2004年2月29日日曜日

辺見庸:単独発言

辺見氏の本は重い、しかしあまりにもめちゃくちゃな世の中だからこそ、氏のようなジャーナリストにして作家が居ることを、僥倖であると思わないわけにはいきません。麻原氏の死刑判決に対する一文を書いたのも、彼の本を読んでいたことと無関係ではありません。




辺見氏の本は現代の精神的なカンフル剤、あるいは踏み絵かもしれないと思うことがあります。日々の情報と生活にまみれ思考停止状態になっている中で彼の文章に接すると、紙面の奥から読むものの嘘と真実を見抜くような視線さえ感じます。


本書は「私はブッシュの敵である」と副題にあるように、911テロの後のアメリカの有様や、彼が1999年問題と指摘するように、日本の21世紀に向けての祖型がつくられた頃の日本の精神的風景を書いています。彼の前ではエセ改憲論者や俄か軍事評論家はひとたまりもなく吹き飛んでしまのではないでしょうか。彼の持つ言葉の重みの前では、自らの怠惰を恥ずるのみです。


歴史が、突如、激しい痙攣を起こした。それを前にしては、いかなる作家や哲学者の、どのような表現も、凡庸のそしりをまぬがれないほど、光景は、突出し、ねじれ、熱し、歪み、滾り、かつ黙示的でもあった。(「私はブッシュの敵である-言説の完膚なきまでの敗北について-」P.1)


彼は一貫して現代の体制に従事してしまったマスコミを批判し、言説が力を持たなくなったことを嘆いてはいますが、彼は真のジャーナリストであり作家ですから、言葉の強さ、行動を伴った言葉の力を信じています。これほど端的に911テロを言い尽くした言葉があるでしょうか。


本書の中で辺見氏は映画「コヤニスカッティ」に触れています。F・コッポラ製作、ゴッドフリー・レジオ監督、フィリップ・ダグラスの音楽による、文明の廃頽のようなものを、一切のナレーションもなく延々と映像と音楽だけで延々と2時間近く流し続けるという、驚くべき作品です。私がこの映画を映画館で観たのは高校生の終わりの頃だったでしょうか。ものすごい衝撃を受け、今でも鮮明に映像が脳裏に焼きついています。あれは一体なんだったのでしょう、おそらくは高度に肥大化した資本主義の断末魔の叫びを観せられていたのかもしれません。辺見氏の哲学の向こうには、米国帝国主義と米国性資本主義を超えた世界観が見据えている点で、同時代の発言とは一線を画しています。


辺見氏は今の時代は、明らかに間違った方向に進んでいる、特に小泉政権のもと、彼を支持する国民とそれをもてはやすマスコミたちとともに、改憲気運が高まっていることに警鐘を鳴らしています。それを「実時間における作家の時代認識について」として、野間宏氏の例を取りながら、自らを内省してみせます。私たちに今見えていないことは何なのか、今何を言うべきなのかと。


彼の本は、一言では言い表せず、彼の投げかけたテーマと罠は、ふとした局面で自らを試すリトマス試験紙あるいは踏み絵のように、また舞い戻ってくるのだと思わずにはいられません。彼の本を読んで、自らのものさしの目盛りが正しいのか、時々確認せざるを得ません。

2004年2月28日土曜日

チャイコスキー:交響曲 第5番/ガッティ



  1. チャイコフスキー:交響曲第5番ホ単調
  2. チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』

  • ダニエル・ガッティ指揮、ロイヤルpo.
  • 2003/8/31-9/1 Abbey Road Studios,London

ガッティの新作であるチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いてみました。チャイコフスキーの第5番は私の非常に好きな曲です。

ダニエル・ガッティといえば数年前に発売された、マーラー交響曲第5番が思い出されます。衝撃のマーラーみたいな売り出し方で、私も乗せられて聴いてみましたが、確かに素晴らしい熱演で、特に終楽章の終わり方など凄まじいものがありました。しかしその後の演奏はあまり話題に上らず、私もあの1枚で忘れ去っていたというのが本当のところです。そういうガッティが今回 harmonia mundi に録音したのがチャイコフスキーの第5番と知り、HMVが宣伝しなくても気になっていました。

さて二度ほど聴いてみた印象としては、熱く押しまくる激情型の演奏とは若干違うもののように感じました。激しくないというのでは、全くないのですが、それでも情よりも知の方が勝っているのではないかと感じるのです。

激しくないわけではないと書いたように、始終テンションは高い演奏です。ガッティは緩急を織り交ぜ、自在にテンポを操りながら演奏を進めてゆきます。表現も豊かで、激流とその裏腹のよどみのような柔らかな表現を交錯させるさまは見事です。こういう明暗の描き方はあざといほどで、躁と鬱を複雑に移り変わる感情を表しているようでもあります。ロミオとジュリエットでもそうですが、音楽の造詣は彫が深く秀逸な録音のせいもあるのか情報量が豊富な盤だといえます。こういう演奏を「キレの良い演奏」と言うのでしょうかね。

私はチャイコフスキーのこの曲は昔から非常に好きな曲でありまして、この曲のレビュを書くために「チャイコフスキーの交響曲を聴く」というシリーズを数年前に立ち上げたほどです。この曲はベートーベンと同様に「運命」がテーマとされているように言われますが、私はむしろ特徴的に現れる上昇音型と下降音型に示されるように、引き裂かれた自我の二面性を感じるのです。第二楽章の圧倒的な静謐と美しさも、喪失した美しさや、訪れるであろう(または訪れた)哀しみと虚無を感じます。終楽章もそういうコンテクストで聴くと、自らを鼓舞する駄目押しの祝祭のように思えます。


ガッティの演奏は、激しさと緩やかさの色彩変化が鮮やかで、チャイコフスキーの泣き笑いが透けて見えるようです。演奏は熱演のようでありながら計算と抑制が効いており、単なるお祭り騒ぎに終わらせていないように思えます。テンポの変化も情に訴えるというよりも、聴きなれたこの曲に新たなエネルギーと息吹を与えるような効果であるように思ったのですが、いかがでしょうか。(何度も聴いていたらわけが分からなくなってきたのでここらへんで止めます)

麻原被告の死刑判決

オウム真理教の麻原被告に東京地裁は27日午後、求刑通り死刑の判決を言い渡しました。あまりにも長い裁判に憤りを覚えたり、なぜ即刻死刑にしないのか、という声も多いと思います。かくいう私も、疑問に感じるひとりです。

しかし、これほど影響力のある事件だからこそ、しっかりと裁判を行い事実認定を行い法が裁くという姿勢こそが大切なのではないかという気もしています。最近、宮部みゆきの「クロスファイア」を読んだばかりなので、こういう輩こそ私刑に処すべきという感情論も分からないわけではありません。
死刑制度の是非については、賛成とも反対とも言いがたい気持ちです。国が法のもと犯す国家的暴力としての殺人という意味は、しっかり考える必要があると思うのです。被害にあわれた方々の気持ちを考えると複雑ですが、殺人で報復したところで最終的には救済されることはなく、事件の全面解明と再発防止のために私たちがどうするか、ということこそ重要なのだと私は思うのです。
今のように麻原被告の黙秘と心神喪失のフリのような不遜な態度には、理性を超えて怒りを覚えることも確かなのですが、そこで負けると、映画「セブン」のブラッド・ピットと同じことになってしまうのではないかと思うのでした。

2004年2月26日木曜日

宮部みゆき:クロスファイア、燔祭

私は読書家でもなければミステリファンでもありませんので、実を言うと宮部みゆき氏という押しも押されぬ人気作家の作品をほとんど読んだことがありません。従ってこれから書くことは、見当はずれな感想となるかもしれないためご容赦願います。また内容にも触れますので、ご注意ください。




さて、まず「クロスファイア」から読みましたが、念力放火(パイロキネシス)という超能力を扱う女性が主人公が、凶悪犯罪を犯しているのに法的に大きな罪を得ることなく生きている者たちを、被害者たちに成り代わって復讐することが自らの使命であると信じて殺りくを繰り返す。その設定に乗ることができず、安っぽさとB級サスペンスを読む思いで、実はゲンナリしてしまいました。(読んでいるときは面白いのですがね)


宮部氏は、超能力を題材にした作品はほかにもあるらしいのですが、能力に対する必然性や、何故それを行使するに至ったのかが不明で(いくら悪を滅ぼすとは言っても、立派な殺人ですから)、暗さと殺伐とした雰囲気が漂います。悪い奴らをやっつける、という勧善懲悪的なカタストロフも感じることができません。作品イメージは炎が象徴するものとは裏腹に陰湿です。ラストのあり方にも解放とか救いを私はそれほど見出しませんでした。


主人公である青木淳子のラブストーリも挿入されたりし、法を逃れて生きる犯罪者を私刑する行為や人が生殺与奪の権を持つということに対する問題提起らしきものも見えるのですが、それらは付け足しのようにしか感じられません。


この作品で宮部氏が書きたかったのは、強力な破壊兵器である超能力をもった女性=「装填された銃」という設定に魅せられ、それを書ききったのだなと読み終わって思いました。内容とテーマが微妙な齟齬をきたしているようで、しっくりこないという印象さえ受けました。ぼろくそですね。



ところでこの作品のもととなったのは「燔祭」という中篇小説です。まあついでですから、こちらも読んでみました。主人公も同じで、「クロスファイア」で挿入された事件の発端を書いた作品です。「クロスファイア」だけならば、私は宮部みゆき氏を見限っていたかもしれません。しかし「燔祭」は全然質の違う小説でした。文庫本には「朽ちゆくまで」「鳩笛草」とふたつの中篇がおさめられているのですが、どちらも超能力を持ったが故に、その能力と折り合いをつけてゆかなくてはならない、個人の軋みを書ききっています。「クロスファイア」よりも小説の重心が低く、文体も落ち着いています。それが個人としての悩みや苦しみ、能力を持つゆえの喜びなどが、沁みるような語り口で描かれています。私はこの作品を読んで、やっと落ちるべきものが落ちたと感じました、これならば納得できます。(文庫本解説の吉田伸子さんとは全く逆の感想ですね)


こうして考えると、「クロスファイア」はエンタテイメントに重心を移し、万人受けするような派手さを持った小説に仕立ててしまったが故に、話も大きくなってしまい、隠されたテーマとの間でアンバランスさを生じたのではなかろうかと思った次第です。読むならば迷うことなく「燔祭」から読むことを勧めます。それにしても青木淳子というヒロインの哀しさよ。

2004年2月20日金曜日

新生銀行の再上場

新生銀行が再上場したことが話題になっています。新生銀行といえば破綻した日本長期信用銀行。バブルの時の乱脈融資が破綻の引き金で、国会でも何度も答弁を繰り返していたことを思い出します。

買収したのは、米投資ファンドのリップルウッド・グループなど。上場に伴う株の売却で約2300億円を得ています。1210億円
余りだった投資資金の2倍近い収入を得て、なお時価7千億円以上の株式を保有するわけです。国が投入した公的資金は約7兆9000億円、そのうち債務超過分の穴埋めとして金銭贈与した約3兆6000億円は損失が確定。悪名高く批判された「瑕疵担保条項」を積極的に利用して、三年間で300社以上の債権を国に買い取らせての再生です。旧長銀の連鎖倒産は民間信用調査機関の調べによると、152社、負債総額約11兆円に上っているそうです。(以上、日経、朝日、読売新聞より)
この企業再生劇を成功と見るのか、苦い経験と見るのか、経済に疎い私には判断ができません。国民負担は4兆とも5兆円とも言われています。確かに新生銀行は徹底した業務改善などに取組んでいるようで、日本の銀行が出来ないようなサービスを提供しつつあります。銀行では多くの優秀なインド人を雇って効率化に取組んでいるという話も聞いたことがあります。
釈然としない思いは残るものの、外資だからこれほど早く再生させることができたのでしょうか。まさに竹中金融相の思い通りになったわけえですから、成功というように受け止めるべきなのでしょう。私には分らないことだらけですが、非常にエポックメーキングなことで記憶にとどめておくべきことだと思っています。

2004年2月19日木曜日

米タワーレコード破綻

ちょっと古い話題ですが、今月9日に米タワーレコードを運営する「MTS」が破綻したようですね。連邦破産法第11章の適用というのは日本の民事再生法のようなものだそうです。

従来型のソフト販売の大手が破綻というのは象徴的な出来事のように思えます。

ネットでの音楽配給というビジネスモデルは、これからますます盛んになると思われますから、CDやDVDを売るという従来型のビジネスモデルは、転換を余儀なくされるということでしょうか。
もっとも、ネットの大手アマゾンでさえ、経営的には実は苦しいという話も聞いたことがありますので、ネットを媒体とした企業が「勝ち組」と単純に言い切れるわけでもなさそうです。
私はどちらかというと、CD店に行ってぶらぶらと迷いながら選ぶというスタイルが非常に好きなのですがね。

2004年2月15日日曜日

テンシュテット/ドヴォルザーク交響曲第8番








  1. ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調
  2. スメタナ:歌劇『売られた花嫁』序曲
  3. ヤナーチェク:シンフォニエッタ


  • クラウス・テンシュテット(指)ロンドンpo.
  • ロイヤル・フェスティヴァルホール(ステレオ・ライヴ)
  • 1991年4月2日ロンドン



昨年、ベートーベン交響曲第9番のリリースで話題になったテンシュテットによる、オールスラブプログラムです。演奏は1991年4月1日ロイヤル・フェスティヴァルホールによるライブ録音です。




1991年4月2日のライブ録音はテンシュテットによるオールスラブプログラムです。テンシュテットのスラブものというのは珍しく、スメタナに限らず、ドヴォルザークの交響曲第8番でも、あまりスラブらしさを感じさせませんでしたが、それでもテンシュテットらしい演奏を満喫できる盤であるとは思います。

■スメタナ:「売られた花嫁」序曲


冒頭はスメタナの「売られた花嫁」序曲から始まります。のっけからオケを煽るかのごときスピードと躍動感に圧倒されます。メロディの裏の弦の刻みが凄まじく秘めたエネルギーを蓄えているかのような感じで、それだけに蓄積されたエネルギーの放逸は凄まじいものです。まさに爆発といってもいい響きを聴くことができます。低弦の刻みなど堂々としすぎていて、ドイツものを聴かされているような印象を受けないわけではありません。スラブ的とはどういうことか、と問われると答えに窮するのですがね。

■ドヴォルザーク:交響曲第8番


ドヴォルザークの交響曲第8番も、これはこれは素晴らしく堂々とした演奏でした。一瞬ベートーベンを聞いているのではないかという気にさせてくれる点でも稀有の演奏かもしれません。(特に第2楽章の後半を聴いていてそう感じました。)


それでもスラブ特有(?)の弾け方や体の内側から、固い殻を突き破って溢れ出るかのような生命力というものを感じないわけでは全くなく、むしろ演奏のダイナミズムと相まって劇的なまでに興奮が増幅された演奏になっているように思います。ここらあたりは、さすがにテンシュテットというところなのでしょうか。



エネルギーの放逸という点では、本当にもう脱帽するほどで第一楽章ときたら壮大なドラマさえ感じます。第2楽章などは、十分に歌を聴かせてもらいたいところですが、HMVのカスタマーズレビュにもあるように、ちょっとやりすぎという気がしないでもありません。この楽章にこんな劇的さを私は求めていませんよと(笑)。


誰が演奏しても「スラブ的」になるはずの第3楽章も振幅の大きさは凄まじいですね。実は、ドヴォルザークの8番というのは、高校時代に私は非常に好きだった曲で、久しぶりに聴きましたが、フレーズのひとつひつを口ずさんでしまうほどなのです。ここでも頭の中に刷り込まれた演奏(誰のでしょう?)を反芻しながらテンシュテットの演奏を聴くのですが、体の芯が痺れてしまうような演歌的な臭さはついぞ感じません。


この勢いで怒涛の終楽章に突入するのですが、ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラの金管群とティンパニの猛打が印象的ですね。ヤナーチェクでもそうですが、狂ったような木管の吹奏もかなりすごいです。この明朗なドヴォ8をここまで追い込むとは、テンシュテットっていったい何なんでしょうね。

■ヤナーチェク:シンフォニエッタ


私はクラシックファンのようなフリをしていながら、ヤナーチェクのような作曲家の曲を実は聴いたことがありませんでした。したがって、これまた凄い演奏であったとしか書けないところが情けないです。

2004年2月13日金曜日

年金は誰のものなのか


先日、年金問題についてちょっとだけ書きましたが、本日の読売新聞は『[年金改革]「“保険料流用”の廃止が先決だ」 』とする社説を掲載していました。社説は以下のように書いています。



 国民が納める保険料は、現在の高齢者の給付を支えるとともに、将来に備えた積立金となる。それを官僚は湯水のごとく浪費し、目減りさせている。


 「無駄遣いの象徴」とされるのが、広大な敷地に豪華なホテルやプールなどを備えた大規模年金保養基地(グリーンピア)だ。一九七〇年代から八〇年代まで全国十三か所につくられた。


 経営難のため二〇〇五年度までに全廃されるが、それでも建設費や借入金の利払いなど、最大で約三千八百億円の損失が年金資金に重くのしかかる。




 これだけではない。病院やホール、スポーツセンターなど、年金資金で建設された福祉施設も、合わせて二百六十五に上る。建設費も維持管理費も、すべて保険料に“おんぶにだっこ”だ。累計では一兆五千億円を超えている。

この手の話題について、マスコミは時々思い出したように記事や番組にしていますが、今ひとつ国民(私たちですが)の憤りにまで結びつかないような気がしています。いわゆる「年金たれ流し」問題は、ジャーナリストの櫻井よしこさんも鋭く著書で批判していますし、あまり好きな雑誌ではありませんが、「週間ポスト」などでも特集記事をみかけます。


いったい納めている年金がどのように使われているのか、国民をはじめほとんどの人が知らない、知らされていない、知ろうとしない、知ろうとしても分らない、という状態は、やっぱり怒るべき自体なのだと思います。そういう実態があるから最近の年金情報が「目くらまし」に見えてくるのですが。

2004年2月11日水曜日

年金問題ですが

このごろ「年金が危ない」という手の特集やら記事がやたらと目に付きます。週刊誌や隔週刊誌、月刊誌などで記事にしていないときがないくらい。新聞も年金問題を特集し、書店にも「年金崩壊」の本が山積。

実際そうなんでしょうけれど、これって実は情報操作で「危ない、危ない」と危機感を煽ることで国民を慣らしてしまっているという面はないのでしょうかね。

2004年2月9日月曜日

展覧会:パリ/マルモッタン美術館展


東京都美術館へマルモッタン美術館展を観て来ました。本展覧会では印象派のクロード・モネと、日本ではあまり知られていない画家であるベルト・モリゾの作品を一挙に見ることができました。


印象派のクロード・モネは非常に有名ですし、高校時代には彼の絵に心酔して画集を数種類そろえるほどでしたが現物をこれほどたくさん観るのは今回が初めてでした。



モネの絵は絵葉書は勿論、お皿になったりテーブルクロスになったり、本当にあちこちで溢れていますし、画風の分かりやすさから日本では大人気のことはご存知の通りです。今回モネの実物に接して感じたことは、彼の風景画は誰もが持っている「記憶の風景」を呼び起こす働きをするのではないかということです。タッチは風のように荒く、それでいて一瞬の移ろいのはかなさを秘めた風景を彼は描き出します。それが遠い昔の夏の風景だったり、懐かしくも楽しかった水辺での思い出だったり、人によって想起される記憶はそれぞれだと思いますが、彼の絵からは風景以上の情景に心乱されてしまいます。単なる風景画以上のものをそこから感じてしまうのです。


モネは晩年に白内障を患いました。この時期の彼の絵は具象から抽象へと向かったと、よく解説されますが、今回晩年の彼の幾枚かの作品に接し、そういうものではないのではないかと感じました。


例えばジベルニーの庭で書かれた睡蓮や太鼓橋などは色の中に形を崩し溶解してゆきますが、絵のタッチを見ると、色は互いに塗り重ねられていても濁ってはいません。下の色が十分に乾いた後に、荒々しいタッチで再び筆を重ねていることがはっきり分かります。ここには何か計算づくの怨念のようなものさえ感じます。そういえば色彩も赤系統を多用するようになり、さながら情念の炎が燃え上がっているかのようです。


形象が崩れた後に立ち現れる記憶としての風景は、晩年の絵においても顕著で、近くでは絵の具の塗り重ねとしか見えなかったものが、離れて目を細めて眺めれば、そこには紛れもない光そのものがキャンバスに定着されていることに気づかされます。彼は抽象に向かったのではなく、光そのものを彼の全精力を費やして固定したのだと思うのでした。彼には抽象とか具象とかいう概念はなかったのだと思います。


ベルト・モリゾについては事前の知識が全くありませんでした。モリゾは女性ですが、繊細でやさしい色彩を使う絵でした。ずっとそばにおいておきたくなるような絵です。ルノワールやシスレーなどの絵も1枚か2枚ありましたが、これはこれで彼らの画風を再認識させるものでした。それと展覧会の最初の一枚にあった、コローの絵(画集を買いませんでしたので名前は覚えていません)。この絵は素晴らしかった。いかにもコロー風の絵なのですが、画面の両側には黒々と覆いかぶさるような樹木が、そのむこうに広々とした湖と対岸が見えるという風景ですが、この湿度感を伴った空気ときたら、私はおもわずその小さな絵を見て吐息をもらしてしまいました。

2004年2月8日日曜日

斉藤孝:「三色ボールペン情報活用術」

三色ボールペンを使って情報を活用しようという本です。10分の立ち読みで内容を把握できるように、本文の大事なところは太字になっています。



三色の使い方とか、何をすればよいのかはさておき、氏の言う「情報整理術では駄目なのだ」というのには、賛同します。私も京大式だのカード式だのリフィルだの色々媒体を用いましたし、IT機器が手軽になってからは、プレーンテキストをベースに、grepやsedなどのスクリプト系コマンドを使って整理したり、DBソフトや電子手帳などにも手をを染めました。


結論として言えたことは一つ。整理した情報は二度と使わなかったということでした。なかなか悩ましい問題ですね。まあその程度の仕事や趣味の世界でしかないということですな。


ちなみに私も3色(正確には4色ですが)ボールペンを持っていますが、氏の言う通りには多分使いません。それにくだらない本にボールペンで線を引いてしまおうものなら、Book Offに持っていっても売れなくなってしまいます。

2004年2月6日金曜日

森永卓郎:続年収300万円時代を生き抜く経済学

題名の通り続編です。読んでみますと前編の実践編ということになりましょうか。


森永は金持ちなのにどうしてそういう本を書くのか、というキモチは私も持ちましたが、そう思った読者の方は多かったようです。




前作を読んで成る程と思う反面、ちょっと違うなあということも感じたのですが、共感できる部分も多かったため、ついでに続編である本書も読んでみました。前書が2003年3月1日発行、本書が11月25日発行ですからその間約半年程度しか経っていません。ですから森永氏の経済に対する考え方には全く変化はありません。(むしろ半年の間で経済状況は悪化していると指摘していますが。)


そういう本書のテーマは「まえがき」の以下の部分に要約されています。


前作を読んでいただいた方々から、たくさんのご意見をいただいた。[...] 一つは、具体的にどのような対策をとれば年収300万円で暮らせるのか教えて欲しいというもので、もう一つは年収300万円で暮らせると言いながら、実は森永は金持ちではないかというご批判だった。(P.4)


このように書かれていますので、前編の実践編というふうになりましょうか。森永氏は所得格差は絶対に進む、数年後には必ず意図的なデフレ脱却が起こり土地や資産は上昇し、そうなったらもう日本は過去のような皆が平等であった時代には二度と戻れないと警鐘を発しています。


彼はそういう市場原理と戦っていくという姿勢よりも、300万円で身の丈にあった生活をした方が人間的な生活を回復できますよと説いているのです。第4章で森永氏で自らの前書の書評を紹介していますが、まさに「『逃散』の勧め」というわけです。ですから、そういう生活を選択した方々の生活ぶりについても第3章「心豊かなライフスタイルを模索し実践する人たち」として紹介しています。


ちょっと違うのではと思うのは、世の中が1億以上稼ぐ社会の数パーセントの人と、社会の6割り程度を占める年収300万円代の人と、年収100万円以下の三つの層に分化するということでしょうか。(P.65) 確かにアメリカ社会は数パーセントの超金持ちと一般の人に分化しているという話は聞きますが、本当にそうなるのかとなると、鈍いせいか実感を伴いません。それでも彼は書きます。


一つだけどうしても言っておきたいのは、「これから日本が市場原理主体の社会に変貌するなかで、能力や成果が政党に評価されるようになるのだから、きちんと仕事で成果を出していけば、それが出世に結びついていく」と考えるのは、完全な誤りだということだ。(P.235)

会社生活にはもはや夢も希望もないと言い切っているのと同じです。会社の中で「ラットレース」を繰り返し身も心もボロボロにするよりもっと豊かに暮らせというのですが、確かに会社生活は厳しい面もありますが、皆そこの中で自己実現を重ねてきているわけです。急にそういう人生を止めなさいと言われても、実のところ戸惑うばかりです。自分の足元の階段をはずされるようなものですから。


森永氏の考え方に同調できる部分も実は多いだけに考えどころです。思うに、日本の会社勤めの人の大部分はあまりにも忙しすぎ、家庭はおろか、近隣や社会、自国の政治、さらには国際社会としての役割に、個人的に関わっている時間がないと感じています。あるいはすごく忙しく働くことが、社会やその他の人たちと直接結びついている人たちは幸せかもしれません。多くの会社勤めの人は、自分の成果を社会に還元して納得できにくくなっているのではないでしょうか。


会社勤めはどんなに頑張っても、役員や顧問にならない限り長くて60歳で定年です。リストラ後の再就職がままならないように、普通の会社勤めの人が、そこでのキャリアを定年後にも生かせる機会は稀有と言ってよいでしょう。会社という肩書きを外れた個人として、自分が自分以外のものとの繋がりが薄すぎることが日本人とそして日本の最大の不幸なのかもしれないと思うこのごろです。

2004年2月5日木曜日

森永卓郎:年収300万円時代を生き抜く経済学


先のようなことを考えていたのは、森永さんの本を読んでいたからです。


森永さんの経済に関する考え方についての論評はできませんが、内容は示唆に富むものでした。相容れないところもなくはありませんが。




テレビ朝日のニュース・ステーションに出演されている森永さんの本です。最近この人の書いたものを良く目にします。特に経済系の週間・月間誌、30代ビジネスマン向けの雑誌をぱらぱらと捲れば、人の良さそうな彼の写真をすぐ探すことができます。だから本の題名が良くないですね。「あちこちで結構稼いでいるくせに、人には年収300万円で生き抜けとご教授を垂れるのか」と、やっかみにも似た反発を覚えるものです。


そうは言っても、何を言っているのか、とりあえず読んでみました。


景気回復と不良債権処理の考え方は、竹中金融相や木村剛氏の考えとは真っ向から対立しているようです。森永氏は不良債権をなくしてもデフレからは脱却できず景気も回復しない、むしろマネタリー・ベースを増やして流通現金量を増やし、更に土地担保主義の金融システムを復活させよと主張しています。一方の木村氏は「悪臭の源は不良債権である」(日本資本主義の哲学:木村剛)と言い切っているのですからね。


デフレ処理と不良債権処理に関するテクニカルな問題については、私はその是非を判断する知識を持ち合わせていません。興味のある方は両者の著書を読み比べて判断されると良いかもしれません。


私が面白かったのは、「日本に新たな階級社会が作られる」(2章)、「1%の金持ちが牛耳る社会」(3章)などの部分で、全てではないにしてもかなり説得されてしまいます。薄々私が感じていることと似ているからです。森永氏は最初控えめながら、こう書きます。


不良債権処理を進めても、マネーは増えず、景気も回復しない。[...] (政府は)何ひとつ良いことが起こらない金融再生プログラムをなぜ強行しようとするのか。一つの可能性は、小泉内閣のブレーンたちが、とてつもなく頭が悪いということだ。[...] (そんなことはありえないので)むしろ、小泉内閣の正体が「金持ちをますます金持ちにする」ことになるのだとしたら、この金融再生プログラムは実によくできている (P.49)

これを実現させる手順は以下のようだと書いています。



  1. ITバブルを引き起こして「頭金」を作る。

  2. 金融引き締めによるデフレを仕掛けて、資産価格を急落させ、不動産を借金で購入した企業を追い込む。

  3. 不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める。

  4. デフレを終わらせて、買い占めた不動産価格でキャピタルゲインを得る。

  5. 一度たたき落とした旧来肩の企業や一般市民が、這い上がってこないように弱肉教職社会へ転換する。


今、東京で起きている現象に妙にラップする部分を感じてしまうのは私だけでしょうか(まさに日々そういう事象を仕事でも目にしていますから)。現象は②~③に達しています。


しかしここからが良く分からないのです。森永氏の言う「勝ち組」とは具体的にどこに居る人たちのことなのでしょう。私の業界(完全な「負け組」ですから)では、全く実感を伴いません。


また彼の論では、家族もかえりみず寝る暇も惜しんで働き1億円の年収を得る一部のサラリーマンと、「負け組」の年収300万円のサラリーマン、更にそこにさえ達さない三つの層に分かれると書いています。これは少し私の感覚と異なります。年収1億円のサラリーマンも、年収300万円のサラリーマンも、同じように死ぬほど働いているのが現実のような気がします。(死ぬほど働く期間は異なるでしょうが)。


真に恩恵をこうむるのは、どこに居るのか分からない、死ぬほど働くことを一生しないですむ「資産家」「投資家」のような気がします(それこそ、そんな人たちはどこに居るのだと思いますが)。また、森永氏が主張するように300万円でよしとして、ガリガリ働くことを放棄して優雅に過ごせるような人など、それこそ僅少であるように思うのです。


日本において価値観の転換が必要ということは、おそらく言われなくても皆が気づき始めています。でも理不尽に思うことは、世界でもトップクラスの平均年収を誇り、物質的にも衣糧・教育環境とも豊かな日本国民が、なぜにこんなに「幸福感」を実感できないでいるのでしょう。それは労働時間や高い地価だけのせいでしょうか。


彼の主張は私に色々なことを考えさせてくれました。それはまたおいおい書いていきましょう。

夢のような生活:成功報酬

平成16年の日本における「夢のような生活」とはどのようなものでしょう。サラリーマンの場合、早く成果主義を導入してもらって若いうちは死ぬほど働き、同僚はもちろん上司も蹴落とし、スーパー・サラリーマン(そんな言葉あるのか?)にいち早くなり、

40代までに一般のサラリーマンがもらう生涯年収くらいの金額を稼ぎ出し、更に運用可能な資産も保有し、どんなレストランやブティックに入っても、値段を気にせずに注文することができて、豊かな不動産(当然ローンではない)と物資に恵まれ、時間も気にせず気のあった仲間たちと生活を送るのが「夢のような生活」でしょうかね。


��0代前半にして会社の役員となって部下や関連会社を奴隷のように使って会社業績を上げることがそうなのでしょうか。あるいは若くして引退して海外に移住して趣味の世界やゴルフ三昧をすることが、それに当たるのでしょうか。


なんだか違いますよね。だとすると「夢のような生活」という設計図を、以下に書いて、さらには次世代に伝えることができるのでしょう。自分中心の小さな「オレ様の世界」にまとってしまうことを、どうして否定できましょうか。

スレイブ:奴隷


中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授が、青色発光ダイオードを発明した報酬として、日亜化学から当時報奨金として2万円からもらえなかったということを、海外の研究者に話したところ「スレイブ」の呼ばれたということが頭にひっかかっています。


世のサラリーマンの大半は(個人の能力の差はさておき)サービス残業を前提にして勤務していますし、大手・零細企業を問わず、忙しい部署の社員は帰宅時間が24時を回ることも、それほど珍しいことではないと思います。


それでも報酬は残業時間とは一切関係なく一律で支給されていますから、頑張る社員(能力がないだけかも知れませんが、誰も客観的な評価ができません)もそうでない社員も給与格差はほとんどないというのが現状でしょう。


「会社や組織は一割の社員が支えているのだ」という意識だけが(本当に意識だけですが)彼や彼女らに小さな誇りと自負とモチベーションを与えているのかもしれません。仕事の大義とか意義という点になると、サラリーマンは自分の意志とは反する業務も行わなくてはなりませんから、言い方によっては「企業の奴隷」とも称されても否定できない状況なのでしょうね。


そういう今の「会社中心主義」「会社での実績に自己実現を重ねる」という生き方に夢も希望も感じないという若者が増えても、不思議なことではないとは思います。


では、そういう現実を打破するために「出来る社員」に高給を払う「成果主義」を導入するという事に対しても、総論賛成各論反対という意見が大半でしょうか。自分が組織の中で「勝ち組」になる確証はありませんし、そもそもJOB DESCRIPTIONや数値化された目標と達成度の評価というような客観的評価基準やそれに代わる尺度が無い以上、人の業績を図ることができないわけです。

2004年2月4日水曜日

カルロス・クライバー/ベートーベン交響曲第6番「田園」

  • カルロス・クライバー(指)バイエルン国立歌劇場管弦楽団
  • 独ORFEO C 600 031B
  • 1983年11月7日

昨年話題となったカルロス・クライバーの「田園」を聴きました。

ネットでの感想を読む限り、賛否両論でしたが、演奏、録音回数ともに少ないC・クライバーですから期待が過剰になっていたふうにも伺えます。私にとっては、これはこれでとても素晴らしい「田園」となりました。

ベートーベンの交響曲では4番、5番、7番などがいずれも名演の誉れ高いのですが、クライバーは生涯の中で「田園」を振ったのは、ここに納められている1983年11月7日の演奏が唯一なのです。クライバー・ファンならずとも注目をしてしまいます。

そもそも「田園」という曲は、ベートーベンの交響曲の中でも損な役回りをしているように思えます。中学の音楽の時間に名曲鑑賞という名の下で聴かされたであろう「名曲」なのですが、ベートーベンの他の曲のように、「よし、今日はひとつ天気も好いし公園に行く変わりに《田園》でも聴くか」とは絶対にならないのです。天気が良かったら家で音楽など聴くなよという突っ込みはおいておくにしても、「田園」をこの前いつ聴いたかというと思い出すのが難しいほどです。

私にとってはそんな曲なのですが、クライバーの演奏を聴いてみて、果たして「田園」という曲を見直す思いでした。牧歌的なイメージとは裏腹に、他の曲と同様のベートーベン的苦悩と歓喜の交替を聴くことができます。かと言って力瘤を溜めまくったベートーベンでは全くなく、クライバーの4番や7番と同様に、疾走するかのようなスピード感、第4楽章に見られるような畳掛けるような激しさ(本当に凄まじいの一語に尽きます)、そして圧倒的な平穏が訪れる第5楽章など、起伏の激しく切れの良い音楽を聴くことができます。

「田園」の定盤は知りませんが、今回この盤を聴くに当たって、東京に持ってきていたフルトヴェングラーとベルリン・フィルによる1947年5月25日のライブと比べてみました。比べることが間違っていると思えるほどに、フルトヴェングラーの演奏は立派であり感動的です。テンポもしっかりしていて重厚で激しいベートーベンを聴かせてくれます。

さて再度クライバーの演奏に立ち戻ってみると、やはりそのテンポの速さは圧倒的です、異常とも言えるかもしれません。83年当時は誰も振らなかったであろう程の速さ(あるいはベートーベンが楽譜で意図した速さ?)で駆け抜けます。きっとアファナシエフならば「君の演奏は速すぎる」とまたしても言うでしょう。それでもそこから立ち上ってくる音楽は、紛れもなくベートーベンの音楽以外の何ものでもなく、音質の多少の悪さなどを差し引いても、真に感動的な音楽に仕上がっていると私には思えます。

演奏の後には3分50秒もの拍手が録音されています。演奏終了後、すぐには拍手が起こらず、数秒遅れてまばらな拍手が、そして割れるような熱狂的な拍手へと変わっていきます。CD解説はLillian Kleiber、解説を引用して私の感想を終えることいたしましょう。

applause was slow in comming;[...]. A few concertgoers began hesitantly to applaud,but the rest of the audience continued to sit there as though under a spell,Only when Carlos Kleiber brought the orechestra to their feet a few moments later did jubilant applause break loose.
拍手を聞くだけで鳥肌が立つ思いです。ただ、ネットで読む限りでは賛否のうち否に傾いているように思えました。

2004年2月2日月曜日

三島由紀夫:仮面の告白

読む本がなくなると、本屋に行って無駄な時間を費やしてくだらない本を買うくらいなら、昔読んだ本でも読もうという気になるものです。それで、今回は何の脈絡もありませんが、三島の代表作のひとつ「仮面の告白」を読んでみました。この作品が書かれたのは昭和24年(1949年)ですが、作品価値は全く色あせていないことに改めて驚かされます。




三島由紀夫の文壇デビュー作である「仮面の告白」を改めて読んでみたが、小説の内容と語り口の瑞々しさは今もって新鮮で驚くばかりだ。この小説を始めて読んだのは高校生くらいの頃であったろうか。三島といえばナルシシズムの極地の人であり、耽美的であり、背徳的であり、そして男色家であるという印象が強く、また「仮面の告白」は三島の半自伝的な小説であろうという面にばかり感心が向いていたように思う。しかしながら、実のところこの小説はそのようなことは余り重要ではないのだと思い至った。


読み進めるうちに、これは告白という自叙伝風の小説でありながら、その実、極めて精巧かつ作為的に作られた小説であることに気づいてしまう。主人公に「男色」というアブノーマルな性格を付与することで、自己認識や自己嫌悪を行う一人の個人の内面を、えぐいほど痛烈に描き出している。更には主人公の嫌になるほど理性的な自己分析の過程をさえ読むことになる。


彼が「仮面」と称したのは、男色であることを隠し一般の男性のように振舞ったことを指すのではなく、逆に男色を前面に出すことで、更にもう一度自分の真意を隠蔽したところにこそ仮面性が潜んでいるように思える。


どういうことかというと、主人公が強烈なる(肉体的にも精神的にも)コンプレクスとの裏腹に強烈なる自意識を持っているが故に、その自意識を隠蔽しなくてはならないからである。強烈なる自意識は決して敗北してはいけないのである。彼は確かに男性として不能であると認識し、苦い挫折感を味わいはするが、しかしながら自己愛と彼自身の男色傾向にすがることができるため徹底的な敗北はしないのだ。


主人公は誰よりも「日常生活」を怖れていたくせに、実は彼の深い内実はもしかすると「日常生活」を送ることを願っていたのかもしれない。それをかなえることができないと把握している主人公は、自分を幾重にも裏切ることで敗北を塗布しているかのような印象を受ける。彼が「初恋」とした近江への傾慕も、自分が男色家であるが故に女性を愛せないと結論付けた園子への愛情もしかりである。彼が戦争によって自分の意志とは無関係に死ぬことを漫然と望んでいたのも、人生への決定的な決着を自分では付けたくはなかったからであろうか。


そういう意味においては、確かに究極の自我であり究極のナルシシズムであり、さらに高度なる告白ということになるのであろうか。誠に世の三島論など読んだこともない私には、勝手な解釈であるが、どのようにも読める点、やはりタダモノではない小説である。

2004年2月1日日曜日

中村教授の200億円判決

中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の職務発明をめぐる訴訟で東京地裁は、中村氏がかつて勤務していた日亜化学工業に200億円の支払いを命じました(1月30日)。大手新聞各社の社説は、賛否に分かれていたようでした。

私個人としては200億円という法外な金額にまず度肝を抜かれましたし、払う方の企業も大変だなあとは思いましたが、かといってこの訴訟が報酬額のみが先行した行き過ぎの判決であったという印象も受けないのです。

世の中、拝金主義がまかり通ることや、お金さえあれば幸せという風潮には反発は覚えますが、それでもお金が解決することは多々ありますし、お金はないよりはあったほうがよいに決まっています。
で、何を思ったのかというと、日本の子供たちがドリーム(あえて夢とは書きませんが)を描くための将来の職業を考えた場合、野球選手をはじめとする一部のスポーツ選手か、あるいは芸能界というだけでは何だかさびしいと思うのですよね。研究者が自分の頭脳で対価を貰うということに、将来的なドリームを乗せる余地があるのならば、この判決には色々な意味があると思うのです。
サラリーマンは今までは大差ない給料を皆貰っていたから「サラリーマン」と卑下されていたのですが、こういう訴訟が最近の流行の「勝ち組」と「負け組」に更に分化されてゆくための助走でないとも言い切れないという気もいたしますが。
��00億円という額は「法外」というよりも、一体そんなに貰ってどうするんだろう、という気がしましたが、あれほど頭の良い学者さんですから、再び研究に投資するのでしょうね。それこそ夢を追い続けるという意志がかなえられるというところなのでしょうか。