2006年5月28日日曜日

マーラー:交響曲第2番「復活」/ブーレーズ&ウィーン・フィル








  1. マーラー:交響曲第2番「復活」


  • ブーレーズ(cond) ウィーン・フィル クリスティーネ・シェーファー(S) ミシェル・デ・ヤング(Ms) ウィーン楽友協会合唱団 合唱指揮:ヨハネス・プリンツ
  • DG/00289 477 6004(輸入盤)



ブーレーズのマーラーというと、知的抑制だとか緻密なスコア解釈、透明感などというキーワードで語られることが多いようです。何度か繰り返して聴いていますが、確かにこのマーラーは美しい。しかし感情移入の激しいマーラーを求めるリスナーには、ブーレーズのマーラーから何か決定的なものが失われていると感じるであろうことも認めざるを得ません。



であるからと言って、ブーレーズの演奏が分析的なだけで、感情表現を全く廃しているとすることも当たらないでしょう。作品解釈にを忠実であれば、過度な感情を込めなくても作品の持つ意味は自ずと立ち上がってくはずだろうと思います。ここに聴こえるマーラーは洗練され見通しが良く、ウィーン・フィルの演奏力と相まって曲のダイナミックさや美しさを損なっていない演奏だと思います。


例えば第一楽章などは、ブーレーズらしくないアゴーギグとでも言うのでしょうか、随所でしっかり「タメ」も聴かせてくれます。激しいところは激しく、優雅なところはひたすら華やかです。


中間の三つの楽章はくぐもったような暗い響きで、憂愁さえはらんでいるかのように聴こえます。ブーレーズの何とシンクロしているのでしょうか。曲の移ろいをたゆとう人生の流れにもなぞらえたかのように、ゆったりと、そして悠然と描いているようです。


第4楽章のミシェル・デ・ヤングの原光も、少し声質がナマっぽい感じがして、ブーレーズの演奏のバランスから考えると若干違和感を感じますが、演奏そのものは非常に良いと思います。


両端楽章の起伏とスケールの大きさは、おそらく演奏会場のナマで聴いていれば、結構驚きの演奏なのではないかと思えます。ティンパニやトロンボーン、チューバの音も劇烈です。オケ的音響としては、これに何のモンクを付けられましょうという程。ラストに向けての合唱の入る直前の美しさは言葉になりませんし、クライマックスも実に壮大、全く素晴らしい演奏といえます。


ただ、全編を聴き通した後に残るモノということに関して言うならば、壮大で立派な演奏であることに反して、冒頭に書いたように弱さを否定することができません。作品解釈としては忠実であっても、指揮者の作品に関への共感が聴こえてこないからでしょうか。


おやぢの部屋の感想の最後に、「熱狂」とか「迫力」といった言葉とはついぞ無縁のままエンディングを迎えても、青白い醒めた高揚感が心に残るとありました。この言葉の意味が何度か繰り返して聴いて、ようやく納得できるようになりました。終楽章などは、ブーレーズはもしかすると、全く別な意味での狂気に取り付かれて、この演奏をカタチ作ったのかもしれないなと。


2006年5月22日月曜日

武満徹:ギター作品集成


武満氏はギターをこよなく愛したことで知られています。ここに納められたギター曲の数々を聴いていると、しみじみと心の奥底にまで、武満氏のメロディがじんわりと染み渡るのを感じることができます。



武満氏のメロディは、ことさら大声で感情を吐き出したり主張はしません。何かを感じ取るかのような感性の部分が大きい。彼の興味の対象が、水とか樹とか風や雨に象徴されるような自然的なものであったことは、曲の標題から推測できますが、彼の音楽が単なる自然描写に留まっているわけではありません。


本盤の解説で作曲家である細川俊夫氏が次のように書いています。


時々、むしょうに武満徹の音楽を聴きたくなる。その強い気持ちは、ちょうど都会生活に疲れて、森や海に行きたくなる衝動に似ている。自然にふれ合いたいという気持ちと、武満徹の音楽にふれたいという気持ちは、どこかで通じ合っている。


そして、武満氏の音楽の中に細川氏は自然のもつ見えない官能的な力を感じるとしています。


おおむね私もこの感覚には同意します。ただ「官能的」という言葉の印象ほどには武満氏の音楽はナマさが全くありません。地層を幾つも越えることで浄化された地下水にも似た、洗練と純化を繰り返したピュアさが際立っています。


ピュアさとともに魅力なのは、絶えず変化してとらえどころのない茫洋とした感じ、しかし底に秘められた整然とした構築感。ですから、武満の音楽は漫然と聴いていると何となく通り過ぎてしまう。あれ、これだけ?みたいな感じ。でも真摯に耳を傾けると、奥から違った声や響きが聴こえてくる。


この盤にあっては、それぞれの曲の良し悪しを語る必要はなさそうです。鈴木氏のギターは、独特のメロウさと柔らかさ、そして不思議なアンニュイさを漂わせつつ、限りなく美しい武満の音楽を歌いきっています。ただ静かに浸るのみで充分です。

2006年5月14日日曜日

武満徹:A String around Autumn、Ceremonial/小澤&サイトウ・キネン

ア・ストリング・アラウンド・オータムはヴィオラを、セレモニアルは笙を伴った管弦楽曲です。1989年と1992年に発表された曲で、どちらも武満晩年の作であると同時に、どちらも「秋」をテーマにした曲となっています。セレモニアルは「秋に寄せ頌歌」という副題を持っています。初期の武満作品と比すと随分と聴きやすい音楽といえます。


ア・ストリング・アラウンド・オータムはヴィオラ独奏が前面に押し出され、非常にメロウでロマンティックな曲に仕上がっています。もはやヒーリング系音楽に近づいているかのようですが、良く聴くとそれぞれの音の響きは決して安易ではなく、ヴィオラとオーケストラの響きの反応と融合が実に見事です。


セレモニアルは日本楽器の笙を用いた曲ですが、これが用いられるのは曲の前半と後半のごく一部です。しかし笙の持つ暖かな音色は、この曲に独特の色彩を加えています。


最初はヴァイオリンのか細い、神経質な響きに導かれまて曲が始まります。この静寂と響きからは雅楽をイメージするかもしれません。この冒頭が独特の静けさや透明感、リリカルさといったものを音楽に付与しています。しばらくすると打楽器なども加わり音は重層的になりますが、それでも最初にイメージされた透明感は失われません。


挿入される笙の音色は、弦の響きとは対照的で一瞬の幻か夢のような印象を与えます。ゆったりと動く旋律線は、そよそよと野に揺れる薄をイメージするかもしれません。


90年代近くの武満氏の作品は、無調の現代音楽というよりは、音楽に旋律の流れが戻っているように聴こえます。とはいっても明確な物語性があるわけではなく、漂う響きの流れがより主体性を持ったという風に捉えることができます。あくまでも茫洋とした、とらえどころのなさは変わりありません。60年から70年の武満氏の音楽にこそ力があった、とする意見もありますが、私はやはり晩年の「聴き易い」作品の方が好きです。所詮、その程度の武満理解です。

2006年5月13日土曜日

武満徹:弦楽のためのレクイエム/小澤&サイトウ・キネン


レクイエムとありますが、1955年に早世した作曲家・早坂文雄氏を追悼しつつ描いた曲とされています。あるいは当時武満氏は結核を患っており自らに対するレクイエムであったとする解説も目にしたことがあります。一方この曲で武満氏が特定の誰かを追悼するという意図はないとする文章も何かで読みました。


そういう事情はさておき、それであっても、この曲は限りなく哀しく、限りなく美しいことに驚かされます。


弦のみによって奏でられる響きは重く荘厳です。最初は美しい響きだけど何だか暗いなあくらいに思っていたのですが、何度か聴いていると曲の底に潜んでいる圧倒的な慟哭に気付かされます。声を上げて泣いているのではない、涙を流して泣いているのではない。そういう表層的な感情表出ではなく、心の深いところが存在を脅かされる恐怖とともに震えている。


しかしそれは、早坂氏追悼ということを知った上で想起された聴き手の感情かも知れず。そういう予備知識を抜きに聴いたとしても言い知れぬ深い哀しさは伝わってくるようです。


はじまりもおわりも定かではない、人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れる部分を、偶然に取り出したものだと云ったら、この作品を端的にあかしたことになります。


と武満氏は東京交響楽団の機関誌に書きました。彼の音楽に対する考え方を示す意味で興味深い文章です。武満氏は「哀しみの感情」などを音楽に持ち込んだつもりなどなかったのかもしれません。音楽を聴く者は、いかようにでもして自らの文脈の中に当てはめずには理解できないのでしょうか、困ったものです。


この曲を評してストラヴィンスキーがこの音楽はじつに厳しい、まったく厳しいと語ったとされており、それが武満氏の評価を高めるきっかけになりました。「厳しい」というのをストラヴィンスキーがどのような意味と文脈で語ったのかは分かりません。この曲が一点の虚飾もない非常なる高みに到達していることだけは確かであると思います。

武満徹:ノヴェンバー・ステップス/小澤&サイトウ・キネン


武満氏を代表する曲なので随分前に買って聴いてはみたものの、「なんぢゃこりゃ」てな感じで、当時は全く馴染めず、即お蔵入りした盤であります。武満氏の他の曲なども辛抱強く聴くことによって、ようやくこの曲にも慣れてきて、そうしますと曲の持つ特質とか美しさ、そして厳しさが朧気に浮かび上がってくるような気になってきました。


この曲は尺八や琵琶の音色が非常に特徴的ですし、それがオーケストラと掛け合う様も面白いのですが、圧巻は曲後半での、ほとんどカンデンツァと思われるほどの和楽器による独創部分でしょうか。朗々と響き渡る尺八の音色と、バチバチと硬質な音色で弾かれる琵琶は、ある種の懐かしささえ覚えます。自分が尺八奏者となって演奏していることを想像すると、曲の聴き方も変わってきます。結構これは気持ちいいことかもしれない、と。


武満氏は雅楽を聴いたときの驚きを以下のように記しています。


ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。

 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。


確かにここには、日本の古典楽器の玄妙なる響きと緊張感があります。音楽は旋律を持って横に流れる事はなく、自律して存在します。決然とそして黙然と立ち上がってくる響きがあり、音の持つ存在感がそれだけで意味を語るかのようです。


音が自律して自己充足的である故に、音と対極にある無音、即ち沈黙も音楽の一部として、その姿を美しくさらすこととなります。それはあたかも、日本画の何も書かれていない地空間のような。何もないことによる美の表現。


音の旋律線と多彩なパレットによって塗り重ねられ説明されるのとは全く違った有り様。これは極めて日本的風景であるとともに、一方で至極イノセントな世界観であると感じます。その日本というローカルな意味を超えたところにあるイノセントさゆえに武満徹は世界性を獲得したと言えるのでしょうか。ここらあたりは、まだよく分かりません。

2006年5月7日日曜日

雑誌Lapitaの万年筆「赤と黒」を購入し、マニア世界の深さにおののく

Lapitaという雑誌が、また万年筆特集をやっている。最近は万年筆も密かにブームであるらしく、文具店では万年筆を紹介した雑誌とともに、メーカーのフェアを開催していることも珍しくない。かくいう私もイタリアはAURORA社のペンを愛用している。


「Lapitaがまた」と書いたのは、昨年11月にも同じような特集をしていたからである。Lapitaの特集には万年筆が付録として付いているところがミソである。たかだか980円の雑誌についている万年筆であるので、普通に考えると万年筆代は300円程度(パッケージ代、雑誌に付録を付ける余計な梱包代、かさばる搬送費を考えると300円以下という評価になる)。

これならば市販の使い捨て万年筆よりも安いくらい。ということで前回は見送ったのだが、今回は赤と黒のデザインに負けててしまい購入。さっそくインクを入れて書き味を試したところ、これが300円とは思えぬ出来で、かなり満足なのである。


ペン重量は26g程度。適度な重量感であり、持ったときのバランスも良い。キャップはスクリュー式であり、軸も安っぽい感じはしないし、ペン先の鍍金の具合も悪くはない。ペンフォルダー部の金属の曲げ方も丁寧でバリなどは全くない。こういう細部の造りの良さは所有欲を高めると同時にマニア心をくすぐる。(断っておくが、私は文房具マニアではない)


肝心の書き味の方だが、ペン先の太さがM(中字)ということもあってか、結構なめらかだ。1000~5000円程度で市販されているカートリッジ式万年筆と比べてもそれほど遜色がない。デザインだけから評価すると、好みもあろうがLAMYのsafariやWatermanのKulter Light Softなどよりも数段に良い。同じWatermanのCharlstonやPelikanのTraditionalなどと比べても、外見だけからは素人が値段を判断するのは困難であると思う。


かくも絶賛するのは、これが300円だからである。「Lapita」「万年筆」で検索してみると、多くの人が高い評価を与えていることが分かる。と同時に、「万年筆」を語る筆致の熱さに少々驚いてしまう。さらには、万年筆マニアのHPなどにも辿りつき、発売と同時に5本購入しただの、購入した付録万年筆を改造しまくるだの、その筋の世界の深淵さと暗さには、思わず脱帽すると同時に、その熱情がどこから生ずるのか、5秒ほど考え込んでしまうのであった。同じ文具フェチでも「消しゴムフェチ」よりは救えるとは思うが・・・


ちなみにLapitaがどういう雑誌かは、いまだ知らない。予備にもう1本(いや1冊)購入しておくかな・・・。

2006年5月4日木曜日

武満徹:環礁ほか/外山雄三&都響








  1. 地平線のドーリア(1966)
  2. ソプラノとオーケストラのための「環礁」(1962)
  3. 鳥は星型の庭に降りる(1977)
  4. 群島S.-21人の操車のための(1994)
  5. 弦楽器のためのコロナⅡ(1962)


  • 指揮:外山雄三 東京交響楽団 浜田理恵(S)
  • 1997年8月31日~9月4日 東京芸術劇場
  • DENON COCO70775



ここには武満徹の初期から晩年までのオーケストラ作品が収められています。しかし、武満氏の初期から中期、すなわち60年から70年代の実験的な作品群は、何度聴いても簡単に馴染めるものではありません。


いつだったか、家で映画「2001年宇宙の旅」を見ていたとき、モノリスが現れると奏でられるリゲティの音楽(《レクイエム》《アトモスフェール》)を聴いて家人曰く、「こういう耳障りで、人の気持ちをかきむしるような音楽を好きという人とは、お友達になれないわね」と。しばし絶句した私でありましたが、このアルバムでの武満徹もその類の音楽と言えないこともありません。



地平線のドーリア》に武満氏自らがプログラム・ノオトを書いています。


旋律ではなくハーモニック・ピッチ(Harmonic pitch)という考え方、リズムではなくプルセーション(Pulsation)という考えかた。新しいポリフォニーを試みる最初のデッサン。


ここに現れる音の濃淡、輪郭の融解、茫洋とした音世界、弦の特殊技法を多用した抽象的音パレットによる混沌は、たゆとうようでいて静かに流れ、しかしどこにも向かわない霧のようです。定位しない音楽は言葉にできない不安を呼び覚ましますが、しかしある瞬間に和的な響きやら美しさの片鱗が見えたりします。冒頭のハーモニック・ピッチへ回帰したときには、やっと懐かしさを覚えます。


しかし、この題名ばかりが有名な曲であっても、漠然と聴きながせば、耳に届くのは耳障りで不快な不協和音の連続でしかなく、「音楽以前」と評する人がいたとしても、その人の感性の方が正しいと思うほうが一般的な感想かもしれません。


環礁》は跳躍するソプラノパートを伴う難曲です。声楽を伴い詩を歌うからといって、武満氏の曲が親しみやすくなるということはありません。大岡信氏の詩はシュールで、文学的素養のない私には、さっぱり理解できません。浜田理恵氏のソプラノ肉声は武満氏の響きと融合可能なギリギリの一線を保っており潔いです。


と、書いて気付きました。武満氏の音楽には肉感的生々しさ、感情のストレートな奔流などが全く似合いません。音は響きそのものとして研ぎ澄まされ、武満が彫拓したかのような純粋性を持っています。彼にとって作曲とは、自然を含めたインスピレーションの中から、何かコアとなるものを聴き取り、美的な「かたち」へとつくりかえる行為であったのでしょうか。


旋律線を有さない曖昧さは、西欧ロマン主義的な音楽のあり方から、確かに自由となっています。しかし、その獲得された自由さが、場合によっては時代の足かせであり、時に古臭さを感じてしまうことも否めません。実験的、デッサン、であったことが、音楽史以上の意味を現代に与えうるのか、あるいは彼の音楽が「日本的なるもの」を考える上で今でも有効であるのか。


鳥は星形の庭に降りる》などは、まさに彼が夢で見たイメージを曲にしたものです。題名ほどには親しみやすい曲ではありませんが、1970年代後半にあって前衛的というよりは、かなり調性を意識した作品であると感じます。


それが1994年の《群島S.》となると、さらに響きが変わってきていて聴き易くなっていることに気付きます。ここではおのおのの楽器の音色と響きが相互に絡み合い、そして全体的な融和と表情の豊かさを聴くことができます。相変わらず能動的で意味的な旋律線は認められませんが、このアルバム中では唯一、武満的ロマンをストレートに感じ取ることの出来る作品かもしれません。逆に60年から70年の鋭利な武満音楽を好む人には迂遠されるものかもしれません。


アルバム最後は図形楽譜を用いた《弦楽のためのコロナⅡ》です。極めて実験的な作品なのでしょうが、1分半程度の曲ですぐに終わってしまいます。無調の不協和のテンションがこれからどこに向かうのだろうか、と思ったところで、曲は何の解決もなく終わってしまいます。今まで延々と不協和を聴かされた耳には、ちょっと物足りない程。


ということで、この音盤の感想も、何のまとめも結論もなしで、おしまいにすることとします。


2006年5月3日水曜日

町田康:くっすん大黒、川原のアパラ

「くっすん大黒」116回芥川賞候補(1996年)となった作品であり、落選はしたものの筒井康隆氏が本作を絶賛しました。
1997年には第19回野間文芸新人賞、第7回ドゥマゴ文学賞を受賞しています。


と書くと、さぞかし「凄い作品」なのだと思うでしょうが、ここでも町田氏の脱力ぶりと下降志向は健在です。氏の芥川賞受賞作である「きれぎれ」やその他の作品よりも狂気や陰惨さは少なく、快活で滑稽な作品に仕上がっています。小説を読みながら久しぶりに「ゲラゲラ」と笑ってしまいます。それでいて計算づくの恐るべき小説でもあります。(Amazonへ




無意味な教養という以外何の役にも立たなかった学校教育の国語において暗記させられた「名作」の冒頭を思い出すまでもなく、小説の出だしの文章というのは極めて象徴的です。ここにおさめられた「くっすん大黒」と「川原のアパラ」の冒頭を拾ってみましょう。


もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの? あきまへんの? ほんまに? 一杯だけ。あきまへんの? ええわい。飲ましていらんわい。(「くっすん大黒」より)


おおブレネリ、あなたのおうちは何処? わたしのおうちはスイスランドよ。綺麗な湖水の畔なのよ。やーっ、ほーっ、ほーとランランラン、って、阿呆かオレは。なにもかかるケンタッキーフライドチキン店の店頭で、おおブレネリを大声で歌わなくてもいいじゃないか。(「川原のアパラ」より)


アホくささと諧謔、さらに小説のストーリーも実にたわけたハナシであります。こんな作家の小説は、普通は読む気になりませんかね。しかし町田氏の小説に潜む愉悦を一度知ってしまうと、なかなか、こんな莫迦げた文章がいとおしくなるから不思議です。


町田氏の小説を読みながら落語の持つ滑稽さに通底するものを感じる人もいるでしょう。あるいは下降志向や自嘲趣味から太宰治に繋がる文学性を感じ取る人も多いでしょう。はたまた「町田康=小説の主人公の告白」的な意味合いから、近代文学における作家と作品のありようや、誰も書きませんが、自意識過剰なまでの描写から三島由紀夫にどこか繋がる匂いを感じ取ることができるかもしれません。場合によっては「くっすん大黒」からは大友克彦の初期作品を、「川原のアパラ」からはつげ義春的ブラックさを嗅ぎ取ることも妄想とは言えないかもしれません。


町田氏の小説の表面世界だけをなぞるならば、面白いけれど不快にして、後に何も残らないという感想も成立しえましょう。しかし町田氏が敢えて堕に向かう精神とその生き様を、さらに現実世界への瑣末的な拘泥や、生きることの無様なまでのありようを徹底的に描くことは、実のところ人間の本質面に対するさりげない問いであったりします。古今の文学的なテーマを一度解体した上で、絶妙の町田節に乗って再構築されたその小説は、面白いだけで終わらない世界を持っていると確信できます。


2006年5月2日火曜日

町田康:夫婦茶碗、人間の屑


本文庫には「夫婦茶碗」と「人間の屑」という2作品が納められています。町田氏の小説は徹底した自虐と下降志向、そして現状を何とかして変えたいと思う気力が空しく空転し、捩れに捩れてゆく不条理をいつも描いています。


自暴自棄とも取れる主人公の行動は、裏を返すと限りなく甘ったるい楽観と自己愛に支えられています。主人公の感性は、自己分析と自己反省を繰り返しながらも現実とは全く折り合わず、真意や善意は相手に伝わらず、ひとり挫折感を味わいます。主人公のベクトルはどこまで行っても常識的な感覚ではなく、従って最終的には破滅的ともいえる必然的狂気へと突き進みます。





それを自明のこととして、町田氏は最初から最後まで下降と狂気を描いています。淡々としたリズムとスピード、負の必然性、瑣末への拘泥、人間のダメさ加減、情けなさ。それらを、ドストエフスキーのように重く陰湿な人間劇としてではなく、徹底した喜劇として、しかもあっけらかんとした明るさとスパイラルするストーリーで町田氏は描いてみせます。


確信犯的に描かれ演ぜられた喜劇からは、人間の本性さえも暴き出されてしまうかのようです。気のせいか「カラマゾフの兄弟」のフョードルを思い出してしまいました。(>フランス文学かと思ったら、今度はロシア文学かよ)


文庫本解説を筒井康隆が書いていました。私の直感は当たっていたと言えましょうか。彼は筒井康隆に非常に良く似ているのです。高度に屈折し転回し続ける知性からは、思考実験というものが生まれると筒井氏は指摘しています。


そう・・・極めて高度に屈折しすぎています、町田氏の文学は。なんだかんだと書いても、読み物として面白いので一気に読めますが、読み進めるのが結構つらくもあります。「堕落の美学」とも評されています、確かに究極の美学でもあります。

2006年5月1日月曜日

武満徹展に行って、映画「黒い雨」を観る

東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visons in Time」展に行ってきました。会場に着いたら、今村昌平監督の「黒い雨」(1989)が丁度これから上映されるとのこと。途中で出ても良いらしく、ついでだから観てやるかと軽い気持ちで席に座ったところ、これが結構面白くて結局最後まで観てしまいました。
武満展なんだから、音楽について書くべきなんでしょうが、映画に集中しちゃって、不安気な雰囲気を誘う音楽ということ以外、あんまり音楽のことは覚えていない。ラストの音楽もどんなだったかしら?
映画は井伏鱒二の小説の映画化なので原爆被災者を扱っていて重い。しかし家族の崩壊の様子とか、お互いの傷を認め合うことによって芽生えた救いの愛とか、そういうテーマ性に感動するよりも、川又昂撮影による映像に圧倒されっぱなしでした。1989年の作品なのですが、よくぞこういう農村風景とそこに生きる人達の姿を撮りきったものです。(農村風景ということでは、濱谷浩氏の「裏日本」なんかを思い出します)
かつては存在した農村的共同体や農村的風景が、嫌になるほどのリアリティを持っています。
映画を観ながら、かつての日本から失われたものが、ここに描かれた家族たちのささやかな幸せだけではないことを否応にも気付かせてくれます。
演技的には、清楚な雰囲気を出し切った田中好子に好感が持てると同時に、叔父夫婦を演じた北村和夫と市原悦子が抜群の味。特にコンプレックスを背負った生き方をしている市原演ずる妻が何とも哀れ。そういう形でしか自己実現ができなかった時代であったのだと。いや、それは今の時代も一緒でしょうか。


武満徹展のことも何か書かなくちゃならないでしょうね。武満氏の楽譜とか抽象画とかが展示されていて、それなりに楽しめました。特に楽譜は、図形楽譜でない普通のものであっても、それ自体がアートとして成立しています。近代建築を代表するコルビジェの図面をふと連想してしまいます。
また武満氏が好んだアーティストの作品も展示してあるので、武満ファンは満足することでしょう。私は熱烈なファンではないし、前日に本展示の公式ガイドブックを池袋ジュンンク堂でしっかり眺めていたので、展示内容に意外性はありませんでした。
それでも展示空間的にも武満氏の几帳面さとイノセントさが際立っていて良い雰囲気です。ただ武満氏の音楽を延々と流しながら抽象的なビデオを流している展示とかは、私には馴染めません。そもそも私は抽象が苦手ですし、畢竟根っからの武満ファンには、なれそうもないのなあと感じる展示内容でもありました。