2006年11月14日火曜日

モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397

「モーツァルトの哀しさ」の本質の一端に、母親喪失の哀しみがあるように感じると以前書きました。これはモーツァルト解説本やら伝記、曲の解説から得られた結論ではありません。ごく個人的な私の感傷です。


例えば幻想曲 二短調 K.397という作品。モーツァルトの短調はどれもが極めて名曲ばかりです。この小品も前半の憂鬱なアルペジオに続き奏でられる主題に、まさに私はモーツァルト的な哀しみの表現を聴き取ります。目が覚めたら母親が見つからなかった幼児の哀しみがそのまま表現されているかのようです。不安と疑念にさいなまされながら、産毛の光る頬を哀しみの涙が流れます。不安な心は行きつ戻りつしながらも深まっていく。その絶頂において突如とニ長調に転調されます。その驚くべき変化。今までの哀しみがどこにあったのかと思うほどに、頬の涙の筋は乾かぬうちに、きらきらと喜び溢れる音楽が奏でられます。「ああ、やっぱりお母さんはどこにも行ってはいなかった!」という無邪気な安堵。


このような曲の単純さは極めて愛すべきものであると思いますし、反面で曲の平明さとあいまって幼稚な印象を感じます。しかし、聴くほどに深いのがこの曲です。


ちなみにこの曲はで最後10小節は、モーツァルトの死後補筆されたものだそうです。それでもモーツァルトの音楽の輝きは失ってはおらず、貴重な一曲だと思います。


と、アファナシエフの演奏を聴くまでは思っていました。

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