2005年10月31日月曜日

iPodにいれたもの


iPodは20GB版を購入しましたので、当面は容量を余り気にせずにどんどんiPodに音源を入れることができます。軽さや携帯性の点からnanoなどのメモリタイプにしようかと迷ったのですが、今となっては2GBを軽く超えるデータが入っていますのでHD版で正解でありました。



先にも書いたように、外でじっくりと音楽を「鑑賞」するという目的ではiPodは全く不適ですから、交響曲や協奏曲など1楽章が20分以上あるような曲を入れることはハナから止めにし、普段あまり繰り返して聴くことのない曲をひたすら入れまくっています。


iPodに入れた曲は以下。こんなに沢山の音源を入れてもまだまだ余裕です(^^)。なんだかiPodに入れることに意義を感じていたりして。iioさんの「録音ジャンキー」に通ずるものがあるな。



  • ビーバー:ヴァイオリン・ソナタ集(寺神戸亮)
  • バッハ:インヴェンションとシンフォニア(シフ)
  • バッハ:ゴールドベルク変奏曲(シフ)
  • バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1、2(アファナシエフ)
  • バッハ:イギリス組曲(シフ)
  • バッハ:フランス組曲(シフ)
  • バッハ:フランス組曲(レオンハルト)
  • バッハ:ヴァイオリン協奏曲(ハーン)
  • バッハ:無伴奏ヴァイオリン(ハーン)
  • モーツアルト:ピアノソナタ集(インマゼール)
  • モーツアルト:ピアノ協奏曲第9番、第24番(田部京子)
  • モーツアルト:レクイエム(ガーディナー)
  • モーツアルト:コジ・ファン・トゥッテ全曲(ベーム)
  • モーツアルト:フィガロの結婚全曲(ジュリーニ)
  • シューマン:リーダークライス、女の愛と生涯(シュワルツコップ)
  • シューマン:クライスレリアーナほか(キーシン)
  • フォーレ:レクイエム(ガーディナー)
  • オペラ・アリア集:(カラス)
  • プッチーニ:ソプラノ・アリア集(ゲオルギュー)
  • ラフマニノフ:プレヴィン&アシュケナージの全集より交響曲、協奏曲を除いた全て
  • ヴェルディ:椿姫全曲(C.クライバー)
  • ヴェルディ:オペラ名場面集(シノーポリ、クーベリック、セラフィン、アバド)
  • ワーグナー:指環名場面集(バレンボイム)
  • カプースチン:24の変奏曲とフーガ(カプースチン)
  • カプースチン:ピアノ曲集(アムラン)
  • ピアソラ他:(福田進一&工藤重典)
  • 武満徹:森の中で、海へほか(荘村清志&金昌国)
  • Bjork:Greatest Hits
  • Black Eyed Peas:Monkey Business


最後の2つはiTMSで購入したもの。サザンとか平井堅とかの音源もあったので、最初は入れていたのですがガラぢゃないし、実のところ全く聴かないので早々にはずしてしまいました。

2005年10月30日日曜日

iPodのつかいみち

鎌倉スイス日記で「iPodのビデオ・・・要るの?」とのエントリ。容量が増え、かつ薄型になって軽くなるのは歓迎ですが、私も用途としてはビデオは要らないなと。写真機能でさえほとんど使っていない。というのも、iTMSを通してネットから音楽を購入せずに、ひたすら自分の貧弱なライブラリを、せっせとiPodに保存しているだけだからですが。おそらくAppleは、こういう「閉ざされた」使い方は歓迎想定していないのだろう。どんどんネットから音楽やビデオクリップを買えということか。


iPodは常に持ち歩くようになって改めて気付いたのですが、クラシックを聴くという点においては地下鉄や街中は携帯音楽プレーヤーがほとんど使い物にならない。あたりの騒音が凄まじすぎるのです。道路騒音、地下鉄の走行音、不必要な社内あるいはホームの放送音、ほとんど意味不明の街頭あるいは店内BGMなどなど・・・、こんなにもあたりは騒音にまみれているのかと。逆にこれほど多くの騒音を「無視」できるように慣らされているのだなと。


インナーイヤ方の遮音性能の高い高価なイヤホンや、ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンも発売されていますが、それを購入する前に、iPod付属の貧弱なイヤホンをしっかり耳穴に押し付け、なおかつ掌で耳全体を覆い、どの程度外部騒音が遮蔽されるか試してみました。結果としては良好な音楽聴取環境など全く得られないことに気付きました。
静かな場所に比べ、暗騒音のレベルの高いところではボリュームをかなり上げねばならないことを考えると、どこでもBGMを実現することの代償に軽い難聴への道を選択することには踏み切れません。


ということで、iPodはそぞろ歩きや夜の残業、あるいは神経が高ぶって眠れない時の子守唄代わりとなり、通勤苦を和らげる一助にはならなかったのでした。

2005年10月28日金曜日

ユメ見るオヤジ?

先に紹介した三浦展氏の「下流社会」を読んでから、iioさんのclassicaで紹介されている「オヤジ国憲法でいこう!」(しりあがり寿+祖父江慎著/理論社)についてのエントリを読むと、なるほどなと思ってしまいます。(>読んではいないし読まないだろうが)



iioさんは最後にこれってだれが読む本なんだろと書きますが、それは、外見上はとっくに「オヤジ」世代になっているのに、未だに若者の考え方を根っこに引きずっている人が、「諦め」を得るために読む本なんだろうなと。特に個性の件は、(私は余り好きではありませんが)養老孟司氏の著書でも指摘されている通なのかなと想像。


三浦氏は先の本で、「個性」「自分らしさ」というものは高度成長期の団塊世代が実現しようとした上昇志向にマッチングしたものであったが、その子供である団塊ジュニア世代においては、逆に「自分らしさ」を求めるがあまり社会的に自立しにくい下流意識の若者(ニートとかフリーター)を生み出したとする指摘は、あまりにストレートすぎる故に胡散臭さを感じるものの、首肯してしまいたい論理ではあります。


「オヤジ」世代においてもフリーターみたいな夢や妄想を抱いている人もいないわけではなく、朝のケイザイシンブンに愚劣な性愛小説が載る時代ですから、こんな本が書かれる理由も(>繰り返すが読んでない)あるのかもしれません。

三浦展:「下流社会 新たな階層集団の出現」


三浦展氏による、最近の階層化社会に関する指摘を総括するような本です。三浦氏はパルコなどで長くマーケティング活動を行ってきた人ですので、最近の階層化についても年代別・性別のセグメンテーションを行い、それぞれのセグメントについて様々な角度から嗜好や結婚観、消費行動、価値観などの変化を示すことで現在の日本、特に最近の若者の姿を炙り出すことに成功しています。


「あとがき」で三浦氏も書いているように、本書に示されたデータはサンプル数が少なく、統計学的にも優位性に乏しい(P.283)とは思いますが、それでも昨今の時代雰囲気を見事に数字で見せている点、秀逸といえましょうか。逆に時代雰囲気に合うようにデータを選択したという批判もあるかもしれませんが、そんなことをしても何の得にもなりませんから、ここは素直に数字を読み取る方が良いのでしょう。


本書の末尾には「下流社会」を考えるためとして、最近の国内文献リストがずらりと並んでいます。そのほとんどが2001年以降に書かれた本で、21世紀の日本は新たな階層化社会の入口(あるいは岐路)にさしかかっていることを改めて感じさせます。


本書の「はじめに」三浦氏は、


単にものの所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか。それは意欲である。中流であることに対する意欲のない人、そして中流から降りる人、あるいは落ちる人、それが「下流」だ。(P.6)


と「下流」を定義します。ここに氏独特の対象に対するアプローチの仕方が現れているようです。マーケティングは「割切り」と「規定」や「線引き」が重要で、ファジーで曖昧な要素とは余り馴染まないものなのかもしれない、などと余計なことを考えてしまいました。


三浦氏が本書で延々と説明している内容を読みながら、読者は自分がどこにカテゴライズされているかを知り、そこで規定されたセグメントの性格と自分考えや価値観に一致や不一致を見出すことになります。私の場合は広義の「新人類世代」にあたりますが、そのものズバリであったり違う世代の価値観を有していたりと、まあイロイロでした。


自分のことはさておき、本書で面白いのは団塊世代と団塊ジュニア世代を比較した場合の価値観の逆転現象(あるいは崩壊)ですが、日本を今のような姿に内面的にも外面的にもしてしまったのは、おそらくは団塊世代に一因があり、たとえば


団塊ジュニア女性の子供が成人したとき、今まさに拡大している格差がさらに拡大し、固定化し、階層社会の現実をまざまざと見せつけられることになるのではないかと懸念される(第7章 「下流」の性格、食生活、教育観 P.235)


と発する警告は、いまを生きている私たちが将来を規定するという意味において、三浦氏の論理を受け入れると拒否するとに関わらず、軽んじて受け止めるべき問題ではないと思います。


もっとも、「おわりに-下流社会を防ぐための「機会悪平等」」の章は、一気に論理を飛躍させており、ちょっといただけないと思うのですが、これは三浦氏ひとつの思考パターンなんでしょうか。

2005年10月26日水曜日

川原乞食としての歌舞伎俳優

現在の歌舞伎役者は、先に書いた鶴屋南北の世界に生きた「川原乞食」などと称される身分とは対極的な世界を獲得しています。歌舞伎俳優で成功している方々は、社会的な名声も富も有している存在であり、かつそれを維持しつづける家柄であるでしょう。


ここで思い出したのは渡辺保氏の「歌舞伎」(ちくま文芸文庫)にあった昭和26年の歌右衛門襲名披露における吉右衛門の「口上」のことです。渡辺氏にとって、この襲名披露における吉右衛門の口上が忘れがたいもので、この口上にこそ「口上」の原点があると書いています。


口上の間役者は観客に対しそれこそ平蜘蛛のように平伏するのが普通です。しかし、渡辺氏は吉右衛門の平伏を、他の役者のように形式的なものではなく、古い役者としての血がこういう姿勢をとらせているのだとし、それを過去の観客と歌舞伎役者の関係の差(中略)その伝統の記憶が吉右衛門の身体によみがえってくるからであろうと書いています。更に、吉右衛門の「一座高こうはござりますれども」の言葉には本来はお客様とは同じ座に座ることもできない身分の私どもがという卑下が含まれていたと書いています。そして、


歌舞伎役者はあきらかに深い階級的な差別のなかに生きている。これが「口上」の原点であることは間違いない。

としています。歌舞伎の本当のエネルギーとは差別される人間の自持の中にあるのだと。


口上は今年の中村勘三郎の襲名披露で実際に見ましたが、ずらりと並んだ裃を付けた俳優たちはひたすら平伏しており、襲名する勘三郎も平伏して「口上」を述べていたのが、口上を始めてみる目に印象的でした。この平伏に渡辺氏の示す意味が込められていたとは、その時は知る由もありません。


今年1月以来歌舞伎を見始め、渡辺氏が感じている歌舞伎世界は、その内実から大きく変質しているのではなかろうかと思う瞬間がないとは言えません。今更歌舞伎俳優の身分を低くしろとか、「乾燥した高台に住む上品な人々のための、お上品な芝居になり果ててしまっ(「アースダイバー」中沢新一 P.46)た歌舞伎をもとの姿へというのは実情にそぐう主張ではないでしょう。


だとするならば、差別をのりこえる武器であった「愛嬌」も、歌舞伎の魅力も、その意味するところはいやがうえにも既に反転しているのかもしれません。

2005年10月25日火曜日

中沢新一:「アースダイバー」 2

中沢新一の「アースダイバー」の中に歌舞伎と鶴谷南北に関する興味深い記述がありますので拾っておきましょう。


本書は縄文時代の痕跡が、長く東京(江戸)の精神世界の根底に影響を与え続けているという仮設が書かれています。現在の東京の地図に洪積層と沖積層という「固い」地盤と「湿った」地盤で示される地形を重ねることで、縄文当時の地形が生み出していた土地の性格と東京の成り立ちが、密接に結びついていることを示した点で画期的でありました。



そこで新宿歌舞伎町です。「歌舞伎町」の名前の由来が、戦後に新宿に歌舞伎座を誘致しようということから名付けられた事は、何かで知ってはいましたが、


もともと歌舞伎は湿地を住処とするような人々によって、守り育てられてきた芸能ではないか。(中略)歌舞伎を乾いた土地から、湿った土地へ取り戻そう。それは、歌舞伎という芸能にとっても、生命復活のきっかけをもたらすに違いない。(P.46)


という気運が当時盛り上がっていたのだと中沢氏は書いています。ご存知の通り、歌舞伎は江戸庶民の娯楽ですし、題材も廓(遊郭)ものが多い。そういう意味からは中沢氏の言うように「湿った」土地を基盤とする芸能であるという主張は、何となく納得してしまいます。


その後に中沢氏は鶴谷南北の「四谷怪談」について触れ、これを湿地からの逆襲という言葉で表現してみせています。四谷怪談の「お岩」さんは、史実によると決して怪談に書かれたような不幸な女性ではなく、市民生活の幸福の象徴として「お岩稲荷」に祀られています。そして「お岩稲荷」のある場所は四谷の高台(「乾いた場所」)に今も存在しています。


一方鶴屋南北の生きていた世界は「湿った土地」の「湿った社会」であり、歌舞伎役者たちは「川原乞食」とさえ呼ばれ社会的には低い身分でした。鶴谷南北は「お岩稲荷」の「お岩」という名前と、当時流行していた柳亭種彦の「近世怪談霜夜星」の主人公「お沢」に着想を得、「乾いた土地」の象徴であった「お岩」を「湿った土地」につながりをもつようなドロドロとした世界に引き摺り下ろす物語を書いたというのです。


鶴谷南北の心の中で、湿地帯の想像力がむくむくと頭をもたげだした。高台に住む幸福な武家の主婦であったという、その女性の名前は「お岩」。その名前によって、彼女は崖下の湿地帯に、秘密の通路でつながっているはずだ。お岩というこの女性は、お沢の同類でなければならない。暗い大地の底で死霊の世界につながりを持っているお岩は、なにかの原因で、ふためと見られない醜い容貌に成り果てる必要がある・・・(P.56)


かように鶴屋南北が考えたかは定かではありませんが、「乾いた土地」と「湿った土地」の絶妙な対立とバランス。これは、中沢氏の文章とアースダイバーの地図を片手に、場所を思い浮かべたり、あるいは実際に訪れるならば、夜陰に忍び寄る霧のように体のなかに染み込むように感じられる瞬間があるかもしれません。

2005年10月23日日曜日

中沢新一:「アースダイバー」

中沢新一氏による「アースダイバー」は、知的好奇心を鋭くくすぐる意味において、東京に在住する人あるいは東京に極めて感心のある人にとって、ワクワクするような本であると思います。


この本が「週刊現代」の連載であったという事実すらもはや異次元の事実(*)として感じられるのですが、本書からは東京の一皮下に隠されていた縄文時代の地形や文化が、今なお東京の深層に影響しているのではないかと教えてくれています。


(*)「週刊現代」にもときどき興味深い記事が掲載されることはありますが、まず購入することはない種類の雑誌ですから。







実は最初は単なる「地域探索もの」かと思ったのですが、宗教学者の中沢氏ですから、ありきたりな考古学的、民俗学的なアプローチを超えて資本主義に対抗すべきパラダイムでさえ提示しているようです。


天皇制も形骸化し宗教はとっくに効力を失い、高度に発達した資本主義(キャピタリズム)の様相を呈している「神の国」日本。その中心たる東京(江戸)の成立や都市住人の精神的なもところにも縄文時代の痕跡が認められる・・・。これだけ読むと何をバカなと思うでしょう。しかし本書を読み進めるうちに、いつしか中沢氏の牽強付会な論理や独特の視点(思い込み)が強いな説得力を持って読者に迫ってくるから不思議です。


何故本書が売れているのでしょう。おそらくは、かつて挫折した経験のある「中沢新一」の本であるということから手に取った人は多いのではと思います。かくいう私もその一人。意外に平易な文章を読み進めるに従い、読者は自らの内に秘められていた合理主義では割り切れない何か(もしかすると野生)を再認識しはじめます。中沢氏の指摘するのは土地の持つ霊性や地形の成り立ちであったりするのですが、一枚一枚ベールをはぐように謎が解き明かされるてゆく鮮やかさには感嘆せざるを得ません。


さらには息詰まるような資本主義的日常の裏側に、それとは対極的な縄文的世界が存在しているという裏切に近い快感と哄笑を嗅ぎ取ったとき、モヤモヤとした閉塞感を打ち破るポッカリとした穴を見つける思いがするかもしれません。


かつてロラン・バルトが『表層の帝国』で「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と指摘したのは1970年の頃。私はバルトなど読んだことありませんが、まさに今も東京は空虚の中心をグルグル回っているだけであるとするならば、こんな皮肉なことはないのですが。

林信吾:「しのびよるネオ階級化社会」


題名に吊られて購入してしまった本です。不勉強にして林信吾氏がどのような方なのか全く知りませんが、この程度の内容が「新書」として740円で売られているということに疑問を感じないでもありません。平凡社新書はせいぜい、このレベルということでしょうか。


と辛辣な事を書いてしまいましたが、だって題名が「しのびよるネオ階級化社会~"イギリス化"する日本の格差」などという大そうな割に、内容ときたら、せいぜいが「ぼくの十年間にわたるイギリス滞在経験から考えた最近の日本」くらいのものでしかないからです。


視点は極めて個人的経験に依拠しており、たとえば森永卓郎氏の「年収300万円時代を生き抜く経済学」などを森永氏の論の立て方はてんで雑で、説得力に欠ける(P.200)と書いたりするのですが、そっくりそれは林氏の本書に返してあげたいくらいです。



林氏の指摘する「最近の日本は機会不平等の傾向が強くなってきている」「特に教育機の不平等は階層の固定化を招くこととに繋がり、それは日本の活力を奪う可能性がある」ということは、多くの人が指摘していることです。この「固定化された階層」が「イギリス型階級社会」に似ているとしている点のみが氏独自の視点と言えるでしょうか。


それでも、本書を読んでいくらか考えるべき点はあるようです。たとえば「中流意識の崩壊」ということについても、努力次第で誰もが享受できると信じられていた成長=幸福という果実が実りなきものであると認識され始めた故だとするならば、社会全体が感じ始めている無力感の根は深いと改めて思います。


どうやら林氏が一番書きたかったのは「教育機会の不平等」ということらしく、そこから生まれる固定化された階層の社会の底辺に押し込められた人たちは、のんびり生きるのではなく、単に向上心を持たないその日暮らしになると指摘し、


頑張っても大したものは得られない、という社会には、未来はない。(P.208)


と主張します。


しかし、それでは問う「大したもの」とは何なのかと。森永氏の「年収300万円生活」に対する胡散臭さなどはさておいても、結局問われるのは個人の生活であり人生であり幸福論に行き着くはずで、「階級社会」を選択するか否かも、政治家や資本的強者が仕向けているわけではなく、もしかすると「弱者」と規定されつつある、まさに私たちの日々のあり様がそれを決定付けているのかもしれません。

2005年10月17日月曜日

i-Podについて

i-Pod nanoやビデオi-Podが発売され、携帯型音楽プレーヤーはAppleの一人勝ち状態を呈し始めましたが、私もついに耐え切れなくなって数週間前にi-Pod 20GBを購入してしまいました。買った直後にビデオi-Podの発表があり、ちょっと悔しい思いです。HD版のi-Pod-photoがなくなり機種統一がなされたのが今年6月のことでしたから、あと半年くらいは新製品が発売されることはあるまいと予想して購入に踏み切ったのですが、読みは見事にはずれてしまいました。


それでもi-Podの魅力は予想以上で結構満足しています。新しいi-Podは厚さも重さもかなり改善されているようですが、旧版であってもポケットに入れて邪魔になるほどではありません。携帯することが苦になりませんからAppleのうたうように膨大な音楽ファイルを持ち歩くことができるようになったわけです。今更何をと思うでしょうが、「膨大な音楽ファイルを持ち歩く」ということはやはり画期的なことで、というのもi-Podを買って以来、音楽の聴き方が変わってしまったからです。


最初にi-Podに入れたのは、バッハやラフマニノフなどのピアノ曲とオペラでした。普段あまり聴く機会の少ない曲を入れたのですが、逆にそれらの曲の魅力を再発見したとともに、以前はクラシックを断片的に聴くことは「邪道」であると思っていたのに、それが「普通」のことになってしまったのです。


オペラはそれほどソフトがあるわけではないので、とりあえずクライバーの「椿姫」とベームの「コジ・ファン・トゥッテ」の二つを入れたのですが、i-Tunesによる再生回数を参照すると、多いもので10回以上繰り返して聴いています。静かで時間のある場所では、第2幕だけ聴こうかとか気軽に曲を選べますし、乗らなければ別の曲にジャンプするのも苦にならない。


これがCDやMD(持ってないけど)だと、いちいちディスクを入れ替えねばならず、かなり面倒、というか、そういう聴き方はやはり出来ないと思うのでした。

2005年10月16日日曜日

[歌舞伎メモ]歌舞伎の力

歌舞伎の力と魅力について考える


  • 現代に生きる伝統芸能、その中に息づく日本の歴史と文化。
  • 昔の風が現代と本質的に変わらないという心情に対する共感と懐かしさ
  • 「型」を発見することのマニアックな感心、楽しみ、深さ
  • 歌舞伎舞台の持つダイナミズム
  • 感覚と役者のライブな場での交流と相互に高め合う劇空間、場の共有、親近感。勘三郎の復活させる「芝居小屋」感覚。
  • パターンの繰り返しによる安心と快楽、芸の高まり
  • 「分かっていることを演じる」ことの新しさ
  • 芝居小屋独特のざわめきと興奮、クラシック会場の空間とは異質であること。歌舞伎は
    「芸術」ではない、「芸」である
  • 幕間に食べる、劇場で売られる甘み菓子
  • 弁当を食べながらの観劇。一方でNHKホール(N響定期の空間)との類似性。客層のせいか?→時間と金のある層、高齢者と女性
  • どの年代でも女性が消費と文化の担い手であるということ、男性は何をやっているのか!


2005年10月11日火曜日

歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎

歌舞伎座で芸術祭十月大歌舞伎の夜の部を観てきました


演目は田之助、左團次、菊五郎などによる「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき) 引窓」、玉三郎の人形振りが話題の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」、そして今年12月に坂田藤十郎を襲名予定の鴈治郎による「心中天網島 河庄」です。


あらかじめ渡辺保氏の歌舞伎評と、一閑堂のぽん太さんのエントリをじっくり読んでから望みましたので充分楽しん観ることができました。


勘三郎襲名披露の狂騒の頃は、前売券も発売と同時に売切れでしたが、この頃はネットでも比較的容易に席を確保できます。一幕見で3本も続けて見てしまうと、3階席などの廉価な席を予約した方が結局は待ち時間などを考えるとリーゾナブルなので、この頃は予約してから観に行っています。それに、甘党なら(おそらく)クラクラしてしまうであろう歌舞伎座内の桃源郷を彷徨う楽しみが増えますから、断然こちらの方がお得感がありますね。





ということで感想です。まずは「引窓」から。ぽん太さんのエントリでは実直な生活感のようなものが出ないと、あたら空疎になる芝居だとあらためて感じた。と評価は高くない様子。一方で渡辺氏は、左団次の濡髪、団蔵の平岡丹平、権十郎の三原伝蔵まで。そのアンサンブルによって今月歌舞伎座一番のみものであるとえらい褒め様。私の感想がどちらに傾くか自分でも興味津々で観たのですが、結果としては予想以上に楽しんでいる自分を見つけてしまうことになりました。


「引窓」は、継子と実子と母親、そして継子の妻四人による家庭劇なのですが、母お幸の田之助が良い出来です。実子を思う母の痛ましいほどの気持ちが客席までビシビシ伝わって来ます。特に犯罪人として追われている実子の絵姿を買いたいと、なけなしのお金を差し出す場面は、(渡辺氏も指摘していますが)不覚にも涙がこぼれます。それほどに実に入っている。ときとして嘆きが大げさ過ぎるキライもありましたしたが、それを割り引いてもまず、田之助といったところでしょうか。


次に良いのは菊五郎演ずる継子の南与兵衛。町人から武士になった喜びの表現のうれしさ、母の不穏な様子に訝る雰囲気、手水鉢に映った長五郎を見つけてからすべてを悟るに至るきまりの見事さ。


水鏡で羽織を脱ぎかけて右足を伸ばしたきまりが大きく、お早とからんで三味線につく三度のきまり、すなわち右手に捕縄、左手に十手で中央に立つきまり、つづいてウラ見得、口に十手をくわえて捕縄をさばいてのツケ入りの見得が味が深く、「狐川を左にとり」を二階の濡髪に聞かせるハラもキッパリ

と渡辺氏の劇評にありますが、本当にこの一連のキマリ方ときたら惚れ惚れするほどで、思わずボゥっとなってしまったほどです。ここですよ、歌舞伎の「快楽」と呼べる瞬間は、引用していてまたボゥっとなってしまいます。観ていて、このキマリ方は「盛綱陣屋」における首実検の場面に似ていると思いました。勘三郎演ずる盛綱のキマリも見事でしたが、鮮やかさの点ではこちらの方が印象深いか。


実子を演ずる長五郎の田之助は、継子の南与兵衛と対比することで彼の実像が浮かび上がってくる。逆に言えばそれほどに菊五郎の継子としての矜持と演技が見事ということか。田之助は、なりはでかい相撲取りでありながら、母にすがり義兄弟の情けを受ける立場。終わり方も菊五郎がかっこよすぎる。


魁春のお早もいい味が出ています。与兵衛が武士に取り立てられたときの嬉嬉とした喜びようのかわいらしく、いじらしいこと。その喜びがあるから、その後の母をかばって、せっかくの幸福まで犠牲にしようとする心根が映える。


ということで、「野崎村」以来に全てにおいてハマった芝居でした。


次は玉三郎の「日高川入相花王」です。渡辺氏の劇評を見てみましょう。


玉三郎には「櫓のお七」の人形振りという傑作があるので大いに期待したが、人形振りの振りが地味でつまらず、お七のようにはいかなかった。川の中へ入って蛇体になるところも演出が一工夫足りない。


これだけです。人形振りはいただけませんでしたか? 私には初めて観る演目でしたから、菊之助の人形遣い役と玉三郎の人形振りはそれなりに面白かったのですが。


それにしても玉三郎の踊りは優美です。人形振りというからもっとギクシャクした振りを期待していたのですが、いちいち可憐で美しすぎます。美しすぎる故になのでしょうか、蛇体にまで変じるような妄念が私には今ひとつ感じられません。だから川に身を投じてからの演技にも、何か空々しさを感じてしまう・・・。ここの感じ方も、ぽん太さんとまるで逆。まったく、音楽にしても芝居にしても人によって感じ方は全然違うものだなと。(>だから劇評は「意味がない」のではなく「面白い」のです)

対岸に辿り付いて疲労のために呆と立ち尽くす姿は、おそらくこの芝居の中の一番の出来だっと思います。黒幕が切って落とされ、一面明るくなった舞台は、時間の経過とともに、彼女の妄念さえも浄化していたのではないかと一瞬勘違いさせる程でありました。


最後は鴈治郎の「河庄」です。今月のガイド本に演劇評論家の水落潔による「三代の頬かむり」と題する解説と写真が載っているのがうれしいです。これで渡辺氏の劇評にあった「(頬かむりの中に)日本一の顔」という意味が分かりました。それほどまでの鴈治郎にとっての「河庄」なんです。


これを演じて藤十郎に、と思っていましたのでこんなに嬉しいことはありません

とは鴈治郎の言葉。


しかし、私はこの「河庄」を真に楽しむことができませんでした。何故なら治兵衛の、いや鴈治郎の花道の出が3階席からでは全く見えないんですよっ!! これを見ずして何の「河庄」と言えましょうぞ。しかも、少ない歌舞伎経験から、女形としては随一でないかと思っている雀右衛門の台詞が、小さくて聞き取れないっ!! これでは「河庄」の根っこの半分くらいを削ぎ落とされたような感覚。無念っ!!


それにしても雀右衛門、大正9年生(1920年)まれですよ。それなのに漂う色香、惚れ惚れするほどの艶やかさ、脇に徹しているときの微動だにしない姿勢、舞台に居るだけで「絵」になる。足腰がかなり弱っているご様子ですが、出来る限り彼の芸に接していたいものです。


で肝心の鴈治郎、これがなかなか良いのです。先月の「植木屋」といい「河庄」といい、上方狂言は素直に楽しめます、余計なことをしなくてもそれだけで充分に面白い。しんみりした部分とツッコミのバランスは、まさに上方なのでしょうか。「じゃらじゃらした」雰囲気と良く言われますが、成る程なと頷いてしまいます。


日用帳のfoujitaさんも書かれていますが、最後の3人で絵になるところが無類というのには同感。今回の歌舞伎は「絵心」が充分に満たされる舞台でした。もう一度観なくてはということにも激しく同感なのですが、しかし・・・爆発的な忙しさの控えている10月にこの幸福な時間は再び訪れるのでしょうか・・・?

追記 10/12


歌舞伎系ブログを読んでいたら、中村雀右衛門が腰痛のためしばらく休演とのこと。ついこの間の歌舞伎座でも動きが今ひとつでしたし、立ち上がるときに介添えをそっと周りの人がするほどでしたから、大丈夫かと案じてはいたのですが。一日も早く良くなることを祈っております。

2005年10月10日月曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」 その2

198頁程の薄い本なのですが、業務多忙によりやっと読み終えました。


以前も触れたようにこの本が発行されてから50年以上が経つというのに、歌舞伎をめぐる状況は当時のありようと表面上は変化していないのではないか、というくらいに「現代」に置き換えても読むことができるものでした。




歌舞伎ファンが客席から「なな代目」とか「松音屋」とかいう片言を叫んでいるのをきくたびに、わたくしは、果たしてこれが歌舞伎が栄えていることになるのかと疑わずにはいられません。あのような人気は、過去のそれとは違っています。(「第七話 その芸術性」P.166)


現代でこそちょっとした「歌舞伎ブーム」を呈していると時々言われますが、これとて戸板氏が見ていた50年前の歌舞伎とは全く異なったものであるのだろうと思うのです。その時々で変わっていく歌舞伎に対し歌舞伎の「美」を準拠とした演技術に反抗する俳優が、およそ三十年に一人位ずつ出ている(P.166)と書いています。歌舞伎俳優について不勉強ですが、例えば中村勘三郎なども、その一人に挙げられるのでしょうか。


戸板氏は歌舞伎の台本や演技を現代劇のリアリズムから批判することは意味がなく、つまりは歌舞伎の「台本」は文学ではなく、役者重視の発想の元に役者を際立たせるため、あるいはそこに現れる美を表出するためにあると説いています。私自身はまだ役者の好みにまで言及できる程に歌舞伎に接している訳ではないものの、舞台で俳優が「きまった」ときの快感は例えようもないもので、ツケが高らかに打ち鳴らされたときの、笑みさえこぼれてしまうような瞬間が見たくて歌舞伎座まで脚を運んでいるという気もしています。


予定調和的な陳腐な筋書きを愚であるとする人には、(戸板氏も書いているように)おそらく歌舞伎の面白さをいくら説明しても無駄なことなのかもしれません。逆に歌舞伎の持つ崩してはならない「美」というものを捨て去るならば、それはその時点で歌舞伎であることを放棄しているのかもしれません。


脚本がナンセンスであるのに、それを越えたところに歌舞伎の真価があるということで、ふと思い出したのはモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」です。あの莫迦げたダ・ポンテの戯曲にモーツアルトは信じられないほど美しい音楽を付与しました。今でこそダ・ポンテの戯曲の持つ現代性や深さが見直されていますが、当時は「戯曲」などどうでも良く、モーツアルトの妙なる音楽にこそ価値があったのかもしれません。ロマン派的な価値観の持ち主にとっては、ベートーベンのみならずワーグナーさえ「コジ」には否定的な批評を残してます。


歌舞伎の台本も、心理などを深読みすることができるものもありますが、そういうアプローチは本来的なものではないのでしょう。


六代目菊五郎などの持っていたリアルな演技は、実はそういう習練を隈なく経たのちに入っていた境地であることを知ってほしいと思います。

要するに、
伝統演劇の場合は、モーション(動作)を学んでいるだけで、エモーション(感動)が内奥から起こって来るのです。新劇の場合の、役への入り方と全く違うことを強調したいと思います。(「第四話 その演技」P.127)



この一文を読んでハッとしました。音楽の話題になってしまうのですが、これはバッハの音楽を演奏する時に似ているのではないかと思ったのです。バッハの時代は楽譜には強弱やアーティキュレーションなどの表示がありません。それをロマン的な演奏手法で演奏すると何だかバッハがバッハでなくなります。「楽譜に書かれたとおりに演奏すれば、おのずと音楽が立ち上がってくる、余計なことをするな」と何かの折に聞いたことを思い出しました。ちょっと脱線した余談ではありました。

2005年10月4日火曜日

戸板康ニ:「歌舞伎の話し」

戸板康ニの「歌舞伎の話し」(講談社学術文庫)を読み始めました。本書は1950年、戦後間もない頃に刊行された同名の書を文庫本化したものです。今から半世紀も前の本なのですが、戸板氏が歌舞伎に問いかけているものは、今でも充分に通用することに驚きを禁じえません。彼が問いかけているものとは即ち「現代文化における歌舞伎の位置」というものであり、では歌舞伎とは何なのかを「批評」「歴史」「役柄」「演技」「劇場」「脚本」「芸術性」「大衆性」から問い直しています。



日本の国の特有なものが次々と変貌してゆき、それに対する価値判断が刻々にかわってゆく現代において、歌舞伎についても何かしら定義をこの際下しておく必要があると思います。(「歌舞伎の話し」P.13)


戦後から5年を経た日本は、まさに激動のように変貌を遂げつつある時代であり、戸板氏が指摘するように、歌舞伎は古臭く敬遠されるものという印象が強かったのかもしれません。そして戸板氏は歌舞伎の「芸」について、当人の意識しないところに生れる不可測の何者かが生み出す成果に、すべてがかけられていると説明し


端的に歌舞伎の脚本を理会し、演出を研究し、演技を習練したというだけで、歌舞伎を(素人が)演じるなどということは、それがどのように努力が傾けられたものであっても、素人が演じたものは本ものの歌舞伎ではない(「同書」P.17)

とし、素人の演じる歌舞伎がどこまで行っても本ものにはなり得ないという宿命的な事実が歌舞伎にはあると断言しています。他の演劇や音楽などの芸術世界とは全く異なった要素があることを示唆してます。この感覚は非常に新鮮なものでありました。先に読んだ渡辺保氏の「歌舞伎」も、「芸」という題から本章を始めており、芸は単なる技術ではないと説明していたことを思い出します。


残念ながら歌舞伎を観ていて、私はまだ芸のもった奇跡であり、幻術である。幻術は底が知れずいかがわしい。(「歌舞伎」渡辺保 P.041)と渡辺氏が書くほどの芸には接したことがありません。それを「見る」までは、私の歌舞伎通いは続くのでしょうか。(それには、3階席以上の値段の席を入手しなくてはならないのでしょうが・・・)

2005年10月3日月曜日

HMVのペトレ

いつ来るのかと首を長くして待っているペトレの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ 全曲ですが、HMVサイトで確認してみたら、何と10月17日出荷に変更になっているではなですか! 注文したときは9月30日発送だったというのに。うーん、早く言って欲しかったです。


ということで仕方なく、今日はレオンハルトの「フランス組曲」を聴きながら外出でした。


立ち読み


本日は天気も良いので丸の内オアゾの丸善へ。丸山真男の「自己内対話」でも買おうと思っていたのだが生憎売り切れだった。こんなことならネット検索しておくべきだったと後悔。仕方ないので丸山解説本をいくつか斜め読み。丸山は最後まで「思想史家」としての立場を貫き、「思想家」「哲学者」ではなかったらしい。自分の語れる範囲の事を徹底的に研究することで、ひいては「思想」や「哲学」を語っていたという態度は、彼の音楽への接し方とも通ずると感じた。「ササラ型」「タコツボ型」ということと「執拗低音」というキーワードは、彼の中で通底する意識なのだと思う。晩年の「他者感覚」についての言及も鋭い。


その後、話題?の「原寸美術館 画家の手もとに迫る」(結城 昌子)をパラパラとめくる。その迫力には驚くばかり。ボス、ブリューゲルの絵は高校時代から凄いと思っていたが、原寸で眺めた時の凄まじさ。あるいはマネの圧倒的な筆さばき、モネやゴッホの狂気を感じる色の混沌。フェルメールの異空間。ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」の壮麗さ・・・、本当にこの企画には脱帽、今まで見えていなかったものが浮かび上がってくる。


しっかり堪能した後は渡辺保氏の「歌舞伎劇評」(朝日新聞社)を一通り眺める、すぐに読めてしまうので買うほどではなさそう。最後は「歌舞伎の話」(戸板康ニ)、「アースダイバー」(中沢新一)を購入して帰る。丸善は窓際に椅子とテーブルがあり非常に快適。


ということで、復帰の生存表明エントリ、本来ならば裏の話題でしたかな。