2006年12月27日水曜日

伊東豊雄:「建築|新しいリアル」展


伊東豊雄の「建築|新しいリアル」展を観て来ました。既に終了した展覧会のレビュを書いても他の人に意味があるとは思えませんが、自らの防備録的にしたためておきます。


展覧会の概要は公式HPが詳しく、引用しておきます。


本展では、新世紀の幕開けとともにオープンした《せんだいメディアテーク》から最新のプロジェクトである《台中メトロポリタン・オペラハウス・プロジェクト》を含む9作品を中心として、伊東の提唱する新しい建築理念を紹介します。伊東自身が構成に深く関わった会場には「エマージング・グリッド」を体感させる曲面の床が現れ、鉄や木など実際の建築と同様の素材を使った大型の模型によって「物質(もの)のもつ力」が示されます。また壁面に天井の高さまで広がる原寸大の図面や、CG画像、施工中の建築現場で撮影された映像などが各プロジェクトをさまざまな角度から照らし出します。身体と知覚に直接はたらきかける展示空間は、伊東の目指す「新しいリアル」を立体的に体験する場となることでしょう。


この紹介からも、彼の提唱する「リアル」というものが空間や素材の持つ皮膚感覚に根ざしたリアルであることが読み取れます。実際に原寸大の図面や、現場で使用する材料の再現、三次元にうねる床(屋根)を歩いたりしますと、いかにモニターや紙の上での表現が一面的なものでしかなく、感覚に訴える要素がごっそりと欠落していることに気づかされます。


また有機的な秩序である「エマージング・グリッド」が支配する空間は、やっぱり「新しい」とまではいかずとも、どこか違うと思わせます。包まれるような、あるいは受け入れられるような抱擁力、現代的な建築物から感じるのとは逆のリアルがあります。


建築家は立体芸術やインスタレーションを行う芸術家とは違い、実際に住む、使うという実利的な目的物を造らなくてはなりません。従って建築家には芸術性やイマジネーションとは別の次元から一般の人に評価されることとなります。ですから「まだ実現していない空間」に対する想像力は建築家にとって非常に重要な能力です。


伊東が提示する空間や建築物は、最近のものだけを見ると奇を衒った印象を受けがちです。デザインに偏重しているという印象も受けるかもしれません。しかし展覧会を通して、彼が非常に厳格な論理と細部に対する造形、そしてものを造るということへに拘りを持っていることを感じました。イメージしたものを造りきろうとする執念と情熱でも言いましょうか。壁の原寸図を前にして、しばし彼の思いを全身で感じたりしました。


それにしても結果としての建築物です。例えば《台中メトロポリタン・オペラハウス・プロジェクト》。



曲面で構成された近未来を思わせる建築物。模型や図面を見ても一体どうやって造るのだろうと思わずには居られない形体。CGで見ると限りなく美しい。しかし、これは「オペラハウス」なんです。この非現実的で近未来的な空間で20世紀に終焉したと思われる「西洋クラシック音楽」を鳴り響かせようというのは、高度な皮肉なんでしょうか。


たかが建築空間(器)が人の生活や芸術までをも規定するとするのは傲慢で乱暴な考え方でしょう。しかし、そういう器を受け入れることのできる感覚は、新たな内実を生み出すと思うことも、自然な認識でしょう。空間がここまで吹っ飛んでいるのならば、そしてそれを自然に受容するならば、音楽にも新しさや現代的な感覚が吹き込まれて当然ではないかと。そうすると、そこに流れている音楽は、例えばヴィヴァルディでありながらも、私たちのまだ知らないヴィヴァルディであるかも知れず、そう考えるのは、「の◎だめ」がブレイクした以上にワクワクするような気持ちになりはしないでしょうか。




2006年12月11日月曜日

硫黄島関連の立ち読み~「十七歳の硫黄島」ほか

書店に行って硫黄島関連の本を立ち読みす(池袋ジュンク堂なので新書は座り読みですが・・・)。先の映画の感想も、一面的で表層的であったことを自省す。

「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次著、文春新書)

硫黄島で海軍志願兵として戦い、強靭な精神力で奇跡的に生き残った秋草さんが綴る渾身の書。米軍の硫黄島上陸前から、硫黄島玉砕の報の後2ヶ月も戦地を彷徨い、最期は意識不明となって米軍捕虜として生き残るまでを書いています。硫黄島でのことは、どんなに文章にしても本当のところは伝わらない(伝えることができない)と思いながらも、「玉砕」の一言で語られてしまうことに「耐えられない」という言葉は、ひたすらに重いものです。



どの頁を読んでも凄惨という言葉を通り越しています。自ら「人間の耐久性試験」と言うほどの有様は、現在の平和な世界に生きる私には想像だにできません。これを読むと、イーストウッドが描いた戦場は、あれであっても「綺麗すぎる」と思えてしまいます。市丸少将が「あたかも害虫駆除」と称した米軍による塹壕の掃討作戦。すなわち毒ガスと水、ガソリンと手榴弾による火攻めの阿鼻叫喚。苦痛に叫ぶ兵士を、敵に見つかるから黙れと怒鳴る上官。「お国のために黙ってやる」といって放たれる銃声。塹壕に響く「お母さん」「バカヤロー」の叫びと手榴弾による散華。この世に地獄があるならば、まさにそのままです。

生きて帰るとの意志のもと、左指を吹き飛ばされ、大腿部を貫通するほどの傷を負いながらも生還したこと。まだ生きることができた多くの若者たちが、死ななくてはならなかったということ。戦争の悲惨さでは片付けられない事実です。

米国はブルトーザとダンプで地下壕の上をまっ平らにし(地下には日本人が生き埋めにされたまま)、投光器が煌々と照らす砲撃の後など痕跡もない広場に大量の物資を運び込んでいったという記述は、戦争の一面を如実に伝えています。

擂鉢山の星条旗の欺瞞を描いたのが「父親たちの星条旗」でしたが、そこに日章旗が二度もはためいたということは驚くべき事実です。

「週刊文春 06年12月14日 コラム~本音を申せば」(小林信彦)

そういえば小林氏が「父親たちの星条旗」を絶賛していた同コラムを読んで、私はあの映画を観る気になったのでした。そして今回の「硫黄島からの手紙」に関するコラムを読んで再び成る程と思いました。小林氏はこの映画の実質的な主人公は<基本的に戦わないスタンスの男=西郷>だと思うとし、西郷は兎みたいな奴で、それが戦争を経験してどうなっていくかを書きたかったとのイーストウッドの言葉を紹介しています。

西郷=二ノ宮和也の顔について蛇足的なことを書きましたが、実はいい演技しているんです、彼は。

歴史街道 1月号(12月6日発売)~硫黄島と栗林忠道

もうお決まりのような特集です。栗原中将が息子に宛てた絵手紙に、ほのぼのとすると同時に涙を禁じえません。それにしても、彼の描く絵、決して上手くはないけれど、素人のそれではありません。

アメリカに渡り、アメリカの国力を知悉していた栗林。日本陸軍にあって、珍しく合理的な精神を持ちえていた人物であったことは、ここでも伺えます。脅威を感じつつも惹かれていたアメリカに対し、銃剣を向けなくてはならなかったときの矛盾と葛藤はいかほどであったか。玉砕、総攻撃を禁じた彼でしたが、最後は「一人百殺」と言って総攻撃に討って出ます。自らが敵の雨霰と降る銃弾の中に先陣を切って突入した、その決意と悲愴。彼の意志は決して米国に勝つことではなく、一日でも米軍の本土空襲を遅らせて、日本人が疎開などをする時間を稼いだということ。まさに映画のように一人の兵も無駄にはできなかったのです。

キネマ旬報 12月号

イロイロな人が映画評を書いていました。映画評などほとんど読みませんから、誰のものか忘れました。印象的なことを拾っておきます。

イーストウッドは「正常な人間の理想や自分が正しいと思うものが崩れていったとき、人間はどうなるのか(ふるまうのか)」あるいは「どこか毀れた人間が、どのように再生するのか」ということに一貫して興味があるらしいです。彼は栗林中将と、ロサンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルを取った西竹一中尉に「アメリカを見た」のだと。そういう合理主義精神を持っていた栗原中将が、何故にこのような闘いに殉じたのか。

この点は私も映画の中で、栗原氏の精神的な分断として違和感を持ったところです。イーストウッドは日本兵が自決したことが理解できなかったと言います。栗原の最期の闘いは、いわゆる玉砕覚悟のバンザイ突撃ではなく、ゲリラ戦のようなものだったとの記述もどこかで読みました。映画はで残念ながら、そう描いていません。もしかするとイーストウッドの中では、栗原中将の矛盾は解決していない問題なのかもしれません。もっとも、何でもが合理的に説明が付くとは思っていませんが。

「玉砕」「無駄死に」と言うには悲惨すぎる、「無謀で無意味な闘い」というのでは浮かばれない。人は愛国心のために殉じているわけでもありません。映画の中で「いつか君たちのような若者が居たことを、後世の人が思い出して称えてくれる」という言葉は、決して戦争の肯定に繋がるものではなく、当たり前のことであると思う次第です。
















2006年12月10日日曜日

TV:硫黄島~戦場の郵便配達~


フジテレビで「硫黄島~戦場の郵便配達~」という2時間ドラマが放映されていました。映画「硫黄島からの手紙」に触発されて作られた番組でありましょうから、もののついでということで観てみました。感想としては、番組制作者の意図を汲んだとしても、ドラマとしては鑑賞に耐えうるものではなく、「話題つくり」的な拙速さが目に付きました。市丸少将率いる硫黄島の兵士たちの姿も、酷い描き方でした。



これならばいっそのこと、インタビューを交えたドキュメンタリー(*1)にした方が、よほど訴求力があったのではないかと思います。ドラマに挿入されるご遺族の行動や言葉を聞きますと、戦争は決して終わったものではないのだと身に染みる気がしました。


また実在した市丸少将を軸にドラマを展開したのですから、彼の遺書とも言うべき『ルーズベルトニ与フル書』についてもっと言及すべきではなかったのでしょうか。Wikipediaによりますと日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであったとのこと。その「手紙」が米国で丁重に保管(*2)されているというのも、不思議な気がします。


私は硫黄島のことも、戦争のことも、ほとんど無知と言っていい。硫黄島は「玉砕の島」と火炎放射器という断片的な知識を有しているのみです。「硫黄島からの手紙」を主演した渡辺謙氏も、この映画の話が来るまで栗原中将どころか、硫黄島の事も全く知らなかったと語っています。おそらくは他の日本の俳優しかりでしょう。


イーストウッドの映画は、非常にリアリティのある映画でしたが(*3)、それでも戦場の現実からは程遠い(ような気がします)(*4)
戦争を「リアル」に感じるというのは、どういうことなのか。当時の日本が、一体どういう戦争をしていたのか。当時の世界情勢を考えたとき、戦略的にどうであったのか。日本の取った行動は間違っていたのか、他の選択肢があったのか、何故それは潰されたのか。そして当時の人たちは戦争をどう考えていたのか。戦場に行くということは、敵を倒す(殺す)ということは、個人にどういう意味をもたらすのか。そういうことを私は全く知りません。


イーストウッドは、「戦争がなくなって欲しいとは思うが、歴史は戦争がなくならないことを教えている。しかし理想は捨ててはいけない。」という主旨のことを、12/7の筑紫哲也 NEWS23で語っていました。筑紫氏が「戦争映画は戦争を顕彰することになり、次なる戦争の準備とならないか。愛国心についてどう考えるか。」という質問をしました。イーストウッドは「愛国心(patriotism)」という言葉に一瞬考えながらも、「愛国心は誰にでもある。しかし、それが理由になって(個人や国家を)縛るようなことがあってはいけない。」と答えていたのが印象的でした。


  1. ドキュメンタリーであれば良いというわけでもないようです。NHK総合で2006年8月7日に放送されたNHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦~生還者 61年目の証言」について、小林信彦氏は「週刊文春 12月14日号」で、誠実なドキュメンタリーにおち入りがちな穴あまりにも取材を重ねたために、取材にからめとられて、テーマを見失う日米双方の主張を並べて、あとは視聴者が考えて欲しいということになったと評しています。

  2. 米国は東京大空襲や広島原爆投下後の日本の様子を、事細かに航空写真などで撮影し、攻撃の効果を記録し今でも保管しています。多くの日本人が目にしたこともない膨大な戦争記録がアメリカにまだまだ保管されているのだと思います。

  3. 父親たちの星条旗」を見た硫黄島戦闘に加わった米兵は、当時の実写とロケを組み合わせて上手く映像にしたものだ、と戦闘シーンを絶賛したそうです。イーストウッドによると、当時の実写は一切用いてはいなかったそうです。(「キネマ旬報 11月号」だったと思う・・・)

  4. 例えば文春文庫の「十七歳の硫黄島」などを読めば分かるかと・・・


映画:硫黄島からの手紙



本日に封切られたばかりの「硫黄島からの手紙」を観てきました。クリント・イーストウッド監督、スティーブン・スピルバーグ製作の硫黄島2部作のうち、こちらは、日本から見た硫黄島の戦争を描いたものです。「父親たちの星条旗」を観て、是非こちらも観なくてはと思っていましたが、期待以上の出来に心底ビックリです。


映画は渡辺謙が演じる栗林中将と二ノ宮和也が演じる一兵卒の西郷。この二つの軸を中心に、硫黄島で何が起きたのかを淡々と描いていきます。人物像と背景の描き方に過度の感情移入を廃している点、日本映画だと、もしかすると、残された家族への愛惜やそれを逆転した愛国心、あるいは無残に死んだ兵士の姿を過度に表現しがちですが、この映画はかなり抑制的な表現です。





戦場における日本の指揮官たちの愚昧さも、日本兵の自決シーンも、批判的に描いているというよりは、「そこで起きた事実とはこうだった」というような客観的視点があるように思えます。戦闘シーンは「父親達の星条旗」ほどには激烈ではありません。さらに日本兵の実態は、米軍との圧倒的な物量の違いとか、水や食料のなさなど、実際はもっともっと悲惨で酷かったであろうとは思うため、随分と甘い描写であるとは思います。しかし、それでも戦争の泡立つような恐怖と理不尽さに、私は映画の終わりまで身動きすることさえできませんでした。


一方で「手紙」ということから連想する、日本に残された家族や恋人たちのシーンは意外な程に少ない。というか「手紙」を受け取る家族の姿は、一度も出てきません。手紙を書くのはもっぱら硫黄島の兵士ばかりです。


戦場での彼らは「手紙」という抽象的な、あるかないか分からないばかりの繋がりのみを頼りとして自己を守りぬます。自分が自分であることを「手紙」により確認し、本国に残った者には想像だにできない戦場の狂気に身を置いていたということが伝わってきます。


「自らが正義と思える行動を取るように」というアメリカ兵捕虜への母親からの手紙に共感する元憲兵の日本人。彼らが守ったものは、もしかすると家族でも国家でもなく、絶対に譲れない自己であったのかもしれません。命令に背く部下を罰する上官も、もはやこれまでと自決した兵士も、逃走した兵士も、皆な同等な存在と思えてきます。そういう意味からは、非常に内的な映画であるとも感じました。


映画では合理的精神の象徴として栗林忠道中将を描いています。玉砕を禁じ、優秀な指揮官振りを示した人物であることは事実の通りのようです。最期は「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」の言葉を残し突撃戦を敢行。映画では、この戦闘で傷を負い、そして苦渋を秘めて自決します。このシーンは全編の中で最も重く感情的に描かれています。冷静とシニカルさを保っていた西郷が、遂に自己を抑制できなくなったのは、残された家族を思ってでも、戦友の死でも、自己の死の予感でもありませんでした。イーストウッドは、彼らの心情をアメリカ人的に理解したかったのではないでしょうか。


蛇足ですが、二ノ宮和也のような「顔」の日本人が当時いたわけがない、という一部の感想には同感です。イーストウッドが共感した日本人兵士の合理的精神も、所詮はアメリカの視点であることは忘れてはならいでしょう。


それにしても、おそらく多くの人が感じると思いますが、こういう映画をアメリカ人に作られてしまうとは、ほとほと、トホホです。

2006年12月7日木曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ジュリーニ&シカゴ響





  1. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》

  • カルロ・マリア・ジュリアーニ(cond)、シカゴso.
  • 1977年 シカゴ
  • UCCG-9446



やっぱり評判が高いだけあって、ジュリーニ&シカゴ響は名演です。この曲の持つ若々しさ、躍動感など余すことなく伝えてくれます。晩年の演奏とは印象は全く別物と言ってもいいかもしれません。



まず聴いてびっくりするのが解像度の良いシカゴ響のオーケストレーション。弦の刻みの鋭さ、金管群の明確さ、重なり合う音が作り出す重厚感。それでいて、音は互いに濁ることなく硬質で見通しの良い立体感を形作ります。いかにもアメリカ的な機能美を感じます。冒頭のホルンの音色、トロンボーンの響き、どこを取っても素晴らしい。


この高性能のオケをジュリーニは、一切の妥協も見せず、最後までグイグイ引っ張り、堂々たる音楽を描ききります。表現としては第一楽章のレガティッシモの主題の歌い方が特徴的です。ここには抑制的で一瞬ダルな印象を受けますが、聴き続けますと、そのほかの部位においては弛緩したところなど全くありません。そこここに聴こえる強調されたアクセントは、旋律線を浮き立たせる点で見事です。


機能美は冷たさには繋がらず、例えば第二楽章、劇的なクライマックスを迎えた後のカンタービレは惚れ惚れするほどの歌です。第三楽章冒頭の弦5部のユニゾンは小気味良いほどの切れ味。曲の雰囲気は学生最後の卒業舞踏会パーティーを思わせます。終楽章のテンポは速く、キビキビとした圧倒的な躍動感を伴っています。これまた舞踏の音楽でしょうか。


全体に高貴であり、従って少々気取りが、そしてジュリーニの曲に対するリスペクトと音楽的に真摯な几帳面さを感じる演奏です。表現は広く図太く、そして男性的であるが故に、恐ろしく重厚で実直な美しさをたたえています。音楽的輪郭の鮮やかさが粋で格好良く、溢れるばかりの躍動感と幸福感に、聴いていて素直に背筋が伸び、そして元気になれます。

2006年11月29日水曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ジュリーニ&バイエルン(1993 Live)





  1. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》

  • カルロ・マリア・ジュリアーニ(cond)、バイエルン放送交響楽団
  • 1993年 ミュンヘン
  • SICC-269 SONY CLASSICAL



テンシュテットの《グレイト》の感想のコメントで、syuzoさんに「リファレンス盤は何か?」と問われ、ふと考えてみると、私の場合、音盤のレビュを書くのに当たって比較対照となる演奏をあまり意識していないことに気付きました。比較もなしにレビュを書けるのかと、しばらく自問し、何たる雑で無責任な文章を垂れ流している事かと恥じ入る思いです(><;;;





ただ《グレイト》を書こうと思ったきっかけを敢えて挙げるとするならばジュリーニ&バイエルン盤を聴いて素直に感動したからということになるでしょうか。20GBのiPodにはラトル&ベルリンとジュリーニ&バイエルンの演奏が入っていますが、聴くのはもっぱらジュリーニの演奏ばかりなのです。


《グレイト》なんて長いだけで単調で冗長という印象が強く、よほど楽天的な気持ちにでもならない限り聴きたいと思う曲ではないと思っていました。でも80歳目前であったジュリーニがバイエルン放送交響楽団に録音した本盤(ライブ)を聴いたときには、その余りにも堂々とした演奏に、そして横綱相撲振りに全くすっかり参ってしまったのです。


ジュリーニの演奏にはシカゴとの録音もあるのですが、こちらは未聴。ですから、この録音だけでジュリーニの芸風を述べることはまたしても危険であるとは思うものの、悠々たるテンポ感、朗々と唄われるメロディ、深い弦の響きなどなど、どこを取っても素晴らしい演奏だと思います。こけおどしなど全くなく、音楽をまっとうする姿。永遠に続くと思われる終楽章は、まさに至福と歓喜の時間です。


テンポがちょっと遅すぎて弛緩していると感じられたり、今となってはいささか古臭いと感じられるスタイルと思われるところもありましょうが、こういう幸せな一時代を象徴しているかのような演奏を限りなくいとおしく思います。素直に癒される思いがします。


でもシカゴ響との演奏もそのうち聴いてみます聴いてみました、ハイ。 ちなみにCD解説は宇野功芳氏が書かれていました。

(何たる雑駁たる感想!!)

2006年11月25日土曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/テンシュテット(1984 Live)








  1. ウェーバー:「オベロン序曲」

  2. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》

  3. ブラームス:「悲劇的序曲」



  • テンシュテット(cond)、ロンドンpo.

  • BBC Legends/BBCL 4195-2(England)



ホワイトノイズは乗るものの、非常に優れた演奏です。レビュを書きながら何度も繰り返し聴いています。そしてやはり《グレイト》はグレートだなと思うのです。



シューベルトの《グレイト》は果たして楽天的で天国的な曲であるのか。私はテンシュテットの演奏を聴いて、その考えに疑問を持ちました。ラトルはこの曲は聴く者の不安を募らせる地獄への楽しい馬車の旅というものが存在するのであれば、まさにそのような感じの、終着点が全く見えない曲と評しました。そういうラトルの演奏では「地獄への楽しい馬車の旅」という印象を残念ながら受けなかったのですが、テンシュテットの演奏からは逆に私は楽天性を聴き取ることができません。


テンシュテットは独特の推進力で第1楽章から曲を煽ります。シューベルトの冗長な繰り返しが切迫した感じで演奏されます。明るさや楽天よりも別の要素が聴こえてくるように感じます。すなわち、《グレイト》はシューベルトの描いた《運命》であり、かつベートーベン的な歓喜の爆発ではなく、生と死の深淵からの必死の逃走ではないかと思えてしまうのです。


この演奏には「闇と悲しみ」「惑乱し引き裂かれた自己」「死に向う狂騒」のようなものを感じます。それが「天衣無縫の楽天性」によってオブラートされながらも、あちらこちらで暗い影が顔を出すのです。「天国的な長さ」は最終的に辿りつく先を回避したいがための、無限に回るメリーゴーランドを思わせます。


だからといって、テンシュテットは感情移入たっぷりに歌い上げているわけではありません。第2楽章など、歌いどころ満載なのに結構あっさりと通り過ぎます。


終楽章は聴き所でしょうか。ベートーベンのシラーの歓喜の断片が姿を見せたりはするものの、とことんに明るい狂騒の中にかき消されます。いつもならラストに向う盛り上がりは歓喜に向けての序奏のように聴こえるというのに、テンシュテットの演奏では不安の増長を感じます。そして今までが明るいだけに、あの低弦による確信的なユニゾンの繰り返しには心底ゾッとします。忘れていフリをしていたのに、ついに追いつかれた暗い運命に飲み込まれた瞬間であるのか。行き着いた先はラトルの言うように「地獄」であったのか。あまりにも決然とした結論と明るい諦念。


かのsyuzoさんはこんなに明るくていいんだろうか?書きます。終楽章についてはパレードかお祭り騒ぎのような明るさとも書いています。あまりにもかけ離れた私の印象に愕然としてしまいます。もっとも、違った日に聴くと全く違った印象になるのも音楽レビュのいい加減さです。「お祭り騒ぎ」は自らの内部で捩れた感情の表出、言い換えるならばベートーベン的ストレートな心情よりも、マーラーのそれに近いものを感じるのです。何度も聴いていたら、上記印象が麻痺してきたし・・・今日は考えすぎでしょうかね(^^;;

2006年11月22日水曜日

桐野夏生:玉蘭


本作は個人的には今まで読んだ桐野氏の作品の中でベストでないかと考えます。


まず、いつものことながら物語りとして面白い。主軸は時代を隔てた二組の男女の時空を越えた交感、あるいは数奇な物語です。そして、打算的にして孤独な男女が、慰め傷つけ合う激しい愛の物語でもあります。男女の複雑な心理描写や駆け引き、夢も希望もない性交の描写、そこから浮かび上がる女性と男性の性の違い。男の狡さ、女の弱さと強さ。これらの描出は桐野氏ならではの鋭さだと読みながら唸ってしまいます。




桐野氏は有子を好きになるか嫌いになるかで、この小説の好みがはっきりした感がありますねと書きま。私は有子に限らず桐野氏の主人公は概ね嫌いです。作品は好きですが(^_-)


物語としても面白いですが、テーマ的にも桐野氏が追い求めている(と勝手に私が解釈している)テーマがくっきりと浮かび上がります。打算的で自分勝手なことしか考えない人物たちが、互いを利用しあい、出し抜きながらも、惹かれあい、すがり合う。あたかも自分の中の虚無を埋めるかのように。あるいは、現在の自分ではない別の何者か、別の場所に憧れる主人公たち。現在の自分では決して超えられない壁(差別、境遇)の存在。しかし、現在の自分はゲームのようにはリセットできないという現実。


自分の今いるところは世界の果てなのか。新しい世界なのか。




新しい場所から来たから、新しい世界が始まるなんて幻想だ。新しい場所に足を踏み入れるってことは、良く知っている世界の実は最果ての地に今いるっていうことなんだ(P.15)



この小説の核となる象徴的な台詞です。この言葉を吐くのは主人公の一人である質。彼がこの言葉を言えるようになったのは、彼が全てを失ってからです。つまり彼にとっては「新しい世界」
なんてなかったという吐露です。「最果ての地」と思っていたところが、結局は自分の延長でしかないと知った時、初めて彼は自分が世界の真ん中にいたと知る。そこからは逃れられないのだと。


もし本当にそこから逃げ出そう(解放されよう)とするならば、それにはもう一人の主人公である有子(あるいは「グロテスク」の和恵)のように自らが「毀れる」しかないというのでしょうか。自分を引きずる以上、新しい世界などないのだとしたら何と残酷な結論でしょう。ですから最終章の質の物語は、私には蛇足、桐野氏の読者への良心と思えてしまいます。


本書は他の桐野作品よりも読みづらいと思います。しかしこの小説は力強く、哀しいくらいに美しい。あたかも玉蘭の香りのように(>嗅いだことないけど)。この小説でもう桐野氏は結構です、すでに、ある高みに達しています。この先彼女は(物語は別として)、何を書くのですか?

2006年11月20日月曜日

先月の歌舞伎座:幸四郎の新三を考える


今月の歌舞伎座での通し狂言「伽羅先代萩」を観たいなと思いつつも歌舞伎座まで脚が伸びず、先月の歌舞伎座で演じられた松本幸四郎の髪結新三のことを思い出しています。多くの人が幸四郎の仁に合わないと評していました。幸四郎が芸の新たな境地に飛び込もうとしているらしいのですが、違和感が拭いきれないようです。



そんな幸四郎の新三を「演劇界12月号」で佐藤俊一郎氏が評していました。立ち読みですのでうろ覚えで主旨を書きますと、今まで演じられてきた新三から粋が消え、愛嬌がなく、小悪党から「小」が取れてしまった、というのです。幸四郎の演じる新三には、いろいろな「ゆがみ」が生じたと。


そうですね、私も幸四郎の前半での新三にはゾッとするような悪の凄みを感じました。それだけに後半で家主にやり込められてしまう新三像とうまくかみ合わないと感じたものです。


全体にこの芝居は喜劇的な要素を持ってシニカルに終わります。ですから大真面目に悪党を凄みを持って演じてしまうと、合わないと感ずるのだと思います。WEB上に溢れた「立派過ぎる」という判で押したような感想も、そういう違和感を感じ取ってのことなのだと思います。


でも、今から思うと、幸四郎の新三もそう捨てたものぢゃないと思うのです。この新三、最期は源七と閻魔堂橋のたもとで斬り合いをすることとなります。歌舞伎では斬り合いを様式美で飾りながら幕となりますが、黙阿弥の原作では結局源七に殺されてしまいます。これがまた喜劇的な新三像と違和感がある。小娘を拉致監禁強姦した上で恐喝し、仲介に入った一昔時代の侠客である源七をコケにする。その命を賭ける程の度胸と覚悟を持って悪事に望んでいるという点では喜劇とは無縁の悪党振りなのです。これから江戸で侠客として名を売り幅をきかせようとする野心に満ち満ちているのですから。


ですから、大真面目に新三を解釈すると前半の凄みある人物像の方がこの役を的確に表現しているのではないかと思えたりもします。おそらくこの芝居は、勘三郎丈のような人の方が仁に合っていると感じる人が多いと思います。そういう新三像とは異なった解釈を敢えて演じたリアル新三にも、一面では評価すべき点があるような気がするのは私だけの拙い感想でしょうかね。本当の新三像をママで演じたのでは実も蓋もないですから、難しいところだと思いますが。

2006年11月19日日曜日

展覧会:「スーパーエッシャー展」Bunkamuraザ・ミュージアム


Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「スーパーエッシャー展」を観てきました。作品はオランダのハーグ美術館所蔵のものです。


これほど大規模に、そしてエッシャーの軌跡を辿るように彼の作品を観るのは私には初めてのこと。


♪エッシャー、エッシャー、スーパーエッシャー、我らがスーパーエッシャー♪(>ヲヤジ年代しか知らねーってば)






作品はほぼ年代順に並べられているようです。初期のイタリアやスペインの風景画や細密な昆虫画は見る機会が少ないながらも、版画作品として充分に魅力的です。観察眼の鋭さと類稀なデッサン力そして緻密さは、数学者のそれに通ずるものを感じます。


彼が音楽ではバッハが好きであったということは成る程と思わせます。バッハの音楽的構築性は数学的でありますし、絵画に無限性と秩序を表現したエッシャーとは共通点があるのでしょう。平均律を記号楽譜的に表現した作品は武満徹をさえも思わせて興味が尽きません。


ギルダー紙幣のための下絵に見られる高度なデザイン性にも目を見張るものがあります。コンピューターなどのない時代に、あのような数学的な図像を描くという技術。芸術家の偏執的なまでの腕の技にはほとほと驚かされます。


サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」でも紹介されていた《円の極限 Ⅳ(天国と地獄)》もそうです。周辺に行くほどに細分化された繰り返しの図形は曲面の中に無限を表現しており、そのデザイン性とともに完成度が極めて高い作品だと思います。数学的にはモジュラー形式とか双曲空間を視覚的に表現したものらしいですが、私には難しいことは良く分かりません。


彼は数学や結晶学からのアイデアに触発されて作品に応用しています。入れ子構造の平面の正則分割も無限運動を繰り返す水路も、数学者ペンローズのアイデアを応用したものであることは有名です。思い起こせば私が始めてエッシャーを知ったのも、小学生の頃読んだ熱力学の法則や永久機関が存在しないことを書いたブルーバックスの新書本であったように思います。彼の作品が同業者よりも数学者や物理学者、心理学者などに多くの影響を与えたのも当然といえば当然でしょうか。


彼の興味のモザイクである様々なモチーフが作品に結実してゆく様を観ることは非常に興味深いものでした。ボッシュの絵の素材がエッシャーの作品に用いられていることなど初めて知りましたし。


展示作品をニンテンドーDSの解説に沿ってゆっくり眺めると、ゆうに2時間はかかりました。それでも極めて秀逸な展覧会ですし充分に楽しめるものだと思います。


作品紹介は毎度お世話になっているTakさんの弐代目・青い日記帳で詳しいです。

2006年11月18日土曜日

サイモン・シン:フェルマーの最終定理


以前ちょっと触れましたが、改めてレビュを書いておきます。





数学の世界は極めて美しい。そして見えない秩序で構築されている。無限という概念とともに神秘性さえも感じます。数式によって明確に表現された秩序は、それが単純な程に美しく、純粋数学であればこそ、そこにいかなる意味も持たないとしても、多くの人を魅了して止みません。



科学的証明と数学的証明とは、微妙に、しかし重大な点で異なっている。


一度証明された定理は永遠に真である。数学における証明は絶対なのだ。(P.57)



この数学の厳密性。多くの仮設や検証により99%確からしいと思われても、それは「予想」としか呼ばれない。予想の上に成立している理論は砂上の楼閣かも知れない不安定さに数学者は悪夢のごとく悩まされる。



��n+Yn=Zn


この方程式はnが2より大きい場合には整数解は持たない



17世紀の数学者フェルマーによる一見単純な問いが、その後300年もの間、多くの数学者を悩ませた難問となり、現代数学技術を総動員して初めて証明されえたということは驚きを通り越して感動的ですらあります。


本書は、それを証明しえたイギリスの数学者アンドリュー・ワイズルの苦難の物語であるとともに、ピュタゴラスから始まりフェルマーの最終定理の証明にヒントを与えた多くの数学者、殊に重要な役割を果たした日本の谷山、志村らの人間達のドラマになっている点が素晴らしい。谷山と志村の出会い、そして谷山の自殺。戦後日本の二人の天才数学者の物語だけでも充分に読み応えがあります。そして300年の間の叡智が、ジグゾーパズルのピースが組み合わさっていくようにワイルズの理論へと集約していく様は極めてスリリングです。


結果として証明されたフェルマーの定理の示唆するものが、数学界における統一理論という、更に遠大かつ見えない秩序への一歩かも知れないという点において、この世の深さに改めて畏敬の念さえ覚えるのです。


こういう世界を平易な文章で描ききるサイモン・シンにも脱帽です。

2006年11月15日水曜日

モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397/アファナシエフ





  1. 幻想曲 ニ短調 K.397
  2. 幻想曲 ニ短調 K.396
  3. ピアノ・ソナタ ハ短調 K.475
  4. アダージョ ロ短調 K.457

  • ヴァレリー・アファナシエフ(p)
  • COCQ84057

愛すべき幻想曲 ニ短調 K.397を見事にまで変形させてしまっているのがアファナシエフの演奏です。彼の演奏は、グールドのそれとは違って、異様なまでの遅さが作品の持つもうひとつの世界を炙り出してしまいます。

いったいに、モーツァルトはK.397に、アファナシエフが描いたような文学的にして深淵な内的世界を本当に期待していたのでしょうか。冒頭の分散和音の彼岸から奏でられるかのような重く荘厳にして美しい響きにまず打たれます。この静寂な響きを破るようにして打鍵される主題の虚無的なまでの凍りついた輝き。アファナシエフはあるいは孤独な宇宙旅行者が、大宇宙の寂寞たる広大さに直面する時に経験するかもしれない感情と書いています。

ここに聴こえるのは、もはや母親喪失と言う幼稚的哀しみではなく、存在の根源的な寂寥感。死にさえ通じる虚無と孤独、彷徨い放浪する魂。どこにも淵がなくグルグルと巡る運命のような嘆き。

ニ長調への転調の後も、徹底的な明るさは訪れないかのようです。ひょっとすると、もう一つの彼岸へと突き抜けただけ。すなわち光、輝き、失楽園を提示する。このように曲は、終わりから始まりへと、さかさまに作曲されているとアファナシエフは書きますが、生の世界の決して楽天的ならざる美しささに逆に私は慄然としてしまいます。


自問する、モーツァルトの幻想曲は、こんな曲であったのかと。もっと無邪気で無垢な小品ではなかったのかと。アファナシエフの盤については、もう少し聴きこんでからでなければ、何かが書ける気がせず、しばらくお預け。

2006年11月14日火曜日

モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397


「モーツァルトの哀しさ」の本質の一端に、母親喪失の哀しみがあるように感じると以前書きました。これはモーツァルト解説本やら伝記、曲の解説から得られた結論ではありません。ごく個人的な私の感傷です。


例えば幻想曲 二短調 K.397という作品。モーツァルトの短調はどれもが極めて名曲ばかりです。この小品も前半の憂鬱なアルペジオに続き奏でられる主題に、まさに私はモーツァルト的な哀しみの表現を聴き取ります。目が覚めたら母親が見つからなかった幼児の哀しみがそのまま表現されているかのようです。不安と疑念にさいなまされながら、産毛の光る頬を哀しみの涙が流れます。不安な心は行きつ戻りつしながらも深まっていく。その絶頂において突如とニ長調に転調されます。その驚くべき変化。今までの哀しみがどこにあったのかと思うほどに、頬の涙の筋は乾かぬうちに、きらきらと喜び溢れる音楽が奏でられます。「ああ、やっぱりお母さんはどこにも行ってはいなかった!」という無邪気な安堵。


このような曲の単純さは極めて愛すべきものであると思いますし、反面で曲の平明さとあいまって幼稚な印象を感じます。しかし、聴くほどに深いのがこの曲です。


ちなみにこの曲はで最後10小節は、モーツァルトの死後補筆されたものだそうです。それでもモーツァルトの音楽の輝きは失ってはおらず、貴重な一曲だと思います。


と、アファナシエフの演奏を聴くまでは思っていました。

2006年11月13日月曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ集(抜粋)/グールド





  1. 第8番イ短調K.310
  2. 第10番ハ長調K.330
  3. 第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  4. 第12番ヘ長調K.332
  5. 第13番変ロ長調K.333
  6. 第15番ハ長調K.545

  • グレン・グールド(p)
  • SRCR2068

以前紹介したように、グールドが弾くモーツァルトのピアノ・ソナタはとても個性的です。ピアノの先生は間違っても生徒にグールドのモーツァルトを薦めないと思います。本盤は抜粋版ながらも、そんな異様なモーツァルトの片鱗を堪能することができます。

この抜粋盤では異様に遅いK.311《トルコ行進曲付》を除いてテンポは極端とも言えるほどに速い。繰り返しをバッサリと削除しているようで演奏時間もとても短い。従って、ともすると冗長で退屈になりがちな曲が、キリリと引き締まりドライな印象を与えます。ドライと言えば、これ以上に乾いた表現は考えられません。あの愛すべきK.330さえもがグロテスクなまでに変形し無数の音の粒が跳ね回ります。

ピアノ音に混じってグールドの調子はずれの鼻歌も聴けます。彼の歌を聴いていると、本当にグールドはモーツァルトが嫌いであったのかと疑問になります。グールドのモーツァルトは他の誰の演奏にも似ていず、その天衣無縫さは驚くばかり。こんなのはモーツァルトは認めないという人もありましょう。しかし、これが私には何とも小気味良い。音の煌きと躍動するリズム感。まるでチェンバロのような反応の良さ。そして、モーツァルトが秘めた哀しみと悦びの表現は、グールドの演奏であっても全く損なわれることなく、聴くものに愉悦と快感を与えてくれます。


この演奏にハマってしまうと、抜粋盤では全くモノ足りなくて、全曲を聴いてみたくなります。いつか入手することとしましょう。

モーツァルトの音楽の哀しみって?


モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけないという有名な言葉を残したのは小林秀雄。あまりにも感傷的過ぎて、また小林のモーツァルト観が一面的であるとの批判も認めた上で、この言葉は広く人口に膾炙しました。


モツアルトの音楽にきこえる哀しみってこれに気づくと病みつきになってしまうyurikamomeさんはブログに書いています。私はモーツァルトの音楽を聴いていると、哀しみの感情の根底に「母親喪失の哀しみ」というものがあるような気がします。どんな陽気な瞬間でも、さあっと翳がさす。それは幼児が母親を見失ったときの不安感にも似た感情。あるいは、もし母親が亡くなってしまったらと想像したときの、抗いようのない運命的な喪失感とでもいうのでしょうか。幼い感情ですが自己の存在そのものに対する不安にさえつながる。そういう面を感じさせる音楽は、大曲よりは交響曲や歌劇よりも室内楽的小品に多いように感じ、ピアノ曲やら弦楽曲をチマチマ聴いています。

2006年10月29日日曜日

映画:父親たちの星条旗




28日に封切られたばかりの「父親たちの星条旗」を観てきました。クリント・イーストウッド監督、スティーブン・スピルバーグ製作の硫黄島2部作のうち、こちらは、アメリカから見た硫黄島の戦争を描いたものです。


実はほとんど予備知識なく観たのですが、こいつにはビックリです。クリント・イーストウッドは「戦争映画を描いたつもりはない、人間のドラマを描いた」と述べていますが、いやたしかに、人間ドラマもとてつもなく重いのですが、それにしても、この戦闘シーンの凄まじさよ。




スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」が描いたノルマンディ上陸の戦闘シーンも凄かったのですが(というか、映像を観ながら、ほとんど恐怖におののき、吐き気がした)こちらの映像の迫力はその上を行くのではないでしょうか。敵も味方もない、無情にして非情な戦闘シーンの連続。アメリカの圧倒的な物量は映像で観るものを(ことに硫黄島決戦を良く知らない日本人を)圧倒しますが、それを支えた米国の内情にまでは、当時の日本人は(今も?)決して思い至らなかったハズです。国家は日本もアメリカもギリギリまで追い込まれながら、虚しい闘いを続けていたわけです。


そういう戦場シーンがあるからこそ、星条旗の持つ意味、すなわち写真の虚構と真実が重さを持ちます。彼らが命と半生を賭けたもの何であったのかが伝わってきます。

戦場の残酷さと故国のギャップは、戦争映画としては月並みな描き方です。しかしステロタイプな扱い方であってさえも、その対比が訴える力は少しも削がれはしません。映像に描かれたものを言葉に置き換えた瞬間に全てが陳腐にります。言葉では書ききれない重さが映像にあります。


本作は実話に基づく映画であるとのこと。国家が何を望み、個人や家族が何を望んでいたのか、戦争の英雄の実像と虚像。惨めな半生と決して口を割ろうとはしなかった過去の痛ましさ。戦闘シーンと同様に勝者も敗者もありません。愛国心などと言う言葉で括るのも軽がるし過ぎる。人は何故闘ったのか、何故そこに残ったのか、何故そこにまた戻ったのか。


かつての名作「ディァ・ハンター」のように、ひたすら戦争の傷を舐めるという類の映画でもありません。戦争の無意味さを強く主張する映画でもなさそうです。それでいて、戦争と言うものの底辺と真実がイヤと言うほどに実寸大で見えてきます。


おそるべし、イーストウッドです。硫黄島決戦というと、穴倉に火炎放射器を容赦なく浴びせかける米軍兵の映像などが夏のヒストリー・チャンネルやNHKで繰り返し流されますが、それとて何かが欠けていた視線だったのかもしれません。12月9日に公開される「硫黄島からの手紙」は日本の視点から描いたものです。これは是非観なくてはならなくなりました。

2006年10月24日火曜日

桐野夏生:光源


不思議な小説です。少なくともミステリーではありません。こんな作品を書く桐野氏ですから、彼女の本質はミステリーにはないと私は考えています。ジャンルもわからないし、的確な帯のコピーさえも書けない変な小説(桐野氏のHP)というのは、彼女の作品にミステリーを求める読者に対してのコメントでしょうか。





そうであっても本作品は一級のエンタテイメントで、かつ深い人間洞察が含まれています。桐野氏の持ち味が充分に生かされた作品で充分に読み応えがあります。ストーリーの展開も良く、彼女の中では目立たない作品かも知れませんが極めて秀逸だと思います。


私は、どうもこういう我が儘な人たちが大好きらしいです(笑)。


と桐野氏は語ります。彼女の小説の主人公は皆、自分の欲望や利益を最大限に考える行動を取ります。そこから、彼女の作品のキーワードである「サバイバル」という言葉が炙り出されます。我を通しますから、他者へは「悪意」となって放出される場合もあります。ウジウジした優しさや思いやりは存在しません。厳しい環境や、自らを束縛するものからの解放を望みながら生き抜くこと。そこには他者への思いやりよりも、他者を利用して自分が生き残るための「戦略」が生じます。それが彼女の小説の真骨頂です。


この小説においても、女性プロデューサーの玉置、撮影監督の有村、若手監督の三蔵、元アイドルの井上、そして人気俳優の高見。それぞれが我をぶつけ合い、助け合いながらも利用しあい、そして自分のサバイバルに利用できなくなれば容赦なく切り捨てる。誰もが何かを背負い、何かから逃れるように生きています。逃れたいと思いながらも、実は逃れた先に存在する孤独と虚無。自分だけが拠り所であると信じているハズだったのに、本当は違うかも知れないという疑問。そして新たなる束縛。主人公はおそらくは玉置でしょうが、ここには勝者も敗者も居ません。


最後は「狂乱」というカタストロフに導かれますが、それは真の意味でのカタストロフではなく、次なるカタストロフへの前哨に過ぎません。玉置に「勉強していないのはあなただけ」と最後に冷たく言われた高見とて、人気俳優「高見」を演じることを放棄した先にある自由と束縛を考えると、私は複雑な思いで小説の頁を閉じました。


ということで桐野氏の作品にも、そろそろ飽きてきました。これでオシマイにしようと思います。もしかすると『玉欄』なら読むかもしれませんが・・・

2006年10月23日月曜日

フィリップ・グラス:ダンス第1番~第5番








  1. ダンス第1番
  2. ダンス第2番
  3. ダンス第3番
  4. ダンス第4番
  5. ダンス第5番


  • マイケル・リーズマン(cond)、フィリップ・グラス・アンサンブル
  • ソニーミュージックエンタテインメント、SICC132-3


いちおう音楽サイトのつもりなのに、音楽の話題が全く続かないので、(誰も期待していないとは思いつつ)無理してエントしましょう。昨日、リサイクル書店で衝動的に購入したCD(2枚組800円)のこと。



フィリップ・グラスの名前はゴットフリー・レッジョ監督の映画「コヤニスカッティ」(1982)の音楽で知っていました。ミニマリズムと称される曲を中心に作った人です。

宮下誠氏の「20世紀音楽」ではインドの複雑きわまるリズム構造を西洋の器楽的伝統に移植することを始め、ミニマル・ミュージックに新しい地平を開いたと解説されています。


グラスはミニマリズムというレッテルを好まなかったようです。しかしここで聴かれる音楽をミニマリズムと言わずして何と言いましょうか。グルグルと際限なく回るメリーゴーランド。空虚な明るさ、官能と催眠、麻薬のような酩酊と白い悪夢。第4番はグラス自らオルガンを弾いていますが、他の4曲と何が違うのか未熟な私には分かりません。


金太郎飴のようなグルグルが微妙に変化するだけの反復運動、眠くなりながらも神経に障ります、聴き続けるのが快楽なのかつらいのかさえ判然としない、ちっとも良くない・・・でも聴いていたい・・・(^_^;;;。これをBGMに眠ったら、ひどくうなされてしまいました・・・。


ミニマリズムはテクノ系音楽に影響を与えたとされています。「Underworld」の曲でも聴きたくなりましたよ。

2006年10月22日日曜日

江戸東京博物館:ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展~江戸の誘惑

江戸東京博物館で開催されている「ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展~江戸の誘惑」を観てきました。日本初公開の作品も多くあり、浮世絵の世界の広さと素晴らしさを充分に堪能できる展覧会であったと思います。出典作品には北斎や歌麿などの有名どころの作品を始めとして、約80点ほどの肉筆浮世絵(版画と違って1点しかない)は市井の雰囲気を充分に伝えて余りあります。


様式美と執拗な技法によって描かれた女性の着物の柄など、近くで見ると驚嘆に値します。浮世絵には私は馴染みが少ないので誰の絵が良いとかいう興味よりも、江戸時代の雰囲気というのでしょうか、江戸の美学というものを、ぼんやりと感じることができました。


浮世絵を見て一番感じたことは、柔らかさでした。人間が全て「遊」の中に住んでいるという余裕。封建的な身分制度は厳として存在していながらも、その階級の中でそれぞれが粋に生活を楽しむ。鎖国によってもたらされた幕府の安定政権は、こんなにも人の心をのんびりと、そして豊かに、さらには享楽的にしたのかと。(もっとも、ここには圧制に苦しむ農民や地方の人々の生活は全く描かれていません。)


例えば下の鈴木春信の絵を観たときに感じる幸福感。着物が作り出す曲線が非常に幾何学的な構成で、かつ優美さが画面全体から溢れています。浮世絵に特徴的な女性の見返りの姿も、頭に被る笠のラインも、どこまでもうらかかで幸福な世界を描ききっています。


鈴木春信
「隅田河畔春遊図」



歌川豊春の行楽図もしかり。実生活はイロイロ大変なんでしょうが、画面からは何の不安も不満もない人々の幸せな雰囲気が伝わってきます。


歌川豊春
「向島行楽図」



江戸時代の日本は、こんなにも薄ぼんやりと、そして幸福であったのかと愕然とする思いです。


重そうだったので2200円の図録は買いませんでしたが、12月10日までの開催ですから、もう一度くらいは行っておこうかと思っています(>と言いながら、行った試しはないのですが・・・)

2006年10月18日水曜日

桐野夏生:OUT




OUTな登場人物たちが、それぞれの事情からOUTなことに携わり、人間関係としてOUTな事をされたために、OUTになってしまい、開き直って更にOUTな事に手を染めることになったばかりに、極めてOUTな奴に付け狙われ、どこまでもOUTしてゆく・・・。



『水の眠り灰の夢』を書いた後、桐野氏はスランプに陥りました。その時に死体をバラバラにした主婦対死体解体業の中国マフィアが歌舞伎町で戦う、というアイデアを思いつき書き上げた作品なんだそうです。圧倒的なリアリティと、ストーリーの意外性、そして娯楽性により多くの読者を獲得したことは想像に難くありません。


それにしても、彼女の筆致とテーマの硬質さよ。雅子を始めとする主人公達の息の詰まるような閉塞感と孤独感とはここでも共通。それは生い立ちや家庭環境、容姿や能力、学歴や社会的地位などなど、様々ではあるものの、その差異を「階級差」あるいは「差別」と称してもよいかもしれません。個人が絶対に越えられない壁に束縛されていること。閉塞した空間にガスが圧縮されたかのように一気に濃度が高まり爆発する。しかし爆発してもそれは解放されたことなのか。解放とは何からの自由なのか。自らを解放するために、肉体を「解体」する作業に従事したというのは洒落なのでしょうか。肉体が肉体としての関係性を「解体」させられたように、彼女たちは人間的「関係性」さえも無意識のうちに「解体」してしまいますが、自らの精神は全く解放されないという悲劇。


ここでも永遠の束縛と解放の永久運動があるのかと思いきや、作者は全く別な回答を用意していました。そう、何者からも自由であるかのように振舞っていた佐竹という存在。いや彼こそが一番不自由な、過去の自分という存在に束縛されて生きていたという矛盾。隠されたもう一つの自分自身、一番OUTな奴。目覚まされたふたつのOUTな魂が出会った世界は凄絶さを極めます。


考えようによっては「佐竹」という解答があるだけに、まだ救いがあるのがこの小説の逆説的な特徴と言えましょう。読む人によっては、完全にOUTと評価されるのも頷ける作品です。


蛇足ですが、桐野氏の作品に登場する「男性」は、極めて冴えませんね、いつものことですが。彼女にかかると男性は皆、精神的に子供のようです。佐竹は「化け物」だから別物です。

2006年10月16日月曜日

歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎 夜の部 髪結新三


続くは幸四郎の「髪結新三」。渡辺保氏の劇評を始め、幸四郎が重いだの立派過ぎるだの役じゃないだのとの感想が多い。幸四郎は、素のキャラが男前ですし立派なんですから仕方がないです。観ていて、こういう趣向は勘三郎のような役者の方が、どこか憎めない小悪人という感じでは合っているのだろうかなとは思いました。



でも、幸四郎の新三が悪いか、というと、そうは感じない(>他に比べる演技がないですから)。いわゆる悪党の凄みという点ではかなりの迫力が出ている。狡猾さ、抜け目のなさ、残忍さ、恫喝、矜持とへつらい、潔さ、よくよく観れば、役としちゃあ惚れ惚れするような悪党ではありませんか。


幸四郎の独特の台詞まわしも最初は違和感があるものの、慣れてくれば序幕の重さも取れてきて、新三の悪党ぶりが面白く思えてきます。弥十郎演ずる家主長兵衛との掛け合いは、幸四郎の役というか柄に合わない気がするのですが好演だったのではないでしょうか。前半のドス黒い悪党が、弥太五郎源七をもコケにしたほどの者が、家主にやり込められてヘーコラしてしまうギャップが良いです。このギャップのコミカルさには観客も沸きます。こういう莫迦ばかしさ、単純さも歌舞伎の面白さでしょうか。弥十郎にも賛否があろうかと思いますが、悪党をコテンパンに豪胆にやっつける快感は、この人ならではのものでしょうか。


渡辺保氏は劇評で、


新三内はきわめて現代的で、大家につめよられて「おれもよっぽど太え気だが」で勝奴もろともヅッこけて倒れたのには仰天した。これは黙阿弥ではなく、ただの喜劇である。


とあります。私が見たときには握りこぶしを固めて長兵衛の前でしゃがみ込んで悔しがるという風でした。これは途中で変えたのでしょうかね。(>よく思い出せなのですが、最後に長兵衛に一喝されたときにコケていたかもしれない・・・。だとしてら劇の流れとしてはごく自然で、私にとっては違和感がなかったということでしょう)


有名な演目ですから、また違う配役で観ると変わった感想を持つかもしれません。


【歌舞伎座HPより】

二、 梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう) 髪結新三


序 幕 白子屋見世先の場、永代橋川端の場

二幕目 富吉町新三内の場、家主長兵衛内の場、元の新三内の場

大 詰 深川閻魔堂橋の場


髪結新三(幸四郎)、家主長兵衛(弥十郎)、手代忠七(門之助)、加賀屋藤兵衛(男女蔵)、下女お菊(宗之助)、家主女房おかく(鐵之助)、白子屋後家お常(吉之丞)、車力善八(錦吾)、下剃勝奴(市蔵)、お熊(高麗蔵)、弥太五郎源七(段四郎)、


出張専門の髪結いで小悪党の新三(幸四郎)は、材木屋白木屋のひとり娘お熊(高麗蔵)と、恋仲の手代の忠七(門之助)をさらい、白木屋から身代金をせしめようとします。誘拐された娘を取り戻そうと白木屋から依頼を受けた親分の弥太五郎源七(段四郎)が新三のもとを訪れますが、持参した金額の安さをなじられ、交渉は決裂。が、続いて現れた老獪な家主の長兵衛(弥十郎)が、まんまと新三をやり込め、お熊を取り戻すことに成功します。顔に泥を塗られて収まらない弥太五郎源七は、閻魔堂橋のたもとで新三を待ち受け、仕返しに及びます。江戸の市井の風俗をみごとに活写した、河竹黙阿弥の代表作。ワルでありながら、どこか憎めない新三役に、幸四郎が初挑戦します。


歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎 夜の部 仮名手本忠臣蔵

歌舞伎座で芸術祭十月大歌舞伎 夜の部を見てきました。演目は「仮名手本忠臣蔵 五段目、六段目」と「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう) 髪結新三」の二幕です。どちらも歌舞伎としては定番とも言える有名な演目、上演機会も多いのですがトーシローの私は当然ですが観るのははじめて。


まずは仁左衛門の「仮名手本忠臣蔵」。お馴染みの勘平&お軽の悲劇物語です。男女の悲劇は勇壮な物語よりも古今東西人気を博するものです。「仮名手本忠臣蔵」に長さにおいて匹敵するワーグナーの「指環」にしても「ワルキューレ」が一番人気ありますからね。



それにしても、五段目と六段目を観終わった後に残る印象といえば「五段目で運のいいのは猪ばかり」という川柳と、海老蔵が演じた斧定九郎であるというのは、自分の中で十分に忠臣蔵を咀嚼する素養がなかったということでしょうか。


悪役の斧定九郎が出るのはほんの数分、台詞は盗み取った金を数える「五十両」だけ。それでも、登場の仕方から死に際における歌舞伎デカダンの表現まで、短いながら結構強烈な印象を残します。ネット上では海老蔵の「オーラ」を感じたとの感想が多い。確かに印象的ではありますが、私はそれが海老蔵のなせる業なのかまでは判断できない(舞台から遠いし)。しかし、水も滴るほどのぞっとする悪人であり、底の暗さが仄見える人物であることは分かります。なんたって立っているだけで、あるいは、ゆるりと着物の袂を絞るしぐさだけで陶然とする美しさなんですから。(>あれ?これが海老蔵の「オーラ」?)


この第五幕の二つ玉は、ほとんど無言で劇が進みます。海老蔵だけではなく、仁左衛門の出来心にしても、心理の変化と緊迫した凝縮力が表現されていたと思います。


その仁左衛門の勘平。渡辺保さんは10月の劇評で仁左衛門の芝居を褒めています。ご指摘のとおり、ずいぶんと柔らかな「優男」と言ってもいい雰囲気を出しています。所作のひとつひとつが、はんなりした感じなんですね。重要な場面の時に逢引していたという軟弱さが彼の全てをあらわしています。ですから次第に追い詰められていく様は何とも哀れ。自分の犯した罪に耐え切れず、もはやおかやに丁髷つかまれてどつきまわされてもなされるがまま。


本当に救いようのない運の悪い男ですから、最後に疑い晴れて血判状を押しても、後味はピーカンの秋空ほどにはスカっとしません。こんな悲劇の後に、お軽が遊郭でどう変わっていくのかは興味が尽きません。


とまあ、それなりに楽しめはしましたが、やっぱり歌舞伎はトーシローほど近くで見ないと魅力が半減しまね。


【歌舞伎座HPより】

一、 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)


五段目 山崎街道鉄砲渡しの場、同 二つ玉の場

六段目 与市兵衛内勘平腹切の場


『五段目』 早野勘平(仁左衛門)、斧定九郎(海老蔵)、千崎弥五郎(権十郎)

『六段目』 早野勘平(仁左衛門)、斧定九郎(海老蔵)、千崎弥五郎(権十郎)、不破数右衛門(弥十郎)、おかや(家橘)、一文字屋お才(魁春)

主人塩冶判官の一大事に駆けつけられず、自責の念に苛まれる早野勘平(仁左衛門)は、女房お軽(菊之助)の実家へ身を寄せ、狩人をしています。山崎街道でかつての同志千崎弥五郎(権十郎)に出会った勘平は、名誉挽回のために仇討資金を調達することを約束。一方お軽の父の与市兵衛は、お軽を祗園に売ることでその資金をつくろうとし、手付け金五十両を得ますが、塩冶の家老の息子で今は山賊の斧定九郎(海老蔵)に襲われ、金も命も奪われます。大金を手にほくそ笑んだのもつかの間、定九郎は猪と間違われて勘平に銃殺され、五十両は勘平の手に渡ります《五段目》。お軽を引き取りに来た祗園の一文字屋お才(魁春)の話から、勘平は自分が与市兵衛を撃ち殺したものと勘違い。姑に疑われ、同志の千崎、不破数右衛門(弥十郎)に突き放されると切腹して詫びますが、その直後に疑いが晴れ、敵討の連判状への血判を許されます《六段目》。悪の凄味と色気を印象付ける定九郎の登場など、錯誤の発端の一部始終をほとんど無言で表現する五段目と、追いつめられて行く勘平の心の機微を、緻密に描く六段目。練り上げられた型の数々によって、鮮烈な勘平の悲劇が描かれます。


2006年10月15日日曜日

桐野夏生:柔らかな頬



グロテスク」に続いて読んでみたのが「柔らかな頬」です。本書を読んで、桐野氏の作家としての力量に対して感服の念を覚えました。彼女はミステリー作家という分類のようですが、テーマは決してミステリーではありません。



本書をどのような「物語」として読むかは人それぞれでしょう。私は「グロテスク」「柔らかな頬」
と続けて読んで、彼女の作品に通底するキーワードとして「解放」「サバイバル」ということを考えてしまいます。


人は色々な束縛やしがらみの中で生きています。ある場に居ることが本来の自分を損なうからと逃避したとしても、別な場は再び時間とともに自分を拘束し始める。この束縛と解放の、再生と崩壊の無限運動。「解放」に向う個は、自分が自分であることに強すぎるため自己中心的であり他者への思いやりは極めて希薄です。


死ぬまで自分が何者なのか確認し続けることの虚しさと哀しさ。その確認する作業そのものが生きる証でもあるかのように、他者を傷つけ、ひたすらに走り続ける主人公たち。自分と他人の絶対的な差異の自覚、いや過去の自分と現在の自分さえ、そこには異質なものが横たわる。他人とは分かち合えないことを自覚したときの、他者が絶対に介在できないギリギリの孤独。極めて個人的な存在である「肉体」というもの、肉体を貫く「性」の意味。しかしそれでも人は求めてしまう、その果てしない虚無を埋めるために。


この小説を読むと「グロテスク」は、本書のテーマから敷衍して圧倒的に肥大化した個の物語であるとも読めます。だから作品に結論も解決もありません、というか必要ないのです。「子供が失踪した」ということはミステリーの枠を超えたところに存在しているのです。


そういう意味から、第十章 砂岩は唯一作者が読者におもねた蛇足と感じたものです。作者のコメントを読むと、そういう意図ではなかったようです。アマゾンのレビュを読むと「ラストが賛否両論」とのコメントが多数ですが、私からすると、まったく意味のない議論です。「事件」の「解決」を求める読者が多いことも、後から知りました。犯人が誰か分かったところで、何も得られないというのに。

2006年10月10日火曜日

桐野夏生:グロテスク





以前の偶刊-ポセイドニオス堂慥かにこの人の筆は凄いと桐野夏生氏が紹介されておりました。浮月氏が紹介するくらいですから、これは確かであろうと読んでみた次第。私はミステリー・ファンでも読書家でもありませんから、ベストセラー作家である桐野氏の作品を読むのはこれが初めてですが、確かに驚きましたね。



しかし、何と言う物語でしょう。筆致は凄いが書かれている内容も凄惨。桐野氏はこの世の差別のすべてを書いてやろうと思ったのだそうです。「差別」とは他者に対する優越感、他者への容赦ない哄笑、仲間意識、色々な複雑な感情が込められています。日本には階級差別はタテマエ上ないことになっていますが、周知のごとく学校や職場でのイジメを含め、階級や派閥、そして差別のない集団など皆無でしょう。絶対に越えられない壁の存在、そういう差別社会の中での厳しいサバイバルと「解放」が嫌と言うほどに描かれています。特に女性がサバイバルするということはどれくらいに過酷なことなのか。浅はかな私のような男性には想像だにできない世界です。


勝つとか人より優れるとかいうこと。その底には、自分が自分であることを確認するという作業が潜みます。しかし他者の目を通してしか「自分であること」を確認できない現代の生。そこに潜む圧倒的な孤独みたいなものが透けて見えて、その暗さと深さには背筋が寒くなるほどです。狂おしい程に求めそして堕ち続けた彼女達、あるいは闘争から引くというサバイバル戦術を取った彼女=「わたし」。誰もが最後には、自分の存在を確認するために自らを滅ぼしてゆきます。


迸る悪意。他者と自分の、理想と現実の乖離。都合の良いように嘘に塗り固められた過去。救いようのない物語・・・。読んでいて吐き気を催すほどで、その生き様はまさに「グロテスク」。しかし、それ程までにして描ききった彼女達の生は、(ラストはちょっと甘いと感じたものの)小説という虚構を通して再構築され、彼岸の彼方へ昇華されてゆくかのようです。

2006年10月6日金曜日

やっぱり素晴らしすぎたファジル・サイのリサイタルin王子ホール



王子ホールのプログラムは多摩とかぶる曲もありますが、これはこれで十分に魅力的なプログラム。特にサイのバッハどうしても聴いてみたかった。チケットは当日の10時に王子ホールへ電話してゲットしました、何とかなるものですね。多摩のリサイタルを聴いていなかったら、逆に無理とハナから諦めていたかもしれません。



王子ホールは342席ではありますが、音響的に改善されてからは、ずいぶんと響きが良くなったようです。購入した席は当日放出なのにI列15番と、ほぼホールの中央に近い場所。最前列で聴くのとベスポジで聴くのでは音の響きが違うような気がします。それに「首が痛くなる」ということもありませんからね。以前に書いたようにピアノの音がモコモコ聴こえるなんて、とんだ錯覚です。クリアにして響き過ぎずに十分な音色がホールを満たします。


お客さんも多摩とは違ってクラシック・コンサート的なスノッブな雰囲気がそこはかとなく漂います。私もせっかくですので400円でスパークリングワイン(スペイン フレシネ社製カヴァ)を休憩時間に飲んだりします。昂ぶった気持ちを落ち着かせたいという理由にかこつけて「飲んで」いるだけですが。平日18時過ぎにホールに駆けつけることの出来る人は、やはり限られます、ああ、なんて贅沢。



それにしても、音楽というのは一瞬の、あるいは流れ去る芸術です。いくらその演奏が素晴らしくても手中におさめることは二度と出来ません。それ故に音楽を聴くことは、きわめて直感的で生理的(原始的)で、そして精神の深いところを揺さぶります。




サイの演奏姿やうなり声には賛否があると思います。ものすごいパッセージを弾きながら、半身は鍵盤と135度くらいに開いたりするのですから、とても良い子にはマネさせられません。鍵盤にないときの手は指揮をするようだったり、あるいは空間から音を掴み取ったり、あるいは軽く放り投げるかのような仕草をします。サイは見えないミューズと常に対話しているのだなと思いますね。ですから技巧もメカニカルには傾かず、音楽は恐ろしいほどの説得力と広がりを持つのかなと。


左はこんな音楽を紡ぎだす人の演奏終了後のサイン会での姿です。この格好でどこかの公園をうろついていても、世界的なピアニストとは気づかないことでしょう :-)

ファジル・サイ ピアノ・リサイタルin王子ホール

王子ホールでファジル・サイのリサイタルを聴いてきました。



  1. J.S.バッハ(サイ編):パッサカリア ハ短調 BWV582
  2. J.S.バッハ:フランス組曲 第6番 ホ長調 BWV817

    モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397
  3. J.S.バッハ(ブゾーニ編):シャコンヌ ニ短調 BWV1004
  4. モーツァルト:「ねえ、ママ聞いて」による12の変奏曲 ハ長調 K265(キラキラ星変奏曲)
  5. モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K330

    アンコール
  6. モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331《トルコ行進曲付き》第3楽章
  7. モーツァルト(サイ編):ジャズ風トルコ行進曲

  8. ガーシュイン:サマー・タイム
  9. ファジル・サイ:ブラック・アース


  • 10月5日(木)19:00 王子ホール
  • ファジル・サイ(p)





何と評して良いのでしょう。今までサイについて散々と語ってきたつもりでしたのに、私は今日のコンサートを聴いて、実は何も語れてはいなかったのではないかという疑念が沸きました。それほどに今日のコンサートは素晴らしく、感嘆の声しか出ないのでした。


モーツァルトの幻想曲 K397も素晴らしい曲ですが、それを演奏することを止め替わりにシャコンヌが演奏されました。これにより前半はバッハ、後半はモーツァルトと、性格の違う世界を描き分けたプログラムとなりました。


何しろ、パッサカリアの最初の数音が奏でられた瞬間に、電撃に撃たれたような感触を覚え、私はこの場に居合わせることのできた僥倖に思わず歓喜の声をあげてしまいそうになりました。音の凝縮力といい音楽への集中力といい、多摩の時よりも凄かったかもしれません。いったい何度、胃がひっくりかえりそうな想いをし、どれほど感興を抑え込むのに苦労しなくてはならなかったか。


《フランス組曲》も充分に素晴らしく、特に弱音部分で無数の真珠が無垢な斜面を煌きながら転がり落ちるかのような表現は、ほとんど奇跡的です。《フランス組曲》より《イタリア組曲》の方を聴きたかったというのは贅沢な望みでしょうね。


特筆すべきは《シャコンヌ》でしょうか。パルテノン多摩のリサイタルでは実は今ひとつシャコンヌには共感ができませんなどと書きましたが、今日の感想は全く異なったものとなりました。座った位置が前回は最前列の右端という、あまり良好な環境ではありませんでした。たかがピアノ1台で、これほどまでの表現をされてしまっては、圧巻という以外に書きようがありません。ガンガン弾いてるように思われますが(本当に全身の体重をかけて重い和音を奏でていますから視覚的にも迫力があります)、彼のピアニズムの特徴である柔らかなタッチ、左ペダルと右ペダルの微妙な使い分けによる繊細さや弱音はここでも健在です。バッハをベースとした音楽の大伽藍は、人間のあらゆる感情を飲み込み、人智を超えた救いさえ垣間見る思いです。壮大な内宇宙を構築してくれました。


演奏が終わった後、拍手をしようにも脇の下や手のひらに汗をかいてしまい、まともに拍手などできるような状態ではなく呆然としながらサイを見つめていました。


後半は打って変わって軽く、ト長調のモーツァルト。K265は「ねえ、ママに聞いて」という題のように、恋人のことを母に打ち明ける音楽です。サイは演奏しながら客席に向かって語りかけるような仕草をよくするのですが、CDで聴いていてもサイが音楽を通して「語っている」ことが良く分かります。サイの演奏からは快活で元気な女の子が色々な調子で語りかけてきます。前半は女の子といった感じなんですが、第11変奏になると彼女は、ひとつの時を経た乙女の表情を見せてくれます。活発だった女の子が恋を通してこんなにも綺麗になってしまいます。その音楽の、色彩と香りさえ感じるような対比。結婚式で娘の花嫁姿に愕然とする程に(そんな経験ありませんし、息子しかいないからこの先もありませんが)この変奏は美しい。


K330の楽しさには思わず聴き惚れてしまいます。こちらも声には出さずに鼻歌を歌い、足踏みをしながら聴いてしまいます。


かくも素晴らしき演奏会のアンコールは、お馴染みのレパートリー。まずは普通の《トルコ行進曲》をスピーディーに奏で、1拍手を受けた後、続けて《ジャズ風トルコ行進曲》に突入です。やっぱり客席は沸きますね。《サマータイム》に続いて《ブラック・アース》で締めですが、例の弦を押さえた特殊奏法の音でホールの隅々まで満たされた瞬間は、何か原始的にして根源的な力を感じました。中間部は以前も書きましたが例えようもないほどに美しすぎ、全くもって、そういうものをストレートに感じすぎる自分がイヤになるほどです。



2006年10月1日日曜日

ファジル・サイ ピアノ・リサイタルinパルテノン多摩

パルテノン多摩でファジル・サイのリサイタルを聴いてきました。



  1. モーツァルト:「ああ、お母さんに聞いて」の主題による12の変奏曲 ハ長調 K.265
  2. モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331《トルコ行進曲付き》
  3. モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397
  4. J.S.バッハ(ブゾーニ編):シャコンヌ
  5. ベートーベン:ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 op.57《熱情》


  • 9月30日(土)19:00 パルテノン多摩
  • ファジル・サイ(p)





本日のプログラムはCDなどで「お馴染みの」、サイ得意の曲ばかりがズラリと並んだもの。最初の曲もモーツァルトの《キラキラ星変奏曲》と非常に親しみ易い曲から始まりました。


サイのモーツァルトは聴いていて、心の底が浮き立つような、うれしくなるような、そんな演奏です。私の席からはサイの口元が良く見えたのですが、モーツァルトの愛すべき曲が心底好きなのか、始終唄いながらピアノを弾いています。彼のピアノは弱音の美しさ、独特のタメとドライブ感が特筆モノだと常々感じています。今日の演奏でもそれを充分に味わうことができました。解釈はCDとほとんど変わることがありませんが、彼が舞い散らしたモーツァルトの花びらは風に舞ってホール中に散りばめられた感さえあります。


休憩をはさんでのバッハは、CDで聴くより余程迫力のある演奏。ブゾーニ編曲による、まさに壮大な建築物を構築するかのような音楽が奏でられました。ただCDでもそうなのですが、これほど彼の演奏に心酔していても、実は今ひとつシャコンヌには共感ができません。音が多すぎて濁りがあるのか、サイ独特の美しさが現れないような気がするのです。


しかしベートーベンは圧巻でしたかね。ともすると猛烈な第三楽章ばかりに関心が向いてしまいますが、今日の演奏では第二楽章の素晴らしさが際立っていた。祈るかのような第一主題が優しく奏でられた瞬間に、そのあまりの美しさにあいた口がふさがらず、この場でサイの音楽を聴けたことを心から感謝しました。


演奏姿を見て分かりましたが、弾き始めと同時にサイの両手は鍵盤を踊ると同時に空中を舞い、あたかも指揮をしているかのよう。曲にあわせて揺れるのみならず、ほとんど客席に向かって語りかけるかのような仕草。左足はソフトペダルを操作しながらも常に拍子をとっている。曲が興に乗ってくるとメタボリックな全身がリズムと化した様に弾み、演奏にも一層ビートがきいてきます。このノリの良さ!


アンコールの《ブラック・アース》はYouTubeの画像でしか接したことがなかったのですが、特殊奏法の部分がこんなにも効果的だとは、実際に聴くまでは思いもしませんでした。この曲にもサイの美学が散りばめられていて、一瞬ウィンダムヒルかと思う部分もなきしもあらずですが、それもよしです。アンコールの後の2曲には文句の付ける余地などあるはずもありません。ベートーベンから上がりっぱなしになったテンションは、最後に一音で最高潮に達し、思わず「ブラボー」と叫んでしまいました。


今日の演奏会を振り返ってみると、実は変奏曲のオンパレードだったのだと気付きました。K.265は12の、K.331は第一楽章が6つの、バッハは30の、そしてベートーベンの第二楽章は3つの変奏が聴かれます。もっともシャコンヌの変奏を全て聴き取ることは至難の業ですが。クラシックもジャズも結局はソナタ形式を含めて主題と変奏の展開の音楽ですからね・・・(^_-


大満足であったファジル・サイのリサイタルin多摩


ファジル・サイが日本に来ています。今日はパルテノン多摩でリサイタルです。東京は王子ホールや紀尾井ホールでのリサイタルは早々と完売したようですが多摩地区は場所がら人気がならしくネットで数週間前に予約できました。


会場に着いてみると当日券でも完売にならなかったらしく空席が目立ちます。ピアノファン、クラシックファンらしき人に混じって多摩地区に住んでいると思しき年配の方も目に付きます。「とても個性的なピアニストですね~」との会話も耳に入り、予備知識なくサイのピアノを聴きに来た人も多かったようです。



アンコールの最後に例の曲を演奏しましたが、変奏が始まった瞬間に客席からどよめきが生じたことから考えても、お客さんの多くはサイの才能やレパートリーに対する知識は少ないようでした。しかし、そんなことはどうでも良ですね。私とてサイについて知ることは極めて少ない。ただただ、サイのピアノを直接に堪能できた僥倖に感謝するだけです。


ぴあで予約した席は何と最前列の右端。サイの手元は全く見えないが、ほぼ真正面から顔を眺めることの出来る位置。弾きながらの歌いとかペダルワークはしっかりと観察することができました。


リサイタルの感想は改めて書きましたが、ファジル・サイに完全にブチのめされた2時間でした。演目は御馴染みのと言っていいものでしたが、あまりといえばあまりなピアニズム。クラシックでありながらロックでありジャズです。三曲のアンコールを含め、脳内で数回は超新星爆発が起きてしまい、なすすべなしです。最後のアンコールが終わった後に、思わず「ブラボー」と叫んでいる自分に驚いてしまいました。


てなわけで、ミーハーにもサインの長蛇の列に並び、ガーシュインのCDにしっかりサインをしてもらいました。掲載した写真がそれです。全く40半ばの中年の行動とは思いがたい・・・


とにもかくにも大満足な思いで、奇怪なパルテノン多摩の建物を後にしたのでした。

2006年9月28日木曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310/グールド





  1. 第8番イ短調K.310
  2. 第10番ハ長調K.330
  3. 第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  4. 第12番ヘ長調K.332
  5. 第13番変ロ長調K.333
  6. 第15番ハ長調K.545
  • グレン・グールド(p)
  • SRCR2068

K.310イ短調はモーツァルトの中でも数少ない短調のソナタです。作曲は1778年のパリ滞在中のもの。最愛の母を亡くした哀しみが表現されているのか、あるいは思うようにパリで評価されず、満足な職を得ることができない不満をぶつけているのか、実際のところは分かりません。第二楽章こそモーツァルト的な優しさに満ちているものの、第一楽章と第三楽章の暗さと情熱は一度聴いたらなかなか忘れられません。

そして、グールドの演奏のユニークさと激烈さも特筆モノと言っていい。木で鼻をくくったような出だしの響き、極度に乾燥した音色は詩情をほとんどたたえず、冷徹に曲を虚空に放り出します。あまりにこの演奏は厳しく、突き放した孤独の中を駆け回ります。しかし激烈ではあっても曲や作者への感情移入は聴かれない。冗長さは全くなく、研ぎ澄まされた演奏から聴こえるのはグールドの皮肉とその裏に隠された意図か。

異様に速いテンポと相まって、この演奏を聴いてしまうと他の演奏は「生ぬるく」聴こえてしまう。私は非常に面白く聴いていますが、モーツァルト好きには受け入れがたい演奏かもしれません。

2006年9月26日火曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番K.331《トルコ行進曲》/グールド








  1. 第8番イ短調K.310
  2. 第10番ハ長調K.330
  3. 第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  4. 第12番ヘ長調K.332
  5. 第13番変ロ長調K.333
  6. 第15番ハ長調K.545


  • グレン・グールド(p)
  • SRCR2068



ファジル・サイの解説を読んでいると、グルダやグールドと比較している文章に出くわします。サイがジャズも弾くからグルダと似ているとか、グールドのように調子はずれに弾きながら歌っているからグールドの再来だとか、そういう表層的なことではないとは思うのですが、本当に二人にサイは似ているのでしょうか。



例えばグールドです。彼は1955年の《ゴールドベルク変奏曲》で有名になり、サイも1997年のモーツァルトがフランスでブレイクしました。どちらも録音媒体で有名になったのですね。ただ、フランス人というのは自分達とは異なったキャラクターを好む傾向があるようですから(>雑駁な偏見)、ちょっと眉に唾して評価を考えなくてはいけないとは思いますが。


で、他の人の評価はおいておいて、グールドのモーツァルトを改めて聴いてみました。とりあえずシングルのこの盤からK.331《トルコ行進曲》です。ちなみにグールドはモーツァルトが嫌いであったとされています。「モーツァルトの作品が嫌いだというのではない。もっと否定的だ。つまり許し難いのだ」という言葉も残しています。グールドはモーツァルトのどこが嫌いだったのでしょう。その冗舌性、俗に溺れ媚びた音符が許せなかったのでしょうか。


従ってといいますか、このK.331は極めて異質です。グールドのピアノのテンポのユニークさは今更言及するまでもないのですが、この演奏のテンポ感(遅さ)は曲を全く別物にしてしまっています。例えば私の好きなK.310イ短調のソナタの激烈な速度と比較しても、それをあざ笑うかのごとくに対照的なのです。曲が裸になって、むき出しになってしまったような感じとでもいうのでしょうか、虚飾も興奮もない。サイがジャズにまで変奏して弾ききった魅力は片鱗さえ見せません。そして、そこに、どこか諧謔的雰囲気とともに此方にはない安寧を求める孤独を感じます。


サイは、モーツァルトの「哀しさ」を表現しても、間違っても「孤独」は表現しない。こんな表現をしてしまう演奏者とサイが「似ている」とはどういうことなのか、と考えてしまいます。何度かこの盤を繰り返し聴いていますが、意識せずに涙がこぼれてしまう。サイのモーツァルトを聴いても嬉し涙は流しても、決して泣きはしない。

2006年9月25日月曜日

モーツァルトの楽譜の指示

中村音楽工房というサイトで知りましたが、モーツァルトのホルン協奏曲の楽譜に書かれた(当時のホルン奏者への)指示が、とても凄いらしい(というか卑猥)。詳しくはこちら(「大阪モーツァルトアンサンブル」のサイト)として紹介しています。


で、読んでみますと、これがまた確かにモーツァルトにしか書けない指示というか、なんというか・・・。彼の書簡集も研究者は真面目に解読していますが、性的表現がアッケラカンとしていますし、自由にして(ちょっと幼稚で)奔放な性格であったのでしょうね。改めてこの指示を読みながら、演奏を聴いてみたいものです(笑)


2006年9月23日土曜日

紀尾井シンフォニエッタ東京 第56回定期演奏会

紀尾井ホールでを紀尾井シンフォニエッタ東京の定期演奏会を聴いてきました。


  • モーツァルト:ホルン協奏曲(第1番)ニ長調 K.412
  • モーツァルト:協奏交響曲 変ホ長調 K.297B(レヴィン版)
  • ブラームス:セレナード第1番 ニ長調 op.11
  1. 9月23日(金)19:00 紀尾井ホール
  2. 指揮:アレクサンダー・リープライヒ 紀尾井シンフォニエッタ東京

  3. アフラートゥス・クインテット メンバー

    ロマン・ノヴォトニー(fl) ヤナ・プロジュコヴァー(ob) オンジェイ・ルコヴェッツ(fg) ラデク・バボラーク(hr)

紀尾井ホールは職場から歩いて行ける音楽ホールのひとつであるにも関わらず、今まで行った事がありませんでしたし、紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)も名前は知っていたものの聴くのは今日が初めて。「ぴあ」で公演を知り、当日券狙いで聴いてきたのですが、いやはや、KSTというのは本格的な実力派オケであったのですね。金曜日の夕方というのにほぼ満席です。

最初のモーツァルトの2曲はアフラートゥス・クインテットのメンバーを加えての豪華な演奏。ホルン協奏曲は何と言ってもベルリンフィル・首席を勤めるバボラーク氏のホルンに打ちのめされます。音色の暖かさ、ふくよかさ、テクニックの安定感。どこを取ってもやはり一級品といって良いのでしょうか。一見するととてもまだ30歳だなんて思えません。貫禄充分といったところ。バックを勤めるKSTも厚みのある素晴らしい響きを聴かせてくれ、極上の時間。もっと聴かせてくれといいたかったところ。10月28日はトッパンホールでリサイタルがある様子。《完売》表示に「うーん」と唸る。

��曲目はアフラートゥス・クインテットの3名の木管楽器奏者に「バボちゃん」が加わっての協奏交響曲。演奏は素晴らしいのですが、何かこの曲にはイマひとつの感を覚えてしまいました。

休憩をはさんでのブラームスは、KSTの実力を充分に発揮した演奏といえましょうか。いかにもドイツ的な曲の雰囲気に、重厚にしてふくよかな弦の響きには非常にマッチしている。ティンパニの使い方などハイドン的な香りを残しながらも、全体はしっかりブラームスで、もう秋だしやっぱりブラームスもいいなあとしみじみ。

もっともKSTの実力には非常に関心したのですが、良く聴くと弦セクションに乗る木管や金管の響きに少し違和感を感じる瞬間がないわけではない(>素人の戯言ですがね)。指揮者のリープライヒ氏は現在ヨーロッパで最も注目されている若手指揮者でありミュンヘン室内管弦楽団(MKO)の首席指揮者兼芸術監督。痩身の颯爽としたキビキビした指揮姿から、キレの良い音楽を聴かせてくれました。ブラボー。

ついでですが演奏が始まる前に、KSTの誇る玉井菜採さん(vn)と中村智香子さん(va)によるロビー・コンサートが開催、曲はモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのためのデュオ ト長調 K.423 より1楽章でした。モーツァルト友人のミヒャエル・ハイドンが病気だからって急遽彼のために2曲ほどチャッチャと描いてあげたという曲。やっぱりモーツァルトって天才。

    あと蛇足ですが、プログラムノートを音楽評論家の奥田佳道氏が書かれていますが、あの「文章の分かりにくさ」は何とかならんのでしょうか・・・。何度繰り返して読んでも意味不明な箇所が随所に・・・私がムチなだけだとは思いますが。

You Tube のファジル・サイ

著作権が何だ、You Tubeのファジル・サイを検索してみました。かの「春の祭典」は「おかか1968」ダイアリーからご覧下さい(^~^)

パガニーニのピアノ・ジャズバージョン! 冒頭から凄い、ピチカートが弦よりも鋭く、中間部のスウィングのノリの良さ。悪魔のパガニーニがかくも変容し、苦笑いをする。


こちらは、サイ作曲の「ブラック・アース」。これもコンサート評で有名な「弦押さえ」の技が見られます。

2006年9月21日木曜日

ファジル・サイのトルコ行進曲(ジャズバージョン)に驚愕

「おかか1968」ダイアリーで、You Tubeにあるファジル・サイの映像が紹介されていました。内容は一見にしかず。これが、噂に聞く(コンサートのアンコールなどで演奏したらしい)、《トルコ行進曲》ジャズ・ヴァージョンですかっ! (以下こぴぺ)



こちらは真面目なバージョン。画像が荒くてよく指の動きは見えませんが、何か尋常ならざる演奏であることが分かります。

下はトルコのCFの中での《トルコ行進曲》。歌が入っても素敵だ!カットなしで全部聴きたいぞ! 途中でのサイのひょうきんな顔が良い(^^)

この映像を見て依頼、アタマの中で《トルコ行進曲》がグルグルと回っている・・・

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番、第13番/ファジル・サイ





    モーツァルト
  1. ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
  2. キラキラ星変奏曲(「ああ、ママに言うわ」による12の変奏曲ハ長調K.265)
  3. ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
  4. ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  • ファジル・サイ(p)
  • 1997年9月、パリ
  • WPCS-11742

ファジル・サイのモーツァルトがとても楽しい。モーツァルトのソナタ集では1953年録音のギーゼキング盤などが昔の定番であったように思えます。その中からいくつかを聴いてみますと音質は悪いものの、硬質にして男性的、そして理知的な(結構表現は激しい部分もありますが)モーツァルトを聴くことができ、今でもその価値は失ってはいないと思います。

しかしサイのモーツァルトを聴いてしまうと、録音の新しい古いを越えて、サイの音楽の瑞々しさと真新しさに驚いてしまうのです。

例えばK.330です。この曲はアインシュタインが「かつてモーツァルトが書いたもっとも愛らしいもののひとつ」と評したとのこと。今時の小学生か中学生でも弾きこなしてしまうのではないかと思えるような平易明朗な曲。しかし、この弾むようなリズム感、生き生きとした躍動感はまさにモーツァルトの天才にしか成しえない作品。サイの装飾音符の切れ味と小気味の良さ、音楽からあふれ出す喜び。第二楽章の、長調の曲に一瞬翳る憂いと気だるさ。第三楽章で再び蘇る若さの弾力と美しさを、サイの演奏は十全に表現していることに驚きます。ところどころ、左手バスの響きがはっとするほどに重く力強く(しかし粗くない)、曲に深みを与えています。まるでフィギュアスケート選手の華麗にして力感あふれる繊細な演技が描く氷の弧を眺めているかのよう。ラストのドライブ感とそれに続く強打も利き処。

K.333も同様に流麗軽快な曲。アンダンテ・カンタビーレの第二楽章はことさらに美しく、暖かい日差しの中でウトウトとまどろむがごとき曲想、しかしここにもモーツァルト的な深刻ならざる翳りが差します、このアンニュイがたまらない。冒頭の主題に戻ったときの柔らかな安心感の格別さ、全ては夢の中。再現部をサイは提示部よりも華麗かつ繊細に弾きます。とにかく聴いているだけで幸せが二つくらい増えたような気にさせてくれる曲。サイの演奏に喝采。

もっとも、17のピアノ・ソナタひとつづつの魅力や特徴を書き分ける能力は私にはないので、上の感想も、どちらがどちらのものか良く分からないのですが・・・(^^;;


どの曲でもサイは唸るように歌っていてます。それが気になるといえば気になるのですが、まあ、唸る人は他にもいますから、多めにみるとしましょう。

2006年9月15日金曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番K.331《トルコ行進曲》/ファジル・サイ





    モーツァルト
  1. ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
  2. キラキラ星変奏曲(「ああ、ママに言うわ」による12の変奏曲ハ長調K.265)
  3. ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
  4. ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  • ファジル・サイ(p)
  • 1997年9月、パリ
  • WPCS-11742

《トルコ行進曲》付きとして紹介されることの多い曲ですが、有名な第三楽章だけではなく、最初からきわめてモーツァルト的な雰囲気を楽しめる曲です。

例えば第一楽章。これは主題と六つの変奏曲の形をとっています。10分程度の楽章ですが、年頃を迎えた少女の寸劇を観ているかのような印象さえ感じてしまいます、例えばこんな具合に。

主題は、母への優しい想い、あるいは秘めたる気持ちを静かに暖めているかのような、あるいは恋人の写真をうっとり眺めているような、ほっくりとした幸福感を感じます。第一変奏は、うれしい知らせがあったのかのように快活になり、ウキウキした心の昂ぶりを表現します。第ニ変奏は更にスキップするがごとくに、あるいはクローゼットから色とりどりの服を出してはしまっているかのよう、気持ちはどんどん弾みます。第三変奏は一転してイ短調に変わり、心の乱れ、不安と翳りが表現されます。夢見る雰囲気は薄れ激しさが増し、いらだたしさに爪を噛み涙を流します。第四変奏は再び冒頭に現れた主題が、至福感と抒情と華美さを増して展開します。続く第五変奏は、何かを告白するかのような恥じらいとためらい、そして可憐さを感じさせる曲調に変わります。声も出ないほどここの変奏は美しすぎます(サイが唄うのも今回ばかりは許す)。そして最後の第六変奏はアレグロ、快活にそして力強く喜びが爆発し華麗なステップを舞います。

第二楽章も、サイのピアニズムの瑞々しさ、ドキドキする躍動感、夢見るような陶酔感を充分に味わえます。何かどこかが新しく、心を刺激する。決して奇を衒ってはいない。

終楽章の《トルコ行進曲》は圧巻でしょうか。トルコ趣味の曲をトルコ人であるサイが、抜群のテクニックで疾走します。アクセントの強さと鋭さ、弱音部の美しさ、その対比の見事さ。陶然とする想いにアタマの芯が痺れながら最後のコーダに突入。そ、そうくるかっ! このコーダの表現は、ベートーベンの《熱情》でも聴かれたテクニックに近い。独特のタメとその直後の加速が恐ろしいほどに曲を立ち上げる。続けざまに5度も聴いているが、まさに麻薬、何たる表現。


親しみやすく有名な曲ですが、私はある意味で極めて高度な曲だと思います。サイのピアノは色彩豊かで、美しくも力強く、目の前に無数の花びらが舞っているかのよう。

2006年9月14日木曜日

モーツァルト:キラキラ星変奏曲/ファジル・サイ

  1. ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
  2. キラキラ星変奏曲(「ああ、ママに言うわ」による12の変奏曲ハ長調K.265)
  3. ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
  4. ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  • ファジル・サイ(p)
  • 1997年9月、パリ
  • WPCS-11742

もう秋だというのに天気はグズグズとして東京は雨ばかり。仕事も忙しいばかりでさしたる成果もなく、また半年が無為に終わろうとしています。あ"~、フラストレーションがァ!と心の中で叫びながら、深夜の帰宅道をiPodに入れた中から何か聴こうとクリクリと曲を探す。

結局のところ、マーラーやブルックナーには食指が伸びず、モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いてしまう。しかも、グルダやピリス、グールドやインマゼールなどの演奏ではなく、サイのキラキラ星変奏曲を。繰り返して。

実際のところ、サイのモーツァルトは良い。硬質な弾力が心地よく、また柔軟性とスピードも充分です。彼の最近のベートーベンにも驚きましたが、この盤にも多くの驚きが込められています。強烈なスパークに満ちた怒涛の演奏といえましょうか。聴いていて、心が弾む弾む。単純な主題から煌くような変奏の数々、しかしベートーベンのそれのように深刻や深淵には向かわない。逆説的に深い歓びも哀しみも内包しつつ、表層は無邪気な戯れだけがスパンコールのように覆う。モーツァルトの天才。それを弾ききるサイの能力の確かさ。

12の変奏の中ではハ短調の第8変奏の気だるいアンニュイ、第11変奏のアダージョが聴きどころでしょうか。モーツァルトのオペラ・アリアを聴いているようで果てしなく美しく愛しい。

夜空を見上げると空の星が少しだけ高くなっていた(>気がする。曇り空だし)。心も数センチだけ高くなる(>気がする)。

2006年9月3日日曜日

ムンク事件、解決


新聞によりますと8月31日に、2004年8月にオスロのムンク美術館から盗まれた「叫び」と「マドンナ」が2年振りに発見されたとのこと。


��ノルウェー)警察によると、両作品とも同日に発見され、ムンク美術館の専門家による鑑定と、科学的な調査の結果、本物と確認された。作品の発見については、情報提供者などへの金銭の受け渡しはなかったという。

強奪に関与した犯人は、既に捕まっていたのですが、作品は不明のままだったようです。



日本の新聞では損傷度は、予想よりも小さいとありますが、


Munch Museum director Ingebjoerg Ydstie said “The Scream” had been banged hard in one corner and “Madonna” had a roughly one-inch hole and some loose paint.Our skilled conservators will be able to repair the damage,” she said.

ということらしいです。ふたつの名画は、いったいどのような「旅」をしてきたのでしょうか・・・。このままでは、2年越しの事件も私の中では半分未解決。Google NewsのUK版などで検索すると、結構記事が出てくるようですが今は読む気力ほとんどなし・・・、つーか、ノルウェー警察は詳細語らずか。


The police statement said: "Out of consideration of police working methods, it will be hard to give details about how the operation was carried out."



2006年8月31日木曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ21番「ワルトシュタイン」・17番「テンペスト」/ファジル・サイ





    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

それにしてもファジル・サイのベートーベンはモンク無しにカッコいい。走り抜ける軽快さ、抜群の運動性能と若き熱情、そして儚いまでの美しさと快活さ。生きていることの潔さも苦しさもひっくるめて、しかし深刻ぶらず深淵にはまらず表現しきる。激しい表現をしていながらも重くベタ付くことはない。スピードが哀しさを誘うというのは、ちょっとモーツァルト的。また彼のピアノを聴くことから、ある種スポーツに似たカタルシスを得ることができます。

《ワルトシュタイン》は第一楽章の刻むリズムがベートーベン的反復で印象的な曲。弾けた乱痴気騒ぎや悪戯、物思いや憂鬱など、光と影の対比を私は感じます。この曲は第二楽章から第三楽章に移る部分が私はとても好きです、何度聴いてもいいなあと。完全にひとつ上に突き抜けた感情が、控えめながらも高らかに、そして限りなく美しく表現されているかのよう。いつしかファジル・サイと一緒になって鼻唄さえ歌ってしまう、しかしそれでも、最後の雄たけびは、やっぱり余計か。

《テンペスト》は、シェイクスピアの戯曲など知らなくても名曲だと改めて思います。この頃のベートーベンは悪化する耳の病気と危機的な精神状態にあったのだとか。第一楽章は暗くも勢いのある曲想、悲劇へと向かう走駆を思わせますが、サイのピアノはどん底の悲劇を描きはしません。ピアニシモの表現にいとおしむかのような美しさを聴くことができます。有名な終楽章も悲劇性と軽やかさを両立させながら、哀しみを美しさにくるんで提示します。緩急強弱のメリハリがはっきりしていて、強奏部の激しさとともに、弱奏部の余韻も美しい。思った以上に繊細な表現が聴かれるだけに、何度も繰り返し聴くとサイの唸り声が耳障りになってきます。

2006年8月28日月曜日

坂東氏の件


昨日の坂東氏の真意について見解が深まったわけではありません。ただ、ネットを見ると予想以上の非難糾弾のアラシ。坂東氏の掲示板は完全に「荒らされた」後の残滓がブスブスしてる状態で、もとの議論は欠片も見当たりません。


もはやネットに議論はなく、感情的なパッシングのみが溢れかえる。坂東氏の猫殺しの論理については私もちょっと極端だなと疑問を感じはしますが、それでも、ネットに上の過激な意見ほどには吐き気を催しません(「坂東、死ね!」とか「生きる価値なし!」とか)。そこに隠れる真実と欺瞞の差はどこにあるのか。坂東氏は図らずも、自らの暗部を晒す以上に日本の暗部を抉り出してしまったのでしょうか。


ひとつだけ予想するとすると、タヒチにおいて子猫を捨てる(殺す)ことは、そんなに異常な行為ではないのかもしれません。近代以前の日本で農村の「間引き」が公然と行われていたこととと同様に。近代になることで人権、平等などの思想により常識は変わりましたが、それによって隠蔽されたものもあるのだということ。


生んでから殺すか、生む前に殺すか(いや、生ませないか)


どうも気にかかる話題。ちょっと調べると、あちこちで随分話題となり、小池環境相までがコメントしているらしいです。内容は18日の日経新聞(夕刊)の今はタヒチに住む坂東眞砂子氏のコラム。


坂東氏は日本の土着的なホラーを書かせたらピカイチでしたし、「道祖土家の猿嫁」においては民衆レベルでの近代日本のチカラみたいなものを書ききった傑作であると思っています。「山妣」においても、人間の業深さや、強烈なエロティシズムを発散しており、彼女の作品群からは前近代的な死と隣り合わせの生の享受みたいなものを感じ取ったものです。(どちらもBook Offにこの間売ってしまったので、正確なことは覚えていない)


そんな彼女がタヒチに住むと決断したのも、現代の日本が彼女には住みにくく、彼女なりの生き方が反映された結果であると理解していました。


で、猫殺しの話題です。すなわち「避妊手術を施すよりも成猫には妊娠出産という生の本能的な喜びを享受させてやりたい。生まれてきた子猫は育てられないから殺す」ということ。


全くもって今の日本の常識においては異質な考え方であり、批判することは簡単す。当然、多くの人たちが糾弾しています。私もあんまりであるとは思う反面、あれほどの作品を書く人が、批判されることも、自己矛盾の論理と言われることも踏まえて、あえてコラムを書いたその真意がどこにあるのか、考えざるを得ません。


今の私には安易に批判の矛先を彼女の論理に向けることができません。何かとてつもなく大きなテーマを提示しているような気がしています。未熟なため、その実態と本質が私にはまだ掴めません。


2006年8月7日月曜日

エスクァイア 9月号~発見、クラシック音楽

「エスクァイア 日本版 9月号」が「発見、クラシック音楽」と題して、かなり本格的な特集をしていることをいくつかのブログで知りました。書店で立ち読みしようと思ったのですが、これが本当に、かなり詳細にしてマニアックな記事であるため、思わず購入してしまいました。


雑誌の詳細な紹介は他のブログに譲るとして、私が本記事を読んで感じたこと。時代はおそらく新たなクラシック・ファンを求めているのではないか、ということ。





記事の特集が「ロシア・ピアニズム」「古楽」「「オペラ~グラインドボーン・オペラ・フェスティバル」という組み合わせ。今年流行の「モーツァルト」は敢えて言及を避け、夏オペラのワーグナーは一顧だにせずというスタンスはなかなか見事です。


オマケCDの最初の曲、《バッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲からアレグロ》が流れた瞬間に、私は「やられた!」と思ったものです。だって、理屈ぬきにカッコいいんですもの。おそらくはクラシックに馴染みのない人も、スピーカーから音が出た瞬間にハッとし、思わず作曲家を確かめて、もういちど愕然とするに違いありません。この軽快な曲の後がシャルパンティエだなんて何て素敵な。


「エスクァイア」は男性雑誌のハズですが、これは極めて女性的な選曲と企画。というか、このごろは男性も随分と女性化しましたから、いわゆるジェンダー・フリーな感覚なんでしょう。


クラシックは快活にしてカッコよく、どこか教養的、貴方をワン・ランク上に仕立ててくれます。先鋭化された感覚の表現や究極のヒーリングを志向することもできますし、ロマンティシズムや貴族的豪華さや退廃さえも体現しています。オペラに限らずクラシックにエロティシズムを感じてしまったら、おそらくはどんな娯楽も適いますまい。眉間にシワを寄せて眼をつむり手を振りながら聴くなんて野暮ヤボ。


雑誌の編集後記に「えんぴつで奥の細道」というベストセラーを取り上げて、下記のような対話がありました。



●歳とってくると、古典とか読んでないとっていう焦りみたいなものがある。源氏物語ちょっとしか読んだことないな、とかね。暇ができればできるほどそう思う。これなら、読まなきゃいけないと思っていたものが読めて、字も上手になるし、人生も豊かになるし。


●それって結局、暇だってこと?



自分が歳を取るほどに暇になってきたという実感は全くありません。しかし日本人総体で考えると膨大な「消費しなくてはならない時間」だけは増大してきているのだろうなと。その隙間にクラシック音楽もある位置を与えられるのではなかろうかという予感だけが。


2006年8月6日日曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ラトル





  1. 第1楽章:アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・トロッポ(16.48)
  2. 第2楽章:アンダンテ・コン・モート(16.26)
  3. 第3楽章:スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.13)
  4. 第4楽章:フィナーレ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.15)
  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo.
  • TOCE-55790

AmazonやHMVのカスタマーズ・レビュなどを読むと真っ二つに感想は割れています。かつての巨匠の名演を知っている人にとっては、冒涜に近い演奏と感じている人もいるようです。しかし私はこれはこれで面白く聴くことができました。

そもそも「グレイト」って、そんなに退屈な曲でしょうか。確かに執拗なまでのフレーズの反復、いつ終わるとも知れない音楽は冗長という印象を与えます。それゆえに、他の作曲家の交響曲などに比して深みにも欠けるという評価も受けているようです。何が「天国的な長さ」かはさておいても、そういう点を全てひっくるめてがこの曲の魅力だと思っています。

おそらく若い世代の感覚には、ラトルのようなアプローチの方がこの曲には好ましいのかもしれません。演奏スタイルを含めて退屈することなく、そしてクール(カッコイイ)と感じることでしょう。ラトルがこの曲に対して何を意図しようがベルリンpo.の演奏技術は圧巻ですし。

私のiPodにはジュリーニ指揮 バイエルン放送響の「グレイト」が入れてあって愛聴しています。ジュリーニの演奏と比べると、ラトルの演奏は全く別物ではありますが、これはこれでひとつの斬新な解釈だろうなと許容します。このような演奏も好ましいと思いますから、私も場合によってはラトルの演奏を聴きたくなります。それはビールを飲むときに、エビスやギネスもいいけれど、スーパー・ドライも飲みたいときがあるよね、といった感じでしょうか。

それであったとしても、例えばジュリーニの演奏を聴いた後に感じる、音楽を聴き通した後の至福と内側からこみ上げてくるような感情の波をラトルの演奏から感じることはありません。


ただ音楽にそれが必須な要素なのかと問われれば、私は敢えて否と答えます。いつもいつも大きな感動で襲って欲しくないという気持ちもあります。同じ曲を演奏しながらも(聴きながらも)、求めているものも、結果も全く違うのだと思うだけです。

2006年8月5日土曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/リヒテル




GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURY
SVIATOSLAV RICHTERⅡ

    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ 第12番 変イ長調 作品26
  2. ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31の2《テンペスト》
  3. ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57《熱情》
  4. アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO57
  5. ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 WoO 6
  6. ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
  7. ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
  8. ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
  • 456 949-2

ファジル・サイの《熱情》を聴いて、ふと他の演奏も聴きたくなって、手元にあったリヒテルの演奏を聴いてみました。

ここに納められている演奏は1960年11月、ニューヨークのスタジオ録音のものです。もはや評価の定まった演奏であろうとは思うものの、改めて聴いてみれば圧巻の一言。確信に満ちた響きと圧倒的な凄みには返す言葉がありません。

それにしてもリヒテルのピアノを響きの深さといったら! 余韻の持つ美しさ、決して粗野にならない強靭さ。音に込められた意味が、音楽でしか表現できない感情が、ここには詰まっています。

ファジル・サイの演奏では経過句に過ぎなかった第2楽章が、かくも優しく染み入るような深さで表現されてしまっては完敗です。中盤の早いパッセージ部では思い出と哀しみの華が散り乱れるかのようで痺れてしまいます。

第3楽章であっても、あくまでも微妙な起伏と激しさを高度にコントロールしながら、早い中にも響きを込めます。

圧倒的名演というものは、何度も聴いていられるものではありません。救いなく渦巻きながら疾駆する絶望と哀しみ、プレストでの自虐と諧謔の後の凄まじさ。嗚呼・・・もはや論評不能。

2006年8月4日金曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/ファジル・サイ




    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

ファジル・サイが「熱情」を弾くとどうなるか。いくつかのCDレビュ読み予想はしていたものの、この演奏はそれをはるかに上回る、凄い。いや正統なピアニストやベートーベン好きからは否定される演奏であるかも知れません。しかし、私は激烈にこの演奏を好み、何度も何度も繰り返し聴いています。

ファジル・サイはうなり声さえ上げながら、第1楽章から猛然としたスピードで突き進みます。第2楽章に入ってもテンションは少しも緩むことはありません。

そこかしこに聴こえるサイのうなり声。ピアニストのうなり声が録音されている演奏は少なくはありません。あのポリーニの「熱情」しかりです。しかしファジル・サイのそれはもはや猛獣の咆哮。内部のあふれるばかりの感情が抑えきれずに爆発し、溢れ、奔流する。勢いにまかせてはいますが、テクニックは抜群でピアノの粒も際立ち、ただでさえ起伏の大きい曲の振幅は激しく上下します。

恐ろしいまでの勢いで突入する第3楽章、その速いこと。もはやベートーベンの深みや狂おしいばかりの感情は、轟然とした疾走の中に置き去られます。「華麗なる絶望の曲」。ベートーベンは歓喜を込めたはずではないのに、あまりに壮烈。疾走する絶望。

速すぎて楽譜を逸脱しているとか、コーダで加速できていないという批判もありましょうが、リズムの変化は実際の加速以上に刺激的。鍵盤を駆け回り叩きつける指先の強烈さ。

かように極めて現代的な表現、今の世にして成立する演奏。スポーティーな感覚に身を委ね聴き終わった後には達成感とスッキリ感さえ覚えます。これもベートーベンか。

2006年7月29日土曜日

桐山秀樹:ホテル戦争―「外資VS老舗」業界再編の勢力地図


昨今の東京は雨後の筍のように街中にクレーンが林立し、さながらバブルのような建設ラッシュです。さまざまな表情を魅せる超高層ビルの中に、超高級外資系ホテルが鎮座している様を眺めるにつけ、世の中本当に変わってしまったという思いを強くします。


これからオープンするザ・リッツ・カールトン東京(東京ミッドタウン)やザ・ペニンシュラ東京(日比谷)、または既にオープンしたマンダリン・オリエンタル東京(日本橋)などなど、一昔前ならば余程海外旅行通でもなければ名前さえ知らなかった外資系ホテル、このホテル攻勢は一体何なのかと、気になる人は気になることと思います。






桐山氏は東京のホテルを(1)スモール・ラグジュアリーホテル (2)グランドホテル (3)老舗ホテル の三つにカテゴライズし、これから外資を巻き込んだ新たな「ホテル戦争」が始まるのだと主張します。著者自らホテル好きで(仕事の取材でなのか、プライベートかは分かりませんが)いくつもの海外のホテルを泊まり歩いた(らしい経験に基づく)評価は興味深いものです。


しかし、内容的にはかなり食い足りない。眼の肥えた顧客のホテル紀行文的な領域を超えず、ホテル経営という観点からの詰めは少ない。読みやすいけれど内容が薄いというのは、最近の「売れ筋」新書の特徴そのままです。ホテルの財産が建物のハードにはなく「サービス」というソフトと、それを支える人であるという指摘にも何の目新しさも新しい発見もありません。石ノ森章太郎の「ホテル」を思い出すまでもなく昔から変わらないことです。


私が知りたかったのは、それぞれのホテルの生き残り戦略。すなわち対象とするセグメント(客層)、それに対する収益の見通しなどだったのですが、この点の分析はほとんど皆無。ホテル経営的な分析を考えても、桐山氏の指摘する三つのカテゴリーはほとんど分類の体をなしていません。


もともと東京のホテル客室数は3万5000室ほど、これが一気に4万室まで増えるのだそうです。しかも、宿泊料金は最低でも5~6万円以上の高級ホテルなんです。誰が泊まるのか、こんなに出来て大丈夫なのかとは、業界関係者でなくても知りたいところです。


例えば日本銀行や三越に隣接してオープンしたマンダリン・オリエンタル東京に関する記述。


そのターゲットは日銀、兜町といった東京の中枢部の金融を訪れる、アジアや欧米の金融関係者と外国人投資家たちである。そして、日本橋の超高層ビルの最上階で、高級スパやエステを楽しんだ後、日本橋三越本店やコレド日本橋でショッピングを楽しむ「日本人女性客」をもう1つのターゲットとしている。(「第1章 外資ホテルの持つ「武器」と「戦略」について」P.38)


ちょっと画一的な解釈に感じます。(投資家がわざわざ日本に来て投資行為をするものなのか?) むしろ日本の上場していない企業オーナーや病院経営者(いわゆる日本の富裕層)を加えた方が良いのでしょうか。マンダリンの条件は、他でオープンする高級ホテルでもすげ替えが可能です。「日本橋三越」を「銀座や六本木、六本木の高級ブランド店に、「金融関係者」を「IT企業家」「海外賓客」などと入れ替えればどこのホテルでも通じるコンセプト。


おそらくは、こういう客を満足させる五つ星級の超高級ホテルが東京には今まで存在しなかったということ、更にそのようなホテルに宿泊する層が増加したことが一因なのでしょう。まさに今、開拓すべき新マーケットだったということか。


であるならば宿泊金額 数万円以上出すことを躊躇しないセグメントが、どこに、どの程度居て、彼ら彼女らがどのくらいの頻度でこれらのホテルを利用すると予想し、客単価として幾ら期待するのか。現在のホテル投資が将来の変化を見据えた「適切な投資」であるのか否かについて、もっと深く語って欲しかった。(>新書に期待する方が間違っています!)


それにしても、です。このような超高級ホテルが乱立する世界というのは、以前には想像できませんでした。そういうものが成立するマーケットが育っていなかった。やはりパンドラの箱がここでも開いてしまい、ホテル業界も極めて鮮烈な二極化傾向にあることを示していると考えるのは簡単。二極のどちら側にも入れないホテルや旅館、自らのポジショニングを定め切れないホテルは、本当に消え去るしかないのでしょうか。

2006年7月21日金曜日

NAXOS日本作曲家選輯/武満徹:鳥は星形の庭に降りる他








  1. 精霊の庭(1994)[14:40]
  2. ソリチュード・ソノール(1958)[6:23]

    3つの映画音楽(1994/95)
  3. 訓練と休憩の音楽-『ホゼー・トレス』より-[5:02]
  4. 葬送の音楽-『黒い雨』より-[5:10]
  5. ワルツ-『他人の顔』より-[2:20]
     

  6. 夢の時(1981)[14:27]
  7. 鳥は星形の庭に降りる(1977)[13:44]


  • マリン・オールソップ(cond)、ボーンマスso.
  • 2005年1月;イギリス、プーレ、ライトハウス・コンサートホール
  • NAXOS 8557760J



NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹の盤が発売されています。曲目には晩年の「精霊の庭」が入っていることや、映画音楽からの編曲も収録されていて大変に魅力的な構成です。


早速聴いてみましたが、オールソップ&ボーマンスso.のサウンドはクリアでかつ透明な響きといった印象。武満音楽の美しさを充分に表現していて聴きやすい仕上がりになっているようです。ただ個人的な好みからは、(うまく表現できないのですが)もう少し摩擦感といいますか、ひっかかりのようなものが欲しいところです。「ユニバーサル」な武満像という点では、こういう解釈が正統なのでしょうかね。


《3つの映画音楽》は、武満が手がけた映画音楽から作曲者自らがアレンジして組曲風にまとめたものとのこと。『黒い雨』は武満展で映画を観ている時は「暗いBGMだな」くらいにしか思いませんでしたが、音楽だけ聴いてみると極めて秀逸。『他人の顔』のワルツは諧謔性とデカダンな美しさに舌を巻きます。


演奏機会の少ない「ソリチュード・ソノール」も収録されているので武満ファンには必須な盤でしょう。


それにしても驚くのは(相変わらずの)片山杜秀氏の詳細にして緻密な解説。写真が挿入されているのは最初の頁だけ、下のような調子で11頁にも及ぶ解説はCDのそれを越えています。この解説を入手するだけでも、この盤の価値はあるかと・・・






かねてから敬愛していますおやぢの部屋2からトラックバックを受けました。そちらの解説の方が適切でございます。



2006年7月14日金曜日

モーツァルト:フルート協奏曲/エマニュエル・パユ



  1. フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
  2. フルート協奏曲第1番ト長調K.313
  3. フルート協奏曲第2番ニ長調K.314
  • アバド(cond) パユ(fl) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • EMI Classics 56365

アバド率いるベルリンが、1996年にパユと録音したモーツァルト。パユの演奏が気に入るか気に入らないかは別としても、極上のモーツァルトが聴けることに変わりはありません。

「気に入るか気に入らないか」などと、もって回った言い回しをしましたが、パユはかつても、そして今も、世界屈指のフルーティストと言って良いでしょう。技巧面、表現力などの点からもモンクのつけようなどあるはずもありません。

そんな彼ですが、演奏をCDで聴いていますと、平板といいますか、特別なことは何もしていないように聴こえます。フルート協奏曲であるからといって、フルートソロが前面にグイグイと押し出てくるような演奏でも技巧バリバリという演奏でもない、斬新な解釈で驚かすこともしません。ごく自然に、さらりと、優雅にモーツァルトのメロディを奏でます。

たとえばK.313では第2楽章Adagio ma non troppoの気持ちよさといったらありません。肌を撫でる暑くも寒くもない、ごくゆるやかな風のような感じ、あるいは揺り籠でまどろむかのよう。カデンツァはニンフがやってきて夢見心地の唄を唄ってくれる。素敵すぎます。(ここだけではなく、カデンツァは全てが素晴らしいです)

ですからアクの強さや個性的な演奏を求める人などからは、物足りなく感じることがあるかもしれません。あまりに上品すぎるとか、うまいだけだとか・・・。

しかし、これはこれで良いかなと。極上の音楽と極上の演奏に身を任せる至福に浸りきること、私のような素人には、モーツァルトはどう演奏すべきかとか、とか、モーツァルト演奏がいかに難しいかなど、到底理解できません。聴いていて心地よければ、それが全てではないかと思ったりします。

とにもかくにも、パユのモーツァルトには惚れ惚れ。しかも聴いていて落ちつた気持ちにさせてくれる、そんな演奏だと思います。

2006年7月12日水曜日

東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2 高木綾子/モーツァルト:フルート協奏曲 K.313


高木さんの演奏の感想については、拙HPやブログでも何度も書いていながらにして、実演に接するのはこれが初めてです。


過大なる期待を持って演奏会に望んだのですが、聴き終わった後での感想といえば、完全に惚れ直したというのが正直なところ(ビジュアルぢゃなくて)。




まずステージに上がってきたところから既にオーラを発しています。モノが違うというのは、こういうことなのでしょう。淡いリラかラベンダーを思わせる色のドレスを颯爽と身に纏い、ステージ中央にスクと立った姿からは貫禄さえ感じます。


今年のモーツァルト・イヤーを含めて一体彼女は何回のモーツァルトを演奏しているのでしょう。ソロ活動中のパユがそうであったように、内心少々はウンザリ気味なのか、あるいは毎回気持ちを新たにできるものなのか、演奏者の表層的な内面は聴衆には分かる筈もありません。


オーケストラの前奏が始まると顔つきが一段と怜悧になり、伴奏を軽く口ずさみさえして音楽に没入していきます。その姿はスタート前のアスリートを思わせます。そして音楽に対する集中を一気に高めた後でのフルートの第一声。


��。何という音の掴みでしょう。そのビビッドさときたら、最初の出だしで一撃です。何度も聴きなれたフレーズがクイッとばかりに立ち上がる。生き生きとして快活で敏捷なモーツァルト。


彼女の演奏からは、野性とか高度な運動性能を感じることがあります。例えば、昨年発表したCDの武満徹の《海へ》。ここでも、動物的なカンとさえ思えるような印象の演奏が展開されます。他の武満像とは
少し(いや、かなり?)違う。今回のモーツァルトも学究的モーツァルト解釈の点からどうなのかは、私には全く分かりませんが、これほどにドキドキしながら聴いたモーツァルトも他にはないということも確か。


まるで黒豹を思わせるしなやかさを展開させながら、モーツァルトの世界をゆうゆうと突き抜けてゆく自在さ。1楽章最後のカデンツァは、もう息を呑むばかり。あまりに唖然。壮観、爽快、感歎。駆け抜ける音楽の至福。これがK.313なのか、いやこれこそがK313なのか。彼女の音色と残響だけが奏楽堂空間を満たしたときの音しか存在しない緊張と充実。この演奏を聴くだけでここに来た価値は充分にありました。


横で見守る金教授や藝大の関係者の方々は、どのような思いで彼女の演奏を聴いたのでしょう。カデンツァの最中に金教授がビオラの女性と目配せしているのが印象的でした。


高木さんのブログを読むと久しぶりに興奮した演奏若かりし頃の演奏に近くて、やりすぎたかなぁ~?と書かれていました。私のような聴衆(^^;;には受けは良かったと思いますよ(笑)。



ということで、予想以上の高木ショックのため、次なる高木綾子は8月27日、白寿ホールでの武満徹《ヴォイス》《海へ》に決定です。
(諸事情があって行きそびれました・・・激残念)


東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2


藝大の奏楽堂で、金昌国さんのレクチャーと幾つかの協奏曲を聴いてきました。



  1. レクチャー「通説に挑む」 モーツァルト フルート曲の真実ほか
  2. ホルン協奏曲 第4番 変ホ長調 K.495(大野雄太=新日本フィル)
  3. フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313(高木綾子=説明不要)
  4. オーボエ協奏曲 第1番 ト長調 K.314(K.285d)(小畑善昭=藝大助教授)
  5. 4つの管楽器のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B


  • 日時:2004年7月8日 13:00 東京藝術大学奏楽堂
  • 指揮:金昌国(藝大教授) 東京藝術大学有志オーケストラ
  • 真田伊都子(ob=日本フィル主席)、村井祐児(cl=藝大助教授)、河村幹子(fg=新日本フィル主席)、守山光三(hrn=藝大教授)



私の目当ては(当然ですが)フルーティストの高木綾子さんであります。高木さんの感想はエントリを改めることとしまして、それ以外の感想を簡単に書いておきましょう。


金教授のレクチャーの持ち時間は2時間。先生もおっしゃっていましたが、語り足りないくらいのようでしたね。フルートとモーツァルトが好きで好きでたまらなくて、「モーツァルトとフルートの関係を裂くような発言には猛然と反発したくなり、膨大な時間を費やして反論のための研究をしてきた」と言う金教授の熱意には脱帽するばかりです。最近手術をなさったとかで、まだ唇などが荒れたままで笛が吹けないのだそうです。そういえば(写真などと比べると)随分痩せたのでしょうか・・・。指揮の途中で指揮棒を落としておられましたが、今後も元気で活躍されることを祈るばかりです。


演奏会の最初は、2005年の日本音コン ホルン部門第1位、まさに日本を代表するホルン奏者 大野氏によるホルン協奏曲。丁寧で柔らかなホルンの音色から奏でられる音楽は、至福の時間を提供してくれました。ホルン奏者がこんなに格好いいものだとは、今の今まで知りませんでした。


オーボエ協奏曲は新日フィルの主席オーボエ奏者でもあった小畑氏による演奏。音楽演奏というものは人柄がにじみ出るものである、とつくづく感じました。表情が少し硬い印象を受けましたが、演奏は非常に温かみのあるもので、とても幸せな気持ちにさせてくれるものでした。カデンツァもさすがに百選練磨のプロですね、聴きごたえのある演奏でした。


最後の《管楽器のための協奏交響曲》は、モーツァルトの真作かどうかアヤシイとされている作品です。モーツァルトを愛する金教授は「モーツァルトの作品と信じて演奏します」とレクチャー最後で述べたように、素人的にはモーツァルトの作品でないと言われても真偽の程は分からない。それでも曲を聴いていますと、他の3曲の生き生きとした音楽に比べて、どこか平板な印象が拭えない印象も受けるのは先入観のなせるわざでしょうか。


��人の管楽器奏者の中では、音色の点においてもオーボエの真田さん(左写真)が群を抜く表現力でしたね。小畑さんのオーボエよりも更に明瞭で明るい音色には惚れ惚れしてしまいました。今でも演奏する姿が脳裏に浮かびます、決してビジュアル面だけでの評価ではありません。


ということで、次は高木綾子さんの演奏の感想に続きます。


2006年7月11日火曜日

ナンダロウ、この若冲フィーバーは?


東京国立博物館の「若冲と江戸絵画展」。確かに意欲的な企画であり、内容も充実しているのですが、ブログでネット上の感想をつらつらと読むにつけ、ちょっと普通の展覧会とは違った「熱気」に包まれているような気がしてなりません。昔から若冲を知っていて熱狂している人、今回始めて知って驚いている人。それぞれが、それぞれの観かたや楽しみ方をしていますが、語る言葉が途切れることがない、と言った感じのブログが多い。


これはいったい、どういうことなのか? と、少し考えてしまうのでした。

今まで異端とされていた伊藤若冲のような「エキセントリック」な画家が、日本にも存在したという新鮮な驚きと裏切り。精神性や哲学性、あるいは寓意や歴史性の薄さ、平明で分かりやすいテーマ。ヲタク的に語ることを尽きさせないテクニックとディテール。プライス氏の、自己の審美眼を信じた自己流のコレクションの確かさ。作品の展示方法への挑戦。数ヶ月も前から公式ブログを立ち上げる周到さ。などなど・・・。


すなわち、今までの権威的な芸術運動や教育に対する無意識のアンチテーゼ、自己の審美眼を信じたという「オレ流」への共感、そして、何よりも分かりやすさ。受ける準備は整ってたといったところでしょうか。


フェルメールや若冲の作品を観て来た後は

言葉が溢れんばかりに湧き出てきて整理がつかないほどです。

要は「簡単」なわけです。



弐代目・青い日記帳のTAKさんの指摘、さすがですね。


「簡単」なことが悪いわけではありません。くだらない考察でした。




伊藤若冲 《猛虎図》部分

東京国立博物館:プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展

東京国立博物館で7月4日に開幕したプライスコレクションを早速観てきました。


この企画は展覧会の公式ブログが立ち上がっていまして、内容的にも非常に充実しているだろうことが予想されました。混雑の中で絵を鑑賞するのはつらいものがありますから9時には発券場に到着。開門と同時に早足で平成館まで急ぎ(チンタラ歩く100人ほどを抜き去って)展覧会場まで一気に駆けつけました。


今回の目玉である若冲と、実はこちらの方が期待の大きかった琳派の絵をまず足早に鑑賞。オシマイまでざっと、どこに何が展示してあるのか確認してから最初に戻り、今度は人の流れに乗りながら、もう一度ゆるりと鑑賞いたしました。


ただ、今回の展覧会は、そんなことまでしなくても「列は止まらずにお進みください」などという莫迦なアナウンスが登場するほどに混雑はしていなかったんですが・・・。





プライスコレクションの充実度とか若冲の魅力については、公式ブログで詳しく説明されていますから、ここでくだくだしく述べる必要がないほどです。しかしこうして、ある程度まとめて若冲に接しますと、若冲は技法の多彩な画家であり、かつ北斎に劣らぬ画狂であったのだなと思います。




有名な《鳥獣花木図屏風》(上図)は横尾忠則を彷彿とさせるポップさとラディカルさを感じずにはいられません。近寄って仔細に観ますと、升目を埋めた色彩からは芸術家に特有の疲れを知らない偏執さを感じますし、離れて絵を概観すれば象の莫迦莫迦しいほどの大きさに圧倒されます。しかし若冲は、そこに諧謔を込めているわけでは微塵もなく、真正面からこの技法と構図に辿りついているようです。


極度に簡略した技法と勢いのある筆致で描かれた《鶴図屏風》の滑稽さと洒脱さを、若い女性は「カワイイ」と感想を漏らします。しかし、当の若冲が鑑賞者に媚を払ったという痕跡は全く感じられません。


そういう若冲のたどり着いた境地が、83歳の時の《鷲図》(左図)です。同じ時期に描かれた《伏見人形図》との技法の差異に驚かされると同時に、鷲の迫力と波頭表現の様式化の対比など見事の一言であり、唸らざるを得ません。



日本画の代表と言えば応挙的なものばかり強調し、印象派は教えても若冲的な様式を教えてこなかった日本の美術教育は、いかがなものかと(一瞬)思ったりします。


第4室での展示は「江戸琳派展」と称し、酒井抱一や鈴木其一の作品を堪能できます。早朝のまだ数人しかいない展示室で、酒井抱一の《十二か月花鳥図》を独占して眺めることのできる至福といったらありません。もう思わず顔はにやけてしまい、ためつすがめつ堪能させてもらいました。


ここの展示空間は少し変わっていて、作品をフラットな照明で鑑賞するのではなく「変化する光」の中で作品の魅力が変ずることを鑑賞者に気付かせるようになっています。プライス氏によると日本画は見えすぎても良くないのだそうです。作品を照らす光により印象が異なってしまうことは、この間の地中美術館で鑑賞したモネについても感じたことです。



琳派ですから魅力的な作品は多いのですが、ここでは《佐野渡図屏風図》(上図)を挙げておきましょう。光の変化によって、キラキラと降る雪が極めて効果的に画面を印象付けてくれます。画像を観てお気づきでしょうか、印刷(レプリカ)となっては「変化して舞い降りる雪」を全く認識することができません(画面中央に「しみ」のようにしか確認できない)。実にこの画の雪の美しさときたら絶品なのですが。


ここに紹介した作品の他にもまだまだ魅力的な作品は山盛りです。長沢芦雪の《幽霊図》や森狙仙の猿も素晴らしいです。鶴や猿や虎などの動物も良いですが美人画だって魅力的です。語りだしたらキリがなくなりそうです。


こうして思い出しても本当に力の入った展覧会だと思います。図録は重いので買わなかったのですが、ちょっと後悔。会期は8月27日までですから、終るまでに、もう一度くらい行こうと考えています。(と思ったけれど、日程を考えると、もうほとんど予定がなさそうな・・・)