2004年3月31日水曜日

ラター:合唱とオルガンのための降臨節アンセム

ここは一応クラシック音楽サイト(ブログ)ですから、何とか話題がそこから離れないようにしましょう。

さて、NAXOSでJohn Rutterのアルバムを聴いていますが、ラターは思いのほか良いです。彼は1945年にロンドンで生まれ、ケンブリッジのClare College で音楽を学んだそうです。Clare Collegeの紹介がありましたが1326年に設立された大学なのですね。こういう場所で現代の宗教音楽が生まれたのだと思うと感慨深いです。




今日聴いているのは「合唱とオルガンのための降臨節アンセム」という曲で、ウェストミンスター大聖堂からの委託作品(1998)年です。壮大なパイプオルガンと混声合唱の音色が「立ち上がれ、喜びに輝け(Arise, shine: for thy come)」と高らかに歌い上げます。


For behold, the darkness shall cover the earth,

and gross darkness the people:

but the Lord shall arise upon thee,


と歌い上げるところは感動的ですね、神の降臨なんてよく分かりませんが。中間部の、


Lift up thine eyes round about, and see:

と女性合唱だけになるところは、死ぬほど美しいです。ラストの、


but the Lord shall be unto thee an everlasting light,

and thy God thy glory.
Arise, shine: for thy light is come!

に向かっての盛り上がりも、まさに教会音楽です。5分弱の起伏にとんだ曲は、全編神への畏敬と喜びと光に満ち溢れていて、キリスト教徒でなくても大聖堂で思い切り聴いてみたいと思う曲です。ちなみにアンセムとは賛歌、賛美歌の意味です。

国旗と国歌にまつわる話題

『東京都教育委員会の2003年10月23日通達』(10.23通達)というものをご存知でしょうか。都教委が発した卒業式・入学式などの学校行事を行う際に国旗・国家の扱いを事細かに定めたもので、教師には「服務上の責任」が求められています。私もネットでこの通達本文を読みましたが(今は探せなかった・・・)、あまりの細かな規定に違和感と不信感を持ったものです。

(以下、長いですよ)


ちょっと前の話題ですが、3月26日の産経新聞の社説は「国旗・国歌 都の徹底指導を見習おう」というもので、教育界で騒然となった10.23通達を見習えと主張してます。更に、


ふだんの授業で国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば、むりなく国旗に向かって起立し、国歌を歌うことができる。国歌斉唱時に起立して歌わないことは、生徒の自主性と何の関係もない。


という主張を展開しています。

岩波書店の『世界 4月号』では『「日の丸・君が代」戒厳令』という特集が組まれており、『脅かされる思想・良心の自由』というテーマで憲法学者やジャーナリスト、弁護士などの論説を掲載しています。


『世界』で主張しているのは将に、国旗・国家の強制が、教育の目的である「人格の完成」と子供の教育を受ける権利、そして憲法で保障されている思想、信条、良心の自由を侵害するものであることに対する反論です。両者の持つスタンスの間には、掛け渡す橋さえないような深い溝がうがたれているのを感じます。


さて、「壇上の日の丸に向かって直立し、君が代を斉唱して下さい」と言われたなら、私だったらどうするでしょう。「歌うも自由、退席するも自由です」ともし告げられていたとしても、せいぜいが斜に構えて口パクをする抵抗が関の山といったところでしょうか。「ムキになって反対するほどの思想的根拠も持っていないけれど、朝日的な気分からは反対しておこう。」という心情です、何とも情けないですね。「イデオロギー」なんてもはや「死語」ですし。


しかし、「君が代を声を出して斉唱しないものは、服務不履行として厳重注意する、あるいは国民としての義務違反だ。」みたいなことまで言われるとしたならば、少しは穏やかではなくなりますね。そこまで国家が内面的精神活動である「思想や良心の自由」に踏み込んでいいのかと思うわけです。でも、やっぱり国歌だけの問題ならその場を適当にしのいで誤魔化してしまうというのが、処世術というやつでしょうか。


産経新聞は、そういう態度にならないようにするために「きちんと教えておけば」問題ないと主張します。教育がいけないから、君が代や日の丸を疎んじたり愛せない子供ができるのだと言っているわけです。これは小泉首相をはじめとして、教育基本法の改正まで目論む方々の共通認識です。


『世界4』の論説では、ジャーナリストの斉藤貴男氏は『国家にとって教育とは一つの統治行為』であり『必要最小限の共通認識を目指す義務教育については、国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ協力に行わなければならない』という「21世紀の日本の構想懇談会」の最終報告書を引用した後に、


『"統治機能としての教育"を前面に掲げることのできる人間観が導く社会の実相。あるいは伝統や歴史を纏った<国旗><国家>をシンボルに統合された国民は、どのような世界に連れて行かれようとしているのか。』(P.88)

と危惧をあらわにしています。教育という点については憲法学者の西原博史氏も『教師における「職務の公共性」とは何か』という論説の冒頭で


政治的な権力を持つ者が、自分たちが目指す政治目的を実現するための道具として教育を利用する動きがある。[...] 政治的に色の付かない「真実」を主権者国民が共有するには、政治権力が教育内容をねじ曲げることは明らかに好ましくない


私の国旗・国歌に対するスタンスは先ほど述べたように、きわめていい加減であるので、お二人の意見には同調はするものの、教育とは為政者にとって常に都合の良いようにできているものなのではないだろうか、という疑問にもぶち当たるのです。国家としてまとめてゆくためには、教えるべき情報と、隠蔽すべき情報があり、『政治的に色の付かない』教育などというものが、果たしてこの世に存在しえるのかと思うわけです。

ただそう思うようになったのは、社会人になってかなり経ってからでしょうか。教育というのは一面的であること、世界は自分の知るところだけではないことを知るのは、二次元に住む人がZ軸のあることを気付くよりは容易なはずではあったのですがね。


話がまとまりませんが、政府が国旗や国家を持ち出さなくては「愛国心」の養成ができないということ、そのことこそが危機的な状況で、偶像的なものにさえすがらなくては、もはや日本としてのアイデンティティと求心力が失われてしまっていると考えているのならば、為政者と旧世代の焦りのようなものを通達からは感じることができ、やっぱり日本は大丈夫だろうかという心配が逆に沸いてくるのです。


以前も君が代問題は、ここここに書きましたが、彼らが守りたい世界と、私が望む世界にはあまりにも隔たりがあるような気がしてなりません。ここでも書きましたが、そうまでして維持しようとる世界はどんな世界なんですかね。

2004年3月30日火曜日

ラター:合唱とフルートのためのアンセム

イギリスのラター(1945~)は、レクイエムなどの宗教音楽で一部に知られるイギリスの作曲家です。この曲はフルートと合唱からなる曲で、音楽の崇高さに浸ることができる曲です。


冒頭のフルートの音色に導かれて歌われる合唱は「神の贈り物なる音楽」と歌っています。6分弱の短い曲なのですが、フルートと合唱だけの静かな祈りにも似た曲で、中間部の合唱とフルートの掛け合いは本当に美しく、フルートの音色というのがこんなにも清冽であったかと思わせてくれます。


「癒し系」という言葉は陳腐でイヤになるのですが、「非戦」だとか「改憲」だとか言うきな臭い話題の合間には、確かにホッとする曲であります。


●ラター:レクイエム、宗教音楽集(NAXOS 8.557130)より


田中宇:「イラク」


田中宇の国際ニュース解説で「イラク日記」として今年はじめにサイトに掲載された記事が本になりました。


氏がイラクで見聞きしたことを通して、開戦直前のイラクの状況と、そしてアメリカの対イラク戦略というものが透けて見えてきます。



田中宇氏が2003年1月6日から19日までイラクを訪問したときのルポが中心となっています。本が書かれたのはアメリカのイラク侵攻の直前の時期で、氏自ら語っているように今となっては情報としては「過去の話」であると言えるかもしれません。また、氏の分析力を以ってしても3月1日の段階では「開戦の可能性は50%。どちらともいえない状態」とし、イラクのアメリカ侵攻は避けられるのではないかと思っていたようです。


結果はアメリカは国連決議を無視しほぼ単独でイラク戦争を始めました。田中氏の意図するところは、ジャーナリストとしての皮膚感覚を得るため、つまりは開戦直前のイラクが実際はどのような状態なのか、欧米の(そしてそれを垂れ流すだけの日本の)マスコミが伝えない状況とはどういうものなのかを、実際に確かめるためです。


その意味から、この本は私には興味深く読むことができました。開戦直前のイラクが、戦時に備えるという緊迫した状況ではなく、日常が続いていたこと、イラクという国は実は中東の中で非常に豊かな国であり、潜在的な発展の可能性を秘めていること、スンニ派、シーア派、クルド人などと分けて説明されることの多いイラク人が、個人的には宗派に関係なく親密であること、「戦争」となるのはひとえに「政府」が原因であることなどなど、色々と教えさせられる内容でした。


特にイラク人が勤勉で真面目であること、そして細やかな気配りのできる人であること、という説明は私には意外な思いで読みました。それほどまでに、アラブ人(と一くくりにできないこともわかりましたが)に対する情報の不足や先入観に満ちた情報に振り回されているのだなと。


田中氏はイラクで見聞きしたことを通して、アメリカの中東支配に関するアメリカ中枢部の思惑の裏側について独特の視点で解説をしてゆきます。アメリカのイラク侵攻をアラブの油田の権利と結びつけて説明する論もありますが、これも田中氏は「理論が中途半端」であると説明します。イラクの勤勉な素質と豊富な石油収入が結びついてイラクが経済大国になること、そして他のアラブ諸国の牽引役となる可能性のあること、これこそがアメリカがイラクを攻撃した最大の理由ではないか、と田中氏は示唆します。


アメリカは「大量破壊兵器の温存」を理由に攻め込みました。しかし、氏の本を読んでいると長年の経済制裁を受け、物資が不足していた国で、いくら裏貿易があったとしても大量破壊兵器を作る能力などあったのかと疑わざるを得ません。


田中氏が劣化ウラン弾の影響と思われる白血病や癌に侵されている子供の多い「バスラ小児科産婦人科病院」を訪れた際の担当医の言葉は痛烈です。


「アメリカは、劣化ウラン弾をばらまいて子供たちを病気にしただけでなく、薬の輸入を禁じて治療をさせないようにして、無実の子供たちを殺している。」


他民族国家であるイラク(自衛隊のイラク派遣でも話題になったように、更には様々な部族に分かれている)において、良くも悪くも独裁者としてのサダム・フセインが国家のタガとなってまとめていたことだけは確かです。民主政治VS独裁政治というくくりも、西欧社会の概念でしかないのではないかと考えさせられました。


「アメリカの(為政者に都合の良い)民主主義」、「アメリカの(国益だけのための世界の)保安官業務」、そのためならば一国の運命を弄ぶこともいとわない国。タカ派と中道派が世界戦略において覇権を争いながら世界をも動かしている国。日本はもっと情報と思考力においてタフさと深さが不可欠であると思わされる本でした。

「非戦」と「反戦」


「SIGHT」という雑誌、編集・発行人が渋谷陽一。「え?シブヤヨウイチ」と一瞬意外な思いにとらわれましたが、よく考えるとロック関連の音楽評論家が反戦をうたうというのは、いかにもという感じで納得してしまいした。

写真は坂本龍一氏と藤原帰一氏です。藤原氏は東京大学大学院法学政治学研究科教授で、最近『「正しい戦争」は本当にあるのか』を書いている方です(未読)。





おふたかたの発言については、ここでは触れませんが、私が共感を覚えたのは渋谷陽一氏のスタンスです。


特集のタイトルを「非戦」と「反戦」という、かなりストレートで、一歩間違えると、政治運動のスローガンともとられかねないものにしたのは、やはり今の政治状況に対する危機感からである。


ストレートな表現でよいです。渋谷氏は「政治的なスローガンでも、思想的なプロパガンダでもない」と続け、「冷静な状況認識と、それに基づく行動の指針となる批評軸の設定」であると書きます。


「反戦」や「非戦」がイデオロギーであるという時代は死に絶えたような気がしますので、氏のような一歩引いて自分たちに即して考えるというスタンスが今は良いのかもしれません。渋谷氏は次のようにも書いています。


「非戦」と「反戦」というメッセージには、きっと全世界で99パーセント以上の人が共感するだろう。[...] しかし、実際にこの文字を表紙に大きく書き、特集のテーマとして設定すると、書店では異質のものとして見え、かなり傾向のはっきりした雑誌として認識されてしまう。


そうなんだよ、と頷きながら何度もこの部分を繰り返して読みました。明らかに疑問、明らかに不明確、だけど誰も言わないというか言えない。「反戦」「非戦」が「異質」として見えるという風景こそ、異質であると思わないでしょうか。


いったいイラク侵攻は、日本とどういうかかわりがあるのでしょう。世界の不幸に目をつぶると言っているのではありません。中東の安定が日本への安定した石油供給に繋がるという理論でも良いのですが、日本とイラクの関係、日本と中東の関係をどう考えて派兵しているのか誰も明確に語っていません。アメリカの片棒を担ぐだけの派兵、解放と言う名の虐殺(大量に殺さなくても虐殺でしょう)。「非戦」は「異質」ですか。


森永卓郎氏の「戦争反対」2

先にも触れた29日のテレビ朝日「たけしのTVタックル」ですが、森永卓郎氏が出演していて「他国に攻められたら、皆で死ねばいいぢゃない」「そういう国があったと、思い出してくれればよい」という主旨の発言をしていて、案の定、出演者のほとんどから罵倒されていましたね。



森中氏は、

個人のサイトも書いている考えををTVで話しただけですが、自民党の平沢議員などは「そういう考え方だから北朝鮮拉致問題が生じたのだ!拉致される船を見ていながら指をくわえて見ているだけで、何もできなかったのだ!」と震えんばかりに激昂しておりました。


「世界で武器も持たず、攻めて来ても良いなどと言って黙っている国など、一国もない!」と怒った挙句、ハナシにならんという態度をとっていたのは、名前が出てきませんが、頭の毛のない政治評論家の方です。例えばスイスは永世中立国ですが、軍隊は持っていますからね。かつて永世中立国であったベルギーは、ナチスドイツに侵攻されてしまったのでしたよね。「戦争と派遣は違う」というフレーズもよく出てきました。なるほど、勉強になりますです。

田中宇:アメリカ以降


田中宇(さかい)氏はインターネットで国際ニュース記事を配信している方で、時々サイトをチェックして拙い国際関係に関する知識を修正しているのですが、この本はまさにこの頃私が考えていたこと、すなわち「アメリカ以降~取り残される日本」に対する示唆を与えてくれるものでした。

本日29日のテレビ朝日の「たけしのTVタックル」でも安保を離れて日本が成立するか否かでムチャクチャな激論が闘わされていました。安保ありき安保の是非ということではなく、安保の相手であるアメリカについて「よーく考えよう」という内容になっています。



田中宇(さかい)氏はインターネットで国際ニュース記事を配信している方で、時々サイトをチェックして拙い国際関係に関する知識を修正しているのですが、この本はまさにこの頃私が考えていたこと、すなわち「アメリカ以降~取り残される日本」に対する示唆を与えてくれるものでした。


本の帯には本文から引用した以下の文が掲示されています。


われわれはアメリカが弱体化し、自己崩壊していった場合の「その後の世界」を考えてみる必要性が出てきている。日本人のほとんどは「アメリカが没落した後の世界」について、想像もしたことがない。アメリカが衰退する可能性が少しずつ増しているのに、アメリカが衰退するはずがないという前提で日本の将来を考えているのは、非常に危険なことである。


田中氏はアメリカ衰退の兆候を幾つかかの事例で説明しています。例えばアメリカ産業の象徴であった航空機産業や自動車産業の衰退、世界のドル離れ、そしてブッシュ大統領のアメリカにとってプラスとはいえない経済政策などなど。


私は氏のサイトで「ネオコン」という存在について知識を深めましたが、氏自身も「ネオコン」に対する考え方を模索しながら修正していることも、この本を読むと良く分かります。日本のマスコミは「ネオコン」という言葉さえも一面的にしか報道していませんが、そこに氏とのスタンスの違いがあると思うのです。逆にニュースや週刊誌での国際解説などは、田中氏のサイトや著作に接していると多くは既知のことでしかなくなります。


そういう田中氏なのですが、この本では大胆な仮説を打っています。それはアメリカ経済が衰退してゆく政策を「故意に失策をやっている可能性がある」としているのです。(P.25) そんな馬鹿なと思うのですが、田中氏はそれをタカ派と中道派の戦略の違いから分析し、最近のイラク戦争の現状も踏まえながら説明してゆきます。


また911テロが生じたとき、ハンチントン教授の「文明の衝突」が現実になったとマスコミは解説していましたが、これについて田中氏は、


��・11はアメリカかわの政治的な理由で誘発された可能性があることを考えると、ハンチントンの論文は「予測」ではなく「企画書」だったのだと感じられる。(P.175)

と書いています。田中氏は別著で911テロをホワイトハウスはわざと防がなかったフシがあることを早くから掴んでいて、アメリカの陰謀説に近い疑いを提示していました。それの真偽は私には判断がつきませんが、アメリカはタカ派と中道派がそれぞれ、壮大な世界戦略を持ちながら国家運営を行っているのであることは気付かされます。


田中氏はアメリカの(世界で一番良い社会システムだと教育されてきた)民主主義も既に歪められていることを指摘しています。「すでにアメリカは、かなりの「警察国家になっている」」(P.120)という指摘には驚かされます。

アメリカの民主主義や人権など、為政者の一方的な都合で歪められていることは、たとえば911テロの容疑者をキューバのグアンタナモ空軍基地に収容していることをとっても明らかであるかもしれません。(本書P.19や「世界2004年4月号」岩波書店p.203 グアンタナモの「暗闇」の中で~蹂躙される人権:ル・モンド・ディプロマティックより などを参照)


翻って日本の現状を考えると、アメリカ批判もなく思考停止に近い「対米追従」です。日本の指導者だってそんなに馬鹿であるはずがありませんから、もしかすると、これこそ思考停止のフリをした最も狡猾な小判鮫的外交戦略であるのかもしれません。そうであったとしても、くっついている魚が死に体になりつつあるのであれば、新たな方向性を模索しなくては資源のない日本の未来は暗いと思いますし、くっついている相手についても判断可能な情報が欲しいと思うのです。


いずれにしても、馬立誠氏の「日本はもう中国に謝罪しなくていい」でも指摘していましたが、日本が急にアメリカに反旗を翻すのは得策ではないことは確かです。それだからこそ日本はアジアを含め新たな外交戦略が必要な時期に来ており、経済・安保を含め日本の将来を真剣に問うべき時に来ていることだけは確かなのではないかと思うのでした。

2004年3月28日日曜日

ブログについて考える

ブログの隆盛について歩きながら考えた。



今までも掲示板や日記サイトはあったが、これほどのムーブメントにはならなかった。活発なブログサイトを閲覧していると、ごくごく個人的な出来事とか、ニュースサイトのパクリとか、あるいは「ブログを作る苦労をつづったブログ」「ブログのデザインを変更する記録を書いたブログ」だったりで、いささかゲンナリしてしまう。(実際私も最初はそういうブログを作っていたし、今でもそうだ、だから否定や批判をしているわけではない)


さて、どうしてこのような自己目的化したブログが盛んなのかというとを考えてみたのだが、もしかすると「ブログはオレ様サイトである」ということなのではないかと思い至った。


最近の若者は、雑誌などを見ていると、自分の部屋を自分好みのデザインにすることや、自分の好きなものに囲まれて住むことに労力をかけている。いわゆる「オレ様部屋」というらしいのだが、ブログもこれに当たるということだ。


ブログはトラックバックという機能があるため、他人のサイトに言及したいときでも自分のサイトに記述してピングを送ればよい。つまり、全て自分のサイトで完結できるわけだ。今までの掲示板だと、他人のサイト(家)にお邪魔して書かねばならず、せっかくイロイロ書いても、結局他人のサイトが賑わうだけであったのとは構造が全然異なっている。


また自分で掲示板を持っいたとしても、cgiなどを駆使した自前の掲示板でなければ、デザインはお仕着せのものとなってしまう。いわゆる「許せない」という状態なのである。


ネットでの情報交換という意味では、従来のシステムでも十分であが、自分のログ管理とか、更には自分の思考と嗜好をまとめたいと考えている向きには大いに不満もあるシステムであったわけだ。そういう中でブログは、デザインも含めかなりの要望を満たしてくれることになった。スキンと呼ばれるテンプレートを日々変更させて悦に入ったり(初期の私だ)、テンプレートのデザインコンテストまであるくらいである、自分の拘りの部屋を雑誌に掲載するのと似たようなトーンを感じる。


かくして、ブログは広範なネットワークの形成とか、あらたなオピニオンの構築とかいう面より、ジャンク情報とオレ様サイトに溢れ返り(私のサイトもそうだが)、ネット上は巨大なお喋りとため息の掃き溜めと化してゆくような感さえあるというのは言いすぎだろうか。


それともう一つ、木村剛氏もはからずも書いていたが、ブログには「中毒性」があるという面も見逃してはいけない・・・

展覧会:パリ1900 ベル・エポックの輝き


東京都庭園美術館に「パリ1900 ベル・エポックの輝き」と題する展覧会を観てきました。ベル・エポックとは「よき時代」という意味で、まさにパリの文明が花開いた19世紀後半から20世紀初旬の芸術潮流の作品を集めたものです。

テーマと場所柄でしょうか、若い方よりも年配の女性の方が多い展覧会ではありましたが、私はそれなりに満足した時間を過ごすことができました。

絵画では印象派以降、モローやルドンの象徴主義、彫刻ではロダン、バルトロメ、そしてルネ・ラリック、エミール・ガレ、ジョルジュ・フーケらのアール・ヌヴォの装飾美術が展示されていました。これらの作家は、私にはほとんど馴染みのないものであっただけに、最近観た印象派との画風の違いやら、1900年代のパリの時代風景など、様々な意味で興味深いものでした。

この展覧会での圧巻は、やはりチケットにも使われているジョルジュ・クレランの《サラ・ベルナールの肖像》(1876年)でしょうか。TV東京の「美の巨人たち」でも紹介されているので、番組を見た方もいらっしゃるかもしれません。

ベルナールは当時のパリで活躍した大女優です。彼女の自宅での肖像とのことで、ベルナール自身もこの絵を大そう気に入って亡くなるまで手放さなかったそうです。しかし、この絵は(何号なのかは分かりませんが)非常に巨大でして、このような絵を飾ることができる自邸というのも、すごいものだなと思うのでした。ベルナールはこの絵のとおり「女王然」とした大女優で上昇志向の強い女性であったようです。傲慢とも不遜とも思える態度が何ともいえません。一番気に入ったのは実は足元の横目でこちらを見ている犬だったりしたのですが・・・

絵の横に、まさに自宅のソファでくつろぐ彼女を撮影したモノクロ写真が並べて展示されていましたが、絵と写真を比べてみると、それはそれは絵を手放したくなくなるのも分かる気がいたしました。


ベル・エポックの時代は、印象派の時代とそんなに変わらないのですが画風は全く異なります。例えば左のジャルル・ジロンの《手袋をした女性、通称パリジェンヌ》(1883年)など、「ベル・エポック」とか「アール・ヌヴォ」とか「パリ万博」の時代の雰囲気にはマッチした絵で、描かれている女性が美しいだけに、売店で絵葉書がよく売れているようでした(私も買った)。思い入れを廃して冷静に鑑賞すると、いかにもという絵ではあるのですが、等身大に近い大きさの絵の迫力には、俗っぽさも消し飛んでしまうようでした。

印象派のピサロやベルト・モリゾの作品も1点づつ展示されていましたが、これらの絵と比較してしまいますと、印象派は色彩は華やかで明るいのですが、タッチなどの点で繊細さに欠けるという印象を受けてしまうのも確かでした。ルノワールの絵もありましたが、これはいただけないというか・・・ノーコメントとしましょう。



繊細さや細やかさという点では装飾美術には眼を見張るものがありました。特に写真のフーケの作品などは、微細な細工を施された金属は実に見事で、女性でなくても一つくらい欲しくなると思うのでした。庭園美術館のアールデコ風の内装が施された朝香宮邸で観るデコラティブな装飾具やガラス細工は格別のものがあります。(オバサン達が動かないのですよね)

これらの作品は、パリ市立プティ・パレ美術館所蔵作品とのことですが、テーマの通りパリの「よき時代」の雰囲気が漂ってくる展覧会であったと思います。パリ万博のときの写真も何枚か掲示されていましたが、日傘をさして、腰まわりのボリュームを出したスカート(何て言うのかな?)を身につけた淑女がパリの中を闊歩しているのが写っていて、ああいうカッコウの女性が歩いていた時代がウソではなかったのだなと改めて感心したのでありました。

2004年3月27日土曜日

読売日響のブラームス第3番

しばらくプロオケに接していませんでした。時間的に余裕があったので、サントリーホールに足を伸ばしジェフリー・テイト指揮、読売日響のブラームス交響曲第3番ほかを聴いてきました。

コンサートは非常に満足するものでしたが、それにしても当日券を待っている間は寒かった・・・物凄い突風が吹き荒れていまして、アークヒルズでは桜祭りとかが催されていましたが、テント屋台の「生ビールとおでんはいかがですかア」という声が、風に吹き飛ばされていました。

エルガー:序奏とアレグロ 作品47
ハイドン:交響曲第102番 変ロ長調 Hob.1-102
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90

日時:2004年3月26日 19:00 サントリーホール
指揮:ジェフリー・テイト 読売日本交響楽団

東京に来てほぼ1年、読売日響を聴くのは実は今日が初めてです。プログラムがエルガー、ハイドン、ブラームス交響曲第3番と「シブメ」であったのですが、プロオケをしばらく聴いていないなと思って、当日券狙いでサントリーに足を伸ばしました。

さて、ジェフリー・テイトという指揮者も読売日響も予備知識はなかったのですが、聴いた印象は「うまいオケだな」というものでした。

プロオケなのですから「ヘタな」わけはないのですが、音に厚みといいますか温かみがあるのです。特にふくよかな拡がりをもった低音の響きは独特なのではないでしょうか。フォルテッシモであっても音はけばけばしくはならず、豊かにホールを包むようで何とも心地よいのです。

昨年私は何度か東京交響楽団の演奏に接しましたが(本当に数回ですが)、彼らの割と繊細で精緻な響きとは明らかに異なります。精密さという点では少し雑なところもあるように思えましたが、逆にそういうところも音楽的な余裕のようなものとして聴くことができるようにも思えました。

本日のプログラムはエルガーから始まりましたが、指揮者のテイト氏はイギリスの指揮者です。「エルガーはブラームスに憧れていた」と氏自ら語っていますが、本日のエルガーもスケールの大きな演奏で、読売日響のサウンドもあってか、どこかブラームス的な柔和さを感じることができた演奏でした。

続くハイドンの交響曲も、古典風のキビキビとした響きを重視した演奏というよりは、曲のもつ流れや明るさ、そして美しさを十分に引き出した演奏のように思えました。あまり馴染みのない曲でしたが、抑制と統率の聴いた曲であり、ハイドン独特のスピード感などを十分にわくわくと楽しむことができました。

最後はブラームスの交響曲第3番です。ブラームスというのは以前はあまり好きではなかったのですが、こ の頃は齢をとったせいでしょうか、ブラームス的な落ち着きと憂愁というものに惹かれるようになってきました。もっともブラームスらしいメロディについては、あまりにも甘く美しいが故に演奏の仕方次第ではちょっと鼻についてしまうのですが、テイト氏の指揮ぶりは余計な感情をためすぎずに流してゆき、それが心地よく感じられました。テンポも中庸というところなのでしょうが、意外とさらりとした演奏という印象です。まあ、これは曲のせいもあるのでしょうか。

それにしても感じたのは、読売日響の音色とブラームスの相性の良さ、それに加えてホルンの素晴らしい音色と安定感です。ホルンの響きは、ほとんと絶品といいましょうか、熟成されたコニャックのような響きで、実はこれには心底驚いてしまいました。(今日のホルンも山岸博さんが乗っておられたのでしょうか?)

そういうわけで、ブラボーと叫びたくなるような扇情的なプログラムではありまえせんが、しみじみと良い演奏会であったと思います。今日の夜は風が強くて寒かったのですが、読売日響の柔和で厚みのあるサウンドを身にまとって、精神的には暖かに帰宅できたというところです。

2004年3月26日金曜日

J.ヨンゲン:フルートのための作品集







  1. ゆるやかな踊り Op.56 bis

  2. フルート、チェロとハープのための三重奏曲 Op.80
  3. フルートとピアノのためのソナタ Op.77>
  4. 4本のフルートのための悲歌 Op.144-3
  5. 3本のフルートと1本のアルト・フルートのためのワロン地方のクリスマスキャロルによる2つのパラフレーズ Op.144 Nos.1-2


  • フルート:マルク・グローウェルス チェロ:マリー・アランク ハープ:ソフィー・アランク ピアノ:ダリア・ウジール

  • ブリュッセル王立音楽院のフルート四重奏団

  • 録音:1997年12月





再びNAXOSのマルク・グローウェルスのフルートでヨゼフ・ヨンゲンのフルート作品集を聴いています。ヨンゲンは20世紀前半に活躍したベルギーの作曲家で印象派の影響を受けた作曲家ですが、曲は彼独自のトーンにあふれ、特に「哀しみ」の表現が顕著なように思えます。


ヨゼフ・ヨンゲンは20世紀の前半に活躍したベルギーの作曲家で、フランクやルクーに次いで知名度があるということになっていますが、私はこのCDで始めて彼の名前を知りました。


少し調べてみますと、ヨンゲンの音楽は大きく3つの時期に分けられるそうです。第1期はフランクやフォーレに影響を受けた時期。第2期は1910年頃から、ラヴェルよりもむしろドビュッシーの影響を受けた時期で、曲は印象派的な色彩を帯びてきます。第3期は晩年の30年でneo-classicismとmodernismの両方の側面を持ち合わせた曲を作曲しているそうです。(CD解説とClasscal Composeres Database) 


ここに納められているのは第2期から第3期の、フルートのために作曲した曲です。どの曲もメランコリックで少し哀しげな曲調が印象的です。冒頭の作品56は4分弱の短い曲ですが、1918年のヨンゲンがイギリスに亡命していたときの曲とのこと、フルートの旋律にも切々とした哀しさと美しさが漂っています。


このCDを通して聴いてみると印象派とは言ってもヨンゲン独自のトーンや色彩が感じられ、「哀しみ」表現は彼の活躍した時代(両世界大戦を経験)とベルギーの不幸な歴史(特にベルギーへのナチス侵攻)などとも無関係ではないのでしょう。


作品80はフルートとチェロとハープのための三重奏曲ですが、確かに曲調曖昧さやメロディーのつかみところのなさは、印象派的といえるのかもしれません。チェロとフルートの掛け合いともいえるようなAssez lent の中間部は何とも表現しがたい雰囲気です。Allegretto moderato は一転してスケルツォで、フルートも技巧的なフレーズとなった、明るく快活な曲です。


Op.77のフルートとピアノのためのソナタは4楽章の30分近い曲です。フルートのピアノの見事な掛け合い、表情のガラリとした変化など、色彩の豊かさを堪能できる曲です。2楽章のTres animeと4楽章のGigue:Allegorはなかなか見事であります。


Op.114-3は4本のフルートのための曲です。5分半ほどの短い曲です。作曲年が1941年ですからナチスドイツのベネルクス3国への侵攻やパリの陥落、そういう時代の曲です。言い知れぬ哀しみがふつふつと沸いてきます。(楽譜があれば何とか演奏できそうですよ>某氏)


そういう曲を聴いたあとにOp.144 Nos.1-2のクリスマスキャロルによるパラフレーズを聴いていると、ヨンゲンの願っていたものが何であるか分かるような気になります。ろうそくの焔がゆらゆらと子供たちを照らすような、そんな幸せが夢のように感じられてきます。(こちらはなかなか難しそうですよ>某氏)


グローウェルスのフルートはここでも、響きはあくまでもストレートで抜群の安定感で心を満たしてくれます。

2004年3月24日水曜日

森永卓郎氏の「戦争反対」


��FJ総合研究所の森永卓郎氏のサイトを見ていたら、「戦争反対」という記事がみつかりました。これはニュースステーションのメールマガジン「ブーメラン」に掲載したものとのことで、2003年3月18日と同年5月14日に掲載されたものです。森永氏の論理は痛いほど良く分ります。




短い文章なので読んでいただいた方が良いのですが、彼の論旨で以下の部分はなるほどと思うものです。


中国にしても、ベトナムにしても、しばらく前まではとても民主的な国家とは言えなかった。それが大きく変わったのは、経済的に豊かになったからである。力でねじ伏せるのではなく、経済的な豊かさを実現することが、独裁を終わらせる最良の方法なのではないか。


世界を100人のムラに例えたらとかのベストセラーではありませんが、アメリカの一部の富裕層に世界の富のほとんどが集中しているのは事実です。日本も戦後は平和憲法のもと経済復興に全力を挙げることができたから、ちょっと前までの日本があるのだと思います。


戦後復興の件についても、少し触れられていますがチェイニー副大統領とハリバートン社の関係、軍の後方支援に関わる業務を民間発注として、KBR社(ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート社=ハリバートンの子会社)に、ほとんど特命で発注したことも、知る人は皆知っています。


北朝鮮を刺激して危険な行動に走らせているのは、他ならないアメリカなのだ。余計な圧力をかけなければ、日本が危険にさらされる確率は随分減るだろうし、万が一日本攻撃時にアメリカに守ってもらえなくても、私は大量殺人に加担するくらいだったら、死んでしまった方がましだと思う。


私は「死んでしまった方がまし」というところまでは、腹をくくれていませんが、こういう論を聞くと最近の国防を増強しようとする論者からは罵倒されそうですね。外交とは戦争をするところまでを見据えた圧力が絶対に必要だと説いていますから。


力には力で対抗してきます。イスラエルの暴挙によって世界は緊迫の度合いが一気に高まっているように思えてなりません。

2004年3月22日月曜日

飯尾洋一氏のclassicaが・・・

クラシックサイトの老舗にして定番サイトである飯尾洋一氏のclassicaが、いつのまにかブログ対応になっていました(ブログ化は今年1月か?)。トップページは相変わらずですが、「更新記録」の部分がブログ化されています。



更新記録とは言っても実のところその内容は、サッカーの話題やその他音楽周辺の話題などが日々更新されていてるもので、ときどきチェックしていました。以前は確か過去記事が読めなかったハズですが(私がリンクのありかを知らなかっただけか?)、ブログ化されたことで2002年10月からのエントリーが閲覧可能になりました。


クラシック系のブログサイトは、今のところあまりありませんので、ここをベースとしてどのようなサイトがトラックバックをしてくるのか、楽しみなところです。


ということで、敬意を込めて、私もとりあえずトラックバックしておきました。

[追記]


classicaのリンク集というのは改めて私のようなトーシローが言うまでもなく、クラシックサイト界最強とも言えるリンク集なのですが、クラシックの個人ブログサイトは未だ7つを数えるのみでした。これからもブログが便利なことを分かった方々が、続々とサイトをブログ化することを期待しましょう。

[追記2]04/03/25


なんとclassicaのリンク集に、このブログサイトが登録されてしまいました。有難いことですが、かつ恐れ多いことです。これを機にクラシック関連の駄文を鋭意アップロードするように、頑張ることは・・・おそらく・・・しません。

2004年3月20日土曜日

ロマンティック・フルート協奏曲集












再びNAXOSのマルク・グローウェルスのフルートとピッコロを聴いています。このアルバムは「ロマンティック・フルート協奏曲集」と名づけられており、フランスの作曲家の作品が集められています。フォーレの子守歌やシチリアーノなどは有名ですが、ダマレの白つぐみなど非常に珍しい作品も収録されています。




しかし、よくもこんなにマイナーな曲ばかり集めたものです、さすがNAXOSですね。ダマレの作品はグローウェルがベルギー音楽図書館の地下室で見つけてきたものだそうで、行進曲風の管弦楽に乗って軽快にピッコロが歌う極めて明るく愛らしい曲です。メシアンの黒つぐみとはえらい違いです。


ラヴェルの小品は2分半の非常に短い曲ですが、独特の雰囲気を漂わせている名曲、聴いていると思わず19世紀末のフランスのノスタルジーに浸ってしまいます。


フォーレの曲は本来ピアノとフルートの曲ですが、このCDでは管弦楽編曲になっており、普段聴きなれた響きとはちょっと違っていて楽しめます。コンクールの小品は、確かパリ音楽学院の入学試験用の、幻想曲は卒業課題として作曲された曲だったはず、技巧的にも楽しめる曲ですね。ムーケの「パンの笛」は、静かで優雅でそして少し哀しげでアンニュイなか雰囲気の漂う名品、聴いてうっとりしてしまうというのはこういうことを言うのでしょう。


全ての曲の解説を書いていても仕方がないので止めますが、どの曲も肩肘張らず聴くことができ、本当に楽しめる1枚になっていると思います。18世紀後半から19世紀後半そして20世紀前半にかけて、フランスでフルート曲が多く生まれたのは、フルートという楽器の著しい進歩と、それに歩調をあわせたフルート技術の向上と無関係ではないことに改めて気付かされました。


��8世紀後半のフランスという時代を考えたとき、先日見に行った「モネ、ルノワールと印象派展」の時代とすっかり重なるのですよね。モネ(1840-1926)とフォーレ(1845-1921)がほとんど同時代を生きたというのも、結びつけて考えると感慨深いものがあります。時代は産業革命に始まる近代化の波に乗っていた頃です。そういう時代の前に向かって進む明るい雰囲気と曲調も無関係ではないのだろうなと思った次第。


この盤もあまり難しいことを考えたり肩肘を張ったり、解釈がどうだ、演奏の質がどうだなどと瑣末的なことを気にせず、音楽そのものを楽しむことのできる幸せなる盤だと思います。



マルク・グローウェルス(フルート、ピッコロ)、ベルギー放送交響楽団、指揮:アンドレ・ヴェンデルノート


●モシェレス(1794-1870):フルートとオーボエのための協奏曲 ●ドニゼティ(1797-1848):コンチェルティーノ 二長調 ●ムーケ(1867-1949):組曲「パンの笛」Op.15~パンと鳥たち ●サン=サーンス(1835-1921):タランテッラOp.6 ●フォーレ(1845-1921):子守唄Op.16、コンクールの小品、シチリアーナOp.78、幻想曲Op.79 ●ラヴェル(1875-1937):ハバネラ形式の小品 ●ダマレ(1840-1919):白つぐみOp.161

2004年3月19日金曜日

Voiceの「目覚めよ自衛隊」を読んで

Voice 4月号(PHP研究所)が『目覚めよ、自衛隊』という特集記事を載せていましたので、面白そうなので買って読んでみました。


執筆は、中曽根康弘氏、田原総一朗氏をはじめ、拓殖大学教授の森本敏氏や同じく拓殖大学海外事情研究所の佐瀬昌盛氏などの『私の自衛隊改造計画』という私論、そして西尾幹ニ氏と志方俊之氏との『自衛隊は戦えるか』という対談、最後はハドソン研究所主席研究員の日高義樹氏の『外務省は自衛隊を見殺しにする』という記事まで、結構盛りだくさんです。





論調には多少の温度差はあるものの一律です。彼らの主張をかなり乱暴ですが意訳すると以下のようになりますでしょうか。


  • 日本には国防に関する意識が欠如している。

  • 冷戦時代とは世界の情勢が変わった。冷戦時代は安保の傘のもと憲法を持続させることが国益に適っていたが、現在は事態が変わった。

  • 日米安保は維持させるべきである。それは今でも核を持たない日本に対する抑止力となっている

  • 世界がテロとの戦いへと移行した以上、憲法九条ニ項は少なくとも変えるべきである。

  • 現行憲法であっても自衛隊の集団的自衛権は認められていると考えるべきである。独立国である以上、集団的自衛権を持つのは当然である。

  • 集団的自衛権に関する日本政府の見解は、昭和30年2月29日の衆議院内閣委員会における鳩山一郎総理大臣の答弁から変わることはない。すなわち集団的自衛権につては現行憲法下でも既に30年前から認める考えを集団的自衛権の行使は当然のことである。

  • 自衛権の行使を認めない、自衛隊を専守防衛に限定するのは自虐的歴史観に基づいている、あるいはアメリカのいう「ビンの蓋」理論に他ならない。

  • 自衛隊は軍隊ではないため、軍法などが整備されていない。国際貢献として海外に派遣されても自分の安全も確保できないばかりか、行動に制限が多く十分な貢献活動が果たせない。

  • 自衛隊を派遣するたびに法律を作るという状況はおかしい、防衛基本法の整備がぜひとも不可欠である。<
  • 日本にとっての脅威は明らかに北朝鮮であり、あるいは中国と台湾の紛争の結果も懸念しなくてはならない。国益とともに国際関係の中での情報収集など強化してゆくべきである。

  • 外交カードとして「戦争」も最終手段としてありうると国外に示すことは重要なプレッシャーである。



読めばそれなりに妥当性を感じます、国際関係がきれい事の外交や理想論的な平和主義では立ち行かないことは、さすがに分かります。国防なくして国家が成り立つかと強く言われれば答えに窮しますし、君は身の危険が迫ったら座して死を待つのか、家族が危機に瀕したら立ち向かわないのか、と問われればこれも、立ち向かわないとはいえないでしょう。


絶対正義の戦争などこの世にあるのでしょうか、あるいはあったのでしょうか。本雑誌の「ボイス往来」という読者欄で、80歳の男性が「(イラク戦争は)古今往来、洋の東西を問わず、人類史上でこれこそが100%の正義の戦いであったと断言できる戦争」と言っているのを薄ら寒く感じます。


しかしです。彼らからごっそりと抜け落ちているのは、最終的に戦争を覚悟するということは、戦地で殺し合いをするのだという皮膚感覚です。湾岸戦争からアメリカは精密兵器を使ったピンポイント攻撃を全面に打ち出し、従来のドンパチ型の戦争とは質が変化したことをアピールしています。中曽根氏も近代兵器をもっと充実させるべきだと説きますし、西尾、志方両氏はもっと民間技術を活用して軍事利用せよ(新型兵器を作れ)と主張しています。


ここでも抜け落ちているのは、ピンポイント爆弾の下に居る者たち、ピンポイント爆弾のボタンあるいはレバーを押すものたちの肉体と意識です。アフガニスタンでも大量に投下されたレーザー誘導弾GBU28(バンカーバスター)、燃料気化爆弾BLU82(ディジーカッター)、クラスター爆弾などなど。その下には軍事施設の鉄とコンクリートだけではなく、生身の人間も居るわけです。


現在の自衛隊の武器使用は警察官職務執行法に準じているため、軍隊としての武器使用ができないと論客の方々は口を揃えますが、ここでもそうです。危険が迫ったら、自らの機関銃で相手を掃射せよと言っているわけですよね。


Voiceの執筆人の方々は、決して「好戦論者」ではなく、戦争と平和とどちらが良いかと問われれば間違いなく平和維持と答えるでしょう。外交と国防に関する考え方は、結局国益と国家というところに行き着くようですが、ここに平和主義者とは絶対に相容れない溝があるように思えてきました。

スペインのテロについて2

昨日「Whose turn is it next?」というエントリーで、「スペインがテロに屈した、テロリストの思う壺にはまった、という見方」があると書きました。また16日のエントリーでは「16日付の大手新聞は今回の政権誕生が投票日の3日前に起きた200人もの死者を出したマドリードでのテロの影響であろうと書いています」と書きました。


それに対して強烈なカウンターが仏ルモンド社説(「スペイン国民をバカにする珍説が流布されている」)に掲載されていることを、Letter from Yochomachi というサイトで紹介しています。興味のある方は是非読んでください。




情報がいかに一辺倒であるか、日本のマスコミが一面の論理からしか物事を捉えていないかが、如実に分る一文であると思います。日本のマスコミとて米国の受け売り部分が多いですから。次の部分は強調してし過ぎることがないと思います。


スペイン国民はテロと戦うに当たって現政権のアメリカ一辺倒の戦略がはたして適当なものか問い直しているのであり、それは全く正当なものだということだ。これは臆病とか卑怯というものではなく、アスナールのやり方では非効率で限界があると云うことを有権者は表明したのである。


アメリカが真に正しいのか、かつても正しかったか、アメリカ政権が正常な論理で意思決定されているのか(いたのか)、疑う点は山のようにあるのではないでしょうか。スペイン人の意思と、こういう社説を掲載するルモンド誌に敬意を払います。

2004年3月18日木曜日

Whose turn is it next?

ロンドン発行のアラブ紙アルクドス・アルアラビは、アルカーイダ系の「アブハフス・アルマスリ旅団」が日本などに対しマドリードと同じようなテロ攻撃を準備しているとの声明を入手したそうです。更に、スペインのテロによって、スペイン政権で野党が勝利し更にイラクからの撤兵を示唆したことで、アルカイダの組織を名乗るテログループがスペインに対しては「休戦」を宣言したようです(Reuters Wed 17 March, 2004 21:59)。



スペインがテロに屈した、テロリストの思う壺にはまった、という見方と、テロリストが言うように「The Spanish people... chose peace by choosing the party that was against the alliance with America」という見方があるかもしれません。スペインでの「成功」はテロの連鎖に繋がるのでしょうか、だからアメリカを始め今まで以上の協力体制を維持すべきなのでしょうか。


日本はスペインの選挙と政策転換(撤兵)に影響されないと小泉首相は語っていたはずです。スペインのテロリストとアルカイダの関係は未だ不明(unclear)とされているようです。


テロリストはブッシュの再選を願っているということを伝え、その理由を


as it was not possible to find a leader "more foolish than you (Bush), who deals with matters by force rather than with wisdom

Kerry will kill our nation while it sleeps because he and the Democrats have the cunning to embellish blasphemy and present it to the Arab and Muslim nation as civilisation

と書いてきたそうです・・・なんとも皮肉な文面です。テロリストの真意、そして真犯人究明も大事ですが、世界はどう動くでしょう。

(ちなみに英語は読めないので、内容は聞かないで下さい。情報源は以下の国内版新聞です)

【国内新聞】


2004年3月17日水曜日

何のために戦うのか

他国が我が国の利益を侵略しそうになった場合、戦うかといわれた場合、普通であれば「断固として戦う」と答えるべきなのでしょうか。例えば第二次世界大戦での敗戦国であるドイツや、隣国の韓国と比較しても日本は「戦う」と答える人が少ないという話を聞いたことがあります。以下は私の疑問です。



何のために戦うのか?



さて「戦う」とした場合なのですが、戦うのは何のために戦うのでしょう。自分の家族や財産を守るのは当然としても、それ以外に何を守るのでしょうか。「私は日本が好きですから」と「戦う」ことを是とする人は答えるでしょう。愛すべき日本とは具体的に何を指すのでしょう。四季豊かな自然、細やかな日本の情緒、安全と豊かさと住みやすさ、基本的な保護された人権、たてまえとしての平等、民族や階級などの差別や格差や貧富の差の少なさ、スラムや犯罪の少なさ、テロなどのなさ、などでしょうか。総じて世界の他の国よりも、まだまだ日本はムラ社会的であり安全で住みやすいようです。(そのどれもが変質しつつあるのが現代の日本のようですが)


では、これらは他国に侵略されたら失われてしまうものなのでしょうか。現在もあちこちで民族自立の動きは盛んですから、侵略された小国の気持ちは分らないかもしれません。一番守りたいのは、日本人としての「誇り」なのかもしれません。こういうものをまとめて「愛国心」と呼ぶのでしょうか。


ただ、守るべきものが国家であるという考えは、ちょっと考えてしまいます。「愛すべき日本」の姿とは少しずつ違う方向に動いているのが現在の日本ではないでしょうか。また享受している「安全と豊かさ」も、何に拠って実現されているのか考える必要もあるでしょう。現在の政権あっての日本であるとしても、ホンネとしては現在の政権を守るためには誰も戦わないのではないかなと、ふと思ったのでありました。

国際貢献って何なのか?



現在のイラク派兵やPKOというのは「国際貢献」と目的での軍隊の派遣です。国際協力という枠組みの中での軍隊の役割と防衛のための軍隊の役割というのは、分けて考えるべきなのかもしれません。国際協力に対する意味と目的というのも十分に議論されなくてはなりませんが。


さて、国際貢献という名のもとで海外に派兵しますが、テロに対しては「武器の使用」でも「武力の行使」でもどちらでも良いのですが、自分達が死なないために武器を相手に突きつけることになりますよね。さて、テロリストという定義も実は非常にあやふやなものなのですが、テロリストが「自分たちの権利を守るため」に戦っている以上、それが国際的に許される行為だろうとなかろうと、逆転して考えた場合、立場は同じなのではないかと思うのです。価値観が違うだけということで。

他国の救済と復興とは?



さて、そう考えると私には「戦う大義」や目的が見えなくなってきます。フセインや金日成は「絶対悪」であるから、また政権下の民衆は圧制を強いられ、恐怖と困窮に喘いでいるので、政権は倒さなくてはならない、独裁者は殺さなくてはならない、ということでしょうか。


でも誰も表立って「北朝鮮政権を早期に転覆させ一刻も早く民衆を解放すべし」とは主張しませんよね。国家の主権に関わる問題だからでしょうか。「倒すべき動かしがたい事実」が不足しているからでしょうか。今回のアフガニスタンにしてもイラクにしても、植民地支配の時の考え方、大東亜共栄圏とかいって、欧米諸国の植民地支配からアジアを開放すると主張した考えと、実は何も変わっていないのではないかと考えるわけです。


勉強不足な私は、そもそも自衛隊の「国際貢献」というのが、具体的には何を成し遂げているのか、いまだ理解しておりません。

スペインのテロについて


先日のスペイン総選挙で、イラク戦争を一貫して支持してきたアスナール政権の与党で中道右派の国民党(PP)が敗れ、野党で中道左派の社会労働党政権(PSOE)が誕生しました。投票率は前回選挙を8ポイント上回る77%に達したとのことで、16日付の大手新聞は今回の政権誕生が投票日の3日前に起きた200人もの死者を出したマドリードでのテロの影響であろうと書いています。




スペイン警察は、今回のテロは昨年5月16日にモロッコのカサブランカで起きたテロ(43人が死亡)と同一のイスラム過激派グループであるとの結論に達したそうです。逮捕されたモロッコ人の一人はアルカイダ関連組織の重要人物ですが、アルカイダの犯行声明に関して当局は慎重な姿勢を崩していません。いずれにしても、イラク戦争でのスペインの対米追随姿勢を非難してのテロであるようです。


今回の事件は、対米追従ということが世界からは強烈なテロ行為であるということの査証となるような事件のように思えます。私は今でもアメリカのイラク戦争(攻撃、侵略、政権転覆、イラク解放、いろいろ言い方はあると思いますが)の妥当性について疑問をもっており、国際貢献、人道支援という名のもとで、単純な対米追従政策をとっている亡国政府のあり方にも疑問を感じています。


フセインは確かに悪辣な政治家であったのかもしれませんが、アメリカ軍がイラクに侵攻したことで、イラク情勢はスンニ派とシーア派、それにクルド人も加わって微妙な力関係が崩れつつあるようにも思えます。クルド人が動くとなるとトルコも安穏とはしておれませんし、アメリカ軍の出方次第ではイスラエルにも影響が出てくるかもしれません。


微妙なパワーバランスで維持されていた国際社会に綻びが生じていることは、911テロを起点にすべてが始まったわけではないものの、世界はひとつの転機に差し掛かっているようで、ポスト・アメリカ一国主義という視点も必要になってきたのではないでしょうか。


ちなみに、選挙で勝利したサパテロ書記長は、イラクに駐留する1300人にも上るスペイン軍を撤退させることをラジオ局とのインタビューで語ったそうです。

2004年3月16日火曜日

馬立誠:日本はもう中国に謝罪しなくていい

「両国の歴史問題は解決済だ」と中国はおろか、日本でも刺激的なフレーズが帯に踊る真っ赤な本です。内容は真摯な提言に満ちた本でした。日本の歴史認識を覆したいとして躍起になっている方々、逆に昨今の有事関連法案に過敏になっている人などこそ、ぜひ読むべきではないかと思う本であります。



「日本は中国に謝罪しなくていい」というタイトルの本が、中国人によって書かれているということで、ちょっと胡散臭さもあったのですが、読んでみました。馬氏は、中国青年報評論部副主任を経て、人民日報高級評論委員になった方で、2003年より香港フェニックステレビの評論員を務めています。


内容は至極まっとうな、将来的な展望を語った書でした。馬氏は日中国交正常化から30年も過ぎているというのに両国の間では嫌悪と敵意が拡大していることを憂い、その主たる原因を、中国内と日本内で生じている一部の偏狭ナショナリズムのと無関係ではないと説明しています。


中国ナショナリズムの代表としては『ノーと言える中国』『中国パッシングの背後』『グローバリゼーションの影の下の中国の道』『衝突』『中国を脅かす隠された戦争』の5冊を例にとり、ナショナリズムの偏狭な論理を斬り捨てています。(第二章 尊大で偏狭な「中国ナショナリスト」たち)


一方で日本のナショナリズムにも厳しい眼を向けており、日本のナショナリズムの高まりも中日関係を阻害したと説明しています。代表的な人物としては石原慎太郎氏、歴史・検討委員会の委員長であった故山中貞則氏、小堀圭一郎氏、中村粲氏、総山孝雄氏、松本健一氏、西部邁氏、高橋史朗氏、大原康男氏、そして小林よしのり氏などの論説を紹介し、ナショナリストの論理の誤りと危険性を述べています。(第三章 徹底批判「石原慎太郎」から「小林よしのり」まで)


中国内では、日本が中国に対して謝罪をしていないという意見が根強いのですが、これも全くの誤解であると説明しています。彼は1972年から2001年まで合計21回もの正式な謝罪があり、すでに中日間の問題は解決済であると説明しています。感情的な対立は前進のためにはマイナスにしかならないと説きます。また東京裁判のことにも触れ、日本の侵した戦争犯罪はすでに裁かれ責任追及もすでに完了していると説明しています(第四章 日本の指導者に「土下座」を求めてはならない) 。


最終的に場氏は、これからますます重要な地位を占めるであろう中国とともに、日本、韓国も含め共存してゆく道を後の4章に渡って説明しています。まさにこれこそ馬氏の言いたかったことなのでしょう。経済、金融面のみならず安全保障の面でも協力関係を築くことのできる可能性を示唆しています。その中で、昨今の日本の有事法制のあり方については、日本が軍国主義の道を歩もうとしているわけではない、「普通の国」になろうとしているだけである、と理解を示しています。


非常に新鮮な観点から書かれた本であり、傾聴に値するものです。日本の歴史認識を覆したいとして躍起になっている方々、逆に昨今の有事関連法案に過敏になっている人などこそ、ぜひ読むべきではないかと思う本であります。

2004年3月15日月曜日

展覧会:モネ、ルノワールと印象派展


Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「モネ、ルノワール印象派展」を観てきました。モネが14点、ルノワールが33点、その他印象派のシスレー、ピサロ、スーラー、シャニックをはじめ、エドモン・クロス、ロートレック、ボナール、ヴァイヤールまでを含めた展覧会です。モネとルノワールをこれほど大量に観る事ができたのは初めてで、非常に満足しました。

チケットにある絵はルノワールの《青い服の子供》(1889年)です。これは往年の大女優グレタ・ガルボが愛憎していた作品とのことで、いかにもルノワールらしさにあふれた名品でした。私はルノワールの豊満な女性をモデルにした作風やテーマはあまりル好きではないのですが、それでも彼の愛情にあふれた数々の優しい絵は独特の色彩を放っておりました。


左の作品は《肌着を直す若い娘》(部分)(1905年)ですが、何ともいえぬ肌の輝きが至福の絵画となっています。ちょっと見方を変えると、ティーン向けのグラビア雑誌に載りそうなポーズだなとも思いましたが(失敬)

モネは、「パリ・マルモッタン美術館展」の感想でも書いたとおり私の好きな画家の一人です。この展覧会でも、モネの作品を堪能するおとができました。彼の作品は自然の風景を描いたものがほとんどですが、本当にキャンバスが光を放っているのです、まったく驚くばかりです。展覧会の後、絵葉書や画集を手にとって、彼の絵の光の十分の一も印刷技術では再現できていないのだな、と改めて思いました。

この展覧会で気の利いているのは、例えばルノワールとモネが同じ題材を描いた作品(キャンバスを並べて描いていたのだとか)ですとか、ピサロやシスレーの同じモチーフを描いた連作を並べたりとか、印象派の特徴をそれぞれの画風の中で比較して展示しているところです。


上の絵は左がルノワール、右がモネの作品でアルジャントゥイユの鉄橋を描いたものです(1873年)。ルノワールの風景はそんなに多いわけでありませんが、両者の画風の違いが如実に出ており興味深い作品でした。

モネの作品はおなじみの睡蓮も3点ほど展示されておりましたが、初期の頃の作品から晩年の作品まで、またヴィエネチアでの作品なども含まれており、モネの変遷を知る上では格好の展示でした。「パリ・マルモッタン美術館展」のような最晩年の抽象的な絵はありませんでしたので、モネのファンであれば、二つの展覧会に足を運ぶ必要があるかもしれません。

シスレーやピサロの絵もよかったのですが、印象派の絵画を観ていて、展覧会に訪れる人は皆口々に楽しげに絵を見て語っています。ある意味で、絵画がもっとも幸福な時代であった頃の作品であるのかと思ったのでした。今更西洋名画をありがたがって鑑賞するというのも、現代においていかがかと思う方もいるかもしれませんが、至福の絵画たちに接することは決してムダではないと思います。

ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第5番







  1. ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
  2. ショスタコーヴィチ:交響曲第9番


  • 2002年6月30日(第5番)、5月14日(第9番)




ゲルギエフのショスタコーヴィチ交響曲第5番を聴いてみました。日本語盤の解説は宇野功芳氏です。例によって絶賛の嵐ですが、さて私の聴いた感想といたしましては・・・



ゲルギエフは昨年7番が話題でしたが、今回はポピュラーな5番と比較的マイナーな9番のカップリングです。ゲルギエフは何度も書いていますが、私の好きな指揮者の一人ではあるのですが、昨年の日本公演でのマーラー(3番)にしても、話題と言われたショスタコービチの7番の録音にしても、今ひとつ心琴に触れるところまではいかなかったというのが正直な感想でした。


ゲルギエフの持ち味の一つであった粗々しさというものも、商業的な芸風として扱われるフシもありましたし、もしかしたらゲルギエフの真髄は、風評とは別のところにあるのではないかと考えたりもしていました。


そういう意味から、ショスタコの5番は期待と不安を錯綜させながら聴く事になったのですが、実はこれはなかなか言葉に表すことのできない素晴らしい演奏に仕上がっており、久しぶりに満足ができました。


私がCD評のお手本とするClassical CD Information & Reviewsでは以下のように書いています。


いずれも演奏も技術と表現の両面において完成度が高く聴き応え十分の名演といいうるものですが,私のようにこれまでこのコンビが聴かせてきた荒々しさやざらつきのようなものを求める向きからすると,物足りなさを感じてしまうかもしれません。

私は逆にそうは感じませんでした。荒々しさやざらつき というものは、もしかしたら彼の持ち味ではないのではないかとさえ、今回の演奏で思ったのです。


ショスタコの5番としては、演奏的な解釈はオーソドックスのように思えるのですが、1楽章冒頭からフィナーレまで、表現力の多彩さ、そして音楽的なふくらみと包容力はかつてないほどのように思えます。テンポは全体的にゆっくりに感じますが、重要な部分では大胆なアゴーギグをかけたりもしています。打楽器や金管楽器の迫力、それに低弦のパワフルな刻みなど、曲全体に驚くべきの生命力を与えているようです。


しかし、一番驚いたのは。第2楽章の最後のオーボエ・ソロの部分のスローテンポでも、脳天を叩き潰すかのような打楽器の強打を伴ったフィナーレでもなく、第3楽章の恐ろしいまでのヴァオリンのpppをバックに奏でられるメロディでした。この演奏では時間さえもが引き延ばされ、銀色に輝く一本の糸から真珠のような数々の想いがハラハラと零れ落ちるかのような、あるいは音楽が分解され再構築されてゆくかのような感じを覚えました。演奏は非常に丁寧ですし音楽的な効果を計算しつくしているように思えます。


日本語盤の解説は例によって宇野功芳ですが、彼の言う「格調高い悲劇」ということは、今ひとつ理解できませんでしたが、ゲルギエフの表現力の多彩さを聴くという意味からは満足の行く盤でした。

2004年3月13日土曜日

フルートと管弦楽のためのオペラ幻想曲












NAXOSから発売されている、マルク・グローウェルスのCDです。

前回はフランスのフルート名曲に聴きほれましたが、今回はオペラを主題とした幻想曲集です。
フルート・ファンにはお馴染みの「カルメン」幻想曲や精霊の踊りのほかにも、普段あまり聴きなれない曲が納められており興味がつきません。




ショパンの変奏曲は1829年の作品で1955年に出版されたものです。作品番号はありません。ショパンの作品ではないとの説もありますが、明るくコミカルな出だしで始まる7分ほどの曲は愛すべき曲であります。後半はテーマを駆使した技巧的なパッセージを楽しむことができます。

フォブス(1939-)という作曲家は、ネット上でもどのような作曲家なのか探すことができませんでした。「魔笛」による幻想曲は、歌劇のテーマをふんだんに使いながら、フルートの煌びやかさを十分に発揮させる曲に仕上がっており、親しみやすくまた楽しむことができました。やっぱりパッパゲーノのテーマのところが良いですね。


グレトリ(1741-1813)は、革命期のフランス作曲界の中心人物で、古典派様式のオペラ・コミックを確立した作曲家だそうです。技巧的に派手な曲ではないものの、流れるような優雅な曲調は華やかな気持ちにさせてくれます。

ロッシーニのソナタも5分ほどの曲ですが、Andanteのどこか急かせるようなテーマがとても良いです。また、Allegrettoの最後の方、カデンツア風のところからラストに向けてがカッコ良いです。「カルメン」幻想曲は言わずもがな、グローウェルスの技巧が冴えまくっています。


ということでNAXOSですから、安売りしていれば900円以下で買えるのですから、お買い得であると思います。


マルク・グローウェルス(フルート)、ワーテルロー室内管弦楽団、指揮:ジョルジュ・デュモルティエ


●フォブス:モーツアルトの「魔笛」による幻想曲 ●グレトリ:フルート協奏曲 ハ長調 ●ショパン:ロッシーニの「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調 ●ボルン:ビゼーの「カルメン」による華麗な幻想曲 ●ロッシーニ:弦楽のためのソナタ 第4番 変ロ長調 ●グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」~精霊の踊り

2004年3月11日木曜日

有事関連法案について

既に成立している有事関連三法案に付加される形で、国民保護法案など有事関連7法案が9日閣議決定されました。これをもって政府は有事関連法案が完結することになるそうです。昨年の有事法案は、国民保護などを後回しとしたことが批判されました。1年以内に関係する法案も成立させるとのことでしたので、今回の案件がそれに当たるわけです。


��法案とは以下の法案だそうです。



主に外国からの攻撃の排除を目的とする法案


  • 外国軍用品等海上輸送規制法案

  • 米軍行動円滑化法案

  • 自衛隊法改正案

  • 交通・通信利用法案


国際人道法の実施などを主目的とする法案


  • 国民保護法案

  • 国際人道法違反処罰法案

  • 捕虜等取り扱い法案


3条約


  • 改定日米物品役務相互提供協定(ACSA)

  • 国際人道法であるジュネーブ条約の二つの追加議定書の締結承認案


既成立の有事関連3法案


  • 武力攻撃事態対処法案

  • 自衛隊法改正案

  • 安全保障会議設置法改正案



閣議決定を受けて、10日(水)の大手新聞社説を紹介しておきましょう。


毎日新聞は『有事7法案 時間かけじっくりと議論を』とし、民主党、共産、社民党の役割を改めて促しながらも、


 テロ対策支援法やイラク復興特別措置法により、自衛隊の海外派遣が拡大された。加えて有事法制の仕上げである。安全保障のあり方が大きく変化しても、「専守防衛」が基本である。国会では防衛の基本理念を踏まえ、じっくりと時間をかけて審議をすべきだ。

としています。「専守防衛」という死語になりつつある言葉を持ち出していますが、改憲なくしてのなし崩し的法案成立、あるいは違憲論争には触れていません。


朝日新聞は『ACSA――米新戦略とどこまで』とし、『いざという時の国民の生命や権利を保護する仕組みをできる限り整えておかなければ、まともな有事法制とは言えない』という主張を繰り返しながらも、改定日米物品役務相互提供協定(ACSA)について、『条約案のなかにひとつ、日本有事の枠を超えるものが含まれていることも見逃せない』と主張しています。


 この改定が実現すると、米軍を支援するための自衛隊の海外派遣1件ごとに個別のACSAを結ぶ必要がなくなる。[...]これは米政府が長く日本に求めてきた「NATO並みACSA」の実現である。



 確かに、新たな脅威を放ってはおけない。できる手段で、同盟国として米国に協力することもいい。だが、軍事力を頼みに単独行動もいとわない、いまの米国とともに、日本はどこまで行くのか。 一見軽く見えるACSA改定は、実はそんな課題を突きつけている。

基本的には有事関連法案は容認しながらも、野放図な米国追従についてはやんわりと批判しているというところでしょうか。ACSAという余り注目されない面での議論は、問題の深刻さを語っているようです。正面切って批判をしないのは、そういう論旨ではいままで散々主張しているからということでしょうか。


日本経済新聞は『有事法制の各論も与野党合意で成立を』とし、『しっかり議論したうえで最終的には昨年同様、民主党の賛成を経て成立させる必要がある』『昨年ようやく総論部分の三法が成立したのは、前者が与党と民主党との共通認識になったからであり、安全保障感覚の成熟化を意味する』とし、有事関連法案の成立に全面的に賛成した上で、今後も与野党の合意で成立させることを期待しています。


最後に産経新聞ですが、『有事法案決定 自分達の問題と考えたい』とし、『主要先進諸国で他国からの侵略や攻撃に備え、国民を守る法制を整備していないのは日本だけだった』とやっと有事法制が成立したことに安堵の意を表明するとともに、『最大の課題は、国民一人ひとりが自分の国や家族を守る決意を持って有事に備えることができるかどうか』と国民の意識のあり方にまで言及をしています。ですから『民間防衛組織の創設が見送られ、既存の自主防災組織の活用にとどまったこと』を憂い、ドイツの例を引き合いに出しながら、


 私権制限は、慎重であらねばならないが、必要なときがあることを示している。有事では自衛隊だけで国防はまっとうできず、国民の一致協力した支援が必要だ。それが他国に攻撃を躊躇(ちゅうちょ)させる抑止力につながるのだ。

とし、他誌より相変わらずの突っ込んだ主張を展開しています。

本日の朝刊各誌(電子版)においては、読売新聞だけが有事関連法案について社説で触れていませんでしたが、法案賛成の論調は変わらないでしょう。ということで、大手4誌は相変わらずの論調ではあるのですが、朝日、毎日といった新聞も法案には仕方なく同調しているという雰囲気がにじみ出ています。昨年の有事関連三法案が成立してしまっている以上、個人保護法案の成立が不可欠であると主張しますが、もはや後戻りはできないというスタンスです。

与野党の内部でも意見には微妙な温度差がありますが、総論で有事法案成立に賛成という動きはもやは変わりようがありません。そういう中で、かつての憲法論争はもはや過去のものとなってしまったのでしょうか。今回も7つもの法案を十分な議論を尽くせぬまま成立させてしまうことは、過去に遺恨を残さないのでしょうか。それとも、日本が「軍隊」を有する「普通の国家」となる上での、貴重なる第一歩なのでしょうか。


「自衛隊は軍隊」という言い方は、小泉首相が図らずも吐露した言葉ですが、実際には、相手が攻撃してこなければ攻撃ができないのでは「軍隊」とは言えず、警察の延長でしかありません。軍隊とは自ら攻撃を仕掛けることができる集団で、近代装備の有無で決まるものではありません。ここのところも、今後改正されてゆくのでしょうか。

日本は過去の清算を十分にできていないという論調もありますが、戦後50年以上堅持してきた日本国憲法というのは、一体何だったのでしょう。


��1世紀においては平和外交などというものは、世の中を知らない者の発想でしかないということでしょうか。中国をはじめとして、今まで経済的に貧しかった国々も力を付けてきて、国際的な勢力地図においてせめぎあいを演じる中で、軍隊もないようでは圧力さえかけられず、なめられるばかりで、国として一人前とは言えないということなのでしょうか。では、日本は中国と張り合おうというつもりですか。


平和外交が否定されますが、そもそも平和外交を全面に打ち出して活動している政治家(NGOとかでなくて)、は存在していますか。哀しいかな、存在したことのないものであれば否定されても仕方ありませんね、夢物語だと。世に永世中立国という言葉がありますが、そもそもその概念こそ夢物語でしたから、平和外交というのも、夢のまた夢なのかもしれませんが。


それでも敢えて言うとすると、戦争の反省とその後の50年の憲法論争の歴史を全て放り去ったかのような昨今の動きと、野党とマスコミのだらしなさには、ほとほとうんざりしています。日本はどこに向かいたいのでしょう。「普通の国」に何故なる必要があるのでしょうか。世界の中の多くの小国のような「普通の国」では相手から侵略されてしまいますか(たとえばドイツに攻められたベルギーのように)。


自らの勉強不足を棚に上げて再度書きますが、日本国憲法とは何だったのでしょう。日本に対する意味と、世界に対する意味は。それが清算されない限り、私は先に進めません。それは、やはり歩みの遅い「神学論争」でしょうか。また機会があれば考えてみます。

【サイト内関連エントリー】


2004年3月9日火曜日

フランス・フルート名曲集












先週は仕事から帰ると、このCDばかり聴いていました。NAXOSから出されている「フランス・フルート名曲集」というCDです。

フルーティストはマルク・グローウェルスです。私は始めて名前を知りましたが、グローウェルスは何度か日本にも来ているらしく、梶本音楽事務所の紹介によれば、「ダイナミックな人間性や知的な音楽性により、今日もっとも人気の高いフルーティストの一人。[...]ピアソラは、彼のために《タンゴの歴史》を作曲している」とのことです。無知とは恐ろしいものです。




何度も聴いてしまうのは、フランス風とでも言うのでしょうか、軽妙にして洒脱な、肩の凝らない曲であり、なおかつメロディアスでしかも大変技巧に富んだ曲たちだからでしょうか。聴くたびに心が軽くなる思いです。


「ヴェニスの謝肉祭」には改めて舌を巻きますが、それ以外の曲も良いです。特にこの中では、ゴダールがお気に入りになりました、第一楽章の出だしが何とも言えません。ゴーベールやベルリオーズの二本のフルートによる愛らしい曲も、こんな世界があるならばずっと浸っていたいと思うほど。ベルリオーズは、もとはといえばフルーティストでしたものね。


しかし、グローウェルスのフルート、本当にうまいです・・・。


マルク・グローウェルス(フルート)、ワーテルロー室内管弦楽団、指揮:ユリス・ワーテルロ、クラウディ・アリマニー(第2フルート)、アニー・ラヴォワジェ(ハープ)


●ドンジョン:オッフェルトリウムOp.12 ●ジュナン:ヴェニスの謝肉祭Op.14 ●ゴダール:3つの小品の組曲Op.116~第1楽章アレグレット、3つの小品の組曲Op.116~第2楽章牧歌、マベルヘのセレナード、伝説的牧歌Op.138 ●ゴーベール:ギリシア風ティヴェルティメント ●ベルリオーズ:オラトリオ「キリストの幼時」Op.25 ~若いイスラエル人たちによる2つのフルートとハーブのトリオ ●グノー:小交響曲 変ロ長調

立川のビラ配りの件

立川のビラ逮捕の事件の件ですが、事実関係がよくつかめていません。当局が突然ビラだけで逮捕することなどなく、必ず今まで当局の監視があって、今回ある臨界を越えたのだろうと思っています。「立川自衛隊監視テント村」という市民団体名も、ちょっとすごい名前だとは思いますが。


マスコミ大手では朝日や赤旗だけがとりあげていたようですが、ネット上には以下のような意見を見つけることができました。裏日本観察学会総本部




そりゃ、自分たちの生活を「監視」するサヨク団体がビラ配りをしていりゃあ、気味悪くもなるよな。にもかかわらず、<ピザ屋さんもおすし屋さんも、引越し屋さんも不動産屋さんも、このようなやり方で、日常的にチラシを配布しています>と。教えてやろうか、店のチラシは住民の利益になるが、サヨクのビラは、ピンクチラシと同じで利益にならないからだよ(気遣うふりをしたって、手の内はバレバレだし)。


こういう発言が最も問題のような気がするのですよね。もし「立川自衛隊監視テント村」が急進的な左翼集団であったとしても、感情論で排他的になるのはいかがかなと。例えばこのHPはオウム真理教のことに触れています。


一番のギャグは、<オウム真理教信者によるポスティングが同様の弾圧を受けたことがあるが>これって、自分たちがオウムと同様の危険集団だと暴露しているだけだろ(笑)


市民団体が自らをオウムと同じ危険集団であると言っているのではないのは自明で、オウム的なものを取り締まるあり方そのものを問題視しているのでしょうに。


もっとも真に市民生活を脅かすおそれのある団体の活動と、憲法のもとに保証された範囲内での活動を見極めるのは難しいかもしれません。そんな悠長なことを言っていたら、とんでもないことになってしまう、事件が起きてからでは遅い・・・。だからこそ、いろいろな報道が欲しいのですが、日本のマスコミってダメですね。


私は思想的に右翼でも左翼でもありませんが、こうい話題を書くときは、それなりに緊張します。ばかな話しですが、自己規制が働くということそのものが、もはや健全な思想体系でないことを露呈しています。例えば会社の幹部が、「君のサイトは業界批判や会社方針に反する内容が多いため、即刻サイトを止めるか、会社を辞めるかしていただきたい」 と言われることは、さすがにないでしょうが(笑) 組織内にいて組織を批判するのも、自己矛盾といってしまえばそれまでですが、組織内で組織批判ができないとしたら、これほど恐ろしいことはありません。


ネット上の戯言は、私のサイトも含め、発言者の寄って立つところが全く見えませんので、意見も不連続で、発言者の主旨を掴むまで、本当は恐ろしくてレスポンスなど書けないのですがね。

2004年3月8日月曜日

宮部みゆき:龍は眠る

宮部みゆきが好きになったというわけではないのですが、「龍は眠る」という長編を読んでみました。




宮部みゆきの代表作のひとつ、92年の第45回日本推理作家協会賞の長編部門を受賞した作品です。しかし読んでみますと推理小説とは趣がだいぶん異なります。先に紹介した「クロスファイア」や「鳩笛草」と同じく、超能力者をテーマとした小説になっているからでしょうか。テーマも推理やサスペンスより、超能力を持ったが故に苦悩する、二人の対照的な少年と青年に焦点が絞られているようです。


この小説に登場する超能力は、相手の考えていることや物品に残存する記憶を読み取ることのできる能力です。バラエティでよく放映されていますが、FBI超能力捜査官にも同じような能力者が登場しますよね。そういう能力を持った者は、聞きたくなくても他者の声が聞こえてくるため、能力をコントロールしないと精神的に参ってしまうということに宮部氏は着目しているわけです。そして、自分が望んだわけでもないのに能力を有しているが故に、何故その能力が備わっているのか悩み、力とどのように折り合いを付けるかということに人生の問題を置かざるを得ないと考えているのようです。ですから小説は、二人の能力を持つ少年が、ある事件に対して、どのように接し自分の人生を定めてゆくかが描かれています。こういうところが全く推理小説的ではなく、青少年向けの小説のように思えてしまいます。


推理仕立のところもあるのですが、二人の少年が余りに純粋すぎ、そして痛々しく、また相手の心を読んでしまうという能力をネガティブに捉えすぎるため小説の雰囲気も内向的で湿りがちです。「クロスファイア」でもそうでしたが、能力を持つことに対する決意と責任感と悲壮感がひしひしと漂います。そして物凄い芯の強さを発揮して自分の役割をまっとうする様は、殉職という雰囲気さえ漂います。能力者を別に超能力に限定せずとも、個人に備わった色々な資質として読み替えることもできますが、そこまで深読みすることもなさそうです。


内容は文句なしに面白いことは請負いますがのですが、(ぐっと来る人にはこたえられないのでしょうが)私にはこの湿っぽさと生真面目さがちょっと苦手ではあります。彼女はスティーブン・キングがずいぶんお好きなようですが、宮部氏の小説はキングよりは遥かに上質で上品で、しかも毒がありません。それゆえキングのような善も悪も突き抜けた破壊力とは全く逆の作風で、いかにも日本人の作品なのだなあと思うのでした。

2004年3月7日日曜日

これも言論の弾圧ですか?

言論弾圧といえば、こういう記事もみつけました。『社保庁職員が「赤旗」配布容疑で逮捕 国家公務員法違反』(3月3日朝日新聞 電子版)。事件は見出しのとおりですが、国家公務員法の違反容疑による警視庁の強制捜査は21年振りだそうです。短い記事によりますと、


公安部は今回の逮捕理由を「中立性を求められる国家公務員が、政党機関紙を反復継続して配布するなど守るべき規範を超えている」と説明している。



とのことです。「赤旗」が問題ですか。では、公明党と創価学会の繋がりなどは良いのですかね。

言論弾圧というと過敏すぎるかもしれませんが、例えば、教育基本法改正促進委員会における民主党 西村真悟衆院議員(たけしの「TVタックル」によく出演されている極右議員です)の次の発言はいかがですか。


教育基本法の改悪を目的とした、自民、民主両党国会議員の議員連盟。二月二十五日に設立、両党の有志議員二百三十五人が参加しています。教育基本法改悪法案の早期国会提出へ向け、国会議員の過半数まで議連を拡大することなどが当面の方針です。委員長は自民党の亀井郁夫参院議員。二〇〇〇年五月に「神の国」発言をした森喜朗元首相らが最高顧問になっています。
 民主党から同議連に参加した西村真悟衆院議員が、設立総会で「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」などと発言。教育基本法改悪の目的がどこにあるのかをあけすけに語りました。〈2004・3・6(土)〉「しんぶん赤旗」


あまり話題になっていませんよね。西村議員ですから確信犯として許容範囲内ですか。この報道は、大手新聞では朝日新聞と赤旗(赤旗が大手かはさておき)でしか報じなかったそうです。こういう発言は野放しで赤旗を取り締まりますか。(そろそろ「日本共産党」とか「赤旗」という名前を降ろしたらいかがでしょうかね。個人的には私も「共産党」と「赤」には、どんなに正当な事を述べていても、色がついてしまいますからね。自ら自己矛盾をさらしているのですし。)


もはや政権与党と野党の対立はなく、オール与党で言論は改憲と右傾化に一直線という見方もできますが、ここは慎重にならなくてはなりません。はてさて・・・

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2004年3月6日土曜日

年金問題ふたたび

今週の「週刊!木村剛」は『厚生年金はネズミ講か? [コラム]』と題して、公的年金制度のおかしさを、怒りを込めて書きつづっています。



年金問題は私も気になっているのですが、どこか徹底的に騙されているのではないかという気持ちが抜けきれません。先に触れたグリーンピアに代表される施設ひとつ取っても、全く理解の域を越えています。木村氏は、『若者に年金脱退権を認めよ!』と主張しています。結論だけ引用してしまいますと、


要するに、「年金脱退論」というのは、インチキな「保険方式」から明確な「税方式」への移行を展望した政策なのである。私は、各人のインセンティブにしたがって、年金のあり方を自由に選択していく結果としての「税方式への移行」を目指すべきだと考えている。


ということです。ここで思い出すのが大前研一氏のメールマガジンです。『「年金、要りません!」という人には「名誉」を』と題した第1回のメルマガは、年金からの脱退を勧めています。年金脱退者には「名誉」や「その後の所得税を免除するなどのメリット」を与えるべきだと説きます。彼の主張も年金改革にあります。


年金脱退権という点においては両者共通しています。お上の制度に一律にという時代は終わったようですし、自己責任が言われる時代において、個人はもっと賢くならなくてはならないということでしょうか。

2004年3月5日金曜日

これは治安維持か言論弾圧か?


朝日新聞を見て驚いてしまいましたが、東京都立川市の防衛庁官舎へ自衛隊派遣に反対するビラを配った市民グループ3人が先月27日に警視庁公安第二課と立川署により逮捕されていたそうです。逮捕理由は、「住居侵入」罪だそうです(派遣反対ビラを自衛隊官舎で配って逮捕 憲法学者ら抗議)。


記事によると憲法学者たちは以下のように、今回の公安の行動を批判しています。




地元の大沢豊・立川市議らは3日午後、立川署を訪れ、「反戦運動への弾圧だ」として3人の釈放を要求。署側は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えた。

 奥平康弘・東大名誉教授、水島朝穂・早大教授、阪口正二郎・一橋大教授ら憲法学者や刑法学者ら56人も「住居侵入罪によって保護される法益は平穏な私生活。郵便受けは外からの情報を受け取る通路でもある。今回の措置は自由な民主主義社会の基礎を揺るがす」との声明を発表し、抗議している。


まったく慄然とする思いです。逮捕されたのは立川自衛隊監視テント村という市民団体です。逮捕された上に、事務所から書類、パソコン類も押収されたというから、念が入っています。公安は以前からこの市民団体に目をつけており、今回のビラ配りで「時期が時期だけにひとつお灸を据えてやろう」という意思が働いたのでしょうか。

朝日新聞5日の社説は「ビラをまいた人たちに非が全くないわけではない。自衛隊員や家族の複雑な気持ちへの配慮が足りないのではないか、という意見もあるかもしれない」としながらも、


 支援者らの抗議に対し、警察は「法律に基づいて正当に捜査している」と答えた。しかし、今回のような強引な摘発が続けば、市民が自分の意見を言ったり、集会を開いたりすることをためらいかねない。私たちはそのことを心配する。


 自分と違った価値観を認め合い、自由に意見を交わすことができる。それが民主主義の社会であるための前提だ。


と主張しています。私も件の市民団体の活動について熟知しているわけではないので、結果だけから判断することは危険であるとは思いますが、全体的な印象ですと「言論弾圧」に近い、あるいは最近ではオウム真理教で戦後初めて適用された破防法、すなわち戦中の治安維持法に繋がる糸が見えてしまうというのは過剰な反応でしょうか。やはり見えないところで、世の中は間違った方向に進んでいませんか。


私は朝日新聞(電子版)で記事を見つけましたが、産経や読売はどのように記載する(あるいは無視する)でしょうか。

2004年3月4日木曜日

札幌市長の君が代斉唱中止

本日の読売新聞によりますと、札幌市が上田市長が新年互礼会での君が代斉唱中止の件で、ごたごたしているようですね。上田市長といえば、昨年の市長選挙民主党はじめ市民ネットが推薦した元弁護士で、史上最多の7人の候補者が乱立する中、勝ち上がった方です。




記事によりますと、上田市長が君が代斉唱を中止した理由は「多様な価値観を認めることが民主主義」であるとの持論によるものだそうです。自民は「公人ではなく個人的思想に基づく行為」と反発を強めて予算特別委員会で追求をしているという図式のようです。新聞記事は更に、


��上田市長は)戦前、国旗・国歌が国家への忠誠心を表す対象とされたことに触れ、「私が恐れるのは公権力が一つの価値観を強要する社会」と指摘。「精神的自由の尊重が重要で、そのためには(新年互礼会の)君が代斉唱は必要ない」と従来の見解を繰り返した

2日の朝日新聞北海道版では、


日本が第2次大戦を回避できず、自国他国を問わず、悲惨な結果を招いた最大の原因は国民に精神的自由が保障されていなかったからだ


精神的自由に影響を与える可能性のある事柄には、国家は中立的で、できる限り抑制的であるべきだ


という上田市長の言葉を引用しています。


問題は国旗、国歌ということより、個人の信念と公人と私人としての役割、そして「精神的自由」ということに集約されそうです。たとえば小泉首相の靖国神社参拝も、個人の信念としてならば非難されるべきものではないかもしれません。


互いにひっかかるのは、政治家としての歴史認識を言動として表さずに、表層的な結果だけで動いているために余波を呼ぶのかなと思うのですが。君が代を斉唱することが法的に定められた国家意思であるという考え方は、いわゆる人を殺してはいけないというようなものとは違って、やはり違和感を感じずにはいられません。


ちょっと違いますが、住民基本台帳に反対する自治体がありますよね。東京都ですと杉並区とか国分寺市ですが、行政が行政のやり方に反対することはけしからんことで、違法なことなのですか。もっと言えば、会社において「社長の意見や会社の規律に馴染めないのなら、辞職しなさい」というのは一見正しいようで、組織的にまっとうな組織といえるのでしょうか。いろいろ考えてしまいますね。


ちょっと脱線しすぎましたか。


【関連】


2004年3月3日水曜日

アメリカ大統領選の行方

スーパーチューズデーが始まりましたね。今後ブッシュ政権からケリー氏でも誰でもいいのですが民主党政権になった場合、小泉政権のイラク派兵に対し不利になることはないのかと考えていたら、そうでもないようです。



ロイターの記事によりますと、


民主党はもともと保護主義色が強いが、選挙後は通商政策が中道路線に戻ることが多い。安全保障政策については、民主党候補が政権奪取後はより国連重視に転じるとみられる。自衛隊のイラク派遣に対する国民の支持を取り付けたい小泉政権にとって、米政権交代は外交上困ることはなく、むしろやりやすくなるとの指摘も出ている。 (吉川 裕子記者 リンダ・シーグ記者)

ということのようです。なるほど、今度は国連ですか。アナン事務総長と日民主党の管代表は

イラク戦争を始めることについては国連は一貫して査察の継続を主張し、反対であったことを明言された。アナン氏が自衛隊派遣を評価したことで、戦争の大義名分が認められたかのような論陣を張ろうとしているが大間違いだ

と話していたのは先月24日でした。これからの情勢を見極める必要がありそうです。

国歌、国旗についての読売新聞


本日の読売新聞社説は『[国旗・国歌]「卒業式も国際的標準を視野に」』とした上で、国旗国歌の重要性を説いていました。私を含めて、国旗、国歌に複雑な思いを抱く人は多いと思います。



読売新聞いわく


 先進諸国は共通して、学校での国旗、国歌教育を重視している。アメリカでは法律で、学校などの公的機関に国旗を掲揚することが定められている。自分たちの歴史や文化、アイデンティティー(自己同一性)を確認し、国の将来を構築していく意志を示すためだ。

 国旗、国歌を通じ子供に精神的な支柱を形成する取り組みが、グローバル化が進む今、以前にも増して重要だ。

国旗、国歌に限らず、国家とは何かという認識が重要であること、(国家なくして個人は国際社会で存在できませんから)国家によるアイデンティティの確立も重要であることは認めます。


学校においては、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施は義務付けられていますから「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」らしいです。


再度読売新聞に戻りますが、


 日本では、戦前の軍国主義体制への嫌悪感などから、国家について突き詰めて考えることを避け、国旗、国歌への態度も曖昧(あいまい)にする傾向が続いてきた。


とあります。嫌悪感とともに出されるのが贖罪意識あるいは自虐史観に基づいた歴史認識です。やはりそういう歴史を総括して清算しない限り、国歌、国旗問題、ひいては憲法9条問題も解決しないのではないでしょうか。外圧や対外的な脅威のみに依存した、安易な解決や改革しなくてはならないような雰囲気つくりに流されること、こういうことはやはり避けるべきだと思いますが、いかがでしょう。

若い歌手が「アカペラで国歌を歌いたい」と言う発言には、どう受け止めるべきでしょう。以前、忌野清四郎が国歌を歌いましたが、変にカッコよかっただけに不気味でした。


サッカーW杯などで無邪気に国旗を振る海外選手を見ると、うらやましいと思いますが、日本は何故国旗を振ることに罪悪感と抵抗感があるのでしょう。サッカーのオリンピック予選が始まりましたが、どうしてあんなに「国を挙げて」熱狂する雰囲気をマスコミは作り、それにまた皆乗ってしまうのでしょう。


アメリカは占領地に星条旗を立てて歴史を作ってきましたが、彼らには贖罪意識はありませんね。やっぱり連合国だからでしょうか・・・


右傾化や改憲派が与野党で趨勢を占めてきましたが、彼らや彼女らは徴兵制を前提(1)に議論しているのですか? 彼や彼女らは、自分たちの子供や孫を戦地へ送る覚悟ができているのですか?  戦地での彼らや彼女らに、相手が敵なら銃剣で刺し殺せと教えるのですか? 日本人が海外で銃弾に当たって死ぬことや、地雷や爆弾に当たって吹き飛ばされることを許容できているのですか?


国旗、国歌問題から飛躍しすぎかもしれませんが、こういう問題を考えると己の勉強不足と認識不足に、はっきり言ってうんざりしてしまいます。


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(1) 安直に徴兵制度と書きましたが、調べてみると現在の主流は志願兵制度ですね。現在の防衛強化の方向を、「徴兵への移行」などと考えるのは短絡すぎるようです。ドイツは徴兵制を残していますが、イギリス、フランス、スペインでは徴兵制は廃止されています。イタリアも2005年には完全志願制に移行する予定です。勿論アメリカも志願兵性ですね。日本が軍隊を持つとしても、志願制で人が集まらない状況にならない限り、徴兵制は採用されないという議論もあります。また、現代の近代化した兵器を扱うのに、期間兵では役に立たないとか、徴兵されたものを教育する体制にないなどの現実的な問題もあるようです。おっと、このエントリーは「国旗、国歌問題」でしたね。この手の問題は、まだまだ勉強不足のようです。

2004年3月2日火曜日

アイノラ交響楽団の演奏会

アイノラ交響楽団の第1回演奏会に行ってきました。アイノラ交響楽団というのは、シベリウス愛好家が集まって、シベリウスの音楽を演奏するために結成したそうです。今回の演奏会にこぎつけるまで3年を費やしたそうです。

アマチュア団体でしかも特定の音楽家に特化するというのは、ユニークでありながら非常に冒険でもあるように思えます。シベリウスの曲は私も好きですが、二つの組曲はあまり馴染みがないためどのような演奏になるのか、期待と不安を持って聴き始めました。
アマチュアとは言っても在京のオケですから技量は高いオケのようです(比較対象なしの独断)。ffにおける音量も十分で、ダイナミックレンジの大きな迫力のある演奏を聴くことができました。特に、金管群の音量は十分すぎるほどで、想いの丈が伝わってくるかのようです。弱音や弦楽器による細かなトレモロなど繊細な動きもなかなか聴かせてくれました。多少表情が固いかなと思うこともありましたが、オケとしての初々しさなのでしょうかね、あるいは私の勝手な思い込みでしょうか。
さて、肝心のシベリウスの音楽ということに関しては、これは表現するのがなかなか難しいものがあります。というのも、シベリウスの何を好きかということになるのかと思うのですが、これはオケの想い、団員個々人の思い入れ、そして指揮者の解釈、聴衆の求めるもの、それぞれが「シベリウス」というキーワードのもとに微妙に異なるからです。そういうわけですから、自分の中の勝手な「シベリウス像」を演奏からどこまで聴くことができるか、ということに興味は尽きるたわけです。巨匠の演奏やプロの名演と比較してということではなくて、ですが。
私が好きなシベリウスというのは、どこか曖昧であり自然と一体化したかのような喜びと霊感を感じさせてくれるようなところ、よくマーラーと対比されますが、ギリギリまでに鋭敏に贅肉を落としたところの澄みやかなる美しさと冷涼さ、キリスト教の神とは違う意味での神聖さを感じさせるところなどなどです。演奏を聴きながら考えたのは、上とは逆のシベリウスの持つ愛国心と大衆性ということで、それはそれでシベリウスが愛されてやまない理由だとは思うのですが、個人の中でどう音楽的に両立していたのだろうということです。
本日の演奏会のプログラムは、さすがに第一回の演奏会と銘打つだけあり、よく練られていると感心するとともに、シベリウスの両面を上手く表した曲が選曲されていると思いましたが、最初の組曲ふたつは馴染みがないせいか、どうも焦点を絞りきれず、実は余り楽しめませんでした。「フィンランディア」だけがあまりに有名ですから、そこだけ浮き上がって聴こえてしまったのは私の経験不足というところですね。(世のシベリウスファンは、この曲を生で聴くために足を運んだ人も多いことでしょうに) それでもシベリウスの考えている音楽やアイデアがそこかしこに断片のように散りばめられているのを聴く事もでき、曲を再認識した次第です。
シンフォニーの方は、よくまとまっていたと思います。第2番についでポピュラーな曲ですが、終楽章の6つの和音による決然とした終わり方は釈然としない思いが常に付きまといますが、それもそれとして聴かせきってくれたように思えます。指揮の新田さんは和音と和音の間をかなり長めにためて振っていましたが、彼女なりの想いがあるのでしょう。この不自然なまでの間が、かえって曲に一貫性を持たせたように私には感じられました。
アンコールのアンダンテ・フェスティヴォは非常に良かったですね。フェスティヴォという題名とは裏腹な静けさと清涼さ、まさにシベリウスの音楽を堪能することができました。
まあ、そういうことで、いろいろと楽しむことができた演奏会でした。えらそうにいろいろ書いてしまいましたが、本日の演奏会に至るまでには関係者の方々には並々ならぬご苦労があったと思います。ごくろうさでしたと思うとともに、今後の活躍を期待しております。
ちなみに開演を告げる鐘の音はシベリウスの作品65の「カッリオ教会の鐘の調べ」だったのですね、さすが!!
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アイノラ交響楽団 第1回演奏会
2004年2月29日(日) 14:00開演(13:30開場)
大田区民ホール アプリコ大ホール
��JR蒲田駅から徒歩3分、京急蒲田駅から徒歩7分))
指揮:新田ユリ
シベリウス/組曲「白鳥姫」 作品54
シベリウス/「歴史的情景」組曲第1番 作品25
シベリウス/交響詩「フィンランディア」 作品26
シベリウス/交響曲第5番ホ長調 作品82
��アンコール)
アンダンテ・フェスティヴォ
交響詩「フィンランディア」 作品26