2004年8月30日月曜日

特攻隊の精神?

8月30日の産経抄に特攻隊の精神を美化するような一文が載っておりました。昨日ディスかバリー・チャンネルにて「カラーで見る神風特攻隊の悲劇」という番組をたまたま観ただけに、気になってしまいました。


産経は『特攻隊の散華に熱い涙をそそいだ[...]坂口安吾』の一文を紹介しながら、以下のように書いています。




▼坂口安吾は『特攻隊に捧ぐ』と題した四ページほどのエッセーで、特攻隊の烈々たる「愛国殉国の情熱」に最大の賛美と敬愛をおくったのだった。いささか唐突になるが、アテネ五輪の日本メダリストたちには共通した対応がある。それは「みなさまに感謝します」という言葉だった。



▼その感謝の心と言葉が、それを聴くわたしたちの胸に響いた。この「みなさま」のなかには、生きている人ばかりでなく死んだ人も含まれているはずだ。特攻の英霊たちは、いまの日本の平和と繁栄だけではなく“精神力”も培ったのである。


ヲイヲイ、何を言いたいのでしょうかね。「みなさま」のために自らの命を捧げた「特効隊思想」が尊いというのでしょうか。先のディスカバリー・チャンネルの番組のナレーションで「アメリカは日本の特攻隊を組織してまで護ろうとする「国体」が理解できず、日本は民間人も殺す原爆を理解できなかった」みたいなことを言っていました。番組は連合国(アメリカ)寄りの見方に基づいて作られていますから、米軍の残虐さは影をひそめ、特攻隊の無謀さを淡々と描いてはおりましたが、いかに当時の日本国が狂っていたかは如実に分ります。


「神風」のみならず、その他の自殺兵器を次々と開発し「一億総玉砕」などと言って、本土決戦に備えた話しは、戦中派の方からも聞いたことがあります。軍部は巧みな教育と情報操作を行って、国家神道と天皇を主軸に武士道精神を絡め、忠義を重んじ個を軽んじさせ「武士道は死ぬことと見つけたり」などと言い「死して靖国で会おう」などと誓って無謀な攻撃命令に従属する国民を作りつづけたのです。


靖国を軽んじることが特攻隊などで死んだ人を軽んじるという意見がありますが、話しの次元が違うように思えます。命を侮辱したのは戦争に走った当時の日本政府なのではないでしょうか。日本人が狂気に近い政策を清算できていない以上、産経のような感情的美談論調には全く賛同ができません。こうなると、またまたベルンハルト・シュリンクの「朗読者」のスタンスを思い出してしまい、さらに憂鬱になります。

2004年8月28日土曜日

立花隆:解読「地獄の黙示録」

「地獄の黙示録」が公開されたの1980年ですから、もう24年も前になります。当時私は高校生でありましたが、劇場で観た時は、衝撃と興奮と混乱に陥ってしまったことを覚えています。2001年には大幅にカットを加えた特別完全版が劇場公開されましたが、こちらは劇場では観逃してしまいました。


前半のセンセーショナルなサーフィンシーンが終わった後、ジャングルの中へ進んでゆく過程は、精神的な内奥へと進むがごとくで、次第に更に大きな恐怖へと導かれるようでありながらも、それを一体と名状してよいのか、当時もそして今も判然としない思いを抱いておりました。




ひと言に「戦争の狂気」と言えうような単純なものではなく、もっと人間の本質に根ざした矛盾や狂気を描いていること、父親殺しが一つのテーマになっているらしく、それが映画としての伏線になっているのだとは理解しても、それでも後半の長々としたシーンは、ジャングルの熱気と恐怖そのままに憂鬱な映像でありました。


さて、そんな「地獄の黙示録」を立花隆氏が、持ち前の博学振りを発揮し、真正面から読み解いているのが本書です。立花氏は「はじめに」で次のように書いています。


��私は)この映画が、映画史上最も特異的に面白い作品だと思っている。




この映画は、内容の深さにおいて、はじめて世界文学に匹敵するレベルで作られた映画である。


立花氏の詳細な分析と解説は、本映画の元となったエリオットの「荒地」や、コンラッドの「闇の奥」をはじめ、あちこちの台詞にちりばめられている詩の一節や歌詞を縦横に引用しながら、なおかつ、日本語スーパーの誤りを『日本の洋画界では翻訳のデタラメさが堂々とまかり通る(P.67)』と書き、映画解釈上決定的なミスとなるような翻訳の誤りをひとつひとつ訂正し、背景を示してくれます。


本書を読んでいると、映画のシーンが目の前によぎるようで、立花氏の解釈に成る程と思うのですが、反面、ここまでの知識や教養がなくてはこの映画を楽しめないのかと思うと、逆にゲンナリすることも否定できません。立花先生に「オマエは何にもわかっとらんな」と言われているようで、ナサケないっす。


それでも、気を取り直し、


その深さと重さにおいて比類がないような作品は、多少の破綻がある作品でも、いつまでも人々に論じつづけられるものである。(P.189)


という一文を読み、いずれにしても、またこの映画を観て、自分なりに考えてみたくなったことは確かです。


ふとiioさんのClassicaにエントリーがあったなと思い出したので、エイっとTBしておきます。(こういうのをSPAM TBというのかな?)

2004年8月26日木曜日

勝谷誠彦:イラク生残記

元文藝春秋の記者にして、現在はコラムニストあるいは写真家として、またはTVのコメンテーターとして活躍する勝谷氏による今年3月のイラクでの取材記録です。


このときに同行した橋田・小川両氏が5月にイラク・マフムディアの路上で銃撃された事件は、あまりにも衝撃的でした。勝谷氏も血の涙を流しているのではないかと思えるほどの無念さを、自らのサイトで吐露しておりましたので、この本は襟を正して読むかなとは思ったのです。




表紙の写真(右)は、作者である勝谷氏がフセインが拘束された「穴」に入っている写真です。これは驚きますよね、「フセインの穴」に突撃進入しているのですから。この表紙を見るまで、「フセインの穴」をまともに取材したマスコミがあっただろうか、と思ってしまいました。


という大きな期待を持ってこの本を読み始めました。「イラク生残記」とは何を意味するかは明白で、今年2004年5月28日にイラクで銃撃された日本人ジャーナリストの橋田信介氏と小川巧太郎氏に捧げられる形になっています。


内容は2004年3月、橋田・小川両氏と、まさに銃撃されたGMCを駆ってイラクを共にしたことを記したものです。勝谷氏らもイラクで生死を分かつような恐怖を何度も味わっているだけに、その悲しみと無念さはいかほどのものかと思います。(氏の日記サイト勝谷誠彦の××な日々。にも同時進行的に心情が吐露されています。)


さて、そういう類の本ですし、他ならぬ毒舌家である勝谷氏ですから、いい加減な感想など書けないのですが、この本にはちょっとはぐらかされた思いです。帯に曰く、


亡くなった橋田・小川両氏とチームを組み、自らも武装集団に銃口を突きつけられた著者が、それでも現場に立たずには「発言しない」ことにこだわり続けた渾身の「戦場文学」!


勝谷氏の、現場を見ずに語れるか、行くからには自分の責任で行くという覚悟は、まっとうであり、私のように座して人の活動を眺めるだけの輩に、ああだこうだと言う資格などないのだとは思いますが、「戦場文学」はないでしょうに・・・



日本人外交官はだれに殺されたのか、

なぜ米軍の陰謀説が浮上するのか。

自衛隊はサマワで本当は何をしているのか、

そもそもサマワとはどういうところなのか。

フセイン拘束は米軍の演出なのか、

拘束された「あの穴」は今どうなっているのか。



とは帯裏にあるのですが、上記の事柄に触れられてはいますが、取材と言うほどの取材ではなく、実態はちっともこの本からは分かりません。自衛隊が頑張っているのは分かりますが、それ以上でもそれ以下でもありません。サマワも日本人大使館殺害も、数人からのヒアリングと数日間の著者の行動からの推測だけです。それでも


大手メディアも専門家も、そして何より政治家は、なぜ現場に行かずに無責任なことを言えるのか。


という著者の批判になるのですが、「ええ~っ?」という思いです。そりゃあ、砂漠の真ん中で、アリババに銃口を突きつけられた実感は、あるいはイラクやサマワでの現実の皮膚感覚は、実際の場所に立たなくては得られませんし、そういうものは伝わってきますよ。実際に殺されるかもしれない、という状況の中に立ったものが国会での議論に憤慨するのももっともだと思います。でも本書が、橋田氏と小川氏への追悼的な内容に振れていること、「オレは行ったぞ、オマエはどうだ」という既成事実というかアリバイ作りのように読めてしまうのですが、いかがでしょう。民主党が3時間だけイラクに行った(降りた?)というのよりは、はるかにまともなんですが。


おっと、またしてもだ、座して人の活動を「ああだこうだ」などと言う資格は私になどないのです。でも、誰だって思い立ってすぐにイラクに行けるわけでもなく、行った人に期待はするものです。決して勝谷氏を批判しているわけではなく(何度も言いますが「批判」でも「批評」でも出来るわけないのです)、もう少し掘り下げを期待しただけです。


最後は、本書と関係ない蛇足ですが、サマワで頑張っている自衛隊員にはおそらく罪はなく、自衛隊派遣反対を主張することは、彼らの努力に対して失礼だという意見があります。小林よしのり氏も、このごろそういう論法を取っています。M・ムーアの「華氏911」で息子が軍隊にいる母親が「反戦運動は大嫌いです。息子に泥を塗っているような気持ちになります」というような意味合いのことを言っていました。あるいは、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」における、ナチスの一員として収容所で働いたハンナです。彼らあるいは彼女ら個人を責めることができないのと、それを含む制度や決定事項を批判することを同一には語れないと思うのですが。当然ですが、勝谷氏は同一には語ってはいませんよ。

2004年8月24日火曜日

ムンクの叫びが盗まれたア!?4

ユウスケさん、matthewさん、コメントありがとうございます。さて、しつこくもムンクの件です。この事件は当初から、犯行の仕方が大胆であり、また目撃者に写真まで撮られるという間抜けさなどから、どこか素人っぽい犯行であること、このような超有名な絵を盗む動機が何であるのかが気になっていたのですが、そのことについてAPは、このような絵を愛する裕福な偏執的な人がいることは認めるものの、


"Rich eccentrics owning large collections of stolen art in their basements don't exist,"

というスコットランド・ヤードの談話を紹介しています。




"There is no market for works like these. There is no secret Mr No or Dr Big or anybody like that in the Venezuelan jungle. These guys steal those things as trophies,"



"This is not the work of the Mafia, but of burglars or criminals who thought they could make a good profit,"



"They didn't realise that this work is impossible to sell on."

うーん、そうですか、マフィアもからんでいませんか。マーケットも存在しないのに捌けるなんて犯人が考えたのなら、オマヌケではないの?と思っていたら、警察も今回の犯行はアマチュアの可能性も否定していないようです。


いずれにしても、50億円以上もの世界的な名画が、何の保険も防犯装置もないところに設置されていたことは驚くべきことで、


"We have not protected our cultural treasures adequately. We must learn the lessons,"

というのももっともなんですが、どこか暢気で平和なノルウェーを想像してしまって、これから警備厳重になるのも、ある意味で不幸なる逆行だなアなどと思うのでありました。


The head of the city of Oslo's art collection Lise Mjoes meanwhile pointed out that this was the "first armed robbery committed in a museum throughout Norway's history", insisting that security measures had been taken "to the extent that could have been predicted".


「今まで武装勢力に襲われたことはなかった、セキュリティレベルを上げて厳戒体制に突入する」というのは、ならず者がいる以上、不可避のことなのでしょうかね、どういう世界であっても。(おお、ほとんど引用だけのエントリーになってしまいました)

ムンクの叫びが盗まれたア!?3

メメンとモリ@New Yorkでもエントリーされていましたが、ムンク美術館での盗難の件です。確かに盗難の状況が写真に撮られていたというのは、もっと驚いてよいことでしたかね。日本では携帯電話付デジカメが普及していますが、ノルウェーとかはやっぱりNOKIAなんでしょうか(>意味不明)。


さて、記事の続報を探してみましたが、はかばかしい進展がないようです。APに少しだけ続報がありましたが、現場で取られた写真やビデオを調べてはいるそうですが、有力な手がかりはないようです。


何のために盗んだのかは、最初から疑問でしたが、それについては、




The main theories speculated on in the Norwegian news media are that the painting were stolen for ransom, or as so-called trophy theft, or possibly because the theft was an order from a collector.


Charles Hill, a former Scotland Yard investigator who helped solve the "Scream" theft in 1994, said it was unlikely that the paintings were stolen for a collector or for sale because they are too well known.


と書かれています。「コレクターからのオーダー」って、やっぱりそういう小説のようなルートがあるのですね。ほら、闇ルート仲間が集まってほくそえみながら鑑賞するなんて、素敵ですよね。それとも、やっぱり「身代金」目当てなんでしょうか。


ところで、こういう名画に盗難保険をかけないというのは、普通のことなのでしょうか? まあ、かけていたから、名画が戻るというものでもないでしょうが・・・

2004年8月23日月曜日

ムンクの叫びが盗まれたア!?2


ムンクの《叫び》が盗まれた件ですが、APの記事をよく読みますと、盗まれたのはこれだけではなく、何と《マドンナ》も盗まれたのですね。《叫び》は全部で4枚ありますから、《マドンナ》が盗まれた方が損害は大きいでしょうかね。

(写真はSept. 20, 1999のもの from AP )


《叫び》は1994年にも盗まれているそうなのですが、このときはほどなく犯人は逮捕され作品も無事に取り戻すことができたそうです。あの時は犯人は身代金(っていうんですか)として政府に100万ドルを要求したのだとか。ムンク美術館のスポークスウーマンは「盗まれた作品は売ることはできない、値札をつけることもできない」と言っています。




ノルウェーの最も古いオークションハウスであるBlomqvist Fine Artsのマネージャーは、《叫び》は6千万ドルから7千万ドル位の値段であるけれど、有名すぎるから売れないだろう、おそらく身代金を要求するのではないかとAPに語っていますね。

犯人はAudiのA6ワゴンで逃げて、途中で額をはずして捨てているのですよね。どうしてこんなことをするのでしょう。


オスロ美術館の警備の薄さや展示方法などについても批判が出ているようですが、厳重な警備に囲まれて名画を観るというのも落ち着かないものではあります・・・


絵はワイヤーでかかっていただけで、犯人はちょっと力を入れてはずすだけでよかったそうですが、これについても、絵をしっかり固定していたらしていたで、犯人たちは額から絵を切り取って持っていっただろうと述べています。


1994年の盗難のときは、Norwegian Culture festivaが冬季オリンピック(リレハンメル)と併せて開催されていて、National Art Museuの目玉として出展されていたのそうです。


ムンクの絵は、よく死の影が漂うとかいわれますが、北欧の静謐な世界が描かれていて、私は結構好きです。湖の横で舞踏会をしている絵とかも、名作ですよね。しょっちゅう観たくはありませんが。いずれにしても、名画が早く戻ることを願っております。続報を待ちます。

ムンクの叫びが盗まれたア!?

オスロ22日AP=共同によりますと、『ノルウェーの代表的画家ムンク(1863―1944年)の絵画「叫び」や「マドンナ」などが22日、オスロのムンク美術館から強奪された。』そうです。


美術館の見物客の前で武装した犯人グループが美術館のスタッフを脅した上で、盗み出した』というのですから、計画的にして強引ですね。

しかし・・・ムンクの叫び・・・名画ですが、闇で買った人は居間にでも飾るのですかね・・・それとも、所有することに歓びを感ずるのでしょうか。いずれにしても、人類の宝に近いものは、原則的に個人所有とかはナシにしてもらいたいんですが

カプースチンのピアノ

今年6月にアムランの新譜が出たというので購入していたものです。内容はカプースチン(Nikolai KAPUSTIN b.1937)というロシアの作曲家です。アムランの録音レパートリーは、普通のピアニストがあまり焦点を当たらない作曲家のものが多いのですが、この盤も一連の演奏であるのだろう程度の気持ちで購入したのですが、今回は聴いてみてびっくりです。何しろカプースチンに関する予備知識はゼロでしたから。


アムラン:カプースチンピアノ作品集
  1. 変奏曲Op.41
  2. 8つの演奏会用エチュードOp.40
  3. バガテルOp.59-9
  4. 古い形式による組曲(スィート・イン・オールド・スタイル)Op.28
  5. ピアノ・ソナタ第6番Op.62
  6. ソナティナ Op.100
  7. 異なるインターヴァルによる5つのエチュード
  • マルク=アンドレ・アムラン(p)
  • Hyperion

クラシックとジャズの融合というのでしょうか、ジャズ風クラシックとかそんなものではありません。そんなクロスオーバー的なヒーリングミュージックなのではなく、炸裂する音楽がここにはあります。超絶技巧を駆使した即興と思われるようなジャズ風コードが、きっちりと楽譜に書かれているのだそうです。 カプースチンンの曲はピアニストにとっては難曲の部類に入るらしいく、HMVの解説によると2000年3月の東京でのリサイタルでもカプースチンを弾いたそうで、アムランはまたしても、

作曲者の自作自演盤でも守られていなかった早いテンポ指定を、その通りに、まるで何でもないかのように平然と演奏、ピアノに詳しい人ほど「空いた口がふさがらない」状態
だったそうな。確かに凄い演奏です。『ロシア伝統のヴィルトゥオーゾ・ピアニズムと、ジャズ(特にバップ)が融合したカプースチンの音楽(HMV)』なかなかに聴きこたえがあります。 カプースチンが気に入ったので、下の二つの盤も入手してみました。こちらも一聴した限りで感想をおいそれと書けるものでもありませんが、非常に気に入りました。もう少し聴き込んでみます。
カプースチン:ピアノ作品集
スティーヴン・オズボーン
カプースチン自作自演集

2004年8月22日日曜日

映画:華氏911

今日の東京は暑さもひと段落、昨日からマイケル・ムーアの話題作「華氏911」が公開されていますので、早速観てきました。下の画像はオフィシャルサイトからの無断引用です。公演が終わればサイトもなくなるので画像転載は多めに見てくださいな。





さて、観た感想といえば、前評判は知っておりましたが、なかなかに観ごたえのある、そして重いテーマを持った映画でありました。




「華氏911」が第57回カンヌ国際映画祭でドキュメント映画としてパムドール賞を受賞したこと、アメリカで配給禁止の目にあったことなど、日本でも放映前から話題も豊富でした。内容はといいますと、M・ムーアの主張である強烈なブッシュ批判に満ち満ちた、かなり主観的な映画に仕上がっているように思えました。もはやドキュメンタリーではないですね。


ドキュメンタリーとは何かなどと難しいことは分かりませんし、ドキュメンタリーと言えども作成者の主観は加わるものだという意見もあります。それは確かにそうですし、どんな映像であっても主観なしのフラットなものなどないかも知れません。しかし、ドキュメンタリーとは、そこで写された映像が全てで、それをどう解釈するかは見るものに委ねられるものであるべきです。


そういう観点からは「華氏911」は、恣意的な政治プロパガンダ映画であり、ブッシュと共和党批判の宣伝映画であると批判されるのも最もであると思われます。この映画を観て、ブッシュと共和党を好きになる人は、よほど米国政治について精通しているか、熱狂的な共和党支持者でなければ、ありえないと思えるほどです。


また、M・ムーアの出身地であるミシガン州フリントの貧しさを題材として、貧困者を対象とした軍のスカウトや就職斡旋の現状などに切り込む様も、軍隊への志願者は貧困者だけではないと批判する人もいるでしょう。あるいは、ブッシュとビン・ラディン家の関係、ブッシュとアラブとの繋がり、政府高官たちとカーライル社やハリバートン社など軍産複合体への批判もありますが、これも一面的かもしれません。アラブには言及してもイスラエルにつては一言もありませんし、ネオコンの存在についても言及がありませんから。


では、この映画は民主党プロパガンダの偏向した映画なのでしょうか、答えはNoです。M・ムーアの映画もある意味からは一面的ですが、彼の映画を批判する声も一面的に思えるのです。


ただ唯一、政治色がない声として言えることは、イラク戦争が一体何のための戦争であり、何のためにフリントの若者も、そうではない者たちも、そしてイラクでの民間人や子供も、手足を、普通の生活を、そして命を失わなくてはならないのかという素朴な疑問と憤りと怒りと悲しみです。


クリスマス・イブの夜、メリークリスマスの歌に乗って、アメリカ軍がイラク人嫌疑者の自宅を強制捜査するシーンは、グロテスク以外の何ものでもありませんでした。アメリカの若い兵士が、ヘルメットの中にヘッドフォンを仕込み、ハードロックの強烈なビートを聴きながらイラクとイラク人(敵)を攻撃していると語るシーンは、「地獄の黙示録」の何倍もリアリティがあります。


しかし、その彼や彼女らにしても、アメリカ本国には、おそらくは身の上を案じる家族が心配しながら帰還を待っているのです。そこには数字やデータではない、生身の一人一人の人生があることを改めて突きつけます。


ハードロックを聴きながらイラク人(なぜ敵なのでしょう)を殺す彼らを、不道徳と責めることができるでしょうか、殺人者として罰することができるでしょうか。そうして正常な精神を麻痺させなくては、自分の魂を殺さなくては相手を殺せないところまで、追い詰めてまで行う行為は、一体何のためなのでしょう。一瞬、昨日レビュを書いた「朗読者」を思い出しました。


アメリカ人は、他国のことにほとんど関心がないとよく言われます。今、日本で盛り上がっているオリンピックにしても、米国ではさっぱりだそうです。だからイラク戦争など、近親が戦地に赴くかしない限りは、火星での出来事よりも遠い事件なのかもしれません。そうであるならば、アメリカ人がこの映画を観たことは、大きな意味を持つと思います。


そして映画の底には、あまりにも歪んだ世界が、現出しています。ブッシュがどこかのパーティーで演説しているシーンがありました。「(会場の紳士淑女たちに向かい)持てるものと、さらに持てる皆さん方の(会場から笑い)支援を受けて・・・」みたいな演説です。ブッシュはバカですから、すぐに突付かれますが、彼あるいは彼女らは、決っして表に出てバカなことはしでかさないでしょう、ここにこそ、M・ムーアの突撃が本当は欲しかったと思うのでありました。

2004年8月21日土曜日

ベルンハルト・シュリンク:朗読者

『現代ドイツ文学の旗手による、世界中を感動させた大ベストセラー』


私はベストセラーというものに余り信を置いていないのですが、薄い本だし、夏だし、パンダも欲しいし、ということで読んでみました。内容は全く当初の予想を裏切るほどの内容でした。ドイツでは今でもこういうテーマで本が書かれるのですね。

読まれていない方でもギリギリ許容できるレビュとしました。できれば、私のレビュなど読まずに書店へ(笑)




世界中が涙したという名作ですが、主人公15歳のときの初めての体験からして、将来的な喪失感が予感されています。ふたりの関係が性愛的にして不道徳であるとか、年齢不相応であるとか、そういうことからではなく、逆に二人の関係が、それぞれ求めるものが全く違っているにも関わらず、ピュアすぎるだけに、それは長くは続かないことを予感させるのです。


前半でのハンナはあまりにも謎めいています。彼女には確たる自分と固い殻のような他人には決して明け渡さない暗い自我が感じられ、それが更に、彼女が教育をまともに受けてこられなかった境遇と合わせると、少年に何を求めていたのかが、哀しいほどに伝わってきます。


ぼくは、自分が学校をさぼっていることを彼女に話した。

「出て行きなさい」

彼女は掛け布団をはねのけた。

「わたしのベットから出てって。そして、勉強しないんだったら、もう来ないで。勉強がバカみたいだって?バカ?あんた、切符を売ったり穴をあけたりすることがどんなことかわかっているの」
(Ⅰ章 P.42)


この後から少年の「朗読」が始まるのですが、すでに彼女のひとつの秘密が分かってしまいます。そだけに、主人公の少年がそれに気付かないのが鈍く、相手の哀しさが理解できていないのが歯がゆく、相手の脆さが自分の幸福で見えなくなっているのが若すぎると思えてしまいます。そして、少年は当然の帰結として彼女と不本意な別れを経験することになります。


しかし、それだけなら単なる一風変わった苦い恋愛物語で終わってしまうのですが、作品の第二章では、女性の驚くべき過去が明らかになります。私は展開の意外さに最初ついていけませんでしたが、ここにテーマの主眼がある以上、作品は幾重にも枝分かれし、ドイツ人のみならず日本人にも、そして歴史などに興味のない人へも、様々なテーマを投げかけることになりました。それは「戦争犯罪」ということと「他者への理解と受容」ということです。


少年と年長者の恋ということに始まり、過去の罪をどう考えるか、過去に罪を犯した人を愛してしまった人はどうしたらいいのか、そもそも過去の罪を現在の基準で裁けるものなのか、戦争犯罪に対し戦争を経験していない現代の人はどうするのだろうか、あるいは、過去の恋人に対する不誠実を自分のなかでどう処理してゆくのか、さらには、個人の尊厳とは、相手を理解するとは、愛するとはどういうことなのか、などなど・・・


この本はミステリーではありませんが、やはり本書は予備知識なしにまず読まれ、そして再読されるような本なのだと思いますので、詳細には触れられませんが、彼女の以下の言葉がいつまでも残ります。


「わたしは・・・・・・わたしが言いたいのは・・・・・・あなただったら何をしましたか?」

��Ⅱ章 P.129)


主人公の女性に対する接し方につては、彼が半生に渡って彼女を理解しようと努め続けていたにも関わらず、どこかに不誠実さが残ります。彼が法律を専門としていた者でありながら、法史学者とい職業を選択したように、どこか逃避的なのです。


あなたは人生への挑戦と責任から逃げている、とゲートルートは言った。彼女の言うことはもっともだ。ぼくは逃げたのだし、逃げることができてほっとしていた。
��Ⅲ章 P.205)

彼が自分のことと彼女のことについて『ぼくはハンナを裏切ったのだろうか。ぼくはハンナに借りがあるのだろうか。ぼくは彼女を愛したことで罪ある者となったのだろうか。ぼくは彼女の思い出から離れるべきなのだろうか(Ⅲ章 P.245)』と悩んでいても、時に自己弁護的であります。しかし、もし私が「あたなだったら何をしたか」と問いかけられると、答えに窮してしまいます。だから以下の言葉も冷徹に突き刺さります。


「そしていまこの瞬間、わたしはシュミッツ(ハンナ)さんにもあなたにも腹を立てています。でも、もう行きましょう。」

��Ⅲ章 P.236)


ハンナの最後に取った行動には意見が分かれるかも知れません。しかしこれとて、当初からこの帰結しかないということころに落ち着いています。彼女の行動は、彼女自身の尊厳と、彼への純粋な愛を守るために取った行動であるのだと思います。従って、これ以上の帰結がありえようかと言う点において、作者も本件がフィクションであるならば予定調和的です。そして、それが最大の悲劇です。


それでも主人公を責めることなどは、到底できないのではあります。主人公はこれからも自分に対し問い続けるでしょうから。


通読するに「世界中を感動」というフレーズには疑問を感じます。色々な読まれ方をするでしょうが、お涙ものの感動大作ではないと思います。日本人である私には、このような作品が今もドイツで書かれることに対しては驚き以外の何物ではなく、話しは全くそれてしまいますが、サッカーアジア杯での観客による反日行動の源泉について、ふと考えてしまいました。

2004年8月19日木曜日

DGのクライバー追悼盤











いやあ、暑いです。今日の東京は34度程度でしたが湿度があるせいでしょうか、それとも休日の涼しい北海道に慣れていたせいでしょうか、とにかくこたえました。ということで、暑さを吹き飛ばすようなCDでもと思い、池袋はHMVに寄って見ました。


すると店内には軽快にしてエネルギッシュなブラ4が高らかに鳴り響いています。ああ・・・これはC.クライバーに違いないと判じたとおり、音盤はグラモフォンの追悼版でありました。


手にとって見てみますと、《未完成》とブラ4、それに《トリスタン》から第三幕第三場という内容。1390円という安さに、夏の夜長に《トリスタン》も良からんと思って購入、早速聴いてみました。




《未完成》やブラ4については改めて私が言及することもないと思われるのですが、こうしてC・クライバーの演奏を聴いてみますと、どうしてこうもエネルギッシュでありながら流麗な音楽を奏でるのかと驚いてしまいます。


クライバーに特徴的な誇張された部分であっても、全体の流れの中では全く不自然ではなく聴こえ、聴きなれたフレーズに新たな生命が、音楽に接するたびに再生産されるかのようです。旋律がザワザワと波立つような興奮を与えてくれ、体の中でリズムが舞踏を始めるのです。決して野暮には傾かない情緒と力強さを秘め、同時に音楽の持つ美しさと哀しさを伝えてくれます。悟性と情熱との間の神一重のバランス感覚とでも言えましょうか。


ふたつとも初めて聴くわけではない演奏ですが、改めて感動してしまったのですが、もっと感銘を受けたのは《トリスタン》です。第三幕第三場とは「死と地獄(Tod und Holle!)」から「イゾルデの愛と死」に至る悲劇のラストシーンです。すなわち、クルヴェナールが「Tod und Holle! Allez sur Hand! (死も、地獄も、みんな揃ったな!)」と叫ぶところから始まり、メロートがクルヴェナールに討ち倒され、そのクルヴェナールも返り討ちに合って死んでしまい、マルケ王をして「Tot denn alles! Alles tot! (だれもかれも死んでいく!みんな死んでいく!)」と嘆かせる激動を経て、イゾルデの没我の愛の唄と自死に至る、哀しくも官能的なまでに美しい場面です。


イゾルデはマーガレット・プライスなのですが、この歌声が素晴らしい!この「イゾルデの愛と死」は何度も繰り返し聴いてしまって、聴くたびに涙してしまいました。声音とイゾルデの崇高なまでの愛の唄の美しさときたら、一緒に死んでしまいたいほどです(って死ぬなよ)。


《トリスタン》は、私はショルティ盤でしか全曲を通して聴いたことがないのですが、こちらのイゾルデはビルギット・ニルソン。同じ部分を比べて聴いてみましたが、もはやショルティ盤を聴くのが嫌になってしまうほどです。


やっぱり、夏の夜には《トリスタン》ですな、夜の生暖かい風に乗って「Nabet acht! (ご用心!)」というブランゲーネの声が漂ってくるようです。


最後はクライバーから話題が放れてしまいましたが、オペラの指揮云々はこれだけでは分かりません。機会があれば全曲盤を手に入れます。


最後にHMVの紹介を一部紹介しておきましょう。


なお、この追悼盤には、4種の非常に貴重な資料(クライバーがDGスタッフへ送った葉書)がブックレットに掲載されています。左ページに実物の写真(ドイツ語、残念ながらモノクロです)と右ページに英語、仏語の訳が掲載になったものです。うち2通は完全直筆のもので、残りの2通も本文はタイプですが途中に書き込みがあり、クライバーファンにはまさに必携といえるものです。ライナーノーツ(英仏独)も大変興味深く、全20ページのブックレットとなっております。


クラヲなクラヲには堪らない内容ということでしょうか。私は、まだ、読んでません。


こんなことしている間に、アテネでは柔道で上野が金メダルを取ったようですな。

 


ドイツ・グラモフォンの追悼盤! C・クライバー


●シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759『未完成』●ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 作品98●ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』~第3幕第3場


Deutsche Grammophon

2004年8月18日水曜日

最近読んでる本など

Classica のiioさんのブログを読んでおりますと、その読書センスの良さに惚れ惚れしてしまいます。今回もニコルソン・ベイカーの「中二階」という本を紹介しているのですが、以下の部分が振るっています。


店に入ると、”二本の指でとことこ歩き”の動作でもって、アルバムを次々と繰っていく。たまに同じアルバムが何枚か続くと、まるで昔の五セント映画の原始的なアニメーションのように、<ドイツ・グラモフォン>の装飾的な黄色のタイトル枠の下で・・・




このフレーズを読んだだけで、中学時代、ちょっと高ぶった気分とともに入ったレコード店での手触りやにおいのようなものまで思い出しました。このエントリーには色々な方が反応しておられますが、どこか琴線に触れる描写なのですね。前後の脈略は不明ですが、この紹介だけで読んでみたい気になります。


最近はネットショッピングも盛んになってきましたから、店頭でのこういう感覚は、次第に薄れてくるのかと思います。CDのワゴンセールで輸入CDを放出している部分に、クラヲたちが集まって、物凄い勢いでCDのドミノ倒しをやっている様とかも、そのうち消え去るのでしょうか(笑)。


そういえば、初めて買ったLPとCDってのは何だったのかと思い出してみると、LPはメータの惑星、CDは、ビル・エバンスとジェレミー・スタイグ(Fl)の枯葉であったような気がします・・・ああ、遠い過去。


さて、最近の私の読書生活を振り返ってみますと、どうしてこんなにつまらない本ばかり読んでいるのだろう、というようなものばかり。趣味の悪さにゲンナリしてしまいました。


  • ゲーテ:ファウスト(池内紀訳)

  • ドストエフスキー:罪と罰 (工藤精一郎訳・・・再読)

  • 森鴎外:ヰタ・セクスアリス、舞姫、興津弥五右衛門の遺書、阿部一族、佐橋甚五郎、鶏(一部再読、短中編・・・森鴎外って面白いですか?)

  • 柄刀一:ifの迷宮(「宮部みゆき」が絶賛していたのだが、なんか、つまらん、途中)

  • 宮部みゆき:理由(その「宮部みゆき」がツボを突かない、途中)

  • ベルンハルト・シュリンク:朗読者


感想とかは、思いついたら書きましょう。こんな本の感想なんて、誰も読みたくないでしょうし・・・

2004年8月6日金曜日

ヒラリー・ハーンの新譜発売ですか

以前も書きましたが、ヒラリー・ハーンの新譜が発売されているのですね。

曲目はエルガー:ヴァイオリン協奏曲とヴォーン・ウィリアムズ:あげひばりです。


どちらも聴いたことがないのですが、HMV解説によりますと『古今の数あるヴァイオリン協奏曲の中でもトップ・クラスの難曲とされるこの作品』 らしく、コリン・デイヴィス率いるロンドン響の演奏も『特筆すべきクオリティ』だそうです。

一方、加藤さんのClassical CD Information & Reviewsでのレビュでは、ヴァイオリン協奏曲の演奏に対し、『聴き手に深い感懐を抱かずにはおかない決定的名演』として『強力に推薦』しております。


ああ、早く聴きたいなあ・・・と、安易に注文してしまうと、また未聴CDが増えてしまうなあ。たくさんCDを買うクラシックファンの方は、一体いつ聴いているのでしょう・・・

2004年8月5日木曜日

サッカーアジア杯での「反日感情」

しばらくブログ更新は止めようと思っていたのに、ちょっと時間ができたので、またせっせと書いています。

さて、アジア杯サッカーで日本は決勝に進みましたね。熱心なスポーツフリークでない私は、試合を観ても「ひでーグラウンドと環境でのバトルだなあ」くらいしか分らず、後は奇跡のようなゴールシーンに一喜一憂するのが関の山です。


そんな状況ですから、サッカー場における観客の反日ブーイングについても知ることは少ないのですが、昨日のテレビ朝日「報道ステーション」の解説者は、「ブーイングをする観客は、家に帰ると村上春樹の本を読み、日本製のパソコンで反日感情をネットに流している」として、反日感情だけではないと指摘していました。しかし解説に力も深みも感じられず(「報道ステーション」全体がそうですが)、なにか腑に落ちない感じでした。ブーイング映像も同じものを何度も度繰り返すのみで、観客や子供たちの反日感情のインタビューも新鮮味がなく、むしろ自虐的な意味合いしかないように思えました。



そんなことを思っていたら、中国での村上春樹ブームについて、blog::TIAOというサイトで「中国での村上春樹ブームと日本大衆文化の受容 ・・・中国社会の大衆化と日本研究の変容 by 王敏(AANレポートより)を読む」というエントリーを見つけました。なるほどと思う反面、これを読んで感じたことは、果たし村上春樹を好む層とサッカー場で中指を立てブーイングをする層は同じなのかということでした。また村上春樹を好んでいるから親日というわけでもないでしょう。ハナシはそんなに「親日」とか「反日」とか単純ではないはずです。


それにしても、中国人は日本人より気性の激しい人が多いのでしょうか。日本国はアメリカ軍によって東京を爆撃され、さらに広島と長崎に核兵器を使われ非戦闘員が大量に虐殺されたというのに、日本人の多くはずーっとアメリカに擦り寄ったままです。岸田秀氏によれば、これも複雑な集団心理ということになるのでしょうか。


私にはサッカー場における中国人の反応もマスコミが喧伝するような画一的なものではないような気がしています。たとえば、中国の日本に対する経済的劣等意識と、最近の自我の目覚めにも似た疾風怒涛のごとき発展からくる矜持と軋み、経済発展の果実が公平公正に中国民に行き渡ってはいないであろう不満などが、複雑に混ざった感情の表出とも捉えることができるのでしょうが、それさえもステロタイプな見方かも知れません。


だから、マスコミが「反日教育」を報道し日本人の国民感情を煽ることには若干の違和感を感じています。本日8日の朝日、読売、産経各社社説は本件を取り上げておりますが、各社の論旨は以下のような具合です。


まずは読売新聞から。


 「反日シンドローム」――。こう形容したくなる程、中国で反日感情が高まったのは、一九九〇年代半ば以降のことである。とりわけ戦後五十年の節目となった九五年、江沢民政権は、「愛国団結」を訴える「抗日戦勝キャンペーン」を大展開した。


 新聞、テレビは、旧日本軍の侵略、残虐行為を検証する報道であふれ、その後、「反日」は愛国教育の基調となる。アジアカップのスタンドを埋めたサポーターの大半は、この「愛国世代」の若者たちだ。彼らにとって反日は、「自明の理」という感覚になってしまった。


として「反日教育」を原因に挙げて以下のように結んでいます。


 平和の祭典オリンピックを主催することになる胡錦濤政権は、自ら育てた反日という「負の連鎖」を断ち切るよう努めるべきだ。負の連鎖が続くのは、日中双方にとって不幸なことだ。


次は産経新聞です。


 このような事態になった背景は複雑だ。反日愛国主義教育の影響や、経済成長に伴う大国意識の広がりに加え、大卒者でも就職難という現実社会への不満が若年層に強く、日本がそのはけ口になっているとの指摘もある。


 自国チームへの応援は大いに結構だ。ただ相手チームの選手やサポーターに不安や不快感を抱かせるようでは開催国として失格だ。中国人サポーターの行動と当局の無為無策は、四年後の北京五輪開催資格へ疑問の声を呼ぶ。日中戦での改善を期待する。



という具合に、どちらも中国に強い遺憾の意を表明し、中国に強く当たるべしというように読めます。まあ、予想とおりの反応です。私も中国に節度を求める気持ちは変わりありませんが、はてさて、日本政府が中国政府に対し「サッカー場でのマナーを何とかせよ」なんて、次元の低いことを主張するのでしょうかね。


最後は朝日新聞です。


 重慶や済南での「反日」騒動には、むろん日本の中国侵略という歴史的な背景がある。とくに重慶は、日本軍機の無差別爆撃によって膨大な数の市民が犠牲となった。日本の若者たちも、この事実を知っているかいないかで、騒動への見方が変わってくるだろう。


 小泉首相の靖国参拝や尖閣問題、加えて日本人による中国での集団買春など、中国側からすれば感情をさかなでされるような出来事には事欠かない。若者に高まりつつある大国意識や江沢民時代の「愛国教育」の影響もあるだろう。


 それだけではない。重慶のような内陸部は、発展著しい沿海部と比べてはるかに貧しい。就職先のない若者も多い。不満はなかなか政府に届かない。そんなうっぷんを「反日」に託して晴らそうとした面も小さくない。


として


 そうであれば、スタンドの「反日」をいたずらに過大視することは賢明ではない。むしろ考えるべきは、なぜ日本が標的として使われやすいかだ。歴史の和解に魔法のつえはないが、歴史のとげを抜くことは今日の政治家の責任である。


と「朝日らしく」まとめています。


さて、こういう反日感情に対し、先に紹介したblog::TIAOというサイトの「新聞社Webサイトの「社説」がどんどん隅の方へ ・・・サッカー・アジア杯「反日」批判の情報コレクトとして」というエントリーに中国人から以下のようなコメントがついていました。


I'm really feeling shamefaced about the Chinese football fans.


It is silly to bring political issues into sports field.


I don't think we receive an anti-Japanese education.
But I think our education doesn't make a clear attitude to Japan and its crime to Chinese people in war.


I think our "爱国主义教育" doesn't have a real content,so that many people don't know what it is.
They misunderstand it.
They think anti-Japanese is the best way to express their love for homeland.


This is really stupid.


Our history textbook for high school students doesn't describe much of crime done by Japan.
So I don't think the anti-Japanese mood at present is caused by those history classes.


Posted by: 張穎 at 2004年08月05日 11:41



これを読んで、「馬立誠:日本はもう中国に謝罪しなくていい」という本も思い出しました。北京での決勝戦はどんな状況になり、マスコミはどう伝えてゆくでしょう。ネット上でも冷静で分析的な意見が読みたいものです。

2004年8月3日火曜日

C・クライバー追悼なんですが

ちょっと亀のような行動ですが、C.クライバーが亡くなったのことを受けてCD店で追悼ディスク販売でもしているだろうと思い、ちょっと前に池袋HMVに行ってみました。クライバーのコーナーは、あるにはあったのですが貧弱なんですよね、予想通り・・・(^^;;


HMVサイトも覗いてみましたが、HMVにしてこれだけ?と眼を疑うようなラインナップです。録音の少ない指揮者でしたあから、諦めるしかないのでしょうかね。

ほんとうは「薔薇の騎士」のDVDでも買おうと思ったのですが、店頭にありませんでしたので「椿姫」を買ってしまいました。これは76&77年の演奏でSACDによるリマスター版です。ヴィオレッタにはイレアーナ・コトルバシュ、アルフレードにはプラシド・ドミンゴ、ジェルモンにはシェリル・ミルンズという歌手陣です。早速聴いてみましたが、なかなか颯爽として良いです。レビュは書きません。


クライバーの盤は諦めて、仕方がないとういか、ついでなので、カプースチンの盤を2枚ゲット。アムランのカプースチンを聴いてすっかり好きになってしまいました。ピアノはオズボーンのものとカプースチン自演のもの。気が向いたら何か書きましょう。


ところで、年休とって三連休で仕事のことも音楽のことも一切忘れて過ごしていましたが、世の中はもうすっかり夏休みモードでした。ということで、ブログ更新も、そろそろ夏休みといたします。皆様、良いお盆をお過ごしください。