2004年12月27日月曜日

キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵

今年もいよいよ残すところ後数日になってしまいました。明日は個人的な忘年会を二つ掛け持ちして、怒涛の師走が終了します。ブログの方も、これがが本年最後のエントリーになりそうです。

キーシン
ムソルグスキー:展覧会の絵
トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
キーシン(p)
2001年8月4,5日、フライブルク
RCA 09026.63884

この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。

凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。

対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。

録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。

冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。

とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。

An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、

ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。

ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。

時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。

2004年12月24日金曜日

いまさら「電車男」

今年のネット界を騒がせた話題といえば、Googleの隆盛、ブログの流行、そして「電車男」ということになるのではないかと思います。「電車男」は新潮社から本にまでなって、しかも50万部突破というのだから驚くばかりです。


今更「電車男」の話題を書くのも何なんですが、「電車男」本が(私の)職場の忘年会でビンゴ景品になったりするほどなので、つらつら考えたことを書いておこうかなと思ったわけです。


板が熱くなったことと本が売れるていることには大きな違いがあるように思うのですが、それはさておき、「電車男」というのは周到に用意されたストーリーなのではないかと思っています。電車男が実在するかどうかはネット上でも話題になっているようです。それを読むほどにヒマではありませんので、以下は私の考えたことです。




確かに「電車男」の話題は、読むものを「熱く」する何かが潜んでいます。秋葉ヲタクが変身してゆくさまは、驚きと同時に小気味よささえ感じます。ダメ男(女)が恋によってどんどん素敵になってゆくというのは、根強い変身願望とともに、よくあるストーリーのような気もしますが十分に感動的です。


ネットで通して読むとちょっと疲れますが、途中で止められなくなるほどにエンターテイメント性があります。電車男を軸としながら、名無したちの脱線しがちな妄想も笑えます。この電車男を応援する無数の名無したちが、なんだかイイやつらばかりなのも泣けるところです。


「まとめスレ」ではスレッドを上手く編集していますから板特有のアラシもなく、全体的に肯定的で前向きで暖かな、そして熱い雰囲気が持続され感動のラストをむかえます。掲示板ですから投稿時間も示さており、それが展開に緊張感を与えています。


今までの小説と違うのは電車男の行動に名無したちが関与し、それが次のストーリー展開に影響を及ぼすした点であることは、読んだ方ならば納得するでしょう(実際はそれほど行動に対する「関与度」は高くないのですが)。板の前の応援者たちは電車男が帰宅し彼の放つデート報告=爆弾を、期待と不安と"喜び"と"痛み"を持って待ちわびます。彼らが自らの秘めた思いを板にぶつけ、電車男がひとつづつ難関を突破してゆくさまは、RPG的といえるかもしれません。


「電車男」を新たな小説の試みと絶賛する人は、このような参加型の小説に対して期待を寄せているのかもしれません。(村上龍がそんなこと、とっくにやっていたように思うが、ちょっと違うか?)


「電車男」の中で注意すべき点は、彼が変身してゆくことではなく、相手の女性が極めて理想的に描かれている点ではないかと思います。電車男を半歩リードしながらも暖かく電車男を受け入れてゆくエルメス子は、あるタイプの男性達の、まさに理想的な女性像を示しているように思えます。彼女は電車男を一度たりとも否定も拒否もせずに暖かく迎え入れます。私は最後まで読んでも、エルメス子をリアルな女性として想像することができませんでした。これこそ秋葉ヲタクに代表されるような名無したちの妄想上の聖母なのではないかとさえ思ったわけです。ここらへんは、かなり偏見が入っているかもしれません。


電車男のスピーディーな変身と理想の女性像が余りに出来すぎであるため、これは周到に準備された都市伝説創造の試みではなかったのか、「書き手」と名無したちとのコラボレート作品なのではないかと疑うわけです。女性が板と出版という二度の行為によってプライベートの暴露を許容していることも私の常識を越えています。


「電車男」は、ヲタクだのゲーマーだの、ひきこもりだの、ニートだのでくくられ、リアル社会との絆を見出しにくくなっている彼(彼女)ら、リアル社会に憧れながらも失敗と失望を繰り返すことで、自らのプライドを守るためには自虐的になるしかなく、自分の中に閉じこもりがちになる者たちへの、エールとして描かれたラブストーリーなのかもしれません。(おっと、ニートの姿は「日本外交」そのものの姿なのではないか、もしかすると!)


板が熱くなったのは、リアルタイムで参加しながら電車男に「関与」できる関係性にゾクゾクするほどの興奮を覚えたのでしょうし、想像以上の好展開に胸を躍らせたのだと思います。


一方で本が売れるのは、掲示板にあまり馴染みのない人が「こわいものみたさ」のような興味を持って買っているのではないかと思います。ネットに馴染んでいる人なら、わざわざ本を買うことはないでしょうし(今でもネットで読める)、今更「電車男」かよと思うでしょうしね。


「電車男」や「エルメス子」は実在するのかもしれませんが、そうだとしたらこれほど幸せなことはないでしょう。逆に幻想を振りまき夢を与えながらも、実は周到に用意されたビジネスであったならば、おそらくはその反動として幻滅が示す底の深さは、想像以上かもしれません。あれほどのものを意図的に創作可能かについても疑問は残りますが。


かくも「電車男」は語られるという点で多様性を帯びており、女性において対極な「負け犬」とともに、今年を象徴する出来事であったことだけは確かだと思いますが、いかがでしょうか。

2004年12月22日水曜日

立川のビラ配りの件3

「立川自衛隊テント村」という反戦団体が、防衛庁官舎にビラを配った件で住居侵入罪に問われた件について以前エントリーを書きましたが、東京地裁八王子支部で無罪判決が言い渡されたそうです。


細かな事情まで調べてはいませんから、普通に考えれば「ビラを配っただけで逮捕」はやり過ぎではないか、と思っていましたので、当然の帰結だとは思うものの、ネット上では公安の権力行使について肯定的な意見も少なくないことを知ったりしたものです。事件を報じたのが朝日新聞と赤旗だけでしたから尚更であります。


【参考サイト】






 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


と朝日新聞にありますが、表現の自由や政治的活動の巾に関する微妙な問題を孕んでいることは否定できず、「立川自衛隊監視テント村」という、少々過激な名前の市民活動家たちの行動が、ある種類の方々の反感を買ったことは、ちょうどイラクで拘束された三人の日本人の時にも巻き起こった感情と、どこか通じるものを感じます。


彼らが反対した自衛隊は実際サマワで何をしているのか全く分りません。給水活動に道路復旧や学校復旧だと政府は言いますが、イラク復興にどれだけ寄与しているのか全体での位置付けも分りません。勿論、イラク派遣に一体いくらの国費が費やされているのかも分りません。具体的な活動内容と、それに関わる収支は是非報告していただきたいものです。


なにしろ、知らないうちにこんなものを造っていたりしたんですから。


【関連エントリー】



朝日新聞 社説12月17日

■ビラ配り無罪――郵便受けの民主主義


 イラクへの自衛隊派遣に反対するビラを防衛庁官舎の郵便受けに配り、住居侵入の罪に問われた東京の市民団体の3人に対して、東京地裁八王子支部で無罪の判決が言い渡された。


 逮捕した警察、起訴した検察の全面的な敗北である。


 そもそも身柄を拘束したり、起訴したりする必要のない事案だった。2月末に逮捕され、5月まで75日間も勾留(こうりゅう)し、公判は8カ月に及んだ。無罪の結論を出すのが遅すぎたくらいだ。


 被告とされたのは、「立川自衛隊監視テント村」という反戦団体に属する男女3人。職業は中学校の給食調理員と介護会社員とアルバイトである。今年1月と2月、東京都立川市内にある防衛庁官舎の敷地に入り、宿舎8棟のドアの郵便受けにビラを配って逮捕された。


 「イラク派遣が始まって隊員や家族が緊張している時期に、玄関先にビラを放り込まれるのは住人として大変不快であり、家族も動揺した」。証人として出廷した自衛官ら3人は口々に訴えた。


 確かに、先遣隊、主力第1波、第2波と派遣が進み、各地の自衛隊にピリピリした空気が漂っていた時期だった。


 A4判のビラは「自衛官・ご家族の皆さんへ いっしょに考え、反対の声をあげよう」という呼びかけだった。


 判決は書かれた内容を「自衛隊員に対する誹謗(ひぼう)、中傷、脅迫などはなく、ひとつの政治的意見だ」と述べた。さらに「国論が二分していた状況で、ビラはさして過激でもなく、不安感を与えるとも考えがたい」と指摘した。


 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


 住居侵入に当たる行為ではあるが、配り方は強引ではなく、住民にかけた迷惑も少なかった。刑罰をもって報いるほどの悪事ではない。判決はそう結論づけた。明快な判断である。


 イラク開戦とそれに続く各国軍の現地派遣をめぐっては、世界のあちこちで大規模な抗議活動が繰り広げられた。欧州では、ベトナム反戦デモを上回るうねりとなった国も多かったが、日本では際立って低調だった。


 滞在中たまたま日本の反戦デモを見た外国人たちはその規模の小ささ、若者の少なさに驚いた。理由はいろいろあるだろうが、ビラ配り事件にあらわれた警察の過敏な取り締まりも一因だろう。


 自分の気に入らない意見にも耳を傾けてみる。それは民主主義を支える基本である。派遣を控えた自衛隊員にとっても、同僚や家族と全く違う意見を目にするのは無駄にはならないはずだ。くだらない意見だと思えば捨てればいい。


 そんなところにまで警察が踏み込むのは危険きわまりない。判決はそう語っている。


2004年12月20日月曜日

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団/マーラー:交響曲第2番 「復活」

年末も近くなってきましたから、あちこちで第九の響きに身をゆだねている人も多いでしょう。かく言う私も今日はヒマだったものですから、フルトヴェングラーのバイロイト1951年盤などをネットで聴いたりして、ただならぬ終楽章に改めて唖然としていたりしました。

第九も良いのですが、私としてはマーラーの「復活」の方がしっくりします。ということでアバドなんですが・・・これはいただけませんでした。非常にネガティブなレビュです。

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団
2003年 DG 477 508

アバドが2003年にエリート・オーケストラとして編成されたルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラー交響曲第2番とドビュッシーの海は、評判が良いようだし、年末も近いし、ということで聴いてみたのですが、私にはこの演奏のどこが良いのかさっぱり分からなかったというのが正直な感想です。

まずルツェルン祝祭管弦楽団についてはHMVをご覧いただくと詳細な解説がありますが、引用いたしますと
アバドが創設に寄与したグスタフ・マーラー・ユーゲント管を母体とするマーラー室内管弦楽団が中核となり、各パートのトップにはベルリン・フィルの現・元首席奏者を始めとする名手を据え、これに最先端でソリストとして活躍するプレイヤーたちも加わり、実に錚々たる顔ぶれが揃ったスーパー・オーケストラ

ということだそうです。続くオーケストラの参加者名を見ると驚くべき陣容です。

コンサートマスター:コーリャ・ブラッハー(元ベルリン・フィル)
弦の各パート:ハーゲン四重奏団ら
第 1ヴァイオリン:ルノー・カプソン、セバスティアン・ブロイニンゲ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマス)、ドメニコ・ピエリーニ(フィレンツェ五月祭管コンマス)、ブリジット・ラング(北ドイツ放響コンマスの)ら
第2ヴァイオリン:ハンス=ヨアヒム・ヴェストファル(元ベルリン・フィル)
ヴィオラ:ヴォルフラム・クリスト(元ベルリン・フィル首席)
チェロ:ゲオルク・ファウスト(ベルリン・フィル首席)、ナターリャ・グートマン、ゴーティエ・カプソンら
コントラバス:アロイス・ポッシュ(ウィーン・フィル)
フルート:エマニュエル・パユ(ベルリン・フィル首席)
オーボエ:アルブレヒト・マイヤー(ベルリン・フィル首席)
ホルン:シュテファン・ドール(ベルリン・フィル首席)
クラリネット:ザビーネ・マイヤー
トランペット:ラインホルト・フリードリヒ

まさにスーパー・エリート・オーケストラ。奏でる音は、冒頭のコントラバスの音からしてタダモノではなく、物凄いアンサンブルを聴かせてくれます。音量もマーラーを聴くには充分で、フォルテッシモがつくる壮大な音の大伽藍は、ホールで実演を聴いていたならば、かなりなものであったろうと思わせるものがあります。

また、個々のプレーヤーの技量も素晴らしいもので、どの断片を取っても美しく均整の取れた音楽に仕上がっていると思えます。これほど贅沢な編成でマーラーの「復活」を聴けるのなら、これにまさる至福があろうかと思うのが普通なのですが、1時間半近く聴き通して得た感想は「何なんだこれは?」というものでした。いったいに、マーラーを聴いたという感興が全く生じません。

昔からアバドは録音と実演の印象差が激しいとは言われていましたし、ベルリンを辞めた後、アバドも変わったという評判も耳にするのですが、私が鈍いのでしょうかね。

仕方ないからテンシュテット&LPOと比べてみました

テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニー管
EMI 1981年5月

繰り返して書きますが、オケの性能、録音とも抜群であると思います。しかし肝心なパッションが、私がマーラーに求めている何かが決定的に欠けています。それが何なのか、あまりにも拍子抜けしたため、手元にあるテンシュテットとLPOのマーラー全集から終楽章だけ聴いてみました。(テンシュテット&NDRは持ってませんし)

すると・・・どうしたことでしょう、終楽章だけですよ、白けきっていたのでまあ口直しにという程度に聴いただけであるのに、冒頭から34分間、圧倒的な音楽に打ちのめされ放しです(繰り返しますがNDR盤ではありません、syuzoさん評では評価低いですから)。この違いは何なのか、聴きながら自問するのですが、その答えは分かりません。

オケの性能はLPOより圧倒的にルツェルン祝祭管弦楽団の方が高いでしょう。音の抜けやクリアさもルツェルンに分があります。しかし、アバドの演奏が大音量になればなるほど、非常にピュアなところに行き着き、ディテールレベルでは微細な表情まで描いているにも関わらず全く質量感を伴わないように感じられるのは、もはや異様といってよいかもしれません(再生装置が貧弱だからか?)。

私にとってマーラーを聴くことは一つの体験に近いものです。テンシュテットの演奏は(LPOとの全集盤が彼の代表的な演奏であるかはさてき>しつこい)終楽章を聴いただけでも慄然とするものがあります。地面は沸騰し天は裂け、そこに一条の光が差し込み、まさに神が降臨しているのではないかと思わせる凄まじさが秘められています(私だけの幻想かもしれないが)。

アバドは、そんなマーラー観とは全く無縁です。そもそも、第一楽章で感じる精神的な崩壊(と私が勝手に思っている)がアバドには感じられません。従って得られる結論はテンシュテットとは全く異なったものになっているようです。音楽に痛みも軋みもなく、非常にストレートに美しさを歌います。だから破裂するような歓喜も薄いのでしょうか。ひたすら演奏だけが立派であり、それが返って白々しさを増します。好みの違いも大きいとは思いますが。

アバドの演奏がマーラーに対するアプローチとしてどうなのかは私には判断ができず、こういうマーラーもあるのだと納得するだけです。逆に言えば、過剰なものを排除して出来上がった歓喜の世界ということもできます。ですからマーラーに特別な思い入れを求めていない人や、前世紀的なマーラー像に飽いている人には、充分過ぎるほどに満足できる演奏であるのかも知れません・・・。DVDも出ていますが、改めて映像とともに聴いたら感想変わりますかね?

さて「海」は、みなさん評判良いようですから、これはどうでしょう・・・(まだ聴いてません)

2004年12月19日日曜日

テンシュテット&NDR/ベートーベン:交響曲第7番

年の瀬も押し詰まってまいりまして、結構ばたばたと忙しい状態が続いています。あっという間の一年でしたが、聴きたい音楽、読みたい本など山積みのまま来年になりそうです。

てことで、テンシュテット&NDRのベト7の感想を書きました。正直な話、本文でも書きましたがSyuzo's Weblogを参照していただいた方が、時間の節約だとは思います。

テンシュテット(指揮)NDR
EMI/NDR 10122(Germany)

リズムとエネルギーの塊のような「舞踏の神化」ベートーベンの交響曲第7番。爆演系ではありませんが、別な意味で物凄い演奏が展開されています。最初に断っておきますが、私の感想など読まずにSyuzo's Weblogのレビュを読んでください。全てが言い尽くされています。

第一楽章冒頭はゆったりと、そしてふくよかで、堂々たる風貌の音色を響かせてくれます。このコントロールされたふくよかさは全楽章を支配する明るさに通低しています。弦の刻みは強すぎないものの的確で、テーマは朗朗と歌われます。ここに広がる明るさと幸福感は例えようもなく、交響曲第6番「田園」の延長を思わせる世界観に素直に驚かされます。

重層的に重ねられる音は、キャンバスに塗り重ねられる油絵の具のようであり、標題音楽ではないのに様々な風景が目の前に浮かんでは消えていきます。例えばそれは、黄金色に染め上がった丘陵地帯であったり、その上を舞う鳥であったり、農夫たちの踊りであったり、木枯らしや嵐であったり・・・あまりにも見事な音楽と演奏に至福の時が流れます。

静かに、しかし芯が燃え上がるようにパッションが加わる第1楽章の終わり近くは、なかなか聴きどころです。比較的長い残響時間さえも音楽に組み込み多くの余韻を残してくれます。

第ニ楽章は葬送行進曲とされていますが、こんなにもテーマが穏やかにそしてなだらかに奏でられてしまいますと、もはや言葉にすることができません。例えようもないほどに哀しくそして美く、そのまま昇天してしまいそうです。この楽章を聴くだけでも価値がある、そんな演奏です。

第三楽章冒頭はティンパニの強打で始まるものの、決してテンポは急がず着実な演奏です。大人しすぎるのではないか、などと途中で感じたりしたのですが、実のところ第四楽章まで聴き終えあたりを見回したら、ボウボウと燃え盛る炎にホールごと包まれていたというような感じです。

テンシュテットのオーケストラコントロールは確かに見事で、フレーズを微妙に伸ばしたり、ごく短い間にゆるやかなクレッシェンドをかけたりと、かなり細かなことをしているように聴こえ、それが演奏と音楽に彫琢を施しています。第三楽章でのリズムとメロディの交替は次第に高揚し、聴くものにとてつもないベートーベンのエネルギーが注入されていきます。

第三楽章と第四楽章は間に譜面をめくる音が「ガサガサ」と聴こえたと思ったら、あの聴きなれた付点のリズムが炸裂します。ラストに向けてはsyuzoさんの迫力はあるのにいたずらに威嚇的にならず、自然で明るい表情のまま、巨大なスケールで上昇と下降を繰り返してゆく。しかも、その響きは透明さを失わない。というコメントに尽きています。終末近くにホーンの音色が聴こえたときには、ベートーベンを聴いたという勝利の感慨に満ち溢れています。

ああ・・・なんと幸せなベートーベン、なんと凄いテンシュテット。おいら、三度も続けて聴いちまったよ(;0;)<泣くな

(2004.12.17)
追記

とここまで書いて、自分のHPファイルをごそごそしていたら、テンシュテット&ミネソタ管のレビュが見つかりました。こちらは今手元にないので比較して聴けません。しかし、Syuzo's Home Pageの「テンシュテット:禁断の部屋 その6 ベートーヴェン:交響曲第7番」を参照にして自分のレビュを読むと、今回の演奏(80年)とミネソタ管の演奏(89年)には明らかに違いがあるのかと知らされます。機会があれば聴き比べて見ましょう。

2004年12月17日金曜日

学力低下って子供の世界ぢゃないだろ

今週は新聞紙面で「子供の学力低下」について話題になっていました。もはや文部科学省も「世界トップレベルの学力ではない」と認めたそうで、それは「ゆとり教育」に起因するという論調です。


ブログ界でも熾烈なバトルを展開していらっしゃる「週刊!木村剛」では『2004.12.16 ゆとり教育でゆとりを感じているのは誰?』というエントリーがあったばかりです。個人的には、知的レベルの崩壊は子供の世界の出来事ではなく、オトナ社会での出来事なのではないかと常々思っています。




時々、鴎外やら漱石の小説を引っ張り出して再読してみますと、当時の知的エリート層の学力レベルが極めて高いことに驚かされます。あるいは、日本のトップにまでのぼりつめた政治家や経営者もしかりです。鴎外や漱石に描かれた「知的遊民」は別としても、教育にモチベーションやインセンティブがあったということでしょう。


しかし、現在では「教養」は「生きる力」に直結しませんし、社会に出て役に立ったという実経験が不足しています。学校教育の効果が実体験として語られるということもめったにありません。「詰め込み」の行き過ぎ面も指摘された時期がありましたから、勉強することをネガティブに感ずる風潮が日本にずっと醸成され続けてきているように思えます。


そういう意識が今のオトナ社会を形成しているように思えます。直接の関係はないかもしれませんが、例えばTVときたらほとんど白痴的なものも少なくなく、あれだけの高度なテクノロジーを使って膨大な浪費をしていると思うと唖然とします。ディスカバリー・チャンネルやヒストリー・チャンネルのような番組は、いったいどれだけあるでしょう(あれがいいとは言わん)。


これから発展を期待している国は、発展に希望を見出していますから、その第一歩となる「教育」を受けることに渇望しています。日本には逆に言えば、満ち足りて「希望」がなく、ひいては教育も教養も廃頽し享楽と快楽が拡大しつつあるということでしょうか。

Nokiaのキティバージョンとか


なにやら海外でハローキティバージョンの携帯が発売されたとか。キティ誕生30周年を記念してNokiaとCingular Wirelessそしてサンリオが共同で端末を発表したのだそうです(元記事

私はキティをかわいいとも、愛らしいとも全く思わないのですが(っていうか、ぢっと見ていると、なんかコワイ)、海外でもキティ人気は高いらしく、日本では使えない携帯機種だけにファンは悔しい思いをしているかもしれません。




Nokiaといえば、Vodafoneの3G携帯であるNokia6630(Vodafone702NK)が発売されました。期待をもって店頭で触ってきた(^^;;;のですが、かなり期待はずれでしたね。デザインは秀逸だと思うのですが、キー部分がフニャニャしていて全然コシがないんです。外人の太い指でグイグイやって上手くキーを押せるのかと首をかしげてしまいました。それに、ボディがなんか安っぽいんですよね。

音声とか画像とか、そういう機能は分からず、あくまでも「触っていてうれしいガジェットか」という点では、イマイチ。WEBやパンフでのイメージとはかなり隔たりがある、これでは、あんまり食指が動かないですね。


FORMAではSH901iCっていう、ある意味で日本的なニーズにおけるハイエンド機種が発売されていますから、Nokia6630の人気はまだまだかもしれません。


個人的には携帯は近いうちにPC化してゆくのだろうと思っているのですが、日本の携帯はまだまだそういう動きが鈍いなあと思ったりするのでした。SH901iCにしても、もう少しタテに液晶を長くしてヨコ使いで表示できるようにすれば、PCと同じようなWEB表示もそんなに苦しくないですし、メーラーの使い勝っても良くできるのではないだろうか・・・と考えたりするんですが。


キャラクターバージョンっていえば、その昔(って平成13年だ)、まだPalm社の日本法人があってm505とか幸せな機種を発売しているときに、ゴルゴ13バージョンってのが発売されたことが懐かしいです。(って誰が知ってるか) しかし、こうして写真で改めてPalm m500シリーズを眺めますと、フォルムといい触感といい機能といい、ひとつの完璧を体現していたと個人的には思うのですが・・・人気なかったですね。


iPodにしてもU2バージョンとかありますから、キャラクタータイアップの販売戦略には根強い支持があるのかもしれまへんやね。とりとめもありませんでしたが、年末なんでご勘弁を。


2004年12月14日火曜日

TV:戦場のピアニスト

昨日のテレビで「戦場のピアニスト」を放映していたんですね。途中から観たので、真面目な感想を書くまでには至りませんが、とにかく凄まじい映画でした。話題になるだけありますね。


映画前編に漂う哀しさは覆いようもなく、あっという間に変化してゆく時代の流れ、不条理なまでの差別と殺りくには、映画でありながら胃がせり上がってしまうような恐怖と絶望を感じたものです。




DVDのジャケットにもなっている廃墟のシーンは、涙も出ないというほどの圧倒的な迫力。戦争の虚しさをこれほどまでに映像表現したシーンは、ざらにはないかもしれません。ポランスキー自信の実体験がなければ描けない映像かもしれません。


ユダヤ人迫害という点ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」などを思い出す人もいるかもしれませんが、私は戦闘シーンのドキュメンタリーを見ているような迫真性に、むしろ「プライベート・ライアン」冒頭の上陸シーンを重ねてしまいました。あるいは、ロイター通信などが最近伝えたファルージャ虐殺の様子とか・・・人間の命が雑巾ほどの価値もない状況に慄然とし「撃たないでくれ!」と声を上げそうになります。


ピアニストのシュピルマンの行動については、私は弱さとか卑怯さは感じません。彼ほどに強靭な精神の持ち主は逆にいないのではないかとさえ思います。だから彼が戦後にラジオ放送を再開したときの笑いの中に見せた苦渋の表情には、言葉にはできない感情が込められているように思えました。


音楽的には、私はショパンという作曲家にあまり馴染んではいないのですが、この映画を観たからには、ショパンにまつわるイメージに、私の中である縁取りができてしまったことは否定できないですね。モーツアルトにまつわるイメージが映画「アマデウス」に影響されてしまうように・・・TVで観ただけなのに、それほどまでに強烈な映画でありました。


2004年12月9日木曜日

リチャード・ミニター:「なぜ企業はシェアで失敗するのか」


何気なく読み始めたこの本だったのですが、企業の「シェア至上主義」に疑義を唱え、マーケットにおけるシェアは、利益とは何の関係もないことを、嫌というほどに思い知らせてくれるものでした。


ビジネス本として、非常に卓越した内容でありますので、マーケット・シェアと利益率に少しでも感心のあるビジネスマンや経営者は一読の価値はあると思います。この本を読むと世のCEOを初めとして「マーケット・シェアの拡大」という、一種宗教にも誓い妄想に取り付かれている愚が明らかになります。




私の属する業界もしかりで、会社の期首や期央の経営会議で問題になるのは、まずは総売上高と経常利益。「利益率」という概念もないわけではありませんが、量重視で、量を確保すれば社員を賄う原資は得られるという幻想にとらわれているような気がします。あと「赤字覚悟」で仕事をとってシェアを高めれば、そのうちコストリーダーになれるというユメを見ているわけです。なんたって利益率ときたら限りなくゼロに近い一桁という成熟産業ですから、厳しい競争にしのぎを削るのは当然ではあるのですが、「そのうち」ってことの見込みもまた、利益率と同じくらいのものでしかないわけです。


2004年9月号のハーバード・ビジネス・レビュ(日本版)は、『「利益率」の経営 低収益体質からの脱却』というテーマで論文を掲載していましたし、高収益率企業でかつ、マーケットリーダーであるデルの本も読んだばかりでしたので、採算に合わない仕事からどうやって利益を叩きだすか、そもそも、その仕事をやるべきなのかという判断を迫られる業務をしている関係上、テーマ的にもヒトゴトではなく、理想と現実の違いにゲンナリしてしまうのも事実。


いったい、わが社幹部連中は何を考えて企業経営をしているのか、何を基準として経営判断をしているのか、小一時間ほど問い詰めたい気になります。


ちなみに著者のリチャード・ミニターは、ウォールストリート・ジャーナル・ヨーロッパ紙の元エディター。現在はジャーナリストとして、ウォールストリート・ジャーナル紙やワシントン・ポスト紙、ニュー ヨーク・タイムズ紙、サンデー・タイムズ紙のほか、世界中の有力経済専門紙を中心に寄稿している方。

2004年12月8日水曜日

ムター/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

  • アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
  • アンドレ・プレヴィン(指揮)シュターツカペレ・ドレスデン
  • GRAMMOPHONE

師走になりましたが、今日も釧路地方では地震がありましたね。余震だそうですが、寒くなってきましたし大きな地震にならないことを祈ります。

今年は天地がちょっとばかり変で、日曜日の札幌は大雪の大荒れの天気でしたが、東京は25度だったそうですね。飛行機でたかだか1時間15分ほどの距離しかないのに、まさに別世界。

ということで、別世界のムターのシベリウスを聴いてみました。感想はこちらです。

かなり濃い目のムターのチャイコフスキーを聴いたので、実際彼女の芸風はどうだったかしらという意味から、34歳の時のシベリウスを聴いてみました。

冒頭からノンヴィブラートの音、チャイコフスキーの第二楽章で聴かれた音です。嫋嫋たると表現する人もいるようですが、絞り上げるような表現力には只者ならぬ雰囲気を感じます。

音色の変化は、ここでも見事であり、それは饒舌とも豊穣とも違ったもの、クレッシェンドになるに連れ、音は太くなり分厚さをましてきます。メタリックな感じでゴリゴリと奏する様はかなり迫力あります。しかし、そこはムターです。あくまでも多彩な表現力の一面ということですから、力まかせな乱暴さということではありません。繊細さと強烈なところのレンジが広いということでしょうか。

ムターの音楽は、極めてエネルギッシュで感情の振幅が大いものの、泣きや浪花節に落ちることはありません。ですから演奏を聴いて感情移入をして感極まるようなことはありません。ひたすらに見事だなあとは思うのですが。

第一楽章のカデンツァなど奔放さの限り、かなり好きなことをやっているように聴こえます。完全にムター節で、自分の世界を表現しているような熱演です。凄い演奏だとは思ですが、シベリウスを聴いているという温度感は希薄です、プレヴィン率いるバックのオケもしかりです。

「好きな演奏か」と問えわれれば「感心はしても感動はできません」ということになりますね。シベリウスに特別な思い入れを持っているヒトには特にそうかもしれません。

PS.年末締め切りの仕事がバタバタと入ってきたり、今までうっちゃっていた仕事の催促が来たりと、さすがに師走は忙しくなってきました。かなりしつこい風邪もひききったので、あとは驀進かァ。ブログはぼちぼちですな。

2004年12月3日金曜日

ムター/コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターのチャイコフスキーは、コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲がカップリングされています。レビュを書いて気付いたのですが、どちらも「ニ長調 OP.35」なのですね。

コルンゴルドは1897年生まれ、幼くしてウィーンの楽壇にデビューして天才ともてはやされ、その後アメリカに渡り映画音楽の世界で成功した作曲家。本人は晩年にウィーン楽壇に復帰したかったようですが、「映画音楽作曲家」というレッテルは死ぬまでぬぐえなかったそうです。

さて、そんな作曲家が1947年に描いたのがこのヴァイオリン協奏曲。いやいや悪くないですよこれは。最初に聴いたときには、まさにハリウッド映画音楽だあと思ったものの、それはそれでよいではないですか。ロマンティシズム溢れる、甘ったるくも力強くエネルギッシュな曲です。

甘美なところはこれ以上はないと思えるほどで、とろけてしまうよう。それをムターのヴァイオリンで聴くと、暖炉の火で柔らかくなったキャンディーよろしく、「もう、どうにでもして」と言わんばかりの音色となって聴くものを骨抜きにしてくれます。特に第一楽章の冒頭の旋律が凄い、これを聴くだけでも価値があるかな。チャイコフスキーでは、先入観からか疎んじた音色が、ここでは、非常にマッチしています。

快活な部分では、芯がはっきりした太い音が、それこそ自在に駆け巡る快感は、これまた例えようもなく、聴いていて「ああ、楽しいなあ」という気にさせてくれます。古きよき時代の上昇志向な感じが懐かしいです。

コルンゴルドはフーベルマンのために、この曲を書いたそうですが、初演はハイフェッツなのだそうです。技巧的にも結構難易度が高いようですから、ヴァイオリンを聴くという意味では楽しめる曲です。

というわけで、コルンゴルドは悪くはないのですが、ふと考えてみると1947年という時代に、アメリカでこんな脳天気な音楽を作っていたとは、コルンゴルドさん・・・幸せでしたね。