2004年7月30日金曜日

国旗や国歌に関する軽い話題


最近は下火になってきましたが、国歌、国旗について議論が百出です。日本の場合、国歌や国旗に問題があるから新しいものにしようという動きがなかなか出てきませんよね。逆にモンク言っても愛着があるのかなと。


「拍手は指揮者が手を下ろしてから」というサイトで、新ロシア国歌の浸透度というエントリーがありました。これには、




大国意識を国家発展の原動力にしたい大統領は、3年前、旧ソ連国歌に新歌詞を付け復活させた。だが、ある調査によると、歌詞を知っている者は「30人に1人」とされている。


という新聞記事を引用しながら、サッカー欧州選手権に国家演奏中にガムを噛んでいる選手にプーチン大統領が苦言を呈したということなのですが、まあ、そんなものでしょう、と私など思ってしまいます。国家が押し付けたって、愛着がなければガムでも噛んでます。


一方、田中宇の国際ニュース解説の最近の記事「キリストの再臨とアメリカの政治」においても、イラクの国旗のことが紹介されており、


昨年からのイラク戦争では、米占領軍政府が、キリスト教右派勢力に対するイメージ戦略ではないかと感じられるいくつかの政策を行っている。その一つは、今年4月末に制定されたイラクの新国旗である。この国旗は、白地に青色の三日月が描かれ、その下に2本の青・黄・青の順番に3本の線が入っているもので、イラク人たちは「イスラエルの国旗を想起させる」として猛反対した(イスラエルの旗は白地に青色の星が描かれ、上下に青線が入っている)。

と書いています。


このように、国旗も国歌もプロパガンダとして利用する格好のものなんですから、やっぱりまともにお上の言うことなど聞いていられないと考えるのは「反日」ですかね? 日本の出るサッカーで高らかに「君が代」が斉唱されていますが、やっぱり私には、あまり気分のいいものではないですね。つーか、節がしみったれてんだよな。


じゃあ、新しい国旗や国歌をつくろうとは誰も言わない。結局は何かのアイデンティティは欲しいけど、今のものもモンダイあるけど、ま、いいかというところなのでしょうかね。

K作譲をめぐる二つの闇

昨日(28日)、何気なくテレビ朝日の「報道ステーション」を付けたら、15年前の「綾瀬 女子高生コンクリート詰殺人事件」の主犯格であるK作譲(旧名:O倉譲、当時:少年B)*1)の母親がインタビューを受けていました。K作譲は少年刑務所での刑期を終え、5年前に社会復帰していました。最近、暴行事件で再犯を起こしており、その初公判が28日に開かれたことを受けての番組です。


テレビ朝日は何の目的でK作の母親にインタビューを試みたのでしょう。解説者が「(再犯してしまった理由について)少年刑務所という刑罰を主とする主とするところに入れられたため『更正』がないがしろになってしまったのでしょうか」と言い、「更正プログラムが必要」などと言っていましたが、そういう考え方もあるのかと思いながらも、私は自分の座標軸が傾くような違和感に襲われていました。


この件に関するネット上の意見をざっと眺めると、加害者に対しては「鬼畜」に更正なしとの論調、テレビ朝日に対しては、(変わらぬ)犯罪者擁護の報道姿勢、母親に対しては無責任さに批判が集中しているようです。


「座標軸が傾くような違和感」とは、今もネット上に増殖している、これらK作をめぐる論調と私の感じる軸が大筋ではずれてはいないにも関わらず、でも何かが違うということを解明できないことに対する違和感でありました。




まず言えることは、K作が生きていて彼の名前が(仮名であっても)登場し、それを知る者たちが事件を思い出す度に、被害者は幾度にも陵辱されて殺され、被害者の家族には耐えようもない苦痛を与えるのだろうということ。また事件を思い出す私(達)は、加害者の怖るべき闇とともに、事件から何らかの妄想をもそこに見出すことを繰り返してしまうということ。これも私の座標軸がねじれる原因の一つです。


私はあの事件とは直接的な関わりは全くありませんが、事件を思い出すと、なぜK作が今も生きていて「普通の生活」ができるのか不思議でなりません。更正した犯罪者を受け入れるということは、犯罪の過去を赦し許容したことを意味します。この事件では私は彼を受容できません。出所者に対する、そういう偏見や無理解が新たな犯罪の土壌になるのだと言われても、事件が事件なだけにムリです、そういう種類の犯罪です。


一方で、きれいごととしては、人間の命は何ものであっても奪うことはできない、とか、絶対に許してはいけない罪などない、などという法的、倫理的な問題と向き合う必要性も感じてはいます。


しかし、肝心の法律、倫理、文学、哲学、さらには宗教を含め、「快楽殺人」を扱えるほどにそれらは成熟していないように思えます。「快楽殺人」とは、戦争をやらなくなった人類の病理かも知れないからで、増殖しつづけている病理に、新しい手法でどう向き合うかが問われているのかもしれません。(戦争に限らず、近代が始まる以前は結構身近に「殺人」があったのではないでしょうか。罰せられるか否かは別問題です。人が武器を捨て、決闘や私憤を含め「人をむやみに殺してはいけない」とした歴史の方が短いように思えます。それと犯罪の関係は分かりませんが)


こう書くと、事件を社会に転化するように感じられるかもしれません。たとえば、佐世保の同級生殺人事件の際に私は『真の闇は大人社会にあり、たまたま大人社会の悪意が子供という化生となって今回の犯罪が結実』と書きました。しかしどちらも、事件の責任を社会に転嫁するような意味合いで書いたわけではありません。事件の背景として、社会・歴史的なものまで含め犯罪学的に研究が必要ではないかということです。それとは別に、犯罪は犯罪として犯したものが生き続ける限り一生背負っていかなければならないことには変わりありません。


では、どんな一生があるのかと考えたとき、コンクリート詰め殺人事件の場合、加害者が更正し社会復帰して普通の生活を送ることが、社会の求めることなのだろうかと、また軸がぶれ始めます。


あの事件は本当に酷い事件でした。殺された女性が40日間もどんな責め苦にあったか。ゴキブリや自分の汚物を食べさせられ、性と暴力の玩具となり、使い物にならなくなった挙句に捨てられたのです。コンクリートから発見された死体は、顔や性器は破壊し尽くされ、膣にはオロナミンCの瓶が2本入ったままだったのです。髪は抜け落ち、脳は萎縮していたと言います、恐怖と絶望のために現実から逃避した結果なのですとか。(こう書くことそのものが、彼女を再び殺すことになっているとは思うのですが、ご容赦ください)


感情論では「鬼畜に人権なし」「直ちに極刑を」とする論調は揺るがないのですが、しかし、こうした論調にもまた、K作とは違った大きな闇を見る思いがして慄然としてしまうのです。なぜならそれは、突き詰めると二元論的な単純さと、畢竟は人間に対する絶望を意味しているからです。


人間に対し性善説的の立場に立ち、どんな悪も償われ、そして更正できると考えることは、前向きであり是とすべきはずの考え方でした。今回の事件では、そういう感覚を根底からぐらつかせます。個人の本質を真の意味から変えることなどできないのだと突き付けます。赦せない罪があるのだと迫ります。それらを認めたとき、果てしない無力感と絶望感に襲われる思いがするのです。




  1. 以前は伏字なしで記載していましたが、当ブログの検索ヒットNo.1が本エントリであることを知り、本意ではないことから伏字としました。

2004年7月26日月曜日

映画:ゴッド・ファーザー(デジタル・リマスター版)

「ゴッド・ファーザー」(デジタル・リマスター版)を期間限定で上映しているというので(ユナイテッド・シネマ・としまえん)観てきました。


言わずと知れた超名作ですから、今更内容について語る愚も冒しますまい。このパート1は劇場で見るのが始めてだったのですが、「いやあ映画って、本当にいいものですね」とか思わず漏らしてしまいました。「完璧」と評するほどには他の映画を知らなすぎますが、まあ自分的にはベストに近いですね。






デジタル・リマスター版とのことですが、フィルムに退色はあるものの作品自体の価値は全く色褪せていないどころか、今時このような映画を作ることができるのだろうかとさえ思ってしまいます。3時間にも渡る大作ですが、どのシーンも見逃せないといったところ。現代の映画に比べるとテンポ感が遅めではありますが、逆に現代の映像が速すぎるのではないかとさえ思えてしまいます(>というかオレが年なのか)。


内容は、とにかく、重い、熱い、そして深い。マーロン・ブランドがこの役を演じたのは47歳のとき、役作りの見事さもさることながら、映像での圧倒的な存在感には畏怖さえ覚えました。あと、やっぱりアル・パチーノですかね。最初は青年の顔だったのに、映画が終わる頃には、まさにゴッド・ファーザーの顔つきになりきっている。

暗殺シーンの生ナマしさは、最近の映画と比べても異質な迫力を有しています。ラストの教会での洗礼に絡めたシーンも凄い。残酷なシーンだが練りに練られていて、上質のワインとかコニャックのよう。聴きなれたニーノ・ロータの音楽も映画と一緒に観ると一層の哀愁が漂います。


現代から失われた父性とか家族愛、若者の野心など、いくつものテーマを内包しつつ、色々な意味で不朽の名作であることは間違いないようです。ギャングの家族が揃ってメシを食っているシーンなど、本当に良いですね(^^)。


パート2、パート3も劇場でやってくれないでしょうかねえ。>って調べたらやっているよ。

2004年7月23日金曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」

「椿姫」(DVD)を聴きました。随分前に買って一度通して聴いていたのですが、あまりにも感動してしまったので、後でゆっくり感想でも書こうと思っていたのです。今回、改めて聴きなおしながら感想を綴ってみました。ちなみに「椿姫」初体験です。以下非常に長文になってしまいました。












  • ヴォイレッタ:アンジェラ・ゲオルギュー
  • アルフレード:フランク・ロバード
  • ジョルジョ:レオ・ヌッチ
  • フローラ:リー=マリアン・ジョーンズ
  • アンニーナ:ジリアン・ナイト
  • 指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ
  • コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団、合唱団
  • 演出:リチャード・エア
さてこのDVDは、ショルティ指揮、コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス歌劇団による1994年のライブ映像なのですが、何と言っても素晴らしいのは、ヴィオレッタ演じるソプラノのアンジェラ・ゲオルギューでしょうかね。この薄幸の美女を演じきるには、あまりにも適役というのでしょうか、とにかくソプラノ歌手でありながら素晴らしい美しい容姿と歌声なのです。

第1幕

前奏曲が終わってヴィオレッタの客間での宴会からオペラは始まりますが、ここで登場するヴィオレッタときたら、肩まで露にしたドレスを身にまとい、あの細いウェストのどこから、あんなに高いコロラトゥーラ・ソプラノが出てくるのかと不思議になるほど。歌と映像に溜息の連続です。

なにせ私は他を知らないので比較もできないのですが、ヴィオレッタ役というのは、揺れ動く激しい女心を短い時間の間で表現しなくてはならない、かなり難しい役どころなのではないかと思うのですが、アンジェラは実に見事に演じきっているように思えます。そして、どこを聴いても名アリア集を聴いているような「椿姫」ですが、全体あっての部分であることを改めて思い知らせてくれます。

第1幕では、「ああそは彼の人か」から「花から花へ」と歌い継がれる場面など、ぞっとするほどに美しく仕上がっています。ヴィオレッタがアルフレードに傾ける心を歌いながら、結い上げた黒髪をほどいてゆく演技をしながら歌うのですが、今までの頑なな自分の心を解放してゆくことを暗示しているようでもあります。ふと我に返って「花から花へ」を歌うところの心の迷いと狂乱振りは、背筋に寒気さえ走るような演技をみせてくれています。



ヴィオレッタが自分の薄幸の身を嘆き、アルフレードの愛に身を任せることをためらう独り言の後に歌われる「花から花へ」ですが、"Sempre libera degg'io Folleggiare di gioia in gioia"(いつも自由で、歓びから歓びへと舞い狂わねばならないの)とはじまるところは、ほとんど声が割れているような歌いっぷりなのですが、それがヴィオレッタの自暴自棄さを表現しているようで、何度観ても涙をそそります。

ヴィオレッタのアリアに、アルフレードの「愛の主題」"Misterioso altero, Croce a delizia al cor"(神秘的で誇り高く、心は苦悩となり、歓喜となる)が、被さるように歌われるのですが、ここはいかにもヴェルディ的であるなあと思いました。

というのも「リゴレット」第3幕の最後でリゴレットが復讐を遂げたと喜びに震えているその裏で、マントヴァ公爵の「風に踊る羽のように」という有名なカンツォーネ「女心の歌」が歌われますが、あの残酷なまでに劇的な場面を思い出したからです。

第一幕は不摂生を続けるヴィオレッタがアルフレードの純真な愛に目覚めるまでなので、ヴィオレッタのことばかり書いてしまいましたが、最初の宴の場面で歌われる、これまた有名すぎる「乾杯の歌」も実においしく、第一幕を聴いただけで、今日はおなかいっぱいというところです。

作品について

ちょっと付け加えると、ご存知のように「椿姫」とはアレクサンドル・デュマ・フィスの小説に基づいて作られたものです。「椿姫」はヴェルディによって「La Traviata」と改題されましたが、それは「道を踏み外した女、堕落した女」という意味です。原作でヴィオレッタは高級娼婦マルグリットとして表現されています。アルフレードは娼婦に純粋無垢な愛情を注ぐ青年アルマンです。

ヴェルディの「椿姫」においては、ヴィオレッタが貴族を相手にした高級娼婦であるとは、リチャード・エアの演出からは感じ取ることができませんが、彼女の苦悩や「友人も家族もなく独りパリに捨てられた」薄幸の身の上や、愛を捨てた過去については、説明がなければ納得がいかないと感じたものです。だからといって高級娼婦という役割を与えるのも酷すぎる気もしますが、いずれにしても貴族の財力を当てにしたパトロンなしには生きていけない女性ではあるのかもしれません。

作品の背景

椿姫について、ネットで調べていたら、これ以上短い紹介はないというくらいの名文に出会いました。OperaGlassというサイトの「椿姫」のページですが、そこには以下のようにあります。

Setting: Paris and environs, around 1700.
Plot Summary
Act I
Violetta, a consumptive courtesan, falls in love with Alfredo.
Act II
Scene 1: Alfredo's father convinces Violetta that she must leave him for the honor of the family.
Scene 2: Alfredo publicly insults Violetta at a party. The guests are shocked.
Act III
Violetta dies.
これによると、ヴィオレッタは「消耗的な売春婦」ですか。売春婦と息子がデキてしまったのですから、父親としても「家の名誉」のために躍起になるのは当然ですね。そして第3幕は「ヴィオレッタ死す」ですか。いやはや、正しいけれど実も蓋もありませんね、これでは(笑)

作品の時代ですが、ヴェルディの原譜には時代指定がなかったそうです。その後、初版の楽譜がリコルディから出版された時に「1700年頃」と指定を書き換えたそうです。一方、デュマ・フィスの原作も、リチャード・エア演出の本上演も時代は1840年頃パリとなっています。現在の上映においてはデュマ・フィスの小説と同じ19世紀中葉とすることが多いようで、1964年版のリコルディ社のピアノ総譜でも「1850年頃」とされているのだそうです(DVD解説より)。



さきに紹介したサイトには歌劇のPicture Cardsも紹介されております。上は第1幕のものですが、コメント(英語しか読めず)によると、この絵の設定は1700年頃、それは20世紀初期までのイタリア舞台における一般的な選択であったのですとか。それにしても、文学も音痴な上に世間知らずなのでよく分からないのですが、パリの高級娼婦というのは、こういう生活環境だったのですか。

あと、オペラの概略を知る上では欠かせないのが、音楽よもやま話というサイトですが、椿姫についても詳しくMIDI音源付きで説明してくれていて助かります。興味のある方はそちらをご覧になられるのがよろしいかと。

第2幕 第1場

さて、この場面はアルフレードの父親ジェルモンがヴィオレッタに息子と別れることを懇願する場面です。ここも名曲のオンパレードの様相を呈していますが、レオ・ヌッチの演じるジェルモンが良いですね。ジェルモンの"Piangi, o misera, piangi!"(お泣きなさい、不幸な人、お泣きなさい)と繰り返すフレーズがアタマに付いて離れてくれません。自分で泣かせておいて「お泣きなさい」もないものだとか、息子と別れろとは"E Dio che ispira, o giovine, Tai detti a un genitor."(神様のおぼしめしです、若いお方よ、ひとりの父親にこんな言葉を言わせるは)なんて、白々しくもよく言うよとか思うのですが、まあ感動的な場面です。



ジェルモンのアリアは「天使のように清らかな娘」とか「プロヴァンスの海と陸」とか、聴き所が多いのですが、私は"Un di, quanto le veneri, Il tempo avra fugate, Fia presto il tedio a sorgere..."(いつの日か、時が魅力を失わせ、すぐにあきがきたら・・・)と、老獪さを露にヴィオレッタを説得するアリアが好きですね。また、ここでのヌッチの表情がいかにも「お若い娘さんよ、よくお聞きなさい」的で抜群です。しかも、独特のフシ回しで歌うところが、ワーグナーの「マイスタージンガー」に出てくるヴェックメッサーの嫌らしさを彷彿とさせるのですよね。こういう歌い方は何というのでしょう。

このように第2幕 第1場は一見すると第1幕ほど華やかではないのですが、観れば観るほど惹かれる場面です。一番好きなのは、アルフレードとヴィオレッタの別れのシーンです。ヴィオレッタが次のように歌う場面は、何度見ても涙が出ます。

Lo vedi? Ti sorrido...(わかるわね?・・・笑っているでしょ・・・)
Saro la, tra quei fior,(ここにいるわ、あの花と一緒に、)
Presso a te sempre.(いつまでもあなたのそばに)
Amami, Alfredo,(私を愛してね、アルフレード)
Amami quant'io t'amo!(私があなたを愛しているとおなじだけ!)
Addio!(さようなら)

高級娼婦 クルティザンヌ

昨日、無知無学にも「パリの高級娼婦というのは、こういう生活環境だったのですか」などと書きましたが、高級娼婦というのはどういうものなのか、格好の本がありましたので立ち読みをしてきました。(「椿姫とは誰か―オペラでたどる高級娼婦の文化史」)

これによると高級娼婦クルティザンヌ(courtesan)は、一般的な売春婦とは一線を画した存在であったそうです。当時のパリは経済的に豊かになり、貴族階級が快楽的な生活を求めることと、キリスト教に根を持つ性的なタブーから解放されたことなどが重なり、クルティザンヌという存在を生んだのだと説明しています。

「椿姫」のヒロインのヴィオレッタも、アルフレードとの純愛物語と捉えると、まったくその背景や本質を見失うことになってしまいそうです。ヴィオレッタがパリにおいて「友人も家族もなく孤独である」身の上でありながら、貴族たちに対し朝までの宴会を供したり、若い純真なアルフレードを「囲う」ほどの財力を持っていたことなども、当時のクルティザンヌの生活や財力の一端なのでしょう。アルフレードは南フランスはプロヴァンス出身ですから、パリから見たら「田舎の貧乏な若者」という存在だったのかもしれません。

また、彼女が第一幕で、どうしてあれほどに自暴自棄に快楽の世界を求めるのか、そしてアルフレードの愛を何故受け入れようとしなかったのかも、クルティザンヌの持つ苦悩とあわせて考えなくては理解できないものとなります。第ニ幕でヴィオレッタがアルフレードのために全財産を投げ打つことで、過去の罪を清算しようとする気持ちも、彼女がクルティザンヌでなければ理解できないわけです。

しかし驚くべきはクルティザンヌという存在です。下はリアーヌ・ド・プージィという高級娼婦だそうです。この本は行きつけの書店にありませんでしたので内容を確認できませんでしたが、本の紹介には以下のようにあります。


ベル・エポック最高の美女。プルースト、コレット、コクトーが競ってモデルとした社交界の女王にして、パリ・レスボス界の女神。
表紙の写真を見るだけで、日本人の私がイメージする娼婦とは全然趣が異なっていてびっくりです。日本にも吉原の遊女がおったそうですが、身分などは全然違うものでしょう。実際、当時のパリにおいてはクルティザンヌは蔑視されていたわけでは全くなく、人気のクルティザンヌのブロマイドやイラストなどに人気が集まっていたのだそうです。そしてクルティザンヌはそれこそ貴族婦人とほとんど変わらない生活をしていたのだそうです。

当時のパリは貧富の差が激しかったようですから、無教養な若い女性を社交界でも通用するような教養や身だしなみをつけさせて育てるようなことも、貴族の中では甲斐性みたいなものだったのでしょうか。

だから、クルティザンヌであるヴィオレッタは、単なる娼婦のようにお金を出せば売買春ができると言うような存在ではなく、アルフレードが「一年以上も前から慕っていた」という、ほとんど高嶺の花であったことが分かります。ここらあたりを理解しなければ、アルフレードの父ジェルモンの態度も、その後のアルフレードの屈辱も理解できないものだと思い知りました。

しかし、こういうことはDVDの福原信夫氏の解説からは全く読み取ることができず、例えばデュマ・フィスの「椿姫」の主人公であるマリー・デュプレシスについても『七人もの百万長者をパトロンとしている女』という紹介だけに留めています。まあ私が無知なだけで、世界三大オペラ?のひとつなのですから、そんなこと周知の事実なのでしょう。

ということで、第2幕 第2場を観てみることとしましょう。

  • 高級娼婦リアーヌ・ド・プージィ ジャン・シャロン (著), 小早川 捷子

第2幕 第2場

第2場はフローラ邸での華やかな夜会です。ここで挿入されるジプシーや闘牛士の合唱は、全体のストーリーからすると、観るたびに違和感を感じないわけではありません。



貴族達の宴会の豪華さを語る意味合いや、スペインなどの文化をも飲み込んでいた時代性を表しているのでしょうか。1800年代のフランスといえばナポレオンがヨーロッパ各地に遠征した後の時代、1850年頃であればナポレオン三世の統治下、パリにオペラ座ができたのも1862年ですからまさに文化の爛熟期と言えるかもしれません。

ヴェルディは1813年北イタリアの生まれですが、アルプスの北では同じ年に偉大なる(笑)ワーグナーが生まれいます。ドイツ国民に深く共感を感じさせるワーグナーの楽劇は、フランスを舞台としたヴェルディの歌劇に比べると、設定に洗練さはなく、むしろ田舎くささを感じますが、そういう意味からもフランスはヨーロッパ文化の中心だったのかなと思ったりします。(ここらへんは歴史にも詳しくないので何とも言えませんが)
ジブシー占いが「過去の過ぎ去ったことは忘れ、未来にこそご用心」と歌うことに、「椿姫」のもつ悲劇性を暗示させているとも取ることができます。本当に用心しなくてはいけないのは、フローラではなくアルフレードだったのにね。もっとも裏読みするよりは、「アイーダ」でもそうでしたが、凱旋の行進の後に異国情緒溢れるバレエのシーンがありますが、ああいった軽い余興的な意味合いであると考えても良いのかもしれません。

20分程の短い場ですが、ここでジェルモンはヴィオレッタを辱めるという、若さならではの直情的な行動に出てしまいます。どうも私は気になって仕方がないのですが、ワーグナーのオペラにしてもヴェルディの他の作品にしても、男性が女性に比べると「子供じみて」見えるのは何故でしょうか。

男性も愛を語るのですが、何か白々しいというか、若さだけで突っ走るような脆さや青さを感じてしまいます。それに対し、ヴィオレッタの愛は献身的でありそして自己犠牲的で感動的です。男性など、女性の包容力の前では赤子も同然のような存在です。女性の献身的な愛など全く理解できないのですからね。

従って、この場面でもやはりヴィオレッタが光ってしまいます。良くも悪くも、プリマ・ドンナ・オペラなのです。アルフレードが賭けでドゥフォール男爵から巻上げたチップをヴィオレッタ投げつけた後に歌われる、"Alfredo, di questo core, Non puoi comprendere tutto l'amore"(アルフレード、この心の愛のすべてをわかっては下さらないのね)というアリアは、美しくも心を打ちます。

にしても、3ヶ月にも渡る愛の生活の原資にさえ思い至らず、甘い生活を続けていたのですから、アルフレードは田舎のお坊ちゃんといえるわけで、到底、海千の喜びも哀しみも経験したクルティザンヌであるヴィオレッタのお相手ではなかったのでしょうか。
というわけで、いよいよ怒涛の悲劇のクライマックスである第三幕に突入します。

第3幕

第三幕は第一幕の冒頭で聴かれた前奏曲から幕は始まりますが、もはや音楽にも舞台にも華やかさはどこにもありません。というか、前奏曲が第三幕の暗示なんですよね。
ヴィオレッタも病人姿ですから、かつての艶やかだった髪も下ろし、唇の色も青ざめ、眼は落ち窪み、なかなかに凄みのあるメイクです。舞台映像を観ながら、色彩感覚的にはムンクの「病める子」の絵を思い浮かべてしまいました。

ひしひしと迫る死に向かい、大きな悲劇を歌うのですが、それでもやはり、オペラ名曲のオンパレードといったところで、聴いていて飽きません。ヴィオレッタが手紙を読むシーンから「さようなら、過ぎ去った日々よ」のアリアなども涙なしには聴けません。アルフレードが現れてからの彼女の歓びと、そして遅すぎた時に対する無念さのを"Gran Dio! morir si giovine, Io che penato ho tanto!"(神様!こんなに若いのに死ななければならないの、これほど苦しみぬいた私は!)と歌うところは、血を吐くような壮絶さです。

それに対し、アルフレードの方は、ヴィオレッタの心を理解し病の床に遅ればせながら駆けつけてから、愛の二重唱を歌うのですが、イタリアのテノールアリアは悲しみを誘いませんね、非常に健康的にしか聴こえないのですが・・・偏見かもしれませんが(笑)

アルフレードには「パリを離れて」という美しいアリアもあるのですが(ここは本当に上手いですね)、それでもこのオペラは全編通してヴィオレッタが主人公で、それ以外は全て刺身のツマなんだと思います。2時間以上に渡ってヴィオレタを演じきるというのは、なかなか至難の業なのではないかと思います。これだけ人気があって有名なオペラではあるものの、歌唱力はもちろん、心理表現から演技まで並大抵の技量ではつとまるものではありません。



ラストでヴィオレッタが、"E strano! Cessarono Gli spasimi del dolore!"(不思議だわ!苦しみのけいれんが なくなりましたわ!)と歌って、息絶えるシーンも鬼気迫る演技です。バックはヴァオイリンによる、ジェルモンからの手紙を読んだシーンの旋律です。この、観るものの一瞬の期待を裏切る劇的にして残酷なラストを初めて観たときはもはや声になりませんでした。

あきらめのオペラと下行の音楽

フーベルト・シュトゥップナーは、『《椿姫》は本質においてあきらめのオペラである』と書いています。そして『彼女(ヴィオレッタ)を特徴づけているのは下行の法則である』として、ヴィオレッタの「受動性」を指摘し、さらにヴィオレッタのいくつかの主要モティーフもすべて力なく下行していることを指摘しています。これを読んだときには成る程なと思ったものです。
確かにアリアの音型なども高音域から低音域に下降するものが多いようです。また、華やかな社交界(ドゥミ・モンド)から田舎暮らし、そして病気による死と人生においても下降線を歩みます。これをワーグナーの《トリスタン》と比較して次のように書いている部分は注目に値します。
《トリスタン》では力づくで作為的に興奮させられた激昂の幻影であり、自然力を死の中に放置するかわりにふるいたたせ興奮させる享楽と生命の原則にしたがって、飽くことを知らずに半音階的上昇を続けていく。屍姦的傾向を備えた《トリスタン》の神秘性に比べると、《椿姫》の死の音楽はむしろ生への憧れが強く感じられる。(名作オペラブックス2「椿姫」P.269)
屍姦的傾向を備えた《トリスタン》』という表現は爆笑ものですが、確かに半音階的上昇と全音階的下降では後者の方が健康的には聴こえますね。
下行音楽という点では、Classic Airというオペラ紹介個人サイトで見つけた井形ちづる氏(東京藝術大学大学院オペラ科教員)の文章も参考になりますので引用しておきましょう。第三幕の前奏曲に関する考察です。
3幕での前奏曲はヴィオレッタの死を象徴する崇高で哀しいほどに透き通った高音の弦の響きが印象的で、(中略)『椿姫』が諦めのオペラとも呼ばれる要因にもなる常に現れる下降音型がここでも支配的である。井形ちづる氏はこれを「這い上がるように音が上がっても、それはずるずると下降してしまう。アルフレードからの手紙、そして彼が戻ってくるのをひたすら待ち続けるヴィオレッタ。アルフレードに会いたい。そのためには生きていなければ。どんなに生きたいと願ったであろう。(後略)」とヴィオレッタの必死の這い上がる姿とこの死を意味する残酷な下降音型の関係を述べ、「前奏曲の最後の6小節は、息も絶え絶えになるヴィオレッタを描写し、最後の3小節にわたる長いトリルの後 の最終音はまさにヴィオレッタの事切れる瞬間」と指摘している(《ラ・トラヴィアータ》の2つの前奏曲)。
なるほど、こういう文に出会うと聴くたびに(まだ聴いてるのかよ)感興が変わってきますね。

もっとも、ヴォイレッタは指摘のとおり死に向かって下行するものであるかもしれませんが、精神的にはクルティザンヌという立場から、自己犠牲と病気による受動的な死へと至るわけで、見方によっては果てしなき高みに上ってゆく物語でもありように思えます。彼女もアルフレードへの無抵抗にして献身的な愛を捧げることで逆に救われているのでしょうか。彼女のクルティザンヌとしての暗い過去は最後の彼女に与えられたつかの間にして偽りの回復と死によってつぐなわれたと私は考えます。

女性の自己犠牲といえばワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデとか「タンホイザー」のエリーザベトを思い浮かべてしまいます。どちらの女性も最後には聖変化とも言える様な気高さを感じてしまうのですが、エリーザベトもイゾルデも非常に能動的な死の衝動に駆られての自己犠牲である点を思い出したとき、先のシュトゥップナーの言葉とあわせてヴィオレッタを考えれば、非常に対照的であることに気付かされます。ヴィオレッタは、あくまでも最後まで生に拘っていたのですから。

それにしても、最後まで分からないのは、いったいぜんたい、アルフレードのどこにヴィオレッタは惚れてしまったのでしょう。ドゥミ・モンドで初めて会ったアルフレード、彼女は表向きには「享楽の世界」を歌いながらも、そんな世界に空しさを感じていたからこそ、純粋無垢なアルフレードの言葉に救いを求めたのでしょうか。彼女は「普通の女性」からみればクルティザンヌという立場で「堕落した女」でありましたが、逆にクルティザンヌでありながら「恋に生きる女性」を求めたという意味においても、明らかに「道を踏み外した女」であったのだなと思ったのでした。

演奏について

この演奏は、1994年、ショルティ82歳のときの公演で、かの巨匠にとって「椿姫」初録音であったそうです。指揮ぶりや最後のカーテンコールの姿を見ていると、その3年後に亡くなってしまうとは到底思えない若々しさです。

とにかく他の演奏を聴いたことがないので、ショルティの演奏が良いとか、リチャード・エアの演出がどうだとかを書くことはできません。しかし、初めて「椿姫」に接すると言う意味では、全く正統的な演出であり、歌手人を含めて申し分ないと思います。こうして延べ数日に渡って繰り返し聴き続けても、一向に飽きることがありませんでしたからね。

2004年7月21日水曜日

ダイレクトなコミュニケーション

さて、前エントリーで「月間!木村剛」をけなしまくりましたが、木村剛氏のスタンスには共感を覚えてはいるのです。氏がブログにはまったわけは、巻頭言にあるように、


この月刊誌は、世論から乖離した言説を垂れ流して恥じることのない既存メディアに対するアンチテーゼである。


というような反応のよさです。そういう気持ちは分からないでもありませんし、氏がネットにおけるブログ活動を、非常にポジティブに捉えていることにも共感を覚えます。


例えば氏は、電子メールにて国会議員などに「公開質問状」を送りつけていますが、『そのメールは、リアルな世界への働き掛けであって、ネット上の誹謗中傷とは異な』ると書いているように、リアルなアクションを非常に重視している現実主義者です。


氏は年金問題に関しても「藤原紀香との(ありもしない)結婚生活について、あれこれと夢見る」のではなく、「藤原紀香と実際にデートするには、具体的にどうすべきか」を考えているわけです。そういう意味では、私のようなネットでウサを晴らすだけの凡百のブロガーという存在を、軽々と飛び越えているフットワークを感じてはいます。


従って、「月間!木村剛」は静観ですが、「週間!木村剛」の動きからは、なかなか眼が放せないといったところでしょうか。

「月間!木村剛」を斬る

先日「月間!木村剛」を紹介しました。発行元の(株)インフォバーンから、創刊号が送付されてきましたので読んでみたのですが、はっきり書くと、がっかりですね。というか、これでは売れないのではと思いました。


まず、内容がブログ版の「週間!木村剛」そのままであることが気になります。目新しい記事はほとんどなく、これならば今時1000円を払って買うことは(少なくともブログを読んでいる人なら)ないでしょう。


ブログ記事がそのまま活字になっていますので、ウェブで読んだ時との微妙な温度差も違和感のひとつです。木村氏も指摘しているように、ブログはヴィヴィッドでありライブなものであるだけに、それをそのまま活字にしてしまうと、生きの落ちた刺身のような感じがするのです。




しっくり来ないのは縦書編成ということもあることでしょうか。顔文字などは活字になじみませんが、縦書きの顔文字がヲタクな雰囲気をかもし出していて更にマイナスです。


雑誌のサイズはB5版150頁弱なのですが1000円にしては内容が貧弱です。オピニオン雑誌である「文芸春秋」「世界」「正論」などと比べてることが間違いなのだとは思いますが、これらは600円~700円だったはずです。青土社の「現代思想」は1200円ですが活字密度で言えば3倍以上なのではないでしょうか(感覚比)。


ヲタク雑誌というくくりであるなら、例えば石原俊氏主筆の「クラシック ジャーナル」(アルファベータ)1200円がありますが、こちらもB5サイズですが、内容の充実度、活字密度では「月間!木村剛」を遥かに凌駕しています。


また、ブログを読んでいると気付きませんでしたが、木村氏の主張は繰り返しが多く、同じことを延々と主張しているような印象を受けます。不特定のブログ読者を相手にしていたせいでしょうかね。これもライブとの温度差のひとつでしょうか。


こうして考えると、そもそも一体誰をターゲットにした雑誌であるのか、全く理解できません。ウェブを読まない木村剛氏の読者を取り込むならば、もっと別の書き方があるはずです。木村氏を知るウェブ読者を取り込む場合であっても、別の宣伝方法があるはずで、わざわざ雑誌にするからには付加価値が必要です。全体に構成が雑で、何かウチワで盛り上がっている印象を否定できません。これでは早晩廃刊になるものと思いますがいかがでしょう。


そういうわけで、巻頭言にある


そしてこれは、ブログという新形態の情報発信と雑誌メディアをコラボレートさせる新しいトライアルである。


というコンセプトを、全く感じ取ることができませんでした。木村氏の今までのメディアに対する不満、ブログというメディアにかける期待は分かっているつもりですが、「週間!木村剛」の熱心な読者でない私には、何かちょっとズレていると思うのでした。古いエントリーですが、TBもしておきましょう。えい!

つづく

2004年7月20日火曜日

C.クライバー逝去!!

すでにあちこちで話題になっていますが、C.クライバーが7月13日に亡くなったそうです。

Classicaのiioさんも書かれていますが、私もまた、どこかで振ってくれるのではないかと、ひそかに期待しておりました。(振ったところで海賊版か何かで接することができるのみでしょうが) 


今までも実演になど接したことはありませんが、少ないライブ録音は確かに衝撃的でした。特にベートーベンの4番とか7番、まるで違う音楽に聴こえたものです。


私は彼の熱烈なファンでもなければ、少ない音盤は全て集めているというようなマニアでもありませんが、ちょっとした喪失感を味わっております。死ぬ前から既に「伝説」であった巨匠を永遠に失ってしまったのだなあと。

彼の死がクラシック・ファンに与えた衝撃も大きいようで、多くのブログ・エントリーがありますが、まずはCLASSICAを元にすれば足りますかね。


CLASSICA カルロス・クライバー、逝く


気になって自分のサイトを探したら、クライバーについては、ほとんどレビュをアップしていませんでした。かろうじて近作の「田園」のレビュがあるのみ、うーん、貧弱!


ベートーベン 交響曲第6番/カルロス・クライバー

2004年7月15日木曜日

月刊!木村剛

木村剛氏のブログ「週刊!木村剛」から生まれた雑誌「月刊!木村剛」が創刊されました。

多くのブロガーによって触発されたこの雑誌ですが、創刊号は「年金問題」で、私の拙いエントリー(年金ドミノ 5月18日)も紹介されていたりし恥じ入るばかりです。

続きは後ほど・・・・

2004年7月13日火曜日

東京都交響楽団の存続問題

SEEDS ON WHITESNOWで知りましたが、都響が存続の危機に立っているのですとか。都響ジャーナルや招き猫でもスレッドが立っているらしいです(未確認)。


SEEDS ON WHITESNOWには、背景などを含め詳しくと書かれているのですが、次の部分が気になってしまいました。


まずもって、都響はそもそもどんな社会的価値を市民に提供するのか、まずはそのミッションの確認を行って欲しい。


うーん、公益法人としてのオーケストラの「社会的価値」ですか、つまりは都響の存在意義を問うているわけですね。ここに至って、私は思考停止状態になってしまいました。ということで、この問題はおあずけです。オーケストラが乱立する東京都においての存続問題は、地方のそれと同じ立場で論ずることはできないのだとは思いながらも、しかし、とどっちつかずの割り切れない思いを抱いての思考停止です。


野球は興味ないので、どうでも良いのですが、セパ両リーグの合併問題などとからめて、さらに複雑な思いになるのではありました。

2004年7月12日月曜日

参議院選挙が終わって

参議院選挙が終わり、自民党は目標の51議席の確保はできませんでしたが、公明党と併せて安定多数を確保、一方民主党は、共産、社民などの票を食い躍進という図式で終わりました。


しかし、二大政党の到来などとマスコミがはやし立てるのも、なんだかずれていると思いながら、政権に対しては複雑な思いを抱いています。




というのも、民主党への支持はおそらく「No小泉路線」という意識の集約であったろうとは思うものの、その勢力は思ったほど大きくはなかった、という点と、民主党の政策や民主党員の顔ぶれを見ても、自民党ほどではないかもしれませんが「多彩」であり、ひとつの政策政党としては矛盾を孕んでいるのではないかと思うからです。


政党は何らかの利益を代表するものですが、「自民」=地方・農村、「民主」=都市というほどには単純な図式では、もはやありません(一人区において今回の与党勝率は14勝13敗、前回は25勝2敗だった)。憲法問題についても、かつてを知る者には自民も民主もオール与党のようであり様相は複雑です。鈴木宗男氏が落選したとはいえ、あれほどの得票したのは、間違いなく地方のある「層」の利益代表として期待したからでしょう、政治と有権者の関係は結局変わっていない部分も多いのだと。


小泉政策は格差の拡大と属米路線が明確で、「改革」の目的もそこにあるようですから、これまたある「層」の利益を代表しているのでしょう。その「層」以外の人たちは、自分達がその「層」に居ないことを、実はまだ気づいていないのかもしれなく、従って選挙が前評判ほどには盛り上がらず、争点も「年金問題」という卑近なものに終始してしまったような気がしないでもありません。


自分たちがその「層」ではないことを気づかないというのは、書店にあふれる「金融関連書籍」のヤマを見るとふとそう思うわけで、誰もがもしかしたらソロスになれると思っているのかもしれません。


小泉氏は、当面責任を取るつもりも無く「改革路線は微動だにせず」ですから、格差拡大と属米路線を更に薦める政策をとりつづけるでしょう。そういう路線に「No」という政治家が現れない限り、どこの政党が票を取ったとて、五十歩百歩の感は否めません。


福祉、年金、消費税、少子化、国防、改憲、教育、不良債権処理、国債、金利、どれもこれも日本の将来にとって重要な問題ですが、それらを全て含めて私たちはどこに向かうのか。今の日本を炙り出すような選挙ではあったと思います。議席を伸ばした民主党の今後には期待しましょう。



��004参院選 民主50、自民49 議席確定


 第二十回参院選は十二日、開票作業をすべて終了、比例代表を含めて百二十一議席とすべての当選者が確定した。自民党は勝敗ラインの五十一議席に届かず四十九議席。公明党と合わせた与党でも改選過半数の六十一に届かなかった。民主党は五十議席を獲得して改選第一党となった。

 自民は平成元年参院選で単独過半数を割り込んで以来、その回復が悲願だったが、十三年参院選でみせた「小泉ブーム」の再現は、ならなかった。民主党は比例代表で第一党となる一方、選挙区では、自民の牙城だった二十七の一人区で健闘。東京、神奈川、愛知で二議席を獲得するなど大都市圏の複数区でも幅広く議席を得た。公明党は改選の十から十一議席に拡大。共産党は改選十五から四議席へと大幅減、社民党も改選二議席を維持しただけだった。(産経新聞)

Yahoo http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040713-00000002-san-pol [7月13日2時35分更新]


2004年7月7日水曜日

大澤壽人:ピアノ協奏曲「神風協奏曲」







      NAXOSの日本作曲家選輯から大澤壽人のピアノ協奏曲「神風協奏曲」(1938)を聴いてみました。HMVで『戦前の日本、クラシック音楽でも欧米に追いついていた!!』とベタ褒め状態であったので、1000円だし騙されたと思って買ってもいいかくらいの軽い気持ちでゲットした盤でした。


      聴いてみた感想は、ただ一言「カッコイイ!」です。これが戦前の日本人の手になる作品とは驚くばかり、今まで何故に無名であったのか、日本音楽史の不可解さを思い知ります。




      片山杜秀氏の渾身のCD解説(12頁に及ぶ!)が、これまた凄まじく、思い入れの強さが伝わってきます。その解説にりますと、大澤壽人氏(1907-1953)はボストンやパリで音楽を学び『ドビュッシー、ラヴェル、シェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、六人組、ヒンデミット、ハーバのやり方から、ガーシュインをはじめとするアメリカのポピュラー音楽の感覚や技法までこなし』、無調的半音階も、全音音階も、日本的5音階も・・・まあ、とにかくなんでもアリみたいに吸収してしまったらしいです。


      ピアノ協奏曲第3番の副題「神風」とは、第二次大戦中の日本軍による「神風特攻隊」ではなく、朝日新聞社社有の三菱航空機製の民間飛行機をさし、当時の日本の航空技術の精鋭であり科学技術の象徴であったそうです。1937年に「神風」は立川からロンドンまでの最速飛行記録を樹立したのですとか。で、この協奏曲は何を表現しているのかといえば『飛行機の飛ぶ様だと言ってしまって、おそらく差し支えあるまい』と片山氏は書いています。


      絶賛する解説を読むと聴く前から臆してしまいますが、虚心に返って音楽に接するなら、音の美しさ、リズムの美しさ、音楽の飛翔するさまなどを堪能することが出来ます。第一楽章や第三楽章でのピアノパートは技巧的であり強靭でそしてなおかつ華麗です。音楽は驀進するエネルギーと、希望に満ちた明るさに支配されているようにも思えます。まだ三菱に日本の未来を託すことができた幸福な時代だったのですね。


      第二楽章などは、どうしたのかと思うほど妖艶なサキススフォーンのジャズ風のテーマで始まります。片山氏は『夜間飛行の音楽、ないしは夜のジャズ』と書いていますが、なかなかこなれたジャズ風カンタビーレが懐かしさを誘います。ちょっとビッグ・バンド風のくささがありますが、そこがまあ味とでもいうのでしょうか。だってあなた、1938年の作品ですよ、まだ進駐軍もチューインガムも経験していないんですよ、一般の日本人は。後半はピアノパートも暴れ出して結構いけます、この楽章が三楽章中で一番好きですね。

      こうして聴いてみますと、当時の日本の音楽レベルを遥かに凌駕しているというのも納得してしまいます。なぜにこのような音楽が、大澤氏によって生み出されそして忘れられたのでしょう。これほどの柔軟性を有する曲が生まれた背景に、当時の日本人のエネルギーと優秀さを知る思いもします。


      同時カップリングは交響曲 第3番ですが、これについてはそのうち。


      少し長いのですが、NAXOS、TOWER RECORDS、HMVのサイトから解説を引用しておきます。(解説はCDの旬が終わると読めなくなることもありますので)



      知名度の高さを分母に、未知の音楽との出会いの喜びを分子にとれば、恐らくは最も高い数字が出る邦人作曲家の一人が大澤壽人(おおざわひさと)でしょう。ピアノ協奏曲第3番は、少なくともプロコフィエフのピアノ協奏曲がもう1曲増えたと言えるほどの充実度を示しています。第二次世界大戦前の日本で、これほどモダンなピアノ協奏曲が書かれていたとは信じられません。作曲当時、聴衆に全く理解されなかったという話にも思わず納得。交響曲第3番も同様で、ここまで埋もれていたのが不思議でなりません。作曲家の没後半世紀を経て時は21世紀、ようやく大澤の時代が到来したのです!

      NAXOS http://www.naxos.co.jp/8.557416J.html



      戦前の日本、クラシック音楽でも欧米に追いついていた!!
      CDのジャケット写真に使われている、朝日新聞社の社有飛行機「神風号」は、三菱製の97式司令部偵察機の民間版です。第二次世界大戦直前、日本の航空機技術力は頂点に達し、世界最高水準の航空機を次々と生み出していました。開戦劈頭、陸海軍の航空機が圧倒的な性能を見せ付け、英米の航空、関係者が度肝を抜かれたのは有名です。
      同時代、航空技術界同様に、クラシック音楽の分野でも、わが国に世界水準の作曲家が存在していました。神戸出身の大澤寿人です。当時最先端であったモダニズム音楽の語法を自在に駆使し、伝統的な日本音楽、西洋クラシック音楽のロマン派と近・現代派、さらにジャズの要素まで巧みに編みこんだ見事な管弦楽作品を書き上げました。残念ながら、当時の日本では、大澤の交響曲や協奏曲を満足に演奏できる環境を整えるのが難しかったために、せっかくの力作が次第に忘れられて行きます。もっぱら関西で活動し、戦後10年もしない内に亡くなってしまうために、20世紀の後半はほとんど忘れられた存在になっていました。
      ようやく2001年になってから、片山杜秀氏の尽力により、この埋もれた名作曲家の作品に光があてられ、真価が明らかにされました。大澤作品の蘇演は、日本文化史上の一大イベントとも言えるものです。他の様々なジャンル同様に、昭和初期のわが国では、文化面で爛熟期を迎えていたということを雄弁に物語るものでしょう。
      このナクソスCDは、オール・ロシア勢による、パワフル、かつ技術水準と情緒表現の双方で不足のない優秀な演奏を収録したものです。片山杜秀氏による、一万四千字に及び、詳細を極める解説書の読み応えも十分です。
      ��資料提供:株式会社アイヴィ)

      TOWER RECORDS http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=738381&GOODS_SORT_CD=102




      ドイツかフランスに生まれていたら、音楽史年表に普通に名前が載るような有名作曲家になっていたかもしれない・・・・・そんな感想を持ってもおかしくない程、忘れられた神戸の作曲家大澤壽人の管弦楽作品は、クラシック音楽の王道である交響曲や協奏曲としての完成度が高いものです。聴き返す度に新たな発見を覚え、さらなる興味が高まる正真正銘の名曲といえるものです。

      ピアノ協奏曲第3番 変イ長調「神風」(1938年)

      第1楽章冒頭では、トロンボーンと弦楽が力強く印象的な3音を強奏します。この音型は「エンジンのモットー」といえるものであり、この協奏曲全体のライトモティーフとなる重要なものです。この音型をピアノも受け、スケルツォ風の行進曲の動機(0:50)も金管楽器を伴って登場します。主部の開始(2:15)は、飛行機が離陸する様を描写していて、様々な動機が組み合わさり、力強い飛行を表現する第一主題群を形成します。全管弦楽で演奏される第二主題(2:55)は、高空を飛翔するかの様な晴れ晴れとしたものです。この後、両主題と冒頭のモットーが、多彩な技法を駆使して目くるめくような華麗さで展開され、流れるようなピアノのカデンツァ(7:05)を受けて、高揚する再現部が始まり、飛行機が飛び去るように終わります。

       第2楽章アンダンテ・カンタービレは、いわば夜間飛行風の音楽といったもので、サキソフォーンとクラリネットがブルース風の導入を吹き、ピアノによる、ブルーノーツと日本音階を共に取り入れた主題が始まります。「エンジンのモットー」が巧みに隠された技巧的な作風です。

       第3楽章は、序奏とロンドとコーダより成り、導入部から「エンジンのモットー」がトランペットで強奏され、ピアノに受け継がれるなど活躍します。その後モットーとも関連する行進曲風の動機(0:24)が繰り返し提示され、主部のABACD形式のロンドが始まります。A動機(0:35)はピアノが主導するジャズ・トッカータで、B(1:45)は木管主導のスケルツァンドになります。C(3:40)はヨーロッパの歓楽街の賑やかさを思わせる陽気なもので、日欧長距離飛行のゴールに近づいた昂揚感を表現しています。短いカデンツァを経て、A動機が激しく高揚(6:20)し、急速テンポによるコーダ(6:55)になだれ込み、一気呵成に全曲を結びます。

      HMV http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1863202 

      2004年7月5日月曜日

      NHK交響楽団奏者の年収

      銀行の待合室で、くたびれた(つまり、随分前の)週刊朝日を何気なくパラパラと。そうすると天下のNHK交響楽団主席指揮者の年収に関する話題が掲載されていました。

      記事を鵜呑みにしますと、N響奏者の平均年収は1000万円くらい、主席指揮者となると2500万円程度にものぼり、その上バイトなどは自由、人気奏者の場合の1回あたりのレッスン料は(レッスン時間は不明)5万円にもなるのだとか。

      札幌交響楽団のチェロ奏者であり、かつ組合の給与対策部長である荒木氏のハナシとはあまりにもかけ離れた給与相場(世間と比べてもだ)に少し驚いたのではありますが、こういう記事の影響で「オケの方たち、音楽関係の方たちは、さぞかし裕福」というイメージができてしまうのかなあ、などと要らぬ心配をしたりいたします。(裕福な方もいらっしゃるでしょうが)

      クラシックという衰退産業は、よほど「育てる」という意識がないと、産業として自立的に成立することが難しいのだろうと思うのですが、ふと擬藤岡屋日記のOpera, a risky business?という6月24日のエントリーを思い出しました。氏のエントリーはオペラに関して、
      元々、王侯貴族が庶民にもお裾分けする「エンタテイメント」というルーツを持つオペラは、社会体制の変化にも耐えて今日までその歴史を繋いできたが、成り立ちからしてそれ自身で経済的な自立をするということは殆ど不可能に見える。
      と説明しています。そして、
      ただ言えることは、オペラが観客やそれを取り巻く市民にどれだけ愛され、支持されているか?にその将来が委ねられていることは間違いない。
      という主張の「オペラ」を「地方オケ」とか「クラシック産業」と置き換えても、似たような話にはなるのかなと思ったりします。先に紹介した荒木氏も、『オケの位置づけ論議を、市場原理だけで語るな』と題して、以下のように強く語っています。
      札響規模のオーケストラが必要な事業費は年間約10億円。演奏会収入だけで賄うことは、到底不可能だ。オーケストラは自治体や民間、古くは王侯貴族の支えがあって初めて成立する存在なのだ。
      擬藤岡屋日記のエントリーは
      人間、パンのみで生きるのではあまりにも寂しい。
      と結ばれていますが、パンを「経済合理性」と置き換えれば、全くその通りだと思います。そういう地道な努力の中で、最初のハナシに戻りますが、N響奏者の年収や境遇が構造改革されない特殊法人などにも似ていて、なんだかなあと思うのではありました。







      岸田秀:「日本がアメリカを赦す日」


      岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」という本によって彼の唱える「史的唯幻論」に触れたのは、かれこれ20年以上も前、まだ大学生の多感で無知な時期でした。


      「人間は本能の壊れた動物」という考え方、国家や集団の行動原理を個人のように扱い、精神分析的手法から解明してゆくさまに、文字通り眼から鱗が落ちるような驚きを覚えたものです。

      その後いくつか氏の著作を読みましたが、「ものぐさ精神分析」で得たほどの驚きはなかったものの、氏の揺るぎのない論理的な考え方には感銘を受けました。


      さて、そんな彼が、満を持してとでもいうのでしょうか、「アメリカ」について書いたのが本書です。この本は、再び私にとって眼から鱗どころではなく、何か積年の瘡蓋が剥げ落ちるかのような思いを抱かせてくれる本となりました。




      私はサイト上で、私の聴いたCDやら本の感想をダラダラと無意味に掲載し続けていますが、自分がどんなに感動したものであっても、あまり人に薦めることはしていません。自分は自分、人は人、無知な私が推薦なんておこがましくも、おせっかいであると思うからです。しかし、この本は違います。すべからく、日本人もアメリカ人も読んで、深く内省し、そして次の行動原理を考えるべきであると思うのです。(>おお、究極のおせっかい)


      明治に開国を迫られて依頼、日本は自我の分裂した国家であるという説は、いまさら驚くには値しませんし、その自我を外的自我と内的自我とに分けて説明することにも、初めて触れたわけではありません。岸田氏に馴染んでいない方もいらっしゃると思いますので、近代日本の自我に関する主張を引用しておきましょう。


      近代日本は、自国を貶め、外国(アメリカを初めとする欧米諸国)を崇拝し、外国のようになろうとする卑屈な外的自我と、外国を憎悪し軽蔑し排除しようとする誇り高い誇大妄想的な内的自我とに分裂した精神病患者のようなものである(第三章 ストックホルム症候群 P.61-62)


      氏が言う「自己欺瞞」ということも含め、こういう説に改めて驚いたわけではないのですが、通読しますと、いままでもやもやとしていた部分が、何かあまりにもあっけなく、ストンと落ち着くところに落ち着いたという感慨なのです。

      しかし、そんなに簡単に、たった一冊の本で納得してしまうわけにもいきません。しばらくは、岸田氏の主張と自分の中で折り合いをつける作業が必要なようです。例えば、氏の憲法に関する以下のような主張についてもです。


      ��日本国憲法について)内容が正しいのであれば、押し付けられたものだっていいではないかという議論がありますが、これは誇りを失った卑屈なものの議論です。(正しい)正しい目的は不正な手段を正当化するのではなく、不正な手段は正しい目的を腐らせるのです。(第三章 ストックホルム症候群 P.71-72)


      ここだけ読むと、最近主流になってきたナショナリストと同様の主張に読めますが、彼らの主張とは大きく異なっています。すなわち、アメリカと日本の関係を論ずることなく、世界における日本の立場を考えることなくは出発できないと強く主張する点、ここが、今の日本にすべからく欠けている論調であり、私がここのところずうっと拘り続けている点なのです。


      国家の分析に個人に当てはまる精神分析の手法を用いるのはおかしいと考える方もあると思います。私もそう思いました。しかし氏は丁寧にも「補論 個人の分析と集団の分析」という一文を文庫本の最後に掲載してくれています。ここにおいて個人の超自我、自我、エスからなる精神構造と国家における皇帝、政府、民衆という役割が同じとする説は瞠目に値します。また記憶というものが、『過去の映像の持続あるいは再生ではなく、現在においてその都度、再構成されるもの』とする説にも説得力があります。そこが氏の史的唯幻論の元になっているのでしょうが。


      氏の「ものぐさ精神分析」は今は手元にないのですが、改めて再読も必要かもしれません。いずれにしても、簡単に紹介をし終えることが出来る本ではないようです。都度、私はこの本に書かれたことを反芻してゆくことになるかもしれません。

      2004年7月3日土曜日

      TV:おもひでぽろぽろ


      金曜日の夜、久々に早く帰宅でき何気なく付けたTVでスタジオジブリの「おもひでぽろぽろ」が放映されていました。


      そうだよな、7月だもの夏休みも近いから、「となりのトトロ」や「火垂るの墓」の季節なんだなあと思いながら、本を読みながら観るとはなしにみていたのですが、時間が経つにつれ、ぐんぐん引き込まれてしまい、最後の都はるみの主題歌が流れるエンディングに至っては、もう胸がいっぱい、ぽろぽろ状態になってしまいました。




      私はアニメファンではないので、「もののけ姫」も「紅の豚」も「千と千尋の神隠し」も観てはいませが、本作はスタジオジブリの中でも比較的地味な作品に入るのではないでしょうか(「となりの山田くん」には負けますが)。宮崎氏の話題の作品群は、世界も驚くようなファンタジーを描いているようですが、高畑勲の監督・脚本の本作は、まことに普通でありながらも別な意味で素晴らしいファンタジーであるのだと思います。


      スタジオジブリの作品だけあって細部の描写も驚くほどです。登場人物が生き生きとしているのは勿論なのですが、背景で行き来する「通行人たち」や風景描写、看板の一つに至るまで、どの一コマにも思い入れと精魂が込められており、どのシーンもが全てノスタルジーをかきたてるように出来ている様には、改めて驚かされます。


      そういう細部が、ストーリーの土台をしっかり支え、観るものにリアリティ豊かな世界を見せてくれます。テーマが臭いとか、説教じみているとか、偽善じみているとか、まあ悪く言う人もいると思いますが、こういう作品は素直に感動して観ればよいのではないでしょうかね。主人公のタエ子は27歳のOLという設定なのですが、この作品を観ていて、自分も齢をくってしまったなあと思ってしまいました。


      先にも書きましたがエンディングは「ああ、これはもうダメだア」と分かっていても感動してしまいます。都はるみの歌がこんなに心にしみるなど、恥ずかしくなるほどです。だって、あなた都はるみですよ、アンコ椿ですよ、私はクラシックファンなんですよ(笑)。


      蛇足ですが、本作を実写版でやったとしてトシオ役は柳葉敏郎なんかが合うなあと思っていたら、声優役だったのですね、ちょっとびっくりしました。それとこの作品はまさにバブルが崩壊しつつある1991年度の製作ですか、あの時代にウケたのか疑問が残りますが、高畑氏の真正面の直球のように見えながらも、実はクセ球という側面が見えるようです。

      2004年7月2日金曜日

      自衛隊発足五十周年に(駄文)

      昨日7月1日は、自衛隊発足五十周年であったそうです。つらつらとキーボードの赴くままテキストを打ちましたが、タイトルの通り結論なしの駄文です。読んでも甲斐ないと思いますので、ご注意ください。


      小泉政権になってからの自衛隊に関する「周辺事態」が急速に変貌しているため、自衛隊に関する議論がマスコミやブログ上で盛んです。私のようなノンポリ派でも、自衛隊の在り方について疑問はあるものの「自衛隊廃止」という極論には及び腰になってしまいます。これは天皇問題も同様です。




      ��月30日の朝日新聞社説は『自衛隊50年――「軍隊でない」を誇りに』と題して、


      かつてのソ連のように、日本に直接侵攻してくるかも知れない仮想敵は見あたらない。代わって、大量破壊兵器の拡散や国際テロリズムという新しい脅威にどう立ち向かうかが、国境を越えた自衛隊の課題とされるようになった。



      集団的自衛権の行使を禁じた憲法を見直し、海外での武力行使を認めようという声高な改憲論も永田町にはある。


       こうした転換の根底にあるのは、本土の防衛が差し迫った問題ではなくなったいま、自衛隊に様々な新しい任務を与え、活用しようという意図だ。

      という具合に、世界情勢が変化している中での自衛隊問題を考えるという視点で以下のように結んでいます。


      国の安全は自衛隊だけでは成り立たない。近隣諸国との多国間外交、テロの根をつぶすための途上国支援、大量破壊兵器の拡散防止のための貢献など、まだまだ足りないことだらけである。


       自衛隊は他国で戦争をしない。それが日本にとって国益の源泉であり、誇りでもあることをあらためて刻みたい。

      一方、同日の産経新聞社説は『【主張】自衛隊 逆風によく耐えた五十年』と題し、


      海外での武力行使を禁じるとする憲法第九条の解釈が制約要因になっている。同条の「戦力不保持」規定も軍隊としての地位や権限を自衛隊に与えてこなかった。そんな逆風の中、他国軍に比しても高い志を維持してきた自衛隊はもっと評価されていい。


       テロや北朝鮮など多様な脅威に的確に対応できる自衛隊像が求められている。自衛隊を一刻も早く憲法上、明確に位置付け、国民の財産として活用することが日本の課題である。

      と書いています。テロの脅威という点では同様の認識かもしれませんが、「仮想敵国」という観点からは大きな隔たりがあります。他にも、同日の読売新聞も『[自衛隊50年]「『集団的自衛権』解釈変更を急げ」 』という社説が載りましたが神学論争みたいなものなので紹介は控えます。

      さて、7月2日の産経抄では再び自衛隊五十周年に触れています。産経は社説でもそうですが、心情に訴えるウェットな論調が大好きなようです。

      世界の国々はどこも「軍隊は国民の財産だ」と考えている。だから人びとはみな軍隊という戦闘集団を大事にし、その功績には最大限の名誉で報いている。それが世界の常識だが、にもかかわらずこの国では…。(中略)▼思えば自衛隊員とその家族にとって、この五十年は“風雪と苦難”の半世紀だったろう。学校で「自衛隊は税金泥棒」と教える教師がいたという。隊員の子らにはどんな耐えがたいトラウマ(精神的外傷)が残ったことか。(中略)▼いま国民の信頼は、災害出動からカンボジアや東ティモールの国際貢献まで。来日したイラクの宗教者は「自衛隊の撤退じゃなく、増派を頼む」と要請して帰国した。ここに至るまでの隊員の歯を食いしばった奮闘と、それを支えた家族の苦労を心の底からねぎらいたい。

      長々と引用しましたが、後になるとネット上で読めなくなってしまいますので、「肝い」部分だけを抽出しておきました。


      さて、両者の間に深い溝があることは疑い様もありません。それは国家とか国防に関する問題であり、国際関係の中での外交問題でもあります。欧州の列強諸国は、日本が島国内でチャンバラ派遣争いをやっていたときから、ダイナミックな領土拡大、文化侵略活動、植民地主義を貫いてきたわけです。島国の中だけでの争いとは規模も歴史も違いますから、防衛に関しても筋金入りなのだと思います。民族としてのプライドということも強く意識されていますし、日本では想像できないほどの同胞意識、自立意識に驚いたりします。映画「トロイ」を見ていて、そういう意味からはほとほと疲れました。


      一方アメリカは、もともといた原住民を皆殺しにして領土を確保しました。それ以来は、豊富な資源に恵まれ大国としての地位を築き、世界各国に共産主義勢力の拡大阻止だとか、独裁政権からの解放だとかいらぬ介入をしてきているわけです。元来、人種差別とジェノサイドがお好きなのです。


      日本は、日米不平等条約を結んで依頼、米国の属国としての地位から脱却できないでいまま、アメリカの言われるままに国防を備えてきたのですから、国際貢献だとか外交だとか国防などと言っても、子供がやっとオトナ語を話せるようになったという程度に過ぎないのではないかと思うことがあります。


      自衛隊合憲を積極的に唱える人たちは「普通の国」になることを主張しますが、「普通の国」とはしっかりとした主権を有する国であるわけですから、アメリカとの関係を論ずることなく「普通の国」になどなれるとは思えません。日米安保は維持して「普通の国」なんて、考えただけでオバカな話しのような気がします。


      安保を維持したまま自衛隊を格上げするということは、子分には今までは護身用のスミス&ウェッソンしか与えていなかったのを、今回はマグナム弾を撃てる銃をあげるよということではないのでしょうか、お前も物分りがよくなってきたから、しっかりやれよと。(ちょっと違うかもしれないが) あくまでも、米国の対日関係が変化しないことが前提です。


      仮想敵だか現実敵だかテロだか知りません、まして、それが現実なのかデッチ上げなのかさえ分りませんが、とにかく「ならずもの」がいる以上(尖閣諸島に乗り込む輩も、日本近海に出没する不審船も「ならずもの」ですかね)武力も外交の一手段とするという現実的な選択は間違っていないのでしょう。
      しかしそれ以前に、武力がない状態での「外交」がお粗末なまま棚上にしておいて、推進派は武力を有したら毅然とした外交ができるようになるとでも言うのでしょうかね。

      それにしても個別論議だけで日本の将来的な方向性が全く見えないという状況は、どうなんでしょう、国としてのビジョンが徹底的に欠けているのではないかと思わざるを得ません。政府も官僚もダメになってしまい、形だけが先行して時代の先(あるいは後)に行くというのは、私には歯止めもタガも外れた状態にしか写りません。閉塞状態の中でプチナショナリズムが育ち、ゆるやかに右傾化してゆくことにも危機感を感じます。


      かくして自衛隊問題は私の中で再び曖昧模糊としたままに取り残されることになるのでありました。(ね、読んでも甲斐なかったでしょう・・・)

      アムラン/シチェドリン:ピアノ協奏曲第2番


      アムランのショスタコとのカップリングは、ロディオン・シチェドリンというロシアの作曲家のピアノ協奏曲第2番(1966年)です。シチェドリンという作曲家は、名前を知るのさえ初めてです。CD解説などによると、シェドリンはピアノの名手で、自分のピアノ協奏曲やソナタなどを自演しているそうです。この曲も1967年にロジェストヴェンスキー指揮、モスクワ放送交響楽団の演奏で初演を飾っているとか。




      さて、そんなピアノの名手による現代のピアノ協奏曲ですが、"Dialogues"という副題の第一楽章から、かなり激しくそして鋭い音響が耳をつんざきます。ピアノとオーケストラの作る高い緊張感が聴きどころでしょうか。アムランの硬質にして強靭なピアノが冴えます。

      現代音楽的というと敬遠しがちですが、決して聴きづらいわけではなく、劇的にしてメロディアスな曲です。ピアノは縦横無尽にオケとの対話を繰り返し、いくつものクライマックスを作ってゆきます。第ニ楽章は"Improvisations"との副題が付いています。この楽章も鋭い音響が続きますが、このせわしなさは時代を感じさせます。ラスト近くに現れるフルートとピアノのソロ部、それに続くピアノソロは、この曲で一番美し部分でしょうか。


      それでも何と言っても面白いのは第3楽章に尽きます。ヴァイオリが奏でる暗く哀愁を帯びたメロディが続いていたかと思うと、突然にそれが打ち破られ、驚くことにジャズ風の(というかまさにジャズそのものの)音楽が現れます。まるでライブハウスでジャズコンボを聴いているような感じです。目の前の風景に突然亀裂が生じ、別世界を垣間見るかのごときです。


      フルートのソロが叩きつけるようなピアノと奏でられるところも、捨てがたい魅力があります(>つーか、フルートソロなら、何でもいいという説も・・・)。こういう渾然とした断章のような風景が、ラストに向けて再び激しいオケとピアノに塗りつぶされる様は何とも圧巻です。副題が"Contrasts"となっているのも頷けます。

      そんなわけで、初めての作曲家でしたが十分に楽しむことができますし、滅多に聴く機会のない曲であるだけに、ありきたりのピアノ協奏曲に飽いた方にはCDとしてはお得かなと・・・

      【関連サイト】


      2004年7月1日木曜日

      映画:トロイ


      ちょっと時間ができましたので、かねてから気になっていた「トロイ」を観てきました。監督は「Uボート」「ネバーエンディング・ストーリー」のウォルフガング・ペーターゼン、主演はアキレス役演ずるブラッド・ピットです。


      劇場予告でトロイに攻め入る船団や軍団のスケールのでかさに、アタマがクラクラするような期待と興奮を期待しておったのです。非常に長い(3時間くらい)映画でしたが、やっぱり観ておいて良かったなあと、満足感を味わうことができました。




      ラスト・サムライ」もそうですが、マッチョな男優がマッチョな演技を披露し続ける映画というのが結構好きでして、「おお!ブラビって結構筋肉質」とか「ちょっと醒めた雰囲気が良いな」とか、もう何だか分からないくらい殺意をむき出すところに「むーん」と思ったり、「おおそこでヤっちまうか」とかハマりながら観ておりました。


      映画を観るときは難しいことはあんまり考えませんので、ギリシャの血なまぐさい合戦シーンにハラハラし、戦う男たちと剣後を守る女たちに涙し、その後の死者を弔う火葬シーンに「ギリシャも人を焼くのか」とか、しみじみ感心いたしました。それにしても男たちは戦うのが好きですね。



      ヘレナとパリスといえば古代ギリシャきっての美男美女として有名ですし、さらにヘレナときたらあのゲーテのファウスト博士さえも一目惚れしてしまうほどの美女なわけですから、友好の使者として赴いた国の王女をさらってしまった向う見ずな若いパリス君の気持ちも分からないでもないのです。私がさらいたくなるほどの美女ではありませんでしたが(^^;;


      ブラビ以外に光っていたのは、エリック・バナ演じるパリスの兄ヘクトルでしょうか。トロイの王はあのピーター・オトゥールなんですか、ちょっと憑き物が付いているようで、宗教的迫力を演じきっていましたね(違うか)。女性陣は・・・ヘレナ役もブリセウス役も悪くはありませんが、やっぱりこれは戦う男性を鑑賞する女性向けの映画なんでしょうか、役柄的には「美」と「愛」と「哀」以外には今ひとつです。

      それにしても「愛は世界を滅ぼす」とは大胆にしてとても素敵なテーマです。全ての戦いの後に残るのは、血と死体と肉の焼ける匂いと、やがてくる虚しさと歴史に刻まれた名前だけなんでしょうか。

      蛇足ですが、この映画は、やっぱりギリシャ五輪に向けての上映なんですかね。皆さんギリシャに注目しましょうって。(写真はトロイのサイトから無断転載しました)