2004年12月27日月曜日

キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵

今年もいよいよ残すところ後数日になってしまいました。明日は個人的な忘年会を二つ掛け持ちして、怒涛の師走が終了します。ブログの方も、これがが本年最後のエントリーになりそうです。

キーシン
ムソルグスキー:展覧会の絵
トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
キーシン(p)
2001年8月4,5日、フライブルク
RCA 09026.63884

この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。

凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。

対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。

録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。

冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。

とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。

An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、

ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。

ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。

時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。

2004年12月24日金曜日

いまさら「電車男」

今年のネット界を騒がせた話題といえば、Googleの隆盛、ブログの流行、そして「電車男」ということになるのではないかと思います。「電車男」は新潮社から本にまでなって、しかも50万部突破というのだから驚くばかりです。


今更「電車男」の話題を書くのも何なんですが、「電車男」本が(私の)職場の忘年会でビンゴ景品になったりするほどなので、つらつら考えたことを書いておこうかなと思ったわけです。


板が熱くなったことと本が売れるていることには大きな違いがあるように思うのですが、それはさておき、「電車男」というのは周到に用意されたストーリーなのではないかと思っています。電車男が実在するかどうかはネット上でも話題になっているようです。それを読むほどにヒマではありませんので、以下は私の考えたことです。




確かに「電車男」の話題は、読むものを「熱く」する何かが潜んでいます。秋葉ヲタクが変身してゆくさまは、驚きと同時に小気味よささえ感じます。ダメ男(女)が恋によってどんどん素敵になってゆくというのは、根強い変身願望とともに、よくあるストーリーのような気もしますが十分に感動的です。


ネットで通して読むとちょっと疲れますが、途中で止められなくなるほどにエンターテイメント性があります。電車男を軸としながら、名無したちの脱線しがちな妄想も笑えます。この電車男を応援する無数の名無したちが、なんだかイイやつらばかりなのも泣けるところです。


「まとめスレ」ではスレッドを上手く編集していますから板特有のアラシもなく、全体的に肯定的で前向きで暖かな、そして熱い雰囲気が持続され感動のラストをむかえます。掲示板ですから投稿時間も示さており、それが展開に緊張感を与えています。


今までの小説と違うのは電車男の行動に名無したちが関与し、それが次のストーリー展開に影響を及ぼすした点であることは、読んだ方ならば納得するでしょう(実際はそれほど行動に対する「関与度」は高くないのですが)。板の前の応援者たちは電車男が帰宅し彼の放つデート報告=爆弾を、期待と不安と"喜び"と"痛み"を持って待ちわびます。彼らが自らの秘めた思いを板にぶつけ、電車男がひとつづつ難関を突破してゆくさまは、RPG的といえるかもしれません。


「電車男」を新たな小説の試みと絶賛する人は、このような参加型の小説に対して期待を寄せているのかもしれません。(村上龍がそんなこと、とっくにやっていたように思うが、ちょっと違うか?)


「電車男」の中で注意すべき点は、彼が変身してゆくことではなく、相手の女性が極めて理想的に描かれている点ではないかと思います。電車男を半歩リードしながらも暖かく電車男を受け入れてゆくエルメス子は、あるタイプの男性達の、まさに理想的な女性像を示しているように思えます。彼女は電車男を一度たりとも否定も拒否もせずに暖かく迎え入れます。私は最後まで読んでも、エルメス子をリアルな女性として想像することができませんでした。これこそ秋葉ヲタクに代表されるような名無したちの妄想上の聖母なのではないかとさえ思ったわけです。ここらへんは、かなり偏見が入っているかもしれません。


電車男のスピーディーな変身と理想の女性像が余りに出来すぎであるため、これは周到に準備された都市伝説創造の試みではなかったのか、「書き手」と名無したちとのコラボレート作品なのではないかと疑うわけです。女性が板と出版という二度の行為によってプライベートの暴露を許容していることも私の常識を越えています。


「電車男」は、ヲタクだのゲーマーだの、ひきこもりだの、ニートだのでくくられ、リアル社会との絆を見出しにくくなっている彼(彼女)ら、リアル社会に憧れながらも失敗と失望を繰り返すことで、自らのプライドを守るためには自虐的になるしかなく、自分の中に閉じこもりがちになる者たちへの、エールとして描かれたラブストーリーなのかもしれません。(おっと、ニートの姿は「日本外交」そのものの姿なのではないか、もしかすると!)


板が熱くなったのは、リアルタイムで参加しながら電車男に「関与」できる関係性にゾクゾクするほどの興奮を覚えたのでしょうし、想像以上の好展開に胸を躍らせたのだと思います。


一方で本が売れるのは、掲示板にあまり馴染みのない人が「こわいものみたさ」のような興味を持って買っているのではないかと思います。ネットに馴染んでいる人なら、わざわざ本を買うことはないでしょうし(今でもネットで読める)、今更「電車男」かよと思うでしょうしね。


「電車男」や「エルメス子」は実在するのかもしれませんが、そうだとしたらこれほど幸せなことはないでしょう。逆に幻想を振りまき夢を与えながらも、実は周到に用意されたビジネスであったならば、おそらくはその反動として幻滅が示す底の深さは、想像以上かもしれません。あれほどのものを意図的に創作可能かについても疑問は残りますが。


かくも「電車男」は語られるという点で多様性を帯びており、女性において対極な「負け犬」とともに、今年を象徴する出来事であったことだけは確かだと思いますが、いかがでしょうか。

2004年12月22日水曜日

立川のビラ配りの件3

「立川自衛隊テント村」という反戦団体が、防衛庁官舎にビラを配った件で住居侵入罪に問われた件について以前エントリーを書きましたが、東京地裁八王子支部で無罪判決が言い渡されたそうです。


細かな事情まで調べてはいませんから、普通に考えれば「ビラを配っただけで逮捕」はやり過ぎではないか、と思っていましたので、当然の帰結だとは思うものの、ネット上では公安の権力行使について肯定的な意見も少なくないことを知ったりしたものです。事件を報じたのが朝日新聞と赤旗だけでしたから尚更であります。


【参考サイト】






 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


と朝日新聞にありますが、表現の自由や政治的活動の巾に関する微妙な問題を孕んでいることは否定できず、「立川自衛隊監視テント村」という、少々過激な名前の市民活動家たちの行動が、ある種類の方々の反感を買ったことは、ちょうどイラクで拘束された三人の日本人の時にも巻き起こった感情と、どこか通じるものを感じます。


彼らが反対した自衛隊は実際サマワで何をしているのか全く分りません。給水活動に道路復旧や学校復旧だと政府は言いますが、イラク復興にどれだけ寄与しているのか全体での位置付けも分りません。勿論、イラク派遣に一体いくらの国費が費やされているのかも分りません。具体的な活動内容と、それに関わる収支は是非報告していただきたいものです。


なにしろ、知らないうちにこんなものを造っていたりしたんですから。


【関連エントリー】



朝日新聞 社説12月17日

■ビラ配り無罪――郵便受けの民主主義


 イラクへの自衛隊派遣に反対するビラを防衛庁官舎の郵便受けに配り、住居侵入の罪に問われた東京の市民団体の3人に対して、東京地裁八王子支部で無罪の判決が言い渡された。


 逮捕した警察、起訴した検察の全面的な敗北である。


 そもそも身柄を拘束したり、起訴したりする必要のない事案だった。2月末に逮捕され、5月まで75日間も勾留(こうりゅう)し、公判は8カ月に及んだ。無罪の結論を出すのが遅すぎたくらいだ。


 被告とされたのは、「立川自衛隊監視テント村」という反戦団体に属する男女3人。職業は中学校の給食調理員と介護会社員とアルバイトである。今年1月と2月、東京都立川市内にある防衛庁官舎の敷地に入り、宿舎8棟のドアの郵便受けにビラを配って逮捕された。


 「イラク派遣が始まって隊員や家族が緊張している時期に、玄関先にビラを放り込まれるのは住人として大変不快であり、家族も動揺した」。証人として出廷した自衛官ら3人は口々に訴えた。


 確かに、先遣隊、主力第1波、第2波と派遣が進み、各地の自衛隊にピリピリした空気が漂っていた時期だった。


 A4判のビラは「自衛官・ご家族の皆さんへ いっしょに考え、反対の声をあげよう」という呼びかけだった。


 判決は書かれた内容を「自衛隊員に対する誹謗(ひぼう)、中傷、脅迫などはなく、ひとつの政治的意見だ」と述べた。さらに「国論が二分していた状況で、ビラはさして過激でもなく、不安感を与えるとも考えがたい」と指摘した。


 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


 住居侵入に当たる行為ではあるが、配り方は強引ではなく、住民にかけた迷惑も少なかった。刑罰をもって報いるほどの悪事ではない。判決はそう結論づけた。明快な判断である。


 イラク開戦とそれに続く各国軍の現地派遣をめぐっては、世界のあちこちで大規模な抗議活動が繰り広げられた。欧州では、ベトナム反戦デモを上回るうねりとなった国も多かったが、日本では際立って低調だった。


 滞在中たまたま日本の反戦デモを見た外国人たちはその規模の小ささ、若者の少なさに驚いた。理由はいろいろあるだろうが、ビラ配り事件にあらわれた警察の過敏な取り締まりも一因だろう。


 自分の気に入らない意見にも耳を傾けてみる。それは民主主義を支える基本である。派遣を控えた自衛隊員にとっても、同僚や家族と全く違う意見を目にするのは無駄にはならないはずだ。くだらない意見だと思えば捨てればいい。


 そんなところにまで警察が踏み込むのは危険きわまりない。判決はそう語っている。


2004年12月20日月曜日

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団/マーラー:交響曲第2番 「復活」

年末も近くなってきましたから、あちこちで第九の響きに身をゆだねている人も多いでしょう。かく言う私も今日はヒマだったものですから、フルトヴェングラーのバイロイト1951年盤などをネットで聴いたりして、ただならぬ終楽章に改めて唖然としていたりしました。

第九も良いのですが、私としてはマーラーの「復活」の方がしっくりします。ということでアバドなんですが・・・これはいただけませんでした。非常にネガティブなレビュです。

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団
2003年 DG 477 508

アバドが2003年にエリート・オーケストラとして編成されたルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラー交響曲第2番とドビュッシーの海は、評判が良いようだし、年末も近いし、ということで聴いてみたのですが、私にはこの演奏のどこが良いのかさっぱり分からなかったというのが正直な感想です。

まずルツェルン祝祭管弦楽団についてはHMVをご覧いただくと詳細な解説がありますが、引用いたしますと
アバドが創設に寄与したグスタフ・マーラー・ユーゲント管を母体とするマーラー室内管弦楽団が中核となり、各パートのトップにはベルリン・フィルの現・元首席奏者を始めとする名手を据え、これに最先端でソリストとして活躍するプレイヤーたちも加わり、実に錚々たる顔ぶれが揃ったスーパー・オーケストラ

ということだそうです。続くオーケストラの参加者名を見ると驚くべき陣容です。

コンサートマスター:コーリャ・ブラッハー(元ベルリン・フィル)
弦の各パート:ハーゲン四重奏団ら
第 1ヴァイオリン:ルノー・カプソン、セバスティアン・ブロイニンゲ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマス)、ドメニコ・ピエリーニ(フィレンツェ五月祭管コンマス)、ブリジット・ラング(北ドイツ放響コンマスの)ら
第2ヴァイオリン:ハンス=ヨアヒム・ヴェストファル(元ベルリン・フィル)
ヴィオラ:ヴォルフラム・クリスト(元ベルリン・フィル首席)
チェロ:ゲオルク・ファウスト(ベルリン・フィル首席)、ナターリャ・グートマン、ゴーティエ・カプソンら
コントラバス:アロイス・ポッシュ(ウィーン・フィル)
フルート:エマニュエル・パユ(ベルリン・フィル首席)
オーボエ:アルブレヒト・マイヤー(ベルリン・フィル首席)
ホルン:シュテファン・ドール(ベルリン・フィル首席)
クラリネット:ザビーネ・マイヤー
トランペット:ラインホルト・フリードリヒ

まさにスーパー・エリート・オーケストラ。奏でる音は、冒頭のコントラバスの音からしてタダモノではなく、物凄いアンサンブルを聴かせてくれます。音量もマーラーを聴くには充分で、フォルテッシモがつくる壮大な音の大伽藍は、ホールで実演を聴いていたならば、かなりなものであったろうと思わせるものがあります。

また、個々のプレーヤーの技量も素晴らしいもので、どの断片を取っても美しく均整の取れた音楽に仕上がっていると思えます。これほど贅沢な編成でマーラーの「復活」を聴けるのなら、これにまさる至福があろうかと思うのが普通なのですが、1時間半近く聴き通して得た感想は「何なんだこれは?」というものでした。いったいに、マーラーを聴いたという感興が全く生じません。

昔からアバドは録音と実演の印象差が激しいとは言われていましたし、ベルリンを辞めた後、アバドも変わったという評判も耳にするのですが、私が鈍いのでしょうかね。

仕方ないからテンシュテット&LPOと比べてみました

テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニー管
EMI 1981年5月

繰り返して書きますが、オケの性能、録音とも抜群であると思います。しかし肝心なパッションが、私がマーラーに求めている何かが決定的に欠けています。それが何なのか、あまりにも拍子抜けしたため、手元にあるテンシュテットとLPOのマーラー全集から終楽章だけ聴いてみました。(テンシュテット&NDRは持ってませんし)

すると・・・どうしたことでしょう、終楽章だけですよ、白けきっていたのでまあ口直しにという程度に聴いただけであるのに、冒頭から34分間、圧倒的な音楽に打ちのめされ放しです(繰り返しますがNDR盤ではありません、syuzoさん評では評価低いですから)。この違いは何なのか、聴きながら自問するのですが、その答えは分かりません。

オケの性能はLPOより圧倒的にルツェルン祝祭管弦楽団の方が高いでしょう。音の抜けやクリアさもルツェルンに分があります。しかし、アバドの演奏が大音量になればなるほど、非常にピュアなところに行き着き、ディテールレベルでは微細な表情まで描いているにも関わらず全く質量感を伴わないように感じられるのは、もはや異様といってよいかもしれません(再生装置が貧弱だからか?)。

私にとってマーラーを聴くことは一つの体験に近いものです。テンシュテットの演奏は(LPOとの全集盤が彼の代表的な演奏であるかはさてき>しつこい)終楽章を聴いただけでも慄然とするものがあります。地面は沸騰し天は裂け、そこに一条の光が差し込み、まさに神が降臨しているのではないかと思わせる凄まじさが秘められています(私だけの幻想かもしれないが)。

アバドは、そんなマーラー観とは全く無縁です。そもそも、第一楽章で感じる精神的な崩壊(と私が勝手に思っている)がアバドには感じられません。従って得られる結論はテンシュテットとは全く異なったものになっているようです。音楽に痛みも軋みもなく、非常にストレートに美しさを歌います。だから破裂するような歓喜も薄いのでしょうか。ひたすら演奏だけが立派であり、それが返って白々しさを増します。好みの違いも大きいとは思いますが。

アバドの演奏がマーラーに対するアプローチとしてどうなのかは私には判断ができず、こういうマーラーもあるのだと納得するだけです。逆に言えば、過剰なものを排除して出来上がった歓喜の世界ということもできます。ですからマーラーに特別な思い入れを求めていない人や、前世紀的なマーラー像に飽いている人には、充分過ぎるほどに満足できる演奏であるのかも知れません・・・。DVDも出ていますが、改めて映像とともに聴いたら感想変わりますかね?

さて「海」は、みなさん評判良いようですから、これはどうでしょう・・・(まだ聴いてません)

2004年12月19日日曜日

テンシュテット&NDR/ベートーベン:交響曲第7番

年の瀬も押し詰まってまいりまして、結構ばたばたと忙しい状態が続いています。あっという間の一年でしたが、聴きたい音楽、読みたい本など山積みのまま来年になりそうです。

てことで、テンシュテット&NDRのベト7の感想を書きました。正直な話、本文でも書きましたがSyuzo's Weblogを参照していただいた方が、時間の節約だとは思います。

テンシュテット(指揮)NDR
EMI/NDR 10122(Germany)

リズムとエネルギーの塊のような「舞踏の神化」ベートーベンの交響曲第7番。爆演系ではありませんが、別な意味で物凄い演奏が展開されています。最初に断っておきますが、私の感想など読まずにSyuzo's Weblogのレビュを読んでください。全てが言い尽くされています。

第一楽章冒頭はゆったりと、そしてふくよかで、堂々たる風貌の音色を響かせてくれます。このコントロールされたふくよかさは全楽章を支配する明るさに通低しています。弦の刻みは強すぎないものの的確で、テーマは朗朗と歌われます。ここに広がる明るさと幸福感は例えようもなく、交響曲第6番「田園」の延長を思わせる世界観に素直に驚かされます。

重層的に重ねられる音は、キャンバスに塗り重ねられる油絵の具のようであり、標題音楽ではないのに様々な風景が目の前に浮かんでは消えていきます。例えばそれは、黄金色に染め上がった丘陵地帯であったり、その上を舞う鳥であったり、農夫たちの踊りであったり、木枯らしや嵐であったり・・・あまりにも見事な音楽と演奏に至福の時が流れます。

静かに、しかし芯が燃え上がるようにパッションが加わる第1楽章の終わり近くは、なかなか聴きどころです。比較的長い残響時間さえも音楽に組み込み多くの余韻を残してくれます。

第ニ楽章は葬送行進曲とされていますが、こんなにもテーマが穏やかにそしてなだらかに奏でられてしまいますと、もはや言葉にすることができません。例えようもないほどに哀しくそして美く、そのまま昇天してしまいそうです。この楽章を聴くだけでも価値がある、そんな演奏です。

第三楽章冒頭はティンパニの強打で始まるものの、決してテンポは急がず着実な演奏です。大人しすぎるのではないか、などと途中で感じたりしたのですが、実のところ第四楽章まで聴き終えあたりを見回したら、ボウボウと燃え盛る炎にホールごと包まれていたというような感じです。

テンシュテットのオーケストラコントロールは確かに見事で、フレーズを微妙に伸ばしたり、ごく短い間にゆるやかなクレッシェンドをかけたりと、かなり細かなことをしているように聴こえ、それが演奏と音楽に彫琢を施しています。第三楽章でのリズムとメロディの交替は次第に高揚し、聴くものにとてつもないベートーベンのエネルギーが注入されていきます。

第三楽章と第四楽章は間に譜面をめくる音が「ガサガサ」と聴こえたと思ったら、あの聴きなれた付点のリズムが炸裂します。ラストに向けてはsyuzoさんの迫力はあるのにいたずらに威嚇的にならず、自然で明るい表情のまま、巨大なスケールで上昇と下降を繰り返してゆく。しかも、その響きは透明さを失わない。というコメントに尽きています。終末近くにホーンの音色が聴こえたときには、ベートーベンを聴いたという勝利の感慨に満ち溢れています。

ああ・・・なんと幸せなベートーベン、なんと凄いテンシュテット。おいら、三度も続けて聴いちまったよ(;0;)<泣くな

(2004.12.17)
追記

とここまで書いて、自分のHPファイルをごそごそしていたら、テンシュテット&ミネソタ管のレビュが見つかりました。こちらは今手元にないので比較して聴けません。しかし、Syuzo's Home Pageの「テンシュテット:禁断の部屋 その6 ベートーヴェン:交響曲第7番」を参照にして自分のレビュを読むと、今回の演奏(80年)とミネソタ管の演奏(89年)には明らかに違いがあるのかと知らされます。機会があれば聴き比べて見ましょう。

2004年12月17日金曜日

学力低下って子供の世界ぢゃないだろ

今週は新聞紙面で「子供の学力低下」について話題になっていました。もはや文部科学省も「世界トップレベルの学力ではない」と認めたそうで、それは「ゆとり教育」に起因するという論調です。


ブログ界でも熾烈なバトルを展開していらっしゃる「週刊!木村剛」では『2004.12.16 ゆとり教育でゆとりを感じているのは誰?』というエントリーがあったばかりです。個人的には、知的レベルの崩壊は子供の世界の出来事ではなく、オトナ社会での出来事なのではないかと常々思っています。




時々、鴎外やら漱石の小説を引っ張り出して再読してみますと、当時の知的エリート層の学力レベルが極めて高いことに驚かされます。あるいは、日本のトップにまでのぼりつめた政治家や経営者もしかりです。鴎外や漱石に描かれた「知的遊民」は別としても、教育にモチベーションやインセンティブがあったということでしょう。


しかし、現在では「教養」は「生きる力」に直結しませんし、社会に出て役に立ったという実経験が不足しています。学校教育の効果が実体験として語られるということもめったにありません。「詰め込み」の行き過ぎ面も指摘された時期がありましたから、勉強することをネガティブに感ずる風潮が日本にずっと醸成され続けてきているように思えます。


そういう意識が今のオトナ社会を形成しているように思えます。直接の関係はないかもしれませんが、例えばTVときたらほとんど白痴的なものも少なくなく、あれだけの高度なテクノロジーを使って膨大な浪費をしていると思うと唖然とします。ディスカバリー・チャンネルやヒストリー・チャンネルのような番組は、いったいどれだけあるでしょう(あれがいいとは言わん)。


これから発展を期待している国は、発展に希望を見出していますから、その第一歩となる「教育」を受けることに渇望しています。日本には逆に言えば、満ち足りて「希望」がなく、ひいては教育も教養も廃頽し享楽と快楽が拡大しつつあるということでしょうか。

Nokiaのキティバージョンとか


なにやら海外でハローキティバージョンの携帯が発売されたとか。キティ誕生30周年を記念してNokiaとCingular Wirelessそしてサンリオが共同で端末を発表したのだそうです(元記事

私はキティをかわいいとも、愛らしいとも全く思わないのですが(っていうか、ぢっと見ていると、なんかコワイ)、海外でもキティ人気は高いらしく、日本では使えない携帯機種だけにファンは悔しい思いをしているかもしれません。




Nokiaといえば、Vodafoneの3G携帯であるNokia6630(Vodafone702NK)が発売されました。期待をもって店頭で触ってきた(^^;;;のですが、かなり期待はずれでしたね。デザインは秀逸だと思うのですが、キー部分がフニャニャしていて全然コシがないんです。外人の太い指でグイグイやって上手くキーを押せるのかと首をかしげてしまいました。それに、ボディがなんか安っぽいんですよね。

音声とか画像とか、そういう機能は分からず、あくまでも「触っていてうれしいガジェットか」という点では、イマイチ。WEBやパンフでのイメージとはかなり隔たりがある、これでは、あんまり食指が動かないですね。


FORMAではSH901iCっていう、ある意味で日本的なニーズにおけるハイエンド機種が発売されていますから、Nokia6630の人気はまだまだかもしれません。


個人的には携帯は近いうちにPC化してゆくのだろうと思っているのですが、日本の携帯はまだまだそういう動きが鈍いなあと思ったりするのでした。SH901iCにしても、もう少しタテに液晶を長くしてヨコ使いで表示できるようにすれば、PCと同じようなWEB表示もそんなに苦しくないですし、メーラーの使い勝っても良くできるのではないだろうか・・・と考えたりするんですが。


キャラクターバージョンっていえば、その昔(って平成13年だ)、まだPalm社の日本法人があってm505とか幸せな機種を発売しているときに、ゴルゴ13バージョンってのが発売されたことが懐かしいです。(って誰が知ってるか) しかし、こうして写真で改めてPalm m500シリーズを眺めますと、フォルムといい触感といい機能といい、ひとつの完璧を体現していたと個人的には思うのですが・・・人気なかったですね。


iPodにしてもU2バージョンとかありますから、キャラクタータイアップの販売戦略には根強い支持があるのかもしれまへんやね。とりとめもありませんでしたが、年末なんでご勘弁を。


2004年12月14日火曜日

TV:戦場のピアニスト

昨日のテレビで「戦場のピアニスト」を放映していたんですね。途中から観たので、真面目な感想を書くまでには至りませんが、とにかく凄まじい映画でした。話題になるだけありますね。


映画前編に漂う哀しさは覆いようもなく、あっという間に変化してゆく時代の流れ、不条理なまでの差別と殺りくには、映画でありながら胃がせり上がってしまうような恐怖と絶望を感じたものです。




DVDのジャケットにもなっている廃墟のシーンは、涙も出ないというほどの圧倒的な迫力。戦争の虚しさをこれほどまでに映像表現したシーンは、ざらにはないかもしれません。ポランスキー自信の実体験がなければ描けない映像かもしれません。


ユダヤ人迫害という点ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」などを思い出す人もいるかもしれませんが、私は戦闘シーンのドキュメンタリーを見ているような迫真性に、むしろ「プライベート・ライアン」冒頭の上陸シーンを重ねてしまいました。あるいは、ロイター通信などが最近伝えたファルージャ虐殺の様子とか・・・人間の命が雑巾ほどの価値もない状況に慄然とし「撃たないでくれ!」と声を上げそうになります。


ピアニストのシュピルマンの行動については、私は弱さとか卑怯さは感じません。彼ほどに強靭な精神の持ち主は逆にいないのではないかとさえ思います。だから彼が戦後にラジオ放送を再開したときの笑いの中に見せた苦渋の表情には、言葉にはできない感情が込められているように思えました。


音楽的には、私はショパンという作曲家にあまり馴染んではいないのですが、この映画を観たからには、ショパンにまつわるイメージに、私の中である縁取りができてしまったことは否定できないですね。モーツアルトにまつわるイメージが映画「アマデウス」に影響されてしまうように・・・TVで観ただけなのに、それほどまでに強烈な映画でありました。


2004年12月9日木曜日

リチャード・ミニター:「なぜ企業はシェアで失敗するのか」


何気なく読み始めたこの本だったのですが、企業の「シェア至上主義」に疑義を唱え、マーケットにおけるシェアは、利益とは何の関係もないことを、嫌というほどに思い知らせてくれるものでした。


ビジネス本として、非常に卓越した内容でありますので、マーケット・シェアと利益率に少しでも感心のあるビジネスマンや経営者は一読の価値はあると思います。この本を読むと世のCEOを初めとして「マーケット・シェアの拡大」という、一種宗教にも誓い妄想に取り付かれている愚が明らかになります。




私の属する業界もしかりで、会社の期首や期央の経営会議で問題になるのは、まずは総売上高と経常利益。「利益率」という概念もないわけではありませんが、量重視で、量を確保すれば社員を賄う原資は得られるという幻想にとらわれているような気がします。あと「赤字覚悟」で仕事をとってシェアを高めれば、そのうちコストリーダーになれるというユメを見ているわけです。なんたって利益率ときたら限りなくゼロに近い一桁という成熟産業ですから、厳しい競争にしのぎを削るのは当然ではあるのですが、「そのうち」ってことの見込みもまた、利益率と同じくらいのものでしかないわけです。


2004年9月号のハーバード・ビジネス・レビュ(日本版)は、『「利益率」の経営 低収益体質からの脱却』というテーマで論文を掲載していましたし、高収益率企業でかつ、マーケットリーダーであるデルの本も読んだばかりでしたので、採算に合わない仕事からどうやって利益を叩きだすか、そもそも、その仕事をやるべきなのかという判断を迫られる業務をしている関係上、テーマ的にもヒトゴトではなく、理想と現実の違いにゲンナリしてしまうのも事実。


いったい、わが社幹部連中は何を考えて企業経営をしているのか、何を基準として経営判断をしているのか、小一時間ほど問い詰めたい気になります。


ちなみに著者のリチャード・ミニターは、ウォールストリート・ジャーナル・ヨーロッパ紙の元エディター。現在はジャーナリストとして、ウォールストリート・ジャーナル紙やワシントン・ポスト紙、ニュー ヨーク・タイムズ紙、サンデー・タイムズ紙のほか、世界中の有力経済専門紙を中心に寄稿している方。

2004年12月8日水曜日

ムター/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

  • アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
  • アンドレ・プレヴィン(指揮)シュターツカペレ・ドレスデン
  • GRAMMOPHONE

師走になりましたが、今日も釧路地方では地震がありましたね。余震だそうですが、寒くなってきましたし大きな地震にならないことを祈ります。

今年は天地がちょっとばかり変で、日曜日の札幌は大雪の大荒れの天気でしたが、東京は25度だったそうですね。飛行機でたかだか1時間15分ほどの距離しかないのに、まさに別世界。

ということで、別世界のムターのシベリウスを聴いてみました。感想はこちらです。

かなり濃い目のムターのチャイコフスキーを聴いたので、実際彼女の芸風はどうだったかしらという意味から、34歳の時のシベリウスを聴いてみました。

冒頭からノンヴィブラートの音、チャイコフスキーの第二楽章で聴かれた音です。嫋嫋たると表現する人もいるようですが、絞り上げるような表現力には只者ならぬ雰囲気を感じます。

音色の変化は、ここでも見事であり、それは饒舌とも豊穣とも違ったもの、クレッシェンドになるに連れ、音は太くなり分厚さをましてきます。メタリックな感じでゴリゴリと奏する様はかなり迫力あります。しかし、そこはムターです。あくまでも多彩な表現力の一面ということですから、力まかせな乱暴さということではありません。繊細さと強烈なところのレンジが広いということでしょうか。

ムターの音楽は、極めてエネルギッシュで感情の振幅が大いものの、泣きや浪花節に落ちることはありません。ですから演奏を聴いて感情移入をして感極まるようなことはありません。ひたすらに見事だなあとは思うのですが。

第一楽章のカデンツァなど奔放さの限り、かなり好きなことをやっているように聴こえます。完全にムター節で、自分の世界を表現しているような熱演です。凄い演奏だとは思ですが、シベリウスを聴いているという温度感は希薄です、プレヴィン率いるバックのオケもしかりです。

「好きな演奏か」と問えわれれば「感心はしても感動はできません」ということになりますね。シベリウスに特別な思い入れを持っているヒトには特にそうかもしれません。

PS.年末締め切りの仕事がバタバタと入ってきたり、今までうっちゃっていた仕事の催促が来たりと、さすがに師走は忙しくなってきました。かなりしつこい風邪もひききったので、あとは驀進かァ。ブログはぼちぼちですな。

2004年12月3日金曜日

ムター/コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターのチャイコフスキーは、コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲がカップリングされています。レビュを書いて気付いたのですが、どちらも「ニ長調 OP.35」なのですね。

コルンゴルドは1897年生まれ、幼くしてウィーンの楽壇にデビューして天才ともてはやされ、その後アメリカに渡り映画音楽の世界で成功した作曲家。本人は晩年にウィーン楽壇に復帰したかったようですが、「映画音楽作曲家」というレッテルは死ぬまでぬぐえなかったそうです。

さて、そんな作曲家が1947年に描いたのがこのヴァイオリン協奏曲。いやいや悪くないですよこれは。最初に聴いたときには、まさにハリウッド映画音楽だあと思ったものの、それはそれでよいではないですか。ロマンティシズム溢れる、甘ったるくも力強くエネルギッシュな曲です。

甘美なところはこれ以上はないと思えるほどで、とろけてしまうよう。それをムターのヴァイオリンで聴くと、暖炉の火で柔らかくなったキャンディーよろしく、「もう、どうにでもして」と言わんばかりの音色となって聴くものを骨抜きにしてくれます。特に第一楽章の冒頭の旋律が凄い、これを聴くだけでも価値があるかな。チャイコフスキーでは、先入観からか疎んじた音色が、ここでは、非常にマッチしています。

快活な部分では、芯がはっきりした太い音が、それこそ自在に駆け巡る快感は、これまた例えようもなく、聴いていて「ああ、楽しいなあ」という気にさせてくれます。古きよき時代の上昇志向な感じが懐かしいです。

コルンゴルドはフーベルマンのために、この曲を書いたそうですが、初演はハイフェッツなのだそうです。技巧的にも結構難易度が高いようですから、ヴァイオリンを聴くという意味では楽しめる曲です。

というわけで、コルンゴルドは悪くはないのですが、ふと考えてみると1947年という時代に、アメリカでこんな脳天気な音楽を作っていたとは、コルンゴルドさん・・・幸せでしたね。

2004年11月30日火曜日

ムター/チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターの15年振りの再録となるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。

私が「思わずジャケ買いしてしまうヲジサン」であるかはさておき、HMVで少しばかり視聴したのですが、「ひょえっ!なんぢゃこれ」というくらいに個性的な演奏で、そのまま聴きつづけるのがつらかったのでフラフラとゲットしてしまいました。

An die Musikの伊東さんは、本盤のレヴュでこれは好き・嫌いがはっきり分かれるだろう。と書いておられましたが、聴いてみればまさに個性的な演奏。出だしからこれでもかと言わんばかりの濃厚な表現が聴かれます。チャイコフスキーがこんなにも色香のある音楽だったかしらと戸惑ってしまいます。

「妖艶」「むせかえるような」などの形容詞を冠したくなる演奏で、それがムターの個性なのだといわれれば、そういうものかとも思いますが、果たしてこれが「美しい」演奏であるかは疑問です。(美しいの定義も問題ですが)

ムターのヴァイオリンは、ノンヴィブラートの音から、艶やかさと豊穣さを乗せまくったヴィヴラート音まで、あるいはポルタメントの多様やあざといまでのアゴーギグなど、表現の巾は変化自在であり極めて広いといえます。演奏スタイルは下品とか演歌的というのではないのですが、非常に濃いものです。目的のためには手段を選ばないといいますか、娘にもなれば熟女にも老婆にも化けるといったような・・・

コテコテの演奏がキライなわけではないのですが、ムターのこの演奏には、どこかついていけないものを感じます。聴いていて顔をしかめてしまうような部位がいくつもあります。例えば、第二楽章冒頭のノンヴィヴラートの音色など。もっとも、これはこれでびっくりするような音です。暗くかすれたむせび泣きであり、この楽章は全般的にヴァイオリン協奏曲というより、オペラの悲劇のヒロイン歌う哀しいアリアにさえ聴こえます。でも何となくムタれ気味になった耳に、オケのフルートの音色が新鮮に聴こえ、救われる思いだったりします。

夫であるプレヴィンとの共演というだけあってアンサンブルは悪くありません。ムターに十分にかつ自在に歌わせているように感じます。オケはバックで闊達すぎるムターを外側から優しく抱擁しているようでさえあります。

見事といえば見事なのですが、改めて伊東さんと同じように好きか・嫌いかと問われれば「好きとは言いたくない、が抗えない力も感じる」というのが結論ですな。

2004年11月28日日曜日

C・クライバー/ビゼー:歌劇「カルメン」

ビゼー:歌劇「カルメン」

カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
ドン・ホセ:プラシド・ドミンゴ
エスカミーリョ:ユーリ・マズロク
ミカエラ:イソベル・ブキャナン
フラスキータ:チェリル・カンフシュ
メルセデス:アクセル・ガル
スニーガ:クルト・リドル
モラレス:ハンス・ヘルム
レメンダード:ハインツ・ツェドニク
ダンカイロ:パウル・ヴォルフルム
ウィーン少年合唱団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ノルベルト・バラチュ(合唱指揮)
ウィーン国立歌劇場管弦楽団

カルロス・クライバー(指揮)
演出・装置・衣装:フランコ・ゼッフィレッリ
収録:1978年12月9日、ウィーン国立歌劇場(カラー&ステレオ)

季節の変わり目で風邪がはやっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。当方は絶不調が続いており、元気付けにという意味も込めて、クライバーの、《カルメン》(78年)をゲット、快晴の土曜日、西日が燦々と入り込む部屋で、DVD視聴をいたしました。

驚いてはいけません、《カルメン》でさえ私にとっては、これが初聴であります・・・


C・クライバーの《カルメン》はファン待望の正規映像とのこと。フランコ・ゼッフィレッリの舞台・衣装演出、37歳の絶頂期のプラシド・ドミンゴによるドン・ホセ、エレーナ・オブラスツォワのカルメン役です。クライバーファンには有名な演奏であるだけではなく、《カルメン》の演奏の中でも評価の高いものだといいます。

オペラ無学な私は、この有名すぎる《カルメン》のストーリさえ熟知しておらなかったのですが、ライバーの映像で、ようやく初体験を果たしたことになりました。
さて、感想はといえば、聴いてびっくり、観てびっくり。改めてどこの断片をとっても名曲のオンパレードであると感心すると同時に、ドミンゴやオブラスツォワもさることながら、やっぱりクライバーの指揮は何て魅力的なんだろうということに最初は尽きてしまいました。

オープニングの入り方からして凄い。拍手が鳴り止まぬ内にオーケストラをかき鳴らし始めます。颯爽として優雅で、しかも熱く、なんてカッコいいんだろうと溜息が出てしまいます。前奏曲での渾身の力を込めた指揮ぶりなども見ごたえがあります。

5分ほどの「通俗名曲」とさえ呼ばれるような聴きなれた音楽を、これほど優雅に、そしてワクワクと聴かせてくれることには心底驚きます。クライバーの音楽を聴いていると、安定した位置にある気持ちの重心を、不安定な位置にまで吊り上げられ、さらに揺さぶられているように感じるときがあります。微熱を帯びた高揚とでも称しましょうか、それが、この《カルメン》では冒頭から感じられるのです。期待は嫌でも高まるというものです。

圧巻は、第2幕のジプシーの唄ですね。猛烈なアッチェレランドとクレッシェンド、オケも歌手達も崩壊寸前にまで煽られながら、ギュンギュンと舞い上がってゆくかのように壮大なる熱狂を作ってゆく様は、衝撃的という言葉以外では表せません。カルメン演ずるオブラスツォワが、歌と踊りが結びついて、はじめはゆっくりと、でもだんだんと速く激しくと歌うそのままの演出が、舞台でひしめき合う男女や、フラメンコを踊る男女の熱狂が渾然一体となる様は悪魔的でさえあり、ここを以って《カルメン》のハイライトと言う意見もあることには納得してしまいます。

カルメンはホセから本当に心変わりしたのか

さて《カルメン》を観ていて疑問に感じたことがあります。それはカルメンのホセに対する気持ちです。

第4幕からラストに向けての展開を単純化しますと『心変わりしてしまったカルメンのもとにストーカーと成り下がったホセが押しかけ、カルメンの冷たい態度に、ホセが遂には逆上してカルメンを殺してしまう』ということになります。

しかし、カルメンは本当に心変わりしていたのか、ということが気になります。カルメンは仲間にホセが来ているから気をつけろと忠告され、更にホセが自分を殺そうとしている、ということを知りながら、敢えてホセに会っているのです。しかも、ホセに対し会話の中で何度も「私を殺して」という態度さえ取るのです。

最初に見たときは、ホセに対して自殺幇助を求めたようにさえ見えたこの場面。何度か観て確認しますと、カルメン演ずるオブラスツォワが実に複雑な表情で、揺れ動いている女心を演じていることが分かります。ホセをいとおしく思いながらも、彼女とホセは生きる世界が違っていることを知り、更には少しは闘牛士のエスカミーリョにも心が動いてはいたでしょう。そういう突き放した態度と、諦めきれない気持ちが、移り変わる場面で実によく演じられています。

鎖、指輪(愛)、自由と死

ラストのクライマックスでは、ホセが贈った指輪を放り投げたカルメンに逆上し、単純なホセはナイフを取り出します。そして「悲劇」です。ここでの演出は、カルメン自らがナイフを構えたホセに抱き寄るようにして刺されています。彼女から死に向かったという解釈のようです。

ホセからとっくに心が離れていたなら、最後まで指輪をしてたことは理解できません。おそらく彼女は、このような形でホセと「決着」することを、ずうっと待っていたのでしょう。ホセを愛するということは、第3幕でのカード占いの結果では「死」を暗示するものでした。誰にも縛られず、自由であることを願っていた彼女が、強い運命には抗えないことを知っていたとしたら。彼女が闘牛場の外でホセと会ったときに感じたであろう喜びと哀しみと諦め。自らの運命を自らの意思で断ち切ろうとした彼女を思うと、カルメンがホセを冷たくあしらう様は涙をそそります。

彼女は本当に自由を心から望んでいたのでしょうか。第一幕のカルメンの歌う有名なハバネラ《恋は野の鳥》の後、言い寄る男達をあしらいながら、カルメンは自分を無視しているホセに気が付きます。カルメンは彼に近づき何をしているのか?と問い、ホセは「鎖をつくっている」と答えます。「鎖? 心をつなぐ鎖」とカルメンは一瞬呆然としてつぶやき、ホセに(最初は戯れかもしれませんが)運命の花を投げつけるのです。

この点からも彼女の心情を憶測することはできそうです。いずれにしても《カルメン》には初めて接したばかり、参考文献にも全く接していないので思い違いかもしれません。ただ、カルメンの心情をどのように解釈するかで演出も感想も180度変わったものとなるでしょう。

それにしてもオペラの男性はガキばかり

最初は、カルメン演ずるオブラスツォワのアクが強すぎること、ドミンゴも37歳ですから直情で純朴な田舎の兵隊という雰囲気ではなくて、オペラの配役と実年齢のギャップやら、イメージのギャップに困惑してはいたのですが、第4幕での心理劇を理解しますと(勝手な解釈ですが)、それぞれの人物が急に際立ってきます。

特にカルメン役のオブラスツォワは、(もっと当たり役のカルメンもいるでしょうが)これはこれで納得です。ミカエラの清純さも捨てがたいのですが、劇に占める役どころは小さいですね。ワーグナーならさぞ献身的にして母性的な救済役として配するところでしょうか。

しかしオペラの男性役というのは、どれもこれもどうしてこう子供じみて単純なんでしょう。「愛した惚れた」で一直線で破滅に向かってくれます。《カルメン》はストーリー的にはむしろ、ホセの破滅の物語と解釈した方が良いと言われているようですが、この演出ではカルメン役のほうが光っているように思えます。

ドミンゴの歌唱力はそれはそれは素晴らしいでのですが、役にあまり深みがありません、ドミンゴを責めてはなりません。あと、ネット上の解説を斜め読みすると、ホセを「ストーカー」と評する文に多く出くわします。ホセは確かにしつこいし、殺意さえ持っていましたが、それを「ストーカー」と片付けるところに、現在の単純さと酷薄さのひとつが表出されているように思えます。あと、カルメンの心情に言及した文章はほとんどないのが不思議です。

このように観れば観るほど興味の尽きない《カルメン》です。クライバーの音楽も相まって「空前絶後」と評される演奏です。決して《ジプシーの歌》や《花の歌》だけがハイライトではない演奏であるというのが、本日の結論。

2004年11月24日水曜日

マイケル・デル:デルの革命

パソコンのダイレクト販売を行っていることで有名なデルの創業者が、自らのビジネスに対する考え方を書いた本。世界で成功するベンチャー起業者というのは、小学生の頃から才気あふれていて、一般のヒトとはやっぱり違うのだなあと思い知らされる本でもあります。


本人の資質は別としても、現代における経営やビジネスマンに対する示唆も多く、私としては大変面白い本でした。




デルのビジネスモデルがダイレクト販売によるSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)の確立であることは誰でも知っていますが、それは、デルの最大のポリシーである「顧客重視」という点からの当然の帰結だと書いています。従って、顧客のためにならない製品開発はやらないという判断も、昨今のプロダクトアウトからマーケットインへという潮流をみるまでもなく21世紀に生き残る企業像を示しているといえましょう。


会社は株主(オーナー)のものであり、株主利益の最大化が会社の目的とするのも、当たり前と言うには当たり前すぎる主張なのですが、日本の企業を見ていると株主利益など無視した経営をする企業も少なくなく、大企業であろうと未だに持ちえていないカルチャーであると思わざるを得ません。


経営判断をデータを用いて行い、例えば小売販売チャネルからあっさり撤退しダイレクトモデルという戦略を先鋭化させるという判断も見事。ROIという言葉は知っているものの、適切な経営データをもとにした判断という点では赤子のような私の勤めている某企業など、デルの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだと、つくづく思うのでした。


デルは起業以来、いまだかつて見たことのない高い成長率(業界成長率より高い成長率)と高利益率を確保しつづけていますが、会社としての体脂肪率は極めて低く、ポリシーもシンプルである点、企業経営者ならば見習うべき点は多いと思うのでした。


創業者自らの本なので、手前味噌もあるとは思うのですが、堀江某の本よりはよっぽどタメになるかなと・・・

2004年11月21日日曜日

ハーン/エルガー:ヴァイオリン協奏曲

エルガー:
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61
4つのピアノ小品 Op.119
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス(指揮)
ロンドン交響楽団
Deutsche Grammophon
474 5042

しばらく多忙で、音楽を聴くどころかエントリーするのも面倒な状態が続いておりましたが、アクセス解析を見ると、更新しなくても訪問してくださる方もいらっしゃるようで、恐縮でございます。

さて、遅ればせながら、ヒラリー・ハーンの新譜であるエルガーのヴァイオリン協奏曲を聴きました。最初はパッとしなかったのですが、10回くらい聴いたら良さが分かってきました。曲に最初馴染めませんでしたので、ハーンへの言及は僅かです。

エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴くのは本盤がはじめて。ヒラリー・ハーンの新譜ということで購入したのですが、一聴しただけでは長大なだけでとらえどころのない曲といった印象。

そもそもエルガーなんて「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らない、「チェロ協奏曲」なども持っているハズだが、ドンナ曲だったかはさっぱり。

そういうわけですのでライナーなどを頼りに知識を仕入れると、ヴァオイリン協奏曲は彼の最愛の友人であるAlice Stuart-Wortley(妻の名前と同じであることから、エルガーはWindflowerと名付ける)に捧げられたものなのだとか。

表向きは、名ヴァイオリニストのクライスラーに捧げられていることになっていますが、楽譜には「ここに...の魂を封じ込める」とスペイン語で書かれているのだそうです。実際1912年にAlice Stuart-WortleyにI have written out my soul in the concerto,Sym.ll& the Ode & you know it. In these three works I have shewn myselfと書き送っているそうですから。

有名な「愛の挨拶」は、二人の婚約を記念した美しい曲ですし、愛妻家で知られたエルガーですのに、Windflowerをはじめとして、彼の周りには少なからぬ女性が登場しているようです。ただ、関係は非常にプラトニックなものであったそうですが。

さて、このようなエピソードが作品解釈上有効であるのかはさておき、改めて聴いてみるならば彼の情熱と憂鬱、老年にさしかかっての回顧や悔恨などがほろ苦く聴こえてくるようですから、先入観というのは恐ろしいものです。

重苦しいオーケストレーションに対してヴァイオリンに与えられた技巧的なフレーズは、抑えがたい感情の本流にも感じられます。そこかしこに聴こえるWindflowerのテーマは、聴いていて切なくなりますね。あんた、そこまで思っていたなら・・・などと考えてしまいます。

しかし、そこは愛妻家で鳴らしたエルガーですから、立ち込める霧のようにほの暗く曖昧とした中に、ふと立ち現れる感情なのでしょうか。控えめであるだけに、美しいのですね。

解説によると、第二楽章のヴィルトオージックなヴァオイリンのフレーズが"トリスタン・コード"で導かれていると書かれています。"トリスタン"はめくるめく破滅への愛の世界ですが、確かに私は第一楽章からトリスタン的な狂おしい雰囲気を感じはしました。ただし破滅には向かいませんがね。

エルガーが人生の終わりに近づいた頃、16歳のメニューインの録音を聴きながらThis is where two soul merge and melt into one anotherと語ったそうです・・・。(ああ、死ぬ前でよかったね)

この第二楽章のヴァイオリンのフレーズなど涙が出そうになるくらいに美しいです。それを支えるバックも見事。解説では伝記作者Michael Kennedyのno matter whoese soul[the concetro]enshrines, it enshrines the soul of the violinを引用していますが、まさに其の通り。エルガーのソウルがヴァイオリンの精へと昇華しているかのよう。

それで、ヒラリーのヴァイオリンなのですが、このような音楽を表現するのに、これ以上はないのではないだろうか、というくらいに美しく、繊細で、慎重で、しかし力強い音楽を奏でてくれています。音色は心が一本通っています。表現にクセはなく、相変わらずテクニックには一分の隙もなく、硬質ながらも仄かな気品さえ漂わせながら、この長大な愛の音楽に正面から挑んでいます。

2004年11月17日水曜日

パウエルの辞任

パウエル国務長官の辞任ニュースが世界を駆け巡っています。イロイロな憶測は乱れ飛んでいますが、ブッシュ新政権がパウエルなきあとでも中道派(ハト派、穏健派ではない)勢力へと舵取りができるようになった、という見方には不安と疑問を感じます。

パウエル辞任は世界情勢を左右しますが、日本的にはアーミテージ副長官や農務長官アン・ベネマンの辞任の方が影響が大きいかもしれません。

私的には「ライスの顔も、そのうち描かなくちゃならないのか」というぐらいの影響しか当面は考えられませんが。(パウエルだって、イラク開戦の頃描いたものです。あまり書くことがないので、「埋め草」でした・・・)

2004年11月7日日曜日

映画:山猫

k-tanakaの映画的箱庭でヴィスコンティの傑作「山猫」が上映されていることを知り観てきました。イタリアの至宝、映像の世界遺産とでも言うべき作品が国を挙げての文化事業として復元され、撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノの監修で何度も改良を重ね今世紀に入ってようやく終了、「イタリア語・完全復元版」として甦った。ということだそうで、堂々3時間6分の大作として劇場に蘇ったことは、それ自体が感動的な出来事と言えましょう。

改めて観ますと、映画の重厚さ、映像の華麗さ、演技の深みなど、全てにおいて圧倒されてしまいます。映画の1/3を占める舞踏会のシーンも圧巻なのですが、シチリアの乾いた風土や、脇役たちの悲喜こもごもの表情などにも人柄がにじみ出ており、どこを取っても完璧な出来です。



配役では没落する貴族サリーナ公爵を演ずるバート・ランカスターが圧巻ですが、甥のタンクレディを演ずるアラン・ドロンの野心を帯びた若さもさすがで、彼の鋭い光があるが故にサリーナ公爵の翳が一層際立っています。タンクレディの婚約者アンジェリカを演ずるクラウディア・カルディナーレは個性の強い顔立ちで、私はあまり好みではないのですが、映画では抜群の存在感です。彼女の存在なくしてこの映画はあり得ないとも思え、好き嫌いのレベルを超えています。あの品のない笑いには、思わずこちらも失笑、いやあ素敵です。

舞踏会のシーンは、もうおなかいっぱい、ウンザリ、というくらいな映像なんですが、貴族たちというのは礼儀正しくも放蕩で、しかも体力があったのですね。ウェストを絞ったドレスを纏った淑女たちと正装や軍服姿の紳士たちが、汗だくになって夜通し踊り続けるのですから。ヴィスコンティにしてみれば、華麗な世界の再現とともに、サリーナ公爵がつぶやく「無意味な会話」というような壮大なる浪費までも表現しつくしたということでしょうか、何ともシニカルです。


「山猫」を観ていると「椿姫」を思い出しましたが、それは華やかな舞踏会のシーンだけのせいではなく、第2幕第2場「あたしたちははるばると訪れた(ジプシーの女たち)」などの旋律を、シチリアの下手な楽隊に演奏させたり、ヴィオレッタのアリアを避暑地の聖堂のオルガニスとに演奏させたりと、映画の中でさりげなくヴェルディしていたからなんですね。フランスのクルティザンの愛の音楽を聖堂にですか。これもヴィスコンティの演出でしょうか、それともヴェルディがそれほどまでにイタリアに溶け込んでいるという査証?


サリーナ公爵がカラヴァッジョかグレゴ風の絵に見入っているシーンも印象的です。自らの死を見つめながらも、それに抗うことなく実を任せる姿。サリーナ公爵の晩年の在り方は、新旧の交代という意味からマーロン・ブランド演ずるゴッド・ファーザーのラストと微妙にダブりました。

映像美ということでは、有名な舞踏会のシーンは蝋燭のシャンデリアなのに妙に明るかったり、影がシャンデリアの光源からはありえない方向からのものであったり、ヲタク的に観るとおかしい気もするのですが、キューブリックが「バリー・リンドン」で使ったようなカメラを、ビスコンティが持っていたら、どうなっていたんでしょうね。

2004年11月6日土曜日

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲












ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を聴いてみました。ショスタコがジャズをどうアレンジしているのか、ということに興味があり購入したのですが、あれれ、これはジャズというよりも「軽音楽」ですね。


明るく軽快な、そしてちょっとノスタルジックでダルな音楽の寄せ集めといったところ。実際にバレエ、映画、劇音楽を集めたもののようです。「ジャズ」ということを期待して聴くと、裏切られますが、軽音楽を愛したショスタコの一面を聴く意味では興味深い曲でしょうか。




ジャズ組曲 第2番は、《舞台管弦楽(Stage Orchestra)のための組曲》とあり、オーケストラに、サックスやアコーディオン、ピアノなどが加わっています。《マーチ》は、間違いなく秋晴れの晴天下での運動会オープニングに最適です。続く《リリック・ワルツ》は、フルオーケストラをバックにしたサックスのテーマがノスタルジックな気分を誘います。ダンス 第1番は後に映画音楽「馬あぶ(Gadfly)」作品97で《祭日》として知られるようになった、これまた脳天気に明るい曲。しかし「馬あぶ」という映画とは・・・!


映画音楽といえばワルツ 第2番は、スタンリー・キューブリックの遺作で、トム・クルーズ、ニコール・キッドマン主演の「Eyes Wide Shut」で使われた音楽。再びサクスフォーンの音色に導かれて曲は始まります。NAXOS解説ではsinuous saxophone melodyとあります、意味深な表現ですね。映画は観たことがないのですが、甘美にして複雑な感情を秘めた秀逸な音楽です。


ところでこのジャズ組曲 第2番ですが、2000年にピアノ譜が発見され、G.McBurneyによって2000年のプロムス・ラスト・ナイト・コンサートで3楽章形式のジャズ組曲が演奏されたとのこと。ショスタコの「ジャズ組曲」は二つあるってことなのでしょうか?


ジャズ組曲 第1番は、3曲構成の小品。先ほどのワルツ 第2番のサクスフォーンのテーマをトランペットが奏でている曲から始まります。こちらはこちらで、放浪する旅芸人がまとう哀愁のようなものを感じます。

この盤にはジャズの名曲である「二人でお茶を」の管弦楽編曲編が最後に納められていますが、なかなか洒落ています。お馴染みの名曲をショスタコが編曲しているとは、とちょっと驚きます。

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲 第1番、第2番他

指揮:ドミトリ・ヤブロンスキー ロシア国立交響楽団
NAXOS 8.555949

2004年11月4日木曜日

映画:2046


ウォン・カーウァイ監督の<2046>を観てきました。木村拓哉が出演しているとか、アンドロイドに恋をするなどの近未来的な映像の宣伝にすっかり騙されてしまいましたが、この映画にSF的なものを求めるのならば、それは100%裏切られます。言ってみれば色男の女性遍歴と、彼が彼自身を求めて内面へと降りてゆく、非常に息苦しい映画なんですから。




何と言っても、カメラワークが異様ですね。2時間以上のこの作品、ほとんどが部屋の中で、それも人物がアップで描かれています。それも、手前や横に大きく部屋の一部が写りこむ形で写されていますので、観客はどこかから部屋を覗き見しているような感覚になります。


色男を演じるトニー・レオンですが、実際彼も映画の中で自分自身の過去を覗き込んでいるという設定ですから、こういう演出もありかなとは思いますが。(彼の役柄も、口髭も私の趣味ではないので、そこらあたりでも感情移入がしにくく、ちょっとつらかったりします)


映画にはアンドロイドなんてほとんど出てきません。もう少し伏線として列車の中でのシーンを重視して欲しいという気はしましたが、メインテーマではないので仕方のないところでしょうか。しかしアンドロイドが、その瞬間では気持ちが分からない異性へのアナロジーなのではないかと気付かせてくれます。


「俺と一緒に行かないか」と木村拓哉やトニー・レオンは繰り返します。しかし、それに相手の女性は無言で答えるだけ、彼らには自分がこんなにも愛しているのに、彼女らの拒絶の理由が分かりません。別れた数時間後に、彼女たちが悲痛の涙を流していたとしても、彼にはそれがわからないという意味で感覚が麻痺していて、其の瞬間には喜怒哀楽を表現できなくなったアンドロイド(数時間後に笑ったり泣いたりする)と相似であるということなのでしょうか。

過去に、思いを寄せた女性から拒絶された経験を持つ主人公トニー・レオンが、その後、次々と女性遍歴を繰り返すのも、宿泊先で知り合った日本人男性に自分の昔の姿を重ねるてしまうのも、自然な成り行きであるのかもしれません。


だからと言って、トニー・レオンのチャン・ツィイーに対する酷薄な態度は、感情的に許せなかったりするのですが、まああのくらいの態度を取れなくては「女遊び」などできず「色男」になどなれないのでしょう。それでも彼の心に忍び寄るのは、いつまでも離れない昔の想いであり「失われた愛」をもう一度みつけるために<2046>に旅立たなくてはならないのだとするのならば、彼の人生もそれほど華麗というわけではなさそうです。


彼らが、あるいは彼女らが何を打ち明けたかったのか、映画の中で何度か繰り返される「秘密の打ち明け方」。すなわち森の中の大きな樹の下に穴を掘って、秘密を埋めてしまうということ。そうまでして、自らの気持ちを押し隠し、そして解放せずにはいられないという狂おしいまでの欲求。彼らが求めた<2046>は主人公の書く小説の題名でもあり、書くという行為が彼の心を解放するのではありますが、しかし彼には遂に「ハッピーエンド」を書くことができないのです。娯楽小説ならば死んだ人間を再登場させることもした彼が、100時間も原稿用紙に向かってもハッピーエンドを思い描けないということは、救われない結末です。


映画はかように、派手さはなく内面的な故に、贅沢なまでにアジアのスターを結集させてはいるものの、ウケない人には全くダメなようです。同監督の<花様年華><欲望の翼>などを観ている方(私は観てない)には、更に評価は低いようです。個人的には充分楽しめましたし、チャン・ツィイーの魅力や、コン・リーの圧倒的な存在感など、アジアの女優の演技を鑑賞する意味でも価値はあったかなと思います。


あと、音楽も良いです。フルートの奏でる旋律は、楽譜が欲しいくらいです。


もひとつ、いくら宣伝とは言っても、この映画の予告編はムチャクチャです、これほど予告編と内容が乖離している映画も珍しいんではないでしょうか>え?映画を知らない人間の勝手な思い込みだって?


追記

俺の右手にいた、映画観ながらいで始終ケータイメールしていた女、映画館ではマナー守れよな。そうそう、木村拓哉出演のせいか、女性一人客が目立つ映画でした。彼女らの期待は果たして満たされたか?

2004年11月2日火曜日

[ニュースメモ]イラクの香田氏殺害事件


イラクの香田氏事件について。


  • 今回は仕方ないという風潮、自己責任と自業自得
  • 24歳の世界認識の甘さ=日本の認識の甘さ、少しは情勢を知る者ならばイスラエルからイラクには入らない
  • 海外のメディアの反応、日本人の態度の「冷たさ」
  • 小泉首相は「人質を殺すな」ではなく、「テロと戦う」というメッセージをいの一番に出したことの意味
  • 世間の酷薄さと日本人の酷薄さ
  • 自衛隊をイラク派遣していなければ起こらなかった~という論理に欠けているもの
  • 彼を殺した犯人は連続殺人鬼と称される重要犯罪人ザルカイとされるが、香田氏のような無知を生み出したのも日本である



2004年10月28日木曜日

iPod Photo とか ネットラジオとか


iPodがついにカラーLCDを搭載したモデルを発表したとのこと。

iPodは魅力的ですが、ディスプレイのカラー化や画像を持ち歩くという欲求は私にはない。ビデオ再生機能などもっての他なのですが、AppleのCEOであるSteve Jobsが、『
「iPodに入れるビデオコンテンツなど誰も持っていないし、たとえ持っていたとしても、スクリーンが小さすぎてよく見えない」とJobsは述べ、iPodはビデオには「相応しくない場所」だと付け加えた。
』というのには納得。

そういう記事を読んでいたら、オペラキャスト10月26日のエントリで「SONY VS i-pod  勝ち目なし?。。」というエントリーが目に付く。業界の思惑や新しい情報に疎い私は、mp3やATRACなどのフォーマットの違いによって機種が限定されるのは、コンシューマーにとっては不便なだけであり、あまりにも売り手市場の論理でないかと反発を覚えています。




mp3をATRACに変換するのは、それほど面倒ではないとか、そういうモンダイではなく、どうして業界として統一フォーマットができないのか、あるいは、なぜ異なるフォーマットでも再生できるようにしないのか、ということこそモンダイなのではないかと思うわけです。(覇権争いという点では、企業戦略としてはあると思いますよ)。


昨今のDVDをめぐる二つの陣営も、利用者無視のまま進んでいますし、ひいては日本プロ野球の低レベルなゴタゴタだって、あまりにも業界の論理が前面に出すぎてはいないかと・・・。

iPodは持っていないのですが、iTunesをPCにインストールして、PCの中の音楽ファイルを管理することは可能。インストールして分かったのですが、SONYの提供するSonicStageよりはるかに使いやすそう。それにネットラジオをサポートしているのも便利。


ということでやっと本題で、最近はプライベートでPCを使っているときは、radioioClassicaをかけながらということが多くなりました。他と比較していないので何とも言えませんが、メシアンやコープランドなど現代モノも多く流されていて楽しめます。つーか、こんなに素敵な曲も知らないのか、と改めて無知ぶりに恥じ入っていおり、まったくもって、音楽の感想を書くレベルに到底達していないなと・・・思うわけです。


にしても、これから寒くなる季節、iPodにもセーターが必要ですね。札幌では今日、初雪があったらしいです。いよいよ冬到来ですな。(酔って書いたら支離滅裂>酔ってなくても意味不明ぢゃん!)


2004年10月27日水曜日

アンネローゼ・シュミット/ブラームス:作品119

ブラームス:
4つのピアノ小品 作品119
4つのピアノ小品 Op.119
アンネローゼ・シュミット(p)
1979年11月18日/19日、日本コロンビア第一スタジオ
DENON COCO-70536

CD棚をごそごそやっていたら、アンネローゼ・シュミットさんの弾くブラームスの4つの小品 作品119がみつかりましたので、ケンプの盤と比べてみました。いやあ、全然印象が違うので、びっくりしてしまいましたよ。

アンネローゼ・シュミットの弾く作品119

ああ、なんてことでしょう。あんなにも穏やかだったケンプの弾く作品119とは全く違った世界がここにはあります。ひとことでいえば、生きがよく弾けるような生命感に満ち溢れた、力強い音楽に仕上がっています。迷うような寂しさよりは、強靭な精神の中に秘められた孤独を感じるような演奏で、ある種の凄みさえ感じます。枯淡の中に迷ったり、昔を思い返すような音楽ではないですね。(ここらへん、かなり主観独断的)

アンネローゼ・シュミットは1936年生まれで旧東ドイツを中心に活躍したピアニスト。この演奏は1979年のものですから43歳頃の時の演奏になります。何度か日本にも来ているようで、美貌のピアニストとして有名であったとか。

それにしても、シュミットのピアノは強烈、というか、こうして比べてみるとケンプがやっぱり「甘い」のか、それを「味」と感じた指のもたつきも、リズムの乱れも「ダル」に聴こえる、表現は聴始終「泣いて」いるようでさえある。

それに比してシュミットは硬質な響きが印象的で、スピーディーに進みます(第3曲:ケンプ1:42、シュミット1:16、第4曲:ケンプ5:10、シュミット4:26)。余計な誇張やわざとらしさはあまり感じない。ストレートな表現、あるいは「虚飾」がないと言っても良いかもしれません。2楽章最後の、ほのかな花が咲いたかのような柔らかな表現を聴くと、バリバリ弾いているところよりも凄いと思います。3楽章から4楽章にかけては打鍵も強く圧巻です。鄙びた味わいなどどこにもありません。

ちなみにこの盤のメインは、ケーゲル&ドレスデン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第2番、DENON CREST1000で今は求めることができます。

2004年10月24日日曜日

展覧会:「興福寺国宝展」


東京藝術大学 大学美術館で開催されている「興福寺国宝展」を観てきました。


阿修羅像で有名な興福寺は古都の奈良県を代表するお寺で、創建依頼、平安末期の戦火や落雷により幾たびも灰燼に帰してきました。鎌倉時代から復興がはじまり、堂宇の再建や造像がなされており、この復興の中で運慶をはじめとする「慶派」の優れた仏師が造像を担当しました。興福寺は平成22年(2010)に創建1300年を迎えるに当たって様々な事業が計画されており、今回の展覧会もその一環とのこと。


まあ、そういう面倒なことはさておき、パンフレットにある金剛力士像や無著菩薩像にお目にかかれるというので、楽しみにしておった次第です。




展示は大きく二つに分かれているのですが、何と言っても圧巻は3階の諸仏たちに尽きます。入って迎えてくれるのが、上に示している運慶の手になる国宝 無著菩薩立像(右)と世親菩提立像(左)です。




無著は五世紀頃に北インドで活躍した僧で世親とは兄弟。穏やかななかにすくとした威厳と敬虔さ、そして静寂さ、それでいて信仰心に裏付けられたゆるぎなさと力強さ。どこにも隙の見当たらない立像を目にしますと、思わず溜息がもれてしまいます。顔の表情といい、法衣の流れといい、全く持って木彫技術の素晴らしさには目をみはります。


完成当時はおそらく彩色がされており、現在私達が目にする像とは全く違ったものであったとは思うのですが、時代を超えて伝わる力には改めて感服いたします。


これ以外にも康慶作とされる円陣を組むように拝されて展示されている四天王立像にも、その迫力に圧倒されます。踏み潰された邪鬼たちの表情はノートルダムの悪魔を彷彿とさせます。こちらも当時は極彩色であったろうことが伺われ、当時の姿を思い浮かべながら憤怒の表情に魅入ってしまいます。

運慶の三男である康弁作の国宝 龍燈鬼立像(左)は、これまた珍しい像。四天王に踏み潰されてた邪鬼が立ちあがり、灯明を頭に支えているというもの。首の周りには蛇をまとっています。情けなさの中に愛嬌のある表情で、諸仏の中でもひときわ観覧者に人気を博しているようでした。筋骨隆々の小柄な体にフンドシ姿が何ともユーモラス、踏みつけられた邪鬼の矜持を感じます


パンフレットに示されている国宝 金剛力士像 阿形も圧巻の一言。正面から、側面から、背面から、さまざまな角度から眺めましたが、まるでロダンかミケランジェロかと思うような筋骨隆々の造形美。腰にまとった布に描かれた装飾も見事。


という具合に、仏像が好きな方には、けっこうたまらない企画ではないかと思います。そのほか地味ではありますが、紺地に金文字で書かれた経典(名前は失念)や春日版板木など、経典ファンも充分満足できる品揃えです。あまりに有名な阿修羅像が展示されていないのは残念でしたが「鎌倉復興期のみほとけ」というテーマですから、いたし方ありませんか。


それにしても、こんな展覧会でも結構込んでいました。NHKが宣伝したというせいもあるのでしょうが、老いも若きも仏像好きな方というのは多いのですね。

2004年10月18日月曜日

ケンプ/ブラームス:後期ピアノ作品集

ブラームス:後期ピアノ作品集
ケンプ名盤1000 ピアノ名演第2集
3つの間奏曲 Op.117
6つの小品 Op.118
4つの小品 Op.119
ヴィルヘルム・ケンプ(p)
DG POCG-90117(457 855-2)

今日は休日にして久しぶりの快晴、気持ちの良いくらいの秋晴れです。休養をたっぷり取っているので朝6時過ぎには目が覚めてしまいます。富士山がくっきりきれいでした。

さて、ヴィルヘルム・ケンプが昨日エントリーしたビレットのメンターであったということで、思い出したように引っ張り出して聴いてみたのがブラームスの後期作品集が納められた本盤。

一般にブラームスの後期ピアノ作品というと116番~119番を指すことが多く、これらの曲は派手さはないものの甘美さと寂寥感がないまぜになった曲で、秋深まる季節に聴くにはもってこいです。

この曲たちには枯淡とか訥々としたというような表現を冠したくなりがちですが、よく聴くとブラームスの複雑な心境を吐露しているようにも思えます。

さまざまな思いがよぎり、昔を思い出すかのような雰囲気が漂っているかと思えば、何かから解放されたかのような自由さを感じさせたりもします。それが得も言われぬ歌となって奏でられるのを聴いていると、心をじかに撫でられているような気にさえなります。これはケンプのピアノのなせる技なのでしょうか。ブラームスが何から解放され何を悟ったのか、それは分かりませんが聴いていて飽きることがありません。

それにしてもブラームスが晩年に至って、この曲を書くような境地に至ったことは興味深いものがあります。特に作品119は弟や姉に先立たれ、知己も少なくなってきた孤独感が投影されているといいます。119-1でのまるで水滴の響きのような旋律は、ブラームスがクララに宛てて「非常にゆっくりと、ためらうように弾いて下さい」と注文を付けたと言いますが、まさに時間が過ぎるのを惜しむほどの音楽です。119-4の力強さと抒情性の振幅の美しさには涙をさそいます。これらの曲は、ベートーベンが音楽の極北にまで達したのとは対照的といえるかもしれません。

録音は1963年の演奏ですから、ケンプが70歳近くでの演奏です。ケンプのピアノは下手だとか、ブラームスの後期作品のような曲はケンプではダメだという意見もあるのですが、どうなんでしょう。他と比較しているわけでないのでよく分かりません。でも作品117など適度なテンポ感といい、どこか甘いアンニュイな雰囲気とか非常に良いと思います。

2004年10月16日土曜日

リゲティ:ピアノ練習曲集 第1番&第2番












風邪で鼻水はとまらず喉も痛く頭が朦朧とするなか、今週は夜のお付き合いが何度もあったりで、すっかり体調はガタガタ。本日の会議もほとんど睡魔と闘うという情けなさです。


頭を少しはすっきりさせようとHMVで何気に手に取ったのがこの盤。『脳味噌がパニック!複雑リズムの極地!!』と記されているリゲティのピアノ練習曲集 第1番と第2番ですが、果たして聴いてみれば、まさに脳天を棍棒で撃ち下ろされたような衝撃。




嗚呼、私はリゲティも聴かずに今まで生きてきて、やれラウタヴァーラだのカプースチンを述べようとしていたのか。初めて聴いた偉大な作曲家を評せるはずもなく、ただただ悪魔的な鍵盤の技から生み出される強烈なリズムと複雑な音色に陶酔するのみ。


彼にしては「現代音楽的」ではなく、聴きやすいという評であるらしいものの私にはきわめて「現代的」響き。作品集の中で独立して演奏されることも多い「無秩序」「ファンファーレ」「ワルシャワの秋」「魔法使いの弟子」「悪魔の階段」あたりを繰り返し聴く。変化に富んだ音が様々に色彩を変えながら流れるのをぼおっと聴いていると、クラシックの曲を聴いているような気にならないワクワク感があります。「あ、やられた、ここでそう来たか」「うひゃア、なにそれ」とか、まるでビックリ箱です。


ピアニストはビレット(Idil Biret)というアンカラ生まれの女性。コルトーとケンプ(ケンプは彼女のメンター)の弟子であるとのこと。もはやピアニストに対し「女性にしては」などという形容詞を付けることの無意味さを感じます。他と比較したわけではないものの、力強さと独特の叙情性が伝わってくる演奏。驚きながらも今の季節、内省的な気持ちにもしてくれます。ただあまりに有名らしい「悪魔の階段」はイマひとつ衝撃的ではなかったのですが。


リゲティ
ピアノ練習曲集 第1巻&第2巻

  • (p)Idil Biret
  • 2001 NAXOS 8.555777

2004年10月14日木曜日

米大統領選の行方と防衛構想


会社の部下が連休前から酷い風邪をひいてきおり、どうやらうつされかけています。昼過ぎから喉が痛くなってきたのですが、部下ときたら「いつも、(あなたから)風邪をうつされているので、今回は私の番ですね、強烈ですよ。」と脅します。


ということで、ブログも面倒になってくるのですが、気になったことをメモしておきます。



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アメリカでは来月の大統領選挙に向けてブッシュとケリー候補がTV討論などで熱弁をふるっています。海外のWeb Newsを見出しだけでも見るとはなしに見ていても、毎日彼らの話題で持ちきりなことが分ります。


今回の選挙は「戦争最中の選挙」であることから、「イラク戦争」を含め今後の防衛についてどう考えているのか、今後4年間で何を実現させるのかを占う点でも、日本にとっても無関係の話題ではありません。


しかしどうなんでしょう、防衛に関して言えば、日本はアメリカ追随の姿勢から、武器輸出三原則の見直し、憲法改正、独自の防衛力構想をも含め、何か議論がかみ合っていないような気がしています。「テロとの戦い」というのを最大限許容したとしても、ハード面でもソフト面でも冷戦時代をひきづっていないかと。その最たるものがMD(Missile Defence)だったりします。


これについて、10月9日付けのJMMは「アメリカの選択、日本の選択」と題しこの問題は日本の産業競争力を損なう危険があり、計画に参加すべきではないし、また武器輸出三原則の緩和も日本経済を繁栄させるという観点から見て、下策だと書いており、納得させられました。


「産業競争力を損なう」という主張は、防衛産業という国家機密に類する産業は国際競争力が働かないためであるとし、以下のように書いています。


戦車や軍用機、そしてハイテクの塊のようなMDなどに至っては、「軍事機密」という隠れ蓑の向こう側で、一体何が妥当な価格なのか、社会的なチェックは不可能です。こうした環境は日本経済の不得手とするところです。MDプロジェクトにおいて、アメリカから強く誘われるまでになった日本の技術力は、民需の過酷な価格と性能の競争によって養われたことを思うと、政治と軍事の影に隠れた世界では、コストと性能という板挟みの中で戦う緊張感を維持することはできないと思います。

MDによる均衡の崩れとか、MDの実質的な効果とか、対テロにMDが必要かとか、果てしない軍拡競争というかつての冷戦時代にもあった技術的問題も被さってきます。北朝鮮の脅威を最大限に考えたとしても、得策かどうかは分りません。


10月12日Washington PostのOP-EDでもDavid Brooks氏は、大統領選挙における候補者の主張「赤字の削減」と「軍事費の拡大」の矛盾を鋭く突いており、MDについても以下のように述べています。


A starting point for defense budget skeptics is national missile defense. The Bush administration plans to spend $10.7 billion this year in a rush to deploy a system that even some of its own experts say isn't ready. That spending could be cut in half, to allow the testing for a system that would eventually work against potential adversaries such as North Korea or Iran.


David Brooks氏はMDのほかにも冷戦時代を踏襲したような無駄な軍備について指摘していますが、日本がアメリカの軍事費までをも肩代わりをするようなことに、みすみすなってしまうことは避けてもらいたいものです。

2004年10月9日土曜日

オズボーン/カプースチン:ピアノ作品集

今週の東京は地震に台風ですか、休日はひどい天気になりそうでウンザリです。今年最後の三連休ですのにね。(これが終われば、そろそろ「忘年会」の声さえし始めるような気配です)


ということで、今日はオズボーンの演奏です。
ピアノ・ソナタ 第1番(ソナタ・ファンタジア)op.39
ジャズ・スタイルによる24の前奏曲集op.53より
ピアノ・ソナタ 第2番op.54
スティーヴン・オズボーン(p)
hyperion MCDA67159

オズボーンは1971年生まれのイギリスのピアニスト、アムランに先立って1999年9月に録音したのがこの盤です。二つのソナタ(No.1、No.2)とジャズ・スタイルによる24の前奏曲集から5曲をチョイスした構成。

オズボーンのピアノを聴くのは初めてです。アムランほどの自在さは彼のピアノからは感じられませんが、アムランに馴染んでからオズボーンを聴きますと、アムランの演奏が鮮やかすぎるせいでしょうか、こちらの演奏は大人しく堅実に聴こえます。もっとも聴き手の体調によってはオズボーン盤の方がしっくりくるときもあるかもしれません。アムランとオズボーンを比較するのも愚なようですが、アムランが「ドライブ」しているとすれば、オズボーンは「ライド」と言ったところでしょうか。

オズボーンがソナタ第1番、2番をhyperionに録音してしまったので、アムランの演奏が録音されないと嘆く方もいるようですが、私は結構楽しく聴くことができました。オズボーンの演奏がどうこうというよりも、カプースチンの曲が良いです。

ピアノ・ソナタ第1番は1981年の作品、カプースチンはこの曲を作るまでに幾つもの曲(コンチェルトを含む)を作曲していますから、ソナタへの着手は彼のキャリアを考えるとかなり遅いようです。そこらあたりの事情をオズボーンはCould it be that, intimidated by his predecessors, he shied away from the sonata, as did Brahms from shmphony?と推測しています。(ピアノ・ソナタは現在では13番 Op.110まで作曲されています)

ピアノソナタ第2番は、特に第一楽章がオズボーンの演奏では指定ピッチよりも遅すぎて、精彩を欠いているという評も目にしますが、他者の演奏比べているわけでもないので、彼のテンポと曲作りが私には刷り込まれてしまいました。

二つのピアノソナタはかなり秀逸な作品だと思います。ジャズのエッセンスをクラシックに当てはめたとかいう表層的なものではなく、クラシックの曲としての構成美と美しさが、ジャズの自在さを獲得して羽ばたいているかのようです(うーん、どう書いてもうまく伝わらない、聴きなさい)。「ジャズとクラシックの融合」と書いたときに感じる「胡散臭さ」は微塵もない厳格なる曲です。アムランやカプースチン、その他の演奏者がどう弾くかは興味深いです。

2004年10月7日木曜日

ネットとマスコミ なんちゃらかんちゃら


マスコミとネットに関して考える機会を持たせてくれるエントリーがいくつかありましたので、忘れないうちに書いておきます。

(以下個人的メモ)




��月にGoogle News(日本)が始まり、通勤途上では日経を、デスクに着いたらとりあえずGoogle Newsを立ち上げるようになりました。


そんなおり「擬藤岡屋日記」でgoogle日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているとのエントリーがありました(Unconvincing algorithm [2004/10/2 18:40] )。それを受け「ネットは新聞を殺すのかblog」において、Googleニュース(日本)のリンク先リストを公開しているブログが紹介され(Ceekz Logs)それを閲覧したところ、大手新聞社は朝日と日経だけがGoogleのリンクを承諾しているのみ、これではニュースソースが偏るわけだと納得した次第です。海外発信の記事はGoogle News(海外)や、それこそロイターやAPを当たった方が早いですが、英語が苦手な私には、Google News(日本)は、そこそこ便利なサイトであります。


ネットに常時接続している人の中には新聞を購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社も新たな収益モデル構築に頭を悩ます必要に迫られているのかもしれません。先週末の朝日新聞(紙面)では、イギリスの新聞各誌が「タブロイド」版にサイズを変えることで売上を確保(伸ば)しているという記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで購読者にはウケているそうです。エスタブリッシュな新聞社は、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革であったと書いていました。日本のみならず、各国とも苦労しているようです。


tsuruaki_yukawaさんのブログタイトルの通り「ネットは新聞を殺すのかと」いう議論がありますが、ウェブニュースあるいはブログの隆盛によっても新聞がなくなることはないだろうことは、tsuruaki_yukawaさんの「新聞が本当になくなってもいいの?」というエントリーによくまとめられています。Google NewsもYahoo Newsもブロガーも自らが取材して記事を書いているわけではない以上、情報の監視者ではあっても発信源ではないようです。


そのニュースにもしかすると裏があるのではないかということを多くの人が気付き始めています。「サンデープロジェクト」などのニュース解説番組に人気のあるのも、奥様方のものであった「芸能ニュース番組」が政治を取り上げ始めたのも、タテマエだけ公正公平なことになっているマスコミ情報に対する疑問と、より深い情報に対する要求から支持されているのだと思います。その延長線上で、良質なブロガーによる独自の視点が、ニュース理解の助けになってきています。


こうして俯瞰しますに、ネット対既存マスコミという観点ではなく相互がコラボレーションすることが今後重要であると思うわけで、そんな中「週刊!木村剛」の動きは若干の疑問があるものの、見事に時流に合った取組みだと感心します。今後の動きには更に注目したいところです。


ただ彼が、10月4日のエントリー(ネット有名人vsリアル有名人:テレビは見ないがネットは使う [2004/10/4 9:00])で、『40代以上の私の世代では、おそらく「テレビは見ないが、ネットは使う」という人はほとんどいないように思います』と書いているのは、どうなんでしょう。TVの作り手は明らかに40代をターゲットにしていませんから、スポーツを別とすると(これさえ酷い放映の仕方ですが)観るに耐える番組は極めて少なく、TVでニュースを見るくらいならウェブ・ニュースという選択は、よくあることです。ダブルスクリーンという言葉も目新しいことではありません。まあ、TV番組のことはさておくとしても、今後ネットから情報を得る比率が高まることには異論がないでしょう。


重要なのはニュースソースの質にあるわけで、器が重要なわけではありません。私が新聞に期待するのは、新聞記者の徹底した取材と自のソース源に基づく信憑性のある記事、そして新聞社としての独自の視点からの解説となります(政治的プロパガンダは困りますが、判断は難しい)。だから社説には注目していますし、blog::TIAOにあったような(新聞社Webサイトの「社説」がどんどん隅の方へ ・・・サッカー・アジア杯「反日」批判の情報コレクトとして[2004/08/05日 11:16])社説なんて読まない、という読者とは少しだけスタンスを異にしています。


新聞は週刊誌と違って家庭に浸透しており良識が求められる故、「新聞が書けない」内容を週刊誌が補間しています。また政治的主張(死後としてのイデオロギー的なもの)はオピニオン誌がその役割を担っています。しかしネットがこれだけ普及してしまうと、そんな垣根やタブーはタテマエ論になりつつあります。ニュースを起点として、質の高い多角的な紙面作りができていれば、有料サイトでも登録しますし、紙面であっても購読すると思います。今のままでは金を払ってまで定期的に読みたい媒体が、あまりないということでしょうか。

堀江貴文:「稼ぐが勝ち」 (立ち読み)

近鉄を買収する前に広告的な意義は充分に果たした感さえあり、いまやすっかり有名人になってしまったライブドア社長 堀江貴文氏の「稼ぐが勝ち」を立ち読みしました。


何とも実も蓋もない本です、彼のポリシーはタイトルの通り「稼ぐ」ことで、それが「勝つ」ことに他ならず、それ以上でもそれ以下でもないからです。これは私のような「旧態依然のオヤジ世代」にはなかなか馴染めない感覚かもしれません。なにせ「中流意識の欺瞞と幻想」を当然視し、「金を稼ぐ」ことに多少の罪悪感を覚え、「社業」とは何らかの形で「社会に貢献」することであると教えられてきたのですから。





堀江氏の考えはごくシンプルで「金が全て」「金になることは何でもやる」です。ポリシーもこだわりもありません。旧世代の人間達が、モノを作ることで結果的に金を稼いできたような考え方ではなく、金を稼ぐことありきなのです。いえいえ、今までだって資本主義の企業ですから、「モノ作りが原点」とか「社会のため」とか言っても、それが欺瞞でありタテマエ論であることは百も承知です。しかし、会社人にはそのタテマエ論が必要とされていたわけです。


彼のオソロシさは、そんなもの一切無用と言い切っていることです。堀江氏個人に対する印象とか感情論的なものもありますが、つまりは旧世代の人間とは立っている土台が異なっているということです。


考えてみれば日本はやっと資本主義的な企業風土になりつつあるのかもしれません。私らが学生の頃はマネーロンダリングなんて知りもしませんでしたし(今でも知らん)、MBAで経営を学ぶなんて発想もなかったです。時代は変わったつーか・・・


��時間もかからずに立ち読みできます、わざわざ買って印税稼がせるほどの本ではないですが、堀江氏に興味のある方はどうぞ、若い人にはインパクトを与える本であるかもしれません。

2004年10月4日月曜日

Google Newsの衝撃2

9月にグーグル・ニュースが始まり、私の朝一番はここをざっと閲覧することから始まるようになりました。しかし、大手新聞社がグーグルのサービス参加を拒否していること、海外のニュースはロイターやAPからの二次配信であることなどから、海外ニュースの速報性という点では、速報性という点ではイロイロな壁があるのではと思っていました。「擬藤岡屋日記」でもグーグル日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているエントリーがありました
ネットは新聞を殺すのかblog」で、日本の610のリンク(検索先)のリストを公開しているブログを紹介していました(Ceekz Logs)。大手新聞では朝日と日経しか入っていないことは薄々感じていましたが、これではニュースソースが偏るわけです。


確かにネット常時接続していますと新聞はなかなか購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社が新たなビジネスモデル構築に頭を悩ます必要もあることも認めます。そんなおり、昨日の朝日新聞では、イギリスの新聞が「タブロイド」版にサイズを変えて売上を確保(伸ばす)という記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革なのだそうです。



2004年10月1日金曜日

アムラン/カプースチン:ピアノ作品集

台風一過で今日の東京は31度ですか、9月末で真夏日というのはいい加減止めてもらいたいものです。宮城ではITしゃちょうが、海の向こうでは、ハリケーンとイチローが暴れています。イチローには敬遠などせずに、真っ向勝負で挑んでもらいたいですね。

ということで、今日はアムランの演奏です。

変奏曲Op.41
8つの演奏会用エチュードOp.40
バガテルOp.59-9
古い形式による組曲(スィート・イン・オールド・スタイル)Op.28
ピアノ・ソナタ第6番Op.62
ソナティナ Op.100
異なるインターヴァルによる5つのエチュード
マルク・アンドレ・アムラン(p)
アムランが2000年の来日公演でも取り上げて話題になったカプースチンのピアノ作品をHyperionに行ったのが2003年6月、アムランは相当にカプースチンに入れ込んでいたとのこと。アムランが好きか嫌いかはさておき、超絶技巧ピアニストの演奏は1曲目から驚くほどのノリの良さです。

最初のVariations Op.41は6分ほどの曲ですが、短い導入に続いていかにもジャズ風なテーマが流れてき洒落た曲だなと思ううちにピアノが物凄いことになり、中間部では非常に美しいバラードを聴かせ、最後はPrestoで火花を発するがごとくに締めくくる、というまさにカプースチンを堪能できる曲になっています。

ここらあたりをボーっと聴いていますと、アムランのピアノの巧みさからホテルのラウンジやバーなでど流れる「洒落た軽いジャズ」のようにも聴こえる瞬間がないわけでもないのですが、極めて技巧的な音楽であります。

技巧的といえば、ラストに配置されたFive Etudes in Different Intervals, Op.68という練習曲も「気の狂ったような」としか書けないような曲です。No.1 Allegro (Etude in minor seconds)では鍵盤上をラリっているのではないかと思うような速さと華麗さで駆け巡り、バカみたいな高音の右手と複雑なリズムを刻む左手の応酬が聴き所になっています。No.1の短調のテーマがNo.4 Vivace (Etude in major seconds) で長調になって再現されるのも面白いです。

No.3 Animato (Etude in thirds and sixths) を聴いていて感じたのですが、カプースチンの曲はジャズのバスパート(例えばブギ・ウギ風のリズムだったりするのですが)を左手に受け持たせています。これをしっかり打鍵するかどうかで雰囲気がかなり変わると思うのですが、アムランはバスをやり過ぎない程度に弾いているようで、それゆえどこか「洒落た」とか「上品」に聴こえるのかもしれません。Bagatelles Op.59という短い曲においても左手のパートは控えめでさり気ない感じです、これは趣味の問題かもしれませし、単なる勘違いかもしれませんし、私が全然わかってないのかもしれませんが。

全ての曲について書くことはできませんが、Concert Etudes Op.40は「楽譜の風景」というサイトに楽譜のさわりが掲載されています。これを拝見しながらCDを聴いたら更にビビってしまいました。

いずれにしてもカプースチンの曲は相当な難曲であるらしいのですが、難しさなど全く感じさせずに弾ききっているアムランの演奏には、ピアノを弾けない私でも舌を巻き「開いた口がふさがらない状態」です。いったい技巧だけのアムランのどこがいいのだという評もネット上ではよく目にしますが、私は悪くないと思います。

もっとも、アムランの演奏とカプースチンの音楽性については今の段階では確たるものを書けないのですが(だったら書くなという説もある)、こういうアムランの演奏を通じてカプースチンが受容されたとしても(かくいう私もそう)作曲家にとって不幸なことではないと思われます。旧来のピアノ曲に飽いていたり深刻なソナタを敬遠する人や、ジャズにあまり親しみのない方には「これ好きっ!」と思わせるには十分な演奏であると思いますし。

ただ何度か聴いていますと技巧的には申し分ないものの、何とも説明のできぬ違和感を感じることも確かです。あまりにスピード感があり、余裕綽々の演奏なので(猛絶な演奏でもあるのですが)、何かがすり抜けているような感じがしないわけでもないのですが、それが何なのかは分かりません。完璧な新体操が面白くないとか、そういう感覚・・・とも違うか。

2004年9月30日木曜日

カプースチンのピアノ2

以前ちょっと触れましたがカプースチンのピアノを聴いています。ということで、少し感想を加えました。時間をかけて少しずつ聴いてゆこうかなと思っています。

カプースチンという名前を最近あちこちで散見するようになりましたた。彼はロシア生まれ(b.1937)のジャズピアニスト兼作曲家です。モスクワ音楽院でピアニストとしてロシア伝統の卓越した技術を身につけるかたわらジャズ音楽も学び、ジャズの要素をふんだんに取り入れたピアニスティックな作品を数多く生み出しています。

彼の曲はジャズのスタイルにおいてはエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンの影響を色濃く受けているようであり、一方でクラシックにおいてはシューマンやブラームスよりはバッハやベートーベンを好んでいるそうで、曲を聴いた感じはラフマニノフやスクリャービンを彷彿とさせる部分もあったりします。

生粋の(?)ジャズファンは「ロクにジャズも聴いたことのないクラシックな奴が持てはやしている」という感想も少なくはないようです。ジャズにベートーベンにスクリャービンですから、聴いたことのない方にはメチャメチャな印象を受けるかもしれませんが、そんなことは全くありません。ピアノが好きな方には、きっとワクワクするようなゴキゲンな要素がたくさんに詰まっている曲なのではないかと思います。

ちなみに私は最近はジャズは聴きませんが、オスカー・ピーターソンもセロアス・モンクも好きでしたし、バド・パウエルは私のイチオシのジャズ・ピアニストでした、かれこれン十年前ですが。そういう記憶を引き出しても、カプースチンが「つまらない」ということは全くないと思っています。鋭利なリズムとスイング感、バラードの美しさ、即興的なフレーズの持つ興奮、激しく技巧的なパッセージ、ハマるひとにはハマる作曲家であると思います。

現在(2004年9月現在)、容易に入手可能なカプスーチンの録音から 1.アムラン 2.オズボーン 3.カプースチン(自作自演) の三つのアルバムを聴いて感じたことを、思いつくままに書いてみることとしました。どれから聴き始めるかは悩みましたが、やはり買った順に始めるのが良いかと思いアムラン版から始めることとします。(まだ書いてない、聴き込んでない、そのうち書く)

2004年9月27日月曜日

ラトル/メシアン:彼方の閃光

今日は暑さもようやく一段落し、細かな雨がひそやかに中に舞っているような天候でした。ということで、今日は落ち着いて音楽などを聴くことができました。普段はほとんど手に取ることのないメシアンです。ラトル+ベルリンの話題作ということで買ってみたのですが、果たして・・・

サイモン・ラトルが率い、そのカラーを再び変え始めたベルリン・フィルがメシアンの最晩年の作品「彼方の閃光」を録音しました。ラトルの新作ということで話題になっている盤です。メシアンは私にとってほとんど馴染みがない作曲家ですが、ラトル+ベルリン+話題ということでミーハー的に聴いてみたところ成る程凄い曲であると得心。

「彼方の閃光」のテーマはヨハネの黙示録を題材としており、キリストの出現からサタンとの最終戦争を経た後、キリストを信じたものに祝福を与えるという内容です。「閃光」とは復活した者たちの光となるキリストのことであります。

キリスト教的テーマは、黙示録どころか聖書に馴染みのない私のようなものには手ごわく思えるのですが、通して聴いてみますと宗教的テーマ性を土台としながらも、カレイドスコープのような音響の大伽藍や研ぎすまされた美しいフレーズを聴くことができ、細かいことは抜きにして楽しめる音楽でした。それでも一聴しただけではピンと来ないところもあるため、全体の音楽像を掴むには数度聴いてみる必要がありましたが。(例えば黙示録の展開だけを追って1、4、6、7、11楽章だけ聴くとか、鳥のテーマの3、9楽章だけ繰り返すとか)

それにしても起伏の激しい曲です。第5楽章の《愛にとどまる》の弦楽器による繊細な緩徐楽章にウトウトとしていたと思ったら、凄まじい打楽器の強打で始まる第六楽章《7つのトランペットと7人の天使》に肝を潰します。打楽器の音圧は貧弱なスピーカーやヘッドフォンを通しても充分に迫力があります。また圧倒的なホルン軍団の演奏にも驚くしかありません。

鳥の声を模した第9楽章《生命の樹にやどる鳥たちの喜び》のフルート・クラリネット族の超絶演奏にも唖然、一体どんな楽譜でどんな指揮をしているのやら。メチャクチャな音楽なようでいて美しい。

第11楽章の《キリスト,楽園の光》でのかすかに聴こえるトライアングルの音色もまた特筆もの。この楽章は、ある意味で彼岸の彼方のような曲ですが、あまりウェットな感情表現ではなく、ひたすらに美しい演奏になっているようです。

オーケストラの編成は128人にまで増強されており、フルートやクラリネットはそれぞれ10人も居るというのですから驚きです、打楽器の種類も多彩。オーケストラの性能をフルに活用したスーパーカーのような編成ですから、適うなら実演で接したいと思わせます。私の貧相なオーディオ装置では、実のところこの曲の魅力は半減以下です。

他の演奏と比べたわけではありませんが、ラトルの演奏はメリハリを効かせたキレの良い演奏に仕上がっているようです。「閃光」という題名に象徴されるような煌びやかさも感じます。また木管をはじめとして個人技も凄まじく、有無を言わせぬ圧倒的な音塊感でぶちのめすというより、そこかしこの表現に驚かされる演奏になっているように思えました。全体的にポジティブな明るさを演奏からは感じるのですが、それが本来の曲のイメージなのか、テーマから考えると少し疑問なのですが、いかがでしょう。

2004年9月26日日曜日

展覧会:「琳派 RINPA展」


東京国立近代美術館で開催されている「琳派 RINPA」展を観てきました。今度の「琳派」展は、ちょっと違います。とうたっているように、会場に入って真っ先に目に飛び込むのが尾形光琳の《松島図屏風》とともに、クリムトの《裸の真実》であるということが、この展覧会の主旨を雄弁に語っているようです。


そもそも「琳派」とは何なのか。美術展で得た知識によると『狩野派のように家系や師弟関係を重視する流派概念ではなく、世代を越えて私淑によってゆるやかに繋がれた系譜』であり『主題性から解放され装飾性の優位と造形本位の伝統』であるとされています。



俵屋宗達にはじまり尾形光琳にて元禄時代に完成された、平面的にして適度に装飾的な画風は、自然の美意識を何の不安もなく描出した平和な世界と言えるかもしれません。





ですから、例えば江戸後期の画家、鈴木其一の《朝顔図屏風》(上)を観たときは、朝顔の青紫の色の鮮やかさに驚きはしたものの、綺麗なだけの絵ではないかと思ったものです。しかし、閉館間際まで粘って、来館者がまばらになった広い館内で改めて接すると、なんと表現してよいのか分からない至福が、まさに美の饗宴とも言うべき贅沢な時間が流れるのを感じることが出来たのです。綺麗なだけと思った鈴木の絵も、静的な装飾的技法と朝顔の蔓の動きに表された生命力が絶妙のハーモニーを奏でています。これは画面の近くで観ていては分からない。多くの人がメトロポリタン美術館所蔵のこの絵を絶賛するのもむべなるかなと。





上の酒井抱一の《月に秋草図屏風》も素晴らしい。金箔の落ち着いた地に秋の月と草花が絶妙な静けさと華やかさで描かれています。何度も絵の前に立ち、近くに寄って感嘆し、離れて観て溜息す。この絵の人気の高さもうなづけます。図録と実物を繰り返し比べてみましたが、図録ではこの絵の放つ芳香の何分の一さえ伝え切れていない。一足早い中秋の名月を堪能。





尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれていたという、酒井抱一の《夏秋草図屏風》(上)も有名。銀箔(なのか?)の上に雨に打たれる夏草(雷神の裏)と、野分に吹きすさぶ秋草(風神の裏)が、様式美の中に定着されています。絵の上の間の豊穣さよ。




もう一つ強烈に印象的であったのは、川端龍子の《草炎》(上:部分 1930年)。この作品は「これを観たいために」展覧会に足を運ぶ人も居るくらいに人気です。初めて観る人も、異様な迫力に言葉を失っているようです。かく言う私もその一人。この絵を「琳派」と十把一絡げにして良いものか。川端は『夏の草いきれ』を描いたそうですが、ここには他の「琳派」の画風からは感じ取れぬ、熱い情念が流れてきます。凄まじいエネルギーと、それを鎮めている技法の高さ。夏草を黒い画面の上に金色の濃淡でのみ闊達と言える筆致で描き分けた異色作。これも人気のいない館内でゆったり感傷できることの愉快さときたらありません。





ここに至って「琳派」とは高度の装飾技法により、自らの情念と自然の動的エネルギーを様式美の中に固定させていることがその最大の特徴なのではないかと思いつきました。例えば光琳得意の波を表現するうねりにしても(上《松島図屏風》)、《槇楓図屏風》の樹木の枝の作る曲線運動からもそのような印象を受けます。


「琳派」と称される系譜に属する作品は、小さな画集のようなもので観るのでは、おそらくつまらないのではないかと思います。屏風図ということも影響しているのでしょうか。考えてみたら、こんなにたくさんの屏風図を観たのははじめてです。





上の菱田春草による《落葉》(1909)もそうです。ベージュ系の色合いが綺麗ですが、最初に観たときは、余りにもきれいなだけなんで、うんざりしたものです。しかし、心を落ち着けてゆっくり鑑賞しますに、幽玄さを感じさせる画面の奥行き感とともに、上から落ちてくる数枚の落ち葉が、静止しているかのような時間が穏やかに動いていることを感じさせてくれます。そう思ったら、流れる大気さえ頬に感じるような面持ちです。これも屏風図の実物に接しなくては感じることのできない印象でしょう。


最後になりますが、「琳派展」は宣伝のせいか、あるいは幸せな画風のせいか、凄く混んでいます。私は14半過ぎに館内に入りましたが、満員電車のような混雑で絵どころのさわぎではありませんでした。閉館間際までねばることで、やっと本来の「琳派」のもつ静けさと芳香を味わうことが出来たと思います。




マティスとか梅原龍三郎、加山又造の絵(《千羽鶴》上)もありましたが、こちらは終わりのほうで食傷気味なせいか、おいしくいただけませんでした。(加山又造、あれでは「やり過ぎ」です=これも人気の絵なんですがね)

2004年9月18日土曜日

カプースチンのピアノ

ニコライ・カプースチン(b.1937)という作曲家をご存知でしょうか。今年6月にHyperionからアムラン(P)によるカプースチン演奏が発売され、アムランということで全く予備知識なしに聴いたのですが、これがなかなかゴキゲンな曲なのです。

カプースチンは1937年生まれのロシアの作曲家、モスクワ音楽院を卒業しクラシカルな作品を作成するかたわら、ジャズ・ピアニストとしても名を成し、ここに納められているようなクラシックとジャズが融合したような曲を描いています。

ジャズとクラシックの融合だなんて、生粋のクラシックファンの方や、根っからのジャズファンの方はアヤシイと眉をひそめるかもしれません。流して聴いているだけだとホテルのラウンジから流れる自動ピアノのような雰囲気の曲もあるのですが、なかなかどうして、親しむうちに軽妙な曲調とともに音楽的な多彩さと驚くべき技巧に気付かされ、たただた唖然とするばかりです。アムランの盤なども一曲目からジャズCDとしか思えないような出来です。








ピアノ作品集

(p)マルク・アンドレ・アムラン

hyperion CDA67433



ピアノ作品集

(p)スティーヴン・オズボーン

hyperion CDA67159



24の前奏曲とフーガ作品82

(p)ニコライ・カプースチン

TRITON OVCT-00010


『24の前奏曲とフーガ』は、カプースチン自演によるもので、最近の密かなカプースチン・ブームに押されてTRITONからの再発売されたもの。アムランも良いですが、オズボーン盤も曲がいいので捨てがたく、どれも聴き逃せない曲ばかり。暇なときは、このごろこればかり聴いています。カプースチン自演盤はまだ聴きこんでおらず。

もうちょっと立ち入った感想は、機会があったら書きましょう。

2004年9月17日金曜日

ニコルソン・ベイカー:「中二階」

以前にiioさんのCLASSICAで紹介のあったニコルソン・ベイーカー『中二階』(白水uブックス)を読んでみました。


iioさんのエントリーにもあるように、日常生活に対するミクロ的考察が主体の本になっているのですが、これが「合う」か「合わない」かで好みが分かれるかもしれません。私としては非常に面白い本であると思い、活字を追うのが全く苦痛ではなかったです。


ちなみに「ニコルソン ベイカー」でGoogleするとiioさんのエントリーがトップでしたよ、恐るべしCLASSICA!




ニコルソン・ベイカーは1957年生まれのアメリカの作家です。イーストマン音楽学校とハァヴァフォード大学で学び、1988年に処女作「中二階」(The Mezzanine)でデビューしました。発表当時アメリカでは驚きと賞賛をもって文学界に受け入れられたそうですが、読んでみますと確かに斬新にして非常に面白い小説でありました。


この小説は、29歳の主人公が会社のエスカレーターに乗ろうとしたところからはじまり、エスカレーターを降りたところで終わります。切れた靴紐を買うということがストーリーの主軸といえば主軸でしょうか。ごく日常の何気ない短時間の間に、彼が考えたこと、いままでの人生で考え続けてきたこと、自分の関心事、身の回りの些細な変化などが、おそろしいほどの執拗さとユーモアを交えて描かれています。


でも彼の考えることときたら、どれもが取るに足らない話ばかり。たとえばストローの進化とか、社会人になってからのトイレでの振舞い方とか、なぜ靴紐が切れるのかとか、トイレットペーパーなどに付けられたミシン目に対する大絶賛とか。くだらないですね、でも連綿とした瑣末的な描写(ほとんどヲタク的なミクロ思考)を追随しながら「そういうこと、あるある」などと一人ニヤニヤしている自分に気付いたりするのです。


なにしろ本文よりも注釈の方が多いという小説です。難解な作品でもないのに、なぜそんなに注釈がと訝る方も多いと思いますが、ベイカーは小説の中で脚注の事を


ページの下の方に灰色の帯となって待ち受けているのを目の端でとらえたときの、あのわくわくするような喜び

と書き、


脚注は、一冊の本が蛸の触手のようなパラグラフを伸ばし、図書館という名のより広大な宇宙とつながるための、さらに細やかな吸盤


脚注で説明しています。挿入された脚注により、読み手は本文と、どこまでも脱線してゆく解説を交互に行き来することで、小説の持つ時間軸は限りなく引き伸ばされるのですが、それによって思考が中断されるどころか、小説を読む楽しみが自在に変化していることに気付くのです。脚注は細かければ細かいほど面白いと思えたら、あなたもきっと、ベイカーばりのヲタク活字中毒者かもしれません。


たった一日のことだけを書いた小説や、注釈がやたらと多い実験的な小説というのも世の中にはありますが(=あったと思う)この小説が衝撃をもって受け止められたのは、瑣末的な事象の限りない拡大がもたらす効果であったことには違いないと思います。


では単なるユーモア小説なんだろうかと考えると、それだけではないようにも思えます。作品に漂う透明感や爽やかさ、モラトリアム的暖かさと、あるときを境にオトナになるということの意味する誇らしさと一抹の哀しさ、そしてそれらを包んでいる孤独感が気になります。

そう思うのも、主人公をはじめとして途上人物のナマな体温や感情が感じられないせいでしょうか。人生の大半が「いかに生きるか」というような哲学的なテーマで占められているわけではなく、日々の出来事に対し反応と反芻を繰り返すだけであると認識してしまうことは、旧来の文学的のテーマとしての何かを否定しています。それゆえに気付かないところで淡々とした虚無を抱え込んでいるようにさえ思えるというのは深読みでしょうか(>です)。


作品で描かれる執着は、つまらない人生を楽天的かつ肯定的に仕向けるようにできているのですが、一方で人間的な対立や葛藤を全く排したところに立脚しているこの小説は、現代における新たな風景を垣間見せています。ユーモアとは別の次元でこの作品が提示している世界のありようには、感慨深いものがあります。

2004年9月15日水曜日

三浦展:「ファスト風土化する日本」

いつも楽しませてもらっている「k-tanakaの映画的箱庭」で紹介のあった『ファスト風土化する日本~郊外化とその病理』(三浦展:洋泉社新書)を読んでみました。「ファスト風土」とは「ファストフード」にかけた造語だそうです。言っていることの大筋に間違いはなく、いちいち同感できるのですが、新たな知見と驚きは得られませんでした。


三浦展氏はパルコ情報誌「アクロス」の編集長や三菱総研の主任研究員などを経て「カルチャースタディーズ研究所」というシンクタンクを設立されている方。共著の『「東京」の侵略』(パルコ出版)などは、80年代後半のパルコなどに象徴される消費文化や都市動向について言及したものであったと記憶しています。筋金入りのサブカルチャーおよび都市・消費文明の専門家という認識。




当時「パルコ」は衝撃的な店舗でした。渋谷における西武の開発手法は、地方のお手本のようにもてはやされた時期が懐かしいです。三浦氏も指摘するように、西武は渋谷公園通り周辺に「街づくり」的手法を持ち込み、街路空間を若者に魅力あるものとすることに成功しました。そこにおいては品物以上に、街を訪れる人と都市空間相互の関係性が重視されていたように思えます。雑誌「アクロス」はそういう都市風景から生まれていたはずです。


ですから、周りを圧倒して存在する巨大戦艦のごときジャスコを率いるイオングループが『街をつくるという気持ちがないのではないだろうか』(第三章 ジャスコ文明と流動化する地域社会 P.96)と三浦氏が指摘するのも分からないでもありません。しかし、地方にはジャスコが、スターバックスが必要なのだということは、多くの情報発信源でかつ地方の情報さえ消費しつくす巨大都市に住んでいる人には分からない感覚かもしれません。


大型ショッピングで思い出すのはアメリカの巨大施設です(行ったことはない)。ジョン・ジャーディー(Jon Jerde)という商業施設デザイナーが手がけているものも、ほとんどは巨大モールです。日本の商業施設も、かつてのマイカルをはじめ最近話題の施設開発者である電通や森ビルさえ、莫迦のひとつ覚えのようにジョン・ジャーディーに商業施設をまかせています。イオンはそんな無駄使いをしないだけ利口なんでしょうか(笑)。


発想は東京も地方も同じ、地方は東京への渇望からイオングループに活路を見出さざるを得ない、苦渋の選択があるだけです。永遠の二流意識からくる劣等感と歪んだ自意識ですね。その東京おいてさえ、という感じなんですが。


データを随所に掲示し理論武装し田園都市論や日本の郊外化の弊害などを述べているのですが性急で牽強付会の感があります。結論は「均質化した日本の郊外化が消費文明を増長し、さらにはコミュニティーや歴史性の崩壊によりもたらされる様々な病理」を指摘し、社会を「コミュニケーション」と「コミットメント」で再生しようというものなのですが、先から書いているように問題の根は地方にはないのではというのが私の感想です。


だから、最近の凶悪犯罪のあるところが郊外であり『犯行現場の近くにはなぜかジャスコがある』(P.66)というのも刺激的なコピーだと思いますが、ジャスコに象徴される変化と犯罪の因果関係は「ニワトリと卵」のようなもののであって、大事な前提条件が抜けていないかと思うのです。


また、彼は地方において『目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを見て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしてるだけの、たいへん視野の狭い消費人間』(P.183)を生み出しているのだという主張も、なんだかなという感じです。


田園で働くわけでもなく、工場で働くわけでもない。都会のビジネスマンのように、オフィスでハードワークするわけでもない。公共事業に依存し、公共事業がなくなれば失業保険で暮らす。でも、家も自動車も何でもあり、ついでに無職のパラサイトの息子の一人は二人を抱えている。彼らはもう働く意欲がない。楽をして、適当に暮らすことしか考えない。(第六章 階層化の波と地方の衰退 P.178)


最後に彼がひとつの理想としてあげる「吉祥寺」や「高円寺」「下北沢」なのですから、やれやれです。いえ、言っていることは納得しますよ。でもねえ・・・

2004年9月14日火曜日

ラウタヴァーラ:前奏曲集Op.7、パルティータOp.34

激しい「現代的」な音楽は刺激的ですが、何となくだるく、やる気のないときに聴くと、妙に癒されたりすることに気付きました。体の中の悪いものを浄化していくような・・・そうなんです、なんだかダルいんですよね。


ということで、しつこくもラウタヴァーラです。

前奏曲集 Op.7

7曲からなる前奏曲集で、ラウタヴァーラがタングルウッドでコープランドに学んでいたときに作曲されたものです。ライナーによるとラウタヴァーラはこの前奏曲集をコープランドに決して見せなかったそうですが、それについては彼自身以下のように書いています。

I never showed him the Preludes, which were a sort of protest or outbutst against the so-called neo-classical confines under which I had to labour while studying both in Helsinki and in the United State.
1956年の作ですから、彼が28歳の若さの時の作品となります。上記のように、かなり革新的といいますか、いわゆる「現代音楽」的な音楽を堪能することができます。響きは硬質で力強く、時に繊細であり、強烈な感情の奔流を感じます。しかしその奔流は実験風でもあり、またひどくぶっきらぼうでもあります。

特に《軽快で槌を打つように》と題された一曲目の迫力はすさまじく、たかだか32秒の間に強烈な石つぶての雨を降らされたような曲です。《フィナーレ風》も冒頭と同様に激しい曲で、その間に挟まれた5曲が夢幻的にして鉱物的な静けさを構築しています。「現代音楽」という程には前衛的とは言えないかもしれませんが、激しさと静けさを内包したラウタヴァーラ的な音響世界が広がっています。

neo-classical すなわち「新古典主義」の音楽を彼がどのように消化しようとしていたのかは、この曲だけからは分かりませんが、何か彼なりの模索を感じることのできる小品であると思えます。

パルティータ Op.34

最初のスケッチは1956年ニューヨークで描き、2年後にピアノ曲として作品にしたものです。当時一緒に仕事をしていたギタリストの影響を受けて作曲したとのことで、2曲目ではギター風の「ポロン、ポロン」とした伴奏の響きを聴くことができます。両端の激しい曲にはさまれた非常に静かなこの部分では、静寂さの中に幽玄とした翳が立ち上るかのようです

これも3分半と非常に短い曲で、ボーっと聴いているとあっという間に終わってしまいますが、よく聴くと3曲とも同じテーマの変奏になっており、緩急のヴァリエーションを楽しむことができます。

激しさと静けさの交替、そしてその落差の大きさというのは、ラウタヴァーラ的な音楽のありように思えますが、これはフィンランドという地方の気候風土の激しさから来るものなのでしょうか。激しさは時に無機的であり、人智の及ばない深遠さを感じさせますし、静けさは限りなき安らかさときらめきにも似た美しさを感じます。

そういう意味では、非常に興味の尽きない作曲家ですが、一方では、曲のテーマや副題ほどには精神の底に潜ってゆくような深さや晦渋さやはあまりなく、激しいけれどもどこか皮相的に感じる瞬間がないでもありません。「皮相的」とはネガティブな表現ですが、積極的に「皮相的」であってもよいのではないかと・・・いう気もします。

●前奏曲集 Op.7
軽快に槌で打つように
充分ゆっくりと
リズムを保ちながらも神経質に
コラールと変奏
フガート
震えて
フィナーレふうに

2004年9月9日木曜日

暗黒の中世・・・

何度か産経新聞の「産経抄」に違和感を表明してきましたが、北オセチア共和国の学校占拠事件に言及したも昨日のものは、薄ら寒くなる思いを強めました。




この悲惨な事故に対し産経は『二十一世紀の現代から暗黒の中世へ、時計の針が大きく後戻りしたように思えてならない』と始めながらも、短い文章は『中世的暗黒と狂信の現場で、一すじの光明を見た。十三歳のハッサン・ルバエフという少年の勇気である』とし、以下のように結んでいます。


彼はテロリストに正面切って抗議、「あなた方の要求にはだれも応じない。われわれを殺しても何の役にも立たない」と叫んだという。


 ▼テロリストは「お前はそう確信するのか」と問い返し、ルバエフが「はい」と答えると次の瞬間に銃声が響き、少年は倒れた。なんという野蛮、しかしまたなんという勇気だろう。堂々と正義を訴えて散った少年の光芒(こうぼう)の人生を、涙してたたえたい。



しばし、絶句・・・・


続く今日の「産経抄」は、『その時代の戦争は、その時代の歴史的背景を理解して評価すべきであり、いまの時代の尺度や価値観で解釈してはならない』として、日露戦争も、大東亜戦争も、みな歪曲・醜悪なものと書き始め、『れわれはヨーロッパ人の世界地図で地球のことを認識していると』という、指揮者 岩城宏之氏がいつ語ったかのかも知れぬ言葉をひき、


かかる西洋中心史観でみた典型が東京裁判だろう


として結んでいます。再び絶句・・・・


東京裁判が戦勝国によって敗戦国を裁いた偏った裁判であったことは、確かにその通りかもしれません。自国の誇りを取り戻すために、東京裁判史観を変えたいという心持も分らないではありません。しかし、この二つのコラムから言えることは、産経は日本の誇りを護るためには、彼らが涙して称えたような果敢な少年までを将来的に期待していることを新聞紙面でに主張しているということです。これはちょっと違うのではないかと・・・「日の丸」「君が代」を強制することと同じようなズレと恐ろしさを感じます。


「愛国心」の薄い私ですが、仮に日本が分割統治されており、経済的にも文化的にも貧しいままに独自の選挙も行えず誇りさえ奪われ、しかも両親や親戚が統治国に殺されている環境に育ち、その先に希望らしきものも見えないとしたら・・・そのときは、どうするかは全く分りませんし、それを考えることにも意味があるのか分りません。


blog::TIAOのコメントにあった一文と、プーチン大統領のチェチェン独立武装派と話し合うよう促す一部の西側諸国首脳の声に対する答えを引用しておきましょう。


「子供たちを亡くした父親たちは、なきがらを埋葬し、40日間喪に服したら…武器を手にとって復讐に立ち上がるだろう」 --オセチアの首都ヴラディカフカス大学学生の言葉



子供を殺した連中と話し合えなど、そんなことをわれわれに言い諭す高まいな権利が誰にあるのか


連中と交渉しろとわれわれに言うなら、(欧米諸国は)オサマ・ビンラディンをブリュッセルなりホワイトハウスなりに招待して、交渉し、要求は何か尋ねて、自分たちをそっとしてもらう代わりに要求に応じてやればいいではないか。そういう連中とのやりとりに一定の限界はあると、あなたたちは言う。だったら、なぜわれわれが、子供殺しの連中と話し合わなくてはならない? (2004.09.08 Web posted at: 12:39 JST)2 - CNN



世界の様相は、表の大義と裏の利権が複雑にからみあい、軽い嘔吐を催すほど位相は歪みまくっています。

2004年9月6日月曜日

Google Newsの衝撃

ネットは新聞を殺すのか」というブログで紹介されていた、Googleニュース、確かに凄い。こういうサイトを待っていたような気がします。


何が凄いかって、紹介サイトにもあるように、記事の収集が自動生成であるというとこと、『短時間に1つのクラスターの記事数が急速に増加するということは、数多くの報道機関が1つのテーマで記事を次々と発信しているということ。すなわち重要ニュースということになる。』ということ。新聞各社のビジネスモデルの変革にまで言及しているエントリーは一読の価値あり。


こうなると、マイナーなニュース、Googleが捨ててしまった記事に重要な記事があることを、誰が嗅覚を持って拾い上げるのか、ここらへんも気になるところです。




Googleニュースに登録しているサイトは現在610。関連記事がひとつのクラスターに集められているので、気になる記事を読んでいると普段なら訪れないローカルなサイトをクリックしていたりする。これは、地方誌のアクセス数向上というメリットを生むことに繋がるのかもしれない。


逆に言えば、自分のクリックしたニュースサイトが、どのような傾向のサイトであるのか熟知していないことも生ずるわけで、情報の洪水の中で自分のスタンスを見極めることが更に重要になってくる。


今のところ、大手でどこがGoogleニュースを拒否しているかは不明。これも興味深いところである。(おおよそ、あそこと、あそこかなと・・・)

ヴェルディ:歌劇「トロヴァトーレ」DVD

ヴェルディ:歌劇《トロヴァトーレ》全曲
ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
レオノーラ:エヴァ・マルトン
アズチェーナ:ドーラ・ツァイーイック
マンリーコ:ルチアーノ・パヴァロッティ
演奏:メトロポリタン歌劇場管弦楽団、メトロポリタン歌劇場合唱団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ファブリッツィオ・フレジェリオ
録音:1988年10月 メトロポリタン歌劇場におけるライヴ
DVD DG UCBG-9010

今日は昨日からの雨が朝から降り続いています。休日に雨が降るなんて久しぶりです。気分転換に掃除などしながら、そういえば買ったまま開封していないDVDでもと思い立ち覚悟を決めて1)、ヴェルディの《トロヴァトーレ》を聴くこととしました。

それにしても、CD店に行くとCDやDVDをカゴいっぱいに買っていく人2)をよく見かけますが、ああいう方々は、一体いつお聴きになっているのでしょう・・・

ということはさておき、感想です。自分のメモのために書いていますので、長いだけで内容がありませんのであしからず。

ヴェルディ中期の作品として有名な歌劇ですが、本作品に接するのもこの盤が初めてです。ヴェルディの歌劇は、DVDで《リゴレット》《アイーダ》《椿姫》と聴いてきましたが、この作品もヴェルディ節が満開でありますね。

全くの予備知識なしに観たものですから、結末の悲惨さにまず慄然としてしまい、しばし言葉を失ってしまいましたが、こういう衝撃は初見でなくては(かつストーリー展開の読みに鈍くなければ)決して得られないものです。私はどちらも当てはまっていたため、一生に一度だけの幸運を体験できたというわけです。

全く救いのない結末といい怨念に近い復讐劇といい、「呪い」というテーマはヴェルディの好きなテーマなのでしょうか、《リゴレット》のラストを彷彿とさせます。「復讐」を、ジプシーのアズチェーナは母親から、一方ルーナ伯爵は父親から受け継いだものであるという点から、まさに血を伝わった「呪い」であると言えましょう、何か業のようなものさえ感じます。

ヴェルディは悲惨な物語であることを、表面的には感じさせないほどに全編華麗かつコテコテな音楽に仕上げています。そして、主要人物の4名がほぼ同格の扱いで歌劇の全編において重要な役割を果たしているということが、同時期に作曲された《椿姫》とは徹底的に性格を異にしているように思えます。それゆえでしょうか、聴いていて正直少し疲れました。これは私に馴染みのアリアなどがほとんど無いせいもあるのですが。

4名の人物が同格とは書きましたが、聴いていてもそれぞれの役割が技巧的にも並大抵で歌えるものではないのだろうなと思います。

まず何と言ってもマンリーコ役のパヴァロッティ、この演奏は彼が53歳頃のものですが(役のマンリーコは16才程度の青年です)、舞台に出るだけで拍手が沸き、一声発するだけで歌劇場に色香が漂います。まさに華のある歌手なんですね、全く素晴らしい。三大テノールのひとりとして名声を欲しいままにしたわけが分かります。顔だって決してハンサムというわけではないのですが(失礼)、あの歌声で熱唱されるとグラグラと来てしまいます。絶頂期を過ぎているのでしょうが第3幕ラストでのアリアは見事。

次に特筆すべきはアズチェーナ役のドローラ・ツァーイックですね。第2幕で昔の物語を語るシーンの迫力と歌唱力にまずびっくりしました。劇においても存在感抜群です。演出上はジプシーの老婆という、妖しいく暗い情念を秘めた役柄ですが、マンリーコが16歳であることを考ると、本来はそんなに年老いていないはずです。というか物語人物と配役の人物年齢に関しては、他の2名とも破綻していますがね。レオノーラに至っては14~15才くらいでしょう。もっとも、それではオペラを演じられませんから、これは眼をつぶる問題なのでしょう。

ドローラ・ツァーイックですが、どこかで観た事があると思ったら、DGのDVD《アイーダ》(レヴァイン/メト歌劇)で、アムネリス役として出ていたのですね。こちらは1989年の演奏です。アムネリスは嫉妬とプライドに揺れるエジプトの王の娘を演じていましたが、こちら《トロヴァトーレ》のアズチェーナ役の方がぴったり来ますね、それくらいはまり役に思えます。

先の《アイーダ》といえば、アモナズロ役として登場していたシェリル・ミルンズが、こちらではルーナ伯爵を演じています。アモナズロは脇役でしたが、こちらは立派な主役の一人。最後まで生き残る天蓋孤独の若き伯爵です。彼はひたすらにレオノーラへの愛を渇望します、戦争も部下もそっちのけで、レオノーラ一筋です、ミルンズの実年齢にだまされてはいけません、おそらく彼とて10代後半のハズ。ここまで愛に飢えていながらも、最後は裏切られるという何ともやりきれない役どころです。彼が居ることで劇が締まっています。

最後は、マンリーコとルーナ伯爵ふたりから熱烈なる愛を求められるレオノーラです。彼女も観た事があると思ったら、1987年のDG《トゥーランドット》(レヴァイン/メト歌劇)での氷のようなトゥーランドット姫を演じたエヴァ・マルトンでした。ふたりの男性に熱愛される女性なのですから、劇としても最重要の役だと思うのですが、彼女だけが今ひとつ私にはピンときません。歌声は申し分ないのですが、それでもちょっと強すぎるかなという印象を受けてしまいます。トゥーランドット姫は抜群だったのですがね、というかこちらの印象が強すぎましたかな。

それにしても、ヴェルディは何故にこのような悲劇的で救いのない歌劇を書いたのか、一体「復讐」は成就したといえるのか、誰かが救われたのか。ストーリーそのものは知ってしまえば単純で、2時間ちょっとの短い間に感情表現などを盛り込むため、人物像も時間軸も単純化されてはいるのですが、それぞれに与えられた役どころを考えると、そうそうテーマではないようにも思うのですが、手元に資料も何もないのでこれにて今回はおしまいです。


  1. マーラーだとかブルックナー、それにオペラもそうであるが、真面目に聞こうとするとそれなりに覚悟をしなくてはならない。聴き終えるのに、ゆうに2時間以上はかかるし、貴重な休日を独りで、ヲタクのようにテレビの前で過ごす事が果たして正しい休日の使い方なのかと考え始めると、煩悶として、それだけでまた15分くらいは費やしてしまうものである。それでも未聴CDやDVDは少なからず溜まっているので何とかせねばという変な焦燥感だけは生まれている。やれば終わるのに、やらないで残しているプライオリティーの低い仕事の脅迫に似ていないこともない。もっとも、仕事と同様で、それをやらかったところで、何事も変わりはしないのだが。つまり、こういうバランスが崩れなくては次の行動に移れないものなのである。マーラーやブルックナー、それに始めて観る歌劇もそうだが、何かをしながら聴くということが私はできない。聴いていて、重要な点を聴き逃してしまうのもシャクである。聴くからにはデンと座って、ライナーとメモを片手に、グレープフルーツジュースとスナックをもう片手に、覚悟を決めるわけである。そういうわけだから、天気の悪い、そして何も予定のない休日に遂にDVDに手を出すというのは、実のところ、最初から決まりきったそれしかない的な結論であったりするのである。
  2. 社会人になってから再びクラシックを聴きはじめた頃、タワー・レコードなどに行くと入り口近くに、スーパーに置いてあるような黄色い買い物籠があるのが不思議でならなかった。私のクラシック初体験は中学生の頃であったから、なけなしのこずかいで廉価版を買うか、たまに奮発してドイツ・グラモフォンの分厚く重いLPジャケットを、それこそ宝物のように購入するのがせいぜいであった。従って、レコードとはじっくり吟味して買うものだという思い込みが私を支配していたので、カゴに放り込むようにCDを入れていく人種を発見したときは、月星人を見つけたのと同じくらいに驚いたものだ。そして、タワー・レコードに行くたびに、そのような人種が決して少ないわけではないことを知り、更に驚きを新たにしたものである。そもそも、そんなに大量に購入する方というのは、きっと商売をしている人に違いないと、当時の私は無邪気に思っていたのだが、ちょっと考えてみれば、ブルックナーなどがBGMに流れているブティックやレストランに喫茶店(あるいはバーであってもいいが)など知りもしないし、おそらく今も存在もしないだろうから、それは的外れな推測であったのである。そのうち、年間数百枚のCDを買うという知人も現れ、「カゴ買い」人種というものが、実社会の表には決して現れないところで密かにしかも逞しく生息していることを知ったのである。次に沸いた疑問は「彼らは一体それらをいつ聴くんだ」というものだが、私のかなり確度の高い推測では、彼らは開封した音盤をレーザーを通すことなく、「○△式速聴法」とかなんとかいう技法を身に付けていて、キラキラした虹色のディスク面から妙なる音楽を瞬時のうちに聴き取っているのだということである。私は今もって到底彼らの境地には及びもつかない。

ニコルソン・ベイカー「中二階」風注釈でしたが、オモシロクなくてすみません。そのうちホンモノの感想でも書きます。

2004年9月5日日曜日

映画:Lovers

今日の東京は午後は、いつ雨が降り出すかというくらいに不安定な天気でしたが、夕方頃からついに大雨になりました。日中は珍しく渋谷に居たのですが、帰ってニュースを見たら、つい数時間前に歩いたところが冠水しており驚いてしまいました。

そんな中、チャン・イーモウ監督の話題の映画「Lovers」を観てきました。昨年の「HERO」は観逃してしまいましたので、今回は是非とも映画館でと思っていた作品です。期待に違わずに非常に楽しむことができました。






















Loversの文字の裏に「謀」の字が重なるタイトルや、『3つの「愛」が仕掛けてくる』というコピーから、中国的な謀略の世界が渦巻いているのだろうとは予想はしたのですが、ストーリーは案外単純だったりします。


でも、細かいことはどうでも良いほどに、映像が美しい、主演のチャン・ツィイーの演技とアクションが素晴らしい、この二点だけでこの映画を観る価値があったというものです。特に遊郭「牡丹坊」のシーンは圧巻と言っていいですね。踊りといい、音楽といい、そして衣装、カメラワークとも申し分がないほどの出来栄、映画はかくも進歩しているのかと舌を巻くほどです。


チャン・ツィイーの踊りは、11歳の時に北京舞踏大学付属中学に入っていたというだけあり、新体操もどきの華麗な舞は見事というほかありません。ワダエミの衣装も凝っていて、桃源郷とも言えるような空間美と謀略の開始を告げる緊張感を余すことなく伝えています。


チャン・ツィイーというのは不思議な魅力を持った女優です。日本的な風貌でもありながら、哀しみや疑いなどを宿す眼の表情は何とも言えません。遊郭での踊り子役でも、囚人役でも、そして男装した官吏風衣装であっても、秘めた熱情と無限のしなやかさを感じさせてくれます。


そして、特殊効果。物理法則を全く無視した豆や石つぶて、短刀や朝廷の追手の動きには思わず笑いが出てしまいますが、アクションはこうでなくてはいけません。




ウクライナでロケをしたという、最後の壮絶なる決闘シーンも、時間軸がずれているように感じるのですが、こううい大仰な演出を恥ずかしげもなくやるところに、潔くも正しい美学さえも感じてしまい、拍手を送りたいと思います。

2004年9月4日土曜日

ラウタヴァーラ:練習曲集 Op.42

ロシアでは何だか大変な騒ぎが起きていますね、TVはその報道ばかりです。プーチンにしてもブッシュにしても「テロとの戦い」を全面に打ち出していますが、彼らが権力を握ってから、かえってテロが増えたような気がするのは、勘違いなのでしょうか。


さて、そういう深刻な事態はさておき、今日もラウタヴァーラの不協和音に親しんでおります。

1969年に書かれた練習曲は異なった音程からなる6つの曲から成っています。NAXOS盤の解説はラウタヴァーラ自らがしたためているのですが、この演奏会用エチュードに込めた思いについては、

I therefore wanted to reintroduce a sonorous, broad piano style using the entire compas of keyboard, presenting this wonderful in its full abundance.
と書いています。作者が意図したように、聴こえてくる音楽はピアノの低音から高音まで駆け巡るようなアルペジオであったり、得意の不協和音やクラスターであったりと、ピアノの能力を十分に発揮させた曲になっていて、技巧的かつ音響的な面白さも味わうことがでます。

それぞれの曲の特徴は「3度」brilliant、「7度」restless、「全三音」anguished、「4度」natural、「2度」expressive、そして「5度」airyとなっています。圧倒的な音塊が砕けるかと思えば、冷たい光が燦然と降り注ぐようなパッセージ、暗さと重さ、冷たい輝き、ラウタヴァーラ節が全開の曲といえましょうか。これが北欧的響きと考えるのは先入観が先立ちすぎているような気もしますが。

2004年9月3日金曜日

ラウタヴァーラ:ピアノ・ソナタ第2番「火の説法」

  1. 練習曲集Op.42
  2. 組曲「イコン」Op.6
  3. 前奏曲集Op.7
  4. パルティータOp.34
  5. ピアノ・ソナタ 第1番「キリストと漁夫」Op.50
  6. ピアノ・ソナタ 第2番「火の説法」Op.64
  • ピアノ:ラウラ・ミッコラ
  • 録音:1997年6月 バークシャー、イースト・ウッドヘイ、セント・マーティンズ教会
  • NAXOS 8.554292

9月になって学生たちの夏休みも終わりましたので、通勤列車がまた混雑しはじめました。私は朝7時代の地下鉄に乗るのですが、この時間は制服・制帽を身に着けた小さな小学生が乗ってくるのですよね。潰してしまわないかと、気が気ではないのですが、小学生は逞しく、頑張って通っています。

さて、音楽に話題を振りますと、ここ数日は、ラウタヴァーラのピアノ・ソナタをラウラ・ミッコラのピアノで聴いています。

ピアノ・ソナタ 第2番は「火の説法」という副題がついています。1970年の作品ですが、激しさと静寂さ、不協和音と、それと全く反する静寂にして美しい旋律が同居しているという点においては、ラウタヴァーラ的な音楽と言えます。特に第二楽章の出だしは何とも言えずに良いです、すぐにまた凄まじくなってしまうんですが。第三楽章なんて、もうこれでもかという激しさですよ、ちょっとしたカタルシスみたいなものさえ感じます。
All three movements observe the principle of continuous growth and the initial idea grows extent, density and strength until the texuer cracks (often into clusters), becomes dissonant, dissolves into fog of sound or, as in the concluding fugue, goes overboard from pathos to trivial irony for a fleeting instant.
このようにラウタヴァーラが書いているように、10分程度の時間の中に大きな変化と振幅を込めた曲です。他の曲と同様に、叩きつけるようなクラスターもあちこちに聴かれます。不協和音については、耳触りというわけではなく、聴き込むにつれて大きな流れなども感じることができ、爆発する音の割には内省的な音楽であるという気がします。

ところで、「火の説法」という題ですが、T.S.エリオットの「荒地」の中に同名の(仏陀による)「火の説法(The Fire Sermon)」という詩があるのだそうです。それとの意識的な関係はないとラウタヴァーラ自身はライナーに書いていますが、《T.S.エリオットによる2つのプレリュードOp12》などという作品も残していますから、何らかの影響は否定できないのだろうと思います。

もっとも、エリオットの「荒地」が、F・コッポラの「地獄の黙示録」に影響を与えたという以外の知識はまるでないので、ラウタヴァーラの作品解釈上、私には何の足しにもならないのですがね。

ちなみに火の説法は「見よ、すべては燃えている。眼は燃えている。目に映るものも燃えている。何で燃えているか。むさぼりの火、いかりの火、愚かさの火で燃えている。このように観察して執着を離れよ」というテキストなんだそうです。

2004年9月1日水曜日

DVD:地獄の黙示録(特別完全版)

立花隆氏の解読「地獄の黙示録」を読んで、どうしてもフレンチ・プランテーションのシーンが入っている特別完全版が観たくなってしまいDVDをゲット、二日間かかって(202分もある)ようやく観終わりました。台風が去った後のべたつくような夜が、さらにムシムシした感じになってしまいました。




いやあ、それにしても長い!長いのですが、観ていると全く目が放せないのですよね。改めてよくぞこんな映画作ったものです。




配役も改めて確認しますと、ウィラード大佐(ロバート・デュバル)に任務を与えるシーンでは、ルーカス大佐としてハリソン・フォードが出演していたのですね。また立花氏に指摘されて気付きましたが、戦場シーンでカメラを持って撮影しているカメラマンは、コッポラ自身なのですよね、結構笑えます。




そういったトリビアな話題はさておいても、この映画のテーマを「戦争の狂気」「欺瞞」「恐怖」などというような、分かったような言葉でくくってしまうのは性急なような気がしてしまいます。「狂気」や「欺瞞」は、話題になった戦闘シーンや「機関銃を浴びせて手当てする」というような矛盾を持って指摘することは簡単なのですが、それらは人間の持つ二面性と合わせて、単純には語れない問題のような気がします。




新たに挿入されたフレンチ・プランテーションのシーンでも、「殺すあなたと愛するあなた」「ケダモノなのか神なのか」と未亡人が亡夫のことをウィラード大佐に説明するところがあります。戦争においては、その二面性の中で揺れ動くのが普通の人間なのでしょうが、それを克服し超越しようとしたのが、カーツ大佐であったのかもしれません。


まあ、いずれにしても立花氏の本を読んだばかりなので、彼の解釈に引きずられてしまいがちなのですが、細かく見るほどに色々なことを考えさせてくれる映画ではあります。

2004年8月30日月曜日

特攻隊の精神?

8月30日の産経抄に特攻隊の精神を美化するような一文が載っておりました。昨日ディスかバリー・チャンネルにて「カラーで見る神風特攻隊の悲劇」という番組をたまたま観ただけに、気になってしまいました。


産経は『特攻隊の散華に熱い涙をそそいだ[...]坂口安吾』の一文を紹介しながら、以下のように書いています。




▼坂口安吾は『特攻隊に捧ぐ』と題した四ページほどのエッセーで、特攻隊の烈々たる「愛国殉国の情熱」に最大の賛美と敬愛をおくったのだった。いささか唐突になるが、アテネ五輪の日本メダリストたちには共通した対応がある。それは「みなさまに感謝します」という言葉だった。



▼その感謝の心と言葉が、それを聴くわたしたちの胸に響いた。この「みなさま」のなかには、生きている人ばかりでなく死んだ人も含まれているはずだ。特攻の英霊たちは、いまの日本の平和と繁栄だけではなく“精神力”も培ったのである。


ヲイヲイ、何を言いたいのでしょうかね。「みなさま」のために自らの命を捧げた「特効隊思想」が尊いというのでしょうか。先のディスカバリー・チャンネルの番組のナレーションで「アメリカは日本の特攻隊を組織してまで護ろうとする「国体」が理解できず、日本は民間人も殺す原爆を理解できなかった」みたいなことを言っていました。番組は連合国(アメリカ)寄りの見方に基づいて作られていますから、米軍の残虐さは影をひそめ、特攻隊の無謀さを淡々と描いてはおりましたが、いかに当時の日本国が狂っていたかは如実に分ります。


「神風」のみならず、その他の自殺兵器を次々と開発し「一億総玉砕」などと言って、本土決戦に備えた話しは、戦中派の方からも聞いたことがあります。軍部は巧みな教育と情報操作を行って、国家神道と天皇を主軸に武士道精神を絡め、忠義を重んじ個を軽んじさせ「武士道は死ぬことと見つけたり」などと言い「死して靖国で会おう」などと誓って無謀な攻撃命令に従属する国民を作りつづけたのです。


靖国を軽んじることが特攻隊などで死んだ人を軽んじるという意見がありますが、話しの次元が違うように思えます。命を侮辱したのは戦争に走った当時の日本政府なのではないでしょうか。日本人が狂気に近い政策を清算できていない以上、産経のような感情的美談論調には全く賛同ができません。こうなると、またまたベルンハルト・シュリンクの「朗読者」のスタンスを思い出してしまい、さらに憂鬱になります。

2004年8月28日土曜日

立花隆:解読「地獄の黙示録」

「地獄の黙示録」が公開されたの1980年ですから、もう24年も前になります。当時私は高校生でありましたが、劇場で観た時は、衝撃と興奮と混乱に陥ってしまったことを覚えています。2001年には大幅にカットを加えた特別完全版が劇場公開されましたが、こちらは劇場では観逃してしまいました。


前半のセンセーショナルなサーフィンシーンが終わった後、ジャングルの中へ進んでゆく過程は、精神的な内奥へと進むがごとくで、次第に更に大きな恐怖へと導かれるようでありながらも、それを一体と名状してよいのか、当時もそして今も判然としない思いを抱いておりました。




ひと言に「戦争の狂気」と言えうような単純なものではなく、もっと人間の本質に根ざした矛盾や狂気を描いていること、父親殺しが一つのテーマになっているらしく、それが映画としての伏線になっているのだとは理解しても、それでも後半の長々としたシーンは、ジャングルの熱気と恐怖そのままに憂鬱な映像でありました。


さて、そんな「地獄の黙示録」を立花隆氏が、持ち前の博学振りを発揮し、真正面から読み解いているのが本書です。立花氏は「はじめに」で次のように書いています。


��私は)この映画が、映画史上最も特異的に面白い作品だと思っている。




この映画は、内容の深さにおいて、はじめて世界文学に匹敵するレベルで作られた映画である。


立花氏の詳細な分析と解説は、本映画の元となったエリオットの「荒地」や、コンラッドの「闇の奥」をはじめ、あちこちの台詞にちりばめられている詩の一節や歌詞を縦横に引用しながら、なおかつ、日本語スーパーの誤りを『日本の洋画界では翻訳のデタラメさが堂々とまかり通る(P.67)』と書き、映画解釈上決定的なミスとなるような翻訳の誤りをひとつひとつ訂正し、背景を示してくれます。


本書を読んでいると、映画のシーンが目の前によぎるようで、立花氏の解釈に成る程と思うのですが、反面、ここまでの知識や教養がなくてはこの映画を楽しめないのかと思うと、逆にゲンナリすることも否定できません。立花先生に「オマエは何にもわかっとらんな」と言われているようで、ナサケないっす。


それでも、気を取り直し、


その深さと重さにおいて比類がないような作品は、多少の破綻がある作品でも、いつまでも人々に論じつづけられるものである。(P.189)


という一文を読み、いずれにしても、またこの映画を観て、自分なりに考えてみたくなったことは確かです。


ふとiioさんのClassicaにエントリーがあったなと思い出したので、エイっとTBしておきます。(こういうのをSPAM TBというのかな?)

2004年8月26日木曜日

勝谷誠彦:イラク生残記

元文藝春秋の記者にして、現在はコラムニストあるいは写真家として、またはTVのコメンテーターとして活躍する勝谷氏による今年3月のイラクでの取材記録です。


このときに同行した橋田・小川両氏が5月にイラク・マフムディアの路上で銃撃された事件は、あまりにも衝撃的でした。勝谷氏も血の涙を流しているのではないかと思えるほどの無念さを、自らのサイトで吐露しておりましたので、この本は襟を正して読むかなとは思ったのです。




表紙の写真(右)は、作者である勝谷氏がフセインが拘束された「穴」に入っている写真です。これは驚きますよね、「フセインの穴」に突撃進入しているのですから。この表紙を見るまで、「フセインの穴」をまともに取材したマスコミがあっただろうか、と思ってしまいました。


という大きな期待を持ってこの本を読み始めました。「イラク生残記」とは何を意味するかは明白で、今年2004年5月28日にイラクで銃撃された日本人ジャーナリストの橋田信介氏と小川巧太郎氏に捧げられる形になっています。


内容は2004年3月、橋田・小川両氏と、まさに銃撃されたGMCを駆ってイラクを共にしたことを記したものです。勝谷氏らもイラクで生死を分かつような恐怖を何度も味わっているだけに、その悲しみと無念さはいかほどのものかと思います。(氏の日記サイト勝谷誠彦の××な日々。にも同時進行的に心情が吐露されています。)


さて、そういう類の本ですし、他ならぬ毒舌家である勝谷氏ですから、いい加減な感想など書けないのですが、この本にはちょっとはぐらかされた思いです。帯に曰く、


亡くなった橋田・小川両氏とチームを組み、自らも武装集団に銃口を突きつけられた著者が、それでも現場に立たずには「発言しない」ことにこだわり続けた渾身の「戦場文学」!


勝谷氏の、現場を見ずに語れるか、行くからには自分の責任で行くという覚悟は、まっとうであり、私のように座して人の活動を眺めるだけの輩に、ああだこうだと言う資格などないのだとは思いますが、「戦場文学」はないでしょうに・・・



日本人外交官はだれに殺されたのか、

なぜ米軍の陰謀説が浮上するのか。

自衛隊はサマワで本当は何をしているのか、

そもそもサマワとはどういうところなのか。

フセイン拘束は米軍の演出なのか、

拘束された「あの穴」は今どうなっているのか。



とは帯裏にあるのですが、上記の事柄に触れられてはいますが、取材と言うほどの取材ではなく、実態はちっともこの本からは分かりません。自衛隊が頑張っているのは分かりますが、それ以上でもそれ以下でもありません。サマワも日本人大使館殺害も、数人からのヒアリングと数日間の著者の行動からの推測だけです。それでも


大手メディアも専門家も、そして何より政治家は、なぜ現場に行かずに無責任なことを言えるのか。


という著者の批判になるのですが、「ええ~っ?」という思いです。そりゃあ、砂漠の真ん中で、アリババに銃口を突きつけられた実感は、あるいはイラクやサマワでの現実の皮膚感覚は、実際の場所に立たなくては得られませんし、そういうものは伝わってきますよ。実際に殺されるかもしれない、という状況の中に立ったものが国会での議論に憤慨するのももっともだと思います。でも本書が、橋田氏と小川氏への追悼的な内容に振れていること、「オレは行ったぞ、オマエはどうだ」という既成事実というかアリバイ作りのように読めてしまうのですが、いかがでしょう。民主党が3時間だけイラクに行った(降りた?)というのよりは、はるかにまともなんですが。


おっと、またしてもだ、座して人の活動を「ああだこうだ」などと言う資格は私になどないのです。でも、誰だって思い立ってすぐにイラクに行けるわけでもなく、行った人に期待はするものです。決して勝谷氏を批判しているわけではなく(何度も言いますが「批判」でも「批評」でも出来るわけないのです)、もう少し掘り下げを期待しただけです。


最後は、本書と関係ない蛇足ですが、サマワで頑張っている自衛隊員にはおそらく罪はなく、自衛隊派遣反対を主張することは、彼らの努力に対して失礼だという意見があります。小林よしのり氏も、このごろそういう論法を取っています。M・ムーアの「華氏911」で息子が軍隊にいる母親が「反戦運動は大嫌いです。息子に泥を塗っているような気持ちになります」というような意味合いのことを言っていました。あるいは、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」における、ナチスの一員として収容所で働いたハンナです。彼らあるいは彼女ら個人を責めることができないのと、それを含む制度や決定事項を批判することを同一には語れないと思うのですが。当然ですが、勝谷氏は同一には語ってはいませんよ。