2004年8月26日木曜日

勝谷誠彦:イラク生残記


元文藝春秋の記者にして、現在はコラムニストあるいは写真家として、またはTVのコメンテーターとして活躍する勝谷氏による今年3月のイラクでの取材記録です。

このときに同行した橋田・小川両氏が5月にイラク・マフムディアの路上で銃撃された事件は、あまりにも衝撃的でした。勝谷氏も血の涙を流しているのではないかと思えるほどの無念さを、自らのサイトで吐露しておりましたので、この本は襟を正して読むかなとは思ったのです。

表紙の写真(右)は、作者である勝谷氏がフセインが拘束された「穴」に入っている写真です。これは驚きますよね、「フセインの穴」に突撃進入しているのですから。この表紙を見るまで、「フセインの穴」をまともに取材したマスコミがあっただろうか、と思ってしまいました。

という大きな期待を持ってこの本を読み始めました。「イラク生残記」とは何を意味するかは明白で、今年2004年5月28日にイラクで銃撃された日本人ジャーナリストの橋田信介氏と小川巧太郎氏に捧げられる形になっています。

内容は2004年3月、橋田・小川両氏と、まさに銃撃されたGMCを駆ってイラクを共にしたことを記したものです。勝谷氏らもイラクで生死を分かつような恐怖を何度も味わっているだけに、その悲しみと無念さはいかほどのものかと思います。(氏の日記サイト勝谷誠彦の××な日々。にも同時進行的に心情が吐露されています。)

さて、そういう類の本ですし、他ならぬ毒舌家である勝谷氏ですから、いい加減な感想など書けないのですが、この本にはちょっとはぐらかされた思いです。帯に曰く、

亡くなった橋田・小川両氏とチームを組み、自らも武装集団に銃口を突きつけられた著者が、それでも現場に立たずには「発言しない」ことにこだわり続けた渾身の「戦場文学」!

勝谷氏の、現場を見ずに語れるか、行くからには自分の責任で行くという覚悟は、まっとうであり、私のように座して人の活動を眺めるだけの輩に、ああだこうだと言う資格などないのだとは思いますが、「戦場文学」はないでしょうに・・・

日本人外交官はだれに殺されたのか、
なぜ米軍の陰謀説が浮上するのか。
自衛隊はサマワで本当は何をしているのか、
そもそもサマワとはどういうところなのか。
フセイン拘束は米軍の演出なのか、
拘束された「あの穴」は今どうなっているのか。

とは帯裏にあるのですが、上記の事柄に触れられてはいますが、取材と言うほどの取材ではなく、実態はちっともこの本からは分かりません。自衛隊が頑張っているのは分かりますが、それ以上でもそれ以下でもありません。サマワも日本人大使館殺害も、数人からのヒアリングと数日間の著者の行動からの推測だけです。それでも

大手メディアも専門家も、そして何より政治家は、なぜ現場に行かずに無責任なことを言えるのか。

という著者の批判になるのですが、「ええ~っ?」という思いです。そりゃあ、砂漠の真ん中で、アリババに銃口を突きつけられた実感は、あるいはイラクやサマワでの現実の皮膚感覚は、実際の場所に立たなくては得られませんし、そういうものは伝わってきますよ。実際に殺されるかもしれない、という状況の中に立ったものが国会での議論に憤慨するのももっともだと思います。でも本書が、橋田氏と小川氏への追悼的な内容に振れていること、「オレは行ったぞ、オマエはどうだ」という既成事実というかアリバイ作りのように読めてしまうのですが、いかがでしょう。民主党が3時間だけイラクに行った(降りた?)というのよりは、はるかにまともなんですが。

おっと、またしてもだ、座して人の活動を「ああだこうだ」などと言う資格は私になどないのです。でも、誰だって思い立ってすぐにイラクに行けるわけでもなく、行った人に期待はするものです。決して勝谷氏を批判しているわけではなく(何度も言いますが「批判」でも「批評」でも出来るわけないのです)、もう少し掘り下げを期待しただけです。

最後は、本書と関係ない蛇足ですが、サマワで頑張っている自衛隊員にはおそらく罪はなく、自衛隊派遣反対を主張することは、彼らの努力に対して失礼だという意見があります。小林よしのり氏も、このごろそういう論法を取っています。M・ムーアの「華氏911」で息子が軍隊にいる母親が「反戦運動は大嫌いです。息子に泥を塗っているような気持ちになります」というような意味合いのことを言っていました。あるいは、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」における、ナチスの一員として収容所で働いたハンナです。彼らあるいは彼女ら個人を責めることができないのと、それを含む制度や決定事項を批判することを同一には語れないと思うのですが。当然ですが、勝谷氏は同一には語ってはいませんよ。

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