2004年5月31日月曜日

サヨクを論破する理論武装?


産経新聞社の月刊誌「正論 2004年6月」は《サヨクを論破するための理論武装入門》という、ワクワクするような記事でしたので、買って読んでみました。文責は石川水穂氏、産経新聞論説委員です。


15頁ほどの記事は全部で7章に分かれており、1.自衛隊イラク派遣と集団的自衛権 2.国旗・国家問題と朝日社説 3.首相の靖国公式参拝は合憲 4.朝鮮人強制連行という歪曲 5.間違いだらけの慰安婦問題 6.南京事件の重大なうそ 7.竹島・尖閣諸島はまぎれもない日本の領土 という内容です。




集団的自衛権に関しては、『どうしても必要』であると説きますが、その理由の第一が『日本国民にとって、イラクより深刻な北朝鮮の脅威が現実化』することに危惧を抱いていることにあるようです。北朝鮮の脅威が消えたらどうなるのでしょう、新たな脅威を作るのでしょうか。


国旗・国歌問題は、ここのブログでも数度触れましたが、東京都の通達に関しての教師処分とからめて朝日新聞を批判してるのですが、産経は授業で『国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば[...]むりなく国旗に向かって起立し、国家を歌うことができるのです。[...]生徒の自主性とは何の関係もありません。』と書きます。それって、政治的プロパガンダとどう違うのでしょう。

教員には当然、国旗・国歌の指導義務』があると書きますが、「良心的行為の自由」についてはどう考えるのでしょう。そんなもの公僕には存在しませんか。


靖国神社に関しては、『戦没者慰霊の中心施設として、遺族をはじめ日本国民の崇拝を集めて』いる、靖国参拝は『遺族や国民が待ち望んでいる』と書きます。「遺族」の部分は正しいでしょうが、「国民」と書くのはいかがなものでしょう。少なくとも国民である私は、崇拝も待ち望んでもいませんが。


同じような論法は『靖国代替施設構想は遺族や多くの国民から批判』『どんな形で死んだにせよ、死者を必要以上にムチ打たないのが日本の伝統的な国民感情』などというすり替えを行っていきます。死者にムチなど打ちたくありませんが、罪については裁かれ罪を贖ってこそではないですか、単なる恩赦ではないでしょうに。それとも戦犯たちにも「受命の抗弁」が成立するのですか。


続いて首相の靖国参拝を意見とした福岡の判決について、『裁判官個人の政治的信条の吐露』でしかなく『独善的』『裁判を利用した一種の政治運動』と舌鋒鋭く批判しています。これは、「SAPIO」(小学館)に掲載されている小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言」でも同様のことが書かれており、小林氏に至っては、私的なサヨク的見解を述べたに過ぎない『暴論』であると怒りをあらわにしています。(SAPIO 5/26号)


しかし、現段階では、福岡地裁の判決の背景がどのようなものであるにせよ、靖国参拝がグレーゾーンであることに変わりはないというのが私の実感です。


朝鮮人強制連行や慰安婦、南京大虐殺に至っては、もはや根も葉もないでっち上げとする主張なのですが、例えば、


  • 「朝鮮人強制連行」は、朝鮮総連系の学者の造語

  • 徴用は法律に基づく戦時勤労員動員であり、それを「強制連行」とはいわない

  • 日本の群や警察が強制連行したことを裏付ける資料は一点もない

  • 「従軍慰安婦」という言葉は戦後の造語

  • 創氏改名の「強制」も間違い、差別もなかった

  • 南京大虐殺の「40万人」は学問的に検証された数字ではない、荒唐無稽な数字

  • 南京の人口は日本軍の攻略後もほとんど変わっておらず、10万単位の虐殺などありえない

  • 「南京大虐殺」は戦後、米国経由で東京裁判に持ち込まれた


などなど、いろいろと列挙してくださいます。自虐史観から抜け出し、自国の歴史を問い直そうという態度には、何度も述べますが敬意を払いますし、「学問的に検証」しようとする努力にも頭が下がる思いです。


しかし、私はサヨクではありませんが、残念ながら産経の主張には全く論破されませんでした。


ああそうなんだ、以前のエントリーにトラックバックしてくれた、k-tanakaさんの言葉を思い出した。


藤田の指摘から産経のつまらない主張に立ち戻って考えれば


そうだ、つまらないのだ産経の主張は、そんな暇があれば藤田省三の著作でも紐解き、天皇制とか国家について内省した方がましであると、ようやくにして気付いたよ。

佐々木幹郎:「やわらかく、壊れる」

詩人 佐々木幹郎の著書で「やわらかく、壊れる~都市の滅び方について」という本があります。その中で、昨日見てきた宮本隆司の中野刑務所に関する記述がみつかり、思わずはっとしてしまいました。中野刑務所は後藤慶ニという建築家が設計し大正4年に完成した建物です。戦前戦中は政治思想犯専用の監獄で大杉栄も中野重治もここに収監されました。

佐々木氏は愛着のあまり解体中も現場に入り8ミリカメラをまわし続けたそうです。


解体工事の現場で、よく思った。

過ぎ去ったものをもっともよく語るのは、人間だろうか。

いや、そうではない、という声がどこからともなく聞こえてきた。

人間が語るのではなく、彼を閉じ込めていた空間がもっともよく語る。しかも、その残されていた空間が壊され、地上から永遠に姿を消す寸前の、廃墟が。

実際の風景はと見れば、そんな声など聞こうともせずに、機械的かつ無味乾燥に解体と再生は続いていますがね。

奏楽堂の日曜コンサート3


今日の日本列島は各地で軒並み真夏日となったそうです。外を歩いていると熱気が体中にまとわり付く感じで、まさに夏そのもの、札幌に居たら「すわ、海へ!」と思うほどの暑さでありました。


こういう日は部屋の中で暗くDVDなぞ聴いている場合でもなく、散歩がてらに上野公園へ出かけてきました。目的はおなじみの奏楽堂の日曜コンサートです。本日は第5日曜ですから室内楽の日でして、木管五重奏と金管五重奏を楽しむことができました。




最初は木管五重奏団による演奏で、曲目は「魔笛」、美しきロスマリン(クライスラー)、ピンク・パンサー、3つの小品(イベール)というように、硬軟織り交ぜた内容でした。演奏はと言えば、アンサンブルを結成してまだ1年目ということもあってでしょうか、生意気な感想を書かせていただければ、これからの活躍を期待したいというところ。特に最初の「魔笛」は、モーツアルトって簡単なようでやっぱり難しいんだなと思わせてくれました。音が溶け合わずに聴いていて少し辛い感じ。


曲間にはホルンの笠間芙美さんによる曲目解説。笠間さんの明るいキャラクターの語りは楽しいものでしたが、少しくだけ過ぎてやしないかと年寄りじみた野暮な思いもよぎったのです。いやしかし、300円の日曜コンサートだもの、眉間に皺寄せて批評家ぶるのも可笑しなものだよなと思い直して聴く事にしました。


クライスラー(編曲もの)やイベールはフルートが中心の曲ですが、こちらは、まとまっていたかなと。梶川真歩さんのフルートの音色は少し線が細いようでしたが、クライスラーの曲では美しい旋律を聴かせてくれました。オーボエはもう少し音色を研究していただきたいところ、良いところと悪いところの差が大きすぎるかな。いやいや、生意気なことを書くつもりはないんですがね。シロウトというのは全く何も分かっていないだけに、ウルサイものなのですよ。


休憩を挟んでの金管五重奏は、木管とは打って変わって開放的な曲ばかり。I・マクドナルドのシー・スケッチに始まり、L・アンダーソンの名曲 トランペット吹きの休日、サティのジュ・トゥ・ヴ、ドビュッシーの亜麻色の乙女、ムーンライト・セレナーデ、「天国と地獄」という具合。金五の方が迫力で押せるせいか、アンサンブルとしてのまとまりはあったように思えました。ただ、どうしてもブラス的な雰囲気になってしまうので、ちょっと私には苦手ではあります。それでも、サティの演奏は全体を通して今日の一番ではなかったでしょうか。


あと、アンサンブルにおける「発音」の大切さというのもよく分かりました。あるパートが「甘く」なってしまうと全体が崩れてしまうんですね。批評家ぶるつもりは毛頭ありませんので、単なる感想なのですが、今までに聴いた2回(これこれ)のレベルが高かっただけにですね、ぶつぶつ書いただけです。


そうそう、笠間さんがしきりに宣伝していましたが、今年9月の芸大祭では3年生による「魔笛」全曲を演奏するのだそうです。これはかなり楽しみですね。木管五重奏団は「ごもくごはん」というグループ名だそうで、もしかすると芸大祭で演奏できるかもしれないとか、頑張ってくださいね、期待してまっせ!

2004年5月30日日曜日

プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》









  • 指揮:ジェイムズ・レヴァイン

  • 演奏:メトロポリタン歌劇場管弦楽団

  • 演出:フランコ・ゼフィレッリ

  • トゥーランドット姫:エヴァ・マルトン

  • 皇帝アルトゥム:ユグ・キュエノー

  • ティムール:ポール・プリシュカ

  • カラフ:プラシド・ドミンゴ

  • リュー:レオーナ・ミッチェル

  • DG UCBG-9012




オペラには疎いので、プッチーニの最後の名作「トゥーランドット」も、名前だけは知っていますが筋も音楽も全くの予備知識がありません。それでもDVDによる132分のメトロポリタンでの絢爛豪華な舞台を見終わった後は、深い感動の嵐に包まれてしまい、聴衆の怒号のようなカーテンコールに合わせて思わず足踏みをしてしまいました。



オペラには疎いので、プッチーニの最後の名作「トゥーランドット」も、名前だけは知っていますが筋も音楽も全くの予備知識がありません。それでもDVDによる132分のメトロポリタンでの絢爛豪華な舞台を見終わった後は、深い感動の嵐に包まれてしまい、聴衆の怒号のようなカーテンコールに合わせて思わず足踏みをしてしまいました。


演奏はレヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団が、カラフ役にはドミンゴ、トゥーランドットにはエヴァ・マルトンが配されており、1987年のメトロポリタン歌劇場でのライヴ映像です。歌手陣も豪華ですが、演出がゼフィレッリですから、贅沢極まりない舞台であったと思います。


さて、そんな中で私が最も心を動かされたのは、リュ-という奴隷役のミッチェルでしょうか。密かにカラフ王子を慕うリューが、捨て身となって王子への献身を歌い身を捧げる第3幕は全く見事で、この場面の彼女の歌唱なしではラストに向けての感動はないのではないかと思えるほどです。ステロタイプな筋立てだなあと理性では思うものの情の方が動かされてしまってどうにもなりません。ああ、はかなげなリューよ、そして、そんなにまでしてトゥーランドットを欲するカラフという男の愚かさよと、ハンカチをくしゃくしゃにしながら見入ってしまいます。


トゥーランドット役のマルトンについては、氷のような冷たく残虐な女王というイメージとは若干のずれがあって、特に第2幕でカラフ王子に謎解きを迫るシーンでは、小林幸子のような衣装と演出がコミカルすぎて、ちょっと鼻白む思いであったことは否定できません。しかし第3幕以降、リューが身を呈してカラフの謎を守ってからのトゥーランドットは、揺れ動く心理と溶けてゆく非情さの表現が実に見事で、ドミンゴの歌唱力との相乗効果から、全く持って感動的なフィナーレを魅せてくれました。クライマックスでトゥーランドットが「約束の朝、私は彼の名前を知りました」と高らかに告げるシーンなど、もはや涙ものでございます。


ドミンゴが素晴らしいことは今更書くまでもないですし、ソロで朗々と歌う歌唱力は惚れ惚れするのですが、どうしてでしょう、全体的なオペラを見終わった印象としてはドミンゴの占める比重が低いのですよね。むしろ、ピン、ポン、パンの三大臣などの方が印象的であったりします。全体に、ワーグナーのオペラでもそうですが、オペラの中の男というのが、どうもだらしないというか、子供じみた感情に支配されているように思えてしまうからでしょうか。


それにしても人間の歌唱力の凄まじさには息を呑むばかりです。ゼフィレッリ演出の舞台装置は、まさに絢爛豪華でニューヨークの目の肥えた観客でも度肝を抜くようなものであることはDVDであっても分かりますが、やはりメインは音楽であり歌唱にあることは当然といえば当然でしょう。合唱も加わった重唱を聴いていると、余りの素晴らしさに体が発汗しまいました。


というわけで、「トゥーランドット」初見にも関わらず、すっかりと虜になってしまったという、またしても直情的なレビュでした。

展覧会:宮本隆司写真展

砧公園内にある世田谷美術館で宮本隆司氏の初期から最新作まで集めた包括的写真展が開催されていると知り、早速行って来ました。


宮本氏は1986年、まさにバブルが始まろうとする頃に<建築の黙示録>という、近代建築の解体現場の写真を世に問い、強烈なインパクトを与えてくれました。チケットの写真は、その写真集の中の余りにも有名な《ベルリン大劇場》です。


宮本氏の写真は、ちょうど私がカメラや写真に興味を持っていた頃とラップしており、また私の生業が建築に携わるものであるため、当時から注目していた写真家です。最近の廃墟ブームなどとの関連において、宮本氏の写真についても考えが及ぶこともあり、そういうもろもろの意味から展覧会には期待を抱いておりました。




宮本氏の写真を語る上で避けて通れないのが<建築の黙示録>で示された廃墟的イメージにあることは論を待たないのですが、それに続く<九龍城砦>や<アンコール>などの写真群を眺めていると、いわゆる皮相的な廃墟美に留まらないメッセージ性を強く感じることができました。


確かに宮本氏の細部にまでピントの合った廃墟写真は、光と影のコントラスト、作品全体を支配する静謐性とともに独特の美意識に貫かれているため、廃墟写真家の先駆者としてもてはやされたり、あるいは<九龍城砦>に示されるアジア的都市像が、映像作家などに与えたであろう影響についても想像はできるのですが、それだけを宮本写真の真髄と考えることはできないようであることを、おぼろげに感知できました。


解体中の建築物という無機的なものを扱っていながら、彼の写真が極めて有機的に見えるのは不思議なことです。それは本来晒すべきではなかった内実が、解体現場において白日の下に露呈し、声無き軋み声を上げているのを写真を通して聞くからでありましょうか、あるいは<アンコール>に見られるように、無機的な遺跡の表面を滴り這い回る植物の逞しき生命力に慄くからでしょうか。


彼の写真に貫かれているテーマについて私が感じたキーワードは「表と裏」「光と陰」「解体と再生」「無機と有機」「実像と陰画」「喧騒と静寂」、ひいては「死と生命力」という相反するイメージです。これらのキーワードから宮本氏の写真史を読み解くならば、彼が写真媒体というものを自覚的に選択し、カメラのもつメタファー的イメージをも写真のテーマにしていること、さらには彼のコンセプトそのものを具現化した昨今のピンホールカメラに至った経緯や、ヴェネツィアの街を上下反転させた定点カメラで撮影した実験的ビデオ作品の意味も分かってくるように思えるのです。


写真展のパンフレットにある「壊れゆくもの・生まれいずるもの」という副題は、さすがに彼の写真を語る上で適切であると思うのですが、では彼が期待した「生まれいずるもの」が何であったのか、「壊れゆくもの」に彼はノスタルジーと哀愁を感じているのか、という点は私の中で未だ疑問として残っています。



��ダンボールの家>というホームレスの住宅を撮影した一連の写真も象徴的です。宮本氏はもともと建築写真家として出発したのですが、その彼が解体写真を経て、世の中で最底辺と言ってもいいようなダンボールハウスを撮影しているのはどういうことなのでしょうか。写真から私が感じるのは、建築としての意味とか形態といものよりも、都市のどこにでも「生えてくる」植物のような逞しき生命力です。


ただしここでも彼の写真は錯視を及ぼすほどに、これらホームレスの家が、本来は喧騒の都市の中にあり、周囲には悪臭を放っているであろうに、写真世界は極めて静謐であり無臭であり、そしてそれ故に現実から隔離されているように見えることには注意しなくてはならないかもしれません。そして、彼が解体現場で何かの喪失を暗示した末が、現代の東京に出現しているモダニズムの極地のような建築群にはなく、ダンボールハウスに向かったことは興味深いことであると思います。


最後に展示されていたピンホールカメラに至っては私は仰天の域に達しました。上下反転した巨大な青色の世界は到底この世の世界であるとは思えず、世界の裏側からこの世を見たような凄みに満ちています。ピンホールカメラとは、すなわち大きな箱を作ってその中で直接印画紙に焼き付けるという、写真の原点に戻ったような所作をして出来上がったものですが、行為そのものが作品として現れていることには驚かざるを得ません。


彼の写真世界を支配している静謐性は宗教的な意味合いさえ帯びてきて、ありふれた景色が、あたかもこの世を反転した蜃気楼のように思えてくるのでした。


そうして思いを巡らすと、成る程と思うのは、写真展のはじめに展示してあった<神戸 1995>の地震によって倒壊した巨大な写真です。これはほぼ実物大の大きさの写真を、短冊状に切り裂き展示しているのですが、作為的な展示の仕方によって、写真はバーチャルなリアリティを喪失させられ、写真と私の居るところの間には決然とした境界が設けられているのです。まさに写真を知り尽くした写真家の成せる技といえるかも知れません。

2004年5月29日土曜日

ラウタヴァーラ:ピアノ協奏曲 第1番


ラウタヴァーラのピアノ協奏曲第1番(1972年)を聴いてみましたが、これも非常に面白い曲で結構気に入ってしまいました。


情念とロマンと現代性が渾然となったような味わいのある骨太の曲です。ただしご家庭で大音量で聴いていると慣れない方からは苦情が来るかもしれませんが(笑)




この協奏曲は作曲家自身の非常に個人的な作品であるらしく、初演も作曲家自身が行ったそうです。ラウタヴァーラ自身の解説によると作品には以下のような意図が込められているそうです。


I was diappointed at that time with the strict academic structuring of serialist music and the ascetic mainstream style of piano music, which I found anaemic. In the concerto, therefore, I returuned to the aesthetics of expressiveness and a sonorous, 'ground-style' keybord techique.


ラウタヴァーラの音楽に対する考え方が端的に表されていますし、1972年に作曲されていながら「ポストモダン的」と言われることにも、成る程と合点がいったりします。それにしても、このような音楽がフィンランドで生まれるとは、フィンランドの音楽的土壌の深さに驚いてしまいます。


曲はといえば、第一楽章冒頭の叩き付けるような破壊的にしてほとんど苦痛さえ伴うような音響と不協和音、それに被さるアルペジオにまず慄然し、一方で堂々たる音楽的骨格には畏敬の念を覚え、たった数秒間でラウタヴァーラの世界に引きずり込まれてしまいます。中間部のピアノソロは鉛色の美しさに鈍く輝いており、曲の持つ男性的かつ硬質な正確を際立たせています。


第二楽章ではゆったりとした音楽から寂寞とした叙情性溢れる音楽に心を休め、続く現代音楽的なカデンツァでは事の成り行きに唖然としながらも、神経を集中して聴き入り、休止なく突入する第3楽章ではちょっと俗っぽく性急なリズムと旋律ではないかとは思うものの、また臆面もないフィナーレには少々鼻白む思いもないわけではありませんが、体は勝手に拍子を打ち前のめりに走り出しています。


それにしても、この劇的なまでの荒々しい激流に身を委ねることの心地よさ、確実に癒しになっているから不思議です。


このような曲を演奏しているのが、ラウラ・ミッコラという女性ピアニストだというのですから、これまた驚いてしまいます。彼女は1974年フィンランド生まれのピアニストで、つい最近来日し東京で演奏会を開催したそうです。


●ピアノ協奏曲 第1番 Op.45

演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団、録音:1997年8月 グラスゴー、ヘンリー・ウッド・ホール、NAXOS 8.554147

2004年5月26日水曜日

イラク人質虐待の捏造

英国の大衆紙デーリー・ミラーに掲載された英兵によるイラク人虐待写真が捏造であったと報じられたのは14日のことでした。それ以来、捏造事実と未だに続く虐待報道がどのような連関で語られるのか時々気にしているのですが、どうもよく分りませんね。



17日産経新聞の産経抄は、米国のボストン・グローブ紙の捏造についても言及し、


同紙は反ブッシュ政権色が強い新聞として知られる。イラク戦争批判に利用しようとするあまり、偽写真に飛びついたようだ。

と書いています。マスコミ報道については、政治的プロパガンダを含め注意しなくてはならないという警告であるとして読みましたが、その同じ紙面で産経は以下のようなプロパガンダを展開するのですよね。


こうした捏造・誤報といえばどうしても、昭和十二年の南京攻略戦での「百人斬り」報道を思い浮かべる。日本軍の将校二人が日本刀で殺人競争を行ったと東京日日新聞(現毎日新聞)が報じた。荒唐無稽な話し(であるのに)戦後になって、真実顔をしてひとり歩きし、歴史の副教材になるなど「自虐史観」のよりどころになっているのだ。


南京大虐殺はなかった、デタラメ、中国のでっち上げと、それを真に受けた一部のマスコミのせいとする一派の学術的調査による成果として、よく引き合いに出されるエピソードです。真実は知りたいと思うものの、もとより私にはどちらが正しいか分りませんし、深く追求したいとも思いません。


とにかくマスコミは注意しなくてはならないことは、改めて分りましたが、先に戻ってイラクの人質虐待はどういうふうに展開してゆくのでしょうね、というか戦後イラクそのものが、ひいては世界の勢力関係がですが。

2004年5月25日火曜日

相変わらずクラクラする産経新聞

産経新聞の主張や産経抄は、ときどき眩暈がするような文章が掲載されていて、楽しませてくれるのですが、今日の産経抄も絶品と言えるのではないでしょうか。


来春から小学校音楽教科書に十三の唱歌や童謡が復活することを受けて、『もうひとつどうしても入れてほしかった曲がある。この時期に季節はずれかもしれないが「冬の夜」という唱歌だ。』としてその歌詞を紹介してます。



産経が是非入れて欲しかった理由を表す歌詞は、二番にあり


▼「囲炉裏の端に縄なう父は 過ぎしいくさの手柄を語る 居並ぶ子どもは ねむさ忘れて 耳を傾けこぶしを握る」。恐らく日露戦のことだろうか。父親が自らの「歴史」を語ることによって、子供たちとの絆(きずな)を確かめ合っていたことがよくわかるからだ。

だと書いています。今回の拉致被害者家族の帰国と絡めて、


親と子が囲炉裏を囲むように互いの苦難の歴史を語り合ってもらいたい。真の家族の絆をとりもどしてほしいのである。

と主張するのですが、私には違和感しか感じません。戦争体験を語り継ぐことは重要ですし、風化させてはならないものですが、日露戦争まで持ち出し『過ぎしいくさの手柄を語る』ことを奨励するのは、私などいかがかと思うのですが、自らの歴史が間違っていなかったと主張する産経にとっては、悲願のことなのでしょう。


自虐史観に反対する人の主張は、私とてその気持ちを分らないのでもないですが、どうしても裏に日本の絶対的優位さと日本の正しさ、中国、韓国、アジア諸国に対する不信と蔑視が透けて見えてしまいます。例えそれらの諸国が不正と不義だらけの嘘で塗り固められた非人道的政権であったとしても、取るべき態度は産経的主張ではないのではないかと思うのです。


国の歴史というのは、一致していれば幸せですが、得てして相対的なもののはずです。日本の観点からは仮に解放戦争であっても、世界の観点からは依然として侵略戦争として裁かれました。それを覆すことは、いくら右派の方々が歴史的根拠を持ち出しても、変わらないし、日本はそこから出発すべきではないのではないかと思うのです。


今回のイラク侵攻にしても、それ以前の米英の中東戦略であっても同様でしょうに。その前提あっての外交や対話ではないかなと、思うのですが・・・


翻って日本は世界の中で経済的に豊かな国ですが、本当に他国から見て「幸せな国」でしょうか。帰国された子供たちが心の底から帰ってきて良かったと思える世界一の国でありますように願ってやみませぬ。

また札響ネタですが・・・

Mostly Classicの5月21日の記事によりますと、札響に『3年ぶりに事務局長』が就任するそうですね。『大阪フィルハーモニー交響楽団の元事務局長で、音楽プロデューサーの宮沢敏夫氏(60)』という方で、元コントラバス奏者だそうです。


音楽監督に事務局長ですか、着々と体制の強化を図っているようで、何よりです。(というか、札響って記事になること多くないですか? 私がタマタマ目にしているだけでしょうか)

橋本治:上司は思いつきでものを言う

橋本治氏といえば「桃尻娘」や「窯変源氏物語」などが思い浮かびますが、軽い語り口とは裏腹に、なかなかに鋭い視点を持った作家であると思っています。


何しろ本のタイトルが秀逸です。著者の橋本氏も自ら書いているように、思わず手にとってしまいます。『○×の壁』とか言う題名のベストセラーに幻惑され、読んで更に幻滅されている方も多いかもしれませんが、この本は裏切らないと思います(多分)。


結論は単純ですし、結構当たり前なんですが、いろいろと考えさえてくれました。上司の「思いつきを」また自分の「思いつき」を支える土台を考える余裕がでましたし、今の自分の会社の中でのスタンスまで炙りだしてくれました。




それにしても、全くたまったものではありませんよね、上司というのはその地位が偉くなればなるほど思いつきでものを言って部下を困らせたり、果ての無い残業へと導いてくれます。ぜんたい、今の今まで私が説明してきたことを、少しでも理解するアタマがあるなら、たとえ反対意見であったとしても、そんな物言いにはならないはずなのですが、貴方(上司)は私の言っていることを本当にきちんと聞いていたのですか、あるいは、私の言うことが分からないほどに、もうボケておしまいになられたのですか。私の説明と貴方の指示に本質的な差異は見当たらないのですが。


そう思った矢先から、今度は私が部下に対して、思い煩ったようなそぶりを見せながら、同じように思いつきで指示をしてしまいます。それが上司から受け継いだ作法でもあるかのように、自分の憤懣などはあっちへ置いておいてです。


かように、理不尽にして茶番のようなサラリーマン生活を味わったことがある方ならば、どうして「上司は思いつきでものを言うのか」ということに対し、驚くような観点から説明してくれているこの本は、きっと面白いものであると思います。何故って、上司が思いつきでものを言える状況を出現させない方法などない、とこの本では断言しているのですから。


この空恐ろしくなる状況を作り出しているサラリーマン社会、あるいは会社というシステムを、何と儒教や民主主義まで持ち出してきて、飛鳥時代の日本から紐解いて説明しまうその、奇想天外さと鋭さ。しかし、どこのページを読み返しても、なるほどなるほどと深く頷いてしまいます。


まあ、儒教や民主主義はさておいても、日本の会社が官僚的に大きくなりすぎてしまい、現場から離れている人間(上司)が多すぎるという状況は直感的に理解できるものですし、官僚が日本を会社と見た場合の総務部であるとする説など、思わず膝を打ってしまいました。


橋本氏は「思いつきでものを言う上司」が溢れる状況に対し、これまた唖然とする提言をしますが、決して悲観的ではなく、確かにもう一度原点に戻って考えることも必要かななどと「ちょっと考えて」みたりするのでした。

2004年5月22日土曜日

立川のビラ配りの件2


イラク自衛隊派遣に反対するビラを配った市民団体「立川自衛隊監視テント村」が住居侵入の罪に問われたことを以前書きましたが、5月11日にやっと八王子拘置所から保釈されたのですね。(22日 朝日新聞記事


これに対し朝日新聞は22日社説で『長期勾留――ビラ配りで75日とは』と題して『ただごとではない』と批判しています。




朝日は人権派新聞ですから


人権擁護団体のアムネスティ・インターナショナルは、3月半ば、「憲法や国際法で保障された表現の自由を侵害された」と、3人を「良心の囚人」と認定した。国内では初めてのことだ。

と書き、


同時に、違った考えや価値観を持つ人々を力で押さえ付けるような社会でいいのだろうか。民主主義を支える柱、司法の質が問われている。

というぐあいに、かように不当に拘留されたことを人権や権利について焦点を絞って論旨をまとめています。


しかし、朝日の論調からは彼らの思想的背景や日常の活動は浮かび上がってきません。「思想的背景」というのは、イラク人質事件でも一部のメディア話題にされ、私は複雑な思いを抱きましたが、ある判断をする上で両刃の刃のような側面を持つように思えます。すなわち個人の言動に横たわる思想信条に関し偏見を生むおそれもあり、慎重にならねばならないと思うのですが、それでも朝日新聞紙面からは彼らの活動が浮かび上がって来ないことは、朝日新聞というメディアの限界なのでしょうか。


従って、「ビラ配りだけ」で75日も拘束という異常事態に対して人権面のみからしか説明しない点には大いに不満があるのですが、一方で私個人としては、公安当局もやりすぎなのではないかという気もしており、最近の政府の動きと絡めると(例えばこういう)、そぞろ薄ら寒くなるのも事実で、引き続き公判の成り行きなど(仕事が爆発しなれば)興味があるところです。

2004年5月20日木曜日

札響借金解消へ

Yahoo Newsを読んでいましたら、またしても札幌交響楽団の借金についての記事がありました。


借入金を全額返済、「運営基金」取り崩しへ--札幌交響楽団 /北海道』という見出しでして、5億6千万円に達する借金を返済するために、8億2千万円ある「運営基金」を取り崩すというものです。



記事によりますと「運営基金」は、札響の財政基盤の強化の目的で、道と札幌市など道内209市町村と民間企業が寄付したものだそうです。銀行が借金棒引きしてくれないので、苦肉の策であるのだとか。


��002年に札響の経営危機が囁かれてから、何とかここまで持ち直せたことには関係者の方々の尽力とご理解があったろうことが推察され、一地方クラシックファンとしてはうれしい限りです。


東京に居ますと在日オケは潤沢で贅沢な状況ですが、地方は「それしかない」わけですし、地方の音楽レベルの維持とか向上とか指導的役割とか、そういうことも期待したりしますが、それよりもなによりもオケのない地方都市はすごく寂しいものだと単純に思っていますので、このまま『改革の総仕上げ』を成就させていただきたいと、心より願う次第です。

2004年5月18日火曜日

年金ドミノ


年金加入に関する未納・未加入問題が「年金ドミノ」となって政治的混乱と政治不信を招いています。未納・未加入問題が本来の議論とかけ離れたものになりつつあるため、本来の年金改革という議論が出来ないことこそ問題という論調が出るのも当然です。


ただし、ここまでこじれてしまったのは政治家の認識の甘さと、それをセンセーショナルに報道し続けてたマスコミの態度にあるわけでして、どちらも「落とし前」は付けてもらいたいものです。




年金制度の是非云々よりも、もはやぬぐいがたいほどの年金不信と政治不信、政治家不信を招いた議員たちが、果たしてこのまま国民の代表であるなどと言い続ける事ができるのでしょうか、というより、議員というのは日本の「どこの」代表であるのかということさえ、茫洋としてしまったわけです。何故なら、サラリーマンの私とは意識の点でも同じ土俵にいないことが又しても明らかになってしまったのですから。


茶番と泥仕合を見せられた国民は、怒ることも諦めることもできずに、希望も期待も政治に見出せない状況なのに、それに拘泥することで、その先に何か建設的な議論が始まるのでしょうか。


産経新聞は18日の社説(主張)で、


首相は年金未加入問題で同じように政治責任を取るべきではないだろう。最大野党の代表と一国の宰相との責任の重みは比べるべくもなく、別個のものだからだ。


とし、小沢氏のような責任の取り方について否定的です。むしろ『本来の課題に議論戻そう』として、年金改革法案の廃案を含め、具体的な検討を進めるべきとしています。

朝日新聞は、同日の社説で、


いま求められているのは、国会議員の未納・未加入の全容を示し、そのうえで悪質な議員は責任を明らかにすることだ。こうしたミスが起きないようにする仕組み作りも喫緊の課題である。


としています。どちらも是なのですが、私には脱力感だけしかありません。どうしてくれるんですか、この「脱力感」を。

2004年5月17日月曜日

チェンバリストの脇田英里子さんについて

チェンバリストの脇田英里子さんの情報がネットで見つかりましたので補足しておきます。



アカンサスチェンバプレイヤーズのコンサート案内より


都立芸術高校ピアノ科を卒業。ピアノを砂原悟氏に師事。在学中よりチェンバロに関心をもち、鈴木雅明氏の指導を受ける。

1998年東京芸術大学チェンバロ科入学。伊藤謝恩育英財団より奨学金を得る。1999年夏、ベルギーにてR・コーネン氏の講習を受ける。2000年夏にはアントワープの楽器博物館にて行われたジョス・ファン・インマゼール氏のオリジナル楽器による講習会を受講、奨学金を得る。

2001年学内にて安宅賞受賞。また、2001年度アカンサス音楽賞、同声会新人賞受賞、新人演奏会出演。現在、東京芸術大学大学院音楽研究科修士課程に在学中。

アカンサスチェンバプレイヤーズとは東京芸術大学のバッハ・カンタータ・クラブ所属の若手メンバーによるグループだそうです。あずみ野では行かれませんなあ・・・


また別なサイトでは、『(2001年)東京文化会館の大ホールでヘンデルの『メサイア』全曲のチェンバロ演奏を担当したほどの演奏家』という紹介がありました。なるほど、もはや実力者なのですね。

展覧会:空海と高野山展


東京奥率博物館で開催されていた「弘法大師入唐1200年記念 空海と高野山」展を観てきました。さすがに展示内容は前評判に違わず、国宝と重要文化財のオンパレードでありまして、観ておいて良かったと思える内容でした。

チケットの仏像はともに運慶作の八大童子立像のうち「制多伽童子」(右)と「恵光童子」(左)、そのほかにも四天王立像など運慶系の木像群は圧巻の一語に尽き、空間を制する圧倒的な存在感にはただ畏敬の念を覚えるのみ、心底凄まじき木彫芸術の極みでありました。

派手な木像のほかにも、両界曼荼羅や大日如来、不動明王像などの絵をはじめ、独鈷、三鈷、五鈷杵などの密教仏具、写経経典など、高野山の秘宝をこれでもかというくらいに展示してあり、密教美術に繋がる奥の深さと精神世界の広がりに圧倒される思いでした。



等身大以上の仏像以上に驚いたのが、「諸尊仏龕」(国宝:高野山三大秘宝)や「文殊菩薩及び使者像」などの精緻な木彫彫刻です。その高度な技術と造形美には、もはや感嘆という言葉さえ陳腐であり、信仰心などなくとも敬虔な気持ちになってしまいました。

地味ではありますが、多くの写経本が展示されていましたが、これらも興味深いものでした。国宝である「細字金光明最勝王経」の、まるで印刷活字かと思われるような教典や、これまた国宝の「法華経 巻第六(色紙)」という、緑や紫などの色紙に金銀の揉箔を散りばめた平安時代の代表的な色紙経など、経典としての価値とともに芸術的美しさにおいて溜息が出るばかりです。真言密教の秘伝書とも言える「五部心観」(仏尊、印相、真言などを書き並べた図録)なども展示されており、密教美術がお好きな方にはたまらない内容であったと思います。

かように、なにしろとにかく、どこを見ても国宝と重文ですから、いちいち解説していてはキリがありません。小雨交じりの天気にも関わらず、最終日というだけあり物凄い人出で、最初は経典や仏具など全く拝むことができませんでした。

中にはテレスコープを持ってきて細部を見入っている方や、仏像の前で印を組む人、経典を読み始める人など、通常の展覧会とは一味も違いまして、全て観るのに随分と時間がかかってしまいましたが、それでも行った甲斐はあったというものです。

奏楽堂の日曜コンサート2



上野に出かけたついでに奏楽堂の日曜コンサートを聴いてきました。今日はチェンバロが演奏される日になっており、演奏者は東京藝術大学の学生である脇田英里子さん、選曲はバッハとスカルラッティでした。


以前の日曜コンサートでは脇田さんのチェンバロが1曲しか聴けなく「ちょっとこれは物足りなく」と書きましたが、今日はしっかりソロを聴くことができ、やっと満足できたというところです。




最初の演奏はJ.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲第1巻より第1番ハ長調、第2番ハ短調です。ピアノを習った人でなくとも、グノーが後に「アベ・マリア」に編曲したことでも有名な曲ですので、聴き覚えはある曲でしょう。しかし、生のチェンバロで奏でられる平均律というのはまた格別というか別格でして、予期せぬ以上の感動を覚えてしまいました。適度に響くホールの中で、静かでありながら激しい美しさに包まれることの、これ以上の至福があろうかという感じです。


続いてはD.スカルラッティのソナタK.24です。スカルラッティといえばホロヴィッツが有名ですが、こちらもピアノで聴くのとチェンバロで聴くのでは大違いですね。スカルラッティはバッハと同時代を生きていながらもイタリア人ですから、音楽の飛翔するところや歌うところがバッハとは趣が全然異なります。その闊達さが、時に凄みとなって聴くものを圧倒するのですが、脇田さんのチェンバロは軽やかさと快活さ、そして凄さの両面を適度に振幅しながら、スカルラッティの曲の面白さを十分に伝えてくれたと思います。


最後はJ.S.バッハのフランス組曲より第5番でしたが、これもなかなかのもの。平均律を聴いていても思いましたが、ふとパイプ・オルガンを聴いているのではないかと思う瞬間があります。チェンバロというのは楽器の性質上、強弱がつけられないので色々と工夫することで変化を付けるらしいのですが、音を重層的に重ねてゆくことで、音の粒立ちが幾重にも重なり、パイプオルガン的な響きとして聴こえるようです。もっとも素人的なその場しのぎの考えですから、実際のところはどうなのでしょう。


蛇足ですが、今日の脇田さんは紫色の落ち着いたシンプルなロングドレスをまとっておりまして、シックな雰囲気でありました。機会があればスカルラッティ集やフレスコバルディ、クープランなど色々な曲を聴かせてもらいたいと思ったのでありました。


��0分300円のミニ演奏会ですが、一服の清涼剤として聴かれるには贅沢すぎる内容であると思いますよ。

2004年5月16日日曜日

札響音楽監督に尾高さん

Mostly Classicの記事を読んで知りましたが、今年5月から札幌交響楽団の音楽監督に尾高さんが就任したらしいですね。


札響のチェロ奏者である荒木さんのページでもそのことが記載されていました。


実を言うと、私は「音楽監督」がいるとオーケストラがどう変わるのか全く理解しておりませんが(>ボケ!)、尾高さんの札響メンバーからの評判は良いようですから、これからますます飛躍するとよいですね。

ラウタヴァーラ:Cantus Arcticus












ラウタヴァーラという名前は、音楽関係の知り合いから教えていただいきました。現代フィンランドを代表する作曲家で最近では人気も知名度も上がってきているそうです。ケイタイの着メロにラウタヴァーラの曲があることには驚きました。


NAXOSでいくつかの録音があるらしいので試しに買って聴いてみました。




最初の曲は「カントゥス・アークティクス(鳥とオーケストラのための協奏曲)Op.61」というものでしたが、のっけから私は音楽に打ちのめされてしまいました。「沼」「メランコリー」「白鳥の渡り」という三楽章形式の音楽で、題名の通りオウル地方で採取した鳥の声のテープ録音とオーケストラを重ね合わせたものです。


現代音楽に分類されてはいますが、いわゆる難解系の音楽ではなく、凄まじいまでの感性が充満しています。冒頭の二本のフルートに導かれて現れた鳥の鳴き声に、最初は「これはノイズか?」と一瞬戸惑いましたが、それが重要な音楽の一部であることをすぐに了承してしまいます。

一体これは何なのでしょう、鳥の鳴き声は単なる効果音ではなく、音楽の一部となって「オーケストラのうねるような極大スケール」の音響世界と信じられないほどの調和を聴かせてくれます。清冽にして雄大な自然の中に放り込まれたときのような自失してしまう類の美しさです。


「白鳥」は圧巻であり、俗世のうざったさを全て洗い流してゆくようで、ラストに至っては不覚にも落涙を禁じることができませんでした。




●カントゥス・アークティクス(鳥とオーケストラのための協奏曲)Op.61


演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団、録音:1997年8月 グラスゴー、ヘンリー・ウッド・ホール、NAXOS 8.554147

2004年5月15日土曜日

ベネット/ヘンデル:フルートソナタ集












��・ベネットによるヘンデルのフルートソナタ集です。ベネットはギリス出身のフルート界を代表する名手です。かなり以前ですが、実演にも何度か接したことがあり「端正」とも表現される演奏スタイルにいたく感銘を受けたものです。


このヘンデルのソナタ集も、独特の深みのある音色と教科書のような正確さで淡々と演奏されています。




ベネットはM・モイーズやランパル、J・ギルバートなどに師事しており、いわゆる正統派の演奏家ということになるのでしょうか。先ほど「端正」という表現を使いましたが、音色にもクセやいやらしいところが無く、また音楽の解釈においてもあざとさなどを感じることは全くありません。


音色も明るく柔らかなでありながら、どこかコクのある響きです。「明るい」と言っても、楽天的な華やかさよりも明晰さを感じる方向で、どこか「教授」とでも評したくなる雰囲気があります。さぞかし実生活においては超真面目人か変人であるのではないかと想像しているのですが実際はどうなのでしょう。


さて、そのようなベネットですから演奏には文句の付けるところなどどこにもないのですが、何か物足りないと感じてしまうことも認めざるを得ません。それでも繰り返し演奏を聴いていると、抑制された表現の中に秘められたものが閃くように現れる瞬間があり、静かな感興を覚えることができます。


そういうわけで、こういう盤を聴いていると、フルートでも練習せねばという義務感だけは湧き上がってはきます。そういえばこの曲集の中のソナタ ホ短調でも吹いてみるかなとか・・・



●ソナタ イ短調 HWV374《ハレ・ソナタ》第1番●ソナタ ホ短調 HWV375《ハレ・ソナタ》第2番●ソナタ ロ短調 HWV376《ハレ・ソナタ》第3番●ソナタ ホ短調 HWV379(作品1の1a)●ソナタ ニ長調 HWV378


フルート:ウィリアム・ベネット、チェンバロ:ニコラス・クレーマー、チェロ:デニス・ヴィゲイ、演奏:アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ室内アンサンブル、録音:1981年1月 ロンドン、PHILIPS UCCP-9443

2004年5月10日月曜日

フレスコバルディ:オルガン名曲集











トン・コープマンの演奏でフレスコバルディ(1583-1643)のオルガン曲集を聴いています。


ジローラモ・フレスコバルディは北イタリアのフェッラーラーに生まれ、初期のバロック音楽に多大な影響を与えた作曲家です。





フレスコバルディ公爵家は、中世から800年近くにわたって政治、経済、文化にも大きな影響を与えて音楽家以外にも多くの著名人を輩出しています。現在ではヨーロッパ最大級のワイン生産業者として、あるいは高品質なオリーブオイルの生産業者として知られているのだそうです。


そんな由緒正しいフレスコバルディの音楽ですが、イタリア人という性格のせいなのか、バッハのオルガン曲のような堅苦しさなどは余り無く、自由奔放な明るい雰囲気が漂っています。いや明るさはコープマンの性格によるものなのかもしれません。


特にトッカータ集第2巻からの曲が良いですね。大音量でオルガンの響きに浸っていると、俗世のどうでもよいような些細なことなど忘れてしまい、黄金に輝く明るく清らかな楽しい場所に連れてゆかれるような満ち足りた気分になれますです(ちょっとアブナイ)。


フィオーリ・ムジカーリはバッハもこの曲集を写譜するなどして対位法の技法を学んだそうです。私はこの曲を聴いても対位法の何たるかさえ理解できないところは相変わらずなのですが、オルガンの多彩にして変化に富んだ音色に魅せられてしまい、よき睡眠に陥ることができますです。


このCDは、ERATOからの国内盤ですが1000円なんですよ。極楽の道にはお買い得かと。



●トッカータ集 第2巻より●フィオーリ・ムジカーリより


オルガン:トン・コープマン(サン・ベルナルディーノ大聖堂の歴史的オルガン、1726年製)、録音:1993年9月、イタリア、ラクィラ

2004年5月8日土曜日

福田官房長官が辞任ですか

週間文春の『福田長官独占告白「本当は8年間払っていません」』という記事を受けて勝谷誠彦の××な日々。より。


正午前のニュースで各局は福田辞任の原因が文春のスクープであるとどこも触れなかった。官邸の記者クラブが知らないわけはない。連休の間遊びほうけていて抜かれたスクープくらいきちんと初出メディアを明記しろ。


だそうです。


自動車大企業のトップが捕まり半数近くが脱法者である国会議員が傷を舐めあって国民の年金をしゃぶる法案を通すという風景はこの国の上層部にいるほとんどが犯罪者であるというフルフォード氏の「クレプトクラシー(泥棒国家)史観」の具現化そのものと言っていい。


とも書いています。脱力でコメントする気力もなし。こちらもどうぞ。

2004年5月6日木曜日

クラクラする産経新聞


私は普段は新聞(ペーパー)はあまり真面目に読んでおりませんでして、大手新聞の社説とコラム、それに電子新聞サイトの主要記事だけをざっと眺めるという乱暴なことをしております。社説など滅多に読まない(読みたくない)という方は多いのですが、クラシックサイトの擬藤岡屋日記で『最近の「産経新聞」の主張(社説)は面白い。[...]面白すぎて、頭がクラクラする。というエントリーが目に止まりました。私もこの頃産経のオモシロさにクラクラしておりましたので。




もっとも私は産経批判をするほどに思想的でも知識が豊富でもありませんので気分や感想でしかないのですが、それでも5月2日の産経新聞の憲法改正に関する社説(主張)で


フジテレビ「報道2001」による二月二十六日調査は「改正すべきだ」が65%を示した。最近の各種世論調査はそろって改正派が多数を占め、国民の認識の深まりを反映している。


と書いているのを読むと、私の感覚は少数派意見なのかと思たりしてしまいます。産経新聞はサッカーW杯予選などで若者が日の丸や君が代を歌う様を『社会が成熟してきた証』とか書いたりもします。産経にしてみると、世の中の趨勢は産経にありというところなのでしょうが、どうしても私の感覚とずれているなあと。


では「憲法の矛盾を是正せず、自衛隊は廃止、天皇制も廃止し皇居は解放した公園にでもしたいのか」と問われると答えに窮することも確かで、ここらあたりが改憲派からは突け込まれる論理的弱さなのだと思います。


��月4日の朝日新聞社説は靖国神社の遊就館について書いていました。これは私も以前「意見箱」で書いたことがありますし、東京に居る間に一度は訪れてみたく思っている場所のひとつなのですが、朝日は以下のように書いていました。


戦争には相手があった。しかし、展示や説明には、あくまでも当時の日本から見た敵国への憎悪や世界の姿があるだけだ。戦争をする日本を世界がどう見たのかという客観的な視点は、およそうかがえない。ただひたすら戦地に散った日本人の心の尊さをたたえるのだ。


どちらがズレているのかは、やはりすぐには答えが出せません。今日は『サヨクを論破するための理論武装入門』というこれまたクラクラする題名につられて、『正論6月号』(産経新聞社)を購入してしまいましたよ。

2004年5月5日水曜日

オーケストラ リベラ クラシカ/ハイドン交響曲ほか







  1. 交響曲第15番

  2. チェロ協奏曲ハ長調

  3. 交響曲第44番「悲しみ」



  • 指揮:鈴木秀美

  • 演奏:オーケストラ・レベラ・クラシカ

  • 録音:2002年11月29日、浜離宮朝日ホール ライブ録音



定評のある鈴木秀美氏が率いるOLC(オーケストラ・リベラ・クラシカ)の第三弾の録音です。プログラムはオール・ハイドンで交響曲がふたつとチェロ協奏曲が納められています。この演奏も評判に違わずに素晴らしい演奏で、思い出したように何度も繰り返し聴いています。



定評のある鈴木秀美氏が率いるOLC(オーケストラ・リベラ・クラシカ)の第三弾の録音です。プログラムはオール・ハイドンで交響曲がふたつとチェロ協奏曲が納められています。この演奏も評判に違わずに素晴らしい演奏で、思い出したように何度も繰り返し聴いています。


ハイドンという作曲家は沢山の曲を残している割には曲の知名度は低いようで、かく書く私もハイドンに親しんでいるわけではありません。以前にアダム・フィッシャー指揮によるオーストリア・ハンガリー・ハイドン管弦楽団のCDを聴き、ハイドンも捨てがたく、いやいや聴きようによってはモーツアルトよりも余程よいかもしれないなどと思ったものですが、それ以来は再びご無沙汰でした。


��LCの奏でるハイドンを聴いてみましたところ、何と生き生きとしていることかとびっくりしてしまいました。生命力と躍動感に溢れ、CDから音楽の粋が飛び出してくるかのような演奏です。古楽器と小編成のオケによる音は恐ろしいほど統制が取れていて、それでいて繊細さや華やかさをふんだんに振りまいてくれます。


交響曲第15番も楽しめる曲ですが圧巻はやはりチェロ協奏曲でしょうか。鈴木氏のチェロの迫力ときたら、これが古楽の演奏かと思うほどにスリリングかつエキサイティングです。そして、どの音の断片にも音楽の喜びが溢れているかのような演奏です。枯れていていながら肉感的であり、繊細でありながら図太く、優雅でありがなら力強い、こんな感覚をハイドンから得られるとは思いもしませんでした。第一楽章後半のチェロのカデンツァなど鳥肌ものです。


アダム・フィッシャーの演奏もそうでしたが、ハイドンの曲には(モーツアルトとは異なる)疾走感が伴っているように思えます。鈴木氏の演奏もアダージョとアレグロでの緩急や表情の対比が見事で、それゆえに優雅なところはあくまでも典雅で、疾走するところは限りない運動性能を感じさせてくれます。つまり全くダルではなく、高揚したハイテンションな感情が維持されます。


ふと考えるとこれが古典派の音楽なのだろうかと、無知無学な私などは思わずにいられませんが、私的にはこういう演奏は全然OKではあります。


交響曲第44番は短調の曲で「悲しみ」という副題がついていますが、第一楽章の引き裂くような弦の強い響きから始まる曲もキビキビと極めてキレのよい演奏に仕上がっています。やるせない冒頭のテーマが第一楽章は繰り返されますが、一度聴いたら頭から当分離れません。


『クラシック・ジャーナル002』(アルファベータ)で石原俊氏は、


第三楽章は長調で書かれているにもかかわらず、サウンドが《悲しみ》の方向に引っ張られるのだが、鈴木はそのあたりに透明感を持たせている。終楽章は透明な悲しみに向けてオケ全体が疾走してゆく。


と書いていますが、成る程音楽評論家というのは的確な表現をするものです。


悲劇的なテーマではあっても、ベタベタしたロマン派的感情ではなくドライな表現になっています。キレが良くてドライとくればアサヒビールになってしまうのですが、キレだけでどこか物足りなさや欠乏感を感じることはついぞ無く、聴き終わってみればまたしても楔のような深い感動を覚えているのでした。

2004年5月1日土曜日

「正論」の靖国論




月刊誌「正論」は産経新聞社によるオピニオン誌で、編集方針は岩波書店の「世界」とは対極にある雑誌といってよいことは皆様ご存知の通りです。


2004年5月号は『靖国・英霊「分祀」論の妄を弁ず』と題して、かの東京大学名誉教授の小堀桂一郎氏が執筆しておりました。キワメて楽しそうな話題でしたので思わず購入して読んでみました。





これまたご存知のように小堀氏は我が国を深く愛されており、中国や韓国や東南アジア諸国の内政干渉など無視して堂々と首相は終戦記念日に靖国参拝を行わなくてはならないと強く主張している方です。


小堀氏の批判は今年2月15日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」に出演した元衆議院議員中曽根康弘氏の靖国神社の発言に対し『歴然たる無知と誤認がある』と批判することから初め、靖国神社に対する世間の誤解について力説しています。


本号では小堀氏のほかに、弁護士の稲田朋美氏、アジア経済人懇話会会長の前野徹氏も寄稿しておりますが、どれもこれも論旨は同じです、ポイントとなる点をいくつか引用しておきましょう。


(中曽根氏を初めとする「或る党派の人々」は)中共政府の走狗となつて護国の英霊を辱めることを敢へてし、結果として祖国を敵に売る行為に加担した(小堀氏)



殉難者の英霊の「分祀」を言ひ張る人は、結局は、当人が東京裁判をどう見るか、といふ踏絵を踏まされることになるのである。(小堀氏)



「A級戦犯」を、"分祀"するようなことがあれば、現在の日本人が東京裁判の正当性を認めたことになり、サンフランシスコ平和条約発効後、国民の総意で戦犯釈放等を早期に実現させた先達の努力を水泡に帰し、わが国の将来に遺恨を残す(稲田氏)



��靖国神社に象徴されているのは)祖国に対する忠誠心、すなわち命を懸けて国を守るという崇高な精神(稲田氏)



本来なら東京裁判によって断罪された日本の汚名を晴らすべき日本の首相が自虐史観に染まっている(前野氏)



日本にはA級戦犯など存在しない[...]靖国神社に祀られる英霊は戦犯などではない(前野氏)


自虐史観に対する舌鋒の鋭さは相変わらずですが、さらに中国や韓国に対する不信感もかなり凄いものがあります。



��南京虐殺記念館の入場が無料になったことに対し)でっち上げの南京虐殺事件を自国民の心に強く刻み込み、反日感情を高めようという意図が見え隠れ(前野)



��南京虐殺記念館を中国政府が「世界文化遺産」としてユネスコへの登録申請を計画したことに対し)南京事件の虚構性を暴く実証的研究の続出によつて、中国当局は形成不利と知り、焦り始めたのである。(小堀)



韓国では密かに日韓の歴史の塗り替への布石が着々と打たれている。[...]水面下では日本の神話を自国の歴史にすり替えるための研究が韓国の歴史学者たちによって進められている。[...](韓国には)日本列島全体を属国化しようとする意図すら隠されている可能性もある。(前野)



日本はアジア諸国から見下され、今や食い物にされようとしている。中韓の対日批判の高まりはその狼煙である(前野)


ふう、もうたくさんですね。でもこういう方が以下のように主張するのですよ。



共存共栄、強者は弱者をいたわるという日本の美風(前野)


その論理ですと、日本はアジアの強者ですから、大東亜共栄圏という発想から弱者であるアジア諸国を貧困と列強諸国から解放しようとしたのですし、その「日本の美風」の精神の延長線でイラクを独裁政権から解放することのお手伝いをしているということになるのでしょうか。


たとえ南京大虐殺(の規模や瑣末的なディテール)が虚構であったとしても、日本人が民間中国人を殺したという事実は残るわけですし、一人殺しても虐殺した過去は変わらないと思うのです。今アメリカがファルージャで行っていることも、フセインがクルド人に対して行ったことも虐殺であることに異論がるでしょうか。

小堀氏を始めとする東京裁判否定者は、戦勝国の一方的利害による偏向した裁判は不当であり、冤罪であるとまで主張するのですが、ある時代の歴史が下した審判を否定し去ることで日本に名誉と栄誉が回復するのでしょうか。


彼らのような主張をする人が率いる日本がどういうものなのか、中国や韓国に敬意を(全くといってよいほど)払わず、不信と蔑視と利用価値しか感じないような主張の中でどうやってアジアで共存できるのでしょう。彼らの描く日本に住みたいと思いますか?

酒井啓子:イラク 戦争と占領



イラク関連の報道番組ではおなじみになった酒井啓子さんの近著です。アメリカ主導によるイラク戦争が開始されてから、13年振りに現地を訪れた酒井氏がイラク「解放」の実態と問題点を、イラクの歴史的経緯を踏まえながら丹念に書き上げた本です。

本書を読むと、イラクがいかにイギリスやアメリカによって恣意的に扱われてきたかが嫌というほどによく分かり、イラク国民の期待と希望と、そして幾度と無き裏切りと占領によって国家を蹂躙されている歴史がまたしても繰り返されていることに、驚きと憤りに近い感覚を覚えます。

田中宇氏の「イラク」でも書いていましたが、イラクは誇り高い国民です。いや誇りを捨てた国民などいないのですし、自国に愛着を抱かない国民もいないはずです。更には自国の平和を願わない国民だっていないはずです。

しかしイラクはそれらをことごとく奪われてきたといっても過言ではないかもしれません。今回の戦争は独裁者からイラク国民を解放したという点では一時的に歓迎されましたが、アメリカのフセイン後の統治政策の無策により、当のアメリカがフセインとなんら変わらない存在になってしまったことということについては、酒井氏は何度も指摘しています。

この本を読むと、イラクの国民の中でも民主化政策に対する考え方については、統一的な考えが醸成されるまでには至っていないことが分かりますし、戦後の混乱に乗じて様々な勢力が台頭し新たな紛争が始まる気配についても感じることができます。でも、それ以上にアメリカが中東に招いたそれを上回る不振と混乱は、どう贔屓目に見ても支持できるものではないようですし、アメリカによる中東戦略は平和と安定ではなく戦争と混乱しか引き起こしていないことを、ジャーナリストはもっと喧伝すべきなのかもしれません。

そのようなアメリカに議論もなく追随してしまっている日本国政府とそれを支持しているらしい日本国民は、イラクに住む人から見るとアメリカと同列と見なされても止むを得ない面もあるのだと思います。人質事件は起こるべくして起きた事件ですし、それを契機として日本でなければできない貢献の仕方というものが、どこかにあるのではないかと思わずにはいられません。

アメリカのイラク攻撃と自衛隊派遣に賛同する人は、えてして保守派層が多いと思います。その彼らが憲法改正や自主憲法制定、対米追従の見直し、国防の増強を主張するということに、今の時点では疑問を感じざるるを得ないことを蛇足ですが付記しておきます。