2004年6月28日月曜日

ちょっと待てよ、人質関連の経費

イラク人質事件の日本政府負担についての記事。


●イラクの3邦人人質事件の政府負担は1815万円

 外務省は25日、4月にイラクで発生した邦人人質事件で政府が負担した経費は総額約1815万円だったと発表した。

 最も費用を要したのは、ヨルダンに派遣した逢沢一郎外務副大臣ら外務省職員の出張関連経費の約1370万円。

 このほか、<1>在ヨルダン日本大使館の現地対策本部運営費約97万円<2>解放された人質3人をバグダッドからドバイに移送したチャーター機の運航費約53万円<3>川口外相がテレビで人質解放を呼びかけたメッセージ作成費約16万円――などとなっている。

 3人は、チャーター機代の自己負担分計約12万円と、家族の出迎えの渡航費用の立て替え分など計約237万円を外務省側に払っている。



(2004/6/25/13:12 読売新聞 無断転載禁止)


1815万円のうち1370万円が出張費です。何人、誰が、いつからいつまで、何のために、どこに宿泊したのですか? 政府からの身代金はこの中には入っていないわけですね、情報収集費用もなかったと。よく解釈すれば公にできないということですか。


全然釈然としません。マスコミはもっと突っ込んでもらいたいものです。

記事は、暗いニュースリンクで知りました。本当に、寝る前に暗い気分になりましたよ。

佐々木幹郎:「やわらかく、壊れる」


宮本隆司氏の写真展と前後してこの本を手にとっていました。「やわらかく、壊れる~都市の滅び方について」というタイトルが非常に詩的であり、興味をそそられたのと、表紙や本文中に宮本隆司氏の写真が使われていたからであったのですが。


しかし読んでみれば、「やわらかく、壊れる」とはソフト的にして形而上的な話ではなく、神戸の地震を契機として被害を最小限に留めるための設計思想について述べたものであって、詩人にしては現実的な、と実は興覚めしたことも確かです。


「柔らかく壊れる」という思想は、最近の建築構造設計の思想の一つになっていますから当たらずとも遠からずではあるのですが。ではこの本がつまらないかというと、そうでもなく、佐々木幹郎という人、いまどき珍しい風来坊であるなあと思った次第です。




詩人なのですから日中からノラ猫相手に時間を潰していても構いませんし、『永代橋の上で何時間も風に吹かれ神輿が到着するのを待って』いても構いません。気の赴くままネパールに行ったり湾岸戦争で汚れた「アラビア湾」をキレイにするボランティアに参加したって問題ありません。文章が書かれたのはまさにバブルが弾けつつあった1990年頃から1995年の間のものが多く、読みながら無邪気なお江戸賛歌や東京賛歌のようなスタンスに違和感を感じないでもありません。詩人に対するやっかみでしょうかね。


不思議な人です。根っから風来坊なんでしょうか、はたまた彼が図らずも露呈する『日々是観光の地の日常』という気分なのでしょうか。批判も肯定もせず、フラットな視線でものごとを記述しています。この独特の穏やかさと、子供のような好奇心に満ちた視線。彼の文章の初出一覧や著作を眺めてみれば、彼が「紀行」の分野で活躍していることが分かり、そうするとなにやら合点した気分。何かに規定して枠に納めてでなくては考えられない私の悪い癖ではあります。


彼の生活圏が辺見庸氏と同じように「隅田川の左岸」、両国は回向院の近くというのも何だか妙なものだなあと思うのでありました。今度両国に行く機会があったら、回向院詣ででもしてみましょうか。

奏楽堂の日曜コンサート4

何度か足を運んでいる奏楽堂の日曜コンサートに行ってきました。今日は第四日曜日ですからオルガン演奏です。演奏は東京藝術大学オルガン科2年の大木真里さんでした。



奏楽堂のパイプオルガンは、旧東京音楽学校奏楽堂のHPによりますと、以下のように紹介されています。


正面のパイプオルガンは、大正9年に徳川頼貞侯がイギリスから購入し、昭和3年に東京音楽学校に寄贈したものです。アボット・スミス社製でパイプ総数1,379本。いまでは世界でも珍しい空気式アクション機構の、わが国最古の貴重なコンサート用オルガンでやわらかな音色が魅力です。


これだけ読んでも、奏楽堂のパイプオルガンが由緒正しく珍しいものであることは分るのですが、さては一体どういう音色なのかと気になっていました。もっともパイプオルガンといえば私は札幌KITARAのオルガンしか聴いた事がありませんので、比較などできないのですが。


今日のプログラムはJ.S.バッハのオルガン曲が6曲、最初のBWV659がペダルを用いた低音から始まったときは、失礼ながら、なんとも「腑抜けた」音であるなと、正直思ってしまいました。重低音として響いては来るのですが、もこもことしていて音程も合っているようなズレているような・・・これが「やわらかな音色」ということなのでしょうか。中音域は音量は大きいのですがちょっとバリバリした音。高音は流石に聴き慣れたパイプオルガン的な典雅な音色ではありました。


考えてみるとオルガン曲には(>「にも」だろう)ほとんど親しんでおりませんので、フーガ ト短調BWV578以外は初めて聴く曲ばかりで、演奏云々については感想を書くことが出来ません。そうは言っても、とても気持ちの良い30分間を過すことはできたのですが。貧弱なオーディオ装置を通して音楽に接するよりは、生の魅力に接した方が良いことだけは確かでしょうから。


それにしても30分間、終わるまで拍手もなく演奏し続けた大木さん、ご苦労様でした(^^) もっとオルガン曲勉強します。



●J.S.バッハ:来たれ 異邦人の救い主よBWV659●BWV660●BWV661●フーガ ト短調BWV578●前奏曲とフーガ ロ短調BWV544

2004年6月27日日曜日

韓国人人質の殺害事件

韓国人人質を殺害した一神教聖戦団が今度はトルコ人を拉致したそうです。暴力の連鎖に歯止めが利かなくなっているようです。そんな中で「テロとの戦い」を強調と協調をアメリカ系各国は主張するのでしょう。6月27日の読売新聞 編集手帳では以下のようにありました。


◆テロリストと取引をし、存在を許す国があるから、テロリストが我が物顔に振る舞うようになる。国家でも政治家でも、一般の人でも、どんな苦境に立たされても取引をしてはいけない場合がある◆自由を語るだけでなく自由を守るために犠牲を払う用意がある、その決意を示すことも必要だとサッチャー元首相は言う。イラク情勢を考えると余りに重い言葉だ。


言うことは分かりますが、前提が正しいのでしょうか。




つまりはイラクへの米国を中心とした戦略そのものが正しかったのか、今でも正しいのか。テロと戦うと言うが、誰の誰に対するテロと戦っているのか。イラクへ参戦するまでは、日本や韓国が矢面に立ってテロの標的とされる、具体的な理由が果たしてあったのかということです。


世界情勢は色々な関連の中で動いているので、日本だけが無関係というつもりはありませんが、『イラク情勢を考えると余りにも思い言葉』なのではなく、もっと突きつけている課題は大きく重いのだと思います。では、と次になかなか進めないのですが。

そんな中、ブッシュ米大統領は26日、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に出席するたトルコ入りしています。

アムラン/ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番、第2番






アムラン/ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲集


  1. ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35

  2. ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102



  • アムラン(p)

  • リットン指揮 BBCスコティッシュSO

  • Hyperion CDA67125





ピアノ界の鬼才アムランのショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番と2番を聴いてみました。アムランはときどき紹介しているように、いつも抜群のテクニックに仰天してしまうのですが、この盤においても冴えまくった腕を聴かせてくれます。




テクニックさえあれば楽しめるというものではないのですが、彼の演奏スタイルからは、何か面倒くさい取り決めとか段取りを全て飛び越えてしまうような爽快さを感じるのです。それが私のどこかに触れるのかもしれません。


ピアノ協奏曲第1番(1933)はトランペット独奏者とともに演奏されるというちょっと風変わりな曲ですが、ショスタコ独特のメロディの美しさや、少しとぼけた雰囲気などが楽しめる曲です。ショスタコはあまり詳しくないのですが、作曲者は『英雄的な、はつらつとした、きわめて快活な』感じを意図していたようです。そういう雰囲気を曲から感じ取れるかは人によると思いますが。


第一楽章からピアノとトランペットはハイテンションで飛ばしまくります。こんな勢いで最後まで行くのかと思うほどですが全くそんな心配はおかまいなしというところでしょうか。ちょっと深刻な感じの第二楽章Lentoと、第三楽章Moderatoをはさんで終楽章に突入するところからピアノが再び物凄い疾走を始め、そこにオケとトランペットが被さります。ピアノは打鍵も強く天上から地下までこれでもかと打ち鳴らされるさまは、軽い躁鬱を繰り返した後に来る破れかぶれの明るさにのようなもの(何だそれ?)満ちています。中間部のトランペットソロは、ちょっとボケが過ぎないかと思わず笑ってしまうのですが、ラストに至ってはもはや破顔でブラボー!です。


続くピアノ協奏曲第2番(1957)も軽いノリで始まります。続いてすぐに粒の揃ったピアノがオケと対等に渡り合う様は胸のすく思い。一楽章からとにかく激しいのです、物凄いスペクタクルを観る思い、あいた口がふさがらない。ショスタコのピアニズムが凄いのか、あるいはアムランが凄いのか。音楽からここまでのエネルギーを引出す手技には脱帽。

第二楽章は一転して物静かな弦で始まりますが、こういうメロディの扱い方は何とも言えませんね、間違いなく泣けます。今でこそヒーリングミュージックとしてもてはやされるようになってきましたが、ここだけ取り出して聴くものではありません。それにしても甘美過ぎる!この曲は息子のマクシームのために作られたとされておりますが、第二楽章は父から息子への贈り物なのだそうです。


そして怒涛のような激しさの終楽章が、転がるようなコミカルなメロディから開始されます。終楽章に作曲当時、モスクワ音楽院に在学中の息子が練習していた曲であるハノンを引用していることも、この曲を特徴つけていますが、そういうことを知らずともアムランの冴えに冴えているピアノを聴いていると細かいことはどうでもよくなります。彼の演奏に切れ味とかそういうものばかりを求めてしまうのも何だかなあとは思うのですが、梅雨時の鬱陶しさを吹き飛ばすには格好の盤であると言えましょうか。


【サイト内の関連】

アムランのほかのCDレビュ

2004年6月26日土曜日

音盤の物色


休日に天気が良いと気もそぞろとなってしまい、じっとしていられない性分なのですが、今日は雨こそ降っていないものの曇り空なので、なにもしないことに決めました。嫌でも明日は休日出勤しなくてはいけませんし。ということでHMVのサイトでCDなどを物色、以下の4枚を購入予定といたしました。


  • DVD Wagner / Gotterdammerung: Levine / Met Opera, Behrens, Jerusalem, Salminen, Ludwig, Etc

  • DVD Verdi / Il Trovatore: Marton, Pvarotti, Zajick, Milnes, Levine / Met Opera

  • DVD Verdi / La Traviata: Gheorghiu, Lopardo, Solti / Royal Opera House Covent Garden.o

  • CD Kapustin , Nikolai (1937-) *cl* / Piano Works: Hamelin





ワーグナーの「指環」は、この「神々の黄昏」を購入することで、とりあえずレヴァインによる「指環全曲」を確保できました。実はまだ通して聴いていないのですがね。(そういえば「CDで聴くはじめてのワーグナー」というシリーズが「ラインの黄金 第1幕 第1場」で頓挫したままです。再開は期待できるのでしょうか>って誰も期待していませんね ^^;;)


ヴェルディの「トロヴァトーレ」はパヴァロッティなどを配したレヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場の演奏、「椿姫」はショルティ指揮、ソプラノにアンジェラ・ゲオルギューを配した1994年のライヴ録音です。正直に告白しますが、私は「トロヴァトーレ」も「椿姫」がどんなオペラなのか全く知りません。クラシックファンとは恥ずかしくて言えませんね。


あとアムランの新譜が7月に発売されるということで、カプースチンという作曲者は聴いたことがないのですが、迷わず購入。アムランのCDといえば昨年買ったショスタコーヴィチのピアノ協奏曲が封を切らずに眠ったままであることを思い出しました・・・そのうち聴いてみましょう(>て今日聞けよ)

寺神戸亮/コレッリ:ヴァイオリン・ソナタ集作品5より






コレッリ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集


  1. 第7番 ニ短調
  2. 第8番 ホ短調
  3. 第9番 イ長調
  4. 第10番 ヘ長調
  5. 第11番 ホ長調
  6. 第12番 ニ短調《ラ・フォリア》



  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン)、シーべ・ヘンストラ(チェンバロ/オルガン)、ルシア・スヴァルツ(バロック・チェロ)

  • 録音:1994年8月 オランダ、デン・ハーグ、旧カトリック教会





DENONのCREST1000シリーズから発売されている寺神戸亮氏によるコレッリのヴァイオリンソナタ集を聴いてみました。



コレッリ(1653-1703)はバロック・ヴァイオリンの象徴とも言うべき存在なんだそうです。
��D解説によるとコレッリは宗教作品や声楽曲(オペラを含む)を全く残さなかったそうで、しかも名声に比して残された作品数が僅少なのであるそうです。というのもコレッリの遺言で未出版の作品のほとんどを破棄させたからで、それだけに現存する作品は厳選されたものであるとのこと。


この盤ではコレッリのヴァイオリン・ソナタ集5番のうち後半の6曲が納めているのですが、果たして聴いてみますと、一聴するだけでコレッリの魅力に取り付かれてしまいます、いやコレッリの魅力なのか寺神戸氏のヴァイオリンの魅力なのか、実はそれは判然とはしないのですが。


短調の翳りと明るさとが微妙な具合にブレンドされた曲調、長調の軽ろやかで優雅な曲調など、どれも好ましいもので、様々な心象情景が浮かんでは消えていきます。技巧を凝らしたブイブイ言わせる曲ではないかもしれませんが、休日の午前などに珈琲でも飲みながら聴いていると、それだけで気分が癒されてきます。とは言いましても、ベタなヒーリング曲では全くなく緩急の楽章の繰り返しは変化に満ちていて刺激的でもあります。


しかし何と言ってもこの盤の中では《ラ・フォリア》が聴きどころでしょうか。フォリアとはスペインの古い舞曲を起源とする曲で、本来は狂気を意味する言葉あったようです。この曲もイベリア半島起源とされる古い舞曲の16小節の主題を元に、23の変奏が繰り広げられていくというものです。哀愁を帯びた旋律が、ヴァイオリンの技巧を駆使して変化してゆくさまは、単純であるが故に聴き進むにつれ得も言われぬ凄みを帯びてきます。この1曲を聴くだけでもこのCDの価値はあるかもしれません。


詳しい解説はネット上にあるので興味のある方は読んでください。ほとんどCDライナー引き写しの文章を読むことができますので便利です。

2004年6月25日金曜日

検証が可能であるということ

「CVID」「完全に、検証可能なやり方で、再生不能なかたちで破壊する(Complete, Verifiable, Irreversible Dismantlement)」とは北朝鮮の核開発プロジェクトに対するアメリカの主張です。これは北朝鮮に対するアメリカの強硬姿勢の現れとも取ることが出来るのですが、一方でイラクの大量破壊兵器に関してもそうであったように、北朝鮮やイラクが近隣諸国の武力が近隣諸国に対し脅威足りうるのかどうか、そこのところをアメリカ側の主張だけをもとにして信用してよいものか、疑問を感じもします。




政府の主張するイラク自衛隊派遣から多国籍軍への参加につながる判断についても、北朝鮮の脅威を前提とした上での国益を護るためと主張しているのですから、盲信・盲従でないことを願いたいところです。


日本国にはアメリカに匹敵する諜報機関も諜報能力も有していないのですから、アメリカの調査結果を正面切って否定することができないわけです。そういう意味からは、情報が著しく「非対称」であると言えます。検証などできないですし、アメリカの主張を疑問視する国との協調関係は全く築けていないように思えます。


相手に対し「完全に、検証可能なやり方で」と主張するからには、自身の調査結果についても本来はそうでなくてはならないわけですから、つまりは最近話題にした「外部監査」という機能が必要なのではないかと思うわけです。イラクの大量破壊兵器に対するパウエル国務長官の政略と詭弁に満ちた発現についても、世界各国は国益にかけてアメリカの妥当性を検証せねばならなかったはずです。


同じ話しは日本国内での年金問題や税金問題についても同様で、政府の示すバランスシートに対しての正当性を評価するようなことがあってこそ、新たな議論が始まるのではないかと、つらつら思うのでした。そういう意味では木村剛氏の活動に期待はしているのですが・・・ちょっと話しがバラバラでしたね。

2004年6月22日火曜日

ビジネスの朝型 社会の進歩かはいざ知らず

Letter from Yochomachiさんのサイトで、『日経「ビジネス 早朝化進む」……みんな早起きになったそうだが、結果として睡眠時間が短くなっている』というエントリーが目に付きました。ビジネス社会で『朝早くから飛ばす企業が多く』なっているとのとです。




私の会社では担当重役は朝7時から7時半には出社しており、重要な会議や確認は9時頃までに済ませるのが慣例となっています。重要かつ根回しが必要な案件であればあるほど、朝早くから濃い打ち合わせが待っています。重役は夜は夜で色々とご予定がありますので夕方は早々に退社しますが、ペーペーは重役説明のための資料を夜を徹して作り朝に望むわけです。「重役出勤」とは早朝出勤することを(当社では)意味することに変わってしまいました。「重役」になど(なれないけど)なるもんぢゃありませんな、ペーペーも辛いけど。


もっとも、ここら辺の事情は組織によってかなり違うと思います。朝型人間のことを確か英語で「Eearly Bird」と呼びますが、他の人が出社する前の打合せも電話もない落ち着いた時間に、その日のすべきことと予定を立ててしまうというスタイルは、「デキるビジネスマン」的な啓蒙書で時々目にするところです。みんなイロイロな事情から朝の時間を有効に使いつつあるということなんでしょうかねエ。


朝を有効に使うのは良いのですが、関係する皆がEearly Birdになってしまったら、単に勤務時間がシフトしたことにしかならないので、そこらあたりはサマータイム導入と廃止の経緯と同じように悩ましい問題をはらんでいそうです。


ヒラリー・ハーンの新譜

Classical CD Information & Reviewsや、wanderのエトセトラ日記Tower Recordsなどで紹介されていましたがヒラリー・ハーンのドイツ・グラモフォン移籍 第2段のCDが出るようですね、7月21日発売予定ですとか。



曲目はエルガー:ヴァイオリン協奏曲とV.ウィリアムズ:「あげひばり」、C.デイヴィス指揮する、ロンドンSOの演奏ですか。今までハーンの演奏はオケや伴奏者に問題があると指摘する人もいましたが、今回は期待できそうですね。


実は、先週はハーンのデビューCDである、バッハのパルティータを繰り返し聴いていました。このCDもネット上では賛否は分かれていたように記憶していますが、私としては何度聴いても飽きのこない演奏です。パルティータの収録は2番ニ短調と3番ホ長調だけですから、早く全曲を録音してもらいたいものです。


ヴァイオリンのことは(も)余りよく分らないのですが、とにかく7月に向けて期待大というところでしょうか。


・サイト内のヒラリー・ハーンのページ

2004年6月18日金曜日

アメリカの国旗が持つ意味

NHKスペシャルで「21世紀の潮流 アメリカとイスラム」という2回シリーズが放映されています。第1回はイラク人虐待のモデルともいわれるキューバのグアンタナモ収容所とイラクとアフガンに挟まれながら反米姿勢を崩さないイラン革命25年目の素顔に迫るものでした。


グアンタナモ空軍基地にある収容所は悪名高い収容所で、アメリカの国内法も国際法も及ばない場所です。ラムズフェルド国防長官も「彼らを法のもとに裁こうと思っていない、テロを未然に防ぐために疑わしき者を収容しているのだ」と言って憚りません。




番組では、ある日突然失踪した息子が、実はグアンタナモに収容されていることを知ったレバノン人の父親が取材されていました。父親が一枚の写真を取り出して語ります。写真はテロ被疑者がアメリカ軍に捉えられ、グアンタナモに輸送される飛行機内で撮られたものでした。被疑者数十名は覆面をされ、手足を縛られ、ロープのようなもので壁に固定された状態で、軍用機の冷たい鉄板の上に座らされていました。彼らの脇にはアメリカ人が立ち、背後には機内の天井から星条旗が垂れ下がっていました。


父親はその星条旗を指し「アメリカ国旗には私も誇りに感じたこともあった。アメリカ国旗は民主主義と自由の象徴であった。それが、こんな使われ方をするとは」と憤りにうち震え、そして息子の安否を気遣っていました。


��.W.サイードは「わたしたちの民主主義を返せ」という一文で、次のように語っています。


途方もなく犯罪的だと思われるのは、民主主義や自由といった重要な言葉がハイジャックされ、略奪行為や領土侵略や怨恨を晴らすための隠れ蓑に使われていることだ。 アラブ世界についての合衆国の計画はイスラエルのものと同じなってしまった。 シリアと並んで、イラクはかつてイスラエルにとって唯一の重大な軍事的脅威だった。だからこそ、壊滅させねばならなかったのだ。

サイードはアメリカの中東政策がイスラエルを擁護するシオニスト一派の戦略に支配されていることを前提にしていますし、それであっても、彼がアメリカに民主主義と自由の理想を重ねていたことが分ります。ここでアメリカの国旗や愛国心についてのサイードの見方にも触れておく必要があるかもしれません。「もうひとつのアメリカ」という「戦争とプロパガンダ4」にも納められている一文からの引用です。


国旗を振ることに、これほど重要な図象学的な役割を持たせている国は他に知らない。 タクシーにも、男物ジャケットのラベルにも、住宅の前窓や屋根の上にも、そこらじゅうに旗が翻っている。 それは国民イメージの具現化であり、英雄的な耐性と、価値なき敵との戦いに悩まされているという感覚を表している。


これは、アメリカという国に対する荒いスケッチの断片です。アメリカのアイデンティティの根源に国旗と、国旗が象徴する民主主義や自由という精神が込められていたとするならば(レバノン人の父親の言を思い出すまでもなく)現在のアメリカがその精神を冒涜し踏みにじったという主張は、単なる理想論的な悲憤という以上の意味を伴っているようにも思えます。

アメリカの民主主義が絶対であるという価値観に拘泥するものではありませんが、アメリカの世界における位置付けや意味付け、そしてウェイトが変化してしまったことを示唆しているのかもしれません。アメリカ政権内部でのシオニスト、ネオコンなどの保守派と中道派の局地的な主導権争いが繰り返されるなかで、アメリカ全体が大きく舵をとり始めているのではないかという認識ですが。


そういう認識からアメリカ対日本という関係を考える必要がやはりあるのであろうとは思うのです。

2004年6月17日木曜日

日本における議会制民主主義

年金改革法案が通ったことや、自衛隊イラク派兵問題から多国籍軍に至る政府のなし崩し的な決定を見ていると、日本における議会制民主主義がもはや機能していないことを痛感させられます。

サイードの書き込みそれに連なるエントリーについて、Flamandさんから過分なるレスをいただき、つらつら民主主義とかについて考えていたところ、とあるメールマガジンで以下のような書き込みを見つけて成る程と思ってしまいましたので紹介しておきましょう。



北野一  :三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト


 年金改革法案が徹夜国会の末に成立した翌日の日経新聞には、「(年金改革法案を)廃案に持ち込むには硬軟織り交ぜた戦略が必要だった」との反省が民主党内にあったと紹介されておりました。しかし、彼らが反省すべきは、この国会における(戦略というよりも)戦術の誤りではなく、昨年11月の選挙で、年金改革を前面に押し出して、政権を獲得できなかった戦略の誤りです。



 また、メディアにも言いたいことがあります。国会審議次第では民主党案が成立するかも知れないと国民が錯覚するような記事を何故書きつづけたのでしょうか? また、戦術次第では年金改革法案を廃案に出来たかも知れないという民主党の反省など、報道する必要もないのです。そうではなく、「総選挙が終わった時点で、今日の結果は見えていた。だから選挙が重要なのだ」とはっきり書くべきなのです。

北野氏の結論は、現在の結果を招いたのは国民のせいでもあると指摘しています。同じような論調がもうひとつありました。

津田栄  :エクゼトラスト投資顧問株式会社 顧問


 (年金改革法案がろくに審議もされず可決されたことに対し)自己責任という観点から、国民自身も、自民・公明連立政権を昨年11月に選挙で選択した点で、こういう結果を招いたということがいえましょう。ただ、企業経営でも、選ばれた経営陣が株主・従業員などの企業関係者に当初の経営方針・計画に説明を尽くし、疑義が出てくれば、再度見直しをし、間違いに気付けばその計画を変更して、その結果の責任を経営陣が最終的に負うように、企業関係者および消費者との信頼を基礎にした民主主義的経営が行われます。


 その点は、どこの民主主義国の政治でも、状況が時々刻々変化していくなかで、選ばれた政治家が国民の考えと乖離していれば大なり小なり修正を迫る国民の姿が見られることにも通じます。そこには、企業経営と同様、国民に対する説明責任(説明およびその結果に対する責任)、政策に対する結果責任を負っている政府および議員と国民との間の信頼関係という民主主義的基盤があります。しかし、この日本においては、国民の声は国会に届かず、説明責任も果たさないで、既存の制度を維持し、既得権益を手放したくないために官僚の作った法案がそのまま採用され、国民不在のどこかの国とそれほど変わらない、ダイナミックさを失った政治が行われています。

津田氏も議会制民主主義の前提に立っても、選挙が重要であると力説した上で、以下のように続けます。


 そのためには、国会議員は、主役が国民の負託を受けた自分たちであることを改めて認識し、その責務を自覚することを強く望みます。そして、国民である私たちは、この年金制度を改めて考え、議論し、他人任せにしないことであり、今後の政治における判断でも、自己責任から、選挙で自分の考えにあった議員を選ぶべきでしょう。


この文脈の中での「自己責任」という意味は重いと思います。そういう意味で、改めてFlamandさんの書き込みにあった


言い古された言葉ですが、民主主義体制では「国民のレベルを上回る政治(家)を手に入れることはできない」ということは当たっていると思います。政治家達の馬鹿さ加減を批判しそれを放置するということは、自らの愚かさを自嘲していることに他ならないことだと思います。

という言葉を考えています。ちなみに、ここでの「民主主義」とサイードの言うアメリカの踏みにじられた「民主主義」とは、意味するスコープがかなり異なっているようです、これについては、また時間があれば書きます。


・このエントリーは茜色のこころにトラックバックしました(2004.6.25)

2004年6月14日月曜日

アメリカの民主主義

6月5日に、元アメリカ大統領のレーガンがアルツハイマー病の合併症で亡くなりました、享年93歳の大往生でした。日本のマスコミ各社もレーガンの功績を高らかに称えていましたが、アメリカの論調も同じであったらしく、これは現職のブッシュのあまりのダメさ加減のため、あてつけのようにレーガン賛美をしていたのだそうです。




翌日の6月6日は「Dデー」すなわち、第2次世界大戦で連合国軍が攻勢に転じるきっかけとなったノルマンディー上陸作戦の記念日で今年は60周年でした。ブッシュ米大統領は、


この地で尊い目的のため戦ったすべての解放者を尊敬する。米国は友人のため再び同じことをする

という事を述べたようです。かのレーガンはDデー40周年の式典で、


この地に倒れた人々よ。民主主義はあなたがたの犠牲に耐えうるものなのか。答えはイエスだ。何故ならば、あなた方には信念があり、確信があり、愛があったから・・・

と高らかに演説したのだとか。

昨日、サイードの本を紹介いたしましたが、アメリカの「民主主義」は20年前は(今よりは)健在だったのでしょうか、あるいはレーガンが政治家として少しだけ優れていただけなのでしょうか。

「信念」と「確信」と「愛」というオブラートをまとってアメリカの国益に殉じた者たちや、剥き出しのエゴイズムとしての国益のために爆破され吹き飛ばされた人たちは、どう弔われるのでしょうかね・・・

E.W.サイード:「裏切られた民主主義」


この本は、「戦争とプロパガンダ」シリーズの第4部であり、アメリカのイラク侵攻が濃厚になりつつあった2002年11月からバグダット陥落直後の2003年4月までに発表されたものを集めたものです。彼の視座からは大国の不遜と欺瞞があぶりだされてきます。

●ヨーロッパ対アメリカ●イラクについての誤情報●緊急課題●ゆるしがたい無力●偽善の金字塔●責任者は誰だ?●もう一つのアメリカ●ラガドのアカデミー

●E.W.サイード 裏切られた民主主義 戦争とプロパガンダ4

●中野真紀子訳●みすす書房




エドワード・ウィリアム・サイード、エルサレム生まれの文学研究者であり文学批評家であり、西洋文明の中心に帝国主義を据えたことで特筆すべき功績を残しています。またパレスチナ問題に関する率直な発言者でもある彼は、昨今のアメリカのイラク侵攻に対しても鋭い批判をしていましたが、2003年9月25日享年67歳で白血病の合併症で亡くなりました。


ここでは偉大なるサイード氏に関する感想を述べるより、彼の論点をいくつか引用するに留めます。


何ゆえ、このような沈黙、このような驚くべき無力におちいっているのだろう。

史上最強の国家が、アラブの一主権国家に今にも戦争をしかけようとして、ひっきりなしにその意図を再確認している。現在のそのアラブ国家を支配している政権はおぞましいものであるが、明らかにこの戦争の目的は(中略)中東全体の設計を完全に変えてしまうことにある。(中略)それにもかかわらず、アラブ世界からは、長い沈黙が続いた後に、やんわりと意義をとなえる少数の声がぼんやり聴こえてくるだけだ。(中略)このような人種差別的なあざけりをわたしたちが受けいれるいわれがあるだろうか。(「ゆるしがたい無力」P.41)

このように、着々と進む戦争に対し、アメリカにおいてもアラブにおいても無力な状態を悲痛な思いでつづっています。


ブッシュ政権が戦争に向かって一方的に、容赦なく突き進んでいるのはさまざまな理由から憂慮すべきことである。だが、ことアメリカ市民に関するかぎり、このグロテスクな見世物は民主主義のとんでもない破綻を意味している。おそらく裕福で強力な共和国が、ほんの一握りの人間たちの秘密結社によってハイジャックされ、(彼らはみな選挙で選ばれたわけではなく、したがって民衆の圧力には感応しない)、あっさりと転覆されてしまったのだ。(「責任者は誰だ?」P.56)



中傷され、裏切られた民主主義。賞賛されながら、実際には面目を損なわれ、踏みにじられた民主主義。一握りの男たちが、この共和国の運営を掌握するようになったからだ。まるで-まるでアラブの一国と同じだというかのように。(「責任者は誰だ?」P.63)

「裏切られた民主主義」とは、この本のタイトルともなっていますが、アメリカにおいて民主主義が既に破綻していることを指摘しているのは彼だけではありません。一握りの男たちとはシオニスト・ロビー、右派キリスト教団体、軍産複合体などに属する三つの少数派集団のことであることは言わずもがなです。サイード氏はメディアも戦争体制の一翼を担うものでしかないと厳しく批判しています。


メディアが、戦争の口実としてイラクが十七の国連決議を無視していることにふれるときも、イスラエルが(合衆国の支持を受けて)無視している六四の国連決議のことは決して語られない。(中略)嫌われ者のサダムが何をしてきたにせよ、まったく同様のことをイスラエルのシャロンもアメリカの支持のもと行ってきたのであるが、後者については誰も何も言わず、ただ前者を声高に非難するばかりだ。

��中略)

そういうわけで、アメリカの国民は意図的に嘘を告げられており、彼らの利害はシニカルに偽って代弁され、偽って伝えられ、ブッシュ二世とフンターの私的な戦争のほんとうの目的やねらいは、徹底した傲慢さで隠蔽されている。(「責任者は誰だ?」P.61)

そのとき日本の報道が何を伝えていたか、小泉首相をはじめアメリカの侵攻に協力する人たちは、どこまで情勢をつかんだ上で判断していた(あるいはいる)のでしょうか。

「国際政治に正しいとか悪いはない、あるのは国益だけだ」と言ってのけたは親米保守派の筆頭である岡崎久彦氏ですが(6月13日 テレビ朝日「サンデープロジェクト」)、シャロンが何をしようとサダムが何をしようと、こんなアメリカに追従していればよいというわけですか。


��気が向けば、つづく)

2004年6月13日日曜日

瀬尾和紀フルートリサイタル


東京文化会館小ホールで瀬尾和紀さんのリサイタルがあると知り、当日券を求めて聴いてきました。


瀬尾和紀フルートリサイタル
2004年6月12日(土)19:00~ 東京文化会館


●J.S..バッハ:無伴奏ヴァイオリンの為のパルティータ 第2番より シャコンヌ●P.タファネル:魔弾の射手による幻想曲●R.シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ短調 作品105●Ph.ゴーベール:ファンタジー●G.フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 作品13●A.ジョリヴェ:リノスの歌

●フルート:瀬尾和紀●ピアノ:長崎麻里香




瀬尾和紀氏といえば、現在はソリスト、室内楽奏者としてフランスを拠点に活動する若きフルーティストです。颯爽たる経歴と実力の双方を兼ね備た21世紀を担うプレーヤーと言って良いでしょう。そんな瀬尾氏のリサイタルだったのですが、649席のホールにガラガラと空席が目立ちます、勿体無いことですね。私のせいではないのに、申し訳ない気持ちになってしまいます。コンサートはやはり8割以上埋まった状態で聴きたいものです。


さて、そんな今ひとつな雰囲気の演奏会だったのですが、曲目はプログラムを見ても分かるように、非常に意欲的なものであったと思います。オリジナルがヴァイオリンの曲が3曲も入れられています。特にJ.S.バッハによる無伴奏ヴァイオリンの為のパルティータ 第2番 シャコンヌは瀬尾氏自身の解釈によるものだとか。


このニ短調の有名なシャコンヌは、最初の和声進行が30回も繰り返され、この楽章だけで15分以上を要する大曲です。ヴァイオリンを知り尽くしたバッハが高度な技法を駆使して構築した崇高なる曲で、完成度の高さから独立して演奏されることも多い曲です。音域が似ているとは言え、重音などを出せない性能的に限界のあるフルートでどこまでバッハの世界に迫れるのかが、個人的には最大の聴きどころでありました。


しかしながら、期待と不安の交錯するなかで曲冒頭の重音を伴ったテーマが、驚くほど鮮やかに聴こえてきたときには、ゾクリとすると同時に小さな戦慄を覚えてしまいました。分散和音に乗って現れるテーマの確実さ、細部の構築とともに大きな枠組みを築くかのような音楽の作り方、どこを取っても瀬尾氏の完璧なまでのテクニックに裏打ちされた音楽は、ヴァイオリンの曲であることを忘れさせ、静かで深い感動を与えてくれました。まさに圧巻と言っていい感じです。


曲の感想を個々に述べても駄文にしかなりませんので、リサイタル全体を通じて感じた瀬尾氏のフルートについてだけ少し書いておくこととしましょう。


彼の使用しているフルートがどこのメーカのものかは分かりませんが、ゴールド系のようです。音質は柔らかでかつ深く、朗々という表現が適切です。東京文化会館の少々かため(のように感じた)の空間において、ピアノの反射板を全開にしていてもなおピアノと対等以上の音量を確保し、それでいながら自己主張しすぎる音ではなく、非常にストレートに響いてきます。中低音の豊かさ、ピアニッシモでのフラットさなどは特筆ものかもしれません。


フラットと書きましたが、瀬尾氏のフルートには「クセ」とか「節」のようなものが、ほとんど感じられません。素直であり、ある意味朴訥として聴こえる場面がないわけでもありません。逆に華やかさや煌びやかさというものは、瀬尾氏からはあまり感じません。


これが彼の持ち味であるのかどうか、たった一度の演奏会では分かるはずもないのですが、しかし、それだからでしょうか、瀬尾氏の音楽は、テクニックが云々とか音色がどうとかいう次元を少し超えていて、何か音楽の大きさを伝えてくれるように感じられました。あくまでも作曲家に忠実というのでしょうか・・・素人判断なので的確には表現できないのですが。バッハ以外では、フォーレとジョリヴェの曲が良かったですね。


今日の演奏会では、瀬尾氏は一言もしゃべらずに淡々とプログラムの6曲とアンコール2曲演奏してリサイタルを終えました。今年8月5日(木)に旭川市民文化会館にて札幌交響楽団とモーツアルト フルート協奏曲第1番を演奏する予定のようです。もう一度どこかで聴いてみたいものだと思いながら上野を後にしました。


■サイト内、瀬尾和紀関連エントリー

 ・L.ホフマン フルート協奏曲全集 第1集

 ・音楽雑記帳

マタッチッチ&チェコ・フィル/ブルックナー:交響曲第7番



  • 指揮:ロヴロ・フォン・マタチッチ
  • 演奏:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
  • 録音:1967年3月 プラハ、芸術の家
  • DENON COCO-70414 CREST1000

ブルックナーを聴くのは非常に久しぶりですし、サイトを始めて4年になりますがブルックナーのCDを取り上げたことは記憶では今まで1度しかないのではないかと思います。

別にブルックナーが嫌いなわけではありません。マーラーもそうなのですが、あまりにも崇高(=マニアック)であるため下手なことを書けないという思いが立ってしまうためです。

今日はウィスキーなどチビチビやりながら、ながらでマタチッチのブル7を聴いていたのですが、思わず怖気を感じてしまったので、聴きながらレビュを書くこととしました。今は岩のように硬い第三楽章のスケルツォが終わったところです。

マタチッチ氏といえばNHK交響楽団の名誉指揮者を長く務めたことでも知られていますし、ブルックナー指揮者としても確たる地位を築いていると思うのですが、恥ずかしながら氏の演奏を聴くのはこの廉価版がはじめてです。

酔った頭で思ったことは、質実剛健なブルックナーを地で行く演奏、全く停滞と淀みがなく堅牢極まりない確たる音楽の骨格が、嫌でもかというくらいに聴き手に迫ってくるということです。テンポはどちらかというと遅めでしょうか、遅いというか着実と言う方が正しいかもしれません、アゴーギクは結構ありますし。

豪快にして気宇壮大というのでしょうか、解説では「スケールの大きな解釈」とあります。スケールの小さなブルックナーなど聴いたことはないのですが、まあそういう演奏です。ブルックナーを聴く喜びがフツフツと沸いてきます。夜中なのに思わず握りこぶしを振りあげてしまいます。

私がブルックナーを始めて(CDですが)聴いたのは、朝比奈&大フィルの7番で(ザンクト・フローリアンの名盤ではない)一聴して私はブルックナーを好きになってしまいました。当時隆盛を極めていたNIFTYのFCLAでブルックナー情報を集め、朝比奈のフローリアン盤もすぐに入手し、4番から9番まで一気に集めて聴きとおしたことも懐かしい思い出です。ブルックナーは、理由は特にないのですが滅多に聴かないものの、久しぶりに聴くと血が騒いでしまいますね。

終楽章ラスト近くのホルンから一気に進むフィナーレにはもはや文句の付けようもなし! 1967年の録音ですが音質も問題なく、値段も1000円、こんな幸せがありましょうか。

2004年6月12日土曜日

ものごとの本質は天皇論か

先の木村剛に発することをつらつら考えるに、やはり気になるは日本の天皇制です。藤田省三氏の言葉で以下のようなものがあります。


天皇は道徳的価値の実体でありながら、第一義的に絶対権力者でないことからして、倫理的意志の具体的命令を行えない相対的絶対者となり、したがって臣民一般はすべて、解釈操作によって自らの恣意を絶対化して、これ又相対的な絶対者となる。(「天皇制国家の支配原理」)

深い!

三菱自動車のガバナンス

今日はヒマなので、珈琲を淹れコレッリのヴァイオリン・ソナタを聴きながらネットなど読んでいたところ、「週間!木村剛」で『マスコミが指摘しないカネボウと三菱自動車の共通点は何か? [コラム]』というエントリーが目に付きました。木村氏はカネボウと三菱自動車の不祥事に対して、


じつは、ひとつ、マスコミが全く取り上げていない重大なポイントがある。

それは、監査役の責任論だ。


と書き、日本のコーポレートガバナンスが『表層的なのだ。学者の教科書の世界を抜け出せない』ものであると指摘しています。木村氏の別のサイトでも読んだことのある主張です(日経だったか?)。




まあ、そうなんですが、日本において監査役とは「経営者の経営が正しいことを、建前として証明する」御用聞きみたいになっていないでしょうかね。日本企業の「経営」やトップの「責任」というものは、本当に明確になっているのでしょうか。


経営者である社長が名実ともに会社の中でトップであり、すべからく情報がトップに届くようになっているのかは疑問です。大方は、影の実力者である次席クラスやトップ取り巻きの茶坊主たちが、フィルターにかけた情報しかトップに流さず、全ては穏便に済まそうとする風潮はないでしょうか。何故って、次席や茶坊主に失敗は許されませんからね。


「コーポレートガバナンス」「コンプライアンス」、皆見せかけの借り物ですよね。言葉そのものが日本語ではないのですから、社員はほとんど理解しませんよね。例えば、私は年度始めの社長訓示とか年度目標に「コアコンピタンス」とかの舌を噛みそうな言葉をはじめて見つけたときにも、眼を丸くしたものです。


どんどん木村氏の話題からは話がそれていきますが、最近読んだ橋本治氏の「上司は思いつきでものを言う」という本の中に面白いことが書いてありました。貴族には「官僚貴族」と「領主貴族」の二種類があって、ヨーロッパは基本的に「領主貴族」、日本には領主貴族はなく「官僚貴族」だけであると言うのです。


領主貴族は「株主」で、ヨーロッパの王様は「株主に承認された会社の経営者」なのです。「株主」は、「社員」ではありません-このあり方をもっぱらにするのが領主貴族で、官僚貴族とは、「自社株をやたらと持ってる社員」なのです。

「自社の株をやたらと持っている社員」は、株主総会の制約を受けません。「経営者」でもないので、「経営責任」も問われません-これが日本です。

��中略)

日本の支配者たちは、ずっと「官僚貴族」なのです。つまり、オーナー社長に対する、「自社株を買い集める」重役でしかないのです。(P.175-177)


企業や会社の仕組みを本当に理解している方からは、異論があるかもしれない主張ですが、そういうものかと納得できたりもします。この章の前では歴史を紐解き、蘇我氏と物部氏の古の戦いを引き合いにして、


「日本の権力者は、天皇に仕える官僚達の頂点に立ち、決して天皇を倒そうとしない」という、日本特有の権力構造(P.174)

が、そのときからスタートしたと書き、


「日本では、形式的なことが重要である」-このことが重要なのは、日本が変わらない官僚文化の国であるから(P.175)

と説明します。そして、それが日本の企業文化にも引き継がれ、以下のようになるのだとか。


近代以前の日本の支配者の基本形は、「社長になりたがらず、重役のトップとして会社の実験を握りたい」です。


私もまがりなりにも大企業に勤めていますので実感できるのですが、責任の所在がはっきりしていないのです。プロジェクトや成果の責任が誰に帰属するのか、成功したときや失敗したときは誰が責任を取るのか。形式的には「社長」ですが、社長も薄々そういうことを知りながらも、黙認したり暗黙の指示しているのではないでしょうか(本当に知らない場合もあるでしょうが)。


何か全体性の中でウヤムヤになってしまうのですよね、破局が来るまでは。一番胃を痛めるような思いをしたのは、事実を知っていた担当社員ではないでしょうか。雪印だって、これではいけないという工場長か誰かが告発しましたよね。


木村氏の言うことは正論ではありますし、せっかく一歩進めた議論を泥の中に引き落とすような駄文を書く意味はないのですが、まあヒマだったものですから、そんなことを考えたのでした。

2004年6月11日金曜日

1.29ショック

今日の新聞各紙は昨年度の出生率が1.29と過去最悪であることに驚きの声を上げています。


2003年の合計特殊出生率(女性が生涯に産む子どもの数)が1.29と統計開始後の最低を更新した。厚生労働省の将来推計(2002年)では、出生率は07年の1.306を底に1.39まで回復する見通しで、これが「厚生年金保険料は将来18.30%で固定・給付は現役世代の5割」との年金改革法の基礎数字となっている。早くもそのシナリオがほころびそうな気配で、予想外の少子化急進行は、政府が打ってきた対策の手ぬるさへの警告と重く受け止めるべきだろう。(6/11日経新聞 社説)


それは確かにショックですが、なぜ年金改革法案成立した「今」発表なのか、数値については本当に「確か」なのか、疑念がフツフツと湧いてい来ます。ひょっとして今度は消費税率の改定に進みますか。つい最近、ほとんど唐突に議論もされずに内税表示方式になったばかりですから、布石は打たれています。


国民の不安を煽って金を巻き上げるやり口は、もはや新興宗教紛いになってきましたね。それでいて会計(使途)は不透明というわけですか。

2004年6月10日木曜日

ラウタヴァーラ:交響曲 第7番 「光の天使」、「天使と訪れ」


  • 指揮:ハンヌ・コイヴラ
  • 演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
  • 録音:2001年4月 スコットランド・グラスゴー、ヘンリー・ウッド・ホール
  • NAXOS 8.555814

現代フィンランドを代表するラウタヴァーラの代表作とされる交響曲第7番(1994年)を聴いてみましたが、これも不思議な魅力に満ちた驚嘆すべき音楽でありました。

「光の天使」という副題が付けられていますが、ここで言う「天使」とは、キリスト教的、あるいは私たちが日本人がイメージする森永ミルクキャラメル的な天使ではなく、もっと霊的なインスピレーションを感じさせる存在のようです。

かといって標題音楽というほどにテーマ性があるわけでもないようです。それでも音が放射する光のようなもの、自然に対する畏怖のようなものを感じさせてくれ、聴き終えてみればまさに「光の天使」であるなと納得するのでした。

ラウタヴァーラ的音響は、私にとっては一度聴いたら忘れられなくなる類のもののようです。仕事中でも、ふと気付くと頭のなかでラウタヴァーラ旋律が鳴っていたりしてはっとします(笑)。例えば、協和音の陶酔的な美しさや、不協和音の激烈さ、駆け巡るアルペジオや半音階旋律などですが。


ラウタヴァーラの曲を聴いていますと、確かに「癒し」効果があることには気付くのですが、これはちょっと意外な思いがします。決して心地よいく静かで美しいだけの音楽ではないのですから。先にも書きましたが、霊的といいますか、どこか神秘的なものに触れたような思いをさせてくれる音楽であることは確かです。音楽のカタマリが燦然と鳴り響き、混沌と無秩序の中に大きな存在を感じさせてくれたり、ある断片ではゾクリとするほどの鋭さと美しさを聴かせてくれたりすることが、大自然から感じる畏敬や神々しさに繋がるからでしょうかね。

「天使と訪れ」(1978年)という曲も、「天使」がどこに居るのかと思うほどに強烈な音響を聴かせてくれますが、弱まった音響の中から現れるものの姿や、強烈なる音響の際に聳え立つ姿なども畏怖と感動を覚えてしまいます。つくづく北欧というのは不思議で魅力的な国であるなと思うのでありました。

2004年6月8日火曜日

辺見庸:独航記

作家でありジャーナリストである辺見氏の四半世紀にわたって書かれた様々な著述の中から、氏が自ら選定したノンジャンルの発言・文芸・評論集です。辺見氏といえば、硬派のジャーナリストというイメージでしたが、本書からは氏の多様性と彼が何に拘っているのか、その水脈を知るようで(氏の言葉を借りれば「地下茎部分」となるのですが)非常に興味深く読むことができました。




硬派の文章からは想像だにできませんでしたが、本書に書かれていることに脚色がないとすれば、氏は女性関係で苦労もし、カラオケも歌えば、乱痴気騒ぎの後の二日酔いで東海道線のトイレでゲロ吐いたりするなど、相当に「だらしなく」「身勝手」です。


一方で「遊糸」とか「雪迎え」とかのような風物に心を動かすほどに「情緒的」で「風流」で、はたまた、烏に狙われそうな浮浪者を助けるでない自分の「偽善」と「ずるさ」を自覚したりします。

ソマリアの戦場取材中では、頭上をかすめる小銃攻撃に這いつくばりながら『眼を開けたときには[...]私の伏せている場所がどこか他国にあり、一面の向日葵畑にでもなっているといい』と考えるほどに、「普通の」男でもあることに、意味のない安堵を覚えたりします。


かように、等身大の辺見氏に触れる思いがするのですが、では辺見氏に対し私が抱く、ある種の「引け目」とか「負い目」のようなものが緩和されるかといえば、さにあらず。またしても、この男には適わないなという(勝負する気など毛頭ありませんが)思いが増幅されることにあいなった次第。氏自身はブレがあると恥じ入っていますが、氏の動かぬ「地下茎」はおそろしく「頑固」であり「堅固」であることには変わりないようです。


私が氏の著述を読んで感ずる「負い目」が何なのかは判然とはしないのですが、例えてみるならば、学生時代にどんなに高邁な著者の思想を聞きかじって振りかざしたところで、その欺瞞と思想的な偽善を一瞬のうちで論破されてしまうような友人などに対する負い目とでもいうのでしょうか。実体験や身体性を有さない発言の脆弱さとでもいうのでしょうか。


本書は雑多なテーマがごった煮のように詰め込まれていますが、それぞれの文章は極めて鮮度が高くそして印象的です。


本書の最後に「われわれはどんな曲がり角を曲がろうとしているのか」とする『世界』1999年6月号のインタビュー記事が掲載されています。その中で、辺見氏がよく使う「鵺のような全体主義」という言葉が出てきますが、氏の主張の中で重要なテーマの一つなので引用しておきましょう。


鵺のような全体主義のやっかいさは、「主体」がないことだと思うのです。菌糸のように絡まりあう全体主義でもあり、明確な責任をもった主体が皆無に等しく、全員が自覚なき共犯者で、無責任に絡まりあい、発行しあう。


氏は『鵺のような全体主義が議論を殺している』と批判し、矛先をマスコミにも向けており、以下のように続ける点は2004年の今をも照射しています。


皆がなぜか肯綮に中るのを恐れ、大事なテーマを深めるのでなく、テーマを拡散し、攪拌してしまっています。情緒を前面に押しだして冷静な論理を圧殺してしまう。問題の芯には触れず、枝葉ばかり論じる。マスコミはそうし向けていく酵母菌のようです。「個」を発酵させて、全体の中に溶かしてしまう。そのうちに、マスコミは肯綮がどこにあるのか、芯や急所が奈辺にあるのかさえ分からなくなる。これらもまた、鵺のような全体主義の特徴です。


最近のイラクへの自衛隊派遣問題、イラク人質事件、北朝鮮問題、年金問題などを振り返るまでもなく、氏の指摘が鋭く正鵠を射ていることに驚かされます。

2004年6月7日月曜日

子供の範たる大人が


佐世保の事件に関して、少ない表面的な事象が明らかになってきました。特に衝撃的だったのは児童のHPでしょうか。


しかしながら、加害者の児童のHPでの雑言に怖れをなす大人やマスコミは、これまたいったいぜんたい、世の中のネット社会に潜む善良で普通の人たちの匿名の悪意を、知ってか知らないフリをしてか、本当のところ何をどう考えているのか、疑問が湧いてくることを否定できません。ケイタイもゲームもネットも、暴力も偽善さえもも、全ては大人が無制御に再生産しつづけているもので、子供はそれをよく吸収してくれているわけです。小学生の子供は、普通は「愚民」という言葉は思いつきませんよね。




��月6日の読売新聞の編集手帳では、『普通の子は理由が何であれ、カッターナイフで人を襲ったりはしない[...]十一年間の成育の過程を詳しく調べてこそ、「なぜ」という疑問に迫ることができる』として、命を大切にする教育の重要性を主張し、『三度の食事をしっかり取り、思い切り運動をして汗を流し、基本的な学力をきちんと身につけていく。これができる環境を家庭や学校でいかに作っていくか。それが先決のような気もするのだ。』と結んでいます。子供を調べることは重要でしょうし、事件の背景の鍵にはなるでしょうが、重要なところが抜け落ちてしまわないでしょうか。


読売の言っていることは正しいように思えたのですが、どこかずれています。仮にそうだとしても、読売の態度をちんと子供に示せる大人はどのくらいいるのでしょう。暴力と殺戮場面とポルノに満ち溢れた少年マンガは、子供たちの受けを狙ってどんどん刺激がエスカレートしていっています。「愚民」を教えたのもカッター殺人を思いつかせたのも、大人たちです。


その大人たちは「三度の食事をしっかり」取ることさえできず、そのうちの二度はおろか一度さえ子供と一緒の食事などできないのではないでしょうか。「それが先決」なら見直すべきは、根本から我々の在り方や処し方、ひいては日本のあるべき方向全てを含めてなのでしょう。でも誰もそんなこと議論しません、だからまた起こるのですよ、形を変えて。私たちはエリート学生が歩んだ「オウムの悲劇」さえ清算できていませんし、いまの日本社会は清算する意思さえないようです。


ネットとともに映画「バトルロワイヤル」が悪影響を及ぼしたという論調も大きくなるでしょう。深作監督の「バトルロワイヤル」を評価する人もいるようですが、私は観ていませんので論評はしかねます。ただ、善悪や精神的に発展段階の子供(や子供に類する大人)には、やはり見せてはならないもの、目に触れてはならないものはあるのだと思います。


今のネットではもう倫理も道徳も何もかも吹っ飛んで、なんでもありの状況が無防備に展開されているのが実情です。それを放逐しているのも大人で作っているのも大人なんですよね。「知らなかった」「驚いた」「ここまでとは」「予想を越えた展開」などと言う事は許されません、特にマスコミに当たってはです。


以前も書きましたが、政府や犯罪を批判する雑誌や夕刊紙が、同じ紙面で売春奨励記事やポルノ記事を載せているのですから、どうなっているいのでしょう。些細なことに目くじらを立てるなという意見が大半でしょうが、そんな態度のマスコミの言質を全面的に信用する気にはなれないものです。(もっとも、俗悪な記事のないオピニオン誌も相当に信用ならないのではありますが)

日曜美術館 森村泰昌の「画家のアトリエ」

日夜に放映さたNHK新日曜美術館は「フェルメール“画家のアトリエ”再現・森村泰昌との対話」と題するものでした。フェルメールという活字に惹かれて観たのですが、内容は写真家森村氏の活動がメインでしたね(笑)。

NHKは森村氏が結構お好きなようで何度か彼の特集を観たことがあります。森村氏は、知る人ぞ知る写真家でして、自らが名画のモデルに扮して写真を撮ってしまうという、変わった作品を発表しつづけている方です。

今回の趣向は、フェルメールの「画家のアトリエ」を再現して、画家とモデルになりきって写真作品にするというものですが、私が興味深かったのは、この絵が「完璧な遠近法」に則って描かれているという事実です。

この絵に接したことがある方は、森村氏も含め不思議な感覚に襲われると思います。それは「距離感」の喪失ということに象徴されるのですが、画家とモデルの距離感と、画家と壁の距離感があまりにも違うように思われることからそう感じるのだろうとは薄々気付いていました。

それゆえに、私も床タイルをもとに部屋の大きさや画家とモデルの距離を考えたこともあるのですが、今回はコンピュータを駆使した3Dによるアトリエ再現の努力のかいあって、部屋の大きさから画家とモデルの位置関係などが、数学の解を得るように明らかになりました。

それによると、モデルは壁のすぐ近くに立っており、かつ画家とモデルは非常に近い距離にあって、部屋のごく偏った位置に居るのだそうです。さらに遠近法の尺度ではモデルの身長は140cm程度と子供程度であるのだそうです。3Dのアトリエを色々な角度から見ることで、「画家のアトリエ」のアングルが遠近法的な距離感を喪失する一点であることも明らかにしています。

このような親密な空間を後ろからカーテンを捲った状態で観ているため「覗き見するような」「見てはいけないものを見た」気にさせるのかもしれません。

モデルの身長を140cm程度という点を取って、モデルがフェルメールの娘かもしれないとする森村氏の意見には同調できないのですが、むしろモデルの大きさ(小ささ)はフェルメールの作為であり、これこそ「遠近法破り」の極致的技術であるように思えました。親密でありながら茫とした、あるいは消え入りそうな儚さを感じさせる所以であると私は思うのです。


森村氏の尋常ならざる探究心により、またこの絵画の魅力に触れた思いでありました。

年金国会、はあ・・・=3

年金国会の一党独裁政権による強行採決や、野党のいったいぜんたい何をしたいのか分らない牛歩戦術の愚などを見せ付けられては、亡国の首相でありませんが「いつまでこんなことをがまんしなくちゃならないんでしょうね」と言いたくなるのは、こちらの方だと言いたくなってきます。


ここで諦めたりキレたりしてはいけないと「週刊!木村剛」は切り込んでいますが、なんだか気力が沸きまへん。今度「月刊!木村剛」が創刊されるらしく、創刊号は年金問題らしいので、もう一度勉強しなおすこととします。



それにしても、暴挙と言えるような国会運営は今回に限らず、有事関連法案などにおいても嫌というほど、ここ数年見せられ続けて来ましたので、他の方はどうか知りませんが、私の場合、是認なのか思考停止か、あるいは諦めか、それさえも判然としなくなってきました。

国民が皆怒っているのかと思えばさにあらず。このような政党を選んでいるのも国民であるため、それを言うのもお門違いということなのでしょう。各論で反論はするものの、全体では「まあ賛成、現状維持」という極めて日本的といえば日本的な感情でしょうか。


考えてみれば「天皇制に反対か」と問われれば「問題あり、議論の余地あり」と答えますが、「では、廃止すべきか」と問われれば「まあ国民の象徴ですし、まずは維持かなと」とか、「安保と有事は是認すべきか、憲法九条は改訂すべきか」と問われれば「問題多く議論の余地あり」と答えますが、「では安保廃止、自衛隊解体すべきか」と問われれば「それはちょっと困るか」と答えてしまうほどに、不確かで曖昧なスタンスでしかないわけです。


かくも政治的に未熟でありつづけ、そのように慣らされてきた成果が、今の自民党一党独裁政権による日本式社会主義を支えているのであると、自虐的に思わざるをえないため、出るのはもはや溜息=3ばかりというところです。

2004年6月5日土曜日

ラウタヴァーラ:交響曲第3番

ラウタヴァーラ:
カントゥス・アークティクス
ピアノ協奏曲 第1番 Op.45
交響曲 第3番 Op.20
指揮:ハンヌ・リントゥ
演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
ピアノ:ラウラ・ミッコラ
録音:1997年8月 グラスゴー・ヘンリー・ウッド・ホール
NAXOS 8.554147

NAXOSのラウタヴァーラの盤を紹介していますが、この盤の最後は交響曲第3番です。

1959年から60年にかけて作曲された交響曲第3番は、1番のロマンティシズムと2番のモダニズムを統合したような曲であるとラウタヴァーラ自身は語っています。調整的な12音技法も使われているのですが、いわゆる現代音楽的な響きはそれほど多く聴かれるわけではなく、むしろ壮大なるロマン派の交響曲にシベリウス風のアレンジが組み合わさったような曲として感じられます。

1959年から60年にかけて作曲された交響曲第3番は、1番のロマンティシズムと2番のモダニズムを統合したような曲であるとラウタヴァーラ自身は語っています。調整的な12音技法も使われているのですが、いわゆる現代音楽的な響きはそれほど多く聴かれるわけではなく、むしろ壮大なるロマン派の交響曲にシベリウス風のアレンジが組み合わさったような曲として感じられます。

第4楽章はブルックナー的な音楽を聴くこともできまして、ラウタヴァーラは以下のように書いています。
The musical pulse of the fourth movement progresses in solemn, almost Brucnerian arcs, as if echoing the rhythm of the earth and sea.

ですから、はじめて聴くのにどこか懐かしく、そして圧倒的な音響の前に、大自然の中に放り込まれたような感動を覚えることができます。こういう傾向の曲がお好きな方には、非常に贅沢な音楽と言えるかもしれません。

曲は4楽章形式で構成されています。第一楽章は弦の弱音トレモロに乗ってフルートを初めとする木管が囀り、そこにあたかも夜明けを告げるかのようなホルンの響きがかぶさります。まことに絵に描いたような感動的な音楽であります。聴きようによっては「ジャングル大帝レオ」の冒頭のテーマのようにも聴こえてしまうのですが、それはそれで感動的であることに変わりはありません。

すぐにストラヴィンスキー然の混沌とした響きに変わりますが、それでも崩れまくることはせずに音楽は流れます。ラウタヴァーラは木管の使い方や、アルペジオの扱いが上手いですね。音楽に優雅さと儚さを与えてくれ陶然とさせてくれます。第一楽章のラストで、再びホルンのテーマに乗ってフルートがアルペジオを踊って終わりますが、何度聴いても良い部分です。

第二楽章も、ホルンの柔らかなテーマに木管が絡んで始まります。森の中を分け入って行くかのようです。中途の壮大な部分は、急に視界が開け荘厳な風景が現前に立ち現れたかのような趣さえあります。第三楽章はスケルツォで躍動感を楽しむことができます。ブルックナー的色彩を聴き取ることができるかもしれません。楽章ラストはトロンボーンも木管も暴れまくって幕を閉じます。

第四楽章はさらに猛然と始まります、ドライブ感が溜まりませんね。ここでも金管の咆哮するクライマックスが待っています。様々な音響が畳掛けるように鳴り響くうちに、シベリウスの交響曲第5番を彷彿とさせる大自然の呼吸が聴こえたり、あるいはブルックナー的大伽藍が見えたりと、なかなかに楽しませてくれます。ウルサウルサとシズカシズカの交替もブルックナー的といえば言えるかもしれません。

最後は意外なことに消え入るようにして終わるのですが、それもしみじみとした味わいがありまして、交響曲を聴いたという満足感に浸ることが(たぶん)できます。

2004年6月4日金曜日

佐世保の児童殺人事件

世保市の小学校で起きた6年生女児の殺傷事件について、まだ詳らな事実関係はよく理解していないのですが、痛ましさとともに深い脱力感を覚える事件として記憶に留まることになりそうです。

関係者の方々のご心痛は推し量ることもできませんし、今後、少女や環境に関する分析、それにネット社会が子供に与える影響について、深い論考がなされるのだろうとは思うのですが、おそらくは何も見えてこない、玉ねぎの皮をむくようなことになるような気がしています。




思い起こすと、昨年7月には長崎県で中学校1年生の男児が幼児を駐車場から投げ捨てるという事件が起きました。このときも私は衝撃を受けて意見箱に書き込みをしましたが、今回も思うことは同様です。子供をいくら調べても、闇は出てこないのではないか、なぜなら、真の闇は大人社会にあり、たまたま大人社会の悪意が子供という化生となって今回の犯罪が結実してるように思えるからです。


言い古されていますが、犯罪は社会を写し出しています。その時代の空気を象徴する事件というものが、必ず起きて、そしてどこか社会はガス抜きをしながら微修正をしたり、あるいは更なる奈落へと進むんでいるように感じます。


��月4日の日経新聞の春秋では『最近の子供たちの異常な行動をあれこれ考え合わせると、起きるべくして起きたような気もしてくる。』と書きながらも『だが真相は謎である。[...]子供は変わったようだ。なぜなのか、どうしたらよいのか、わからないのがもどかしい』などと呆けた事を書いています。メディアが狼狽したり思考停止してどうしますか。


��月2日の朝日新聞社説も、『なぜ事件が絶えないのか。動機や背景を詳しく探らなければ防止策を見つけられない。今回の事件についても児童相談所は究明してもらいたい。』などと書いています。児童相談所に究明してもらいたい、ではないでしょうに。『カッターナイフは工作の授業で使うことがある。刃物は使い方を誤ると人を傷つけ、命にかかわる。このことを子どもたちにあらためて教える必要がある』って、朝日新聞、お前はアホかいな。


��月3日の産経抄は『「殺す」ことを、ゲームやテレビのスイッチを切るのと同じように考えていたのではないか、とみる識者もいる。』と書いていますが、「殺してはいけない」ことを教えるべき大人たちは、それをきちんと言葉ではなく実践できているでしょうか。人間に対してだけではなく、ペットやものに対してもです。


何度も書きますが、子供を調べても何も分からないような気がしてなりません。普通の人が普通でない行動をする、あるラインを超えると自制が効かない、切れる限界が低い、行動原理が快不快で左右される、相手が傷つくことに無頓着であるなどなど。昨今の人質パッシングの風潮を見るまでもなく、ネットやメディアとかいうことを含めて、子供の範たる大人社会が狂っているとしか思えません。ネットを作り出したのも、使っているのも、匿名で相手を罵り合うのも、姿のみ大人たちの専売特許でしょうに。

カッターが悪いとか刃物の使い方とか変な方向に議論をせずに、きちんと大人社会について考えない限り、またしても、ある子供がスケープゴートとなるような事件は起きてしまうのではないでしょうか。犯罪を犯してしまった加害者も、そして被害者も、同じように不幸な被害者のような気がしてしまいます。