2006年11月29日水曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ジュリーニ&バイエルン(1993 Live)





  1. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》

  • カルロ・マリア・ジュリアーニ(cond)、バイエルン放送交響楽団
  • 1993年 ミュンヘン
  • SICC-269 SONY CLASSICAL



テンシュテットの《グレイト》の感想のコメントで、syuzoさんに「リファレンス盤は何か?」と問われ、ふと考えてみると、私の場合、音盤のレビュを書くのに当たって比較対照となる演奏をあまり意識していないことに気付きました。比較もなしにレビュを書けるのかと、しばらく自問し、何たる雑で無責任な文章を垂れ流している事かと恥じ入る思いです(><;;;





ただ《グレイト》を書こうと思ったきっかけを敢えて挙げるとするならばジュリーニ&バイエルン盤を聴いて素直に感動したからということになるでしょうか。20GBのiPodにはラトル&ベルリンとジュリーニ&バイエルンの演奏が入っていますが、聴くのはもっぱらジュリーニの演奏ばかりなのです。


《グレイト》なんて長いだけで単調で冗長という印象が強く、よほど楽天的な気持ちにでもならない限り聴きたいと思う曲ではないと思っていました。でも80歳目前であったジュリーニがバイエルン放送交響楽団に録音した本盤(ライブ)を聴いたときには、その余りにも堂々とした演奏に、そして横綱相撲振りに全くすっかり参ってしまったのです。


ジュリーニの演奏にはシカゴとの録音もあるのですが、こちらは未聴。ですから、この録音だけでジュリーニの芸風を述べることはまたしても危険であるとは思うものの、悠々たるテンポ感、朗々と唄われるメロディ、深い弦の響きなどなど、どこを取っても素晴らしい演奏だと思います。こけおどしなど全くなく、音楽をまっとうする姿。永遠に続くと思われる終楽章は、まさに至福と歓喜の時間です。


テンポがちょっと遅すぎて弛緩していると感じられたり、今となってはいささか古臭いと感じられるスタイルと思われるところもありましょうが、こういう幸せな一時代を象徴しているかのような演奏を限りなくいとおしく思います。素直に癒される思いがします。


でもシカゴ響との演奏もそのうち聴いてみます聴いてみました、ハイ。 ちなみにCD解説は宇野功芳氏が書かれていました。

(何たる雑駁たる感想!!)

2006年11月25日土曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/テンシュテット(1984 Live)








  1. ウェーバー:「オベロン序曲」

  2. シューベルト:交響曲第9番《グレイト》

  3. ブラームス:「悲劇的序曲」



  • テンシュテット(cond)、ロンドンpo.

  • BBC Legends/BBCL 4195-2(England)



ホワイトノイズは乗るものの、非常に優れた演奏です。レビュを書きながら何度も繰り返し聴いています。そしてやはり《グレイト》はグレートだなと思うのです。



シューベルトの《グレイト》は果たして楽天的で天国的な曲であるのか。私はテンシュテットの演奏を聴いて、その考えに疑問を持ちました。ラトルはこの曲は聴く者の不安を募らせる地獄への楽しい馬車の旅というものが存在するのであれば、まさにそのような感じの、終着点が全く見えない曲と評しました。そういうラトルの演奏では「地獄への楽しい馬車の旅」という印象を残念ながら受けなかったのですが、テンシュテットの演奏からは逆に私は楽天性を聴き取ることができません。


テンシュテットは独特の推進力で第1楽章から曲を煽ります。シューベルトの冗長な繰り返しが切迫した感じで演奏されます。明るさや楽天よりも別の要素が聴こえてくるように感じます。すなわち、《グレイト》はシューベルトの描いた《運命》であり、かつベートーベン的な歓喜の爆発ではなく、生と死の深淵からの必死の逃走ではないかと思えてしまうのです。


この演奏には「闇と悲しみ」「惑乱し引き裂かれた自己」「死に向う狂騒」のようなものを感じます。それが「天衣無縫の楽天性」によってオブラートされながらも、あちらこちらで暗い影が顔を出すのです。「天国的な長さ」は最終的に辿りつく先を回避したいがための、無限に回るメリーゴーランドを思わせます。


だからといって、テンシュテットは感情移入たっぷりに歌い上げているわけではありません。第2楽章など、歌いどころ満載なのに結構あっさりと通り過ぎます。


終楽章は聴き所でしょうか。ベートーベンのシラーの歓喜の断片が姿を見せたりはするものの、とことんに明るい狂騒の中にかき消されます。いつもならラストに向う盛り上がりは歓喜に向けての序奏のように聴こえるというのに、テンシュテットの演奏では不安の増長を感じます。そして今までが明るいだけに、あの低弦による確信的なユニゾンの繰り返しには心底ゾッとします。忘れていフリをしていたのに、ついに追いつかれた暗い運命に飲み込まれた瞬間であるのか。行き着いた先はラトルの言うように「地獄」であったのか。あまりにも決然とした結論と明るい諦念。


かのsyuzoさんはこんなに明るくていいんだろうか?書きます。終楽章についてはパレードかお祭り騒ぎのような明るさとも書いています。あまりにもかけ離れた私の印象に愕然としてしまいます。もっとも、違った日に聴くと全く違った印象になるのも音楽レビュのいい加減さです。「お祭り騒ぎ」は自らの内部で捩れた感情の表出、言い換えるならばベートーベン的ストレートな心情よりも、マーラーのそれに近いものを感じるのです。何度も聴いていたら、上記印象が麻痺してきたし・・・今日は考えすぎでしょうかね(^^;;

2006年11月22日水曜日

桐野夏生:玉蘭


本作は個人的には今まで読んだ桐野氏の作品の中でベストでないかと考えます。


まず、いつものことながら物語りとして面白い。主軸は時代を隔てた二組の男女の時空を越えた交感、あるいは数奇な物語です。そして、打算的にして孤独な男女が、慰め傷つけ合う激しい愛の物語でもあります。男女の複雑な心理描写や駆け引き、夢も希望もない性交の描写、そこから浮かび上がる女性と男性の性の違い。男の狡さ、女の弱さと強さ。これらの描出は桐野氏ならではの鋭さだと読みながら唸ってしまいます。




桐野氏は有子を好きになるか嫌いになるかで、この小説の好みがはっきりした感がありますねと書きま。私は有子に限らず桐野氏の主人公は概ね嫌いです。作品は好きですが(^_-)


物語としても面白いですが、テーマ的にも桐野氏が追い求めている(と勝手に私が解釈している)テーマがくっきりと浮かび上がります。打算的で自分勝手なことしか考えない人物たちが、互いを利用しあい、出し抜きながらも、惹かれあい、すがり合う。あたかも自分の中の虚無を埋めるかのように。あるいは、現在の自分ではない別の何者か、別の場所に憧れる主人公たち。現在の自分では決して超えられない壁(差別、境遇)の存在。しかし、現在の自分はゲームのようにはリセットできないという現実。


自分の今いるところは世界の果てなのか。新しい世界なのか。




新しい場所から来たから、新しい世界が始まるなんて幻想だ。新しい場所に足を踏み入れるってことは、良く知っている世界の実は最果ての地に今いるっていうことなんだ(P.15)



この小説の核となる象徴的な台詞です。この言葉を吐くのは主人公の一人である質。彼がこの言葉を言えるようになったのは、彼が全てを失ってからです。つまり彼にとっては「新しい世界」
なんてなかったという吐露です。「最果ての地」と思っていたところが、結局は自分の延長でしかないと知った時、初めて彼は自分が世界の真ん中にいたと知る。そこからは逃れられないのだと。


もし本当にそこから逃げ出そう(解放されよう)とするならば、それにはもう一人の主人公である有子(あるいは「グロテスク」の和恵)のように自らが「毀れる」しかないというのでしょうか。自分を引きずる以上、新しい世界などないのだとしたら何と残酷な結論でしょう。ですから最終章の質の物語は、私には蛇足、桐野氏の読者への良心と思えてしまいます。


本書は他の桐野作品よりも読みづらいと思います。しかしこの小説は力強く、哀しいくらいに美しい。あたかも玉蘭の香りのように(>嗅いだことないけど)。この小説でもう桐野氏は結構です、すでに、ある高みに達しています。この先彼女は(物語は別として)、何を書くのですか?

2006年11月20日月曜日

先月の歌舞伎座:幸四郎の新三を考える


今月の歌舞伎座での通し狂言「伽羅先代萩」を観たいなと思いつつも歌舞伎座まで脚が伸びず、先月の歌舞伎座で演じられた松本幸四郎の髪結新三のことを思い出しています。多くの人が幸四郎の仁に合わないと評していました。幸四郎が芸の新たな境地に飛び込もうとしているらしいのですが、違和感が拭いきれないようです。



そんな幸四郎の新三を「演劇界12月号」で佐藤俊一郎氏が評していました。立ち読みですのでうろ覚えで主旨を書きますと、今まで演じられてきた新三から粋が消え、愛嬌がなく、小悪党から「小」が取れてしまった、というのです。幸四郎の演じる新三には、いろいろな「ゆがみ」が生じたと。


そうですね、私も幸四郎の前半での新三にはゾッとするような悪の凄みを感じました。それだけに後半で家主にやり込められてしまう新三像とうまくかみ合わないと感じたものです。


全体にこの芝居は喜劇的な要素を持ってシニカルに終わります。ですから大真面目に悪党を凄みを持って演じてしまうと、合わないと感ずるのだと思います。WEB上に溢れた「立派過ぎる」という判で押したような感想も、そういう違和感を感じ取ってのことなのだと思います。


でも、今から思うと、幸四郎の新三もそう捨てたものぢゃないと思うのです。この新三、最期は源七と閻魔堂橋のたもとで斬り合いをすることとなります。歌舞伎では斬り合いを様式美で飾りながら幕となりますが、黙阿弥の原作では結局源七に殺されてしまいます。これがまた喜劇的な新三像と違和感がある。小娘を拉致監禁強姦した上で恐喝し、仲介に入った一昔時代の侠客である源七をコケにする。その命を賭ける程の度胸と覚悟を持って悪事に望んでいるという点では喜劇とは無縁の悪党振りなのです。これから江戸で侠客として名を売り幅をきかせようとする野心に満ち満ちているのですから。


ですから、大真面目に新三を解釈すると前半の凄みある人物像の方がこの役を的確に表現しているのではないかと思えたりもします。おそらくこの芝居は、勘三郎丈のような人の方が仁に合っていると感じる人が多いと思います。そういう新三像とは異なった解釈を敢えて演じたリアル新三にも、一面では評価すべき点があるような気がするのは私だけの拙い感想でしょうかね。本当の新三像をママで演じたのでは実も蓋もないですから、難しいところだと思いますが。

2006年11月19日日曜日

展覧会:「スーパーエッシャー展」Bunkamuraザ・ミュージアム


Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「スーパーエッシャー展」を観てきました。作品はオランダのハーグ美術館所蔵のものです。


これほど大規模に、そしてエッシャーの軌跡を辿るように彼の作品を観るのは私には初めてのこと。


♪エッシャー、エッシャー、スーパーエッシャー、我らがスーパーエッシャー♪(>ヲヤジ年代しか知らねーってば)






作品はほぼ年代順に並べられているようです。初期のイタリアやスペインの風景画や細密な昆虫画は見る機会が少ないながらも、版画作品として充分に魅力的です。観察眼の鋭さと類稀なデッサン力そして緻密さは、数学者のそれに通ずるものを感じます。


彼が音楽ではバッハが好きであったということは成る程と思わせます。バッハの音楽的構築性は数学的でありますし、絵画に無限性と秩序を表現したエッシャーとは共通点があるのでしょう。平均律を記号楽譜的に表現した作品は武満徹をさえも思わせて興味が尽きません。


ギルダー紙幣のための下絵に見られる高度なデザイン性にも目を見張るものがあります。コンピューターなどのない時代に、あのような数学的な図像を描くという技術。芸術家の偏執的なまでの腕の技にはほとほと驚かされます。


サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」でも紹介されていた《円の極限 Ⅳ(天国と地獄)》もそうです。周辺に行くほどに細分化された繰り返しの図形は曲面の中に無限を表現しており、そのデザイン性とともに完成度が極めて高い作品だと思います。数学的にはモジュラー形式とか双曲空間を視覚的に表現したものらしいですが、私には難しいことは良く分かりません。


彼は数学や結晶学からのアイデアに触発されて作品に応用しています。入れ子構造の平面の正則分割も無限運動を繰り返す水路も、数学者ペンローズのアイデアを応用したものであることは有名です。思い起こせば私が始めてエッシャーを知ったのも、小学生の頃読んだ熱力学の法則や永久機関が存在しないことを書いたブルーバックスの新書本であったように思います。彼の作品が同業者よりも数学者や物理学者、心理学者などに多くの影響を与えたのも当然といえば当然でしょうか。


彼の興味のモザイクである様々なモチーフが作品に結実してゆく様を観ることは非常に興味深いものでした。ボッシュの絵の素材がエッシャーの作品に用いられていることなど初めて知りましたし。


展示作品をニンテンドーDSの解説に沿ってゆっくり眺めると、ゆうに2時間はかかりました。それでも極めて秀逸な展覧会ですし充分に楽しめるものだと思います。


作品紹介は毎度お世話になっているTakさんの弐代目・青い日記帳で詳しいです。

2006年11月18日土曜日

サイモン・シン:フェルマーの最終定理


以前ちょっと触れましたが、改めてレビュを書いておきます。





数学の世界は極めて美しい。そして見えない秩序で構築されている。無限という概念とともに神秘性さえも感じます。数式によって明確に表現された秩序は、それが単純な程に美しく、純粋数学であればこそ、そこにいかなる意味も持たないとしても、多くの人を魅了して止みません。



科学的証明と数学的証明とは、微妙に、しかし重大な点で異なっている。


一度証明された定理は永遠に真である。数学における証明は絶対なのだ。(P.57)



この数学の厳密性。多くの仮設や検証により99%確からしいと思われても、それは「予想」としか呼ばれない。予想の上に成立している理論は砂上の楼閣かも知れない不安定さに数学者は悪夢のごとく悩まされる。



��n+Yn=Zn


この方程式はnが2より大きい場合には整数解は持たない



17世紀の数学者フェルマーによる一見単純な問いが、その後300年もの間、多くの数学者を悩ませた難問となり、現代数学技術を総動員して初めて証明されえたということは驚きを通り越して感動的ですらあります。


本書は、それを証明しえたイギリスの数学者アンドリュー・ワイズルの苦難の物語であるとともに、ピュタゴラスから始まりフェルマーの最終定理の証明にヒントを与えた多くの数学者、殊に重要な役割を果たした日本の谷山、志村らの人間達のドラマになっている点が素晴らしい。谷山と志村の出会い、そして谷山の自殺。戦後日本の二人の天才数学者の物語だけでも充分に読み応えがあります。そして300年の間の叡智が、ジグゾーパズルのピースが組み合わさっていくようにワイルズの理論へと集約していく様は極めてスリリングです。


結果として証明されたフェルマーの定理の示唆するものが、数学界における統一理論という、更に遠大かつ見えない秩序への一歩かも知れないという点において、この世の深さに改めて畏敬の念さえ覚えるのです。


こういう世界を平易な文章で描ききるサイモン・シンにも脱帽です。

2006年11月15日水曜日

モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397/アファナシエフ





  1. 幻想曲 ニ短調 K.397
  2. 幻想曲 ニ短調 K.396
  3. ピアノ・ソナタ ハ短調 K.475
  4. アダージョ ロ短調 K.457

  • ヴァレリー・アファナシエフ(p)
  • COCQ84057

愛すべき幻想曲 ニ短調 K.397を見事にまで変形させてしまっているのがアファナシエフの演奏です。彼の演奏は、グールドのそれとは違って、異様なまでの遅さが作品の持つもうひとつの世界を炙り出してしまいます。

いったいに、モーツァルトはK.397に、アファナシエフが描いたような文学的にして深淵な内的世界を本当に期待していたのでしょうか。冒頭の分散和音の彼岸から奏でられるかのような重く荘厳にして美しい響きにまず打たれます。この静寂な響きを破るようにして打鍵される主題の虚無的なまでの凍りついた輝き。アファナシエフはあるいは孤独な宇宙旅行者が、大宇宙の寂寞たる広大さに直面する時に経験するかもしれない感情と書いています。

ここに聴こえるのは、もはや母親喪失と言う幼稚的哀しみではなく、存在の根源的な寂寥感。死にさえ通じる虚無と孤独、彷徨い放浪する魂。どこにも淵がなくグルグルと巡る運命のような嘆き。

ニ長調への転調の後も、徹底的な明るさは訪れないかのようです。ひょっとすると、もう一つの彼岸へと突き抜けただけ。すなわち光、輝き、失楽園を提示する。このように曲は、終わりから始まりへと、さかさまに作曲されているとアファナシエフは書きますが、生の世界の決して楽天的ならざる美しささに逆に私は慄然としてしまいます。


自問する、モーツァルトの幻想曲は、こんな曲であったのかと。もっと無邪気で無垢な小品ではなかったのかと。アファナシエフの盤については、もう少し聴きこんでからでなければ、何かが書ける気がせず、しばらくお預け。

2006年11月14日火曜日

モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397


「モーツァルトの哀しさ」の本質の一端に、母親喪失の哀しみがあるように感じると以前書きました。これはモーツァルト解説本やら伝記、曲の解説から得られた結論ではありません。ごく個人的な私の感傷です。


例えば幻想曲 二短調 K.397という作品。モーツァルトの短調はどれもが極めて名曲ばかりです。この小品も前半の憂鬱なアルペジオに続き奏でられる主題に、まさに私はモーツァルト的な哀しみの表現を聴き取ります。目が覚めたら母親が見つからなかった幼児の哀しみがそのまま表現されているかのようです。不安と疑念にさいなまされながら、産毛の光る頬を哀しみの涙が流れます。不安な心は行きつ戻りつしながらも深まっていく。その絶頂において突如とニ長調に転調されます。その驚くべき変化。今までの哀しみがどこにあったのかと思うほどに、頬の涙の筋は乾かぬうちに、きらきらと喜び溢れる音楽が奏でられます。「ああ、やっぱりお母さんはどこにも行ってはいなかった!」という無邪気な安堵。


このような曲の単純さは極めて愛すべきものであると思いますし、反面で曲の平明さとあいまって幼稚な印象を感じます。しかし、聴くほどに深いのがこの曲です。


ちなみにこの曲はで最後10小節は、モーツァルトの死後補筆されたものだそうです。それでもモーツァルトの音楽の輝きは失ってはおらず、貴重な一曲だと思います。


と、アファナシエフの演奏を聴くまでは思っていました。

2006年11月13日月曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ集(抜粋)/グールド





  1. 第8番イ短調K.310
  2. 第10番ハ長調K.330
  3. 第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  4. 第12番ヘ長調K.332
  5. 第13番変ロ長調K.333
  6. 第15番ハ長調K.545

  • グレン・グールド(p)
  • SRCR2068

以前紹介したように、グールドが弾くモーツァルトのピアノ・ソナタはとても個性的です。ピアノの先生は間違っても生徒にグールドのモーツァルトを薦めないと思います。本盤は抜粋版ながらも、そんな異様なモーツァルトの片鱗を堪能することができます。

この抜粋盤では異様に遅いK.311《トルコ行進曲付》を除いてテンポは極端とも言えるほどに速い。繰り返しをバッサリと削除しているようで演奏時間もとても短い。従って、ともすると冗長で退屈になりがちな曲が、キリリと引き締まりドライな印象を与えます。ドライと言えば、これ以上に乾いた表現は考えられません。あの愛すべきK.330さえもがグロテスクなまでに変形し無数の音の粒が跳ね回ります。

ピアノ音に混じってグールドの調子はずれの鼻歌も聴けます。彼の歌を聴いていると、本当にグールドはモーツァルトが嫌いであったのかと疑問になります。グールドのモーツァルトは他の誰の演奏にも似ていず、その天衣無縫さは驚くばかり。こんなのはモーツァルトは認めないという人もありましょう。しかし、これが私には何とも小気味良い。音の煌きと躍動するリズム感。まるでチェンバロのような反応の良さ。そして、モーツァルトが秘めた哀しみと悦びの表現は、グールドの演奏であっても全く損なわれることなく、聴くものに愉悦と快感を与えてくれます。


この演奏にハマってしまうと、抜粋盤では全くモノ足りなくて、全曲を聴いてみたくなります。いつか入手することとしましょう。

モーツァルトの音楽の哀しみって?


モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけないという有名な言葉を残したのは小林秀雄。あまりにも感傷的過ぎて、また小林のモーツァルト観が一面的であるとの批判も認めた上で、この言葉は広く人口に膾炙しました。


モツアルトの音楽にきこえる哀しみってこれに気づくと病みつきになってしまうyurikamomeさんはブログに書いています。私はモーツァルトの音楽を聴いていると、哀しみの感情の根底に「母親喪失の哀しみ」というものがあるような気がします。どんな陽気な瞬間でも、さあっと翳がさす。それは幼児が母親を見失ったときの不安感にも似た感情。あるいは、もし母親が亡くなってしまったらと想像したときの、抗いようのない運命的な喪失感とでもいうのでしょうか。幼い感情ですが自己の存在そのものに対する不安にさえつながる。そういう面を感じさせる音楽は、大曲よりは交響曲や歌劇よりも室内楽的小品に多いように感じ、ピアノ曲やら弦楽曲をチマチマ聴いています。