2006年1月29日日曜日

ジャック・ウェルチ:「わが経営(下)」



ジャック・ウェルチの「わが経営」を上下巻読み通し、ジャックと一緒に長い旅を終えたような気になりました。社員数30万人近い多国籍企業のCEOになるには、どういう道のりがあるのか、そしてCEOに備わる資質とは何か、企業経営とはどういうものか、また企業とは何なのかということが、そして人生とは何なのか。本の端々にはジャックの人生哲学が読み取れます。


数多くの企業買収を手がけ、数え切れないほどのリストラを実行し、GEを根本から変え大きく発展させた二十世紀最高の経営者、その人間性の一端に触れたとき、深い感動さえ覚えてしまいます。




特に「第24章 CEOという仕事の本質」は、下巻の中で必読部分でしょうか。ジャックはCEOという仕事は最高、最高だ。(中略)これほどすばらしい仕事が他にあるだろうか。報酬は確かに高額、しかし本当の報酬はその楽しさにある(P.271)熱く語ります。


また、彼が後継者を選ぶに当たっての内実を語った「第26章 「ニュー・ガイ」」は、この章だけでひとつの物語が書けそうなくらいのドラマです。ジャックが後継者選びを本格的に始めたのは、まだ任期を7年以上も残している1993年11月だと言います。後継者を23人に絞り込み個々の候補者の教育プランを入念に練り上げ、2000年までの昇進の筋書きを一人ずつ組み上げた(P.332)と説明しています。人材を選別し、育てながらGEの企業文化に最も合った、最高のリーダーを徹底的に選び抜く、その過程において「政治的」なものがほとんど介入されないように、最新の注意を払って!


何が彼をここまで駆り立てるのか。エピローグにある2001年1月にジャックがGEを去るに当たって催されたボカ・ラントでの上級管理職ミーティング最終日でのスピーチに全てが言い尽くされています。


われわれは力を合わせて、想像もしなかったことをなし遂げてきた。そしてとても届かないと思っていたところにまで到達した。われわれはみな、不可能だと考えていた夢をかなえてしまった。私はと言えば、みんなとほとんど同じ立場からスタートし、そして社員全員の立派な仕事のおかげで幸運を手にすることができた。みなさんのすばらしい仕事に感謝したい(P.383)


ジャック入社三年目の1963年、ピッツフィールドのプラスチック工場を爆発させてしまったように、


これから先には全く新しい勝負が待っている。変革を起こそう。(中略)GEという組織をひっくり返し、揺さぶり、そして屋根を吹っ飛ばせ(P.380)


ユーモアも含めジャックにしか言えない言葉です。


本書を読み終えて、これに先立つ20年前、彼がCEOになることを推していなかった当時の副会長ジャック・パーカーの言葉を思い出します。


私は君を指示しなったし、GEを経営するにはふさわしくない人物だと思っている。この会社をめちゃくちゃにしないでくれ(上巻 P.146)


真の改革者、リーダーとは、どういうものであるのか、本書はその一例を見事に示しているといえます。

2006年1月27日金曜日

なんでも「市場原理主義」が悪いわけではなかろうに


ライブドア堀江氏の逮捕についてマスコミや識者が色々書き始めています。1月25日の読売新聞では「国家の品格」の著者である藤原正彦氏が、今回の事件を生み出した現在の日本の姿について持論を展開されております。




市場原理主義が経済学の中でどどまっていれば、まだいい。(中略)ところが市場原理主義は、人間の価値基準、行動基準まで書き換える。それが恐ろしい。


市場原理主義の広がりによって、日本は世界でも特異な国柄を捨てつつある。成果主義に追いまくられ、雇用が安定せず、人間を幸福にしない社会にしている。


市場原理主義によって情緒という日本人の行動基準、特に弱者に配慮する"惻隠の情"が根こそぎやられた。



実はまだ「国家の品格」は読んでいないのですが、この言説によって凡その主旨は掴めました。藤原氏が「市場原理主義」をどのようなスコープで使っているのか不明なのですが、一企業に身を置く立場からは、感情的に理解する点はあるものの、「市場原理主義」が全ての弊害ではあるまいにと考えます。


この問題は、資本主義に換わる大きなパラダイムシフトや「幸福論」を示唆しますので簡単な問題ではありません。藤原氏の提唱するのは、グローバリズムや自由を制限的に考え「武士道」精神の復活ですが、それが日本「国家」の品格につながるのか。現代の日本を憂慮する気持ちは伝わってきますので、全否定しているわけではありません。ただ傾聴すべき点は多いものの、議論がストレートすぎるなと。


さて、議論を縮小して「多様さ」を前提に考えを展開しようとしたとき、今の日本には「幸福感の多様さ」を受け入れる土台が出来ていないように思えます。「多様さ」を受け入れることは、「選択」と「選別」も避ることができず、「多様さ」の結果として「結果の不平等」を是認する以上、システムとしては「機会の平等」の整備も必要となります。そういう点からは政府の役割や企業、NPOなど組織の存在価値について、もっと議論されても良いと思います。


「国家の品格」という本は、おそらく買わないだろうなと。大新聞のコラムで大きな問題を簡単に結論づけてしまうような態度に藤原氏の「思い」先行の危険性を感じますし、最近の新書のレベルと品格は、著者の品格や主張とは無関係に、一昔前に比べて随分と低下していると思いますので(>ムカシに比べて、値段の割に文字数が少なくて内容が薄い・・・気がする)。

2006年1月26日木曜日

歌舞伎座:伽羅先代萩


伽羅先代萩」ですが、これはまず子役が良くないと面白くなかろうと思っていましたが、千松を演じる虎之介は見事に初舞台の重役をこなしていました。「常々教へておいた事、幼な心に聞き分けて、よくぞ覚えたり、出かしやった/\、天晴ぢゃ」という程の出来。人形のように華奢な体から発せられる高く通る声は、それゆえに健気さと哀れさをさそいます。


イロイロ予習して望んだのですが、政岡については先に紹介した「祝福に対する予見性」というような屈折した感情を藤十郎の芝居からは感じませんでした。また、政岡は床本を読む限り気丈夫な女という印象でしたが、藤十郎の正岡はもっと柔らかく情が強い。理よりも情が勝った政岡像という具合に感じました。


ここのところを「一閑堂」のぽん太さんは「生理に根ざした政岡」と書いておられます。それと似たような印象を覚えたのは「飯(まま)炊き」での演技です。


風炉にかけたる茶飯釜湯の試みを千松に飲ます茶碗も楽ならで


「飯炊き」は芸談を読むといろいろな型があるようですが、藤十郎は茶の手前に時間をかけることなく手早く済ませているようです。むしろ湯を飲ませた後の千松を眺めやる、眼差しと手つきに緊張感を強調したのかなと。米を研ぐ場面では茶筅を用いず手で研ぐことにより「飯炊き」に生々しさとリアルさが入ったように感じられます。そして、藤十郎は米を研ぎながら、三味線に乗ってこうツイと左肩を落とすきまりを何度か繰り返します。若干のおかしみを伴う仕草で、観客からは笑いも生じるのですが、私はここに政岡の口には出せぬ悲しみの表現を感じました。


「一閑堂」のポン太さんがここは本質的にギャグであり、役者の工夫をみせる見世場に違いないと指摘しますが首肯すべき指摘かもしれません。おそらくここは作者の観客へのサービスなのでありましょう。鶴千代や千松の戯れとともに、ほのぼのとした温かみを感じさせる場面です。陰謀渦巻くお屋敷の中で、このつかの間の平和があるからこそ、後の悲劇も大きくなります。しかし、ここが喜劇であることに同意するとしても、藤十郎は喜劇の底に潜む母の悲しみと、将来的な悲劇の断章を垣間見せてくれたように思えます。


さて、その酷いまでの悲劇の場面。


となぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先へこたゆる辛さ無念さを、じつとこらゆる辛抱は、ただ若君が大事ぞと涙一滴目に持たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鑑、いまにその名は芳しき。


鶴千代の安全はは守りながらも、駆け出しそうに、あるいは崩れ落ちそうになる体を柱で支えつつ、子の最期をひっしと見守る。その辛さ悲しさ狂おしさ。それは芝居を見ていてもヒシヒシと伝わってくきます。決して文字面から見えてくる「烈女」はそこには居ません。


「飯炊き」での肩を何度かツイと落とすきまりは、千松の死骸に向かって袱紗を口に含んでの場面でも見ることができました。そこには政岡が最愛の我が子を亡くした悲しみが凝縮されているように感じました。


千松を殺した八汐は、どうしてあそこまで子供に対して無残になれたのでしょう。


ムヽスリヤこれでも此方は何ともないかや、これでもかこれでもか


と言いながら千松に何度も刃を突き刺す八汐の心は、お家騒動そのものよりも、政岡その人にあったのかもしれないと考えたりしました。「御殿の段」の前は「竹の間の段」で、鶴千代を亡き者にしよとする政岡と八汐の駆け引きが書かれています。この段では八汐が分が悪くなり引き下がっていますから、続く「御殿の段」では、どうしても政岡をやり込めたかったという、女の私讐心が八汐にはなかったか。


政岡は千松の遺骸を抱いて泣き叫ぶ場面。鶴澤八介氏のネットで読める床本では、


君の御為かねてより覚悟は極めていながらも、せめて人らしい者の手にかゝつても死す事か、素性賎しい銀兵衛が女房づれの刃にかゝり


とあります。藤十郎は「素性卑しき八汐づれのの刃にかかり・・・」と言っていたように聴こえましたが、いずれにしても、政岡のそういう感情を知っての八汐の私怨もあるのかなと。その復讐心の激しさ故に、千松を殺した後に引き下がるときの八汐の見得は、悪女の勝ち誇りそのもの。悪役ながら観る者をその場でグッと惹き付けます。そういう悪女の憎らしさと誇らしさを梅玉の演技から感じました。


政岡が八汐を返り討つ場面は(観客にとっても)「憎たらしい」八汐を仕留めたことにより溜飲を下げ、同時に歌舞伎の持つ型の美しさが充分に発揮された場面でありますから、これぞ歌舞伎を観る快楽と言わずに何といいましょうか、ということになるわけです。


「床下の段」はオマケみたいなものですが、さにあらず。吉右衛門の荒獅子男之助、幸四郎の仁木弾正と全く贅沢な組み合わせ。吉之助は何と初役とのことですが、吉右衛門らしい力強さ、爽快さ、明るさがいい、彼の芸を観るだけで心が晴れます。対する幸四郎の仁木弾正は、もう笑いたくなるくらいにハマっていて、どうしたらそこまで不気味な仁木弾正になりきれるのか、肩をたたいて問いかけたくなるほど。政岡の悲しみも、千松の哀れも、全てこの二人の荒事で厄落とし、爽快に幕となります。まさに「一粒で二度おいしい」演目です。


もっとも新藤十郎に全く問題なかったかというと、そうでもありません。歌舞伎初級者以下の私が書くのも憚られますが、声が少し枯れており、連日の襲名披露公演のお疲れか?と少々心配したことも確か。あれが藤十郎の「芸」なのでしょうか・・・


ちなみに、この演目は気になりましたので二度ほど観ての感想です。やはり二度目の方が面白く、感慨も深いものがありました。とは申しましても、かなりいい加減な感想ですので歌舞伎ファンの方は、テキトーに読み流してください m(_ _)m

2006年1月25日水曜日

モーツァルトの音楽に関するメモ

モーツァルトの音楽は彼の私生活の美しさとは無関係に成立している。彼の音楽にロマン派的な解釈論を持ち込むことの間違い。


神を讃えるのでも、自らの内的告白でもないとしたとき、モーツァルトの音楽はどこに立脚するか。単なる慰めと享楽というには完成され、美しすぎ、神聖さえ帯びる矛盾をどう許容すべきか。

2006年1月24日火曜日

歌舞伎座:初春大歌舞伎~坂田藤十郎襲名披露公演


歌舞伎座で「初春大歌舞伎の夜の部」を観てきました。今回は中村鴈次郎改め坂田藤十郎の襲名披露公演を兼ねています。


演目は扇雀が初代中村鴈次郎の当たり役であった藤十郎役を曾孫の扇雀が演じるという「藤十郎の恋」。続いては坂田藤十郎の「襲名披露 口上」、そして新藤十郎が難しい役どころの正岡を演じる「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」。最後は福助の「島の千歳(しまのせんざい)」、そして橋之助、染五郎による「関三奴(せきさんやっこ)」の四本です。


それぞれ大変楽しむ事ができました。(読み返して思ったが、歌舞伎ファンでなくては意味不明の文章だな↑・・・まあいいや。)


藤十郎の恋」は江戸時代の初代藤十郎を描いた菊池寛の作品。この芝居から当時の藤十郎の姿が彷彿とするというわけではありませんが(そもそも初代藤十郎の芸がどんなであったか、正確には残っていないわけですし)、芝居としてみたときには、それなりに面白いかなと。


芝居の見せ場は、藤十郎がお梶に偽の恋を仕掛けるところです。藤十郎は熱い思いを打ち明けながらも、それは全ては芝居演技の参考に女心を観察するため。対するお梶は、秘めていた感情をかき乱されてしまう。藤十郎の告白に必死の覚悟を決めたお梶が、ふと行灯を消す。「どきり!」としたのは、舞台の上の藤十郎だけではないでしょう。あらかじめ筋を知っていたのに、思わず冷や汗。その後は、だんまりになって藤十郎は事の成行きに慌てて逃げるように部屋から出てしまうのですが・・・。ここに男と女の強さの違いを感じました。いざとなると肝が据わっているのは女かなと。


当時は遊郭での売春は許容されていても、結婚した者との不義密通は磔刑になるほどの重罪。藤十郎は芸に命をかけ、お梶は一瞬の恋に命をかけた。


藤十郎の芸の人気が女子一人の命などで傷つけられてよいものか


藤十郎がよろめきながらも、自らを納得、鼓舞するかのように叫ぶ様は、近代的倫理観では肯定できない科白ですが、藤十郎の写実を重んじた芸の厳しさを表したということなのでしょうか。「芸の為なら~♪」という演歌もありましたっけ・・・(演歌は全く聴きませんが)


初代藤十郎を演じる扇雀はホンモノの藤十郎に遠慮したか、観終わった感想としては時蔵のお梶の印象の方が強い。「女」の凄みですかね。それとは対照的な芝居小屋の楽屋裏のがやがやした雰囲気が、何ともにぎやかで楽しめる舞台でした。


襲名披露 口上」はおめでたい席ですから、素直に楽しめます。両脇を幸四郎と吉右衛門が押さえているところなど「飛車角で固めた」という印象。「藤十郎」という名前を襲名していますが、「四代目」とは名乗らず、ただ「坂田藤十郎」と名乗っているところに、江戸歌舞伎の市川團十郎との違いや、新藤十郎の強い意志を感じました。


「島の千歳」は、福助の島の千歳が個人的には良かったですね。艶やかさ、優美さ、福助の踊りはやはらかく観ていて気持ちが良いです。橋之助、染五郎の「関三奴」は、快活な舞踏。歌舞伎に疎い私には、どちらが誰なのか最後まで分かりませんでしたが!!( -_-)=○☆)>_<)、充分楽しめました。


「伽羅先代萩」はエントリを改めます。

2006年1月23日月曜日

歌舞伎座の川端龍子

何度も歌舞伎座に行っていたのに、西側の階段踊り場に川端龍子の絵が飾ってあることに今日初めて気が付きました。緑色の獅子が白い牡丹をくわえた大きな絵です。


なるほど眺め、うむうむと唸り、三歩下がって離れて観ようとしたら、階段からコケそうになりました。気をつけて鑑賞いたしましょう(笑)

2006年1月21日土曜日

伽羅先代萩


「一閑堂」というブログで、今月の歌舞伎座夜の部「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」は見ものであるとのエントリ(新藤十郎の政岡)を読み、そういえば「先代萩」は歌舞伎では有名な演目だったなあ、新藤十郎の「口上」も観てみたいものぢゃなあ、と思い立ったらいてもたってもいられなくなって、慌ててチケット松竹で今週日曜日の席を予約しました。



ただ観るのも何だと思い、ネット検索で情報を収集しておきます。まずは定本ではいつもお世話になる鶴澤八介メモリアル「文楽」ホームページに「竹の間の段」「御殿の段」「正岡忠義の段」「床下の段」のテキストがありますので、「御殿の段」からざっと目を通しました。読むだけで泣けてきます。武士の子が哀れ、母も哀れ、きっと客席は涙にくれていることでしょう。下は主君の毒見役を言いつけられている、千松の台詞です。


コレ母様、侍の子といふものは、ひもじい目をするが忠義ぢや、また食べる時には毒でも何とも思はず、お主のためには喰ふものぢやと言はしやつた故に、わしや何とも云はずに待つている。その代り、忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや。それまでは明日までもいつまでも、かうきつと座つて、お膝に手をついて待つてをります。お腹がすいても、ひもじうない、何ともない


有名な「飯炊き」の場面を二人の子役を相手に正岡はどう演じているのか、子を嬲り殺しされた後の演技やいかに、子役もどうか、定本を読みながらも興味は舞台の上をさまよいます。


次にググると、歌舞伎素人講釈というサイトで「引き裂かれた状況」と題する文章を発見。早速読んでみますと、正岡という女性の心理状況を「予祝性」という言葉を用いて、見事に説明しています。(興味のある方はリンク先を参照ください)


武家に生まれた故の運命と武士として生きることの意味、そしてそこにある人間的な不条理。その捩れた運命においての逆説的な哀しい「至福」の瞬間とは。歌舞伎においては、「武士の母」の子の武運を祈り武士として忠義を果たすことをわが身や家の誇りとする一方で、親としての愛情を隠し切れないという二重性がよく描かれます。極めて封建的ですが、今尚涙をさそうテーマですね(;_;ゞ


2006年1月19日木曜日

遠藤徹:「姉飼」


18日に今年のA賞、N賞が決定したようですね。両賞とも実力派の二人ですが、おそらく読まないだろうなと(^^;;; さて、第12回 日本ホラー小説大賞
作品の感想
を先日書きましたが、そういえば第10回の本作は読まずにいたなと思い出し、こちらも短編なので、ついでですから(気は進まないのですが)読んでみることとしました。


大賞受賞作なのに今まで読まずにいたのは、この題名と表紙、そして帯に踊る文字にゲンナリしてしまい、これは私の読む作品ではないなと思っていたからです。読んだ感想としては、日本ホラー小説大賞を選ぶ選考委員の方々も随分ですねといったところ。当然ですが立ち読みです、細かいところはフォローできません。




とにかく、こういう作品を選んでしまう、選ばざるを得ないところに他の作品のレベルやテーマの飽和度を感じてしまいます。選考委員の方々も、新たな地平とか刺激とか、可能性に偏りすぎているのではないかと思ったりします。ダメなものはダメです。これが「選ばれるとは思わなかった」というのなら、選考システムがオカシイ。


「加虐過剰」とか「別の次元から送られてきた作品」とか評されていますが、想像力は貧困で、どこか同人誌的な匂いを感じます。マニアックでフェティッシュな同人誌系(読んだことないですが)にありがちな、作者と読者の妄想を最大限に膨らませた、狭い世界での異形のファンタジーですね。これが秋葉原とか中野のような場所で売られているのなら文句もつけませんが、一般書店の一等地に売られていることは少し異常です。


人間の理性が崩れてく様を描くとしても他にやりようはあるでしょうし、ここには確信犯的なグロテスクとサディスティックさしか私には感じられません。倫理観も小説観もブチ壊し、あえて賞に挑むという点からは「選考委員への挑戦か!?」というのは当たっているかもしれません。江戸川乱歩や谷崎潤一郎のような耽美を今更求めるわけではありませんが。


唯一秀逸なのは「姉飼」という題名でしょうか。「姉」という言葉と意味の無関係さ、奇妙なズレ感とザラついた嫌悪感。このセンスでもっと別な世界を書いていてくれたのなら、印象は違ったか。一番コワイのは内容ではなくて小説の「題名」なんですから。


この作品を読んで、日本ホラー小説大賞の底はとっくに割れていたと考えるか、光明と捉えるか。いずれにしても、好きにはなれない作品です、ああ読まなきゃよかった。

追記


えんどう・とおる 1961年神戸市生まれ。東大文、農学部卒業後、早稲田大大学院博士課程で学ぶ。現在、同志社大言語文化教育研究センター助教授。研究書に「プラスチックの文化史」「溶解論」など。京田辺市在住。


あちゃ、同世代ぢゃん! もっと若い人と思っていました。

2006年1月18日水曜日

人材の育成


「内田 樹の研究室」で、まさに今紹介した経営本に通ずるようなエントリを発見。「即戦力といわれても」と題されたもので、玄田有史氏の『働く過剰』(NTT出版)から下記の部分を引用されています。



わが社のことを最も熟知し、会社と個人のあいだで強い信頼関係を形成している、わが社にしかいないような人材を、自前で育成することでしか、本当の意味での差別化は不可能なのである。したがって、最終的には、即戦力の調達だけでは限界があり、人材の育成を重視する企業だけが、ビジネス上、優位に立てるのだという、当たり前の結論に到達することになる。(9-10頁)


「ビジョナリー・カンパニー」では、以下のように書かれていました。


角度を少し変えるなら、ビジョナリー・カンパニーの延べ千七百年の歴史のなかで、社外人材が最高経営責任者になった例は四回しかなかった。(P.294 「第八章 生え抜きの経営陣」)


すなわち、優秀な経営陣の継続性と、それによる基本理念の維持。自らの企業のことを最も熟知した、文字通り「生え抜き」が企業を持続的に発展させると指摘しています。ジャック・ウェルチはCEO就任と同時に、クロトンビルという幹部養成機関を徹底的に改革し世界でも一流の開発研修所に作り変えました。一にもニにも、企業の競争力の源泉は人材にあることを理解した上での行動であったと言えます。転職とヘッドハンティング天国が米国の実態ではなく、それは単に「結果の不平等」に対するセーフティ・ネットとしての「機会の平等」の帰結でしかないのかもしれません。

ジャック・ウェルチ:「わが経営(上)」



「わが経営」とタイトルにあるように、これはジャック・ウェルチの自伝です。しかし単なる自伝ではなく、彼の経営哲学が何であるか、従業員40万人も超える企業を企業を経営するとは、その企業を変えるとは、一体どういうことなのか。5年足らずの間に、全社員の四人に一人、すなわち11万8千人もの人員をリストラをすることは正しいのか、M&Aを繰り返すことは経営にプラスになるのか。

全ては市場で、「ナンバー・ワンかナンバー・ツー」に成るため。およそ企業経営に感心がある人ならば、興味の尽きない話題が続きます。特にCEO後継選びの内実や、そこでの有名な「飛行機面接」のエピソードは読み物としても秀逸です。



しかし日本にはこれほど厳しく情熱的な経営者は見当たらないかもしれません。特に「選別」ということについては、日本人の企業風土からは冷酷と感じられるかもしれません。ウェルチは成績を上げようとする努力する行為は小学一年のときから生活の一部になっている。(中略)生まれてから20歳になるまで、われわれはみな段階評価を受けている。活動している時間のほとんどを過ごす職場で、(選別評価を)一体なぜやめなければならないのか。(P.278 「第11章 人材工場」)成長や昇進の見込みのない人たちを残しておくことこそ、残酷なことであり、"間違った親切"ではないか(P.277)と主張します。そこには徹底した能力主義と競争社会を前提とした企業経営があります。


業績だけがものをいう世界なのだ。(P.287)

それを是とするならば、企業経営者のみならず管理者にとっても様々なアイデアを提供してくれる本といえます。もっとも、ジャック・ウェルチは冷酷なのではなく、本書を読む限りにおいても極めて人間的であり、企業の源泉は「人材」であると考えていることに間違いはありません。


ビジョナリー・カンパニー」で書かれていた「ORの抑制」ではなく「ANDの才能」ということも、ジャック・ウェルチの言葉で以下のように示されます。



  • 最高の給与を支払う一方で、賃金コストを最低に抑えている。
  • 長期的な視点で経営する一方、短期的にも、"食える"ようにできるのか。
  • 「ソフト」であるために「ハード」になる必要がある。

(P.216 「第9章 「ニュートロン」時代」)



彼のビジョンに対する熱意と実行力には、ほとほと舌を巻きますし、ここまでポジティブな人間が存在することには驚きさえ感じます。40歳半ばで従業員40万人を要するGEの会長(CEO)という立場になったのですから半端でないことは認めますが、ウェルチの作り上げたような企業で働くのは、おそらくシンドイだろうな・・・なと。


このような「ガムシャラ」な企業経営が21世紀も続くのだろうか、などと暢気なことを考えていたら、おそらく数年後には自分の職どころか企業ごとなどなくなるのかもしれません。中国やインドなどBRICsの企業エリート達を支えるモチベーションは、今の腑抜けた日本の企業が持つそれよりも、はるかに上昇志向的であり、この瞬間も猛然と働いているのだろうなと・・・

2006年1月17日火曜日

恒川光太郎:「夜市(よいち)」



第12回日本ホラー小説大賞を受賞、林真理子氏、荒俣宏氏、高橋克彦氏らが絶賛している作品です。日本ホラー小説大賞は1994年に始まっていますが、大賞受賞作は今回の作品を含めてわずか6作品という、大変権威ある賞です(>本当か?)。何と言いましても第1回に始まったときは、大賞なしでスタートしたのですから!(佳作は板東眞砂子氏の「蟲」)


そういうわけで期待を込めて本屋に行ったのですが、開いてみますとスカスカの行間で七十数頁の短編小説。恒川光太郎氏のデビュー作であるらしく、ここは慎重を期して立ち読みで済ますことにしました(^^;;




で、読んだ感想ですが、荒俣さん・・・この小説のどこで「めずらしく泣」けましたか? 高橋さん・・・どこで「愕然となった」のですか? そして林さん・・・、文章にムダがなければ良いわけぢゃなかろうに、「文句なしの大賞」ですか? 皆さん大賞のボーダーが変わってません? というのが第一印象。


確かに面白いですよ、独特の雰囲気もグッドです。「悲しみをたたえたストーリー」であることも認めましょう。野球がうまくなって青空に向かってホームランを打っても、気持ちが晴れない、次第に高まる自己嫌悪と自らの存在を脅かす得体の知れない不安と恐怖。怖れ悩みながらも、「夜市」を待ち、そこに行くことを決心するには、大きな葛藤もあったことでしょう。


そういうプロットは理解した上でなのですが、私がこの作品から受けた印象は、感動とか恐怖とは別の、全体を覆う希薄さでした。主人公が大きな代償を払ってまで手に入れた「才能」に対する執着のなさと諦め。女性の恐怖感の薄さ、帰りたいという願望の希薄さ、言動の端々の不自然さ、弟の「逃げた」後の生活のリアリティの薄さなどなど・・・


小説の主人公達は、自ら陥っている出口のない状況にも関わらず、凍るような恐怖も、あくなき願望も、侮恨の声も発さないかのようです。主人公の青年が、最後は「夜市」の一部になることさえ、穏やかな諦めの中で認め、そして自ら進んでそうなろうとします。


この小説は、欲望とか願望とか才能とか、あるいは他者との関係性どころか自分さえもが、この世界においては、そんなに重要なものではないということ。彼女が指摘した「ゴミみたい」なものに我々が包まれていることを是認した地平の上に成立しているように思えます。それが主人公が代償の果てに手に入れた理想や欲望に対する諦念であるため、そこにある種のニヒリズムさえ感じてしまいます。


この希薄さが一種独特の静けさにつながり、この世にあらぬ「夜市」の雰囲気にマッチしています。でも、すっごく淋しい小説です。終わり方もハッピーエンドかバッドエンドかと論ぜられるようなものではない。うまいと言えば上手いのでしょうが、でもねえ、こんな小説で満足しちゃダメだっ!! もっと(下品でもいいから)「ガツン!」としたホラーが読みたい!という気持ちも否定できないのでした。(>今の時代の雰囲気に合っているのかと、思ったりもしましたが・・・)

2006年1月13日金曜日

ビジョナリー・カンパニー 時代を超える生存の原則



スタンフォード大学教授で企業コンサルタントとしても活躍している、ジェームズ・C・コリンズとジェリー・I・ポピンズによる、6年間にもわたる膨大な企業研究から得られた本です。ビジョナリー・カンパニーという言葉は耳慣れませんが、・業界で卓越した企業 ・見識のある経営者や企業幹部の間で、広く尊敬されている ・私たちが暮らす社会に、消えることのない足跡を残している ・CEOが世代交代している ・当初の主力商品がライフ・サイクルを超えて繁栄している ・1950年以前に設立されているなど幾つかの条件を設定し、ビジョナリー・カンパニーと言える企業と、比較対象企業が本質的に違う点は何か、他のグループの会社と際立っている点は何かを、具体的に明らかにした本です。



企業で働く人にとっては多くの知見に満ちており、とても簡単に本書の内容を表すことなどできません。示された企業の生き様は、是非や賛否を超えて感動的でさえあります。(企業の挿話は、ちょっとした小説よりもずっと面白い)


印象に残った点を一点だけ書くとしたら「ビジョナリー・カンパニー」で働くことは、甘いものではない、ということです。第九章 決して満足しない、第十章 はじまりの終わり という章名を見ただけで、決してゴールなどないことが分かります。信ずるに足る理念と、それに向けての不断の改善を是とするタイプの人でなくては、到底勤まるものではないと思い知ります。


また本書では、ビジョナリー・カンパニーはカルトのような文化を有していると説明します。ノードストローム、IBM、ディズニー、P&Gなどの実例を出して、企業の成長過程においての、カルト的な性格の重要性を説明しています。IBMまでもがカルトのような企業文化を維持(P.212)していることには驚きましたが、著者はビジョナリー・カンパニーがカルトとだと言っているのではありません。しかし、


ビジョナリー・カンパニーは不安をつくり出し(言い換えれば自己満足に陥らないようし)、それによって外部の世界に強いられる前に変化し、改善するよう促す強力な仕組みを設けている(P.317 第九章 決して満足しない)


とあるように、不安を生み出して原動力とする点など、ほとんど新興宗教の手法とそっくりです、たまりませんね(^^;;


ここに選ばれたビジョナリー・カンパニー18社(日本ではSONYが唯一挙げられている)の中の幾つもの企業が「猛烈に働く」ことを社員に求めています。先に読んだジャック・ウェルチの場合もそうでした。時にカイシャ人間と批判的に語られる日本のサラリーマン像ですが、ガンガン働いている(いた)のは、何も日本人ばかりではなかった(ない)のです。アメリカの企業も社員に対し、仕事に没入することや生活の一部を犠牲にすることを強く求めています。違いがあるとすると、「選別」のシステムが発達しているため、合わなければ止める、変わるという選択の幅が広いという点でしょうか。個人の自由は保障され、結果に対しては自分で責任を取ることが自明のこととなっているようです。


今の日本はカイシャ以外にも、幸せや楽しいことはいっぱいあるよ、がむしゃらに働くだけが人生ぢゃないよ、という風潮になっていますが、本書を読むと、究極的には何のために働いているのか、人生をどう生きるのか、という自身に対する問いかけが隠されていいるように思えます。


哲学的なハナシはさておいたとしても、企業の存続や経営ということに興味がない人であったとしても成功している企業の特徴に関心があるすべての人(「はじめに」)にとって、何らかの(強い)示唆を与えてくれると思います。

2006年1月11日水曜日

ゲルギエフ指揮:マリンスキー劇場管 ワーグナー「指環」演奏会形式


��日はゲルギエフ指揮マリンスキー劇場管によるワーグナー「指環」の演奏会形式版を所沢で聴いてきました。


    ワーグナー 舞台祭典劇「ニーベルングの指環」より

  1. ヴァルハラ城への神々の入場~「ラインの黄金」より
  2. ヴァルキューレの騎行~「ヴァルキューレ」より
  3. 魔の炎の音楽~「ヴァルキューレ」より
  4. 森のささやき~「ジークフリート」より
  5. 「ヴァルキューレ」第1幕,全曲(演奏会形式)


  • ジークムント:アレクセイ・ステブリアンコ(T)
  • ジークリンデ:ムラーダ・フドレイ(S)
  • フンディンク:ゲンナジー・ベズズベンコフ(Bs)

行く前は「演奏会形式」ですし随分迷ったのですが、当日券(1階18列20)を開演5分前に購入、結局聴いてしまいました。結果的には満足のゆく充実した演奏会であったと思います。




まず、演奏曲目が「指揮者の強い要望により」上記に変更されたとのアナウンス。知名度の点からは「ヴァルキューレの騎行」ははずせないのだろう、とは思いましたが、前半はちょっと雑駁な印象。


いきなり「ラインの黄金」の「ヴァルハラ城への神々の入場」から聴きはじめるのは、どうしたって違和感、無理がある。「ラインの黄金」を演奏するならば、「指環」全体を象徴するかのような前奏曲ははずして欲しくないなあ、などと勝手なことを考えながら聴いてしまいます。二曲目から「騎行」を聴かされるのもツライ、まだそんな気分ではない。


歌が入らない演奏なのも、主人の居ない(あるいは眠り薬で眠らせている)家にお邪魔しているような感じで、どうも居心地が悪い。それはヴァルキューレでも同じで、彼女たちの奇声が聴こえない騎行は興醒めでシンバルの連打も白々しい。しかも勇壮な金管の彷徨が耳に馴染まない、というか何か変。タンギングの付点リズムはそういう音符でしたっけ?と疑問に感じながら、煮え切らない気持ちで聴き続けます。「魔の炎の音楽」もしかり、アタマの中でヴォータンやらブリュンヒルデの歌声を補間して聴いてしまいます。


もっともこれは、勝手な私の感想であって、演奏自体は悪くない、というか音の厚さの点でさすがと思わせます。楽団員が舞台に上がってきた時の印象は「でかいな」というものでしたし、低弦や金管の音量も十分。ゲルギエフは指揮台を設置しない平場で、タクトを持って精力的に指揮していました。そういえば、演奏前のチューング音のバラバラさは、結構印象的でしたね。そこにこのオケの自由奔放さとイキの良さの片鱗を聴いたのですが、実際はどうなんでしょう。


休憩をはさんでの「ヴァルキューレ」第1幕は、予想外の大満足といったところ。前奏曲の嵐とそこを逃げるジークフリートを象徴するかのような音楽から、ズイズイと演奏に引き込まれます。


ジークムント役のステブリアンコは、どう見てもジークムントには無理のある体型ですが、(チクルスではジークムントは別の人)声の張りは若々しく素晴らしい。またジークリンデのムラーダ・フドレイ は美貌と美声を兼ね備えた歌手。歌声もホールの隅々まで通り申し分なし、声質も魅力的です。


この二人が自らを告白しあい、愛に目覚めてワーグナー的「ふたりだけ」の世界に没入してゆくさまは見事で、演奏会形式ではあったものの、十分に楽しめるものでした。オケと歌手の音量バランスもよく、音楽が高まっても歌声が聴こえなくなるということは全くなし。眩暈のしそうな音楽を作り上げています。一体この演奏にどういう演出をしているのか興味はつきませんが、演奏会形式ですと曲そのものを堪能することができます。


この段になると、ゲルギエフがどうとか、金管のあれがどう、とか言うのは野暮なことです。ラストに向けての迫力や盛り上がりは素晴らしく、どこまでも駆け上るめくるめく感興と圧倒的な迫力で幕となったときには、思わず「うむ!」と訳の分からないコトバを発してしまいました。


ただし、オペラの実演には接したことのない私ですから、この演奏が「オペラ演奏的」あるいは「ワーグナー演奏的」見地から評した場合どうか、ということについては、全く述べることができません。基本的には、あまりクセや官能に重きをおかない、といって機械的過ぎることもなく、適度に感覚を刺激しながらストレートにふけ上がる性能の良いエンジンという感じですかね(>かえって分からねーよ)。


第1幕だけで終わったのは、演奏が満足いくものでしたから、物足りなくもあり、フドレイが膝を突いて観客に挨拶する仕草を観ているだけで、「あ"~、オペラ観てー」という気は強くなったことだけは確かです。

2006年1月9日月曜日

大田区立龍子記念館


大田区立龍子記念館は昭和38年、龍子画伯喜寿の記念に自ら設計し自費により建設されたものです。記念館の傍らには伊豆から運んだという桜などが植えられています。


この龍子記念館に隣接して龍子のアトリエと自宅があるのですが、見学を依頼すると庭などを案内してくれます。本日は4名ほど、たまたまその恩恵にあずかることが出来、冬空のもとゆっくりと説明を伺いながら、龍子の跡を辿ることができました。



庭に入ってすぐの左手に池(今は水はもう湧かないらしい)があるのですが、これは終戦の3日前に爆弾が落ちて池になった場所なのですとか。爆風で母屋は吹き飛んだものの、幸いにしてアトリエは夏で窓を開け放っていたため爆風が通り抜け、奇跡的に昔のまま(硝子も!)の姿で残ったのだそうです。


有名な爆弾散華(下図:昭和20年)は、その時のことを描いた絵なのだと説明していただきました。残念ながらこの絵は、現在外出中だそうです。



龍子は画家になっていなければ建築家になっていたそうで、その自宅やアトリエの設計、庭の手水鉢にも彼のこだわりが見て取れます。和風建築ですが、建具のデザインひとつとっても、その簡素さと洗練さには驚くばかりです。


龍子は大きな絵を描きますからアトリエは檜の板敷きで60畳、天井高さは4mもあるのですとか。庭はアトリエごしに庭の四季の変化を楽しめるようにできており、まるで龍子の日本画を思わせるような植物が生い茂っています。


梅は小さいながらも固い芽をふくらませつつあり、春を告げるのを待っているかのようでした。改めて、花の咲いた時期にでも再訪したいと思わせる場所です。



THE WEBSITE OF MR & MRS MORIYAに川端龍子のことが詳しく掲載されていますので、興味のある方はご参考まで。

川端龍子:風景画 奥の細道


以前、東京国立近代美術館で開催された「琳派 RINPA」展で衝撃を受けた日本画家に川端龍子[1885(明治18)-1966(昭和41)]がいます。龍子生誕120年の記念展が昨年秋から冬にかけて、江戸東京博物館で開催されていましたが、忙しさにかまけて観のがし悔しい思いをしていたのですが、龍子記念館が大田区にあると最近になって知りました。





本日は寒いながら天気も良く、散歩がてら南馬込まで脚をのばしてみました。都営地下鉄浅草線の西馬込駅を降り、桜並木通りを突っ切った先の住宅街に記念館はあります。



現在は「風景画 奥の細道」と題して龍子の作品の中から風景画が21点ほど選ばれ展示されています。奥の細道の俳句短冊から茸狩図(昭和11年)にはじまり、寝釈迦(昭和29年)や涼露品(昭和27年)などの大型の画も展示されており、見ごたえがあります。大きな絵を前にして、閑散とした館内でゆっくりと絵を堪能できる贅沢はこたえられません。


チラシにもなっている清水寺(昭和34年)や、影富士(昭和32年)も見事でしたが、迫力の点では千里虎(昭和18年)が凄かったですね。これは息子が出征する直前に描かれたものとかで、グッとにらみつける虎の眼光は、敵を威嚇する鋭さか、千里先の戦に向かう武勇を願ってか、あるいは出征する子を送る親の哀しみか。龍子の闊達な筆で描かれた虎は、声鳴き声で今も咆哮しているかのようです。朝陽松島(昭和26年)は、ターナーか印象派を思わせるような自在なタッチとテーマで、これまた闊達な筆さばき、観てほうと溜息。


龍子の画は繊細巧緻と大胆豪放さが共存しています。揺るぐことのないデッサン力をベースに彼の筆が大きく動くとき、豪放さと独特の静けさを共存させた龍子独自の世界が現前し、画を見るものを魅了して止みません。

2006年1月8日日曜日

恥知らずか気が狂ったか想定内か


何かと話題の多いライブドアの堀江氏です、TV CFで赤いウィンドブレーカーを着てくるくる廻っていたかと思えば、今度は歌手デビューなのだそうです。


自分の生き方や考え方を反映したいと作詞に挑戦、80年代テイストが入ったポップス系の曲調になる予定。堀江氏のポケットマネーでインディーズレーベルを設立、ライブドアのオンラインショップなどを通じて販売する。
(gooニュースより)


これを読んで、「想定内」と思う人は、それほどいないだろうとは思うし、彼には何の興味もありませんが、ちょっと考えてみると、それほど意外なことではないのかもしれません。というのも、本人にとっては、たまたまライブドアのIT系企業で有名になりましたが、彼の原動力や実現したい理念は純粋な企業活動にあるのではなく、自分自身をプロモーションすることなのではないかと思うからです。「ホリエモン」が商品なんですね、「ホリエモン」の内容は何だっていいんです。


そう考えてみれば、企業買収劇も選挙活動も、その一環の中での活動であって、彼が歌手に失敗した次に格闘技かお笑いに転向したところで驚きはしません。彼の下で働く人こそ、いい迷惑でしょうが。それにしても、今年もサムイですね。


ベートーベン:「エグモント」序曲/ザンデルリンク ライプツィヒ放送so.






ザンデルリンク ベートーベン「エグモント」序曲


  1. ベートーヴェン:『エグモント』序曲 1969.1 スタジオ収録
  2. ヘンデル:合奏協奏曲 op.6-3 1972.9. ライヴ収録
  3. R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』 1972.2. ライヴ収録


  • ザンデルリンク(指揮)  ライプツィヒ放送so.
  • Weitblick SSS0055-2



テンシュテットの「エグモント」も凄かったのですが、ザンデルリンクの演奏も凄い。何が凄いって、これまたsyuzoさんではないのですがティンパニしょうか。

HMVの許光俊氏の評を引用してみましょう。



ドイツのオーケストラらしい重厚な響きを誇りつつ、鈍くさくない。雄渾なのに粗さがない。心地よい緊張感が張りつめ、音楽は痛快なまでにグングンと前に進んでいく。背筋がピンと伸びたような姿勢のよさ、凛とした気品がある。


テンシュテット&キールpo.でも感じましたが、こういう重厚さがドイツのオケなのでしょうか。しかし、当然のことながらテンシュテットのアプローチとは明らかに異なます。音楽は粛々と歩みを進め、一歩づつ運命の時に向って進みます。音楽の推進力は、テンシュテットのように坂を転がり落ちるような勢いをもったものではなく、不可逆な運命を確信しているかのような響きがあります。それを表す小刻みな弦の刻み、不安感を誘う木管や弦の響き、全く堂々としたものです、素晴らしい。


テンシュテットが熱狂さえ超えたかのように表現した勝利の解放感はザンデルリンクにはありません。あくまでも最後まで堂々と、ティンパニの乱打は凄いものの、統率されて曲を閉じます。それを許氏が指摘するように凛とした気品と呼ぶことに、少しも意義はありません。

ベートーベン:「エグモント」序曲/テンシュテット キールpo.






テンシュテット ベートーベン「エグモント」序曲




  • テンシュテット(指揮) キールpo.
  • 1980.3 Live
  • Weitblick SSS0056-2



一体この「エグモント」序曲は何なんだっ!と聴き終わったあと、愕然とし、呆然とし、自分が何を聴いたのか良く理解できず、改めてもう一度聴き直しながらレビュを書いています。


演奏は第5番と同様のキールフィルハモーニー管弦楽団。録音のせいなのか、実際そうなのかは分かりませんが、ここでも低弦とコントラバスは分厚いアンサンブルを聴かせてくれます。ティンパニは時にはドロドロと重く、時には決然と打たれ演奏を際立たせます。


そして第5番で聴かれた、ポジティブな推進力はここでも全く失われておらず、8分14秒の演奏があっという間です。後半の切迫するような煽りからラストに至る部分は、もはや一気呵成といった感じ。


戯曲「エグモント」はエグモント伯爵という悲劇の英雄の物語ですから、序曲は暗く始まりますし、処刑シーンを現す部分もあるのですが、演奏解釈はひたすら前向きです。というのも、この曲も結局はベートーベン的な「勝利の音楽」で終わるからでしょうか。


最後の長調に転じた部分は、自殺する恋人クレールヒェンと処刑されるエグモント伯爵の愛と正義、あるいはネーデルランドの独立を暗示しているらしいのですが、演奏はまさに圧巻の一語に尽きます。一転の曇りもない青空に向かって、特大の打ち上げ花火と祝砲を鳴り響かせているような印象さえ感じます。


圧巻ついでに、もう一度繰り返して聴いてしまいましたよ・・・トホホ(>4度は聴かんぞ、でもiPodには入れよう)


PS. syuzoさんには敬意を表してTBを2発ほど打っておきました。

ベートーベン:交響曲第5番/テンシュテット キールpo.


テンシュテット ベートーベン交響曲第5番

  • テンシュテット(指揮) キールpo.
  • 1980.3 Live
  • Weitblick SSS0056-2


キール・フィルハモー管弦楽団、あまり馴染みのないオケとテンシュテットのライブなのですが、すさまじいの一語に尽きる演奏です。他との比較で聴いてはいませんが、第一楽章からスピード感のある推進力と迫力を聴かせてくれます。


オケがうまいとか、そういうことではなく、指揮者とオーケストラが一体となって熱いパッションを振りまいています。「運命」の第一楽がこんなにも短く感じたことはありません、それほど最初から高テンションです。


syuzoさんも「テンシュテット:禁断の部屋」で指摘されていますが、低弦とティンパニの音が非常に響きに重厚さを与えています。やたらと打楽器が強調されていたにも関わらず、ある意味で「軽く神経質な」印象を与えたラトルのものとは全く異なることは、言うまでもありません。ベートーベンを聴く至福が第二楽章においても充分に味わえます。


確かに、オケがちょっと危なげに聴こえる部分がないわけではありません。しかし、それが音楽の「総体」に一体どういう影響を与えるというのでしょう。渾然一体となった表現の前には瑣末的な問題でしかありません。


輸入代理店である東武ランドシステムが簡単なコメントを付けています。


隅々まで緊張感が漲り、かつ雄大、豪快なアプローチは他のディスクを引き離します。
ドイツのオケならではの奇麗ごとに終わらない切実で献身的な演奏が心に染み渡ります。


確かにそうです、しかし演奏は心に染み渡るなどというレベルを遥かに凌駕しています。前へ前へと前進してゆく力、推進力、漲る加速感、なにも第三楽章から終楽章へ至る部分だけではなく、この演奏全体を支配している強烈なエネルギーであり、まさにそれがこの曲の持つ命だと言わんばかりの演奏です。


終楽章を聴いていて理性的であり続けることは、ほとんど困難を極めます。最後までティンパニがまた凄いんだ! あまりに力強く、確信に満ち、ポジティブな壮絶さに、実際に聴いているだけで、うっすらと汗ばんでしまいます。こういう音楽は、やはりベートーベン以外、他の誰も描けなかったと思う演奏です。(>いやはや、こんなに単純に感動していて良いものだろうか・・・)

2006年1月7日土曜日

ラフマニノフ:交響曲第2番/スヴェトラーノフ&USSR State so.



  1. Largo-Allegro moderato 18:01
  2. Allegro molto 07:05
  3. Adagio 15:07
  4. Allegro vivace 10:26
  • スヴェトラーノフ(指揮) ソヴィエト国立so.
  • 85年1月25日(ラフマニノフ)
  • SCRIBENDUM/SC 033

本盤も許光俊が「オレのクラシック」で芸能人にたとえるなら、まさに叶姉妹と絶賛しているものだからつい購入。しかし聴く前から例えるにしても「叶姉妹」は酷すぎると思っていたのですが、聴き終えてみた感想で言えば、その比喩はヒドイ以上に本質をはずしているなと。文章が面白ければ良いというものでもなかろうに。

では、この曲のそして演奏の本質が分かるのか、と聴かれると答えに窮するので、そこには触れません。(逆に叶姉妹ってどうなんだ、と聞かれても分からない。何しろTVを通して「動いている」叶姉妹に接した時間の合計は10分以下であろうと思うので) ハナシは叶姉妹ではない、スヴェトラーノフのラフマニノフの演奏です。確かに凄い。特に誰もが指摘するティンパニの打撃音の凄まじさは、まさに「落雷」。それは何も1楽章の10分過ぎに現れる強烈な打撃だけではなく、そこかしこで鉄槌のように打ち下ろされます、しかも決然と!金管と打楽器の競演による暴発、これを怒涛と呼ばずして他に何と呼べましょう。この激情はどこから発するのかと。

暴力的とは言えない、この激しさは間違っても音楽の暴力ではない。耐え切れない激情と甘美さが両立した演奏です。しかし何たる両極端さ、振幅の激しさ。この両極端さこそロシアの大地なのでしょうか、彼らの身体に染み込んだ厳しさと優しさなのでしょうか。人をも殺すほどの自然の脅威と対極にある全てを癒す包容力なのでしょうか。 弦を使った部分は甘美な歌を歌いますが、「叶姉妹」のような見せかけの人工美や色気(>あれが美で色気か?豊満か過剰か?)などでは決してない。もっと底の深い強さと荒さを秘めた美しさです。

第2楽章あたりから、ハマってしまうと、誰かのフレーズではありませんが「魂ごと引き抜かれ」たかのような気持ちになってしまいます。それが「尻の穴」か「頭のてっぺん」かは別として・・・(>何のこっちゃ)

第3楽章は、甘すぎる演奏だと「映画音楽」のように聴こえてしまいます(例えばプレトニェフのそれとか)。しかしスヴェトラーノフの演奏は、決してそんな安易な評価を与えません。入魂の演奏、堂々たる美しさ、憧憬と悦び、更には祈りにも似た畏敬さえ感じてしまう楽章です。

後半は溢れそうになる激情を必死に抑えた、これまた鬼気迫る演奏になっています。安っぽさやお手軽さは微塵もありません。許氏の楽器のを増やしながらのクレッシェンドは猥褻なほどに悩ましげなポーズを見せるとの評を読むと、一体同じ演奏を聴いているのか?という気になります。

当然終楽章も素晴らしい、ラスト近くに至っては凄すぎて書く言葉がない(;_;)ラフマニノフにとって交響曲第2番とは、またスヴェトラーノフにとってラフマニノフとは何だったのか、と思わずにはいられません。同時収録のフランチェスカ・ダ・リミニを聴く気力は全く残っていません(>このテンションに「ハマ」ればのハナシなのですがね ^_-)。

2006年1月6日金曜日

ジャック・ウェルチ:勝利の経営



この歳になるまで、あまりビジネス関係の本には親しまないできました。バリバリのビジネスマンを目指すつもりはないし、自らの行動指針を求めてマニュアル本を求めるくたびれたサラリーマンになる気もない。ビジネス書なんてと斜に構えるところもあって、今までも、まともな本など読んでいなません。


しかし休み中に、少し考えておきたいテーマがあったので書店に行ったところ、山と詰まれた「黄色い本」が目にとまった次第。GEのCEOであったジャック・ウェルチが表紙に微笑むを本書を手にし、期待もせずにパラパラと立ち読みしてみたところ、ガンと頭をぶたれたような思いを味わってしまいました。





勝つためには何をすればいいのか?


それに答えるのがまさにこの本だ。勝利の法則。これ以外のテーマだったら二度と本を書こうなどと思わなかったことだろう!

なぜなら、勝利することは最高だと思うからだ。単に「よいこと」ではない、「最高なんだ」。

(はじめに P.12)


おお、何と明確な考え方でしょう、一点の曇りもない。世の中、そんなに単純な「勝利者の哲学」ばかりじゃァあるまいに、勝つ企業があれば負ける企業もあるのも世の道理、などと思う疑念を全く吹き飛ばすほどの強力なパワーをここから感じました。「勝利の方程式」みたいなマニュアライズされた愚書の類でないことは一読のもとにわかります。


続いてPART 1の最初で、ミッション(経営理念)とバリュー(行動規範)の話になります。ちょっと我慢してつき合って欲しいとウェルチは呼びかけますが、この章には彼の行動原理が痛いほどに示されています。それは本書に貫かれている原理で、まさにビジネスを愛する人ならば、その具体性にビシッと鼻ヅラを打たれたような気分(P.23)になってしまいます。


全てのページが具体的で、しかも傾聴に値するものです。特に「戦略」を実践するための三つのステップ五つのシートは、そのまま切り取ってノートか手帳に貼り付けておきたいくらいです。しかも全ページ、ユーモアにあふれていてワクワクするほど面白い!


アメリカ人も一部の日本人と同じようにワーカホリックで、家庭よりも仕事を優先している姿も書かれており、やっぱりそうかと納得すると同時に、その点においてはウェルチもひと時代前の経営者なのか、と思ったりもしますが、だからといって彼の素晴しさや名誉が損なわれることはありません。


おそらくは、仕事が好きな人もそうでない人も、企業勤めに迷っている人も、経営者もそうでない人も、人生の多くの時間をかけている「貴方の仕事」を見直す意味でも、一読の価値はあるかなと・・・。