2004年7月30日金曜日

K作譲をめぐる二つの闇

昨日(28日)、何気なくテレビ朝日の「報道ステーション」を付けたら、15年前の「綾瀬 女子高生コンクリート詰殺人事件」の主犯格であるK作譲(旧名:O倉譲、当時:少年B)*1)の母親がインタビューを受けていました。K作譲は少年刑務所での刑期を終え、5年前に社会復帰していました。最近、暴行事件で再犯を起こしており、その初公判が28日に開かれたことを受けての番組です。


テレビ朝日は何の目的でK作の母親にインタビューを試みたのでしょう。解説者が「(再犯してしまった理由について)少年刑務所という刑罰を主とする主とするところに入れられたため『更正』がないがしろになってしまったのでしょうか」と言い、「更正プログラムが必要」などと言っていましたが、そういう考え方もあるのかと思いながらも、私は自分の座標軸が傾くような違和感に襲われていました。


この件に関するネット上の意見をざっと眺めると、加害者に対しては「鬼畜」に更正なしとの論調、テレビ朝日に対しては、(変わらぬ)犯罪者擁護の報道姿勢、母親に対しては無責任さに批判が集中しているようです。


「座標軸が傾くような違和感」とは、今もネット上に増殖している、これらK作をめぐる論調と私の感じる軸が大筋ではずれてはいないにも関わらず、でも何かが違うということを解明できないことに対する違和感でありました。




まず言えることは、K作が生きていて彼の名前が(仮名であっても)登場し、それを知る者たちが事件を思い出す度に、被害者は幾度にも陵辱されて殺され、被害者の家族には耐えようもない苦痛を与えるのだろうということ。また事件を思い出す私(達)は、加害者の怖るべき闇とともに、事件から何らかの妄想をもそこに見出すことを繰り返してしまうということ。これも私の座標軸がねじれる原因の一つです。


私はあの事件とは直接的な関わりは全くありませんが、事件を思い出すと、なぜK作が今も生きていて「普通の生活」ができるのか不思議でなりません。更正した犯罪者を受け入れるということは、犯罪の過去を赦し許容したことを意味します。この事件では私は彼を受容できません。出所者に対する、そういう偏見や無理解が新たな犯罪の土壌になるのだと言われても、事件が事件なだけにムリです、そういう種類の犯罪です。


一方で、きれいごととしては、人間の命は何ものであっても奪うことはできない、とか、絶対に許してはいけない罪などない、などという法的、倫理的な問題と向き合う必要性も感じてはいます。


しかし、肝心の法律、倫理、文学、哲学、さらには宗教を含め、「快楽殺人」を扱えるほどにそれらは成熟していないように思えます。「快楽殺人」とは、戦争をやらなくなった人類の病理かも知れないからで、増殖しつづけている病理に、新しい手法でどう向き合うかが問われているのかもしれません。(戦争に限らず、近代が始まる以前は結構身近に「殺人」があったのではないでしょうか。罰せられるか否かは別問題です。人が武器を捨て、決闘や私憤を含め「人をむやみに殺してはいけない」とした歴史の方が短いように思えます。それと犯罪の関係は分かりませんが)


こう書くと、事件を社会に転化するように感じられるかもしれません。たとえば、佐世保の同級生殺人事件の際に私は『真の闇は大人社会にあり、たまたま大人社会の悪意が子供という化生となって今回の犯罪が結実』と書きました。しかしどちらも、事件の責任を社会に転嫁するような意味合いで書いたわけではありません。事件の背景として、社会・歴史的なものまで含め犯罪学的に研究が必要ではないかということです。それとは別に、犯罪は犯罪として犯したものが生き続ける限り一生背負っていかなければならないことには変わりありません。


では、どんな一生があるのかと考えたとき、コンクリート詰め殺人事件の場合、加害者が更正し社会復帰して普通の生活を送ることが、社会の求めることなのだろうかと、また軸がぶれ始めます。


あの事件は本当に酷い事件でした。殺された女性が40日間もどんな責め苦にあったか。ゴキブリや自分の汚物を食べさせられ、性と暴力の玩具となり、使い物にならなくなった挙句に捨てられたのです。コンクリートから発見された死体は、顔や性器は破壊し尽くされ、膣にはオロナミンCの瓶が2本入ったままだったのです。髪は抜け落ち、脳は萎縮していたと言います、恐怖と絶望のために現実から逃避した結果なのですとか。(こう書くことそのものが、彼女を再び殺すことになっているとは思うのですが、ご容赦ください)


感情論では「鬼畜に人権なし」「直ちに極刑を」とする論調は揺るがないのですが、しかし、こうした論調にもまた、K作とは違った大きな闇を見る思いがして慄然としてしまうのです。なぜならそれは、突き詰めると二元論的な単純さと、畢竟は人間に対する絶望を意味しているからです。


人間に対し性善説的の立場に立ち、どんな悪も償われ、そして更正できると考えることは、前向きであり是とすべきはずの考え方でした。今回の事件では、そういう感覚を根底からぐらつかせます。個人の本質を真の意味から変えることなどできないのだと突き付けます。赦せない罪があるのだと迫ります。それらを認めたとき、果てしない無力感と絶望感に襲われる思いがするのです。




  1. 以前は伏字なしで記載していましたが、当ブログの検索ヒットNo.1が本エントリであることを知り、本意ではないことから伏字としました。

1 件のコメント:

  1. 再犯で被害にあうことわもの凄く怖いですよ。裁判が終わても毎日怖い。わかりますか?

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