2005年7月31日日曜日

サンデープロジェクトの靖国問題


本日のサンデープロジェクトでは自民党・安倍晋三幹事長代理と共産党・志位和夫委員長が「靖国問題」を議論しておりました。安倍さんと志位さんですから、どこまで行っても平行線であることは最初から見えていましたが、それにしてもここまで全くかみ合わない議論を聞かされると正直ちょっと辟易します。




志位氏が安倍氏に対し「A戦犯は戦勝国の一方的な裁判による、"ぬれぎぬ"に過ぎぬと考えているのか」「過去の戦争は侵略戦争ではなかったと考えているのか」と問うても「一政治家がそのような判断をすることは影響が大きすぎる」「判断は歴史が定める」との回答から外に出ることはありませんでした。


大東亜戦争が「正戦」であったのか「侵略」であったのかは議論が分かれているところですし、「過去の判断を現在の価値観から評価することはできない」とする安倍氏のスタンスも理解はできます。「正しいか悪か」という二元論で割り切ることの危険性も確かにあるでしょう。


それであっても、いやだからこそなのでしょうか「靖国問題」は極めて政治的な問題でありますし、過去の歴史認識と現在の国家をも炙り出す問題であると思うだけに、明確な意志を表明できない日本政府代表の一人にはある種の失望を感じます。結局過去を清算も総括もできていないのだと。


安倍氏が引用していた塩野さんの「ハンニバルは罰せられなかった」ということは、先日紹介した「文芸春秋 八月号」のコラムでも書かれていたエピソード。塩野さんは戦犯という言葉からして私には馴染まない敗戦イコール戦犯と見なされるようになったのは、第二次世界大戦からの現象にすぎないとの立場。


また塩野さんは靖国問題は、たいした問題ではないことをたいした問題にしてしまった、歴史上の好例と書きますが、靖国のありようを考えるとそれを利用しようとする人たちが居る以上「捨てては置けない問題」であると私は感じるのです。特にこれを「日本文化」と結びつけて論ずることには全く同意できず、「文化論」が出てきた瞬間に、これは何かをカモフラージュするためのレトリックでしかないと思っています。

2005年7月30日土曜日

靖国問題と宗教観


そろそろ8月になります。国会が8月13日まで会期延長され、終戦記念日の8月15日に突入するわけです。「文藝春秋 八月号」は靖国問題に関して以下のような特集を組んでおり、興味深く拝読いたしました。


●決定版 日VS中韓大論争 靖国参拝の何が悪いというのだ~櫻井よしこ、田久保忠衛、劉江永、歩平

●小泉「靖国参拝Xデー」の内幕~富坂聰

●胡錦涛「靖国非難」は世界の非常識~古森義久






コラムにおいても

●日本人へ・二十七 帰国中に考えたこと~塩野七生

●人声天語 十年前の夏に私は『靖国』のプロローグを執筆していた~坪内裕三


と言う具合です。「文藝春秋」ですから、首相の靖国参拝については肯定的な味方なのですが、例えば「大論争」においては、日本と中国および韓国の歴史認識はどこまで行っても交わらない平行線で、相互理解は不可能とさえ思え正直ゲンナリしてしまいます。


それでも、一連のコラムやら論文を読んでおりますと、「靖国問題」の根底には日本人の「宗教観」が深く横たわっていることを思い知らされます。これだけ面倒な問題なんだから「分祀」すればよいではないかと単純に考えても、「神道」において「分祀」ということはそもそも考えられないという大前提のもと全否定されてしまうのです。


「人は死ねばみんな神様」や、お盆には仏様がこちら側に来る時期というのも「日本人の宗教観」なわけです。中国や韓国には日本人の文化に根ざした宗教観が理解できないのだろうと、主張するわけです。


中国や韓国が政治カードとして「靖国」を利用している点も理解できるものの、靖国擁護派が主張する「日本人の宗教観」や「死生観」も一体どこまで浸透しているのか、日本人は「無宗教」といわれていたはずですが、実は深い信仰心を持ち続けている民族であったのか。「無宗教」とは西洋的概念での「無宗教」でしかないのか、同レベルに考えることが間違いなのか。私は「文藝春秋」を読んで、混乱するばかりです。


坪内裕三氏のコラムでは柳田國男氏の文章を引用しながら日本民族における死後や霊の認識に触れ、


(従来の日本信仰などの)そういう「なつかし」さの喪失、すなわち超越的なものに対する感受性の摩滅への不安が私の『靖国』の最大のポイント



と書いています。死しても国土を離れず、故郷の山の高みから子孫を見守っているという宗教観、それが「靖国」の基本であると主張するならば「靖国」問題は解決不能という気になります(中国や韓国があきらめるか別のカードを見つけない限り)。


ただ、この種類の「魂」の問題は、今の日本において「靖国」をキーワードとしてしか語られてはいないようにも思えるのですが、どうなのでしょう。

2005年7月23日土曜日

ガロア/武満徹:海へⅡ、Ⅲ


先日書いたようにガロアのアルバムには三つのバージョンの「海へ」が納められています。この構成を「しつこい」と思う人もいるかも知れませんが、私は興味深く三つの違うバージョンを楽しんでいます。




「海へⅡ」ハープと弦楽合奏による演奏ですが、これがなかなかいいんですね。弦が加わることでアンサンブルの美しさが加わり曲も重層的に深みを増したように聴こえます。響きも三つのバージョンの中では一番「現代音楽的」に聴こえるかもしれません。もっとも耳障りな音はどこにもなく美しく抒情的な音楽に仕上がっています。ハープも弦との伴奏の中でしっかりと存在感を主張しており、アルト・フルートと三位一体で音楽を作っているという感じです。ガロアの木管による抑えれた音色は弦の音色とも良く合っています。Cape Codなどは圧巻で舌を巻いてしまいます、こんなに美しくてよいのだろうかと疑問が沸くほどです。


「海へⅢ」はハープとの演奏ですが、「海へⅡ」の後に聴くと驚くほど新鮮に聴こえるから不思議です。歌舞伎の始まりは浅黄幕を切って落としますが、弦がない響きはそのくらい劇的な効果を生んでいます。弦がない分フルートとハープの役割は相対的に高まるのですが、その効果がこんなに鮮やかに曲のイメージの違いとして現れるとは。ギターとハープの音色の違いも微妙で、どちらにも味わいがあります。強いて言うとハープとの共演の方が、お互いにぶつかり合うような「強さ」を感じます、意外とハープは骨太なのですね。「海へⅡ」のデッサンのようでありながら、しかし曲としては別物。完成度が極めて高く曲の輪郭も際立っています。


かようにして聴いてみるとⅠからⅢまで通すことで面白さがみつかるのだなあと思えます。



Takemitsu:I Hear The Water Dreaming

④Toward the SeaⅡ ⑥Toward the SeaⅢ

Patric Gallois(fl) Fabrice Pierre(hp) Goran Sollscher(g) BBS so. 9/1999 London Warehouse Deutsche Grammophon 453 459-2


2005年7月20日水曜日

ガロア/武満徹:海へⅠ


武満徹の「海へ」は全てアルト・フルートの曲ですが、伴奏によってギターとのⅠ、ハープと弦楽合奏のⅡ(1981)、そしてハープとのⅢ(1989)の三つのバージョンがあります。一番多く演奏されるのはⅠとⅢだと思いますが、このガロアのアルバムには全てのバージョンが納められていてお得です。






Takemitsu:I Hear The Water Dreaming


    ①I Hear The Water Dreaming ②Toward the SeaⅠ ③Le Fils des etolies ④Toward the SeaⅡ ⑤And Then I Knew 'twas Wind ⑥Toward the SeaⅢ ⑦Air


  • Patric Gallois(fl) Fabrice Pierre(hp) Goran Sollscher(g) BBS so.

  • 9/1999 London Warehouse
  • Deutsche Grammophon 453 459-2





ガロアが吹くのはChris Abellの木管フルート。最初の出だしから絶妙に抑制された音色が、モノトーンな武満の世界を提示してくれます。意図的なのか「尺八」的な表現も聴こえてきますから、先に聴いた高木綾子さんの「海へⅠ」よりも余程日本的な湿度を伴った演奏に聴こえるから不思議です。落ち着いていながらにしてスリリング、変に煽るようなところは全くない深い演奏です。


高木さんの演奏は、以前も書いたように音色表現の幅は広いものの、エネルギーレベルも高く挑みかかるようなチャレンジングな演奏です。それゆえに「人間と対峙する孤独な鯨」というような印象を受けます。一方でガロアの演奏は木管フルートというせいもあるのか、自制(自省)的で「対峙」や「闘争」はありません。ひたすらどこかに潜行する巨体が想像できるだけです。どちらも表現としてはありかなと思いますが。


武満はこの作品をメルヴィルの「白鯨」から次の言葉を引用して説明しています。


Let the most absent-minded of men be plunged in his deepest reveries...and he will infallibly lead you to water...Yes, as everyone knows,meditation and water are wedded together.


spiritual domainとか言われても実際のところは「なんのこっちゃ?」という感じなのですが、ガロアの「海へⅠ」を聴いていると、自分の深い部分と対話しているようで落ち着いた気分にさせてくれます。その意味からは私にとって非常に貴重な一枚です。


ちなみにガロアが木管フルートに興味を持ったのは武満徹のノヴェンバー・ステップスに影響を受けてのことだそうです。

2005年7月15日金曜日

高木綾子/武満徹:海へⅠ


高木さんのアルバムを何度かに分けて紹介していながら、アルバムタイトルとなっている武満徹の「海へⅠ」をスルーしてしまうのも気になりますので簡単に感想を書いておきましょう。



アルトフルートとギターのためのこの作品は、1981年に作曲されグリーンピースの「Save the Whales」のキャンペーンに寄贈された作品で、「Es、E、A」(=Sea)の三つの音を旋律動機としている三楽章形式の曲です。それぞれが「夜」「白鯨」「鯨岬」と題されていて、どれもが神秘的で深い味わいを持った曲です。聴くたびに母なる海を悠々と泳ぐ鯨を想像させてくれ、近づき難いイメージのある武満作品の中でも、数あるフルート作品の中でも私の好きな曲の一つです。


アルトフルートの少し低い音や、フラッタータンギングやフルートの特殊奏法を駆使した音楽は、静かで深い感銘を与えてくれます。高木さんは表現の幅が広いようで、ピアニッシモの弱音から限界に近いフォルテッシモまで幅広くある意味で芯のある音できかせてくれています。息も良く続くなあというくらいに、音色を変化させながら音を引き伸ばしたりする様はさすがかなと。ちょっとドキドキするような展開だったりします。


ただ、ヘッドフォンなどで音量を大きくして聴きますと、ピアニッシモの際に聴こえるホイッスルトーンのような音とか、どうしても入ってしまうブレス音が少々気にならないわけではありません。随分と奏者に近い位置にマイクをセッティングしているようです。


それでもこのアルバムの中にあっては、意欲的な演奏で高木さんの別の魅力に触れることができると思います。生で聴いてみたいものですね。




高木綾子 福田進一/海へ

⑥海へ(武満徹)

高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000


2005年7月14日木曜日

スターウォーズとニーベルングの指環2

自分で書いておいて、没企画(「CDでワーグナーの歌劇・楽劇を聴く」という無謀なシリーズ)になっていたものだからすっかり忘れていました。スター・ウォーズと指環の類似性について言及した海外サイトが、そういえばあったのですよね。


Richard Wagner Web Siteというサイトの中の「スターウォーズ・シリーズとワーグナーの《指環》~構成、主題そして音楽のつながり(The Star Wars series and Wagner's Ring
Structural, thematic and musical connections
)」というページです。あの時は内容を読まずにスルーしたので今まで全く忘れていました。テキストは膨大でまだ触りしか読んでいませんが、せめてタイトルだけでも拾っておきましょう。



Introduction

■Structural identities


  1. The dimensions
  2. The non-linear realisation
  3. To create a World
  4. The need for total control
  5. The cult following

■Thematic identities

  1. The Old Sin which is Atoned by Youthful Heroism
  2. The Conflict Between Power and Love
  3. Father and Son : The Central Conflict, and Two Battles of Life and Death
  4. Father and Daughter - a Conflict of Will
  5. The Magic Sword
  6. The Orphaned Hero
  7. Tuition and Initiation by a Dwarf
  8. The Incestuous Hero Twins
  9. The Symbols of Power
  10. The Evil Dragon
  11. The Forced Marriage, the Tyrannical Husband
  12. Magic Sleep and Sex Change
  13. The Magic Helmet

■Musical identities

General similarities

  1. The importance of the orchestra
  2. The opening effect
  3. The use of leitmotifs
  4. The construction of the leitmotifs

Specific identities of construction

  1. Luke Skywalker = Siegfried
  2. Obi-Wan Kenobi / the Force = Siegfried as tragic hero
  3. Siegmund & Sieglinde, twins = Luke & Leia, twins
  4. The Death Star = The Ring
  5. Leia = Brünnhilde
  6. Darth Vader = Hunding
  7. Han & Leia = Tristan & Isolde

タイトルを眺めるだけで、ワーグナー好きな方でスター・ウォーズも好きな方には興味深い内容ではないかと思います。英語が読めない人でも、ライトモチーフの項は楽譜とMIDIファイルが提供されていますので両者の類似性を目と耳で楽しむことができます。あまりにも鮮やかな解説です。(>そうか、デス・スターがリングだったのか!)

2005年7月12日火曜日

スターウォーズとニーベルングの指環

スターウォーズがワーグナーの「ニーベルングの指環」に似ているというのは、あながち私だけの感想ではないようです。つらつらと読んでいた感想にも、ライトモチーフについての言及が結構ありました。

ルークとレイヤは双子との設定ですが、ジークムントとジークリンデの関係に似ていますか。ただし二人は愛し合ってしまう前に互いを制御するのはハリウッドの倫理観でしょうか(>って、一般人の倫理観だよ)。

またルークとレイヤを生んで母親のパドメが死んでしまうのも、ルークをジークフリートと考えるとこれも同じです。ジークフリートはミーメに育てられますが、ルークもタトゥイーンで育てられそしてその枠を破って外の世界に飛び出しました。そしてジークフリートはヴォータンの力の元である槍を折ってしまうのでしたよね。ルークがダース・ヴェイダーとの闘いとある意味で似てます。

ジェダイのライトセーバーはノートゥングかとか、ヴォータンがダース・ヴェイダーならワルハラ城はデス・スターかよとか(ヴェイダーがエピソード3で満足げにデス・スターの建設されている様を眺めるのは印象的)、だから神々の黄昏かよとか(>だんだん記憶があいまいになる・・・)

じゃあ、ブリュンヒルデは誰なんだとか、グートルーネは、アルベリヒやラインの乙女たちは、ローゲは?トネリコの木はここでは何を意味するんだよ、フォースはどうだ・・・ヨーダは・・・などとやりだすとキリがありません。私もワーグナーに詳しいわけではありませんので、ここらへんでボロが出ないうちに止めるとしましょう。誰か、後お願いしますm(_ _)m >てことでclassicaにトラバして寝ます。

2005年7月11日月曜日

映画:宇宙戦争


長くなったのでエントリを改めましょう、続いてスピルバーグの「宇宙戦争」です。思い出せば「スター・ウォーズ エピソード4」日本公開が1978年、それとほぼ同時期に「未知との遭遇」が公開されていたのですよね。あれから27年の歳月を経て両雄の映画を観るというのも奇遇なものです。


さて「宇宙戦争」はH.G.ウェルズの名作の映画版であり、「地球最後 の日」(51)のジョージ・パルが映画化した50年代SF映画の名作のリメイクでもあるのですが、この作品ときたら一体何なんでしょう。




というか、まず何だって私も含めて大勢の人達は「都市が破壊されるシーン」だとか「立ち向かう気力さえ失わせるほどの圧倒的なパワー」「感情抜きの冷酷無比さ」なんてものを見たがるんでしょう。それ程世の中平和であるとも思えないのですが。


「都市が破壊される」とか「人間以上の知的生命」で思い出すのが、ローランド・エメリッヒ監督の「インデペンデンス・デイ」(96)ですが、両者にはイロイロと共通点がありますね、突っ込みどころ満載な点においても。「カンフーハッスル」ではありませんが「ありえねー」の連続です。


それはさておいても、特撮系の信じられない映像という点では同種の映画の中でも群を抜いております。人を満載した船が横転するシーンは「タイタニック」よりリアルですし、都市破壊のシーンはスピルバーグがノルマンディ上陸を描いた「プライベート・ライアン」冒頭20分間に相当するほどの恐怖と迫力を感ます。(「プライベート」観て心底戦争には行きたくないと思ったもの)。密室系では「戦場のピアニスト」などに共通する圧迫感も味わえます。


スピルバーグの徹底したリアリズムには舌を巻きますが、それにしても彼のこのテの手法は「激突」「未知との遭遇」「ジョーズ」において既に完成していたことが、この映画を観ると良く分かります。


かように特撮リアリズムは超A級ではあるのですが、ストーリーや展開はB級映画そのもの。娘役のレイチェル(ダコタ・ファニング)がよく演じていますが、父親のレイ(トム・クルーズ)には共感できない点も多いです。


「インディぺ」もそうでしたが、ラストは「何だそりゃ?」てなもので、後半に行くに連れトーンダウンするところは、隕石追突、地球侵略ものの最近のパターンかなと。製作者も地球をメチャメチャにするところで力尽きてしまうんでしょうな。今回の知的生命に至っては、いしいひさいちの「地底人」にも劣ります。テーマも100万年前からの知的生命がいなけりゃ家族再生もできないなんて、「外的がいないとまとまらないアメリカ」そのものではないですか。


ということで、褒めてんだかけなしてんだか分かりませんが、テロを経験したアメリカ人監督が描ける恐怖のリアリズムはあると思います。ただ、彼のリアリズムには救いがないという気がしますが。(リアリズムと映画のテーマが分裂してますからね)

映画:スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐


本日はユナイテッドとしまえんにて話題の「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」と「宇宙戦争」のダブルヘッダ、どちらも並ばずに観ることができました。スター・ウォーズと宇宙戦争は休憩をほとんど挟まず、劇場出て券買ってまた劇場に入ったら、もう本編が始まっていましたので結構疲れました。


内容は、細かく書くと「ネタバレ」(っていうんですか?)になりますが、あちこちでイロイロな方が熱く語るでしょうから、私はさらりと書くに留めます。




本エピソードはアナキンが次第にダークサイドに堕ちて行くさまが書かれるているのですが、アナキンの行動が短絡的にして性急で説得力に乏しい。また展開が速すぎる点など気になる点も少なくはないですが、それでもスターウォーズは本作をもって再び伝説になったような気がします。


まず、全てのシーンが今まで見たこともないようなものばかりで度肝を抜かれます。1978年のエピソード4も当時本当にびっくりしたものですが(そもそも最初から「エピソード4」だったのが話題になったのが懐かしい)、この作品で円環のように様々な事象がひとつにつながり、完成された物語になりました。ようやく今までのスターウォーズを観終わった後に残った不完全燃焼を覚えることもなく、全き満足感を得ることができました。


考えてみたら当時高校生の私が、27年も経てスター・ウォーズの完結編を観ることになるなど、思いもしなかったものです。現代のようなスピード化社会において、構想の壮大さだけにおいても賞賛に値するものです。全てが繋がる環のようという点においても、観ていてワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」を想起してしまいました。ダース・ベイダー誕生のあたりで彼のテーマが流れるなど、示導動機的な音楽の使い方をしています。思わず「剣の動機」を思い出したりして・・・


当時のパンフレットに確か「懐かしい(ノスタルジーを感じる)未来」というフレーズがあったと思います。今回も描かた映像空間は極めてSF的ですが妙に既視感ある風景として描かれている点には驚きます。27年前の映画を思い出すからでしょうか。映画の最初から最後まで、どこのシーンを取っても完璧な映像で、ヲタク的に「語られる」内容を持っている映画です。その意味からもシリーズ中の傑作のひとつと言って間違いないでしょう。


あまりにも楽天的過ぎるな感想ですが、深いことや難しいことは考えずに楽しむのが正解かと。ラストのタトゥイーン(実際はチュニジア)に昇る二つの太陽は、ルークとレイアを示唆し、物語の終焉と新たなる始まりを表していて、まさに象徴的でありました。

2005年7月8日金曜日

工藤重典&福田進一/ピアソラ:タンゴの歴史

工藤さんと福田のデュオによるタンゴの歴史は1991年の録音。工藤さんと福田さんのデュオはこれが3枚目のもので、ライナーによるとこの作品(タンゴの歴史)を日本で流行らせた仕掛人であるらしく。久しぶりに聴いてみての印象は「さすがに工藤さんのフルートは洒落ていて上手いなあ」というもの。


工藤&福田◎黄金のデュオ3

    ①花を分ける(ヴィラ=ロボス)②フルートとギターのためのソナチネ(ニャタリ)③アリア~ブラジル風バッハ第5番より(ヴィラ=ロボス)④サウダージ第3番(ディアンス)⑤コルコヴァード(ミヨー)⑥タンゴの歴史(ピアソラ)⑦愛の歌~映画「緑の館」より(ヴィラ=ロボス)

  • 工藤重典(fl) 福田進一(g)
  • 1991年11月
  • 日本ビクター VICC-93

高木さんのようなアクや押しはあまり強くはないのですが、細かなフレーズに成熟した味のようなものが感じられます。装飾の付け方もフリルのような丁寧さで、ブラジル風というよりフランス風とでもいうような上品さや優雅さを感じます。工藤さんならではでしょうか。美しさや洗練された感じだけではなくキレも極めて鋭く、最後の4目の「現代のコンサート」など流石といった表現力。

もっとも「タンゴ」に流れる血とか太陽とか土臭さみたいなもの、身体に沁みこんでいる情熱とリズム、みたいな感覚を求めるならば、ちょっと綺麗にまとまり過ぎているという気がしないではありません。高木さんのタンゴの歴史と比べてみて、新ためて音楽の目指した方向性はまるで違っているなと思った次第。どちらが好きかは趣味のモンダイでしょうか。

ところで久しぶりにこのCDを取り出して聴いたのですが、CDは工藤さんの直筆サイン入りでした。コンサート会場でサインしてもらったのですね・・・(覚えてなかった)

2005年7月6日水曜日

高木綾子/ピアソラ:タンゴの歴史



タンゴの歴史はアストル・ピアソラによるフルートとギターの定番的な作品ですが、このアルバムでの高木さんの演奏には、これまたたまげてしまいました。彼女の演奏の芯の強さとスピード感、それに思い切りの良さが加わって、女性が吹いているとは到底思えない演奏です。他の人の実演でも何度かこの曲に接していますが(誰の演奏かは失念)、こんなタンゴの歴史は初めて聴きました。


「Bordel1900」の出だしからして、ザックっとした切り口で鮮やかです。ほとんどフルートの限界近いまでに吹き込まれ伸ばされた音の効果ときたら、あいた口がふさがりません。「Nightclub1960」での特殊奏法とバラードの部分の緩急強弱自在の鮮やかな対比の見事さ。ピアソラに強烈な高木節を乗っけたといったところでしょうか、人によっては好みが分かれるかもしれませんね。


それでも人を惹きつける何かがある演奏であることには間違いなく、ライナー・ノーツに福田さんが若さに溢れた明快さ、ある意味で音楽に対する動物的な本能を併せ持っていると書かれていることに素直に頷いてしまいます。時に荒々しいまでのノリは凄みさえ感じます。


もっとも、全面的に彼女の演奏を肯定するわけではありません。素人が何を書くかという気もしますが、素早いタンギングでのキレやトーンの膨らませ方に気になるところもあるのですが、まあそれがどしたというレベルではあります。



高木綾子 福田進一/海へ

②タンゴの歴史(ピアソラ)

高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000





2005年7月2日土曜日

高木綾子/イベール:間奏曲


高木綾子さんのイベールの間奏曲を聴いていて、驚いてしまいました。あれ?この曲ってこんなにもスピード感溢れたゾクゾクするような曲だったかしらと。で、この曲の印象が誰の演奏で刷り込まれたのかと、家の少ないアルバムを探してみたら、何とこれがマルセル・モイーズの演奏でした(>それしか持ってないのかよ・・・)。

フルートの神様とも称されるモイーズの余り飾り気のないながらも一本筋の通った音と、現代風な高木さんの演奏を比べることには若干の抵抗を感じるものの、この二つの演奏から感じる印象は全く違ったものでありました。(>だから、比べる対象が違うって・・・)

福田さんのギターもなかなか激しいのですが、それ以上に彼女の圧倒的な技量に裏付けられたスピード感、少しオーバー目な抑揚は、追い立てられるかのような切なさと儚さと美しさを秘めて、キラキラと走り抜けます。冒頭の細かな音符の部分の素晴らしいこと。

スペイン風な曲調にアンニュイな抒情も加わり、たった3分11秒の演奏ですが心の中に一陣の風が颯爽と吹き抜けたかのような演奏です。


高木綾子 福田進一/海へ

⑤間奏曲(イベール)
高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000