2005年11月28日月曜日

モーツァルト

昨日寝たのが3時頃、休日も仕事をしなくてはならないと思うのだが朝は思うように起きられない。目覚ましが鳴るのを止めてウトウト・・・、そういえばタワーレコードから頼んだものが届いていたな、と思い出したら、いてもたってもいられなくてガバリとはね起きる。注文していたのは内田光子のモーツアルト廉価版ほか。
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番|第23番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番|第24番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番|第26番「戴冠式」 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番|第27番 内田光子(p) ジェフリー・テイト指揮
  • 鬼才アファナシエフの軌跡2 アファナシエフ・プレイズ・モーツァルト
  • 鬼才アファナシエフの軌跡3 ベートーヴェン

早速iPodに内田さんのアルバム2枚分を入れて出勤。K.466とK.491を聴く、ああモーツアルトを聴くことのできる幸せよ。途中近くの古本屋で「モーツアルト」(岩波書店 ピーター・ゲイ著 高橋百合子訳)を見つけて思わず購入、地下鉄の中でつらつらと読み始める。著者はイエール大学の歴史学名誉教授、ヨーロッパ比較思想史を専門とし18世紀から20世紀にかけての文化史研究の第一人者らしい。この間読んだ「モーツアルト」(中央公論社 H.C.ロビンズ・ランドン著 石井宏訳)もモーツアルト研究の第一人者の書ではあったが、新書の内容のせいか総花的であまり面白い本ではなかった。こちらは読み物として割と面白そう、一気に読んでしまうのがちょっともったいない(というか、そんな時間ないんだってば)。仕事をしながら2枚分聴いてしまったので、帰宅してから残りの2枚もiPodに転送、K.467を聴き余りの美しさに涙しそうになる。

2005年11月20日日曜日

スヴェトラーノフ/レスピーギ:ローマ三部作






スヴェトラーノフ&ソ連国立響 ローマ三部作


  1. ローマの噴水
  2. ローマの松
  3. ローマの祭


  • スヴェトラーノフ(指揮) USSR State so.
  • Live at the Great Hall of the Moscow State 1980.2.30 Scribendum SC021


許光俊が「オレのクラシック」で残酷と野蛮と官能の恐るべき『ローマの祭り』としてベタ褒めの盤であります。


残酷と野蛮と官能の限りを尽くした音の酒池肉林と言うしかないこの演奏は、クラシック史上に残る名作である。これを聴かないでスヴェトラーノフを、いやオーケストラ演奏を語ることができないのは間違いないところだ。


とまで書いています。そうか、私は今までオーケストラ演奏を語る資格さえなかったのかとフカク反省し聴いてみたのですが、爆演であることは認めるものの許氏のような手放しの絶賛を与えることができません。



というのも、この演奏はチンケな再生装置で聴いてはダメですね。再生装置の処理限界を超えるのでしょうか、音の塊はダンゴ状態となって耳にぶち当たって砕けるだけ。金管の音(特にペットとかも)もどこか貧相に聴こえてしまう・・・。やはりホールでこの爆発的な音塊を全身で受け止めなくては、おそらくはこの演奏の真価を語ることはできないのだろうと、再びフカク悟ってしまいました。(>どんな演奏でもそうなのでしょうが)


それでもとりあえず気付いた事をメモしてきますしょう。「ローマの噴水」は爆演という点からはイマひとつ、繰り返して聴くほどの演奏とは思えず。しかし「ローマの松」の「カタコンブ付近の松」は低弦の支えの分厚さは凄く壮大な音楽を聴かせてくれます。金管は限界近くまで咆哮します。一方「ジャニコロの松」のような静かなところになると、ソロのまずさが耳に付く。抒情という点でもあまりイタリア的感傷は感じない。「アッピア街道の松」はさすがに凄まじいカタストロフを演出している。最初の出だしの重さと暗さは尋常ではない。ロシア陸軍が凍土を黙々と行進しているよう。しかし最後はモスクワかどこかに凱旋しているような歓喜の爆発。オーボエとかのソロはやっぱりちょっと粗削りでイマイチだが打楽器の迫力は聴きモノ。全体のバランスとしては粗さを怒涛の迫力が飲み込んでいる、ラストの終わり方も凄い。ハマれば思考停止になることは間違いない演奏。


ローマの祭り」は、一体全体どうしたらこんな演奏が可能なのか。「チルチェンセス」は暴君ネロの祭り。この暴虐の限り、殉教者の祈りを全て斬り裂くかのような音楽には驚く限り。スヴェトラーノフはオケの多少の(多少か?)破綻は無視し、ホール全体に(おそらく)鮮血の霧を撒き散らしているかのよう。底抜けに明るいハズのナヴォナ広場の「主顕祭」も力瘤入りまくりの鉄のダンス。グロテスクさと諧謔性、え、あれ、こんな曲だったっけ。ラストに至っては空いた口がふさがらない。許氏の耳にどうしてこれが「官能」と聴こえるのか、私の感性とは違うという他ないが(>再生装置が違うんだってば)、ひとつの極地の演奏であることは認める。


褒めているんだかケナしているんだか分からない感想になってしまったが、ストレス解消になる演奏でもあるので、「アッピア街道の松」と「主顕祭」はi-Podに入れておくか(笑)

2005年11月18日金曜日

歌舞伎座、5年後メドに建て替え決定


切られお富!さんのブログで歌舞伎座の建替えの正式発表が再びなされたことを知りました。


松竹は16日、東京・銀座の歌舞伎座の建て替えを決めたと発表した。


 今後、地元関係者らとの協議を始め、協議などに約2年、建て替えに約3年を見込んでいる。工事期間中は、代わりの劇場を借りるなどして興行を続ける。


 現在の歌舞伎座は1951年オープンで、老朽化が著しい。このため、座席の幅を広げたり、通路の段差を解消したりする。外観は、現在の伝統的な雰囲気を残す方針という。 (2005年11月16日 (水) 20:04 読売新聞サイトより)




確かに歌舞伎座は老朽化が激しいし設備もかなり古い(かもしれない)。4月21日のエントリでも書いたのですが、現在の歌舞伎座は鉄筋コンクリート造。でも中には客用エスカレータもエレベータもありませんからお年寄りには少し辛いかなとか思ったりもします。エントランス廻りも狭くて、雨の日の開演前は晴海通り前はごった返します。席も結構狭いですしね。でも私はなかなか趣があって好きなんですけどね。


新しくなるのは結構なことですが、先のエントリにも書きましたし切られお富さんも触れている「幕見席」だけはなくさないで欲しいと切に願います。あれがなければ私が歌舞伎を観続けることはなかったし、中村勘三郎の襲名披露に接することもなかったことは確実。根性出して4時間並べば最後の月の公演も観ることができましたから、一部の人に演目が独占されてしまうことを防ぐシステムであるともいえます。「古典めざましタイ」に書かれていることにはほぼ同意。「六条亭の東屋」でも触れている風情のある外観、ここがイチバン難しそうですね・・・


クラシック系にこのような公演システムがないことは「芸能」と「芸術」の違いなんでしょうか。どちらも広義にはエンタテではあるはずなのに、と思うのですが。

2005年11月17日木曜日

キーシン/ベートーベン:なくした小銭への怒り


「失われた小銭をめぐる興奮」あるいは「なくした小銭への怒り」というタイトルのベートーベンの作品。モーツアルトの「俺のケツを舐めろ」K.233などと並んで"変なタイトルの曲"として有名です。


キーシンのシューマンのアルバムに入っていたのですが、今まで気付かずにいました。改めて聴いてみますと、最初から最後までが、早いパッセージによる技巧的な曲であり、激しさの中に音の驚くべき変化も認めることができ、聴き方によってはちょっとキてしまっているとも受け取れる曲です。最近の業務の忙しさで私もキレかけていますので、こういう曲を聴くと何だかスッキリします、繰り返して数度も聴いてしまいました(笑)


どうしてこのような題名が付いたのかは分かりませんが、怒りというよりは「う"~っ!」と頭をかきむしるような悔しさとでもいうのでしょうか(笑) 快活さなのか怒りなのか良く分かりませんが過剰なまでの表現はすさまじく、この超絶技巧的な曲をキーシンは、おそらくはイレイザーヘッドのような頭を一つも乱すことなく正確にしかも驚くほどの見事さで弾ききっているようです。



Evgeny Kissin

Beethoven Rondo a capriccio Op.129 "Rage over a Last Penny"

Evgeny Kissin(p) 1997.8 BMG 09026 68911 2

2005年11月13日日曜日

歌舞伎座:吉例顔見世大歌舞伎


歌舞伎座で吉例顔見世大歌舞伎の夜の部を観てきました


演目は吉右衛門が人形浄瑠璃『嬢景清八嶋日記』をもとに書き上げた「日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)」、富十郎の長男大の初代鷹之助襲名披露狂言「鞍馬山誉鷹(くらまやまほまれのわかたか)、幸四郎と染五郎親子による「連獅子」、そして近松門左衛門作、梅玉や時蔵による「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」の四本です。


途中に休憩が入るとはいえ、少々長いかと思ったのですが、舞台は豪華絢爛、またしても歌舞伎を見る快感を堪能できるものでありました。





見ものはやはり「日向嶋景清」でしょうか。吉右衛門の演技が実によかった。源氏との戦いに敗れた景清は自らの目を付いて盲目となり、源氏への妄執を捨て平家の位牌を守って暮らしているのですが、そこに景清の実の娘である糸滝(芝雀)が現れます。景清の娘を思う気持ち、さりとて武士の矜持も捨てきれない、その揺れ動く気持ちの様が見ていて心を熱くします。


心の中では泣きながらも、娘を無理やりに追い返すところ、その後に自らの胸中を明かすところなどは涙なくしては見られません。糸滝の置いていった文箱の中の書置きの内容を知ってからの景清の絶望と苦悩は見ていても苦しいほど。


全体に芝居は、芝雀の「泣き」が少し単調に見え、吉右衛門の嘆きや心情の変化が劇的過ぎるような、両極に触れていた印象がありますが、それでも心理的凝縮感が物凄く迫真の舞台であったといえましょうか。


ラストに景清が頼朝に帰順し、あれほどに守り続けていた平重盛の位牌を海に捨てる場面は、個人的には疑問が残るものの、それでも最後の場面はきわめて立派であり大きな物語が見て取れました。


この位牌を捨てる場面については、吉右衛門(松貫四)も今月の解説本の中でそれをハッピーエンドと捉えるか、信念を曲げたことを悲劇と捉えるか。ご覧になる方によって受け取り方は変わるでしょうと記されています。主君に忠義を示すのが武士なれども、その武士とて主君あってのもの。そこに吉右衛門が描いた景清の人物像がくっきりと浮かび上がったラストであったと思います。


それにしても、この場面での舞台の奥行きの深さ、および景清の変心を象徴する海の青の鮮やかさには思わず息を呑み、舞台演出の点でも極めて効果的であったと感じました。


続く「鞍馬山誉鷹」は鷹之助襲名のための今井豊茂氏による新作。鞍馬山の一面の紅葉が実に鮮やか、実に華やか。この書割を見ただけで笑みがこぼれる。しかも襲名を祝う脇を固めるのが、富十郎(鷹匠)、仁左衛門(平忠度)、梅玉(喜三太)、吉右衛門(蓮忍阿闍梨)そして雀右衛門(常盤御前)なんですから、これまた豪華。


鷹之助はわずかまだ6歳なのですとか。それでも花道からの入りで見得もなかなか。客席からは暖かい拍手と「うまい、うまい」との声が。私もここは素直に見入ってしまいました。舞台中央に入ってからの前半は、ひたすら鷹之助を持ち上げる演技の連続。ああ、歌舞伎っていうのは、主役がとことんに美しく強く引き立つように出来ているのだなあと改めて感心感動。後見に鷹之助が人形のように抱きかかえられての場面も、よしよし、いいぞいいぞ、といったカンじ。


途中に口上の入るのも楽しめる。「松竹株式会社の永山会長の暖かいおはからいにより~」と謝辞を述べるところに、興行的な意味合いを感じ取るものの、皆が「大ちゃん」と言って祝うのですから、ここは素直に受け取りたいところ。雀右衛門の仕切りの声にはハリもあり貫禄充分、10月の公演で体調を崩され心配しましたが、これなら当分大丈夫(笑)。肝心の富十郎はそれこそ平蜘蛛のように這いつくばったままで恐縮していたのが印象的でした。


さて、幸四郎、染五郎による「連獅子」も舞台で連獅子は初めてなので期待大でありました。ただ最後の頭の毛を振り廻す場面では二人の舞があっておらず、こういうものなのかと。染五郎が若さ故か力任せに頭を振るのと対照的に、幸四郎は淡々と振る。染五郎のそれは鋭角的な狂乱で綺麗な環になっておりませんでしたものの客席からはヤンヤの拍手。連獅子という芝居、この奇妙な毛振りを皆が期待してしまうところに歌舞伎の娯楽性を感じるのですが、その点からは私の感想はイマイチといったところ。

もっとも我が子を千尋の谷に突き落としてからの本舞台で子を探す親獅子と、花道でそれに気付く仔獅子の場面は印象的でありました。親獅子の迷う気持ちが舞台からひしひしと伝わってくるのが良かった。対して染五郎の仔獅子は親が心配している場面では、花道でじっとしているのですが、その態度が不遜に見えたのは何故か。親を超えようとする仔の気概か。そう考えると毛振りにおける乱舞もフロイト的匂いがあるのかもしれず、深読みか。


最後の「大経師昔暦」は、何ですかねこれは。近松門左衛門による世話浄瑠璃ですが「鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」と「堀川波鼓」とともに三大姦通ものとい言われる作品。喜劇と悲劇が紙一重で、なんともなあ的な終わり方にも味わいがあるものの、これを評する能力は今の私にはなし。ただ、最近夫がつれなくて他の女ばっかり口説くものだから、その女に成りすまして口説かれて見せましょ(目にモノ見せてあげましょ)とは、なんと「フィガロ的」なストーリーでしょう!ある意味においては、最も深く面白い芝居であるかもしれません。

2005年11月6日日曜日

金持ちとビンボー


20代後半から30代前半までを(おそらく)ターゲットとしている「SPA!」という雑誌は、「金持ちとビンボー」という図式で記事を組むことが多い([金持ちOL(ねえさん)×貧乏OL(ねえさん)]格差図鑑 11/8号)。 三浦展氏の「下流社会」も数度にわたって紹介され、「金持ちなOL」の優雅な生活を掲載し持たざる若者を不必要に刺激しています。



ここに見出される感覚は、もはや「金持ちになること」を否定的に捉えない感覚であり、拝金主義というのとはまた違った欲望のあからさまな表出が見て取れます。最近の資金バブルに象徴されるように「資本主義の原理」とかのタテマエで行われる容赦のない経済活動は、隠すことをしなくなった欲望の発露に見え、むき出しのエゴを誰も後ろめたいとは思わなくなってきた風潮には、いささかゲンナリした思いを感じます。


欲望の発散は自浄能力を失ったメディアによって拡大再生産され、持てるものと持たざるものという単純化した図式で価値観さえ二分する勢いです。こうした状況を分析する先のような書物(三浦氏を含め)が、それを煽動することに一役を買ってさえいるようです。欲望バブルな状況は、以前はあったハズのタガがはずれてしまったように思えてなりません。眉をひそめる週刊誌の中吊り広告や夕刊紙はおろか、日本を代表する経済紙にまで性愛小説が載る始末。インターネットはもはや無法地帯。「anan」がSEXを特集することは今に始まったことではありませんが、20年前と比べても感覚が鈍磨したのか先鋭化したのか。欲望の制御が利かなくなった日本が近い将来どこにいるのか私には良く分かりません。


一方で「ニート」に関する記事もあちこちで目につきますが、たとえば「週刊文春 11/10号」におけるフリーターとニート900人アンケート 考察「下流社会」 「ボクがなりたい人」「絶対なりたくない人」を読むと、彼らのあまりの世間の狭さに唖然として、「お前らはテレビしか見ていないのか?」「甘ったれるな!」と思わず紙面に向かって唸ってしまうのは、私が旧世代の人間だからでしょうか。「働いたら負け」という感覚には、ホントウに負けました。


とは書いたものの、「ボクがなりたい人」を自問するならば、それはかなり難しい質問であることも気付くのではありますが・・・。

アシュケナージ/ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲Op.42


vladimir ashkenazy rachmaninoff
CD5:Variationen op.42 uber ein Thema von Corelli(LA FORIA)20:06
Vladimir Ashkenazy(p) 1973 DECCA 467 003-2


フォリアのテーマは色々な作曲家のイマジネーションを刺激しているようです。ラフマニノフの作品42はコルレリの「ラ・フォリア」を基にした変奏曲で1931年の作品です。静かで荘厳な雰囲気と激しく叩きつけるような変奏と緩急の振幅が大きい曲になっています。ピアノ技術を駆使した壮大な音の洪水は、もはや舞曲としての原型をとどめないほど。それでも核としては厳然とあの耳に親しんだ三拍子のテーマが流れており、かくも変形してまでも音楽家を捉えて放さないフォリアの魔力を感じる一曲か。


アシュケナージのピアノについて云々する知識も経験はないが、緩やかな部分の繊細さと美しさは目を見張る。それでいて情緒には溺れず、強打する部分は決然として潔くクリア。曲の持つ二つの性格の対比がうまく出ていると思います。

2005年11月3日木曜日

許光俊:「オレのクラシック」



今更、許センセに教えを請わなくても良いような気もするのですが、HMVの解説はついつい読んでしまいますし、どんな面白い演奏が発売されているのか気にもなりますので、題名につられて買ってしまいました。


「オレ」のとわざわざ書いているように、許氏の好み全開であります。今までの本でさえ一般向けの大衆迎合的なところがあったのだそうです。また一般向けでない本を求める声も大きくこの際だから、クラシックに限らず、あれやこれや書いたのだそうです。本書の大半を占める「オレのCD」はHMVのサイトに掲載された文章がベースで目新しくはないのですが・・・




許氏の少し偽悪的な文章は非常にストレートであり、「まずいものは、まずい」的に感覚的です。「○○の演奏を聴くと、この曲が△△であったことが良く分かる」というような書き方も多く一読して成る程と納得してしまうところがあるのですが、事はそう単純ではないはずです。彼が「オレが認めない指揮者たち」として例に挙げるラトル、ヤコヴス、ヘレッヴェッヘ、ゲルギエフ、アバド、シャイー、マカールなどにも賛否ありましょう。


しかし、どうしてこういう「過激さ」や「分かりやすさ」や「単純さ」を評に求めてしまうのでしょう。この傾向は何かに似てはいないかとふと考えます。現実世界があまりに混沌としている故の逆説なのでしょうか。音楽界においては、商業主義のオブラートにまみれた愚にも付かない音楽評や、専門家しか分からない用語の羅列による解説(このごろ余り見ない)のため、ホントウのところが見えなくなっているということなのか。こういう本が求められる背景こそが音楽界の問題なのかも知れないとは思うものの、所詮「音楽」のことですから深入りは止めます。


付記するならば、この本で気になったのは、実は「クラシックの未来」と題された一文です。許氏はオレはクラシックはもう滅びたと思っていると断言します。普遍性、真実、真理、理念、理想・・・・・・そういったクラシックを支えていた概念いまやウソっぽいものとなった、あるいは現代では、そもそも、ウソをつかなくても生きていけるようになったため、近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまったと説明しています。


かなりの論理的飛躍で結論だけ書いていますが、もしそうだとするならば、クラシック音楽のみならず、(許氏が前提とする)近代的な概念が崩壊しつつあることを示唆しいます。あらゆるものが変質していることになり、こと「オレ」のだとか閉鎖的なことを書いている場合ではない、と一瞬思ったのですが、


それら(普遍性とか真実とか、真理とか理念とか)はウソとまでは言わないにしても、一部の人にとってしか、正しくないことがはっきりした。別の人間は別の真実や理念を持っている可能性も明確に意識されるようになった。これはやっぱり、進歩と言って言いすぎなら、次の段階に進んだというべきではないのか?


ということは、あからさまな「オレ様主義」の台頭であるということです。時代の変化を、仮にも大学教授がこんなにサラリ書いてしまっていいものかと思うと同時に、ホントウにそうなのかという疑念も生じるのでした。


許氏のその他のCD評については、特にどうということもなし、いくつかは(是非)購入したいなとは思っていますが。

2005年11月2日水曜日

サヴァール/ラ・フォリア~コレッリ、マレの作品ほか






LA FORIA(1490-1701)



  1. 作者不詳:フォリア(聖母マリアの頌歌集のビリャンシーコ「ロドリーゴ・マルティネス」による即興曲)
  2. オルティス:「ラ・フォリア」に基づくレセルカーダ第4集
  3. カベソン:フォリア(ベネガス・デ・エネストローサのロマンセ「誰のために長くした髪」に基づく)
  4. オルティス:「ラ・フォリア」に基づくレセルカーダ第8集
  5. フアン・デル・エンシーナ:フォリア(自身のビリャンシーコ「さあ、食べ飲もう」による即興曲)
  6. マルティン・イ・コル:「ラ・フォリア」に基づくディフェンレンシアス
  7. コレッリ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ニ単調「ラ・フォリア」Op.5-12
  8. マレ:「ラ・フォリア」のクープレ


  • ジョルディ・サヴァール(指揮)、エスペリオンXX
  • ALIA VOX AVSA 9805


「フォリア」とは"狂気じみた"とか"頭がからっぽの"といった意味を持つ大衆発祥の舞曲。ジョルディ・サヴァールのガンバと指揮でいくつもの「フォリア」を聴かせてくれます。



��曲目のフォリアは、鈴の音から始まるのですが、HMVの店頭の紹介にあるように、これが三拍子の三拍目の裏というところに全く意表をつかれます。あれほど静かに始まった曲というのに、気付いたらいつの間にやらスペインのリズムと熱狂に放り投げられてしまうという、何ともゴキゲンな曲。熱狂の中にも一抹の哀愁が漂うところも絶品。あまりの素晴らしさに何度も続けて聴いてしまいました。ある意味で衝撃的な曲で、5分程度のこの曲を聴くだけでも価値があるかなと。


��曲目のスペインの風にあてられた後はオルティス(Dego Ortiz 1510-1570)の小品。深い音色でありながらも激しい。それがカベソン(Antonio De Cabezon 1510-1566)の作品になると、更にオルガンが加わって荘厳ささえ加わってくる。最初の5曲は短いもので1分半、長いものでも5分程度の短い曲。次から次へと奏されるいくつもの「フォリア」はラテン的な熱狂をまといながら、颯爽と駆け抜ける一陣の熱風のようです。


後半は、マルティン・イ・コル(Antonio Martin Y Coll ?-1734)、コレッリ(Corelli 1653-1713)、マレ(Marin Marais 1656-1728)による「ラ・フォリア」に基づくディフェレンシアス(変奏曲)です、前半とは異なり10分以上の曲。


「ラ・フォリア」はマレやコレッリのものは有名ですが、イ・コルのそれはカスタネトが加わることで独特の雰囲気を出しています。どうしてカスタネットが加わるだけで、こんなにも色彩に深みが増すのでしょう。単純で乾いた音はガンバの響きと絡み合うように、時に静かに時に激しく打ち鳴らされます。


コレッリの「ラ・フォリア」ではサヴァールはソプラノ・ヴィオラ・ダ・ガンバを使って軽快でありながらも荘厳に、次々と変奏を聴かせてくれます。単純な音形の繰り返しながらも、変化は多彩でなかなか飽きません。一番最初の「フォリア」だけで充分などと書いた事を訂正しなくてはならないと思える程。


最後はマレの「ラ・フォリア」、これは長い・・・18分もある。ここまで聴いてくると、いい加減飽きてくるし、サヴァールが弾きながら唸っているみたいで(他の曲もそうだが)ちょっと気になります。が、しかし演奏は最後を飾るにふさわしいか。