2006年2月27日月曜日

夏目漱石:「こころ」


息子の冬休みの課題図書であった夏目漱石の「こころ」が居間のテーブルの上に載っていたので、懐かしさから何気に頁を捲っていたら止まらなくなってしまい、結局最後まで読み通してしまいました。


「こころ」は今更言うまでもなく夏目漱石の傑作とされる作品ですが、この本が名作足りえているのは、読む人によって色々な読み方、受け止め方ができるテーマの広さと、人間の本質にかかわる問題を有しているからでありましょう。エゴイズム、我執については現代に生きる若者にも容易に理解できる感情であると思います。


以前は先生の苦悩を前提に読んだ記憶がありますが、今回は、先生にしてもKにしても漱石の描く明治時代のインテリというものが、いかに自己の内面世界に滞まり自己耽溺の中で完結していたかということが気にかかりました。恋というにはあまりに観念的な恋しか演ずることが出来ぬまま、過去の罪の意識と自己否定、そして自己疎外の中で自らの命を断つ先生という存在。それって何なんだ、と。ここに漱石文学の閉塞性と限界が見えてきます。(鴎外ほどには「閉塞的」「限定的」ではありませんが)


一方で、明治のインテリが感じていた淋しさや孤独、あるいは自己否定については、現代に生きる私には理解しえない事柄ではあるものの、漱石が先生の死をもって物語を閉じた(閉じざるを得なかった)ことは、明治精神の終焉を意味していたという点において、改めて着目して良い事項であるのだなと。


2006年2月25日土曜日

岡田暁生:「西洋音楽史」

一部で話題(こことか
ここ)の岡田暁生著『西洋音楽史』(中公新書)を読んでみました。


新書で西洋音楽の中世から現代までを俯瞰するなど、随分と乱暴な企画だなと最初は思ったのですが、読んでみますとこれが実に面白く、私にとっては西洋音楽というものにくっきりとしたパースペクティブを与えてくれる内容でした。左帯にあるように、まさに「流れを一望」です。



読んでいて、いたるところで成る程と思い、いかに私がクラシックファンを自認していながら、何も知らずに音楽を聴いていたのかということを思い知らせてくれました。


本書ではバッハやモーツァルト、ベートーベンなど教科書的に偉大な作曲家に多くの頁を割くことはしていません。「西洋音楽という大河」の流れの中で、彼らがどういう意味をもっていたのか、なぜ彼らのような音楽が生まれたのか。それを時代背景などを絡めながら、実に簡潔に示してくれます。


記述の仕方に説明不足や決め付けのようなものを感じる部分もありますが、それは新書という制限の中では仕方のないこと。むしろ筆者が「あとがき」で書いているように、音楽の専門家ではなく一般読者が音楽史の大きな流れを理解できるような本にしたかったという意図は、見事に成功していると思います。巻末には豊富な「文献ガイド」がありますので、本書を契機にテーマを深めることも可能です。


本書は知識を問い直すとともに、音楽の聴き方も問い直してくれます。すなわち、何も知らずに音楽を聴いていたどころか、いかに「一面的」な音楽の聴き方に自分が硬直してしまっていたのか、ということにも気付かされるのです。音楽の聴き方は、おそらくは自らの嗜好の反映ではあるものの、一方においては日本の音楽教育や西洋音楽受容の歴史にも影響しているのだろうと思い知らされます。


岡田氏は中世のグレゴリオ聖歌から現代のポピュラー音楽までを、連綿と続く「楽譜として設計された音楽」である西洋芸術音楽を語り、第七章「二○世紀に何が起きたのか」の次の言葉で締めくくっています。


カラオケに酔い、メロドラマの映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々はどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。
��P.230)


筆者は、無意識的であるにしても宗教的なもの(人間を超えた絶対的なものへの寄与)が人間に必須であるとの前提に立っているようにも思えますが、ここだけは安易に首肯できない部分です。というか、数行で決め付けるには大きすぎるテーマですので。

2006年2月20日月曜日

ムンクを追え!



本書は1994年、リレハンメル・オリンピックの際に起きたムンクの「叫び」盗難事件を中心に、ロンドン警視庁の敏腕捜査官、チャーリー・ヒルの活動と美術闇社会の実態について書いたノンフィクションです。


面白い本というのは、まさにこういうものを言うんだよなとワクワクしながら頁を繰り何度も電車の駅を乗り過ごしそうになりました。美術品の想像を絶する値段、盗んでくれと言わんばかりの防犯体制、絶えることのない盗難事件、嘘付きでケチな盗人やギャングたち、怪しい画商、美術品に対する警察の意識の低さ、そしてチャーリー・ヒルという一匹狼的な囮捜査官。内容はそのまま映画化も可能なくらいにドラマチックです。



ロンドン警視庁の囮捜査官という存在自体が「映画的」です。高価な美術品の辿る数奇な運命と黒幕の「ドクター・ノオ」は存在するのかなど、盗難事件をめぐる実話には、さまざまな妄想をかきたてられます。誰もが知る名画を盗んだ後に、盗人達は一体それをどうやって売買するのか? ということに興味は尽きませんからね。


しかし、美術盗難品の奪還に異常なまでの執念を燃やす、この本の主役であるチャーリー・ヒルに「ドクター・ノオ」あるいは「ミスター・X」のような黒幕の存在について話そうものならば、


そんな話を持ちだすやつは、自分が底なしのマヌケで、他人の仕事を邪魔しにきたと宣言するに等しい(P.233)

と憤慨します。マスコミや一般大衆が夢想する「ミスターX」などいないのだと。超有名絵画を盗むということには色々な理由や思惑があるようですが、主たる理由は金銭的価値に対する期待値でしかないのだと。


今日も裏社会の市場では盗まれた美術品が国を超えて売買され、麻薬密売人のシケたアパートのベット下には、日の目を見ない名画が汚い毛布にくまれているのかもしれません。この本を読む限りにおいて、美術品を盗む奴らは盗品の芸術的価値など全く理解しておらず、「ブツ」を貴重に扱うなんてことには、これっぽっちも神経が働かないようですから。


ちなみに、ムンクの「叫び」は2004年にも再び盗まれていますが、それは本書とは別バージョンの「叫び」。今はまさにトリノ・オリンピックの真っ最中。時期を狙っての発売なんでしょうか。2004年の事件の様子は、下記のエントリに以前少しだけ書きました。


2006年2月19日日曜日

ベートーベン:交響曲第6番「田園」ほか/ムラヴィンスキー






ムラヴィンスキー/交響曲第6番『田園』、ワーグナー:『ワルキューレの騎行、ほか


  1. ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調『田園』
  2. ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より 前奏曲と愛の死
  3. ワーグナー:楽劇『ジークフリート』より 森のささやき
  4. ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』より ワルキューレの騎行



  • 1979年5月21日東京文化会館
  • ムラヴィンスキー(指)レニングラードpo.
  • ALT063



これは芸術を愛し、芸術に耽溺する人間なら、拝跪するしかないような、最高の芸術である。こんあ芸術は人間から平和を奪う。社会性を奪う。常識を奪う。それどころか、人間を狂わせる。(許光俊著「オレのクラシック」 P.126)

おなじみの許氏による評であります。彼特有の眉唾かハッタリを覚悟しながら聴いてみたのですが、《田園》には全く恐れ入ってしまいました。《田園》を聴いてこんなに感銘を受けるとは、思ってもみませんでした。といいますか、こんなにも素晴らしい曲であったのかと再認識した次第です。



西岡昌紀氏や音楽評論家の平林直哉氏が1979年当日の演奏会終了後の様子を含めて解説を書かれていますが、言語を絶する演奏であったことはCDを通しても伺い知ることができます。演奏会に接した人にとっては、生涯忘れることのできない経験になったようです。


音質はムラヴィンスキーにしては良いとのことですが、強音部は割れていますし客席のノイズも大きく録音状態は決してよくはありません。再生装置にもよるでしょうが、私の安価なCDコンポでは随分と硬質な音に聴こえてしまいます。「繊細さ」とか「柔らか」さとは無縁な無骨な演奏に聴こえる怖れもあります。


そういう録音でありながらも「しかし」なんですね。ムラヴィンスキーの《田園》から聴こえてくる音楽を一体なんと表現して良いのか。いや言葉で表現するということを超えている音楽世界です。実のところ私は何と、第一楽章から終楽章までずっと打ちのめされ放しで、涙腺のタガ外れてしまったのではないかと自ら訝しんだほどです。


演奏は決して煽るようなことはしてはいません。淡々と進むのですが、そこには《田園》というのどかなイメージとは違った確固としたベートーベン的世界が屹立しているのです。《田園》という標題や田舎風景の奥に隠されたベートーベンの苦悩と悟りと希望、しかしそれを表立ってあからさまに表現することはせず、演奏を通して分かる人に語りかけるといったような、そんな演奏なんです。


西岡氏はムラヴィンスキーの音楽を特徴付けるものが「孤独」であるとして、


この《田園》には、ムラヴィンスキーの孤独な感情とその孤独を乗り超えようとする強い意志のようなものが感じられる。孤独は彼の音楽の最も重要な感情要素


と解説に書かれています。孤独はムラヴィンスキーの音楽を彼の音楽にたらしめて来た彼の芸術の秘密であると西岡氏は指摘します。彼の指摘に全面的に首肯できるほど、ムラヴィンスキーの演奏に接してはいないですし、この盤に納められたのがベートーベンの音楽なのかムラヴィンスキーの音楽なのかという議論もありましょうが、《田園》がかくも「名曲」であることを示し、さらにムラヴィンスキーの音楽の峻厳さ、それとは逆の優美さを聴かせるたという点において類稀な名盤であると思います。


誰もが絶賛している「ワルキューレの騎行」は、ライブを聴いていたならば、あたかも超新星爆発を目の当たりにしたかのようであり、演奏会の後はブラックホールが生じたかのような虚脱状態になっていただろうと想像いたすほどです。

2006年2月16日木曜日

ベートーベン:交響曲第1番/テンシュテット






テンシュテット ベートーベン交響曲第1番


  1. Adagio mlto-Allegro con brio 9:02
  2. Andante cantabile con moto 7:45
  3. Menuetto:Allegro molto e vivace 3:31
  4. Adagio-Allegro molto e vivace 5:36


  • テンシュテット(指揮) スヴェーリン・メクレンブルク州立管弦楽団
  • 1968.8
  • Weitblick SSS0056-2



同時収録は以前紹介したベートーベン交響曲第5番(何度聴いても凄い)とエグモント序曲(何度聴いても息が止まる)。キール歌劇場オケとの演奏も壮絶ではありましたが、1968年の東独時代のこの演奏もエネルギーレベルが極めて高く、そして瑞々しさに溢れた演奏に仕上がっています。


ベートーベンの1番なんて滅多に聴こうという気になりませんが、改めて聴いてみると、こんなにも良い曲であったのかと気付かされます。第1番はベートーベンらしさと、古典派のテイストが旨い具合に溶け合っていて、そんなに気負わずに聴ける曲ですが、テンシュテットの演奏からは、しっかりベートーベンの息吹を感じ取ることができます。


やたらと刺激的ではないものの重厚さと迫力は充分。さらっと流して聴ける演奏ではないです。第一楽章はそれこそあっという間。第二楽章も悠然としていながらも、演奏全体からは若々しい力を感じます。第三楽章などは、もうすこし綾とか余韻が欲しいところですが、テンシュテットの推進力はグングンと勢いを増し圧巻の終楽章に進みます。このキビキビとした運動性能の心地よさ!


聴いていると体内の奥底からフツフツと喜びが沸いてくるというのは、ベートーベンの持つ音楽の力です。なんだかんだ言っても俺ってベートーベンが好きなんだなと思ってしまいます。

2006年2月14日火曜日

絲山秋子:沖で待つ~第134回芥川賞受賞作


第134回芥川賞を受賞した絲山秋子氏の「沖で待つ」が文藝春秋3月号に掲載されているので読んでみました。読んだ感想としては、これが現代の純文学賞のレベルなのかと疑問符を持つものでありました。

作品そのものは、懐かしくて、いとおしいくらいに切ないテーマーを扱っている点で秀逸だと思いますが、一方でこのくらいのテーマと内容であればコミックの世界を探せば類似の作品は幾らでもあるのではないかと思ったりします。


瑞々しさや優しい気持ちには満たされるのですが、なんだか、私が文学に求めるものとは違っているなと。純文学とはなどと論ずる気は毛頭ありませんが(論じる土台もないし)、あまりにもフツー過ぎて拍子抜けといいますか・・・。純文学はやっとマンガの世界に追いついたってことなんでしょうか。(具体的にどのマンガ作品に似ているかと言われても困りますが)


賞の選考者の多くが本作の「新しさ」や(河野多恵子氏)、総合職同期入社の男女という関係性(黒井千次氏)、あるいは友人以上恋人以下の関係(山田詠美、高樹のぶ子、池澤夏樹氏)を描ききったことに評価を与えていますが、石原慎太郎氏のように「本質的主題の喪失」とまでは思わないものの、作品と評者の座標軸のズレを感じないわけではありません。村上龍氏が選評で本作に全く触れないのは彼らしいか。


補足しますが「芥川賞」と考えなければ良い小説です。「芥川賞」とか純文学とかに、とっくに意味などなくなっているということなんでしょう。「○○賞」とは、賞の権威で雑誌やら本を買ってしまう、浅はかな私のようなヲヤジのためのキャッチコピーでしかなかったか。

2006年2月13日月曜日

映画:ホテル・ルワンダ

k-tanakaの映画的箱庭で何度も紹介されていました、話題作「ホテル・ルワンダ」をユナイテッド・シネマ豊島園で観てきました。あちこちで絶賛の嵐ですから、あえてここでは内容の詳細については触れません。



映画は本当に良く出来ています。メッセージ性も極めて高く感動的です。日々報じられるメディア裏側の真実とメディアの限界、国連平和維持軍の実態などイロイロ考えさせられますが、素直に訴えかけるのはドン・チードルが演じるホテル支配人ポール・ルセサバギナの家族愛と行動力。


彼が最後までホテルマンとして振舞ったことは、一見滑稽でありながら極めて意義のあることです。彼が「アフリカ人」であるがゆえに、彼の勤めるベルギー系4星ホテルの「支配人」にはなれても決して「オーナー」にはなれない。はからずも国連平和維持軍のオリバー大佐に指摘され、彼も自分が「思い上がっていた」ことに痛烈な侮恨を感じますが、それでも彼を支えているのは「ホテルマンとして社会に位置づけられていた自我」であることを映画は描いています。それを捨てては全ての繋がりを失う。


彼は高邁な理想を持ったヒーローでもなければ、ハリウッド的超人力を発揮するわけでもありません。また家族を守るためだからと自ら武器を持つこともありません(持とうともしない)。銃声の鳴り止まぬ絶望的な状況の中で、彼は限りない家族愛を示し、ホテルマンとしての矜持を失わず、可能な限りの等身大の行動を取ります。ポールが家族と別れホテルに残ることを突然決心したことも、彼が高次の人間愛に目覚めたというよりは、彼のものであったホテルに「客」が残っている以上、それ以外に選択できる行動がなかったのだろうと思います。


この映画を観ることは、やたら政治的になることよりも、自分の中に「内なるルワンダ」が居るかもしれないことを恐れると同時に、自らの「ポール的なるもの」を問い直すことになるような気がします。ラストのポールの言葉「いつでも部屋は空いていた」は、全てを言い表しています。

2006年2月11日土曜日

伊福部昭:NAXOS日本音楽家選輯






伊福部昭:シンフォニア・タプカーラほか


  1. シンフォニア・タプカーラ(1954、1979改訂)
  2. ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ(1961)
  3. SF交響ファンタジー 1番(1983)


  • ドミトリ・ヤブロンスキー(指揮) エカテリーナ・サランツェヴァ(p) ロシアpo.
  • 2004.5
  • NAXOS 8.557587J



��日夜、伊福部昭氏が亡くなりました、91歳というご高齢であったことをニュースや「鎌倉スイス日記」などで知った次第です。伊福部氏といえば「ゴジラ」ですが、それ以外の音楽も改めて聴いてみようと思いNAXOSの「日本作曲家選輯」を購入、例によって片山杜秀氏の恐ろしく充実した解説付です。HMVでなんと790円でしたからお買得といえましょう。


シンフォニア・タプカーラのタプカーラとはアイヌの舞踏の一形式なのだそうです。ストラヴィンスキーを思わせる強烈なリズムに土俗的色彩、どこか郷愁と暗い情念が漂う独特の雰囲気。アレグロであってもアダージョ楽章であてっても、どこか血が騒ぐかのような音楽は彼が守ろうとした日本的なものを深いところで想起させるからなのでしょうか。


リトミカ・オスティナータにおいては、様々な伝統音楽で使われている5音音階を包括的に内蔵させた6音音階を用いているのだとか。ホルンに導かれて登場するピアノの旋律は、限りなくノスタルジック、音楽からは限りないイマジネーションとふくらみを感じます。ピアノのクラスター風奏法は、ストラヴィンスキーやプロコフィエフよりもラウタヴァーラなどの北方の音楽に通ずる峻厳さを感じます。


こうして伊福部氏の音楽を聴いてみると、彼を「ゴジラ」だけで記憶に留めるのは全く一面的でありそして、もったいないことだと思います。2度ほど音盤を通して聴いて改めて冥福。


NAXOS盤の演奏はyurikamome122さんも書かれているように、ちょっと不満です。伊福部臭がちょっと薄いような・・・、東京で食べるジンギスカンとかホッケの開きみたいな感じ。ちょっと聴いていて気恥ずかしくなったりする(笑)。には半面的に首肯。鎌倉スイス日記:伊福部昭・逝去の報に接してとyurikamome122さんのエントリには敬意を表してTBしておきます。



2006年2月10日金曜日

ベスト100とかが、さらに売れていること


昨年の東芝EMI「ベスト・クラシック100」に引き続き、クラシックのサビだけ集めた部分のCDなどが売れているのだそうです。似たような企画は


  • 「どこかで聴いたクラシック101」(ユニバーサル)
  • 「100曲モーツァルト」(エイベックス)
  • 「クラシック・ベスト200」(ワーナー)
  • 「ベスト・オペラ100」(東芝EMI)
  • 「ベスト・モーツァルト100 6CD』(東芝EMI)


などで、かつての「アダージョ・カラヤン」のブームをふと思い出させます。


こういうCDの普及がクラシックファンのすそ野を広げることになるのかは議論の分かれるところ。昨今の「モーツァルト効果」「モーツァルト・セラピー」などの紹介のされ方と受容を含め、流行が過ぎ去った後に何が残っているのかが問題となるでしょう。



忙しい(とされる)現代人にとって、クラシック音楽は「長すぎる」娯楽です。映画だって2時間を越えると「いい映画なんだけど長すぎ~」という感想が目に付きます。コンサート・ホールやオーディオの前で1時間以上もぢっとしていることに耐えられない人も増えてきています。長時間にひとつのことに没頭することがなくなってきたということなのでしょうか。ロックやポップス系の曲でも1曲5分近くになると「長い」と感じる傾向があるようです。


じっくりと物事に取組めないという傾向は、例えば映画や演劇、出版業界にも当てはまるのではないでしょうか。映画はテンポの速さと刺激の倍増に反比例して内容は薄くなる。ベストセラーとなる新書は本の値段と厚さの割には活字数が少なく、結論ありきの理論の飛躍が目に付く。歌舞伎も刺激とスピード感のある勘三郎に人気が集まるなどなど・・・。こういう傾向は「白か黒か」というように単純化された理論が受けている最近の傾向とどこかでつながっている気がしないでもありません。(と、こういう考えそのものが、結論ありきの論理の飛躍ですが)


話を戻しますと、クラシック音楽は十八世紀頃から二十世紀における西洋の思想を代弁していたとする許氏の指摘には一理あると思っています、「普遍性」「真実」「真理」「理念」「理想」などが「嘘っぽい」「欺瞞である」という認識の土壌に現代人が立っているならば、クラシック音楽は耳障りの良い、あるいは爆音でストレスを解消させる、といった効用しかなくなるのではないかと思うのです。クラシックの断片化と商品化は、堪え性のない現代人の志向を強化することはあっても、その中から「のだめ」と「ベスト100」から脱皮した21世紀的クラシック・ファンが大勢育つと考えるのは楽観的かもしれません。それであっても「音楽の持つ根源的な力」を信じる人は、聴く人をいつしか目覚めさせることができるという希望を抱くのでしょうか。

〔追記〕
とここまで書いて、気になるブログのエントリが2件。

Syuzo's Weblogで紹介されていた「西洋音楽史」、これは是非とも読んでみなければ。次に「おかか1968」ダイアリーでの「クラシック音楽 ネット界での明暗」とうエントリ。西洋音楽(クラシック音楽)の受容のされ方は、私の固定観念を超えるとこころが、もしかするとあるのかもしれないなと。(February 10, 2006)

2006年2月8日水曜日

「女系天皇論」の大罪


本日7日、秋篠宮妃紀子さま(39)が懐妊されたことが判明したそうです。あまりにもタイムリーな話題は、今国会で提出される予定の拙速な「皇室典範改正案」にも影響を与えそうです。(タイムリー過ぎて、皇室からの「ささやかな意思表明」とまで思えてしまいます・・・)


本書は、小堀桂一郎氏、櫻井よしこ氏、そして八木秀次氏によるニ度に渡って行われた鼎談をまとめたもので昨今の性急な動きに意義を唱える《緊急出版》の書。小堀氏が「鼎談を終えて」に記しているように、同じ趣旨の反復等の形式上の不備が目に付きますし、本書の主張をまとめたら、おそらくは最初の50頁だけで足りてしまうだろう内容ではありますが、三者の「皇室典範改正」に反対する強い意気込みは、ズイズイと伝わってきます。


小堀桂一郎氏について、私は本サイトの中で批判的な文章を数度も書いてきました。天皇あるいは皇室の現代日本における存在意義については、私は未だ明確な見解を持ちえていませんが、それでも「今国会で」ということが理解できません。素人集団であった有識者会議の面々や、延30時間程度の議論で出した拙速な結論については釈然としません。


小堀氏や櫻井氏らは「万世一系の天皇家の伝統」「男系維持の原則」「日本文化の秩序の核心」として皇室を位置付けていますし、GHQにより解体させられた旧皇室を含めて、皇位継承についてもっと慎重に議論すべきだとしています。有識者会議は皇籍離脱した人を「今更皇室と国民が受け入れるか」と排除しながらも、一方で皇族のスコープを拡大することになることについては、「皇室の安定的維持」以上に、皇室とは何かという問題を提起はしないのでしょうか。


国会でも国民の間でも、議論は分かれるでしょう。「女性」と「女系」の違いなど基本的なことも重要ですが、私は議論すればするほど泥沼に陥る気がしています。「国家の品格」の藤原氏ではないのですが、理論の限界や「ならぬものはならぬ」ということは、どうしてもあるのではないかと。小泉首相はここにきて日本国の「ある部分」を完全に解体する気なのでしょうか。


実のところ数年前に森元首相が「日本は天皇を中心とした神の国」という発言で物議をかもし、私も当時は随分と違和感と不快感を持ってその発言に接したのですが、実は案外と本質をついているのではないかと考える時もあったりします。かように天皇制の問題は国歌・国旗問題を含めて私の中では自己矛盾に満ちたままです。


蛇足ですが、小泉首相の発言。


女系天皇を認めないということは、仮に愛子さまが天皇になられた場合、そのお子さまが男でも認めないということだ。それを分かって反対しているのか


全然わかってない・・・こんな人が、改正しようとしていることに、もっと非難を集中すべきでありましょう。マスコミもバカかいな。

2006年2月3日金曜日

モーツァルト本

今年はモーツァルト・イヤーということですからCDショップに行きますと、モーツァルトの「有名なところ」だけ集めたCDが山積みだったり、モーツァルトのコーナーができています。昨年の「のだめブーム」や東芝EMIの「ベスト・クラシック100」のヒットなどもあり、(どうみても普段はクラシックなんて聴きいていなさそうな)若者たちも、それらのCDを手に取ったり視聴しているのを目にすることができます。


クラシックの裾野が広がる意味では喜ばしいことだわいなあと素直に受け止め、しかしモーツァルトはどうして世界中で「フィーバー」になるのだろうか、考えてしまいます。



少し古いですが「音楽の友 1月号」では海老澤敏氏が『後世に受け継ぐべき「鳴り響く文化財」』と題して特別寄稿されていました。海老澤氏もシューマン歿後150年、バッハ歿後250年などと比較しても、モーツァルトがまさに異常ともいうべき扱いを受けていると書いています。氏は日本におけるモーツァルト研究の第一人者ですから、モーツァルトの商品化やメディアの情報供給からくるモーツァルト像の歪曲化などを危惧しながらも、モーツァルトという奇蹟の文化財を後世に受け渡してゆくことを切に願っています。


従来からの研究者やファンも同じような思いかも知れませんが、モーツァルトがここまで「商品化」されるほどに人気なのは何故なのでしょう。以前も少し触れましたが、昨年から4冊ほどモーツァルト関係本を読んでみました。


  • H.C.ロビンズ・ランドン:モーツァルト 音楽における天才の役割(中央公論社)1992年初版
  • 井上太郎:わが友モーツァルト(講談社現代新書)1986年初版
  • ピーター・ゲイ:モーツァルト(岩波書店)2002年初版
  • 井上太郎:モーツァルトと日本人(平凡社新書)2005年9月初版


今までモーツアルトはあまり馴染まなかったのですが、彼の生涯は非常にドラマチックであり、多くの研究者の興味をそそらせる存在であることは、4冊の本を読むだけで改めて知ることができました。最初の2冊は1991年、モーツアルト歿後200年の時に購入したものの再読。絶版本のようですが、わざわざ探して読むほどではないと思います。(同類の書は他にもあるだろうと思われる故)


ピーター・ゲイ氏の本は、手紙からの引用を豊富に用い、モーツァルトと父親の関係に重点を置いて記述している点で一読の価値があります。最近出版された井上太郎氏の本は、「モーツァルトへの愛」が紙面から溢れるばかりで、モーツァルト愛の薄い私などには、ちょっと辟易するところもある文章です。なぜ「日本人」はモーツァルトが好きなのか?ではなく、「私はかくもモーツァルトが好きである」というモーツァルトに耽溺したごく私的な心の軌跡を、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、吉田秀雄、遠山一行を引用しながら吐露した本です。ああ・・・吉田秀和氏の初期のモーツァルト論でも再読したくなりました。








2006年2月2日木曜日

P.F.ドラッカー:企業とは何か

P.F.ドラッカーが1946年に著した世界的名著「企業とは何か(Concept of the Corporation)」をボチボチ読んでいます。
本書はGMの内部調査から、組織論およびマネジメント論を生み出し、その後、企業だけではなく世界中のあらゆる組織で教科書として用いられた本です。


この本が偉大であるのは、今日の企業経営では常識的な問題を既に示唆しているに留まらず、ひろく組織と人間の関係を炙り出している点です。すなわち人間を社会的な存在として位置づけ、1940年代半ばの大量生産社会において人間が幸福でありえるかということを問いかけています。



特に「第Ⅲ部 社会の代表組織としての企業」は圧巻。ドラッカーは本論のスコープをキリスト教の伝統をもつアメリカ社会という特定の社会における信条、目的、目標にかかわる問題として、個の尊厳と機会の平等、産業社会の中流階級、働く者の位置付けと役割について論じています。


まさに機会の平等という名の正義、社会における位置づけと役割という名の尊厳を統合して実現することこそ、産業社会の代表的組織としての企業の最大の課題である(P.140)


ドラッカーは機会の平等、自己実現の約束は個としての人間の重視という際立ってキリスト教的な思想から生ずる政治哲学の基本であるとします。企業が(アメリカ)社会の代表組織であるなら、アメリカ社会の信条を体現しなくてはならないのだと。


翻って日本社会の信条とは、日本の政治哲学とは、根本原理とは何なのか。これらを考えることは日本政治思想的な考え方や天皇制をも避けて通ることができず、たとえば昨今の皇室典範の改正や、企業の本質論、更には相次ぐ企業の欺瞞やニート問題など、トータルに考える必要性があるのかもしれません。(物理学の統一場理論のようなものを求めるつもりはありませんが・・・)


ドラッカーの著は60年前に書かれたものですが、極めて今日的な話題(60年経ってもやっと日本で議論されはじめた問題)も扱っており、その慧眼には驚くばかりです。