2004年10月28日木曜日

iPod Photo とか ネットラジオとか


iPodがついにカラーLCDを搭載したモデルを発表したとのこと。

iPodは魅力的ですが、ディスプレイのカラー化や画像を持ち歩くという欲求は私にはない。ビデオ再生機能などもっての他なのですが、AppleのCEOであるSteve Jobsが、『
「iPodに入れるビデオコンテンツなど誰も持っていないし、たとえ持っていたとしても、スクリーンが小さすぎてよく見えない」とJobsは述べ、iPodはビデオには「相応しくない場所」だと付け加えた。
』というのには納得。

そういう記事を読んでいたら、オペラキャスト10月26日のエントリで「SONY VS i-pod  勝ち目なし?。。」というエントリーが目に付く。業界の思惑や新しい情報に疎い私は、mp3やATRACなどのフォーマットの違いによって機種が限定されるのは、コンシューマーにとっては不便なだけであり、あまりにも売り手市場の論理でないかと反発を覚えています。




mp3をATRACに変換するのは、それほど面倒ではないとか、そういうモンダイではなく、どうして業界として統一フォーマットができないのか、あるいは、なぜ異なるフォーマットでも再生できるようにしないのか、ということこそモンダイなのではないかと思うわけです。(覇権争いという点では、企業戦略としてはあると思いますよ)。


昨今のDVDをめぐる二つの陣営も、利用者無視のまま進んでいますし、ひいては日本プロ野球の低レベルなゴタゴタだって、あまりにも業界の論理が前面に出すぎてはいないかと・・・。

iPodは持っていないのですが、iTunesをPCにインストールして、PCの中の音楽ファイルを管理することは可能。インストールして分かったのですが、SONYの提供するSonicStageよりはるかに使いやすそう。それにネットラジオをサポートしているのも便利。


ということでやっと本題で、最近はプライベートでPCを使っているときは、radioioClassicaをかけながらということが多くなりました。他と比較していないので何とも言えませんが、メシアンやコープランドなど現代モノも多く流されていて楽しめます。つーか、こんなに素敵な曲も知らないのか、と改めて無知ぶりに恥じ入っていおり、まったくもって、音楽の感想を書くレベルに到底達していないなと・・・思うわけです。


にしても、これから寒くなる季節、iPodにもセーターが必要ですね。札幌では今日、初雪があったらしいです。いよいよ冬到来ですな。(酔って書いたら支離滅裂>酔ってなくても意味不明ぢゃん!)


2004年10月27日水曜日

アンネローゼ・シュミット/ブラームス:作品119

ブラームス:
4つのピアノ小品 作品119
4つのピアノ小品 Op.119
アンネローゼ・シュミット(p)
1979年11月18日/19日、日本コロンビア第一スタジオ
DENON COCO-70536

CD棚をごそごそやっていたら、アンネローゼ・シュミットさんの弾くブラームスの4つの小品 作品119がみつかりましたので、ケンプの盤と比べてみました。いやあ、全然印象が違うので、びっくりしてしまいましたよ。

アンネローゼ・シュミットの弾く作品119

ああ、なんてことでしょう。あんなにも穏やかだったケンプの弾く作品119とは全く違った世界がここにはあります。ひとことでいえば、生きがよく弾けるような生命感に満ち溢れた、力強い音楽に仕上がっています。迷うような寂しさよりは、強靭な精神の中に秘められた孤独を感じるような演奏で、ある種の凄みさえ感じます。枯淡の中に迷ったり、昔を思い返すような音楽ではないですね。(ここらへん、かなり主観独断的)

アンネローゼ・シュミットは1936年生まれで旧東ドイツを中心に活躍したピアニスト。この演奏は1979年のものですから43歳頃の時の演奏になります。何度か日本にも来ているようで、美貌のピアニストとして有名であったとか。

それにしても、シュミットのピアノは強烈、というか、こうして比べてみるとケンプがやっぱり「甘い」のか、それを「味」と感じた指のもたつきも、リズムの乱れも「ダル」に聴こえる、表現は聴始終「泣いて」いるようでさえある。

それに比してシュミットは硬質な響きが印象的で、スピーディーに進みます(第3曲:ケンプ1:42、シュミット1:16、第4曲:ケンプ5:10、シュミット4:26)。余計な誇張やわざとらしさはあまり感じない。ストレートな表現、あるいは「虚飾」がないと言っても良いかもしれません。2楽章最後の、ほのかな花が咲いたかのような柔らかな表現を聴くと、バリバリ弾いているところよりも凄いと思います。3楽章から4楽章にかけては打鍵も強く圧巻です。鄙びた味わいなどどこにもありません。

ちなみにこの盤のメインは、ケーゲル&ドレスデン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第2番、DENON CREST1000で今は求めることができます。

2004年10月24日日曜日

展覧会:「興福寺国宝展」


東京藝術大学 大学美術館で開催されている「興福寺国宝展」を観てきました。


阿修羅像で有名な興福寺は古都の奈良県を代表するお寺で、創建依頼、平安末期の戦火や落雷により幾たびも灰燼に帰してきました。鎌倉時代から復興がはじまり、堂宇の再建や造像がなされており、この復興の中で運慶をはじめとする「慶派」の優れた仏師が造像を担当しました。興福寺は平成22年(2010)に創建1300年を迎えるに当たって様々な事業が計画されており、今回の展覧会もその一環とのこと。


まあ、そういう面倒なことはさておき、パンフレットにある金剛力士像や無著菩薩像にお目にかかれるというので、楽しみにしておった次第です。




展示は大きく二つに分かれているのですが、何と言っても圧巻は3階の諸仏たちに尽きます。入って迎えてくれるのが、上に示している運慶の手になる国宝 無著菩薩立像(右)と世親菩提立像(左)です。




無著は五世紀頃に北インドで活躍した僧で世親とは兄弟。穏やかななかにすくとした威厳と敬虔さ、そして静寂さ、それでいて信仰心に裏付けられたゆるぎなさと力強さ。どこにも隙の見当たらない立像を目にしますと、思わず溜息がもれてしまいます。顔の表情といい、法衣の流れといい、全く持って木彫技術の素晴らしさには目をみはります。


完成当時はおそらく彩色がされており、現在私達が目にする像とは全く違ったものであったとは思うのですが、時代を超えて伝わる力には改めて感服いたします。


これ以外にも康慶作とされる円陣を組むように拝されて展示されている四天王立像にも、その迫力に圧倒されます。踏み潰された邪鬼たちの表情はノートルダムの悪魔を彷彿とさせます。こちらも当時は極彩色であったろうことが伺われ、当時の姿を思い浮かべながら憤怒の表情に魅入ってしまいます。

運慶の三男である康弁作の国宝 龍燈鬼立像(左)は、これまた珍しい像。四天王に踏み潰されてた邪鬼が立ちあがり、灯明を頭に支えているというもの。首の周りには蛇をまとっています。情けなさの中に愛嬌のある表情で、諸仏の中でもひときわ観覧者に人気を博しているようでした。筋骨隆々の小柄な体にフンドシ姿が何ともユーモラス、踏みつけられた邪鬼の矜持を感じます


パンフレットに示されている国宝 金剛力士像 阿形も圧巻の一言。正面から、側面から、背面から、さまざまな角度から眺めましたが、まるでロダンかミケランジェロかと思うような筋骨隆々の造形美。腰にまとった布に描かれた装飾も見事。


という具合に、仏像が好きな方には、けっこうたまらない企画ではないかと思います。そのほか地味ではありますが、紺地に金文字で書かれた経典(名前は失念)や春日版板木など、経典ファンも充分満足できる品揃えです。あまりに有名な阿修羅像が展示されていないのは残念でしたが「鎌倉復興期のみほとけ」というテーマですから、いたし方ありませんか。


それにしても、こんな展覧会でも結構込んでいました。NHKが宣伝したというせいもあるのでしょうが、老いも若きも仏像好きな方というのは多いのですね。

2004年10月18日月曜日

ケンプ/ブラームス:後期ピアノ作品集

ブラームス:後期ピアノ作品集
ケンプ名盤1000 ピアノ名演第2集
3つの間奏曲 Op.117
6つの小品 Op.118
4つの小品 Op.119
ヴィルヘルム・ケンプ(p)
DG POCG-90117(457 855-2)

今日は休日にして久しぶりの快晴、気持ちの良いくらいの秋晴れです。休養をたっぷり取っているので朝6時過ぎには目が覚めてしまいます。富士山がくっきりきれいでした。

さて、ヴィルヘルム・ケンプが昨日エントリーしたビレットのメンターであったということで、思い出したように引っ張り出して聴いてみたのがブラームスの後期作品集が納められた本盤。

一般にブラームスの後期ピアノ作品というと116番~119番を指すことが多く、これらの曲は派手さはないものの甘美さと寂寥感がないまぜになった曲で、秋深まる季節に聴くにはもってこいです。

この曲たちには枯淡とか訥々としたというような表現を冠したくなりがちですが、よく聴くとブラームスの複雑な心境を吐露しているようにも思えます。

さまざまな思いがよぎり、昔を思い出すかのような雰囲気が漂っているかと思えば、何かから解放されたかのような自由さを感じさせたりもします。それが得も言われぬ歌となって奏でられるのを聴いていると、心をじかに撫でられているような気にさえなります。これはケンプのピアノのなせる技なのでしょうか。ブラームスが何から解放され何を悟ったのか、それは分かりませんが聴いていて飽きることがありません。

それにしてもブラームスが晩年に至って、この曲を書くような境地に至ったことは興味深いものがあります。特に作品119は弟や姉に先立たれ、知己も少なくなってきた孤独感が投影されているといいます。119-1でのまるで水滴の響きのような旋律は、ブラームスがクララに宛てて「非常にゆっくりと、ためらうように弾いて下さい」と注文を付けたと言いますが、まさに時間が過ぎるのを惜しむほどの音楽です。119-4の力強さと抒情性の振幅の美しさには涙をさそいます。これらの曲は、ベートーベンが音楽の極北にまで達したのとは対照的といえるかもしれません。

録音は1963年の演奏ですから、ケンプが70歳近くでの演奏です。ケンプのピアノは下手だとか、ブラームスの後期作品のような曲はケンプではダメだという意見もあるのですが、どうなんでしょう。他と比較しているわけでないのでよく分かりません。でも作品117など適度なテンポ感といい、どこか甘いアンニュイな雰囲気とか非常に良いと思います。

2004年10月16日土曜日

リゲティ:ピアノ練習曲集 第1番&第2番












風邪で鼻水はとまらず喉も痛く頭が朦朧とするなか、今週は夜のお付き合いが何度もあったりで、すっかり体調はガタガタ。本日の会議もほとんど睡魔と闘うという情けなさです。


頭を少しはすっきりさせようとHMVで何気に手に取ったのがこの盤。『脳味噌がパニック!複雑リズムの極地!!』と記されているリゲティのピアノ練習曲集 第1番と第2番ですが、果たして聴いてみれば、まさに脳天を棍棒で撃ち下ろされたような衝撃。




嗚呼、私はリゲティも聴かずに今まで生きてきて、やれラウタヴァーラだのカプースチンを述べようとしていたのか。初めて聴いた偉大な作曲家を評せるはずもなく、ただただ悪魔的な鍵盤の技から生み出される強烈なリズムと複雑な音色に陶酔するのみ。


彼にしては「現代音楽的」ではなく、聴きやすいという評であるらしいものの私にはきわめて「現代的」響き。作品集の中で独立して演奏されることも多い「無秩序」「ファンファーレ」「ワルシャワの秋」「魔法使いの弟子」「悪魔の階段」あたりを繰り返し聴く。変化に富んだ音が様々に色彩を変えながら流れるのをぼおっと聴いていると、クラシックの曲を聴いているような気にならないワクワク感があります。「あ、やられた、ここでそう来たか」「うひゃア、なにそれ」とか、まるでビックリ箱です。


ピアニストはビレット(Idil Biret)というアンカラ生まれの女性。コルトーとケンプ(ケンプは彼女のメンター)の弟子であるとのこと。もはやピアニストに対し「女性にしては」などという形容詞を付けることの無意味さを感じます。他と比較したわけではないものの、力強さと独特の叙情性が伝わってくる演奏。驚きながらも今の季節、内省的な気持ちにもしてくれます。ただあまりに有名らしい「悪魔の階段」はイマひとつ衝撃的ではなかったのですが。


リゲティ
ピアノ練習曲集 第1巻&第2巻

  • (p)Idil Biret
  • 2001 NAXOS 8.555777

2004年10月14日木曜日

米大統領選の行方と防衛構想


会社の部下が連休前から酷い風邪をひいてきおり、どうやらうつされかけています。昼過ぎから喉が痛くなってきたのですが、部下ときたら「いつも、(あなたから)風邪をうつされているので、今回は私の番ですね、強烈ですよ。」と脅します。


ということで、ブログも面倒になってくるのですが、気になったことをメモしておきます。



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アメリカでは来月の大統領選挙に向けてブッシュとケリー候補がTV討論などで熱弁をふるっています。海外のWeb Newsを見出しだけでも見るとはなしに見ていても、毎日彼らの話題で持ちきりなことが分ります。


今回の選挙は「戦争最中の選挙」であることから、「イラク戦争」を含め今後の防衛についてどう考えているのか、今後4年間で何を実現させるのかを占う点でも、日本にとっても無関係の話題ではありません。


しかしどうなんでしょう、防衛に関して言えば、日本はアメリカ追随の姿勢から、武器輸出三原則の見直し、憲法改正、独自の防衛力構想をも含め、何か議論がかみ合っていないような気がしています。「テロとの戦い」というのを最大限許容したとしても、ハード面でもソフト面でも冷戦時代をひきづっていないかと。その最たるものがMD(Missile Defence)だったりします。


これについて、10月9日付けのJMMは「アメリカの選択、日本の選択」と題しこの問題は日本の産業競争力を損なう危険があり、計画に参加すべきではないし、また武器輸出三原則の緩和も日本経済を繁栄させるという観点から見て、下策だと書いており、納得させられました。


「産業競争力を損なう」という主張は、防衛産業という国家機密に類する産業は国際競争力が働かないためであるとし、以下のように書いています。


戦車や軍用機、そしてハイテクの塊のようなMDなどに至っては、「軍事機密」という隠れ蓑の向こう側で、一体何が妥当な価格なのか、社会的なチェックは不可能です。こうした環境は日本経済の不得手とするところです。MDプロジェクトにおいて、アメリカから強く誘われるまでになった日本の技術力は、民需の過酷な価格と性能の競争によって養われたことを思うと、政治と軍事の影に隠れた世界では、コストと性能という板挟みの中で戦う緊張感を維持することはできないと思います。

MDによる均衡の崩れとか、MDの実質的な効果とか、対テロにMDが必要かとか、果てしない軍拡競争というかつての冷戦時代にもあった技術的問題も被さってきます。北朝鮮の脅威を最大限に考えたとしても、得策かどうかは分りません。


10月12日Washington PostのOP-EDでもDavid Brooks氏は、大統領選挙における候補者の主張「赤字の削減」と「軍事費の拡大」の矛盾を鋭く突いており、MDについても以下のように述べています。


A starting point for defense budget skeptics is national missile defense. The Bush administration plans to spend $10.7 billion this year in a rush to deploy a system that even some of its own experts say isn't ready. That spending could be cut in half, to allow the testing for a system that would eventually work against potential adversaries such as North Korea or Iran.


David Brooks氏はMDのほかにも冷戦時代を踏襲したような無駄な軍備について指摘していますが、日本がアメリカの軍事費までをも肩代わりをするようなことに、みすみすなってしまうことは避けてもらいたいものです。

2004年10月9日土曜日

オズボーン/カプースチン:ピアノ作品集

今週の東京は地震に台風ですか、休日はひどい天気になりそうでウンザリです。今年最後の三連休ですのにね。(これが終われば、そろそろ「忘年会」の声さえし始めるような気配です)


ということで、今日はオズボーンの演奏です。
ピアノ・ソナタ 第1番(ソナタ・ファンタジア)op.39
ジャズ・スタイルによる24の前奏曲集op.53より
ピアノ・ソナタ 第2番op.54
スティーヴン・オズボーン(p)
hyperion MCDA67159

オズボーンは1971年生まれのイギリスのピアニスト、アムランに先立って1999年9月に録音したのがこの盤です。二つのソナタ(No.1、No.2)とジャズ・スタイルによる24の前奏曲集から5曲をチョイスした構成。

オズボーンのピアノを聴くのは初めてです。アムランほどの自在さは彼のピアノからは感じられませんが、アムランに馴染んでからオズボーンを聴きますと、アムランの演奏が鮮やかすぎるせいでしょうか、こちらの演奏は大人しく堅実に聴こえます。もっとも聴き手の体調によってはオズボーン盤の方がしっくりくるときもあるかもしれません。アムランとオズボーンを比較するのも愚なようですが、アムランが「ドライブ」しているとすれば、オズボーンは「ライド」と言ったところでしょうか。

オズボーンがソナタ第1番、2番をhyperionに録音してしまったので、アムランの演奏が録音されないと嘆く方もいるようですが、私は結構楽しく聴くことができました。オズボーンの演奏がどうこうというよりも、カプースチンの曲が良いです。

ピアノ・ソナタ第1番は1981年の作品、カプースチンはこの曲を作るまでに幾つもの曲(コンチェルトを含む)を作曲していますから、ソナタへの着手は彼のキャリアを考えるとかなり遅いようです。そこらあたりの事情をオズボーンはCould it be that, intimidated by his predecessors, he shied away from the sonata, as did Brahms from shmphony?と推測しています。(ピアノ・ソナタは現在では13番 Op.110まで作曲されています)

ピアノソナタ第2番は、特に第一楽章がオズボーンの演奏では指定ピッチよりも遅すぎて、精彩を欠いているという評も目にしますが、他者の演奏比べているわけでもないので、彼のテンポと曲作りが私には刷り込まれてしまいました。

二つのピアノソナタはかなり秀逸な作品だと思います。ジャズのエッセンスをクラシックに当てはめたとかいう表層的なものではなく、クラシックの曲としての構成美と美しさが、ジャズの自在さを獲得して羽ばたいているかのようです(うーん、どう書いてもうまく伝わらない、聴きなさい)。「ジャズとクラシックの融合」と書いたときに感じる「胡散臭さ」は微塵もない厳格なる曲です。アムランやカプースチン、その他の演奏者がどう弾くかは興味深いです。

2004年10月7日木曜日

ネットとマスコミ なんちゃらかんちゃら


マスコミとネットに関して考える機会を持たせてくれるエントリーがいくつかありましたので、忘れないうちに書いておきます。

(以下個人的メモ)




��月にGoogle News(日本)が始まり、通勤途上では日経を、デスクに着いたらとりあえずGoogle Newsを立ち上げるようになりました。


そんなおり「擬藤岡屋日記」でgoogle日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているとのエントリーがありました(Unconvincing algorithm [2004/10/2 18:40] )。それを受け「ネットは新聞を殺すのかblog」において、Googleニュース(日本)のリンク先リストを公開しているブログが紹介され(Ceekz Logs)それを閲覧したところ、大手新聞社は朝日と日経だけがGoogleのリンクを承諾しているのみ、これではニュースソースが偏るわけだと納得した次第です。海外発信の記事はGoogle News(海外)や、それこそロイターやAPを当たった方が早いですが、英語が苦手な私には、Google News(日本)は、そこそこ便利なサイトであります。


ネットに常時接続している人の中には新聞を購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社も新たな収益モデル構築に頭を悩ます必要に迫られているのかもしれません。先週末の朝日新聞(紙面)では、イギリスの新聞各誌が「タブロイド」版にサイズを変えることで売上を確保(伸ば)しているという記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで購読者にはウケているそうです。エスタブリッシュな新聞社は、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革であったと書いていました。日本のみならず、各国とも苦労しているようです。


tsuruaki_yukawaさんのブログタイトルの通り「ネットは新聞を殺すのかと」いう議論がありますが、ウェブニュースあるいはブログの隆盛によっても新聞がなくなることはないだろうことは、tsuruaki_yukawaさんの「新聞が本当になくなってもいいの?」というエントリーによくまとめられています。Google NewsもYahoo Newsもブロガーも自らが取材して記事を書いているわけではない以上、情報の監視者ではあっても発信源ではないようです。


そのニュースにもしかすると裏があるのではないかということを多くの人が気付き始めています。「サンデープロジェクト」などのニュース解説番組に人気のあるのも、奥様方のものであった「芸能ニュース番組」が政治を取り上げ始めたのも、タテマエだけ公正公平なことになっているマスコミ情報に対する疑問と、より深い情報に対する要求から支持されているのだと思います。その延長線上で、良質なブロガーによる独自の視点が、ニュース理解の助けになってきています。


こうして俯瞰しますに、ネット対既存マスコミという観点ではなく相互がコラボレーションすることが今後重要であると思うわけで、そんな中「週刊!木村剛」の動きは若干の疑問があるものの、見事に時流に合った取組みだと感心します。今後の動きには更に注目したいところです。


ただ彼が、10月4日のエントリー(ネット有名人vsリアル有名人:テレビは見ないがネットは使う [2004/10/4 9:00])で、『40代以上の私の世代では、おそらく「テレビは見ないが、ネットは使う」という人はほとんどいないように思います』と書いているのは、どうなんでしょう。TVの作り手は明らかに40代をターゲットにしていませんから、スポーツを別とすると(これさえ酷い放映の仕方ですが)観るに耐える番組は極めて少なく、TVでニュースを見るくらいならウェブ・ニュースという選択は、よくあることです。ダブルスクリーンという言葉も目新しいことではありません。まあ、TV番組のことはさておくとしても、今後ネットから情報を得る比率が高まることには異論がないでしょう。


重要なのはニュースソースの質にあるわけで、器が重要なわけではありません。私が新聞に期待するのは、新聞記者の徹底した取材と自のソース源に基づく信憑性のある記事、そして新聞社としての独自の視点からの解説となります(政治的プロパガンダは困りますが、判断は難しい)。だから社説には注目していますし、blog::TIAOにあったような(新聞社Webサイトの「社説」がどんどん隅の方へ ・・・サッカー・アジア杯「反日」批判の情報コレクトとして[2004/08/05日 11:16])社説なんて読まない、という読者とは少しだけスタンスを異にしています。


新聞は週刊誌と違って家庭に浸透しており良識が求められる故、「新聞が書けない」内容を週刊誌が補間しています。また政治的主張(死後としてのイデオロギー的なもの)はオピニオン誌がその役割を担っています。しかしネットがこれだけ普及してしまうと、そんな垣根やタブーはタテマエ論になりつつあります。ニュースを起点として、質の高い多角的な紙面作りができていれば、有料サイトでも登録しますし、紙面であっても購読すると思います。今のままでは金を払ってまで定期的に読みたい媒体が、あまりないということでしょうか。

堀江貴文:「稼ぐが勝ち」 (立ち読み)

近鉄を買収する前に広告的な意義は充分に果たした感さえあり、いまやすっかり有名人になってしまったライブドア社長 堀江貴文氏の「稼ぐが勝ち」を立ち読みしました。


何とも実も蓋もない本です、彼のポリシーはタイトルの通り「稼ぐ」ことで、それが「勝つ」ことに他ならず、それ以上でもそれ以下でもないからです。これは私のような「旧態依然のオヤジ世代」にはなかなか馴染めない感覚かもしれません。なにせ「中流意識の欺瞞と幻想」を当然視し、「金を稼ぐ」ことに多少の罪悪感を覚え、「社業」とは何らかの形で「社会に貢献」することであると教えられてきたのですから。





堀江氏の考えはごくシンプルで「金が全て」「金になることは何でもやる」です。ポリシーもこだわりもありません。旧世代の人間達が、モノを作ることで結果的に金を稼いできたような考え方ではなく、金を稼ぐことありきなのです。いえいえ、今までだって資本主義の企業ですから、「モノ作りが原点」とか「社会のため」とか言っても、それが欺瞞でありタテマエ論であることは百も承知です。しかし、会社人にはそのタテマエ論が必要とされていたわけです。


彼のオソロシさは、そんなもの一切無用と言い切っていることです。堀江氏個人に対する印象とか感情論的なものもありますが、つまりは旧世代の人間とは立っている土台が異なっているということです。


考えてみれば日本はやっと資本主義的な企業風土になりつつあるのかもしれません。私らが学生の頃はマネーロンダリングなんて知りもしませんでしたし(今でも知らん)、MBAで経営を学ぶなんて発想もなかったです。時代は変わったつーか・・・


��時間もかからずに立ち読みできます、わざわざ買って印税稼がせるほどの本ではないですが、堀江氏に興味のある方はどうぞ、若い人にはインパクトを与える本であるかもしれません。

2004年10月4日月曜日

Google Newsの衝撃2

9月にグーグル・ニュースが始まり、私の朝一番はここをざっと閲覧することから始まるようになりました。しかし、大手新聞社がグーグルのサービス参加を拒否していること、海外のニュースはロイターやAPからの二次配信であることなどから、海外ニュースの速報性という点では、速報性という点ではイロイロな壁があるのではと思っていました。「擬藤岡屋日記」でもグーグル日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているエントリーがありました
ネットは新聞を殺すのかblog」で、日本の610のリンク(検索先)のリストを公開しているブログを紹介していました(Ceekz Logs)。大手新聞では朝日と日経しか入っていないことは薄々感じていましたが、これではニュースソースが偏るわけです。


確かにネット常時接続していますと新聞はなかなか購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社が新たなビジネスモデル構築に頭を悩ます必要もあることも認めます。そんなおり、昨日の朝日新聞では、イギリスの新聞が「タブロイド」版にサイズを変えて売上を確保(伸ばす)という記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革なのだそうです。



2004年10月1日金曜日

アムラン/カプースチン:ピアノ作品集

台風一過で今日の東京は31度ですか、9月末で真夏日というのはいい加減止めてもらいたいものです。宮城ではITしゃちょうが、海の向こうでは、ハリケーンとイチローが暴れています。イチローには敬遠などせずに、真っ向勝負で挑んでもらいたいですね。

ということで、今日はアムランの演奏です。

変奏曲Op.41
8つの演奏会用エチュードOp.40
バガテルOp.59-9
古い形式による組曲(スィート・イン・オールド・スタイル)Op.28
ピアノ・ソナタ第6番Op.62
ソナティナ Op.100
異なるインターヴァルによる5つのエチュード
マルク・アンドレ・アムラン(p)
アムランが2000年の来日公演でも取り上げて話題になったカプースチンのピアノ作品をHyperionに行ったのが2003年6月、アムランは相当にカプースチンに入れ込んでいたとのこと。アムランが好きか嫌いかはさておき、超絶技巧ピアニストの演奏は1曲目から驚くほどのノリの良さです。

最初のVariations Op.41は6分ほどの曲ですが、短い導入に続いていかにもジャズ風なテーマが流れてき洒落た曲だなと思ううちにピアノが物凄いことになり、中間部では非常に美しいバラードを聴かせ、最後はPrestoで火花を発するがごとくに締めくくる、というまさにカプースチンを堪能できる曲になっています。

ここらあたりをボーっと聴いていますと、アムランのピアノの巧みさからホテルのラウンジやバーなでど流れる「洒落た軽いジャズ」のようにも聴こえる瞬間がないわけでもないのですが、極めて技巧的な音楽であります。

技巧的といえば、ラストに配置されたFive Etudes in Different Intervals, Op.68という練習曲も「気の狂ったような」としか書けないような曲です。No.1 Allegro (Etude in minor seconds)では鍵盤上をラリっているのではないかと思うような速さと華麗さで駆け巡り、バカみたいな高音の右手と複雑なリズムを刻む左手の応酬が聴き所になっています。No.1の短調のテーマがNo.4 Vivace (Etude in major seconds) で長調になって再現されるのも面白いです。

No.3 Animato (Etude in thirds and sixths) を聴いていて感じたのですが、カプースチンの曲はジャズのバスパート(例えばブギ・ウギ風のリズムだったりするのですが)を左手に受け持たせています。これをしっかり打鍵するかどうかで雰囲気がかなり変わると思うのですが、アムランはバスをやり過ぎない程度に弾いているようで、それゆえどこか「洒落た」とか「上品」に聴こえるのかもしれません。Bagatelles Op.59という短い曲においても左手のパートは控えめでさり気ない感じです、これは趣味の問題かもしれませし、単なる勘違いかもしれませんし、私が全然わかってないのかもしれませんが。

全ての曲について書くことはできませんが、Concert Etudes Op.40は「楽譜の風景」というサイトに楽譜のさわりが掲載されています。これを拝見しながらCDを聴いたら更にビビってしまいました。

いずれにしてもカプースチンの曲は相当な難曲であるらしいのですが、難しさなど全く感じさせずに弾ききっているアムランの演奏には、ピアノを弾けない私でも舌を巻き「開いた口がふさがらない状態」です。いったい技巧だけのアムランのどこがいいのだという評もネット上ではよく目にしますが、私は悪くないと思います。

もっとも、アムランの演奏とカプースチンの音楽性については今の段階では確たるものを書けないのですが(だったら書くなという説もある)、こういうアムランの演奏を通じてカプースチンが受容されたとしても(かくいう私もそう)作曲家にとって不幸なことではないと思われます。旧来のピアノ曲に飽いていたり深刻なソナタを敬遠する人や、ジャズにあまり親しみのない方には「これ好きっ!」と思わせるには十分な演奏であると思いますし。

ただ何度か聴いていますと技巧的には申し分ないものの、何とも説明のできぬ違和感を感じることも確かです。あまりにスピード感があり、余裕綽々の演奏なので(猛絶な演奏でもあるのですが)、何かがすり抜けているような感じがしないわけでもないのですが、それが何なのかは分かりません。完璧な新体操が面白くないとか、そういう感覚・・・とも違うか。