成立していたように、高村の小説もそれに似たところがある。

というのは、彼女の小説の男たちは、あまりにナイーブで誠実で潔癖で禁欲的すぎるのだ。倉田や城山のみならず、自らの命を絶った杉原や三好の自己清算の方法もそうだが、どこの世界に盗み取った20億もの金に執着しない男たちがいるというのか。どこに、激務に近い仕事の後にヴァイオリンを弾き、寝る前は台秤で150グラムと計ったウィスキーを飲み、グレン・グールド著作集第1巻『フーガの技法』か『商行為法講義』あるいは、『日経サイエンス』を読みながら寝るクリスチャンの刑事がいるというのか。どこにシモーヌ・ヴェーユを<無人島に持っていく十冊>にしたいと考えている新聞記者がいるというのか。いや、私の廻りには皆無なだけだけで、そういう人は、きっと沢山いるんだろう・・・な・・・・チェッ

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