2006年4月29日土曜日

武満徹:森のなかで/庄村清志






荘村清志/武満徹へのオマージュ


  1. 森のなかで(1995)ギターのための3つの小品
  2. Over the Rainbow、Yesterday、The Last Waltz、Secret Love、What a Friend、Londonderry Air
  3. 海へ(1981)アルト・フルートとギターのための
  4. エア(1996)フルートのための
  5. 不良少年(1961/1993)2台のギターのための


  • 荘村 清志(g)、田部井辰(g)、 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463



武満氏1995年の作品に《森の中で》と題する三つのピアノ曲があります。タイトルはWainscot Pond-after a painting by Cornelia Foss、Rosedale、Muir Woodsとされており、それぞれが北米の美しい森を有する地名です。

最初に配されたWainscot Pondについて武満氏は下記のような文章を書いています。


ウェインスコット・ポンド-Wainscot Pond-を、実は、私は未だ訪れたことがない。それがアメリカの何処にあるのかも知らない。友人から送られてきた絵葉書に印刷された美しい風景画の下に、小さな活字で、Wainscot Pondとあった。池の向こうに、私には、沈黙する森が見えた。


武満氏は、風景や他の芸術作品から多くのイマジネーションを得て、それを作品に昇華しました。この3分半ほどの小品も、極めてイマジネティブで静かな黙考や響きとともに、中間部では気のせいか憧れのような、いや慈しみのような感情をも聴き取ることができます。1995年といえば武満氏は既に癌と宣告され闘病中の身でした。その闘病生活の小康状態の中で描かれた曲であると考えると、曲のあまりの静けさと美しさに打たれてしまい、言葉になりません。


芸術新潮5月号で、友人であった作曲家ルーカス・フォスから送られた、その絵葉書が掲載されています(下図~無断転載)。大胆にも空が画面の上2/3を占めた構図。今にも雨の降りそうな寂寥とした雰囲気でありながらも荒涼とはしていない静謐な風景が描かれています。「沈黙する森」、池の向こうの森に武満氏は何を想ったのでしょう。そこには芳醇な世界が存在したのでしょうか、あるいは自らが行くべき世界を見たのでしょうか。




2006年4月28日金曜日

武満徹のギターのためのスタンダードソング






荘村清志/武満徹へのオマージュ


  1. 森のなかで(1995)ギターのための3つの小品
  2. Over the Rainbow、Yesterday、The Last Waltz、Secret Love、What a Friend、Londonderry Air
  3. 海へ(1981)アルト・フルートとギターのための
  4. エア(1996)フルートのための
  5. 不良少年(1961/1993)2台のギターのための


  • 荘村 清志(g)、田部井辰(g)、 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463


アルバム2番目に納められている6つのギター曲は、ラスト・ワルツを除き《ギターのための12の歌》(1974/77)からとられたものです。どれもが耳に聴きなじみのあるスタンダードソング。しかし武満さんの編曲にかかってしまうと、美しいメロディがひときわ引き立ちます。それでいて音楽が決して前に出てきて主張することはありません。静かに間や余韻を楽しむかのように、音楽は響き渡ります。


ビートルズ・ナンバーも良いですが、この6曲の中では賛美歌としても親しまれている《What a Friend》がとてもいいカンジ。曲については解説することさえ野暮と思えるほど。そっとした囁きや優しさに満ち溢れていて、ほんとうに思わず何度繰り返して聴いてしまいます。


武満さんが、一流のメロディーメーカーであったことはよく知られいまが、カラオケのようなものは嫌いであったとか。それでいながら、意外にも演歌とか流行歌には驚くほど詳しくて、散歩しながら口ずさむこともあったとか、何かで読んだことがあります。


私はギターという楽器が好きです。そして、自分のよろこびのためにこの「12の歌」を編曲したのですと語る一方で、ギタリストたちの固定した風景にもうひとつの窓から別の風景を開きたいと考えたと武満さんは語っています。本当に、心から「音楽」が好きな方だったのだなと、改めて思います。



2006年4月27日木曜日

芸術新潮の武満特集がうれしくて、不良少年に涙する

帰宅途上に書店に立ち寄ったら、「芸術新潮」が「はじめての武満徹」と題する特集をしている。何故に「芸術新潮」が武満なんだ?と訝りながら紙面をめくったところ、東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visions in Time」展にちなんだ特集であるらしく。本誌の内容も「武満徹(以下TT)がいる」「TTをきく」「TTをみる」「TTをうたう」「TTをたべる」「TTをまとめる」とコンパクトで多角的な企画。表紙の和田誠のイラストがまた懐かしくとてもイイ感じ。
武満徹は未だに私には縁遠い作曲家なのだが、アタマの痛さも忘れて何だかワクワク。立ち読みをするのももったいない気がして早速に購入。帰宅してパラパラと写真を眺めるにつけ、武満ってのは音楽家を越えた「ひとつの時代」であったのだなあと、根拠もなく思う。たいして聴いてもいないのに、ぜんぜん親しんでもいないのに、武満徹の周辺のことを知るだけで、多少スノッブ臭いところはあるけれど、どうして優しい気持ちにななるのだろう。ヒーリングという軽いものではないのに、どうして癒されてしまうのだろう。
iTunesで取り込んでおいた「不良少年」を荘村さんのギターで繰り返し聴く。本作品は羽仁進監督の同名の映画(1961)で使われた音楽、どんな映画なのかは不勉強にして知らない。3分40秒の短い曲だが、音楽にはとがったところが、どこにもない。心の深いところに、じんわりとしみわたる。あんまり何度も聴いていると泣けてくる。


2006年4月26日水曜日

陣内秀信:東京の空間人類学


東京はかねがねから、ずいぶんと複雑で興味深い都市であると思っています。そのきっかけを与えてくれた本のひとつが、陣内秀信氏による本書です。20年ほど前に読んだ本なのですが、こうして読み返してみますと、今となっては類書は多いものの内容のオリジナリティは高いと思います。


自らの足を使ったフィールドワークによって得られた知見は、混沌とした東京の成立史を明快に解き明かしてくれます。このような都市論が評価されてか、1985年のサントリー学芸賞を受賞しています。(この賞自体、私にはあまり馴染みがありませんが・・・)




彼の東京サーベイは東京には百年前の建物がほとんどないからといって、この都市はすでに過去の顔を失いアイデンティティを喪失したとあきらめるのは早計過ぎるとの観点から、建物ではなく地である敷地に着目し、変化に富む立地条件と、その上に江戸以来つくられた都市の構造とが歴史的、伝統的な骨格を根底において形づくっていることを明らかしています。


たしかに、ちょっと歩いてみると分かりますが、東京と言うのは非常に坂が多い。陣内氏の東京にもローマと同様、七つの丘があるという指摘は、彼のスタンスをある程度表しています(ひとつは東京を地形論的に読み解くという独自性、もうひとつは陣内氏がベネツィアなどで展開した西欧都市を研究の延長としての都市方法論)。

アースダイバー」の中沢新一氏は、東京が武蔵野段丘東端の「フィヨルドのような地形」の上に成立していると指摘しました。いずれにしても、地形のもつ力とか場の意味を無視しては現代の東京も成立しえていないと考えることは、ある意味で納得のできる考え方です。大名屋敷や旗本屋敷、町人街などが江戸からどのように変遷してきたかを、本書を紐解きながら想像を巡らせるのはなかなか楽しいものですし、街歩きをまたしてみたい気にさせてくれます。


ただ、陣内氏は都市論を中心とした学者ですから、どちらかというとハードな建築学的な視点に立っています。「空間人類学」と、いささか大仰なタイトルの割には内容的は建築学者という狭視的な記述がに留まっているように思えます。


また、実は彼が一番主張したかったのは「モダニズム都市の造形」という終章ではないのか、と思わせるところもマイナスです。この章では西欧的な「アーバンデザイン」の先駆が1920年のモダニズムの時代に認められていたにも関わらず、戦災と高度成長を経ることによって1985年当時の日本は、1920年代の都市デザインレベルには到底達していないと嘆いています。今までの文脈とは明らかにトーンが異なり、建築計画論的主張は建築に興味のない人には説得力に乏しいものです。


また、彼の主張には当時流行った「ウォーターフロント」や「都心回帰」、あるいは「都市や地域の文脈」というキーワードが散見されます。青山の同潤会アパートは安藤忠雄氏の設計により「歴史的連続性」を残すとか言われながらも、全く異質なものに建替えられてしまいました。都心部や湾岸地域は大手デベロッパーや投資家達によって、その姿を激変されつつあります。本書が書かれてから20年。陣内氏が本書を書くきっかけになったと想像する「都市の連続性」「都市の文脈」ということが、どう実現され(あるいは無視され)、今後どう変化してゆくのか。個人的には、そこのところが興味のあるところです。

2006年4月23日日曜日

東京を江戸の古地図で歩く本


今尚変貌を遂げつつある東京という都市をゆっくりと歩いてみると、多くの起伏に富んだ地形であることとともに、江戸時代のかすかな名残を見つけることができ、ときどきはっとする思いにとらわれます。


本書は江戸末期に刊行された尾張屋清七板の切絵図(江戸の敷地割図)をベースとして、現代の東京の成り立ちを概観しています。ただ「江戸の古地図で歩く」と題している割には、古地図と現代の地図の詳細な比較という点では物足りなさが残ります。文庫本という制約のせいか、古地図も小さくて見にくい。不満な人は別冊の「切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩」を購入せよということか。


総花的ではありますが、江戸と東京の関係を読み直すと言う点では、良きガイドブック(入門書)にはなってると思います。


それにしても、1657年(明暦三年)の明暦の大火、いわゆる振袖火事が江戸に与えた影響は本当に大きかったようですね。明暦の大火前と後の都市構造の違いなどを思い馳せながら、古の江戸の姿を想像するのは楽しいものです。本書を読んで、閑があれば、またどこかターゲットを決めてウロウロしてみたい気になりました。


2006年4月21日金曜日

武満徹:ピアノ作品集/藤井一興








  1. 雨の樹素描(1982)
  2. 閉じた眼(1979)
  3. フォー・アウェイ(1973)
  4. ピアノ・ディスタンス(1961)
  5. 遮られない休息(1952/59)
  6. 2つのレント(1950)


  • 藤井一興(p)
  • フォンテック FOCD-3202



1950年の処女作「2つのレント」から1982年の「雨の樹素描」までの武満のピアノ曲を集めたもの。Tower Recorodで「今なら半額」というのに、ついつられて購入、iPodに入れて何度も聴いています。しかし武満の曲は何気に流して聴くということを許容しません。じっくりと耳を澄まさなければ、何も残らずに通り過ぎてしまいます。


例えば1950年の「2つのレント」という曲。武満の処女作にしながら「音楽以前」と当時の批評家(山根銀二氏)から酷評を受けたと言う作品。Adagioは、冒頭のくぐもった靄のかかったような低音のトーンが支配的な曲。自分がどこに居るのか定まらない不安定な気持ちになりながらも、何かを確かめるような感じ。続くLento misteriosamenteは、もう少し音が容をなしている。逆にメロディー的なものが解体されて響きとして再構築されてしまったと言う方が適切か。彼の音楽に感じられる時空間の広がり、饒舌とは反対の色彩の豊かさは、この処女作にして充分に感じることができます。


今こうして聴いてもかなり実験的な音楽として聴こえます。でも決して「音楽以前」などという稚拙な独りよがりな音楽ではありません。


一方で有名な「雨の樹素描」の美しさは特筆もの。自然と人間を超えた叡智に抱かれるかのようなイメージ。ピアノを通した水滴の表現はあまりに見事。ピアノの音の粒立ちがキラキラと煌いています。音楽というよりも音そのものが連なり、重なり、変化する様。それゆえに、響きは夢幻のイメージをかきたてます。たった2分43秒の演奏に身も心も洗われるかのよう、しかし決して安易なヒーリングではありません。


瀧口修造の追悼作である「閉じた眼」も、上記と同じような路線にある曲のような印象。ただ「雨の樹素描」よりは激しい。しかし、それとて、あからさまな、あるいは象徴的意味での感情表現ではない、聴いていて、ひたすらに純粋な響きのみが支配してゆく峻厳さに身を任せるのみ。


ここに納められた曲は、どれもが瞑想的というか、自分の内部へ、あるいは何かにじっと耳を澄ませることで聴こえてくる音楽のようです。一音一音を確かめながら、どこか空間から音を紡いで織り上がったような作品群。武満独特の色彩に彩られた繊細さと豊穣さ。先にも書いたように、作品に真摯に耳を傾けなければ音楽の囁きに気付くことはありません。こういう曲を聴いていると、俗世間のザワザワしさが莫迦らしくなってしまいますね。

2006年4月16日日曜日

町田康:きれぎれ、人生の聖



彼のエッセイだけ読んで評するのも何なので、2000年度の芥川賞受賞作ほかを納めた本書を読んでみました。何故この作品が芥川賞なのか私には理解できませんが、バブル崩壊後の時代の雰囲気を感じた評者が推したのでしょうか。反逆児でパンクロッカーであった町田氏が純文学において最高の名誉とされる賞を受賞してしまったことを、どのように感じているのかは興味深いところです。

芥川賞の意味はさておくにしても、作品としては極めて面白い。本作品もくんくんと一気に読んでしまいました。

さて作品の内容を細かく書くのは、本当に野暮なことですから、それはやめるにしても、「きれぎれ」の主人公が資産家の息子でありながら、いい年になっても定職もつかずに、ブラブラと親の金を使って遊んでいるという様は、彼のほかの作品である「へらへらぼっちゃん」(読んでない)という人物スタイルと通底するものがあるのだろうなと。

そうなんですね、町田氏自らが資産家の息子であったのかは分かりませんが、作品からは資産家故のボンボンとした感じ、切羽つまったころのなさを感じます。それが物語から悲惨さを剥ぎ取り純度を高めながら全く違った方向へ進ませます。世間から一歩立ち位置を離れたところで、社会も人間も自分さえも客観視するという態度、その他者性こそが町田文学の諧謔性のルーツかなと。ここらあたりは、さすがに関西のノリです。

しかも町田氏独特の世間とのズレ(不適応)はここでも健在で、その態度は根が反逆者あるいは没落者ゆえなのか。現実と折り合いをつけられないことを、徹底した諧謔と自虐に紛らわせ、どこまでも堕ちてゆく。だけども最後は何だか透明な存在となって救われるみたいな。笑いに包まれているけれど人間洞察は鋭い。

ストーリーは不条理(>よく分からないって)の連続。「ママンが死んだ」なんて書いている当たりカミュの「異邦人」かよって思ったり、そういえば脳内に甲虫だものなと(>毒虫はカフカだって)。あるいは、太宰治や坂口安吾を彷彿とすると思う人もいるみたいですが、私にはどちらかというと筒井康隆的諧謔を感じたり、なかったり。(こうして羅列すると「新潮社の100冊」みたいだな)

そういうわけで「読後感として何も残らない」という感想は当たらず。この不快感と爽快さの絶妙なるバランス。人生と社会における不条理性と諦念と自虐と救い(か?)、悪夢と現実。やけっぱちなテロル。ちっぽけな悪意に満ちた快感。読書をすることの愉悦とひきつり。

2006年4月14日金曜日

町田康:東京飄然


iioさんのclassicaにあった町田康氏の「告白」に関するエントリを読んで依頼、気になる作家としてアタマの中にインプット。書店で「告白」を手に取るも、その分厚さに「こいつは今は読めねーや」と尻込み。そうこうしていたときに、エッセイ風の本書が目に付いたので、これならばと購入。


本書に挿入されている写真をつらつら眺めるに、少し斜に構えた街歩き本なのかと思って読み進めると、まったくさにあらず。町田氏独特の文体の魅力に惹き込まれ、くんくん読み進んでしまいました。





そして、読み終わった感想としては、「町田氏はイケテいるな」ということ、久しぶりに手ごたえのある作家を知ったうれしさに内心小躍り。でも、どこが良いのかを他者に伝えるのは難しい。あえて書くならば、作家の感性と文章の一致度が見事で、また文章を読みながら感じた身体の微振動が、心地よい愉悦として広がるのを感じることができたから、ということになりましょうか。極めて私的な感想です。


彼は昔はパンク・ロッカーだったのですが、今では野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞、芥川賞、萩原朔太郎賞、川端康成文学賞と、世の文学賞をとりまくってい一流作家です。しかし、そういう問題ではない。いくら賞を受賞していても、あるいはいなくても、読者との共感点が得られなければ権威は何の意味もない。


で、私が町田氏に感じたエトスとは挫折と脱力です、不条理と書きたいところですが、哀しいかな私は不条理の本質を知りません。彼の挫折は、世の中と自分の間の奇妙なズレを是認し、しかし本人はそれを常識的な力で乗越えようと努力するものの、その努力そのものが、世間的な常識からは17度ほどずれているため、ますます世間との乖離は深まる、といったもの。しかし、といって厭世的とか引きこもり的自己愛に落ちるのではなく、その恐ろしいまでのズレを、まさに飄然と楽しんでいる。そういう雰囲気です。


アマゾンなどの書評では、「面白くない」「町田的濃度が薄まっている」と書く人もいます。わたしはこの1冊しか町田氏の文章を読んでいませんので、なんとも言えません。しかし、氏の文章は軽く書かれているようでいて、きわめて計算されていおり、彼のバックボーンの広がりに、またワクワク感がかきたてられます。


この文章の初出が「婦人公論 2003年3月~2005年5月」であったということは注目に値します。婦人公論が、どのような読者層を想定しているのかはイマひとつ分かりませんが、町田氏のような雰囲気は、女性層の琴線に触れる部分が多いのかもしれません。


町田氏が、自分の立ち位置まで理解した上で、確信犯的文章をしたためているのか否かについては、本書だけからは伺い知ることが出来ません。彼が一体どういう小説や詩を書いているのか、機会があれば読んでみたいです。


町田氏を教えてくれたiio氏には改めて感謝です。

2006年4月13日木曜日

山田真哉:さおだけ屋はなぜ潰れないのか?


こんなベストセラー本を今購入することは、「ダ・ヴィンチ・コード」を購入するよりも勇気が必要です。「いや~、オレっておカネに疎いし、やっぱ会計?必要でしょう」みたいなフリを装い、レジでは本を裏返しにして差し出す。本と一緒に受け取った釣銭の枚数など確認もせずにレシートと一緒に財布にグシャリと突っ込み、早々にレジカウンター前を立ち去る。そういう自意識過剰的行動、あるいは中学生などがコンビにでよからぬ雑誌を買うような、そんな苦労をしなければ、今更白昼堂々と購入できるものではありません。


しかし、そういう苦労をして購入してみたものの、一体これは何なのかと。どうしてこんなに売れたのだろうと考えてしまいました。





最近の新書はネーミングの良い本が良く売れる傾向にあるようです。「バカの壁」や「上司は思いつきものを言う」などその好例でしょうか。ベストセラーになる以前に本書を手に取った人は「さおだけやの謎に深く迫る話題作」を期待したかもしれません。しかし、新聞や雑誌などで話題になっていることを知った人は、本書が「さおだけや」のハナシではなく「会計学」の入門書であることを、かなり知っています。


ということは、世の中には「会計学」について学びたいのだけど、難しそうでよく分からないとか、類書に当たったけれども挫折したてしまったという人が多くいて、そういう潜在的な会計学欲求層をうまく刺激したということなのでしょうか。それとも、ベストセラーの相乗効果としてのベストセラーなのでしょうか。


本書が会計学の入門書として良書であるかはさておき、著者が言っているのは、難しい話ではなく「数字やお金のセンスを磨こう」ということに尽きています。昨今の日本は、一般の人たちも「経済」というものの動きを身近に捉え始め、さらに自己責任の範囲でなくては資産形成ができない社会であると思うようになりました。そういう中にあって、おカネに無頓着でいると取り残されるてしまうという焦燥感が、本書を読む人の底のどこかに潜んでいるのかも知れません。所詮私もサラリーマン、お金は「振り込まれる」もので、税金は「知らないうちに引かれている」ものでしかありませんから、これぢゃあね・・・。

2006年4月12日水曜日

中島義道:うるさい日本の私



私の嫌いな10の言葉」に書かれていたことに対し、主張の鋭さを認めるはするが不快さも禁じえないという合い半ばする感想であったため(一度は、こんなくだらない本はさっさと捨てようとさえ思った)、氏の別著を読んでみました。


「一番うるさいのはオマエ(中島氏)だ!」と、本書に向かって何度も叫びそうになりますが、しかし彼の主張と行動には応援を送りたいです。


彼は何に対し闘っているのかといえば、公共空間に撒き散らされている「公共放送」のうるささに対してです。例えばそれはバスの中に流れる放送であったり、駅ホームの放送であったり、江ノ島海岸に流れる案内であったり、防災放送であったり・・・。彼はそういう放送源に単身乗り込み、流されている放送のうるささをまくしたて、中止することを求めるのです。その奮闘ぶりは、もはや喜劇的色彩さえ帯びています。





ここで氏はイロイロな問題を提起しています。「公共放送をうるさいから止めろ」という個人のエゴは主張して良いものなのか、静かな環境である方が好ましいと思われる場での「おせっかいな放送」は、マジョリティ側からの無意識の管理と暴力ではないのか、思いやりや善意という発想が公共性を持ったときの危険性などなど。


「ホームと列車の間が離れているところがあるから足元に注意しろ」と喚起するのは、仮に事故が起きた場合に企業責任を少しでも免れるためという意味もあるでしょう。そういう放送を煩いと思っても、普通は止めてくれとは言いません(言えません)よね。


ですから氏は「日本古来の美学」である「察する」美学から「語る」美学へ移行すべきだと主張しています。日本の音漬け社会を批判しながら、実はココを一番主張したかったようです。


あまり他人に「思いやり」をもたないようにしよう。あまり他人から「優しさ」を期待しないようにしよう。何事につけ「察し」が悪くなろう。そして、その代わり言葉を尽くして語りつづけよう!

その主張に心から同意できる人は、なかなか多くはないだろうとは思いますが。


蛇足ですが、音漬け社会ということに関して。駅ホームや車内放送の煩さは、都会に住む人ならもはやBGMのようなものです。駅係員の絶叫と発車ベルと列車到来の自動放送が交錯する中、もみくちゃになりながら列車に押し込まれるという毎日の風景にあって、もし仮にそれらが全て無音の中で演じられるとしたら。それこそ高度な管理社会と狂気を感じます。現在の狂騒があるから、かろうじて人間性を喪失しないでいるという逆説もあるのかなと・・・。

2006年4月11日火曜日

中島義道:私の嫌いな10の言葉



書店に行くと「私の嫌いな10の人びと」というタイトルの本が。ありがちな有名人批判本かなと思って手に取り目次をながめたら、中島氏の嫌いな人とは1 笑顔の絶えない人 2 常に感謝の気持ちを忘れない人 3 みんなの喜ぶ顔が見たい人 4 いつも前向きに生きている人 5 自分の仕事に「誇り」をもっている人・・・なのだとか。


目次を見たただで何だか感ずるところがあり、それでも誰だか分からない人の本に1260円も払うほどのこともなかろうと文庫棚に移動し、氏の類似書である本書を購入した次第。




で、氏の嫌いな10の言葉とは、1 相手の気持ちを考えろよ! 2 ひとりで生きてるんじゃないからな! 3 おまえのためを思って言ってるんだぞ! 4 もっと素直になれよ! 5 一度頭を下げれば済むことじゃないか! 6 謝れよ! 7 弁解するな! 8 胸に手をあててよく考えてみろ! 9 みんなが厭な気分になるじゃないか! 10 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!なんだそうです。


青春ドラマや家族更正ドラマ、あるいは新入生相手の会社ドラマのような安っぽい台詞の羅列で冒頭から少々ゲンナリです。それに改めて考えてみると、私は氏のような言葉を人から頻繁にかけられたことは、ここ十数年に限って言えばありませんし人に言ったこともありません。

もっとも、それは中島氏的に言えば「大人になった」ということなのです。未だに中島氏が、このような言葉を生み出す環境にいるとしたら、彼も周りの人もやりにくいだろうなと。


という具合に、最初は批判的に読んでいたのですが、氏の指摘は日本の文化的なありように鋭く切り込んでいるもので、捨てきれない面も多く感じます。氏はマイノリティとマジョリティに対する考え方、一方的な「善意」のもたらす暴力、「集団」が無意識のうちに示す残酷さ。「全体」のエゴと「個」のエゴの関係性などを鋭く喝破し、日本においては個人が主体的かつ個人的な言葉を発することを抑えられているというこを、筆致鋭く指摘しています。


人によっては、読むとかなり「不快」になりますが、その「不快度」の高さが逆に自分の立ち位置を教えてくれるかもしれません。

P.F.ドラッカー:ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる

ドラッカーの本は大変示唆に富んでいます。多くの人が彼を敬愛するわけも、ドラッカーの本を1冊でも読むと良く分かります。あたかも未来を見据える預言者のように、的確に数十年後の来るべき世の中を描いてみせてくれます。


ドラッカーは「経営の神様」とか「マネジメントの創始者」という言われ方をしていますが、むしろ、人間が社会組織の中で疎外感を得ることなく、人間らしく生きるにはどうしたら良いか、ということを語っている哲学者的な面も持っているようです。そこが多くの人を惹き付ける理由のひとつでしょう。





本書の描いている世界は、まさに少子高齢化社会であり、誰もが高等教育を受けていることを前提とし、アジア諸国が台頭し、古くからの先進国では政府と官僚が機能不全に陥り、企業においては正社員の数が激減し、IT革命が進行している世界。すなわち現在進行形の今の世界がこれから向かえるべき世界を描いているのです。


一方でドラッカーの資本主義批判や市場経済理論についてのコメントも興味深い。しかしドラッカーは組織や人間にとって重要なことは、経済ではなく社会であると説いています。


例えば製造業に代表された20世紀型の労働形態と組織構造から、21世紀は高度な教育を受けた知識労働者が、フラットな組織の中で働くようになるとの予測は注目すべきです。またネクスト・ソサエティにおいては人の属すべきコミュニティーとしてNPOが重要な要素になるとの指摘には深く首肯、現在の日本にさえその萌芽が見られます。


数ヶ月前の本の感想をこうしてメモするために頁を捲ってみましたが、その一行一行に再び眼を奪われてしまいました。難解な本ではありません。凡百のビジネス指南書を読むくらいなら、本書を数時間かけて読むことを薦めます。ただ、マニュアルや解答はどこにもありません。

2006年4月10日月曜日

カルロス・ゴーン 経営を語る



あまりにも日本で有名なこの経営者に対して、この本を接するまでそれほどの知識があったわけではありません。カルロス・ゴーン氏に対するインタビューをまとめた本書はゴーン氏の素顔を的確に描出しているとともに、優れた経営者には共通した特質があるものだということを改めて感じさせるもので、非常に興味深く読むことができました。





特に彼のスタンスとして素晴らしいと感じたことは、日産の新経営陣に対し、ルノーの文化を持ち込んで植民地的態度で接することを戒めた点です。私が必要としているのは、"コーチ"だ。(中略)必要なのは、"問題を解決する人々"でした(P.250)


"問題を解決する人々(Problem Solvers)"であることの難しさと大変さ。"問題を見つける人々"は多くても、決して自らが"解決"しようとはしないという、日々の企業の現実を見るにつけ、リーダーシップの重要性を痛感する言葉です。また、「改革」とか「テコ入れ」をしようとすると、現地(あるいは現場)の人を無視した高圧的な手法をとりたがるもので、そこにはお互いの企業(組織)文化を尊重しようとする雰囲気は希薄です。それが成功することは稀であることを、ゴーン氏は教えてくれます。


私たちは劇的なまでの日産のV字回復を目の当たりに見ました。では日本人がゴーン氏に期待した「変革の思想」は、日産を超えて他の企業や日本の体質にまで影響を与えたでしょうか。ゴーン氏の改革であっても、全ての人が「勝ち組」になったわけではありません。「痛みを伴う改革」というのは小泉首相のスローガンでもありました。小泉首相とゴーン氏の決定違いは何であったのか、イロイロと考えさせられる本でもあります。