2004年9月30日木曜日

カプースチンのピアノ2

以前ちょっと触れましたがカプースチンのピアノを聴いています。ということで、少し感想を加えました。時間をかけて少しずつ聴いてゆこうかなと思っています。

カプースチンという名前を最近あちこちで散見するようになりましたた。彼はロシア生まれ(b.1937)のジャズピアニスト兼作曲家です。モスクワ音楽院でピアニストとしてロシア伝統の卓越した技術を身につけるかたわらジャズ音楽も学び、ジャズの要素をふんだんに取り入れたピアニスティックな作品を数多く生み出しています。

彼の曲はジャズのスタイルにおいてはエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンの影響を色濃く受けているようであり、一方でクラシックにおいてはシューマンやブラームスよりはバッハやベートーベンを好んでいるそうで、曲を聴いた感じはラフマニノフやスクリャービンを彷彿とさせる部分もあったりします。

生粋の(?)ジャズファンは「ロクにジャズも聴いたことのないクラシックな奴が持てはやしている」という感想も少なくはないようです。ジャズにベートーベンにスクリャービンですから、聴いたことのない方にはメチャメチャな印象を受けるかもしれませんが、そんなことは全くありません。ピアノが好きな方には、きっとワクワクするようなゴキゲンな要素がたくさんに詰まっている曲なのではないかと思います。

ちなみに私は最近はジャズは聴きませんが、オスカー・ピーターソンもセロアス・モンクも好きでしたし、バド・パウエルは私のイチオシのジャズ・ピアニストでした、かれこれン十年前ですが。そういう記憶を引き出しても、カプースチンが「つまらない」ということは全くないと思っています。鋭利なリズムとスイング感、バラードの美しさ、即興的なフレーズの持つ興奮、激しく技巧的なパッセージ、ハマるひとにはハマる作曲家であると思います。

現在(2004年9月現在)、容易に入手可能なカプスーチンの録音から 1.アムラン 2.オズボーン 3.カプースチン(自作自演) の三つのアルバムを聴いて感じたことを、思いつくままに書いてみることとしました。どれから聴き始めるかは悩みましたが、やはり買った順に始めるのが良いかと思いアムラン版から始めることとします。(まだ書いてない、聴き込んでない、そのうち書く)

2004年9月27日月曜日

ラトル/メシアン:彼方の閃光

今日は暑さもようやく一段落し、細かな雨がひそやかに中に舞っているような天候でした。ということで、今日は落ち着いて音楽などを聴くことができました。普段はほとんど手に取ることのないメシアンです。ラトル+ベルリンの話題作ということで買ってみたのですが、果たして・・・

サイモン・ラトルが率い、そのカラーを再び変え始めたベルリン・フィルがメシアンの最晩年の作品「彼方の閃光」を録音しました。ラトルの新作ということで話題になっている盤です。メシアンは私にとってほとんど馴染みがない作曲家ですが、ラトル+ベルリン+話題ということでミーハー的に聴いてみたところ成る程凄い曲であると得心。

「彼方の閃光」のテーマはヨハネの黙示録を題材としており、キリストの出現からサタンとの最終戦争を経た後、キリストを信じたものに祝福を与えるという内容です。「閃光」とは復活した者たちの光となるキリストのことであります。

キリスト教的テーマは、黙示録どころか聖書に馴染みのない私のようなものには手ごわく思えるのですが、通して聴いてみますと宗教的テーマ性を土台としながらも、カレイドスコープのような音響の大伽藍や研ぎすまされた美しいフレーズを聴くことができ、細かいことは抜きにして楽しめる音楽でした。それでも一聴しただけではピンと来ないところもあるため、全体の音楽像を掴むには数度聴いてみる必要がありましたが。(例えば黙示録の展開だけを追って1、4、6、7、11楽章だけ聴くとか、鳥のテーマの3、9楽章だけ繰り返すとか)

それにしても起伏の激しい曲です。第5楽章の《愛にとどまる》の弦楽器による繊細な緩徐楽章にウトウトとしていたと思ったら、凄まじい打楽器の強打で始まる第六楽章《7つのトランペットと7人の天使》に肝を潰します。打楽器の音圧は貧弱なスピーカーやヘッドフォンを通しても充分に迫力があります。また圧倒的なホルン軍団の演奏にも驚くしかありません。

鳥の声を模した第9楽章《生命の樹にやどる鳥たちの喜び》のフルート・クラリネット族の超絶演奏にも唖然、一体どんな楽譜でどんな指揮をしているのやら。メチャクチャな音楽なようでいて美しい。

第11楽章の《キリスト,楽園の光》でのかすかに聴こえるトライアングルの音色もまた特筆もの。この楽章は、ある意味で彼岸の彼方のような曲ですが、あまりウェットな感情表現ではなく、ひたすらに美しい演奏になっているようです。

オーケストラの編成は128人にまで増強されており、フルートやクラリネットはそれぞれ10人も居るというのですから驚きです、打楽器の種類も多彩。オーケストラの性能をフルに活用したスーパーカーのような編成ですから、適うなら実演で接したいと思わせます。私の貧相なオーディオ装置では、実のところこの曲の魅力は半減以下です。

他の演奏と比べたわけではありませんが、ラトルの演奏はメリハリを効かせたキレの良い演奏に仕上がっているようです。「閃光」という題名に象徴されるような煌びやかさも感じます。また木管をはじめとして個人技も凄まじく、有無を言わせぬ圧倒的な音塊感でぶちのめすというより、そこかしこの表現に驚かされる演奏になっているように思えました。全体的にポジティブな明るさを演奏からは感じるのですが、それが本来の曲のイメージなのか、テーマから考えると少し疑問なのですが、いかがでしょう。

2004年9月26日日曜日

展覧会:「琳派 RINPA展」


東京国立近代美術館で開催されている「琳派 RINPA」展を観てきました。今度の「琳派」展は、ちょっと違います。とうたっているように、会場に入って真っ先に目に飛び込むのが尾形光琳の《松島図屏風》とともに、クリムトの《裸の真実》であるということが、この展覧会の主旨を雄弁に語っているようです。


そもそも「琳派」とは何なのか。美術展で得た知識によると『狩野派のように家系や師弟関係を重視する流派概念ではなく、世代を越えて私淑によってゆるやかに繋がれた系譜』であり『主題性から解放され装飾性の優位と造形本位の伝統』であるとされています。



俵屋宗達にはじまり尾形光琳にて元禄時代に完成された、平面的にして適度に装飾的な画風は、自然の美意識を何の不安もなく描出した平和な世界と言えるかもしれません。





ですから、例えば江戸後期の画家、鈴木其一の《朝顔図屏風》(上)を観たときは、朝顔の青紫の色の鮮やかさに驚きはしたものの、綺麗なだけの絵ではないかと思ったものです。しかし、閉館間際まで粘って、来館者がまばらになった広い館内で改めて接すると、なんと表現してよいのか分からない至福が、まさに美の饗宴とも言うべき贅沢な時間が流れるのを感じることが出来たのです。綺麗なだけと思った鈴木の絵も、静的な装飾的技法と朝顔の蔓の動きに表された生命力が絶妙のハーモニーを奏でています。これは画面の近くで観ていては分からない。多くの人がメトロポリタン美術館所蔵のこの絵を絶賛するのもむべなるかなと。





上の酒井抱一の《月に秋草図屏風》も素晴らしい。金箔の落ち着いた地に秋の月と草花が絶妙な静けさと華やかさで描かれています。何度も絵の前に立ち、近くに寄って感嘆し、離れて観て溜息す。この絵の人気の高さもうなづけます。図録と実物を繰り返し比べてみましたが、図録ではこの絵の放つ芳香の何分の一さえ伝え切れていない。一足早い中秋の名月を堪能。





尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれていたという、酒井抱一の《夏秋草図屏風》(上)も有名。銀箔(なのか?)の上に雨に打たれる夏草(雷神の裏)と、野分に吹きすさぶ秋草(風神の裏)が、様式美の中に定着されています。絵の上の間の豊穣さよ。




もう一つ強烈に印象的であったのは、川端龍子の《草炎》(上:部分 1930年)。この作品は「これを観たいために」展覧会に足を運ぶ人も居るくらいに人気です。初めて観る人も、異様な迫力に言葉を失っているようです。かく言う私もその一人。この絵を「琳派」と十把一絡げにして良いものか。川端は『夏の草いきれ』を描いたそうですが、ここには他の「琳派」の画風からは感じ取れぬ、熱い情念が流れてきます。凄まじいエネルギーと、それを鎮めている技法の高さ。夏草を黒い画面の上に金色の濃淡でのみ闊達と言える筆致で描き分けた異色作。これも人気のいない館内でゆったり感傷できることの愉快さときたらありません。





ここに至って「琳派」とは高度の装飾技法により、自らの情念と自然の動的エネルギーを様式美の中に固定させていることがその最大の特徴なのではないかと思いつきました。例えば光琳得意の波を表現するうねりにしても(上《松島図屏風》)、《槇楓図屏風》の樹木の枝の作る曲線運動からもそのような印象を受けます。


「琳派」と称される系譜に属する作品は、小さな画集のようなもので観るのでは、おそらくつまらないのではないかと思います。屏風図ということも影響しているのでしょうか。考えてみたら、こんなにたくさんの屏風図を観たのははじめてです。





上の菱田春草による《落葉》(1909)もそうです。ベージュ系の色合いが綺麗ですが、最初に観たときは、余りにもきれいなだけなんで、うんざりしたものです。しかし、心を落ち着けてゆっくり鑑賞しますに、幽玄さを感じさせる画面の奥行き感とともに、上から落ちてくる数枚の落ち葉が、静止しているかのような時間が穏やかに動いていることを感じさせてくれます。そう思ったら、流れる大気さえ頬に感じるような面持ちです。これも屏風図の実物に接しなくては感じることのできない印象でしょう。


最後になりますが、「琳派展」は宣伝のせいか、あるいは幸せな画風のせいか、凄く混んでいます。私は14半過ぎに館内に入りましたが、満員電車のような混雑で絵どころのさわぎではありませんでした。閉館間際までねばることで、やっと本来の「琳派」のもつ静けさと芳香を味わうことが出来たと思います。




マティスとか梅原龍三郎、加山又造の絵(《千羽鶴》上)もありましたが、こちらは終わりのほうで食傷気味なせいか、おいしくいただけませんでした。(加山又造、あれでは「やり過ぎ」です=これも人気の絵なんですがね)

2004年9月18日土曜日

カプースチンのピアノ

ニコライ・カプースチン(b.1937)という作曲家をご存知でしょうか。今年6月にHyperionからアムラン(P)によるカプースチン演奏が発売され、アムランということで全く予備知識なしに聴いたのですが、これがなかなかゴキゲンな曲なのです。

カプースチンは1937年生まれのロシアの作曲家、モスクワ音楽院を卒業しクラシカルな作品を作成するかたわら、ジャズ・ピアニストとしても名を成し、ここに納められているようなクラシックとジャズが融合したような曲を描いています。

ジャズとクラシックの融合だなんて、生粋のクラシックファンの方や、根っからのジャズファンの方はアヤシイと眉をひそめるかもしれません。流して聴いているだけだとホテルのラウンジから流れる自動ピアノのような雰囲気の曲もあるのですが、なかなかどうして、親しむうちに軽妙な曲調とともに音楽的な多彩さと驚くべき技巧に気付かされ、たただた唖然とするばかりです。アムランの盤なども一曲目からジャズCDとしか思えないような出来です。








ピアノ作品集

(p)マルク・アンドレ・アムラン

hyperion CDA67433



ピアノ作品集

(p)スティーヴン・オズボーン

hyperion CDA67159



24の前奏曲とフーガ作品82

(p)ニコライ・カプースチン

TRITON OVCT-00010


『24の前奏曲とフーガ』は、カプースチン自演によるもので、最近の密かなカプースチン・ブームに押されてTRITONからの再発売されたもの。アムランも良いですが、オズボーン盤も曲がいいので捨てがたく、どれも聴き逃せない曲ばかり。暇なときは、このごろこればかり聴いています。カプースチン自演盤はまだ聴きこんでおらず。

もうちょっと立ち入った感想は、機会があったら書きましょう。

2004年9月17日金曜日

ニコルソン・ベイカー:「中二階」

以前にiioさんのCLASSICAで紹介のあったニコルソン・ベイーカー『中二階』(白水uブックス)を読んでみました。


iioさんのエントリーにもあるように、日常生活に対するミクロ的考察が主体の本になっているのですが、これが「合う」か「合わない」かで好みが分かれるかもしれません。私としては非常に面白い本であると思い、活字を追うのが全く苦痛ではなかったです。


ちなみに「ニコルソン ベイカー」でGoogleするとiioさんのエントリーがトップでしたよ、恐るべしCLASSICA!




ニコルソン・ベイカーは1957年生まれのアメリカの作家です。イーストマン音楽学校とハァヴァフォード大学で学び、1988年に処女作「中二階」(The Mezzanine)でデビューしました。発表当時アメリカでは驚きと賞賛をもって文学界に受け入れられたそうですが、読んでみますと確かに斬新にして非常に面白い小説でありました。


この小説は、29歳の主人公が会社のエスカレーターに乗ろうとしたところからはじまり、エスカレーターを降りたところで終わります。切れた靴紐を買うということがストーリーの主軸といえば主軸でしょうか。ごく日常の何気ない短時間の間に、彼が考えたこと、いままでの人生で考え続けてきたこと、自分の関心事、身の回りの些細な変化などが、おそろしいほどの執拗さとユーモアを交えて描かれています。


でも彼の考えることときたら、どれもが取るに足らない話ばかり。たとえばストローの進化とか、社会人になってからのトイレでの振舞い方とか、なぜ靴紐が切れるのかとか、トイレットペーパーなどに付けられたミシン目に対する大絶賛とか。くだらないですね、でも連綿とした瑣末的な描写(ほとんどヲタク的なミクロ思考)を追随しながら「そういうこと、あるある」などと一人ニヤニヤしている自分に気付いたりするのです。


なにしろ本文よりも注釈の方が多いという小説です。難解な作品でもないのに、なぜそんなに注釈がと訝る方も多いと思いますが、ベイカーは小説の中で脚注の事を


ページの下の方に灰色の帯となって待ち受けているのを目の端でとらえたときの、あのわくわくするような喜び

と書き、


脚注は、一冊の本が蛸の触手のようなパラグラフを伸ばし、図書館という名のより広大な宇宙とつながるための、さらに細やかな吸盤


脚注で説明しています。挿入された脚注により、読み手は本文と、どこまでも脱線してゆく解説を交互に行き来することで、小説の持つ時間軸は限りなく引き伸ばされるのですが、それによって思考が中断されるどころか、小説を読む楽しみが自在に変化していることに気付くのです。脚注は細かければ細かいほど面白いと思えたら、あなたもきっと、ベイカーばりのヲタク活字中毒者かもしれません。


たった一日のことだけを書いた小説や、注釈がやたらと多い実験的な小説というのも世の中にはありますが(=あったと思う)この小説が衝撃をもって受け止められたのは、瑣末的な事象の限りない拡大がもたらす効果であったことには違いないと思います。


では単なるユーモア小説なんだろうかと考えると、それだけではないようにも思えます。作品に漂う透明感や爽やかさ、モラトリアム的暖かさと、あるときを境にオトナになるということの意味する誇らしさと一抹の哀しさ、そしてそれらを包んでいる孤独感が気になります。

そう思うのも、主人公をはじめとして途上人物のナマな体温や感情が感じられないせいでしょうか。人生の大半が「いかに生きるか」というような哲学的なテーマで占められているわけではなく、日々の出来事に対し反応と反芻を繰り返すだけであると認識してしまうことは、旧来の文学的のテーマとしての何かを否定しています。それゆえに気付かないところで淡々とした虚無を抱え込んでいるようにさえ思えるというのは深読みでしょうか(>です)。


作品で描かれる執着は、つまらない人生を楽天的かつ肯定的に仕向けるようにできているのですが、一方で人間的な対立や葛藤を全く排したところに立脚しているこの小説は、現代における新たな風景を垣間見せています。ユーモアとは別の次元でこの作品が提示している世界のありようには、感慨深いものがあります。

2004年9月15日水曜日

三浦展:「ファスト風土化する日本」

いつも楽しませてもらっている「k-tanakaの映画的箱庭」で紹介のあった『ファスト風土化する日本~郊外化とその病理』(三浦展:洋泉社新書)を読んでみました。「ファスト風土」とは「ファストフード」にかけた造語だそうです。言っていることの大筋に間違いはなく、いちいち同感できるのですが、新たな知見と驚きは得られませんでした。


三浦展氏はパルコ情報誌「アクロス」の編集長や三菱総研の主任研究員などを経て「カルチャースタディーズ研究所」というシンクタンクを設立されている方。共著の『「東京」の侵略』(パルコ出版)などは、80年代後半のパルコなどに象徴される消費文化や都市動向について言及したものであったと記憶しています。筋金入りのサブカルチャーおよび都市・消費文明の専門家という認識。




当時「パルコ」は衝撃的な店舗でした。渋谷における西武の開発手法は、地方のお手本のようにもてはやされた時期が懐かしいです。三浦氏も指摘するように、西武は渋谷公園通り周辺に「街づくり」的手法を持ち込み、街路空間を若者に魅力あるものとすることに成功しました。そこにおいては品物以上に、街を訪れる人と都市空間相互の関係性が重視されていたように思えます。雑誌「アクロス」はそういう都市風景から生まれていたはずです。


ですから、周りを圧倒して存在する巨大戦艦のごときジャスコを率いるイオングループが『街をつくるという気持ちがないのではないだろうか』(第三章 ジャスコ文明と流動化する地域社会 P.96)と三浦氏が指摘するのも分からないでもありません。しかし、地方にはジャスコが、スターバックスが必要なのだということは、多くの情報発信源でかつ地方の情報さえ消費しつくす巨大都市に住んでいる人には分からない感覚かもしれません。


大型ショッピングで思い出すのはアメリカの巨大施設です(行ったことはない)。ジョン・ジャーディー(Jon Jerde)という商業施設デザイナーが手がけているものも、ほとんどは巨大モールです。日本の商業施設も、かつてのマイカルをはじめ最近話題の施設開発者である電通や森ビルさえ、莫迦のひとつ覚えのようにジョン・ジャーディーに商業施設をまかせています。イオンはそんな無駄使いをしないだけ利口なんでしょうか(笑)。


発想は東京も地方も同じ、地方は東京への渇望からイオングループに活路を見出さざるを得ない、苦渋の選択があるだけです。永遠の二流意識からくる劣等感と歪んだ自意識ですね。その東京おいてさえ、という感じなんですが。


データを随所に掲示し理論武装し田園都市論や日本の郊外化の弊害などを述べているのですが性急で牽強付会の感があります。結論は「均質化した日本の郊外化が消費文明を増長し、さらにはコミュニティーや歴史性の崩壊によりもたらされる様々な病理」を指摘し、社会を「コミュニケーション」と「コミットメント」で再生しようというものなのですが、先から書いているように問題の根は地方にはないのではというのが私の感想です。


だから、最近の凶悪犯罪のあるところが郊外であり『犯行現場の近くにはなぜかジャスコがある』(P.66)というのも刺激的なコピーだと思いますが、ジャスコに象徴される変化と犯罪の因果関係は「ニワトリと卵」のようなもののであって、大事な前提条件が抜けていないかと思うのです。


また、彼は地方において『目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを見て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしてるだけの、たいへん視野の狭い消費人間』(P.183)を生み出しているのだという主張も、なんだかなという感じです。


田園で働くわけでもなく、工場で働くわけでもない。都会のビジネスマンのように、オフィスでハードワークするわけでもない。公共事業に依存し、公共事業がなくなれば失業保険で暮らす。でも、家も自動車も何でもあり、ついでに無職のパラサイトの息子の一人は二人を抱えている。彼らはもう働く意欲がない。楽をして、適当に暮らすことしか考えない。(第六章 階層化の波と地方の衰退 P.178)


最後に彼がひとつの理想としてあげる「吉祥寺」や「高円寺」「下北沢」なのですから、やれやれです。いえ、言っていることは納得しますよ。でもねえ・・・

2004年9月14日火曜日

ラウタヴァーラ:前奏曲集Op.7、パルティータOp.34

激しい「現代的」な音楽は刺激的ですが、何となくだるく、やる気のないときに聴くと、妙に癒されたりすることに気付きました。体の中の悪いものを浄化していくような・・・そうなんです、なんだかダルいんですよね。


ということで、しつこくもラウタヴァーラです。

前奏曲集 Op.7

7曲からなる前奏曲集で、ラウタヴァーラがタングルウッドでコープランドに学んでいたときに作曲されたものです。ライナーによるとラウタヴァーラはこの前奏曲集をコープランドに決して見せなかったそうですが、それについては彼自身以下のように書いています。

I never showed him the Preludes, which were a sort of protest or outbutst against the so-called neo-classical confines under which I had to labour while studying both in Helsinki and in the United State.
1956年の作ですから、彼が28歳の若さの時の作品となります。上記のように、かなり革新的といいますか、いわゆる「現代音楽」的な音楽を堪能することができます。響きは硬質で力強く、時に繊細であり、強烈な感情の奔流を感じます。しかしその奔流は実験風でもあり、またひどくぶっきらぼうでもあります。

特に《軽快で槌を打つように》と題された一曲目の迫力はすさまじく、たかだか32秒の間に強烈な石つぶての雨を降らされたような曲です。《フィナーレ風》も冒頭と同様に激しい曲で、その間に挟まれた5曲が夢幻的にして鉱物的な静けさを構築しています。「現代音楽」という程には前衛的とは言えないかもしれませんが、激しさと静けさを内包したラウタヴァーラ的な音響世界が広がっています。

neo-classical すなわち「新古典主義」の音楽を彼がどのように消化しようとしていたのかは、この曲だけからは分かりませんが、何か彼なりの模索を感じることのできる小品であると思えます。

パルティータ Op.34

最初のスケッチは1956年ニューヨークで描き、2年後にピアノ曲として作品にしたものです。当時一緒に仕事をしていたギタリストの影響を受けて作曲したとのことで、2曲目ではギター風の「ポロン、ポロン」とした伴奏の響きを聴くことができます。両端の激しい曲にはさまれた非常に静かなこの部分では、静寂さの中に幽玄とした翳が立ち上るかのようです

これも3分半と非常に短い曲で、ボーっと聴いているとあっという間に終わってしまいますが、よく聴くと3曲とも同じテーマの変奏になっており、緩急のヴァリエーションを楽しむことができます。

激しさと静けさの交替、そしてその落差の大きさというのは、ラウタヴァーラ的な音楽のありように思えますが、これはフィンランドという地方の気候風土の激しさから来るものなのでしょうか。激しさは時に無機的であり、人智の及ばない深遠さを感じさせますし、静けさは限りなき安らかさときらめきにも似た美しさを感じます。

そういう意味では、非常に興味の尽きない作曲家ですが、一方では、曲のテーマや副題ほどには精神の底に潜ってゆくような深さや晦渋さやはあまりなく、激しいけれどもどこか皮相的に感じる瞬間がないでもありません。「皮相的」とはネガティブな表現ですが、積極的に「皮相的」であってもよいのではないかと・・・いう気もします。

●前奏曲集 Op.7
軽快に槌で打つように
充分ゆっくりと
リズムを保ちながらも神経質に
コラールと変奏
フガート
震えて
フィナーレふうに

2004年9月9日木曜日

暗黒の中世・・・

何度か産経新聞の「産経抄」に違和感を表明してきましたが、北オセチア共和国の学校占拠事件に言及したも昨日のものは、薄ら寒くなる思いを強めました。




この悲惨な事故に対し産経は『二十一世紀の現代から暗黒の中世へ、時計の針が大きく後戻りしたように思えてならない』と始めながらも、短い文章は『中世的暗黒と狂信の現場で、一すじの光明を見た。十三歳のハッサン・ルバエフという少年の勇気である』とし、以下のように結んでいます。


彼はテロリストに正面切って抗議、「あなた方の要求にはだれも応じない。われわれを殺しても何の役にも立たない」と叫んだという。


 ▼テロリストは「お前はそう確信するのか」と問い返し、ルバエフが「はい」と答えると次の瞬間に銃声が響き、少年は倒れた。なんという野蛮、しかしまたなんという勇気だろう。堂々と正義を訴えて散った少年の光芒(こうぼう)の人生を、涙してたたえたい。



しばし、絶句・・・・


続く今日の「産経抄」は、『その時代の戦争は、その時代の歴史的背景を理解して評価すべきであり、いまの時代の尺度や価値観で解釈してはならない』として、日露戦争も、大東亜戦争も、みな歪曲・醜悪なものと書き始め、『れわれはヨーロッパ人の世界地図で地球のことを認識していると』という、指揮者 岩城宏之氏がいつ語ったかのかも知れぬ言葉をひき、


かかる西洋中心史観でみた典型が東京裁判だろう


として結んでいます。再び絶句・・・・


東京裁判が戦勝国によって敗戦国を裁いた偏った裁判であったことは、確かにその通りかもしれません。自国の誇りを取り戻すために、東京裁判史観を変えたいという心持も分らないではありません。しかし、この二つのコラムから言えることは、産経は日本の誇りを護るためには、彼らが涙して称えたような果敢な少年までを将来的に期待していることを新聞紙面でに主張しているということです。これはちょっと違うのではないかと・・・「日の丸」「君が代」を強制することと同じようなズレと恐ろしさを感じます。


「愛国心」の薄い私ですが、仮に日本が分割統治されており、経済的にも文化的にも貧しいままに独自の選挙も行えず誇りさえ奪われ、しかも両親や親戚が統治国に殺されている環境に育ち、その先に希望らしきものも見えないとしたら・・・そのときは、どうするかは全く分りませんし、それを考えることにも意味があるのか分りません。


blog::TIAOのコメントにあった一文と、プーチン大統領のチェチェン独立武装派と話し合うよう促す一部の西側諸国首脳の声に対する答えを引用しておきましょう。


「子供たちを亡くした父親たちは、なきがらを埋葬し、40日間喪に服したら…武器を手にとって復讐に立ち上がるだろう」 --オセチアの首都ヴラディカフカス大学学生の言葉



子供を殺した連中と話し合えなど、そんなことをわれわれに言い諭す高まいな権利が誰にあるのか


連中と交渉しろとわれわれに言うなら、(欧米諸国は)オサマ・ビンラディンをブリュッセルなりホワイトハウスなりに招待して、交渉し、要求は何か尋ねて、自分たちをそっとしてもらう代わりに要求に応じてやればいいではないか。そういう連中とのやりとりに一定の限界はあると、あなたたちは言う。だったら、なぜわれわれが、子供殺しの連中と話し合わなくてはならない? (2004.09.08 Web posted at: 12:39 JST)2 - CNN



世界の様相は、表の大義と裏の利権が複雑にからみあい、軽い嘔吐を催すほど位相は歪みまくっています。

2004年9月6日月曜日

Google Newsの衝撃

ネットは新聞を殺すのか」というブログで紹介されていた、Googleニュース、確かに凄い。こういうサイトを待っていたような気がします。


何が凄いかって、紹介サイトにもあるように、記事の収集が自動生成であるというとこと、『短時間に1つのクラスターの記事数が急速に増加するということは、数多くの報道機関が1つのテーマで記事を次々と発信しているということ。すなわち重要ニュースということになる。』ということ。新聞各社のビジネスモデルの変革にまで言及しているエントリーは一読の価値あり。


こうなると、マイナーなニュース、Googleが捨ててしまった記事に重要な記事があることを、誰が嗅覚を持って拾い上げるのか、ここらへんも気になるところです。




Googleニュースに登録しているサイトは現在610。関連記事がひとつのクラスターに集められているので、気になる記事を読んでいると普段なら訪れないローカルなサイトをクリックしていたりする。これは、地方誌のアクセス数向上というメリットを生むことに繋がるのかもしれない。


逆に言えば、自分のクリックしたニュースサイトが、どのような傾向のサイトであるのか熟知していないことも生ずるわけで、情報の洪水の中で自分のスタンスを見極めることが更に重要になってくる。


今のところ、大手でどこがGoogleニュースを拒否しているかは不明。これも興味深いところである。(おおよそ、あそこと、あそこかなと・・・)

ヴェルディ:歌劇「トロヴァトーレ」DVD

ヴェルディ:歌劇《トロヴァトーレ》全曲
ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
レオノーラ:エヴァ・マルトン
アズチェーナ:ドーラ・ツァイーイック
マンリーコ:ルチアーノ・パヴァロッティ
演奏:メトロポリタン歌劇場管弦楽団、メトロポリタン歌劇場合唱団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ファブリッツィオ・フレジェリオ
録音:1988年10月 メトロポリタン歌劇場におけるライヴ
DVD DG UCBG-9010

今日は昨日からの雨が朝から降り続いています。休日に雨が降るなんて久しぶりです。気分転換に掃除などしながら、そういえば買ったまま開封していないDVDでもと思い立ち覚悟を決めて1)、ヴェルディの《トロヴァトーレ》を聴くこととしました。

それにしても、CD店に行くとCDやDVDをカゴいっぱいに買っていく人2)をよく見かけますが、ああいう方々は、一体いつお聴きになっているのでしょう・・・

ということはさておき、感想です。自分のメモのために書いていますので、長いだけで内容がありませんのであしからず。

ヴェルディ中期の作品として有名な歌劇ですが、本作品に接するのもこの盤が初めてです。ヴェルディの歌劇は、DVDで《リゴレット》《アイーダ》《椿姫》と聴いてきましたが、この作品もヴェルディ節が満開でありますね。

全くの予備知識なしに観たものですから、結末の悲惨さにまず慄然としてしまい、しばし言葉を失ってしまいましたが、こういう衝撃は初見でなくては(かつストーリー展開の読みに鈍くなければ)決して得られないものです。私はどちらも当てはまっていたため、一生に一度だけの幸運を体験できたというわけです。

全く救いのない結末といい怨念に近い復讐劇といい、「呪い」というテーマはヴェルディの好きなテーマなのでしょうか、《リゴレット》のラストを彷彿とさせます。「復讐」を、ジプシーのアズチェーナは母親から、一方ルーナ伯爵は父親から受け継いだものであるという点から、まさに血を伝わった「呪い」であると言えましょう、何か業のようなものさえ感じます。

ヴェルディは悲惨な物語であることを、表面的には感じさせないほどに全編華麗かつコテコテな音楽に仕上げています。そして、主要人物の4名がほぼ同格の扱いで歌劇の全編において重要な役割を果たしているということが、同時期に作曲された《椿姫》とは徹底的に性格を異にしているように思えます。それゆえでしょうか、聴いていて正直少し疲れました。これは私に馴染みのアリアなどがほとんど無いせいもあるのですが。

4名の人物が同格とは書きましたが、聴いていてもそれぞれの役割が技巧的にも並大抵で歌えるものではないのだろうなと思います。

まず何と言ってもマンリーコ役のパヴァロッティ、この演奏は彼が53歳頃のものですが(役のマンリーコは16才程度の青年です)、舞台に出るだけで拍手が沸き、一声発するだけで歌劇場に色香が漂います。まさに華のある歌手なんですね、全く素晴らしい。三大テノールのひとりとして名声を欲しいままにしたわけが分かります。顔だって決してハンサムというわけではないのですが(失礼)、あの歌声で熱唱されるとグラグラと来てしまいます。絶頂期を過ぎているのでしょうが第3幕ラストでのアリアは見事。

次に特筆すべきはアズチェーナ役のドローラ・ツァーイックですね。第2幕で昔の物語を語るシーンの迫力と歌唱力にまずびっくりしました。劇においても存在感抜群です。演出上はジプシーの老婆という、妖しいく暗い情念を秘めた役柄ですが、マンリーコが16歳であることを考ると、本来はそんなに年老いていないはずです。というか物語人物と配役の人物年齢に関しては、他の2名とも破綻していますがね。レオノーラに至っては14~15才くらいでしょう。もっとも、それではオペラを演じられませんから、これは眼をつぶる問題なのでしょう。

ドローラ・ツァーイックですが、どこかで観た事があると思ったら、DGのDVD《アイーダ》(レヴァイン/メト歌劇)で、アムネリス役として出ていたのですね。こちらは1989年の演奏です。アムネリスは嫉妬とプライドに揺れるエジプトの王の娘を演じていましたが、こちら《トロヴァトーレ》のアズチェーナ役の方がぴったり来ますね、それくらいはまり役に思えます。

先の《アイーダ》といえば、アモナズロ役として登場していたシェリル・ミルンズが、こちらではルーナ伯爵を演じています。アモナズロは脇役でしたが、こちらは立派な主役の一人。最後まで生き残る天蓋孤独の若き伯爵です。彼はひたすらにレオノーラへの愛を渇望します、戦争も部下もそっちのけで、レオノーラ一筋です、ミルンズの実年齢にだまされてはいけません、おそらく彼とて10代後半のハズ。ここまで愛に飢えていながらも、最後は裏切られるという何ともやりきれない役どころです。彼が居ることで劇が締まっています。

最後は、マンリーコとルーナ伯爵ふたりから熱烈なる愛を求められるレオノーラです。彼女も観た事があると思ったら、1987年のDG《トゥーランドット》(レヴァイン/メト歌劇)での氷のようなトゥーランドット姫を演じたエヴァ・マルトンでした。ふたりの男性に熱愛される女性なのですから、劇としても最重要の役だと思うのですが、彼女だけが今ひとつ私にはピンときません。歌声は申し分ないのですが、それでもちょっと強すぎるかなという印象を受けてしまいます。トゥーランドット姫は抜群だったのですがね、というかこちらの印象が強すぎましたかな。

それにしても、ヴェルディは何故にこのような悲劇的で救いのない歌劇を書いたのか、一体「復讐」は成就したといえるのか、誰かが救われたのか。ストーリーそのものは知ってしまえば単純で、2時間ちょっとの短い間に感情表現などを盛り込むため、人物像も時間軸も単純化されてはいるのですが、それぞれに与えられた役どころを考えると、そうそうテーマではないようにも思うのですが、手元に資料も何もないのでこれにて今回はおしまいです。


  1. マーラーだとかブルックナー、それにオペラもそうであるが、真面目に聞こうとするとそれなりに覚悟をしなくてはならない。聴き終えるのに、ゆうに2時間以上はかかるし、貴重な休日を独りで、ヲタクのようにテレビの前で過ごす事が果たして正しい休日の使い方なのかと考え始めると、煩悶として、それだけでまた15分くらいは費やしてしまうものである。それでも未聴CDやDVDは少なからず溜まっているので何とかせねばという変な焦燥感だけは生まれている。やれば終わるのに、やらないで残しているプライオリティーの低い仕事の脅迫に似ていないこともない。もっとも、仕事と同様で、それをやらかったところで、何事も変わりはしないのだが。つまり、こういうバランスが崩れなくては次の行動に移れないものなのである。マーラーやブルックナー、それに始めて観る歌劇もそうだが、何かをしながら聴くということが私はできない。聴いていて、重要な点を聴き逃してしまうのもシャクである。聴くからにはデンと座って、ライナーとメモを片手に、グレープフルーツジュースとスナックをもう片手に、覚悟を決めるわけである。そういうわけだから、天気の悪い、そして何も予定のない休日に遂にDVDに手を出すというのは、実のところ、最初から決まりきったそれしかない的な結論であったりするのである。
  2. 社会人になってから再びクラシックを聴きはじめた頃、タワー・レコードなどに行くと入り口近くに、スーパーに置いてあるような黄色い買い物籠があるのが不思議でならなかった。私のクラシック初体験は中学生の頃であったから、なけなしのこずかいで廉価版を買うか、たまに奮発してドイツ・グラモフォンの分厚く重いLPジャケットを、それこそ宝物のように購入するのがせいぜいであった。従って、レコードとはじっくり吟味して買うものだという思い込みが私を支配していたので、カゴに放り込むようにCDを入れていく人種を発見したときは、月星人を見つけたのと同じくらいに驚いたものだ。そして、タワー・レコードに行くたびに、そのような人種が決して少ないわけではないことを知り、更に驚きを新たにしたものである。そもそも、そんなに大量に購入する方というのは、きっと商売をしている人に違いないと、当時の私は無邪気に思っていたのだが、ちょっと考えてみれば、ブルックナーなどがBGMに流れているブティックやレストランに喫茶店(あるいはバーであってもいいが)など知りもしないし、おそらく今も存在もしないだろうから、それは的外れな推測であったのである。そのうち、年間数百枚のCDを買うという知人も現れ、「カゴ買い」人種というものが、実社会の表には決して現れないところで密かにしかも逞しく生息していることを知ったのである。次に沸いた疑問は「彼らは一体それらをいつ聴くんだ」というものだが、私のかなり確度の高い推測では、彼らは開封した音盤をレーザーを通すことなく、「○△式速聴法」とかなんとかいう技法を身に付けていて、キラキラした虹色のディスク面から妙なる音楽を瞬時のうちに聴き取っているのだということである。私は今もって到底彼らの境地には及びもつかない。

ニコルソン・ベイカー「中二階」風注釈でしたが、オモシロクなくてすみません。そのうちホンモノの感想でも書きます。

2004年9月5日日曜日

映画:Lovers

今日の東京は午後は、いつ雨が降り出すかというくらいに不安定な天気でしたが、夕方頃からついに大雨になりました。日中は珍しく渋谷に居たのですが、帰ってニュースを見たら、つい数時間前に歩いたところが冠水しており驚いてしまいました。

そんな中、チャン・イーモウ監督の話題の映画「Lovers」を観てきました。昨年の「HERO」は観逃してしまいましたので、今回は是非とも映画館でと思っていた作品です。期待に違わずに非常に楽しむことができました。






















Loversの文字の裏に「謀」の字が重なるタイトルや、『3つの「愛」が仕掛けてくる』というコピーから、中国的な謀略の世界が渦巻いているのだろうとは予想はしたのですが、ストーリーは案外単純だったりします。


でも、細かいことはどうでも良いほどに、映像が美しい、主演のチャン・ツィイーの演技とアクションが素晴らしい、この二点だけでこの映画を観る価値があったというものです。特に遊郭「牡丹坊」のシーンは圧巻と言っていいですね。踊りといい、音楽といい、そして衣装、カメラワークとも申し分がないほどの出来栄、映画はかくも進歩しているのかと舌を巻くほどです。


チャン・ツィイーの踊りは、11歳の時に北京舞踏大学付属中学に入っていたというだけあり、新体操もどきの華麗な舞は見事というほかありません。ワダエミの衣装も凝っていて、桃源郷とも言えるような空間美と謀略の開始を告げる緊張感を余すことなく伝えています。


チャン・ツィイーというのは不思議な魅力を持った女優です。日本的な風貌でもありながら、哀しみや疑いなどを宿す眼の表情は何とも言えません。遊郭での踊り子役でも、囚人役でも、そして男装した官吏風衣装であっても、秘めた熱情と無限のしなやかさを感じさせてくれます。


そして、特殊効果。物理法則を全く無視した豆や石つぶて、短刀や朝廷の追手の動きには思わず笑いが出てしまいますが、アクションはこうでなくてはいけません。




ウクライナでロケをしたという、最後の壮絶なる決闘シーンも、時間軸がずれているように感じるのですが、こううい大仰な演出を恥ずかしげもなくやるところに、潔くも正しい美学さえも感じてしまい、拍手を送りたいと思います。

2004年9月4日土曜日

ラウタヴァーラ:練習曲集 Op.42

ロシアでは何だか大変な騒ぎが起きていますね、TVはその報道ばかりです。プーチンにしてもブッシュにしても「テロとの戦い」を全面に打ち出していますが、彼らが権力を握ってから、かえってテロが増えたような気がするのは、勘違いなのでしょうか。


さて、そういう深刻な事態はさておき、今日もラウタヴァーラの不協和音に親しんでおります。

1969年に書かれた練習曲は異なった音程からなる6つの曲から成っています。NAXOS盤の解説はラウタヴァーラ自らがしたためているのですが、この演奏会用エチュードに込めた思いについては、

I therefore wanted to reintroduce a sonorous, broad piano style using the entire compas of keyboard, presenting this wonderful in its full abundance.
と書いています。作者が意図したように、聴こえてくる音楽はピアノの低音から高音まで駆け巡るようなアルペジオであったり、得意の不協和音やクラスターであったりと、ピアノの能力を十分に発揮させた曲になっていて、技巧的かつ音響的な面白さも味わうことがでます。

それぞれの曲の特徴は「3度」brilliant、「7度」restless、「全三音」anguished、「4度」natural、「2度」expressive、そして「5度」airyとなっています。圧倒的な音塊が砕けるかと思えば、冷たい光が燦然と降り注ぐようなパッセージ、暗さと重さ、冷たい輝き、ラウタヴァーラ節が全開の曲といえましょうか。これが北欧的響きと考えるのは先入観が先立ちすぎているような気もしますが。

2004年9月3日金曜日

ラウタヴァーラ:ピアノ・ソナタ第2番「火の説法」

  1. 練習曲集Op.42
  2. 組曲「イコン」Op.6
  3. 前奏曲集Op.7
  4. パルティータOp.34
  5. ピアノ・ソナタ 第1番「キリストと漁夫」Op.50
  6. ピアノ・ソナタ 第2番「火の説法」Op.64
  • ピアノ:ラウラ・ミッコラ
  • 録音:1997年6月 バークシャー、イースト・ウッドヘイ、セント・マーティンズ教会
  • NAXOS 8.554292

9月になって学生たちの夏休みも終わりましたので、通勤列車がまた混雑しはじめました。私は朝7時代の地下鉄に乗るのですが、この時間は制服・制帽を身に着けた小さな小学生が乗ってくるのですよね。潰してしまわないかと、気が気ではないのですが、小学生は逞しく、頑張って通っています。

さて、音楽に話題を振りますと、ここ数日は、ラウタヴァーラのピアノ・ソナタをラウラ・ミッコラのピアノで聴いています。

ピアノ・ソナタ 第2番は「火の説法」という副題がついています。1970年の作品ですが、激しさと静寂さ、不協和音と、それと全く反する静寂にして美しい旋律が同居しているという点においては、ラウタヴァーラ的な音楽と言えます。特に第二楽章の出だしは何とも言えずに良いです、すぐにまた凄まじくなってしまうんですが。第三楽章なんて、もうこれでもかという激しさですよ、ちょっとしたカタルシスみたいなものさえ感じます。
All three movements observe the principle of continuous growth and the initial idea grows extent, density and strength until the texuer cracks (often into clusters), becomes dissonant, dissolves into fog of sound or, as in the concluding fugue, goes overboard from pathos to trivial irony for a fleeting instant.
このようにラウタヴァーラが書いているように、10分程度の時間の中に大きな変化と振幅を込めた曲です。他の曲と同様に、叩きつけるようなクラスターもあちこちに聴かれます。不協和音については、耳触りというわけではなく、聴き込むにつれて大きな流れなども感じることができ、爆発する音の割には内省的な音楽であるという気がします。

ところで、「火の説法」という題ですが、T.S.エリオットの「荒地」の中に同名の(仏陀による)「火の説法(The Fire Sermon)」という詩があるのだそうです。それとの意識的な関係はないとラウタヴァーラ自身はライナーに書いていますが、《T.S.エリオットによる2つのプレリュードOp12》などという作品も残していますから、何らかの影響は否定できないのだろうと思います。

もっとも、エリオットの「荒地」が、F・コッポラの「地獄の黙示録」に影響を与えたという以外の知識はまるでないので、ラウタヴァーラの作品解釈上、私には何の足しにもならないのですがね。

ちなみに火の説法は「見よ、すべては燃えている。眼は燃えている。目に映るものも燃えている。何で燃えているか。むさぼりの火、いかりの火、愚かさの火で燃えている。このように観察して執着を離れよ」というテキストなんだそうです。

2004年9月1日水曜日

DVD:地獄の黙示録(特別完全版)

立花隆氏の解読「地獄の黙示録」を読んで、どうしてもフレンチ・プランテーションのシーンが入っている特別完全版が観たくなってしまいDVDをゲット、二日間かかって(202分もある)ようやく観終わりました。台風が去った後のべたつくような夜が、さらにムシムシした感じになってしまいました。




いやあ、それにしても長い!長いのですが、観ていると全く目が放せないのですよね。改めてよくぞこんな映画作ったものです。




配役も改めて確認しますと、ウィラード大佐(ロバート・デュバル)に任務を与えるシーンでは、ルーカス大佐としてハリソン・フォードが出演していたのですね。また立花氏に指摘されて気付きましたが、戦場シーンでカメラを持って撮影しているカメラマンは、コッポラ自身なのですよね、結構笑えます。




そういったトリビアな話題はさておいても、この映画のテーマを「戦争の狂気」「欺瞞」「恐怖」などというような、分かったような言葉でくくってしまうのは性急なような気がしてしまいます。「狂気」や「欺瞞」は、話題になった戦闘シーンや「機関銃を浴びせて手当てする」というような矛盾を持って指摘することは簡単なのですが、それらは人間の持つ二面性と合わせて、単純には語れない問題のような気がします。




新たに挿入されたフレンチ・プランテーションのシーンでも、「殺すあなたと愛するあなた」「ケダモノなのか神なのか」と未亡人が亡夫のことをウィラード大佐に説明するところがあります。戦争においては、その二面性の中で揺れ動くのが普通の人間なのでしょうが、それを克服し超越しようとしたのが、カーツ大佐であったのかもしれません。


まあ、いずれにしても立花氏の本を読んだばかりなので、彼の解釈に引きずられてしまいがちなのですが、細かく見るほどに色々なことを考えさせてくれる映画ではあります。