2007年12月24日月曜日

デ・ニース追記


kimataさんはデ・ニースを「華」ではなく「花」と評しましたが、間違いなく彼女は生まれながらにしてスターの素質を有しているように感じます。CDを一聴して人をひきつけてしまう能力、またはオペラの舞台で観客を虜にしてしまう魅力。それは本当に「一瞬」のことで、人は彼女に魅入られてしまったことにさえ最初は気づかないかもしれません。場を一瞬にして自分のものとしてしまう能力こそが、スターとか一流のソリストに見出されるものです。


そういう意味からはお嬢さん芸を思わせる「花」よりもむしろ「華」が適切という気もします。しかしそれでも「花」と書きたい欲求も抑えることが出来ないほどに、彼女の歌声は瑞々しい。歌う空間にパッとばかりに花びらが舞い上がります。それは彼女の鍛錬された歌唱力のなせる業で、そのパワーには驚きさえ感じます。


芸術的な深みという点では十分とは言えないかも知れません。しかし、こういう才能が年齢と経験を重ねることで、どのように変化をしていくのか、楽しみな演奏家です。


梅田望夫:ウェブ時代をゆく


本書はITが普及した現代はにおいて、旧来型の組織や職業のあり方が大きく変容するだろうことを、グーグルなどの先端企業や福澤諭吉を引き合いに説明し、若者に対し「人はなぜ働くのか」「いかに働き、いかに学ぶか」を示しています。オープンソースが成功するような社会においては、大組織のような枠組みだけではなく、他にも生きる道があることを、自らの経験をもとに繰り返し説明しています。ドラッカーの本と同様に、単なるITやビジネス本ではなく、人生の指南書という意味合いが強い本です。





旧来型の組織とはいかなるものでしょう。一言で言えばネットの特質を有効活用していない、あるいはできない組織ということでしょうか。ネットの特質が何かは本書に繰り返し書かれています。私は自分なりに「フラット化」「自然発生的知のヒエラルキー」「空間的・時間的概念の消失」「同時性」「一対多あるいは多対多結合」と考えています。そこから得られる「知」のエネルギーは確かに凄い。


梅田氏の主張は彼自ら認める楽観主義がベースになっているものの、ネットを善なものと肯定し、そこに多くの可能性を求め多様な選択をするという生き方は、既にどっぷりと旧来型組織の構成員に成り切っている私にとっても充分に刺激的内容でありました。


自分に即して考えるなら、私は現在46歳ですから、あと15から20年間はどこかで働き続けることになります。私はどちらかといえば旧世代に属しますから、梅田氏の言うように見事に大組織適応性を高めてサバイバルしてきたわけです。ちなみにP.93の7つの設問は幾つかの部位を除いてかなり合致します。これからもその傾向を強化することはあっても変えることはないでしょう。また私と同じ組織で働くパートナー(あえて、上司とか部下とか同僚とか定義せず)にも、同じ資質を求めるでしょう。しかし、ネットの重要性については、仕事にどこまで利用しているか否かは別としても今更なことです。


梅田氏が主張するのことで、最も引っかかったことは「好き」ということをとことん突き詰めるということ、そのことです。「好き」なことをやって飯を食えるようになる。そのためにはどうするか、ということなのですが、彼は徹底的な思考実験にも似た事を繰り返しながら追求することが必要だと書いています。それを彼は「ロールモデル思考法」として説明します。これは単に誰々のようになりたいとか、誰々のような生活がしたいとかの曖昧なものではありません。


自分の内から湧き出てくる何かが具体的にみえずとも、「ある対象に惹かれた」という直感にこだわり、その対象をロールモデルとして外部に設定する。そしてなぜ自分がその対象に惹かれたのかを考え続ける。それを繰り返していくと、たくさんのロールモデルを発見することが、すなわち自分を見つけることなのだとわかってくる。自分の志向性について曖昧だったことが、多様なロールモデルの総体として、外部の世界からはっきりとした形で顕れてくる。(P.120)


このロールモデルは一回やったら終わりではなく、行動と新しい情報により、次々に消費し再構築してゆくものだと梅田氏は言います。その中で、自らをコモディティ化しないようにロールモデルの引き出しを少しずつ増やす努力をしていったという戦略は見事です。


私は、今まではどちらかといえば「好きこと」よりも「やるべきこと」を選択してきました。親や世間からは「好きなこと」で飯を食うのは困難だと言い聞かされ、その道に進む人を若干斜めの目で見てたことも否定できません。しかし、現在においては、やり方次第で自分の能力に対価を払わせることは可能なのだというのが梅田氏の主張です。


これらの提言は、これからの若者にのみ当てはまる戦略ではないように思えます。多様性と流動性のもつ力、ネット社会が提供するパラダイムを、私たちとて無視することなどできません。氏の提言する内容は、最終的には個人のサバイバル戦略であり、よりよく生きるための示唆を含んでいます。それ故に自らを前向きに考える者の琴線に触れる部分があるのだと思います。

デ・ニースのヘンデルに完敗!


これも、CLASSICAや#Credoを始めとするブログで強力にオススメ*1)だったCD。実はネットで話題になる前から買っていたのだけど、封を切る気力がなくて、やっと最近聴いてみたのです。いやはや、皆さん絶賛する訳が分かりました。まだ20歳のデ・ニースですが、若さがはちきれんばかりとでもいいましょうか。歌唱力の瑞々しさ、のびやかさ、躍動感、これは惹かれますね、まさに現代的な表現というのでしょう。




handel arias/Danielle de Niese

Danielle de Niese(s)、Les Arts Florissants・William Christie

DECCA 475 8746






ラメントな歌を歌っても、どこか明るさを感じます。同じヘンデルを歌ってもコジェナーのような「暗い情念」とは無縁です。これ程の明るさや突き抜け感はどこから生じるのかと思って調べてみますと、スリランカとオランダの血筋でオーストラリアに生まれ、国内で多くのコンクールに入賞した後,ロスアンジェルスに移り,15歳でロスアンジェルス歌劇場でプロデビュー*2)なのだそうです。


ライナーによりますと、両親は彼女の音楽的才能を伸ばすため6歳の頃からピアノ、歌、ダンスのレッスンを学ばせたようです。歌手としてのキャリアも若くして(ってまだ二十歳だって!)積んでいて、13歳にしてタングルウッド音楽祭に参加したのは最年少記録というとらしいです。


歌とともにダンスの才能もあり、彼女のインストラクターはダンスに専念するように言ったそうですが、彼女は歌を選んだようです。


"but singing has always been my main focus, the thing I get the most joy out of. It's the ultimate way I can express myself"


そうなんですね、この歌に対する彼女の愛情が、このアルバムからは溢れだしていて、それが聴くものをとことん圧倒してしまうのでしょう。彼女のダンスの才能が、ヴィヴィッドな躍動感として歌にあらわれているというのは私の思い込みかもしれませんが、コケティッシュにしてリズミカルに跳ねる彼女の姿が目に浮かぶようです。


というのも、kimataさんが紹介されていたDeccaの映像も良いのですが、ためしに、彼女を一躍有名にした'Giulio Cesare in Egitto'(2005年グラインドボーン)のYou Tubeの映像を観てください。



何と言っても、この小気味良い動き、猫のように軽いステップ、チャーミングな首の振り方! たった1分ちょっとの映像を何度観たことでしょう。同じ舞台での以下も必見でしょうか。



なんと優雅な動きでしょう。歌いながら、こんなに細やかな表現をするとは・・・! どちらも共演はサラ・コロニーのようです。




そんなデ・ニースの本アルバムは、得意のヘンデルのアリアから彼女自らヒロインの曲を集めたようです。


"I picked a lot of strong heroines who sing the strongest melodic and dramatic music possible, while also looking for intelligent characters in some of the lesser-known Handel operas"


という具合にして衝撃的にして必殺ビームを照射する本アルバム、必聴かと。内容に入る前に力尽きました! 顔立ちは私好みではありませんが、彼女の才能と歌唱力に撃沈です*3)



  1. ダニエル・デ・ニースのヘンデルに言及したブログ。他にもありそうですが、当面はこのくらい抑えておけばよろしいかと。


    CLASSICA

    #Credo

    Classical CD Information & Reviews

    おやぢの部屋2 ここではニースに関する話題がいくつか散見されます。http://jurassic.exblog.jp/4194020/←こことか。

    CLACLA日記
  2. 'Classical CD Information & Reviews'から引用
  3. 顔で歌を聴くわけぢゃありませんから。にしても、「情念」よりも「若さ」に惹かれるとは、やれやれぢゃわい・・・

2007年12月23日日曜日

小川洋子:まぶた ほか



薬指の標本』の独特の世界に惹かれ、標題作が収録されている短編集を読んでみました。やはり彼女の独特の静謐な、透明な世界は健在です。そして作品に通底する、いとおしさとか、生とか死のありよう、あるいは偏執的なフェティシズムを感じ取ることができます。


本作には8つの短編が収められています。作品の雰囲気によって大きく二つに分けられるように思えますので、それぞれについて少しだけ感想を書いてみます。




第一群は、『飛行機で眠るのは難しい』『中国野菜の育て方』『詩人の卵巣』『リンデンバウム通りの双子』。そして第二群は『まぶた』『お料理教室』『匂いの収集』『バックストローク』としてみました。


第一群の作品は、人生における、言葉には出来ない「いとおしさ」とか「はかなさ」そして「生きる強さ」みたいなものを感じ取ることができます。作中人物たちは、何かを相手に提示せざるを得ず、それを受け取った者は、何か大切なものを引き受けます。提示されるものは一応に「死」の匂いがします。しかし受け取った者はには、ひそやかだけども確かな「生の光」が芽生えます。


ここら当のことを堀江敏幸さんは文庫本解説で「小さな死の塊」かすかな命の影、あるいは死とひきかえでなければ得られない体温のありかと表現しています。あまりにも的確な表現で、付け加えることがありません。それらは、ガンガンと主張するようなものではなく、ひっそりと、当人同士にしか分からないやり方、あるいは呼吸や触れ合いを通して、直接的にしか伝わらないもののようです。それゆえに秘めやかで、壊れやすく感じるのでしょうか。


第二群の作品は、より肉体性を感じる作品です。生と死の匂いはここでも健在で、かつフェティシズム的な雰囲気や、乾いたエロティシズム、あるいは、矢張りなのですが過去とか死の匂いを感じます。『匂いの収集』は『薬指の標本』にも繋がるホラーさえ感じる作品になっています。ちょっと滑稽で奇妙な『お料理教室』も、背反するものを未分化なままに提示しているように思えます。


『バックストローク』では、主人公はアウシュビッツを訪れたところから回想を始めています。アウシュビッツそのものが本作のテーマではありませんが、小川氏は中学時代に読んだ「アンネの日記」に大きな影響を受けていると言いますし、アウシュビッツにも興味を持っているようです。死者から生きている者が何を汲み取るのか、ということは彼女の大きなテーマなのであろうと思います。彼女が肉体やその一部に(決て生々しい肉体や息遣いではなく)拘るのは、自己と他者を、あるいは生と死をつなぐインターフェースとして身体を捉えているからかもしれません。


そういう意味からは、便宜的に作品を二つのカテゴリーに分けましたが、改めて考えると意味はなさそうです。
しかし・・・万人受けはしませんね、こういう作品群は。

2007年12月22日土曜日

やっとコジェナーのヘンデルを聴いてみました


古楽系ブログで今年随分と話題になったヘンデル、そして、一部で評判の分かれるコジェナーのヘンデル・アリア集を、やっと、そしてボチボチ聴いています。ヘンデルもコジェナーも私には全く未開拓分野ですから、とやかく言うことはできません。コジェナーの唄い方がヘンデルに合っているのかという問題もありますが、彼女の古楽に対するアプローチとともに、聴き逃すことのできない盤と言えます。



Ah! mio cor/HANDEL ARIAS

Magdalena Kozena(ms)、Venice Baroque Orchestra Andrea Marcon

ARCHIVE 477 9547






ライナーを読みますと、コジェナーはヘンデルに現代にも通ずる人間の心理とドラマを読み取っており、劇中の人物の情感を的確に表現するために、あざといまでの歌唱力を駆使しているようです。収録曲のタイトルを眺めるだけで、ちょっと凄いですよ。



  1. 歌劇「アルチーナ」~ああ、我が心よ! お前は踏みにじられた!
  2. オラトリオ「ヘラクレス」~どこへ逃げたらよいの?
  3. 歌劇「アグリッピーナ」~ああ、不安が迫り来る
  4. 歌劇「エジプトのジュリオ・チェーザレ」~希望がこの心を照らしつつある
  5. オラトリオ「ヨシュア」~ああ!もし私にジュバルの竪琴があれば
  6. 歌劇「アリオダンテ」~不貞の女め、情夫の胸に戯れるがいい
  7. オラトリオ「テオドーラ」~眩しき太陽よ―深き闇よ
  8. 歌劇「ガリアのアマディージ」~苛烈なる地獄より呼び出さん
  9. 歌劇「オルランド」~ああ、地獄の妖怪め! ― 冥府の番犬ケルベロスが ― 美しい瞳よ、どうか泣かないでおくれ
  10. 歌劇「アリオダンテ」~暗く不幸な夜のあとには
  11. 歌劇「リナルド」~私を泣くがままにさせて



彼女の過剰さが話題となった*1)、たとえば9曲目の「Orlando」での歌唱、あるいは2曲目の「Hercules」で演ずるDejaniraの表現。どちらも狂気を身にまとった女性の、引き裂かれんばかりの心情が、凄まじいばかりに迫ってきます。これは確かにバロックの表現を越えているのではと感じる部分です。しかし、バロックがおとなしく神聖で美しいばかりの音楽であったというのは、私のような不勉強な者の勝手な思い込みかもしれないのです。


コジェナーがMarc Minkowskiと仕事をしているときにuglyに歌うことの効果を学んだと言います。


Baroque music is not all about beauty; sometimes you need a sound that may be not so lovely yet says so much more about the text, and particularly the character's madness at that moment.


��曲目の「Alcina」からの女王Alcinaの嘆きも真に迫ってきます。まさに女神のように振舞っていたAlcinaが、人生において初めて恋に落ちた心情を歌っています。この歌をブラインドで聴いてヘンデルの作であると、バロックに詳しくない人が特定できるでしょうか。あるいは伴奏がバロック・オーケストラから現代のものに変ったとしたらどうでしょう。


These are special moments which everyone can find deep in their own experience.


それほどまでにヘンデルの音楽は豊穣であり、そして、それを歌うコジェナーの表現は、「ある意味において」的確だといえます。ただ、ただ、コジェナーのパワーに圧倒されっぱなしです(失笑)。


ヘンデルのアリアは長くて眠くなるという印象がありましたが、ヴィヴァルディのそれに負けず劣らずに技巧的な曲もあり、また、ラストの有名な曲を始めとして、信じられないくらいに美しい曲も収録されており、ヘンデルのアリアは確かにバロック歌手やバロックファンにとって至宝であるなと思った次第です。
もっとも、心情が大切だからと、歌詞の対訳を調べ劇の背景を調べてアリアの意味づけを行う程には、今はパワーがありません・・・。


こういうヘンデルに対して、ブログ「庭は夏のひざかり」のSonnenfleckさんは下記のように書いています。


このアリアに限らずあんまりヘンデルや古楽を聴いてる実感がないのがこのアルバムの特徴で、最強の個性派女優としてのコジェナーが前面に押し出されて来、彼女のスタイルによる何か新ジャンルのうたを聴かせてもらってる感じ


他に例えるとすると、「バルトリの歌うヴィヴァルディ」みたいなものなんでしょうか。私にはそこのところがまだ判断つきません。もう少しヘンデルのアリアを聴いてみる必要がありそうです。



  1. コジェナー、ヘンデルで見つけたエントリ

    おやぢの部屋2

    庭は夏の日ざかり

    ぶらぶら、巡り歩き

2007年12月10日月曜日

小川洋子:薬指の標本




小川洋子という作家の作品が映画化もされ話題になっていることは知っていました。しかし積極的に読みたいリストには入ってはいませんでした。日経新聞夕刊で12月3日から「人間発見」という企画で『物語の森の観察者』と題する彼女とのインタビュー記事が5回にわたって連載され、記事を読んでみたところ、作品にも興味を持ちました。


小学校の頃は体も小さく、色々なことがみんなと一緒にできず、図書館だけは楽しかったという少女が大人になって。小説を書き始めた頃は最も重要なのは自分自身だったということ。一番知りたいのは自分で、それが最も深い闇だったと自覚していた彼女。彼女の創作はどこに飛翔したのかと。





最初に読んだのが、代表作の一つである『薬指の標本』。評判とおり透明で静謐な作品です。どこかを突付くと、そこからこなごなに壊れてしまいそうなくらいに繊細で、微妙なバランスで保たれた世界。ディテールはリアルでありながら全く現実離れしています。標本を作ってもらうということと、それを作るということ。


「封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。繰り返し思い出し、懐かしむための品物を持ってくる人はいないんです。」


と説明する標本技師。彼は地下室で標本つくりに没頭し、それを保管し続けます。「標本」にして所有するということとは。主人公である彼女は、標本技師に抱かれながら問いかけられます。


「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」


その二人が、標本技師が彼女にプレゼントした靴をキーとしながら、秘められた関係性に陥っていきます。


「これからは、毎日その靴をはいてほしい」

彼女に、あまりにぴったり過ぎる靴。靴が彼女の足を侵食する。その束縛と解放がないまぜとなって、秘められたエクスタシーにまで昇華されてゆきます。

「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」


「標本」とは、いわば部分と時間を閉じ込めた小世界。その中に収められたモノは永遠に残ったとしても、それを包括していた全体としての存在は消えているということ。存在の消失と永続性、フェティシズムと乾いたエロティシズム。束縛されることで自己を解放するというアンビバレンツな衝動、むしろエロスよりはタナトスか。非常に雰囲気と香りを伴ったフランス人好みの作品かもしれません。



文庫に収められている、もうひとつの『六角形の小部屋』という作品も、『薬指の標本』に劣らずに不思議な小説です。しかし、ここでも語られるのは主人公の心、そして束縛と解放。


どちらも、ひたすら自己の内面に静かに降りて行くような作品。自分の心の井戸の底に何が沈んでいるのか、当の自分にも分からない、井戸の底にチラリと見えた水面がどんな色をしているのか。その水は透き通っているのか、はたまた黒く濁っているのか、毒なのか。


小川氏の小説は始めて読みましたが、この静謐さや幻想性は非常に儚い。性的な描写も女性の視点のそれだし、まるで少女の夢想した世界のよう。まだ彼女の作品は短編ニ作のみ、誤読している可能性はありますが、続けて幾つか読みたいと思わせる作家でもあります。

2007年12月3日月曜日

村上龍:半島を出よ



村上龍の「半島を出よ」を読みました。発刊時に随分と話題になりましたし、アマゾンのレビュ数も多い。日本を舞台にした近未来小説であり、過激なエンタテイメントであり、かつ村上氏らしい問題提起になった小説です。膨大な資料から着想を得ての作品つくりは、小説も企画と組織力による企業活動に近いと思わせます。活字密度と、内容の綿密なプロットとディテールから、硬派な小説のイメージですが、そこは村上氏、物語としての面白さの方がウェイトが大きい。それが本書の良い所でもあり、欠点でもあるかなと。

「あとがき」にもあるように、『13歳のハローワーク』チームを中心として取材や資料手配を行ったらしく、協力者が幻冬舎の石原正康常務、日野淳氏、岩垣良子氏、篠原一郎氏というのですから。まさに小説のイシハラグループではないですか。

物語は壮大で一気に読ませます。しかし問題提起の割にはラストが安直で、「最後の家族」や「希望の国のエクソダス」ほかにも通ずる願望的楽観主義を感じます。と、ここまで書いて、ちょうど6年前に読んだ「最後の家族」の感想を読み返してみました(普通は滅多に自分の感想など読み返しませんが)。

村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。
自分で言うのもなんですが、これはそのまま「半島を出よ」に当てはまりますね、というかテーマに関しては付け加えることがない。繰り返しはしませんが「自立」ということに関しても村上氏のスタンスは全く変わりません。特にイシハラグループのモチベーションとありようは印象的です。


日本の経済的衰退と国際的な地位の低下という状況、政治の機能不全、国民の平和ボケ、それらがもたらす悲劇的な日本の未来は、今はまだ小説ほど酷くはないものの、確実に日本の現況を言い当てています。日本の状況は6年前よりも悲観的なカンジがするくらいです。

「半島を出よ」とは、北朝鮮人のことではなく、日本人が中国大陸の半島の一部であると見立てて、日本人に向けて放たれた強烈な一語であるようにも思えます。

私はこの作品のどこが好きかといわれれば、間違いなくラストとなりましょうか。中学二年のイワガキが学校や家族に馴染めないでいる中、イシハラたちに出会う。そこでイワガキは彼らが集まる倉庫で、何も話さずにソファにただ座って時を過ごしている四人に会う。

だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。
ワガキは邪魔をしているような気になって帰ることにする。明日も来て良いかとの問いに、イシハラは答える。
「それは、お前の自由だ」
息苦しく絶望的描写も多い本小説において、ここだけは、ある種の解放と、限りない平和が漂う部分です。

2007年11月19日月曜日

ブラームス:交響曲第4番/クナ&ケルン放送響








  1. 第一楽章 Allegor non troppo 12'51
  2. 第ニ楽章 Andante moderato 11'41
  3. 第三楽章 Allegro giocoso 6'55
  4. 第四楽章 Allegro energico e passionato 9'53


  • Hans Knappertsbusch(cond)
    Ko"lner Rundfunk-Symphonieorchester
  • 1953.5.8
  • C723071B



クナのブラームス4番がORFEOから発売になっていました。クナのブラ4の録音は1952年のブレーメン・フィルとのものと、本盤1953年のケルン放送響の2種類があるらしく、これは後者の版。詳しくはSyuzo's Homepageの「クナを聴く」を参照されるのが良い。


というか、syuzoさんのレビュ以上のことは書けないのですが、とにもかくにも、このブラ4には心底たまげました。syuzoさんも第1楽章だけで満腹してしまうような演奏と書かれているように、第一楽章から重心は低く、凄まじい音楽が鳴っています。



特に、驚いたというか、ブチのめされたのは何と第二楽章。これ程の第二楽章を、かつて聴いたことがありません。分厚いというのでは言足りない度厚さ。そこに漂う一瞬恐怖さえ感じるほどの迫力。それに反する、チェロが歌う劇的なまでの浪漫と美しさと哀しさ。楽章終わり(8'10)近くでの弦楽合奏の恰幅たるメロディの素晴らしさ。ブラ4の第二楽章から、これ程の音楽を引き出せるものとは。


そのままの迫力で始まる第三楽章冒頭では肝を潰します。巨大な質量を持った音塊を硬質な壁にグシャリとぶつけたような音。粗く朴訥であり、そして半ばヤケではないかとさえ思える金管の音。皮が、いや底が抜けるのではないかという打楽器の強打。これらには背筋が寒くなる思いを感じながらも、それら全てが渾然となって、ある説得力を持って迫ってきます。重い演奏です、粗いといえば粗い。しかし、ピアニッシモからフォルテッシモまで、実は巧みにコントロールされています。小細工は一切なく、言葉を越えた音楽が身体を蹂躙します。


終楽章は痛いほどの音楽が鳴り響きます、悲劇的な英雄の肖像でしょうか。syuzoさんが闘争的音楽と評したのには同意します。戦い前の内なる闘争心を全身に漲らせ、その暗いエネルギーを一体にどこに放散させようとしているのでしょう。しかし、この演奏のフィナーレに解放と解決はありません。


かのグスタフ・マーラーは、この曲を「空っぽな音の桟敷」と評しました、相変わらず作曲当時は評判がよろしくなかったようです。クナはそこに、恐ろしいほどの密度で、かつて聴いたことのないほどのエネルギーを注ぎ込んだように思えます。この熱情は何によるのか、まともでは受け止め切れません。

2007年11月10日土曜日

ついでにラトル&ツィマーマンのブラームスPコン1番を聴いてみる


ブラームスのピアノ協奏曲といえば、ラトルとツィマーマンがCD棚にありました。2005年発売で、以前感想を書いていたと思ったのに何も記していなかったようです。改めて簡単なインプレッションなどを。




ブラームス:ピアノ協奏曲第1番

ツィマーマン(p) ラトル(cond) ベルリンpo 2003

00289 477 6021





ツィマーマンにとっては1984年のバーンスタインとの演奏以来実に20年ぶりの演奏です。ライナーによりますと前回は万全の録音とは言えなかったようです。楽器は運送の事故で、とてもブラームスに適したとはいえない楽器となり、しかもビデオ録音のため各種機材の溢れかえったホールは、音響的にも悪影響であったのですとか。


"For the recording of the First Piano Concerto I was unable to get the instrument I wanted, as the van that was supposed to bring the piano from Italy was involved in an accident. The instrument that was finally placed at my diposal may well have been good for Mozart, but not for Brahms."


ツィマーマンの侮恨が伺えるコメントです。今回のレコーディングについて何を考えるかとの問いに対しては、


"Every recording documents a single moment."


と言い切る彼ですが、相当の思い入れで本録音に取り組んだことは確かなようです。当然自ら調整した"his own piano"を持ち込んでの演奏です。80以上の異なる演奏を聴き比べ、テンポ設定の研究も行ったのですとか。


"By this I dont't mean a metronomic tempo;rather,it's something subjective,something that I might call the psychological perception of a tempo."
"Everything must cerate the impression of a uniform flow."


そういう点から、非常に気合の入った演奏が聴かれます。アマゾンとかHMVのレビュでもカスタマーズ・レビュ絶賛されているようです。バックのベルリン・フィルはオケの精度も良く、確かに現在望みうる最高の演奏だと言えるかもしれません。


ラトルは相変わらずティンパニを際立たせた、ハリのある演奏に仕上げています。ホールの響きも良くバランスも良いです。ピアノは激しいところでも決して濁らずに際立ち、それでいて凄まじく、弱音部の音色も鮮やかにして美しい。ラトルの指揮下というせいもあるのか、演奏は洗練されており、ガッチリとした骨格を示し、タフであり、ベタさはありません。第二楽章冒頭のオーケストレーションなどは映画音楽!のように美しい。反してツィマーマンのピアノは、少々くぐもり内省的な響きを聴かせます。ブラームスの憂愁というより、もっと現代的なリリカルさを感じる部分です。終楽章の炸裂も鮮やかの一言。


さて、それでは、この演奏の感想が最上かと言えば、何度この演奏を聴いても心情に訴えてこないというか、ある線より上には響かない。いや、とても、とても素晴らしい演奏です、生で聴いたら、おそらくぶっ飛ぶと思いますよ。しかし、何でしょうね、このモノ足りなさは、私が古い人間なんでしょうか。

2007年11月9日金曜日

ベルマンの「悲愴」を聴いてみたが

ベルマンの演奏は、ロシアン・ピアニズムの継承者などと称されています。「ロシア・ピアニズム」という本もありましたが、では一体にその本質は何かといったら、私のようなトーシローには漠たるイメージしかありません。

ロシアン・ピアニズムとは何かという点についてのネット上の知識といえば、「おかか1968」ダイアリーで2006年から不定期連載された『【不定期連載】全く役に立たないロシアピアニズム・ガイド*1)』が一番詳しいのかなァなどと思いながら、ラザール・ベルマンが弾くベートーベンのピアノ・ソナタ第8番を聴いたりしています。(ブラームスのカップリングだったから)

ベルマンのベートーベンはあまり俎上にのぼらないようですが、この演奏も清冽なテンションがピンと張り詰めた好演であると思います。第一楽章は激烈な音楽でさえありますが、ゆるぎないテクニックとそれをベースにしたドライブ感に、冷ややかさと計算を感じます。第二楽章のカンタービレも甘すぎない。第三楽章冒頭のフレーズの出だしはあまりに美しく、乾いた冷たい粉雪がサッとばかりに舞うかのよう。だんだんとそれが吹雪になっていき、最後の打鍵はダンッとばかりに強烈。カーネギーの割れんばかりの拍手にも納得。続けて4度も聴いてしまった・・・。

ベルマンといえば、リストとかラフマニノフとかチャイコフスキーのバリバリな演奏が有名なようです。実は全く未聴なそれらの演奏も、聴いてみたいと思わせるのでした。




ブラームス:ピアノ協奏曲第1番

ラザール・ベルマン(p) ラインスドルフ(cond) シカゴ響 1979

ベートーベン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」

ラザール・ベルマン(p) 1979 カーネギー・ホール・ライブ

SICC 824



  1. 参照URL→http://okaka1968.cocolog-nifty.com/1968/2006/08/post_c30c.html

2007年11月6日火曜日

秋ということでブラームスPコン1番を聴いてみる


秋になり、活動も書き込みも低調になりがち。そういうときは秋らしくブラームスでも聴きたいという気になってきます。11月4日響アワーではエレーヌ・グリモーのピアノによるピアノ協奏曲第1番の1楽章が放映されました。指揮はアシュケナージで、貧弱なTVのスピーカーを通しても結構な熱演と聴こえ、第一楽章が終わって拍手が生じるというのは、いかにもアメリカ的であるなァと思ったものです。


私のCD棚にはブラームスPコンのラインナップがほとんどありませんので、池袋HMVに行ってSONYの廉価版シリーズから標記の盤を購入して数度聴いてみました。リファレンスと言えるほどの盤がないので、とやかく書くこともないのですが、この曲は改めて名曲だなとの感を新たにしました。



ブラームス:ピアノ協奏曲第1番

ラザール・ベルマン(p) ラインスドルフ(cond) シカゴ響 1979

ベートーベン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」

ラザール・ベルマン(p) 1979 カーネギー・ホール・ライブ

SICC 824





曲は1958年、ブラームス25歳の作。曲が出来るまでには紆余曲折があったのは有名なハナシ。無骨なところもありますが、この曲に込められた多くの感情と抒情と激情は聴いていて飽きることがありません。20分近くもある第一楽章はやっぱり圧巻で、オケと張り合うかのようなピアノの強打と流れるような旋律はまさにブラームス。展開部の前に現れるホルンの音色などはライン河の流れる風景を彷彿とさせてくれます、勝手な解釈ですけどね。


ベルマンはロシアン・ピアニズムの継承者としてリストやラフマニノフで有名ですが、本盤のブラームスでも彼の鍵盤は冴えているようです。抒情に傾きすぎずに旋律を歌い上げるところは好ましくウェットに流れないのはベルマンの特質なんでしょうか。聴き疲れはなく、よい意味で繰り返し安心して聴ける演奏です(実際買ってから5度くらい聴いた)。


ベルマンのピアノをYou Tubeでいくつか検索してみると、ラフマニノフやリストの作品をいくつか聴くことができます。これはこれで、素晴らしいですね。

2007年10月27日土曜日

曽根麻矢子チェンバロ・コンサート~高木綾子のフルートと共に~


ずいぶん前(10月14日)のことになってしまいましたが、コンサートの感想を書いておきます。


神奈川県区民センター(かなっくホール)で開催された、曽根麻矢子さんのチェンバロコンサートに行ってきました。あくまでも高木さんは「ゲスト出演」ですが、私の場合は目当ては高木さんのフルートでありました。しかし曽根さんのチェンバロも悪かろうはずもありません。


    第一部(チェンバロ・ソロ) 
  1. ラモー:クラヴサン曲集 より「ミューズたちの対話」 
  2. クープラン:クラヴサン曲集 第14オルドルより「恋のうぐいす」 
  3. ラモー:クラヴサン曲集より「一つ目の巨人(ロンドー)」 
  4. J.S.バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825
    第二部(デュオ、フルートソロ)  
  5. ヘンデル:15のソナタ Op.1 より第4番 イ短調 
  6. ヴィヴァルディ:フルート・ソナタ ト短調 Op.13-6  
  7. ドビュッシー:シランクス 
  8. J.S.バッハ:フルートとハープシコードのためのソナタ ロ短調 BWV1030


  • 日時:2007年10月14日(日) 14:00~
  • 会場:かなっくホール
  • 曽根麻矢子(チェンバロ) ゲスト:高木綾子(フルート)
  • チェンバロ:David Ley 1977年製作のフレンチDUMONT1707年モデル

第一部は曽根さんの即興的なトークも含めリラックスして楽しめる演奏会でした。特に、一曲目が終わった後は、客席の十数名を舞台に上げ、チェンバロの傍で「恋のうぐいす」を聴かせてあげるなど、堅苦しく音楽を聴かなくてもいいんだよとでも言いたげな企画でありました。

曲目としては、しっかりとチェンバロでバロックを満喫したいという向きには、多少食い足りないところは残ったかとは思います。高木さん目当ての私でさえ、もっと弾いて欲しかったと思ったくらいですし。それでも、ラモーが生で聴けたからよかったかな。

第二部は高木さんをゲストに迎えての演奏です。高木さんの音色はいつ聴いても「ウげっ!」とばかりに驚いてしまいます。かなっくホールは300席程度でフルートには丁度良い大きさなんでしょうか。彼女が最初の一音を奏でた時に、一体どこから音が出ているのだろうと思わせるほどに、ホール全体が響きます。音の深みとまろやかさは一層に円熟味を増したかのよう。それに呼吸法のうまさでしょうか、息継ぎが自然でワンフレーズが恐ろしく長い。それゆえに、旋律の連続性がはっきりと伝わってくる。さすがと言いますか、貫禄といいますか。

途中にソロでドビュッシーの「シランクス」が奏されました。チェンバロとバロック音楽を主体とした曲目には、いささか不釣合いな感は否めないものの、彼女の「シランクス」が聴けたのは儲けものといえましょう。それ以外の曲も、フルート・ファンには馴染みの曲ばかりで、楽しむことができました。彼女の演奏には、ときどき高木節とでもいうような癖を感じることもあるのですが、これも彼女の演奏の味でしょうか、よしとしましょう。

アンコールは曽根さんのチェンバロ・ソロ。「ゲストというのに、随分演奏してもらいましたから、アンコールはチェンバロを弾かせてください」みたいなことをおっしゃってから2曲ほど披露。最後の曲は、最近パリで録音したばかりの平均律から。

曽根さんと高木さんのデュオは1年に二度ほどやりたいとのこと、次回は来年3月頃に計画ですとか、楽しみが増えますね。

今日は東神奈川という場所がらか、300席の客席にも空席が目立ちました。知名度抜群の彼女ら二人をしても、神奈川では満席が難しいというのは、かなっくホールの宣伝の下手さなのか、あるいは、それが音楽事情なのか。


2007年10月15日月曜日

三遊亭円朝作:怪談 牡丹燈籠 岩波文庫


ということで、歌舞伎を観た(→clala)ついでに三遊亭円朝(1839-1900)の『牡丹燈籠』を読んでみました。人情話に長じた円朝が中国は明の『牡丹燈記』から着想を得て、それに天保年間牛込の旗本で起こった事件を加えて創作したお話し。円朝の高座での話を速記でしたためたもので、この時代の作なれども言文一致の見事な作品に仕上がっていることにまず驚嘆します。


円朝の講談での流れるような台詞回しがそのまま写し取られているかのようなリズムと流れの良さ。それに人物の台詞の言い回しの妙。どこを読んでも味わい深く面白い。




しかも、物語は歌舞伎の劇よりもはるかに深く、「忠」「義」「孝」など、いかにも江戸時代的なテーマが横たわる仇討ちの物語になっています。円朝作の原本の真の(?)主人公は、お峰や伴蔵などではなく、実は歌舞伎には登場しない若者であったりします。かといって、お峰、伴蔵、お国、源次郎などのかげが薄くなることはまったくなく、よくぞ彼らのしぶとい生き様を活写したものであります。


『怪談』とあり、確かにかの有名な幽霊も登場しますが、幽霊以上に恐ろしいのは人間の方でございまして、恐るべき因縁と業が絡まり合います。色や欲に溺れ、裏切りと殺しが続き、そこに自己犠牲と忠義が加わり、様々な物語が錯綜しつつ最後は一本の糸に繋がり感動の大団円へと進むのあります。(ご都合主義などと言ってはいけない)


お峰が死んだ後も話しは続くのですが、御母堂登場後のシーンなど、涙なしに読むことはできませぬ(;_;)余程日本人はこのような仇討ち話が好きなのであるなと思わざるを得ないのでありました。


歌舞伎との筋の違いを書き立てても、両者は全く別物に仕上がっていますから何のタシにもなりません。歌舞伎の方も、あれはあれで見事な着眼点と演出になっています。それでも、ふたつだけ書くとするならば、伴蔵は円朝作では大した悪党として描かれていることと、お露の幽霊にサプライズが用意されていることでしょうか。ご興味のある方は一読を。

2007年10月14日日曜日

歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎 夜の部 怪談 牡丹燈籠

久しぶりに歌舞伎を観てきました。歌舞伎座で上演中の夜の部、三遊亭円朝原作の通し狂言『怪談 牡丹燈籠』です。歌舞伎の『牡丹燈籠』は河竹新七版と文学座版の二種類があるそうですが、今回は後者のもの。74年初演、大西信行脚色・戌井市郎演出によるものです。伴蔵が仁左衛門、お峰が玉三郎という組み合わせ。なんでもう秋だっていうのに、怪談なんだろうとは思いますが、まあよしとしましょう。



前半は恋焦がれた新三郎を幽霊になったお露が憑き殺してしまうところまで、後半はお国と源三郎、お峰の末路まで。仁左衛門と玉三郎という話題の組み合わせですから、前評判や人気も上々。休日は安い3階席は空いていません。幕見席に久しぶりに並んで、狂言のみの観劇としました。


ただし、幕見席というのは、やはり通(つう)の席だなと改めて思いましたよ。最初は、お米やお露の声が聞き取りにくく、何を言っているのかさっぱり、芝居にのめり込めない。4階の幕見席からでは役者たちの細かな所作までは全く分からないんです。


それでも台詞回しはほとんど口語ですから筋が分からないということはない。有名な怪談話が気のきいた欲得まみれの夫婦劇になっています。特に玉三郎演ずるお峰がいいです。芝居は喜劇調で妙に玉三郎の演技がツボにハマっています。伴蔵が幽霊を見たという話を、怖がりながらも「聞きたーい」と言う所、幽霊からもらった百両を震える両手で数えるところ、そして「チュウ、チュウ、タコ、カイ、ナ~」。わざとらしさも感じますが、ここは素直に笑った方が得。


それでも見所は、馬子久蔵(三津五郎)をとっつかまえて、伴蔵の浮気を吐かせ、そして酔って返る伴蔵に浮気を詰め寄るシーンでしょうか。ここの玉三郎は歌舞伎というよりも現代ドラマを演じているかのよう。それだけに、これが歌舞伎か?と違和感もないわけではありませんが、やはりこれも歌舞伎。そして芝居として面白い。


玉三郎については、渡辺保氏が今月の劇評(→こちら)に以下のように書いています。


玉三郎は結局新七本よりも大西本のほうがその芸風に合っているのかもしれない。そこに玉三郎の女形としての特徴と現代性があるのだろう。これは「玉三郎論」の重要なデータである。


玉三郎の現代性ですか、成る程、よくわかんないけど。

お米演ずる吉之丞の幽霊姿は、近くで見るとかなりサマになっていたとの感想もありますが、これは全く確認できず。近場で観れなくてやっぱり残念です。ラストの「殺し場」は、お国と源次郎、伴蔵とお峰と続きます。いかにも歌舞伎的な「殺し場」ですが、伴蔵とお峰の場面は演出が過ぎましたか、雷鳴は不要なように思えます。ここは、しっかり二人の芝居を観たいところ。こずるいところもあったけれど、哀れな女です、お峰は。


本芝居は、三遊亭円朝の通し狂言が元になっていますので、2回ほど三津五郎が高座の円朝を演じて物語をします。なかなか楽しめる演出ではありましたか。やっぱり、久しぶりに観ても歌舞伎は面白いですね。




2007年10月12日金曜日

モネ損傷事件 さらに続報


モネ損傷事件の続報を追っています。全く個人的な興味です、今後も同様のことを続けるつもりはありません。


さて、若者5名(4名?)が起訴される方向のようです。うち1名は空調会社社員で、美術館への進入方法が分かっていたようです。


事件は本当に予め意図したものではなかったようです。APによりますと、5人は深夜に美術館に忍び込み、警報が鳴り響き驚いて逃げるところを、一人が絵にパンチをくらわせたとのこと。犯行はビデオカメラに収められていました。



The intruders wandered around the museum's ground floor, where the Monet painting was hanging, until an alarm sounded. Before fleeing, one of them punched the painting, officials said.


警報が鳴るまでウロウロしてたっていうんですから、おおかた酔っ払ってウダ話でもしていたんでしょうね。名画のかかっているギャラリーを歩きながら!>なんてウラヤ★シイ!


彼らはフランス刑法でいうところの、"damaging on object of public usefulness"で起訴(preliminary charge)されるとのこと。


Under French law, preliminary charges mean that the investigating magistrates have determined there is strong evidence to suggest involvement in a crime. It gives the magistrates time to pursue their probe before they decide whether to send the suspects for trial or drop the case.


主犯格の男性の罪は3年の懲役と45,000ユーロ(64,000USドル)の罰金だそうで、前科もないようですから、本当に今は反省していることでしょう・・・(;_;)


��月に盗まれた絵は、それにしても、どこにあるのでしょうかねえ。

2007年10月10日水曜日

モネの損傷犯が捕まったようで・・・

モネの絵画損傷の続報です。容疑者5名が捕まったようですね。以外に早い解決のようです。



One of the five being held for questioning gave himself up on Monday and told police the names of his companions after taking fright at the intense media coverage of a break-in that was captured on a security camera.(ABC News)

18~19歳の未成年らしく、お祭り騒ぎの中で酔っ払ってやってしまった、ということのようです。悪ふざけが過ぎたというか、後先を考えられなかったということでしょうか。突発的行動にしては反響が大きすぎました。修復可能で致命的な傷でなかったのが何よりです。


Police sources say statements made so far suggest the intruders had been drunk and did not premeditate the attack on the painting.(ABC News)


美術品に限らず歴史的建造物、貴重な自然など、性悪説を前提として展示あるいは存在していません。しかし、深い考えない悪意により傷つけられているのは洋の東西を問いません。とはいっても、相次ぐ美術品盗難や損傷事件の報に接すると、美術館や博物館の脆弱性が気になるところではあります。防弾ガラス+警備員に阻まれて、2m以上近寄れないというのも鑑賞スタイルとしては最悪ですけど。


Several recent incidents have raised questions over the security of works of art in French museums.(AFP)


え?音楽のサイトなのに誰も興味ないですか? この絵は高校時代から好きな絵のひとつでしたからね・・・、やっぱり気になりますでしょうに。

2007年10月9日火曜日

モネの絵がまたしても憂き目!


またしても、モネの作品が憂き目に合いました。フランスは10月7日、芸術と文化の祭典「ホワイト・ナイト(Nuit Blanche)」が開催中。同時にラグビー・ワールドカップ準々決勝で、ニュージーランドのオールブラックスから全く期待していなかった勝利を飾ったことから街はお祭り騒ぎ。酔っ払った5名(four or five people, likely four boys and a girl)がオルセー美術館に押し入り、モネの「アルジャントゥイユの橋」(今年、国立新美術館で見たばかり!→clala)をこぶしで傷つけたというのです。傷は切り裂かれたように10cmほど。修復は可能とのことです。




Five apparently drunk people broke into the Musee d’Orsay early on Sunday morning and punched a 10cm (4inch) tear in Le Pont d'Argenteuil by the Impressionist painter.


フランスの文化・通信相は破壊行為に心を痛めると同時に罰則の強化を主張してます。



It would be good a thing to increase the sanctions for (people who vandalise) a church, a museum, a monument, because they are attacking our history.


It’s always a heartbreak when an art object that is our memory, our heritage, that we love and that we are proud of is victim of a purely criminal act.



フランスは8月の盗難事件(→clala)といい、美術品関連の事件が絶えないようです。窃盗の場合は、心無い窃盗犯による仕業であったにしても、最終的には美術品に(金銭的)価値を見出しての犯行。美術作品に限らず過去の遺産や芸術作品を破損させる行為は歴史や文化遺産に対する反逆行為です。どちらも憎むべき犯罪ですが、破壊行為は許しがたく。


今回の犯罪がバカ者による度を越した悪ふざけであれば一過性のものでしょう。しかし、それが現在を生きる者の不満の捌け口として成されているのであれば問題は大きい。自分たちよりも芸術作品の方が「大事にされている」と思う気持ちが、もし仮にあるとするならば、これらの反社会的行動の根は非常に深いと言わざるをえません。フランスは移民問題とか内政は日本とは異なります。犯人の若者が、どのような者たちであるのか、事件の背景についも、注目しておきたいところです。

2007年10月6日土曜日

山田昌弘:希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

格差論の火付け役となった本書も文庫本化されましたので、ようやく読んでみました。


本書は、ニュー・エコノミー下の社会において、格差が「量的格差(経済的量的格差)」から、個人の努力では超えられない「質的格差(職種やライフスタイル、ステイタス)」の格差を生み、最終的に「心理的格差(希望の格差)」に繋がると捉えた点が斬新でした。現在の格差の最大の問題点は、将来に希望を持てる人と将来に絶望している人に分裂してゆくのだと。




学者は、とにかく分析が仕事です。山田氏は1957年生まれ東大卒。彼の主張するところの「パイプライン」(下図 本書P.193より転載)がうまく機能していた時代の成功者です。私を含め高度成長やオールド・エコノミーの時代に生まれた者は、将来の見込みも持たずに(持てずに)過ごす現代の一部の若者に対して根本的な疑問を持っています。自分の子供が住む日本社会に対する漠然たる不安もありますが、このままでは自分の年金が受け取れなくなるという利己的かつ現実的な不安が本音でしょうか。何故こんなことになったのか、自分たちと彼らは何が違うのかと。



そういう疑問には、本書はキッパリと明確な回答を用意してくれています。その点においては評価できる内容といえましょう。しかし、分析というのは目的があってするものです。人を納得させるための分析では、思考の遊戯でしかありません。分析結果をもとにどういうアクションを提示するのかが最も重要で、その点において本書は愚書の類と同一です。


最終章に「9 いまなにができるのか、すべきなのか」という章が設けられています。現在生じている問題は経済的格差以上に心理的格差(希望格差)であるとし、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵であると主張しています。努力すれば豊かな生活が報われる社会を実現(復活)させるために、山田氏は以下の提言をしています(P.276-282)。



  • 能力をつけたくても資力のないものには、様々な形での能力開発の機会を、そして努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みを作る → 学校システム、職業訓練システム、誰でもできる比較的単純な仕事に対して、努力してスキルをつければある程度評価されるというシステムの導入
  • 自分の能力に比べ過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策 → 過大な期待をクールダウンさせる「職業カウンセリング」をシステム化
  • 公的に(個人の)コミュニケーション能力をつけることを支援する → 自分のコミュニケーション能力のなさを自覚し、自分の理想通り(の相手)など存在しないことを経験から学ぶ
  • 収入は低くてよいからのんびり農業をやりたい、テレワークで暮らしたい、一生一人で生活したいなど、新しいライフスタイルを目指す人(中略)に対する具体的な実現支援策を用意
  • 政府がキャリアカウンセリング事業を、学校教育、生涯教育に大々的に取り組む
  • 若者にも「逆年金」制度



提言はこれだけです。こういう対策を行わなければ、若者は「希望」を持つことができず、アディクションに逃避し、さらに「エンビー型」の嫉妬心による犯罪、すなわち「不幸の道連れ」が増える可能性のあることを別箇所で指摘しています。


「エンビー型」犯罪の究極が赤木氏(→http://www7.vis.ne.jp/~t-job/)の「希望は戦争」でしょうか。ここまで書いてきて、赤木氏をはじめとしてして「フリーターを罵倒している」という論調の意味が、何となく分かってきたような気がします。分析は一面正しいのですが、何かがまた抜け落ちているのだなと。

2007年10月3日水曜日

[立読み]長野慶太:部下は育てるな! 取り替えろ!

刺激的な題名の本、書店でざっと立ち読み。買うほどの内容ではありませんが、書いてあることには首肯できる点も多い。ただし、部下を取り替えることのできるほどの実力と権限を既に持っている上司ならば、このような本を読むことはないのでは。なかなか育たない部下、あるいは期待したパフォーマンスを上げない部下に悩んでいるから、このような本を手にとるのではないでしょうか。


部下は育てるのではなく勝手に育つのを待つ、だとか、部下と分かり合おうなどと思うな、というのは、一面においては確かにそうかもしれません。パワハラ上司は別としても、最近は部下におもねる本が多すぎる気もします。全面的に賛成はしませんけどね。



2007年10月2日火曜日

展覧会:安齊重男の“私・写・録”1970-20




国立新美術館が企画・主催する初めての個展となる『安齊重男の“私・写・録(パーソナル フォト アーカイブス)”1970-20』を観てきました。安齊氏は現代美術の現場を記録してきた写真家。実は私はとりたてて現代美術にも、そして安齊氏にも興味があるわけではありません。知り合いの写真が展示されている、ということを知り、観てきた(=探してきた)次第です。

安齊が撮影した芸術家は非常に多岐にわたり、その圧倒的な数の写真群は息を飲むばかり。芸術作品を撮ったというよりは、その芸術を生み出した作家や時代を写しているといった方が正しいでしょうか。

それにしても、1970年からつい最近に至るまでの多くの作品群について、ひとつひとつを眺めると、現代美術ですから、アタマの中に?マークがいくつも浮んでしまいます。しかし、それらを総体として時代の流れとしてみたときには、何か感応できるものがあります。一見、無味乾燥な作品だったり、ぶっきらぼうな、あるいは、人をこばかにしたような作品であっても、実はその作品が生み出された作家の内実は、非常にドロドロとしており、止むに止まれず、あのような作品を生んでしまったということが、何となく伝わってきます。

写真を眺めると、それは芸術というものが持つ抽象性の奥に隠された欲望とも葛藤とも渇望とも言えるような、ナマな人間の感情の奔流のようであって、余程具象よりも空恐ろしく感じたものです。あまりの写真の多さと芸術作品の直接性に、軽い眩暈と吐き気さえ覚えたことも否定できません。

知り合いの写真も数枚発見でき目的も達したので、あまり長居は無用と展示会場を後にしましたよ。



2007年9月30日日曜日

重松清:流星ワゴン


重松氏の作品を読むのは二度目。軽い気持ちで休日に読む本と思って買ったのですが、久しぶりに一気読みしてしまいました。重松氏のストーリーテラーとしての上手さが際立ちます。


本作は三代にわたる父子の物語です。後悔と絶望と、そして希望の物語。読みながら自分に重ね合わせ、息子を、そして今は亡き父を思い出しながら読みました。更には親しい友人の家庭のことまで思い、今ならやり直せることと、もう取り返しのつかないことについて、そっと考えました。まあ、そんな本です。本書については、あちこちで散々絶賛されていますから、今更私が付け加えることなどなさそうです。




が、しかし、少しだけ感じた傍流的なことを書いておきましょう。


「流星」なんていうメルヘンチックな題名とは裏腹に、最初は残酷な物語が続きます。しかし、読み終えてみれば、やはりこれは男にとっての「メルヘン」だったんだなと。主人公が途中で甘い考えを抱き、少年にたしなめられるシーンがあります。作者も敢えて明確なハッピーエンドは用意しなかった。それでも、これは甘いメルヘンになっています。もっとも、小説にさえ「甘さ」や「メルヘン」や「希望」がなかったとしたら! 哀れで弱い世の男どもは憤死してしまうかもしれません。


父子の物語は、「子供の挫折とイジメ」「家庭の崩壊」という重松的なテーマも内包し、人生の意味とか希望ということにつて敷衍しています。


物語の中での女性が語られていないことは文庫本解説でも指摘されています。今回は父子にテーマを絞ったからなのでしょう。しかし、逆に考えると本作の主人公を含め、本書に感動する人は、女性の、いや、家庭における母であり妻のことを、結局は理解していないということを露呈してしまっているようにも思えます。都合の良いように女性像を崩し、そしてすがっている。


一方で主たるテーマが父子の関係性であったとしても、父は子に、子は父に何を求め、何をしたかったのか。数限りない後悔を覚えたとしても、それは「父性」という曖昧な中での関係性でしかない。女性の「母性」とは異質であることを、父親は自らの存在の内実から理解しています。男達は父と子であることの限界を知っているというのでしょうか。だからこそ、本作に男性は共感してしまうのか。父親とは虚構の世界でしか心底には分かり合えないのかと。


重松氏が書くテーマに「希望」というものがあります。以下は主人公が「死んじゃおうかな」と思ったときの気持ち。


絶望しているわけじゃないんです。でも、この先に、希望がないっていうか、なんのためにこれから何十年も生きていくのかわからなくなったっていうか。(P.43)

似たような文章は以下にも見られます。


信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだ。(P.381)


いま、ここにこうして、明日も生きられるということ。それが、まさに「希望」であり「幸福」なのかもしれない、とは彼の小説を読むまでもなく、このごろ強く思う次第です。あとで「後悔」しないように、今を生きているでしょうか。落ち込んだり嘆いたりすることさえ「幸せだった」と思わないように。

2007年9月29日土曜日

三浦展:下流社会 第2章 なぜ男は女に“負けた"のか



「下流」という言葉と「下流」の定義において格差社会の論調に対し火に油を注いだ(P.230)と筆者自らが書く前作(→レビュ)は相当売れたようで、本書はその続編。三浦氏の統計の扱いや論理に関する批判は、ネット上に山のように溢れています。本人も確信犯的に統計を用いて自論を展開*1)していますから、それを前提とした上で読む方が良いと思います。


ある種の「いい加減さ」や「うさんくささ」を割り引いて読んだにしても、三浦氏が何を書きたかったのか、いまひとつ判然としません。前書は意欲、能力が低いのが「下流」(前P.6)と明確に定義したところが斬新でした。今回は副題にあるとおりなぜ男は女に“負けた"のかです。しかし読んでみると、その点の言及はいまひとつ。男性が最近女性に比べて弱くなってきたとは感じますが、男性社会と女性社会の優位性に関する問題は上流・下流の問題ではないと思います。




正社員率が高いSPA!男、フリーター系のSMART男(P.39)とか下流は「反中」「反韓」「反米」、非正社員はスポーツイベント(P.157)などの言い切りは、それが実際は間違っていたとしても一人歩きしがちです。世の中の感覚に何となく合致していると、あたかも時代を切り取った真実のように思われがちです。ここの分かりやすさが、三浦氏が指示される理由のひとつなんでしょうが、表層的過ぎます。


概してアマゾンやブログでの評は三浦氏に批判的で、「下流を罵倒している」との感想も散見されます。私も本書は評価しません。彼の分析は「下流の消費行動」や「購読パターン」から「下流」をステロタイプ化しているに過ぎないように思えます。それが一体何なのかと。「下流」と定義された人たちへのメッセージもない。「地域限定社員」ということを提唱していますが、付け足しとお詫びみたいに感じます。


それにしても、何故「下流本」がかくも売れるのでしょう。これは、自分を安全圏において「他人の不幸または失敗を眺めることから喜びを得る」、すなわちシャーデンフロイデ(Schadenfreude)と呼ばれる情動*2)によるものなのでしょうか。あるいは、自ら「下流」と自認する人たちが自らを再確認し自己強化する行為なのか。だとすると巷の下流本は問題提起という体裁を取りながら、エンタテイメントでありヒーリングに堕しているのかもしれません。これ程に格差論が盛んな割には、政策や企業活動*3)の具体的対応が見えてきませんし。


さて、三浦氏関連のネットでの感想を斜め読みしているさなか、そんな「安全圏」*4)に対して痛烈な批判を浴びせている文章が目に止まりました。随分前から有名になっていた、いわゆる「赤木論考」(→「丸山眞男」をひっぱたきたい続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」 )です。標記論考*5)については、それこそ識者を含め多くの言及と批判がなされているようです。それを参照した上で三浦氏の本を考えますと、洞察の甘さと初めに結論ありきのようないい加減さが目に付いてしまうのも否めません。



  1. 三浦氏は「あとがき」で以下のように書いている。

    『下流社会』に対するいくつかの批判に、引用しているデータのサンプル数が少ないことがある。そんなことは百も承知であるが、まあ、私も分析のプロだから、サンプル数が少なくても、さほど間違った分析はしないつもりだ。

    「サンプル数は少なくても思っている結論に結びつける」でしょうか。

  2. たまたま9月29日の日経新聞コラム「モードの方程式」(中野香織)を読んでいて、ああ、これもそういうことなんだと合点した次第。ちなみに、Schadenfreudeに対して「シャーデンフロイデをおぼえたことを深く悔いる」という意味のグラウケンシュトゥック(Glauckensuck)という新語もあるそうな。
  3. 10月1日からは、企業が労働者を募集・採用する際に年齢制限を設けることを原則禁止する改正雇用対策法が施行される。中高年や30歳を超えた年長フリーターなどの就職機会を広げる狙いがあるといわれる。また、トヨタなどは、ようやく全従業員に占める非正社員の割合を30%以下とするような目標を設定した。バブル後遺症で新卒採用を絞り込んだため社員年齢カーブが歪なものとなり、企業活動に支障が出ることを痛切に経営的危機と感じる企業は、登用や中途採用を含め柔軟な人事プログラムを策定する可能性がる。しかしそれが「非正社員」とひとくくりにされる全ての人に朗報であるとは思えない。ここでも「勝ち負け」は生ずるはずだ。
  4. 最初「絶対安全圏」と書いて、「安全圏」に書き替えた。考えてみるまでもなく、今の位置が今後ずっと続く保障=「絶対安全圏」などありえない。そう考えると、自分がいつ「赤木氏」にならないとも限らないのだ。だとしても、ではあるが。
  5. 赤木氏の主張は、フリーターは機会どころか人間的尊厳さえ奪われており、再チャレンジなどできない。今の正社員は「たまたま」正社員になっているだけで彼らの努力とは全く無縁だ。自分たちが這い上がれないならば、中流が下がって来いと。すなわち社会を流動化させるためには戦争さえ辞さない、いや「戦争こそが希望」であると説くものである。戦争になれば東大卒で政治思想犯とされた丸山眞男の横っ面を、中学にも進んでいないであろう一等兵が引っ叩くことも可能なのだと。

[立読み]佐藤可士和の超整理術


山尾さんのところで紹介されていた「佐藤可士和の超整理術」を立ち読みしてみました。佐藤可士和氏といえば話題のアート・ディレクター。ユニクロのTシャツ戦略やファーストリテーリングのコーポレート・デザイン、携帯電話、国立新美術館のロゴデザインなど、多方面に活躍されています。トレードマークのようなソフト・モヒカンも頭頂部が気になり始めたヲヤジ方には羨ましい限り。


そんな彼が、なぜに野口悠紀雄氏のような本を書くのかと。本の感想を書くにあたって、私の場合、一応アマゾンの読者レビュをざっと眺めます。あまり評判が良くないですね。佐藤さんらしくないだとか、凡庸だとか。わたしはそうは思いませんでしたよ。




物理的な整理における「捨てる勇気」とか「捨てるバッファ」だとかの考え方は、今更目新しいものではありません。本書のキモは(野口氏の本もそうなのですが)、物理的な「片付け方法」とか「整理法」ではなく、アイデアの整理方法にあります。それさえも凡庸だと指摘されれば、その通りと言うしかありません。目新しいこは何も言ってないのですから。おそらくは凡人も真似できる画期的な「整理法」とか「発想法」なんてないんです。佐藤氏の発想スタイルをパターン化すると、本書のような「整理法」に当てはまったということなんだと思います。


佐藤氏の言葉と経験に基づいた事例を、あたかも板前が握る寿司のように美味しく提示してくれているのが本書です。佐藤氏の考え方は彼のオフィスのごとく整然として美しく、そして読みやすい。同じネタであっても新鮮です。立ち読みでもあっという間に読めてしまいます(^^;;;


随所で「やっぱりそうだよなあ」と頷きます。彼の言葉で一番印象に残ったのは、『答えは相手の中にある』ということですね。自分のエゴを抑えて、クライアントとのコミュニケーションの中から、相手の願望を具現化して示してあげる。答えは相手が知っているのだから、自らのアイデアは尽きることはない。うーん、至言です。


もう少し安ければ、買ってもよかったかなと。立ち読みでゴメンなさいね。

2007年9月25日火曜日

[読書メモ]岡田斗司夫:いつまでもデブと思うなよ


ダイエット本として、かなり売れている様子。classicaのiioさんや#credoのkimataさんも紹介している*1)。私の体形はメタボとは程遠い「痩せ型」であるため本書は無縁と思ったものの、気になる部分もあったため、書店で立読の斜め読み。


成る程、単なるダイエット本かと思いきや。たしかにテクニカルな点ではダイエット本だが、その骨子は昨今の「見た目主義」の風潮に乗った論調。自分自身の「ダイエット」、自己への投資ということ。


成果を上げてもデブだと損、デブはマイナスイメージがある、見た目が大事、デブは損だから痩せましょうと説く。人を動かすには損得感情に訴えなくてはダメということか。あるいは人を動機づけるものは、損得を越えて人から賞賛されるということか。デブから痩せることは、その一助になるのだと。


痩せるテクニックは記録すること、すなわち目標設定と「見える化」で目新しいものはない。あるいは、ビックマックを食べたくて我慢するのではなく、一口食って後は捨てるのだとか。


しかし・・・、極端なデブは別として、痩せることは本当に自己投資なのか?単なるメタボ協奏曲に乗った動きでしかないのではないか?というギモンがないわけでもない。




  1. http://www.classicajapan.com/wn/archives/001482.html
  2. http://blog.livedoor.jp/credo5026/archives/50910016.html


2007年9月23日日曜日

野口悠紀雄:「超」整理法―情報検索と発想の新システム



野口悠紀雄氏の『「超」整理術」』を改めて読んでみました。このごろ仕事でもプライベートでも本や書類の山に囲まれ、限られたスペースの中でニッチもサッチもいかなくなってきておりダウンサイジングする必要性に迫られてきたことが理由であります。


本書は1993年に上梓されています。個人利用ではインターネットどころかWindowsさえ使えなかった時代。氏のパソコンによる情報処理、情報検索に関する記述には時代を感じます*1)。それ以外は今でも通用する技術として評価されているようです。「分類しない」「押出しファイル方式」は今更説明するほどもないほどに有名な整理法といえましょう。




広く人口に膾炙してはいるものの、氏の整理方法は学者とかもの書きを職とする方には向いていて、企業や役所に勤めるフツウのサラリーマンには若干不向きという印象は変わりませんでした。


仕事においては、15年前に比べ個人が処理すべき情報量は飛躍的に伸びました。プロジェクトの初期情報は膨大です。オフィスの物理的スペースがサイバースペースに置き換えられる以上のスピードで、新たな紙媒体が日々物理スペースを侵食しつつあります。時系列で整理していても、ストックのスピードと捨てる判断が入力量に追いつかない。


終了したプロジェクトデータでも「いつか使うかも」という理由で、しばらくはデスク周辺の一番いい場所を占領しています。「捨てたファイルはすぐ必要になる」というマーフィーの法則は今でも成立しています*2)。実際のところ「捨てる」というのが極めて難しい。いわゆる「センチメンタル・バリア(情緒的障壁)」というやつです。


捨てないまでも、全ての紙情報をPDFやTIFFなどの画像データとして保存するという試みもなされています。企業では組織的にそれを実施して、キャビネットの物理スペースを電子スペースに移管しようとしています。しかし電子データは一覧性に劣る上に書き込みが出来ません。紙媒体のように閲覧されることで経験と知識を蓄積するような連続性を感じることができません。電子データは、検索の網にかからない限り、紙媒体以上に閲覧再利用されなくなるような気もします。


情報を「捨てる・リフレッシュする」VS「整理・保管・再利用する」という、いつとも果てぬ悩みは、野口氏の本を読んでも全く解決されず、相変わらず足の踏み場もない紙ファイルの海を、のたうちまわる毎日です。


ちなみに、「時間軸での整理法」をCDについて適用してみましたが・・・これもうまくいきません。5年以上聴かないCDを捨てるかといえば、捨てないわけでして、ではこの先5年以内に聴くかと言われれば、やはり聴かないかもしれません。だからといって、その1枚を捨てられないのは、「センチメンタル・バリア」以上の理由のような気がします。



  1. これは「捨てた時」に「そのファイルがあったことを思い出した」からかもしれません。
  2. 氏の手法はMS-DOSのテキストファイルをベースとしています、推薦しているワープロも「一太郎」ではなく管理工学研究所の「松」とかマニアックです。かくいう私も、かつては「MS-DOSを256倍使いこなす本 (アスキー出版局)」とかを読み漁り、テキスト処理系スクリプト言語のcgrep、sed、awkが可能なテキストデータベースをシコシコと作っていたものです。そうやって作ったデータや業務日誌を読み返したり再利用したことは、ほとんどありませんでしたが。

2007年9月19日水曜日

ガッティでストラデッラのオラトリオ《スザンナ》を聴く(3)

前回から随分と時間があいてしまいましたが、涼しくなってきましたので「ストラデッラの《スザンナ》を聴く」の続きを書くこととしましょう。 オラトリオは大きく、二幕構成になっています。

第一幕は二人の審判(GIUDICE IeII)が自らの抑え切れない欲望を歌い、そして遂に、スザンナの沐浴中に彼女に襲いかかります。しかし、スザンナに拒否され召使に見つかってしまったため、逆にスザンナが不倫をしていたと偽りを言い、スザンナを貶めるまでです。

第ニ幕はスザンナの牢獄から始まります。無実であることと神への助けを求める心と、理不尽な死への恐怖の間を揺れ動く心を切々と歌います。遂に彼女の死刑(縛り付けられたまま、市民に石をぶつけられて死ぬという刑)が執行されようと群集の中に連れ出されたとき救世主たるダニエルが登場します。ダニエルは二人の審判を別々に審問し、その虚偽を明かし、逆に彼らに死罪を言い渡し、めでたしめでたしとなるまでです。

曲はレチタティーヴォとアリアや二重唱やコーラスが交互に歌われます。三重唱(Terzetto)も一曲だけあります。レチタティーヴォは、それぞれの登場人物の台詞や心象であるとともに、テキスト進行や解説の役目も果たしています。TESTOとされた部分がそれです。
一般にレチタティーヴォというと、アリアの間のツナギみたいな印象を受けますが、ストラデッラはレチタティーヴォでもしっかり歌わせています。

レチタティーヴォのテキスト進行役にカウンター・テナーを配したというのは、非常に素晴らしいアイデアだったかもしれません。最初のシンフォニアが終わった後、カウンター・テナーの声が聴こえてきたときには、全く意表をつかれてしまい、思わず息を飲んだものです。もっとも、更に息を飲む場面はもう一箇所用意されていたのですが、これは後で書きましょう。

伴奏はハープシコードとオルガンの通奏低音に第一、第二バイオリン、ヴィオロンチェロ、コントラバス、それにarpa doppiaと呼ばれるイタリア・ルネッサンス期のハープ(→Wikipedia)によるアンサンブルです。この小編成のアンサンブルが極めて秀逸です。小気味良い劇進行、歌手陣をしっかりと支え、引き立たせ、そして場合によっては対等の対話を行います。好色と狡猾故の陰鬱な物語ながら、イタリアの乾いた風を感じさせる心地よさが全編に漂うのは、アンサンブル・アウロラの伴奏のせいかもしれません。

曲の最初のシンフォニアだけでも聴いてみると良いかもしれません(買わないと聴けませんが)。ノンヴィヴラートの単調なヴァイオリンの響きによる短い導入はスザンナの内面を表象するかのような暗さを湛えています。その後、打って変わって快活な悦びが満ち溢れ、神への感謝と崇高ささえ感じる音楽となります。ガッティは自在に歌い、流麗に流れ、その馥郁たる響きは惚れ惚れするほどです。ガッティ好きならば、シンフォニアを聴いただけでニヤニヤしてしまうかもしれません。

このように、そもそもといえば、ガッティのヴァイオリンを聴こうと思って購入した盤ではありました。ところが繰り返し聴くにつけ(そう、繰り返し聴くに値するのです)、曲の美しさがジワジワと染み出してきまして、いまやガッティのヴァイオリンがなくとも(いや、「ない」と困りますが)愛すべき盤となってしまいました。それ程にストラデッラの曲が美しいのです、歌手陣も良いのです。

ガッティはマイナーな曲の発掘に精力を傾けていますが、彼が敢えてこの曲を選んだわけも分かろうというものです。



せっかく再開しましたが、今日はここまでです。その後のエントリはまだ白紙です。誰に読ませるでもない、個人的な「覚え書き」ですからね(^^;;。
次は、曲をひとつづつ解説するのも何ですのから、聴き所がどこかということを簡単に書こうと思ってはいるのですが、はてさて、いつになりますか。

2007年9月18日火曜日

[NML]ヘンデルの歌劇「フロリダンテ」を聴いてみる


戯れに、NMLで歌劇「フロリダンテ」を聴いてみました。
はっきり言って対訳もなく、あらすじも分からずに歌劇をNMLで聴くというのは苦行以外の何ものでもありません。ネットで調べても、ほとんど情報は得られません。

数少ない情報によると下記のような物語らしく。
王女エルミーラは英雄フロリダンテの凱旋を喜んでいます。ところが本来ならば二人は結婚する約束だったのに、暴君のオロンテ王がそれを認めないばかりか、フロリダンテを国外に追放し何と自分がエルミーラと結婚しようとします。エルミーラの妹と捕虜であるティマンテ(グリコーネ)は愛し合っており、フロリダンテとエルミーラを何とか助けようとします。フロリダンテとエルミーラは逃亡するのですが失敗、もうこれまでと毒杯をあおろうとしたところを、暴君オロンテに捉われてしまいます。あわや二人が殺されようとしたときに・・・。
禁じられた愛に逃亡、友情、裏切り、復讐劇と、結構ドロドロした物語ですが、最後はハッピーエンド。しかし、全体にクライ物語ですから、ひたすらラメント節が延々と続くワケで・・・、はっきり言ってつきあっておられません。最後まで聴くのは、相当の忍耐力が要ります。

以上のような貧弱な知識を仕入れ、NMLの曲目をネットで調べた日本語訳に当てはめてみると(間違っているところもあるかもしれません)、聴き所が何となく分かってきます。

エルミーラやフロリダンテの嘆きに耳を傾けるのも良いでしょう。コラルボに裏切られた暴君オロンテの驚きを聴くのも良いでしょう。ハッとするアリアや、美しい旋律もあります。でも全体に地味です・・・ね。

何しろCD3枚分です、力尽きましたです!(下のリスト作るだけで疲れました)。誰が誰の役を歌っていようが、もう、どうでもいいです。間違っても、もう一度全曲通して聴こうとは思わないでしょう。ヘンデルでも他に聴くべきものはありますから。

それにしても、今日も暑かったですね。残暑もそろそろウンザリです。

Floridante, HWV 14
序曲
第1幕
第1場 / Scena I
  1. Aria: Dimmi, o spene! (Elmira) 「私に告げてください、希望よ」
  2. Recitative: Oggi di Tracia (Elmira, Rossane) 「今日、勇士であられるトラキアの王子が」
  3. Aria: Godi, o spene (Elmira) 「喜んで、希望よ」
  4. Recitative: Avventurosa Elmira! (Rossane) 「幸運に恵まれたエルミーラ!」
  5. Aria: Ma un dolce mio pensiero (Rossane) 「それでも私の甘い思いが」

第2場 / Scena II
  1. 行進曲
  2. Recitative: Questo de' miei trionfi (Floridante, Elmira) 「これは僕の勝利の」
  3. Aria: Alma mia (Floridante) 「私の魂のお人よ」

第3場 / Scena III
  1. Recitative: Giove, compensator (Rossane, Floridante, Elmira, Timante)「ジョーヴェが、偉業に報いたまうあの御方が」
第4場 / Scena IV
  1. Recitative: Oronte, il Re de Persi (Coralbo, Floridante, Elimira, Rossane) 「オロンテが、ペルシアの王が」
  2. Recitative: Ch'io parta? (Floridante, Elmira) 「私が出立するようにと?」/「私があなたを失うなど」
  3. Aria: Ma pria vedro le stelle (Elmira) 「でも先に私はみることでしょう、星々が」
  4. Recitative: Fammi bersaglio (Floridante) 「さあ、私をおまえの」
  5. Aria: Sventurato (Floridante) 「不運であっても喜べ、置き去りとなった心よ!」
第5場 / Scena V
  1. Recitative: Cinto d'allori (Rossane, Oronte) 「月桂樹を戴いて」
  2. Aria: Finche lo strale (Oronte) 「矢が的に届くまでは」
  3. Recitative: Novo aspetto di cose (Rossane) 「物事の新たな成り行きは」
第6場 / Scena VI
  1. Recitative: Ma viene il prigionier (Rossane, Timante) 「まあ、囚われ人が来るわ」
  2. Aria: Sospiro, e vero (Rossane) 「溜息しています、確かに」
  3. Recitative: Per quali vie lontane (Timante) 「何という人間の思考のおよばぬ」
  4. Aria: Dopo il nembo e procella (Timante) 「黒雲と大嵐のあとには」
第7場 / Scena VII
  1. Recitative: Al primo cenno (Floridonte, Oronte) 「ご指示があるやすぐ、陛下、」
第8場 / Scena VIII
  1. Recitative: Padre, Signor (Elmira, Oronte, Floridante) 「父上、陛下、怒りをお抑えください」
  2. Duet: Ah, mia cara (Elmira, Floridante) 「ああ、僕の愛しの人、貴女がこのまま留まるなら」
第2幕 / ATTO SECONDO
第1場 / Scena I
  1. Recitative: Ecco il vago mio sol (Timante, Rossane) 「麗しい僕の太陽がこちらへ」
  2. Lascioti, o bella (Timante) 「貴女様においてまいります、美しきお方、この顔を」
  3. Recitative: O fortunati affetti miei (Rossane) 「幸運な私の愛情よ」
  4. Aria: Gode l'alma inamorata (Rossane) 「恋する魂は享受します」
第2場 / Scena II
  1. Recitatives: Difficil cosa (Timante, Floridante) 「貴方様と見抜くのは難しいことです」
第3場 / Scena III
  1. Recitatives: Fedele Elmira! (Elmira, Floridante) 「真心篤いエルミーラ!」/「愛するフロリダンテ」
第4場 / Scena IV
  1. Recitatives: Glicon, se sei (Rossane, Timante, Floridante, Elmira) 「グリコーネ、もしそなたが真実を申しているなら」
  2. Aria: Bramo te sola (Floridante) 「僕は貴女のみ熱望する」
  3. Recitative: Oronte un messo (Timante, Elmira, Rossane) 「オロンテが伝言をよこされました」
第5場 / Scena V
  1. Recitatives: Questo e il tempo (Oronte, Elmira) 「これは運命の時である」
  2. Aria: Barbaro! (Elmira) 「残虐なお方、私は貴方に死を望むほど憎みます」
第6場 / Scena VI
  1. Recitative: Convien lasciar libero il corso (Oronte) 「なるがままに任せておくことだ」
  2. Aria: Ma non s'aspetti (Oronte) 「やはり待つべきでない、いや」
  3. Recitative: Ormai tutta silenzio (Rossane, Timante) 「夜も更けてすっかり静寂ですわ」
  4. Duet: Fuor di periglio (Rossane, Timante) 「厳しい魔手の」
第7場 / Scena VII
  1. Arioso e Recitativo: Notte cara - Parmi ascoltare (Elmira) 「微かな動きを耳にしたよう」
第8場 / Scena VIII
    41. レチタティーヴォ:(フロリダンテ、エルミーラ)
  1. Recitative: O facil porta (Floridante, Elmira) 「たやすい扉よ」

第9場 / Scena IX
  1. Recitative: Qual buona sorte (Oronte, Elmira, Floridante) 「何と運の良い!」
  2. Aria: Tacero (Floridante) 「私は黙ろう、だが貴方に叶うことはない」
  3. Recitative: Guardia a costei (Oronte) 「この女に厳しい見張りを」
  4. Recitativo accompagnato: Sorte nemica (Elmira) 「敵意ある運命よ」― 「おまえは災いうちの最悪を」
  5. Aria: Ma che vuoi piu da me (Elmira) 「でもこれ以上、私に何を望むのです」
第3幕
第1場 / Scena I
  1. Recitative: Giunsi allor (Timante, Rossane) 00:55
  2. Aria: No, non piangete (Timante) 03:11
  3. Recitative: O sventurati e vani (Rossane, Elmira, Coralbi) 「ああ、不運で甲斐ない」
  4. Aria: Se risolvi abbandonarmi (Rossane) 「もし貴女が私を見捨てることにしたら」
  5. Recitative: Or mi si svela (Coralbo, Elmira) 「もし貴女が私を見捨てることにしたら」
  6. Aria: Non lasciar (Coralbo) 「任せておおきなされますな」
第2場 / Scena II
  1. Recitative: Elmira, a te … (Oronte, Elmira) 「エルミーラ、そなたのもとへ戻ろう」
第3場 / Scena III
  1. Recitative: Numi, che aspetto … (Floridante, Oronte, Elmira 「まさか、何たる悲惨な姿!」
  2. Aria: Se dolce m'era gia (Floridante) 「僕にとりこれまで甘かったのであれば」
  3. Recitative: Si mora, si (Elmira) 「死ぬことだわ、そう」
  4. Aria: Vivere per penare (Elmira) 「苦しむために生きること」
第4場 / Scena IV
  1. Recitative: Nella vasta, citta (Timante, Rossane) 「広い町ではすでに」
  2. Aria: Vanne, segui 'l mio desio! (Rossane) 「いらしてください、私の願いをお分かりください」
  3. Recitative: Servasi alla mia bella (Timante) 「僕の美しき人のため役立とう」
  4. Amor commanda (Timante) 「愛が命じ」
第5場 / Scena V
  1. Questi ceppi (Floridante) 「この足枷とこの戦慄の場は」
第6場 / Scena VI
  1. レチタティーヴォ:「哀れな、愛する王子様」(エルミーラ、フロリダンテ)
第7場 / Scena VII
  1. Recitatives: Misero amato 「わたしの命令はこのようではなかった!」
第8場 / Scena VIII
  1. Recitatives: S'uccida 「殺されよう」 (Coralbo, Oronte, Timante, Elmira, Floridante)
  2. Aria: Si, coronar vogl'io (Elmira) 「そうです、私は飾りたいのです」
  3. Recitative: Ah! traditor Coralbo! (Oronte) 「ああ、裏切り者のコラルボ」
  4. Aria: Che veggio? (Oronte) 「何を見ている?何を感じる?」
最終場 / Scena ultima
  1. シンフォニーア
  2. Recitative: Fido e guerriero (Elmira, Floridante, Rossane, Timante) 「忠実にして戦い恐れぬ」
  3. Aria: Mia bella (Floridante) 「僕の美しき人、僕は心から嬉しい」
  4. Recitative: La cittade (Elmira) 「町も、王宮も」
  5. Chorus: Quando pena la costanza (All) 「不変の心が苦悶するとき」

[NML]David Hobsonでヘンデルのテノール・アリアを聴く


行き当たりばったりですが、今日はNMLでヘンデルのテノール・アリアを聴いてみました。




ヘンデルのアリアの魅力って何なんですかね。ヴィヴァルディのように、一瞬にして人を捕まえて話さないという類の強烈さはありません。しっとり歌う部分、技巧的な部分、音楽性は多彩です。それでも、感情が発散しないというか、適度の抑制が効いています。底が抜けないというのでしょうか、ヘンデルの性格なんでしょうか。


David Hobsonのテノールを聴いていると、更にそう感じます。綺麗な声です、どこにもひっかからず、歌声がサラサラと流れていきます、声質は軽くどこまでも明るい。彼はオーストラリアで最も有名で人気のオペラ歌手であり、作曲家だと知ると(→公式サイト)成る程なと(オーストラリアについては、何も知らないのですけど)。日本酒でいえば上前如水みたいな・・・。深刻にラメントな淵に落ち込まないだけ、良いといえましょうか。例えば、Judas Maccabaeus, HWV 63 のSound an alarm!など、ハイドン的な管弦楽の伴奏に合唱まで加わって、それなりのカタルシスは得られますか。青空に浮かぶヘンデルつーか。


それにしてもヘンデルです。彼は何と多くの歌劇やオラトリオを作曲しているんでしょう。改めて調べてみて驚くばかりです。バッハと並び称される割には、「ハレルヤ・コーラス」とか「オンブラ・マイ・フ」「水上の音楽」「調子のよい鍛冶屋」くらいしかピンと来ないんです・・・。

2007年9月17日月曜日

[NML]Sarah Connollyでヘンデルのメゾソプラノ・アリアを聴く


ヘンデルのアリアということで、Harry ChristophersとSarah Connolly(MS)によるアルバムも聴いてみました。




アルバムは、Alcina、Solomon、Ariodante、Herculesと、ヘンデルの「英雄モノ」のオペラです。'Heroes and Heroines'とあるように、音楽は多彩。Connollyのちょっと暗い歌声は、英雄たちの悲哀や嘆きを切々と唄っています。


しかし、なんだかちょっと響かない。解説によると(→こちら)ヨーロッパだけではなくアメリカも請われているメゾ・ソプラノ歌手であるらしいんですけど。抑えの効いた歌声がワタシ的にはイマひとつなのか、結局ワタシは、スコーンと抜けた技巧的ソプラノが好きってことなの?それぢゃあ、あまりにも単純なご趣味ではあります。


伴奏のThe SixteenはHarry Christophersが設立し指揮もしているイギリスの合唱とピリオド楽器のオーケストラ(→公式サイト)。こちらも抑制が効いた、そして品のある小気味良い演奏です、イギリス的とでもいうのでしょうか、華やかさや過激さはありません、しかし、悪くはないですよ。


いかにも以前から知っているような書き方していますが、全て今日初めて知った知識です、念のため。

[NML]Yvonne Kennyでヘンデルのソプラノ・アリアを聴く


��D購入意欲も活動意欲も減退しておりまして、今日はNMLでYvonne Kennyの唄うヘンデルのアリアを聴いてみました。私はディープなクラヲにもバロクーにもなりきれない中途半端なリスナーですから、ヘンデルのオペラやオラトリオなどほとんど聴いたことなどないんです。(というか、ヘンデルそのものを殆ど聴いていない!)



何気に聴いてみたものの、これが結構ハマります。


Giulio Cesare in Egitto,HWV17 Act III Scene 7: Da tempesteなど、いかにもバロック的巧的に満ちた曲と言えましょうか。Serse, HWV 40 Act I Scene 7: Ne men con l'ombreも良いです。何を唄っているのかは皆目分かりませんが、こういう快活な曲は単純に楽しめます。いや、いや、しっとりとした曲も素晴らしい。Rinaldo,NMV 7 ActII Scene IV: Lascia ch'io piangaはずっと聴いていても良いです。いやでもしかし、Alcina, HWV 34 Act 8で Ah! mio corと悲嘆に満ちて唄う曲が、本盤の中の一番かなあ。


曲の良し悪しや演奏について評することなどできませんが、ヘンデルって結構聴き所満載なのですね、全く知りませんでした。


Yvonne Kennyはシドニー生まれのソプラノ歌手。1975年にロンドンでドニゼッティの「ロズモンダ」でオペラ・デビューをしています。NMLのラインナップを眺めると録音も豊富です。伴奏のオーストラリア・ブランデンブルク管弦楽団は、決して尖らずに心地よい演奏を聴かせてくれます。


それにしてもヴィヴァルディだって聴いていない曲が沢山あるというのに・・・、困ったものです。

2007年9月16日日曜日

行楽シーズンですね、ということでパキスタン・・・


三連休で東京は天気が良いですね、まだ残暑厳しいですが行楽シーズン到来といったところでしょうか。


さて、日本の総裁選以上にパキスタン情勢が面白いというわけでもありませんが、個人的な覚え書きとして、その後の状況を少し調べてみました。今後もパキスタン情勢について書き続けるわけではありませんよ。




そもそもパキスタンという国は、独立以来アメリカと共同関係にあり、インドとはカシミール問題で対立しています。中国とは友好関係にあり、中国と共同開発している戦闘機のミサイルとレーダをフランスから購入するという記事が1週間前の新聞に出ていましたかね。北朝鮮とは核兵器開発疑惑の関係にありますね。そういうフクザツな国でありながら、日本(当時の小泉政権)は2002年に日パキスタン国交樹立50周年を契機に友好関係の増進を図っています。


1999年の無血クーデターで現ムシャラフ大統領による独裁政権が誕生しています。ムシャラフ政権をアメリカは支持しており、パキスタン政府が「テロとの戦い」としての国際治安支援部隊(ISAF)=多国籍軍の中では、唯一のイスラム国であることは以前書きましたか。


アメリカ支援によるテロ掃討作戦によるイスラム教徒への圧迫が、国内の反ムシャラフ勢力の不満を掻き立てているようです。


さて、そんな中で11月の総選挙に向けて復活を目論むシャリフ元首相とブットー元首相が相次いでパキスタンに戻ろうとしたわけです。シャリフ元首相は、政策的には徹底的に反ムシャラフを貫いていますから、ムシャラフとは犬猿の仲。パキスタンに着いたと思ったら、数時間で国外追放されてしまいました。


一方で、冷静でタフなブットー前首相は、シャリフ前首相のようなオマヌケは避けているようです。ムシャラフ大統領に譲歩と歩み寄りの気配さえ見せながら、復帰を狙っています。しかし、アメリカ筋の新聞を読んでいると、ブットー前首相がムシャラフと組むのか、あるいは敵対するのか、その動向は未だつかめないとしています。特にパキスタンは大統領選を10月初旬に早めました。ブットー前首相が何故大統領選の終わった後(10/18)に帰国するのか、その意図は彼女の陣営はコメントを拒否しています。


ワシントン・ポストによると、ブットーとムシャラフが何らかの取引(ムシャラフ再選支持と帰国のバーター取引)をしているにせよ、両陣営が組むことはどちらにとっても両刃の刃であるように書いています。ムシャラフが現権力を維持するにはブットーの協力が必要なのですが、ムシャラフ陣営はブットーが実現させようとしている民主主義に対して懸念を示しています。彼女のCNNへのインタビューには(何を言っているのか私の英語力ではさっぱりですが)'democracy'という言葉が何度も出てきました。


隣国のインドの人々のパキスタン政局に対する見方は無関心です。どちらが首相になったところで、軍がパキスタンを支配し、最も重要な問題(インド外交、アフガニスタン問題、USとの関係、核兵器、テロリズム)についての決定も軍が継続するだろうとしています。文民支配はパキスタンにおいては実現しないだろうと。ブットー前首相の所属する政党PPPはパキスタン内で大きな支持を得ていますが、インド人のブットー前首相の見方は下記のように冷淡です。



Benazir created the Taliban, J&K insurgency, bought missiles from North Korea and was scam-tainted.


The Times of India:Whatever happens, Pak army will call the shots

16 Sep 2007, 0134 hrs IST,Indrani Bagchi,TNN


ただし、インドにおいてもテロリズムは脅威であり、パキスタンの政情安定はインドも望むところではあるようです。

Pakistan is in for a sustained period of instability as its political dramas play themselves out. It's bad news for India in the longer term, because it gives space for the Taliban, Al Qaida and other Islamist terrorist groups to grow and prosper. India has now become established as one of the target countries of the Al Qaida ― and the current political confusion is not a good sign.


アメリカは、パキスタンに現在の政策が継続されることを望んでいることは言うまでもありません。テロとの戦いからパキスタンが抜けることは、アメリカの大義にとっても非常に懸念される問題ですから。


日本にとってはアメリカというフィルターを通したパキスタン外交というスタンスしかありえませんから、パキスタンを誰が統治しようとインドのエスタブリッシュメント以上に'supreme disinterest'な問題でしかありませんね。

2007年9月15日土曜日

福田氏優勢らしいですが・・・パキスタンについてです


自民党総裁選ですが福田氏が、あっという間に党内シンパをつくり麻生氏を圧倒したようですね。安倍元首相は「テロとの戦い」を主張して、テロ特措法によるインド洋上での海上支援活動を進めることが、自分にとって一番大事なことと判断していました。


しかし、肝心のそのパキスタン政府ですが、現在日本以上に政局は混沌としています。



米国に支えられたムシャラフ現大統領と、7年の国外追放の後に戻ってきたシャリフ元首相*1)。国内の反米意識の高まりからムシャラフ現大統領の国内での支持率は低く、ビン・ラディンの方が人気との報告もあるそうです。2007年11月の総選挙にはブットー前首相*2)も加わります。反米野党がムシャラフ政権を倒し、更にパキスタンがISAF(国際治安支援部隊=国連安保理決議1386号)から離脱したら・・・。まあ、イロイロ複雑なことになるでしょうねえ。パキスタンはずっと親米政権を維持*3)していまいしたが、アメリカにも日本にとってもパキスタンって微妙かと。


そういう意味では、日本の政局よりも興味深かったりします。日本は所詮自民党内での権力闘争、誰がなったって一緒でしょうから。


上記のエントリは、安倍さんがあんなに拘ったテロ特措法について、ヒマだったんで昼休みにネットで調べた*4)程度の知識をベースにしていますから、深く突っ込まないでくださいよ。給油されている燃料の8割が実はイラク戦争に使われているという江田議員の指摘もあったように、ワイドショーで知識を仕入れている方の方がお詳しいかと。



  1. シャリフ元首相は9/10の帰国と同時に国外に再追放されたままです。
  2. ブッドー元首相は10/18に帰国すると発表されています。彼女は帰国に際してシャリフ元首相のようなメにあうことはなさそうです。
  3. パキスタンにとって「テロとの闘い」は国内的にも大きな懸念事項であり、その点はムシャラフ大統領と同じ認識なのでしょう。しかしシャリフ氏のbrotherがTIME誌のインタビューに、次のように語って、ムシャラフ大統領との立場の違いについて言及しています。


    This issue of terrorism is as much an issue for Pakistan as it is a Western issue. But somehow, because of this strained environment, because of his relationship with the U.S., people have come to believe that Musharraf is only an American stooge supporting an American agenda, which is not correct. Extremism and terrorism is Pakistan’s problem, and Pakistan’s job to combat. It is on our agenda, and we must fight it, but fight it differently than how we have been doing.


    Interview: Shahbaz Sharif on His Brother

    Thursday, Sep. 13, 2007 By ARYN BAKER/ISLAMABAD

    http://www.time.com/


  4. 9/15に追記、一部修正しています。

2007年9月3日月曜日

重松清:疾走(上)(下)






救いようのない物語。14歳から15歳の、たかが中学生に、作者がここまで過酷な運命を背負わせたこと。絶望というには生ぬるく、物語は最初からお終いまで、壊れ堕ち続ける短い人生を描きます。ここまで極端なプロットを用いないと、現代の青少年を描き切れない程に闇は深いのかと。重松氏の「言葉」は、誰に届くのか、届いて欲しい人に。


友情が、兄弟が、親子が、夫婦が、家族が、親戚が、人間が、いや「にんげん」が壊れていくということ。絆も関係も消え去り「ひとり」が残る。恐ろしい程の虚空と「孤独」。「孤独」と「孤立」と「孤高」の違いが物語の途中で語られます。「強さ」とは、何に裏付けられた強さなのか。弱さを克服するとは。救いようのない孤独の中で、主人公が求めるもの、叫び、捨てられるもの、あがき捨てきれないもの。


主人公は、徹底的な孤独の中で、いったん「言葉」を捨てます。「風景」さえ捨てる手段を身に着けました。彼が最後のバランスを取って「生きる」ために取った手段だったのかもしれません。彼には兄のような「壊れ方」をする程には人間が安易にはできてはいなかった。まさに「考えたら壊れる」程の体験をさせられても、自分を捨て、そして自分を守りきります。


どんなに不幸だと思う時代であっても、後から考えると、その不幸なこと自体が「幸せ」であったという人生。主人公にとっては、作品評価の分かれる大阪のホテルにおける「地獄」でさえも、まだ最悪ではなかったのかもしれません。あれが取り返しの付かない、かけがえのない「時」であったと気付く時。それを過ごしている時には、絶対に分からない。だから。


言葉に絶望しながらも、しかし、彼は最後まで「言葉」を捨てられない。彼にとっての「聖書」は超越的な存在としての「神」ではなかったのでしょう。「言葉」そのもの。「ことばとはなんだろう」。主人公はかつて問いました。彼が最後のギリギリの場面で聞いたのも、見ず知らずの者の「言葉」。


物語に救いはあったか、彼は、救われたのでしょうか。彼を確かに見守っていた存在。彼の存在そのものを許し、信じていた存在。人生が、ここまで堕ちるほどに、人間がここまで壊れるほどに酷くないならば、いや酷くても、だからこそ信じ、そしてどこかに確かに救いの手はあるのかと。


読んで愉しい本では全くありません。ドストエフスキー*1)の過酷さ*2)は、いつか読み返す気になったとしても、本書を再び読み返したいとは思わないかもしれません。



  1. ドストエフスキーは最終的には魂の救済と神の問題を扱っていたような気がする。重松氏は「旧約聖書」を引用したとしても、宗教に救済を求めたわけではなさそうである。amazonの書評もざっと眺めたが、聖書の「言葉」は読者には「届いていなかった」ように思える。
  2. この小説の「過酷さ」はゲンダイ日本における「過酷さ」であって、これより「過酷な」人生は、実は他にも存在する(した)ハズで、そういう点からは、彼ら主人公さえ「あれが不幸なら、世の中に不幸なぞ存在しない」と言い切る人も、どこか遠い世界と時代には居る(た)かもしれない・・・。ロクに不幸とか絶望を知らないクセに蛇足でしたか。

展覧会:山口晃展「今度は武者絵だ!」




ついこの間、上野の森美術館で「アートで候 会田誠・山口晃展」をやったばかりというのに、今度は練馬区立美術館で再び個展です。NHKの「トップランナー」にゲストとして登場したのも、つい2週間前(8/25)でしたかね。若者ばかりではなく老若男女幅広い層にまで、その人気は当分衰えることがなさそうです。


今日は14時から、山口さんのトークもあるというので、行ってきました。個展の題目は「今度は武者絵だ!」。上野と若干かぶる作品も展示されていますが、目玉は何と言っても「トップランナー」でも紹介された《続・無残ノ介》しょうか。妖刀を手に入れた男の物語。番組の中で、ライブ・ペインティングされた絵が、ロビー正面にデンと据えられいます。



あの、ライブ・パフォーマンスは面白かったですね。キャンバスに向うなり、画面情報に「ダンっ!」とばかりに筆を叩きつける。そして自ら、それで勢いを付けたかのように、画に集中する。最初の筆は何をなぞっているのか判然としません。しかし、次第にそれが人の、しかも刀の妖気に取り憑かれた男を描き出します。筆致は早く、そして的確。アーティストは描く行為そのものがパフォーマンスになるのですね。


《続・無残の介》について、山口さんは番組でこんなことを言っていました。「マンガとは違って、目の前を大きな画(等身大に近いものも)で物語が流れたらどんな感じがするだろう、自分でも見てみたかったので描いてみた」と。全く、自分が描きたいモノを描いているのだなあと。《続・無残の介》の物語は、書くのも憚られるほど「オバカ」な内容で、しびれるくらいにステキです。文字を追うのを辛抱しきれずに、流して観ている人もいましたが、それも一つの見方でしょう。


展覧会の詳細は、TAKさんの「弐代目・青い日記帳」に譲ります。



それにしても山口さんの面白さって何でしょう。チマチマとした細かさを読み解く面白さや、精密にして的確なタッチの快感。人物造型の素直なカッコ良さ。時間軸や空間軸が重層的に重なりあった独特の世界観、古さと新しさの同居した日本人的な懐かしさ、風景、人々。子供のような遊び心、ユーモア、技巧の遊戯とギャップ。確信犯的なテーマ設定と、それを批評する人さえも逆批判する眼。自分の好きなことだけを描き続けてきたというスタンス・・・。


チマチマと評しても無駄です。じっくりと作品を見て、山口さんの「綿飴」のような話を聞き、そしてまた作品を眺め、つくづくと、心の底から、「こいつは~なァ~」と嘆息し、そしてワケも分からずに「クソーっ!」と悔しがり、「今回も、やられちゃったなァ」という思いで美術館を後にするのでした。


でも、ふと思います。山口さんも自分で話されていた「作品の新しさ」ということ。同じ事をやっていたら「マンネリ」と思われる。山口さんが批判し逃れた画壇は、今も彼を無視しているのでしょうか。山口さんは確かに全く別次元を切り開いてしまいました。さてさて、その先には何があるのでしょう。彼の批評精神と、アーティストとしての「稚気」と「毒気」は、彼を利用したい山のような商業(消費)主義と、どう折り合っていくのか。全く興味は尽きません。



2007年8月27日月曜日

残暑をガッティがらみの2枚を聴いてしのぐ


今年の夏は北海道も猛暑でした。本州と変わらないような34度とかの気温に流石にぐったりです。それでも8月中旬になると、めっきりと気温も落ち着いてきて北海道らしく涼しくなったものです。しかし東京に戻ってみると相変わらず30度以上の残暑、結構バテます。


夏休み中はほとんど音楽も聴かず、ぼんやりと無為に過ごしてしまいました。昨日は残暑の中、用あってN区方面を3時間ほどウロウロ。今日は太陽の下に一歩も出る気もせず、部屋の片づけをしたり、本を読んだり、昼寝をしたり、購入しておいた盤をかけたりと、のんびり過ごしました。



CORELLI SONATA DA CHIESA,SONATE POSTUME

Ensemble Aurora, direction & violon Enrico Gatti

A402 - 3464858024026


これはたまたまHMVで見つけて購入しておいたもの。コレッリの教会ソナタなどが納められています。アンサンブル・アウロラとガッティの美音を堪能できますね。



marco beasley,guido morini/il settecento napoletano

Marco BEASLEY Voice,Guido MORINI Harpsichord and musical direction,GATTI Enrico Violin,CROCE Rossella Violin,COMBS Claudia Violin,BECKER Judith M. Cello,ROCCO Stefano Guitar & archslute,PAVAN Franco Theorbo

CYP1649


《ナポリの18世紀-アレッサンドロ・スカルラッティとその時代~カンタータとソナタの世界》と題されたアルバム。こちらもHMVで、ガッティの名前に惹かれて買ったのですが、メインはマルコ・ビズリー。これは明るい、軽い、羽ばたくような歌声にガッティの美音の滴り!ひたすらに!ああ、何て聴いていて気持ちいいんでしょう、しかしイタリア人て奴らは!こういう乾いた暑さ、日本の湿度の多い夏ではなく。

カレル・ヴァン・ウォルフレン:日本人だけが知らないアメリカ「世界支配」の終わり


『日本 権力構造の謎』や『人間を幸福にしない日本というシステム』などの名著で知られるウォルフレンの近著です。


冷戦終結後、アメリカによる世界支配が強まったと日本人は考えているが、そんなことはない。むしろアジアや欧州各国はアメリカから距離を置き始めているし、アメリカの主張してきたグローバリズムだって幻想であったのだよとウォルフレンは主張します。





彼にかかると『フラット化する世界』や『レクサスとオリーブの木』を書いたトマス・フリードマン氏はこの人物の視点はジャーナリストというより、億万長者のものだと評した方が正しい(P.91)となり、ピーター・ドラッカーについては彼がセレブリティであったから日本でベストセラーになったのだと断じます。セレブリティとは一般大衆の大多数が名前を認識できる人々のことであり、広く知られているから有名なのだと説きます。そのセレブリティ文化の中には9.11後にベストセラーとなったフクヤマやハンチントンも含まれます。


つまり、われわれが聞かされる誤った物語を助長する思想というのは、必ずしもわれわれが耳を傾ける必要はない、ただ単にメディアによって生み出された奇妙なセレブリティ文化によって世界的な読者を獲得した人物たちによって創られるということなのである。(P.38)



アメリカなどが進めたグローバリズムとかネオリベラリズムというのは、かつて、より安い労働力を求めて発展途上国の安い労働力を利用して先進国が育ったように、資本的にも投資的にも障壁をなくして、再びアジアやアフリカなどを搾取している構図(侵略的資本主義)に他ならないのだと説きます。


こう書くと、実も蓋もありませんし、陳腐な話題に響くかもしれません。あるいは、本書の内容に違和感を覚える人も居るでしょう。それにしても、彼が言う「間違った物語」について、同調したり反論するメディアは殆ど見られないということ。そもそも「物語の存在」さえ俎上に上らないということこそ、日本では問題なのではないかと常々思っています。


本書の投げかけているテーマは、実際は上に要約したような単純なものでは到底なく、自分的には消化しきれていません。しかし、「アメリカ支配」をどう脱するか、世界とどう日本が向き合うか、ということは古くてしかも極めて現代的にして重要な政治テーマであると思います。

2007年8月26日日曜日

福岡伸一:生物と無生物のあいだ


話題の本らしく、新聞の書評でも絶賛しています。暇な週末でしたので買って読んでみました。噂に違わず面白く、生物学の研究の場に立ち会うような興奮があって一気に読めてしまいます。それでも感想はといえば、amazonの皆さんが書かれている様に、肯定半分、落胆半分といったところでしょうか。


皆さんが褒めているように、確かに福岡さんは文章が旨い。科学的観察には一見似つかわしくない叙情的かつ詩情とノルタルジーさえ感じます。ですから、本書の一番素晴らしいのは実はプロローグとエピローグであったりします。特にエピローグに描かれた福岡氏の少年時代の体験談は圧巻で、そこには生物と時間をいとおしむ、限りなく静かな眼差しがあり、生物学者 福岡伸一の原点が述べられています。





そうなんですね、本書は福岡伸一氏の生物学に対する探求譚なんです。いわゆる先端科学の解説本というには食い足りません。「生物と無生物」の違いに関する説明も用意されているものの、もっと深い最先端の話題を期待して読む人は、大いに肩透かしを食らうことでしょう。


一方で本書を生物学に取り組んだ科学者たちの物語という読み方もできるかもしれません。おそらく福岡氏はサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」や「暗号解読」などを意識して本書を書いたかもしれません。でも、残念ながら、シン程のワクワク感にまでは達していないんですね。


それは、おそらくは、生物学者「福岡伸一」という細胞皮膜を破ることなく、生化学という外部をあたかも膵臓細胞の小胞体が外部を内部に取り込んだように書いたことによるのでしょう。結局は生化学の物語ではなく、福岡氏の物語なのです。ラストの数章が自らの膵臓細胞研究を巡る記述になってしまったのも、全体のコンテキストから考えると違和感を禁じ得ません。ある意味において極めて私的な本と感じたのも、それ故です。もっとも、福岡氏の研究の概要を示すことをリアリティと受け取るか、あるいはテーマの矮小化と捉えるかは人それぞれだとは思います。


それにしても、ここまで鮮やかに理系と文系の両刀を使いながらサイエンスものを書く力量があるのならば、福岡氏の他の本も読んでみたいという気にはさせてくれます。



それにしても、不確定性原理を発表したシュレーティンガーの「原始はなぜそんなに小さいのか」という問いかけ。生物や無生物の構成物質が原子や分子であるとして、それらの振る舞いが確率論的にしか定まらないということ。そのような不確定な粒子あるいは波動から物質が成立しているということ。分子レベルでは、生物は数日のうちに全く入れ替わってしまうということ。


今更の知識ではあるものの、やはり改めて考えると不思議以外のなにものでもない。いかにして秩序は造られたのか・・・。

2007年8月11日土曜日

ピカソの絵が戻る!


盗まれた絵があれば、取り戻した絵もあるということで。取り戻されたのは、ピカソの孫娘宅から盗まれていた油絵2点、デッサン1点。総額80億円なのだそうです。(AFPBB News)



仏警察内の芸術品盗難を専門とするOCBCに美術関係者から通報があったことで、今回の逮捕につながった。また、重要犯罪を扱う内務省の特別捜査チームBRBも捜査に協力した。


少しGoogle Newsで検索してみました。






‘Portrait of Jacqueline’, painted by Picasso in 1961 and ‘Maya with Doll’ which depicts the owner’s mother


今回の犯人達は、ある筋からの情報により、追跡されていたのですとか。Telegraph.co.ukによりますと、犯人達は(絵画を納める)プラスチック・チューブを背中に括りつけていたらしいのですが、姿格好からバレてしまったらしいですね。


As they looked like anything but Beaux-Arts students, we nabbed them straight away.


もうちょっとそれらしい、格好をしていれば良かったものを(苦笑)。


作品は良好な状態で発見されたと当初報道されましたが、今日になってうち、「ジャクリーヌ」には明らかに破損が確認できると変化しています(AFPBB News)。写真を見ると折れ曲がっていますね(;_;)





召AFP Eric Fefferberg

、筅ヲー捏elegraph.co.ukから拾ってみましょう。


The two paintings were indeed in the tubes, but the dimwits had rolled them so tightly that they had made the painted surface crack,


と書かれています。ABC NEWSによると、


The Portrait of Jacqueline has been slightly marked, but should be easy to restore.


Maya with Doll, however, suffered some cracks and shows signs of being roughly removed from its frame.



ということらしいです。AFPBBと報道内容が微妙に違っているのが気になります。警察当局はprofessional dealers in stolen goodsと称していますが、本当にプロ集団なんでしょうか。BRBのLoic Garnier氏が言うように、


This wasn't an amateurs' job, but I can tell these people were not art lovers."


というのは本当でしょう。OCBCのBernard Darties氏が以下のように嘆くのも頷けます・・・。


It is a sign of ignorance and stupidity to do such damage to works of art - these are unique pieces


まあ、無事戻っただけ良しとすべきか。絵に保険は入っていなかったようですが。さてさて、モネやシスレーは何時戻るでしょうか!

2007年8月10日金曜日

柳原慧:いかさま師


毎度楽しみに読んでおります《弐代目・青い日記帳》で紹介されていた柳原慧氏の「いかさま師」を読んでみました(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1087)。


柳原氏は第2回『このミス』大賞受賞作家です。読むのは初めてですが、人物造形、ストーリーを含めて、あまり私の好みではありませんでした。内容に関する言及はミステリーですからいたしません。それよりも面白かったのは、彼の着眼点であるラ・トゥールにまつわる記述でしょうか。







��ラ・トゥールの)市民からの評判は極めて悪く、税金の徴収に来た役人の尻を蹴飛ばしたり、召使に豚を盗ませたりと、清廉な絵からは想像もつかない、俗っぽい人物像が、まことしやかに語り伝えられている。(P.72)


人間の持つ二面性、欲望と騙しあい、あるいはサバイバル戦略。ここら当たりが小説のテーマにもなっているようです。


私は高校時代(かれこれ30年前?)は美術部に所属していましたので、学校の図書館にあった美術全集などはひととおり眺めていました。ですからラ・トゥールについても独特の画風で印象(→Wikipedia)で摺り込まれていました。それでも、他の画家ほどに魅力的に感じなかったのは、陰影に富んだ独特の画風が、ひとつのパターンに陥っているように思えたせいでしょうか。それこそダリの言うようにただの「ろうそくの画家」という意味で。


「いかさま師」(→Wikipedia)や「女占い師」という作品の存在にまでは気づかなかったのですね。いや、目にはしていましたが、そういう風俗画に興味が向かなかったのでしょうね。ラ・トゥールは2005年に東京で大々的な展覧会が開催されました。私は残念ながら!見逃してしまいました。ただの「ろうそくの画家」という認識の中にありましたので、積極的に食指が伸びなかったのです。今思えば残念なことをしたものです。


柳原氏がラ・トゥールの二面性を題材に、主人公やその人生の光と影、二面性を織り交ぜたという点においては極めて秀逸なミステリーに仕上がっていると思います。美術界や贋作に関する話題も非常に意表をついていてナイスです。柳原氏は日本大学芸術学部のご出身ですから、こういった着眼点の確かさを感じます。


ただ、最初に書いたように、人物造詣などには堀の深さが認められず、ちょっとプロットに走りすぎている気はしました。

2007年8月8日水曜日

またしても、名画盗難!!

弐代目・青い日記帳によりますと(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1099)、フランスのニースにあるジュール・シュレ美術館から、モネ、シスレー、ブリューゲル(父)の作品が白昼堂々盗まれたらしく。



Googleで海外の新聞をいくつか検索してみましたが(>英語、読めないけど)、経過は上のごとくで、まだその後の記事は出ていないようです。この美術館からモネやシスレーがこの美術館から盗まれたのはこれが初めてではないとか。


美術館の防犯について疑義を呈する論調もありますが、覆面ガンマンが「伏せろ」って言えば、フツー伏せちゃうよね(;_;)


ネット上では盗品4点のうちモネの絵の画像が多いようだけど、作品としては少しボーっとした印象。ブリューゲル(父)の絵は、対になった寓話のようですね。シスレーの画像を掲載している記事は少ないのですが、いかにもシスレーらしい明るい絵、素直に幸せになれますね。


takさんも引用されているように、Guardian(by Kim Willsher)によれば、


Investigators believe the paintings, described as of "inestimable value" by the museum, were almost certainly stolen by "special order" and destined for a private collection as they are far too well known to be sold on the open market.


なんだそうで。この"special order"とか"private collection"というのに、一般人は非常に興味をそそられますが、そんなミスターXなんて存在しないと言い張る人も居ます(→『ムンクを追え』)。


International Herald Tribune(AP)によると、モネは最も盗難にあっている画家であり、盗品データベースでは53がリストアップされているそうな。更に、盗難の規模はFBIの推定によれば、


the market for stolen art at US$6 billion (€4.7 billion) annually. The Art Loss Register has tallied up 170,000 pieces of stolen, missing and looted art and valuables.

なのですとか!! まあ、絵の価値なんて、なんだかわけの分からないものを相手にしての金額ですが、それにしてもイヤハヤ。


盗難の理由はなんであれ、あのムンクだって2年経って発見されたのですから、今回も見つかることを祈るばかりです。


最近、これもtakさんのところで紹介のあった柳原 慧の「いかさま師」を読んでいたもので・・・反応してしまいましたが、美術の裏社会は深く暗く興味深いですね。

2007年8月6日月曜日

[NML]ヴィヴァルディ RV626、RV 601

NMLにヴィヴァルディのRV 626とRV 601があったので聴いてみました(CHAN0714X



演奏のPurcell Quartetは1983年に設立されたイギリスの古楽楽団。50以上のレコーディングがあり、幅広いレパートリーで活躍しているようです。1998年にはモンティヴェルディの最後のオペラ"L’Incoronazione di Poppea"で来日し、その後も10年近く日本とは深い関係にあるようです。いずれにしても実力派団体(→Bach Cantatas Website)。


Catherine Bottは1952年英国生まれのソプラノ歌手。彼女もシドニーのAustralian Brandenburg Orchestraを伴ってヘンデルのアリアの日本公演を果たしているらしく。古楽分野を中心にフォーレやヴォーン・ウィリアムスなどの作品でも活躍のご様子。


NMLのラインナップでもCHANDOSの録音を結構聴くことができるようです。(→Bach Cantatas Website)(写真はHyperionより


で、演奏ですが、先に聴いたピオーとはやはり全然違う。こうして聴いてみると、naiveエディションはかなり扇情的とも言える危険なバロックであると改めて思います。RV 626の一曲目を聴いて金縛りにあうこともなければ、RV 601で絶賛した'A solis ortu usque ad occasum'も美しい曲ではありますが、陶然とするほどではない。逆にブロック・フルーテ(Stephen Preston)との'Gloria Patri et Filio et Spiritui sancto'もピオーとは趣は違いますが、これはこれで絶品でしょうか。ラストの'Amen'も神々しいくらい素晴らしい。最初は何だか「もったり」した印象だと思ったのですが、繰り返し聴いていると、この演奏も気に入りましたよ。


ピオーとボットの表現の違いとともに、やはり伴奏、すなわち音楽の指向性の画然とした違いが大きいかもしれません。しかし、モテットとか詩篇というような教会音楽には、このくらいの落ち着きと大人しさが相応しいかもしれません、聴くたびに心を乱されてはかないませんからね。

2007年8月5日日曜日

Vivaldi In furore,Laudate pueri e concerti sacri








  1. モテット『正しい怒りの激しさに』 RV626
  2. シンフォニア ロ短調 『聖なる墓にて』 RV169
  3. 詩篇『主の僕たちよ、主を讃えよ』 RV601
  4. ヴァイオリンとオルガンのための協奏曲 ニ短調 RV541
  5. ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『聖ロレンツォの祝日のために』 RV286


  • サンドリーヌ・ピオー(S)
  • アカデミア・ビザンチーナ オッターヴィオ・ダントーネ(cond)
  • naive op 30416



一年ほど前に、古楽系ブログで話題になった盤で、今更の感もありますが、聴いてみて感じたことを簡単に書いておきましょう。声楽を伴わない器楽曲も納められていますが、やはり聴くべきはサンドリーヌ・ピオーの歌声です。



  • 『はた迷惑な微罪』 2006.07.20 ~まさに激しさと、華麗さで、これぞイタリア・バロックの醍醐味
  • #Credo 2006.07.23 ~ヴィヴァルディらしい激情型の音楽でカッコよくて聴き応え十分です。ほとんどコロラトゥーラ・ソプラノ@夜の女王みたいじゃない
  • ロマンティク・エ・レヴォリュショネル 2006.07.27 ~CD屋で試聴して、一瞬で身が凍りつきました。
  • ぶらぶら、巡り歩き 2006.9.04 ~宗教曲がこんなにも劇的なものだったのか
  • Takuya in Tokyo 2006.9.10 ~特に付け加えることもありません。 素晴らしいの一言です。


激しいばかりがビバルディではありません。刺激だけなだけが現代バロックでもありません。厳かにして幽玄な部分の信じられない程の美しさと静謐さ、そして神聖さ。この俗と聖の両極端に足を踏み入れ、聴くものの心情をこれでもかというくらいにかき乱す。ヴィヴァルディの多様さと表現力の幅の広さを思い知る一枚です。

まずはRV626モテット『正しい怒りの激しさに』から3曲。


冒頭のアリアからして、度肝を抜かれ、鳥肌ものです。伴奏はスピーディーでキレが良く現代的な演奏。それにピオーの超絶的な歌声が、神聖にして厳かに、それでいて驚くほどの透明性と軽やかさを兼ね備えて飛び回ります。ほとんど奇跡の歌声。繰り返されるヴィルトオーゾ的な部分と中間部の美しさの対比の見事さ。この1曲だけでもはや脱帽。


��曲目は一転して、オルガンに乗った厳かな短いレチタティヴォ。そして、いかにも、そういかにもビバルティ的な弦の伴奏に導かれて'Tunc meus fletus'(Then my tears will be turned to joy)が唄われます。まさにsorrowfulとかpatheticとしか表現しようのない唄は、ソプラノのハイキーがはかなげで、そしてその敬虔さに涙をさそいます。


悲嘆と望みは、'Alleluia'で解放されます。メリスマティックな技巧も、ほとんど聴いていて口があんぐりな状態です。この歌声の軽やときたらどうでしょう。突然にソプラノの限界とも思えるキーがポンと出てきて、最後は軽くスパイラルアップ!敬虔にして耽美で快楽的。聴いていて背中に汗が流れてしまいます。kimataさんが18世紀前半の夜の女王と書いていましたが、まさにです。


続いてはRV601詩篇『主の僕たちよ、主を讃えよ』。


'Laudate pueri'(Prise the Lord)は、Allegro non moltoながら、上下する音符、惜しげもなく使われる高音、そして、長調が表現する喜びと明るさに満ちた、聴くだけで幸福になれる曲。


それにしても、3曲目の'A solis ortu'(From the rising of the sun to the going down of the same...)の美しさときたらどうでしょう。昇る太陽を象徴するかのように静かに刻まれる弦にのって、どこまでも伸びやかなピオーの歌声が被ってきたときには、ほとんど奇跡のような・・・と書くのが陳腐すぎるくらい。最初のロングトーンの美しさだけで確実に泣けます。体中に喜びと幸福が溢れます。最後の高音では脳内ホワイトアウトです。激しい曲もいいのですが、私はこの曲が文句なしにイチ押しです。


シリチアーナのリズムに乗った'Excelsus super omnes'は厳かな祈りか。雰囲気が変わっての'Suscitans a terra'は、ザクザクとした弦の軽快な伴奏にピオーのソプラノが勢い良く歌われます。カンタービレとビルトオージック部分が交互に歌われ、至福の時間もあっという間。


'Gloria parti'はフラウト・トラヴェルソの音色が印象的。モダン・フルートとは明らかに違う暖かな音色は、包み込むようで、ピオーの歌声もトラヴェルソと対話するかのように、しっとりと歌われます。


最後は明るく'Amen'です。中間部のAmenと歌うメリスマティックな技巧の凄まじさよ。波状攻撃の高音、限界までスパイラルアップする吹き上がりとヌケの良さ!まさにヴィヴァルディの面目躍如と言った曲。最後にこれを聴くと、ああヴィヴァ聴いたなあと大満足です。

2007年8月4日土曜日

映画:魔笛


ケネス・ブラナー監督の映画「魔笛」を、新宿テアトルタイムズスクエアで観てきました。「魔笛」が映画でどのように変化させられているのか興味ありましたし、いちおうクラファンを装っていますから・・・。


しかし、私が良く訪れるクラ・サイトではいまひとつ評判は芳しくない。



  • Takuya in Tokyo~正直結構退屈でした。(中略)モーツァルトで一番大事なのって、「ラブ&ピース」っていう「結論」では必ずしもない気がするんですね。
  • ロマンティク・エ・レヴォリュショネル~「なるほど」と感心した面と、「何だかな」と思った面と、半々といったところ。
  • オジ・ファン・トゥッテ♪~最終的には「愛と平和」に落ち着いてしまうという平凡な結末に不満も感じますが(中略)舞台表現の限界を超えています


といった具合です。私はDVD含めて「魔笛」舞台映像に接したことはありませんから、オペラ演出と比べて云々というとは全く語れません。それでも、これって、モーツァルトの音楽かなあと観ながらにして思ったことは確か、歌詞も英語ですし。


舞台が第一次世界大戦とパンフなどに唄われていますが、それは本当の世界大戦ではなく、対立する二つの集団の武器や衣装などをその時代から借用した程度の使われ方。戦車も飛行機もオモチャのよう。これには全く予想を裏切られます。まあしかし戦争映画を観たかったわけではありませんから、それもいいでしょう。


シカネーダによる台本の捩れは、映画でもそのままではあります。それでも原作以上に善と悪、暗と明、夜と昼、戦争と平和、対立と愛みたいな構図がひどくキッパリと区分されすぎていて、不可解な矛盾までは表現されていません。「魔笛」の一番の肝の部分が換骨脱退されているような・・・。愛だとか平和のようなテーマとモーツァルトというのも、少し馴染みません。モーツァルトってもっと、欲望と人間くささに満ちていますからね。


音楽も聴いていて、ちょっと疲れますね。台詞がほとんどなく、ひたすらにアリアが続きます。それが映画館の誇張されだドルビー音響で鳴らされるので、ちっとも心地よくありません。


ぢゃあ、観て失敗だったかと言うと、まあ、そうでもないかなと。音楽が元になった映像イマジネーションという点では、なかなか面白いと思いましたよ。それらを列記すると・・・


  • 序曲が始まり明るい太陽とまぶしいばかりの草原で繰り広げられる、戦闘シーン。クラシック音楽と戦争シーンてどうしてこんなに合うのでしょう。
  • タミーノが塹壕のなかで突然歌いだすのには、ビックリ。おお!これはミュージカルであったかア!!(>私はミュージカルは苦手であります。サブイボが出ます)
  • 夜の闇中、看護婦姿(?)三人の侍女が空から登場!「私が見張っている」の部分で、自らの衣装をむしりとってバストアップされた胸を強調するシーン!にドキィ!!
  • 夜の女王(リューボフ・ペトロヴァ)が戦車に乗って登場!!「怖がらなくてもいいのです」って、怖いよ!!小林幸子か?
  • 夜の女王の第一幕のかの有名なアリアのシーンの凄さ!画面左に鼻から口の横顔がドアップ、パクパクする口から菱型戦車MkIVらしきものが(→参考)蟲のようにゾロゾロと!!
  • ザラストロの衣装が作業服みたいなのは何故? 某独裁国家の独裁者のイミテーション??
  • またしても夜の女王の第二幕の復讐のアリア、今度は空を飛ぶ!それも、空気を一杯に入れた風船のように物凄いスピードで!!これを笑わずに観ることを耐えられましょうか!!このアリアを聴くたびに、このシーンを思い出してしまうかも・・・

  • ポスターにもなっている、第二幕のパパゲーノのアリアのシーン(右)の美しさと至福さ!カラフルな鳥のような衣装を着た女性たちが空から、すうっと降りてくるんですから。そしてその後の、バカバカしいまでにでかい唇。まるでB級ドタバタ劇のようなノリ>笑えねー(^^;;
  • パパゲーノがパパゲーナをゲットして「子供を作ろう!」って二人して寝床を用意しているのに、三人の童子があどけない顔で横に居てはイケマセん!
  • 終幕の一つ前、夜の女王、三人の侍女、モノスタートスが最後の登場をするところ。垂直に近い城壁みたいなところを、フリークライミングしている! そして、嗚呼・・・! なんだか、遠いムカシの「ひょうきん族」を思い出したり・・・




という具合にツッコミところ満載です。基本的には感動の物語というよりも喜劇ですかね。役柄的には、ザラストロ(ルネ・パーペ)が立派過ぎるので、こちらはあんまり突っ込めない。タミーノとパミーナも、そっとしておいてあげましょう。



  • 音楽監督・指揮:ジェイムズ・コンロン/ヨーロッパ室内管弦楽団
  • タミーノ:ジョセフ・カイザー
  • パミーナ:エイミー・カーソン
  • パパゲーノ:ベン・デイヴィス
  • パパゲーナ:シルヴィア・モイ
  • 夜の女王:リューボフ・ペトロヴァ
  • ザラストロ:ルネ・パーペ
  • モノスタトス:トム・ランドル
  • 三人の侍女:テゥタ・コッコ、ルイーズ・カリナン、キム=マリー・ウッドハウス

2007年7月29日日曜日

映画:インランド・エンパイア


恵比寿ガーデンシネマで上映されていた、デイヴィット・リンチ監督の『インランド・エンパイア』を観てきました。私は映画ファンではありませんので、前作『マルホランド・ドライブ』は観ていません。学生時代に『イレイザーヘッド』(1976)、『エレファント・マン』(1980)を観ましたが、全く理解不能で気分が悪くなったことを思い出します。TVでブレイクした『ツイン・ピークス』、これはハマりました。しかし意味の半分も理解していましたか・・・。


で、3時間にも及ぶ本作です。かなりスリリングな映画で、次の展開が全く読めませんからぼんやりと寝ている暇なんてありません。目をつぶったら最後、自分が今眼にしている映像が、何時の時代で何処の場所の物語なのか、誰が出ているのかさえ分からなくなってしまうかもしれないのですから。



映画解説や雑誌には、錯綜する五つの物語が重層構造的になって展開するように説明されています。次第にこれは、ハリウッドの世界だとか、ポーランドの何処かだとかは分かってきます。しかし、それが分かったところで、何になるというのでしょう。作品の振幅は大きく、ゆらぎ、そして時空ごと乱れていきます。


一体に、主役である女優ニッキー(ローラ・ダーン)は何歳という設定なのでしょう。それ程の美人ではないので、映像のアップを眺めるのはかなり苦しい(そもそも、人物アップがとても多い映像)。それでも役によってめまぐるしく変わる彼女の風貌は、作品に得も言われぬ深みと、ある種の厚みを与えていました。


��Vを観て泣く女、冒頭から陰鬱です。何故に泣いているのか、彼女は何を観ているのか。最後にその謎らしきものが分かります。しかし、その「解釈」とて、彼女の復讐と救済の物語だったなんて考えると、途端に白けてしまいます。それだったら今までのフリは、この3時間は一体何だったの!と。


泣き女は救われたとしても、ぢゃあ、ニッキーは救われないのか?確かに救われませんね。あのラストの脳天気さにカタルシスを感じますか?ヤケっぱちささえ感じますが・・・脳天気に踊っているのは彼女ではありませんよね。彼女は、何事もなかったかのように、いや、全てを経験したかのように、微笑みながらソファに横座りしています。あの浮浪者に看取られての「死」のシーンは強烈でしたからね。


それにしても、これは女性の物語です。リンチは本作をabout a woman in trouble, and it's a mystery, and that's all I want to say about it.と語っているそうです。womenではなくA womanですから、ニッキーを指しているのは自明でしょうか。それでも登場する女性達の運命は、それぞれです。男性も登場しますが、支配的で性的にして暴力的という描かれ方に終始し、女性の送る人生に比べ刺身のツマ程度の役割しか果たしていません。夫なのにツマとはこれいかにです。そのツマが女性の運命を暗くも明るくもします。娼婦たちの退廃した明るさは儚くもエロティックで、しぶとく、強く、そして美しい。助監督のズルさとは対照的です。


いや本作に意味や物語を求めるのは野暮でしょうか。自らの行動の曖昧さ、現実と幻想の、現在と過去の溶解。重なり輻輳する人生と突き動かされる内なる衝動、崩壊。催眠と無意識。行動には結果が伴うという蓋然と偶然。愛とエロス。生と死。それらにノイズとノスタルジーが被さり、茫と霞んでゆく・・・。


音楽はキャロル・キングの「ロコモーション」がベタで印象的。ベックやペンデレツキなども使用されていたようです。私は映像と合わせて、ずっとノイズが鳴っていたような気がしています。いや、映像そのものが、壮大なノイズであり混沌。生半可な解釈はやはり不要でしょうか。


��S.
ペンデレツキの何と言う曲が使われていたか知りませ。NMLでヴァイオリン・ソナタを聴きながらレビュを書きました。ペンデレツキ!いいぢゃないですかっ!(>いちおうクラ音楽ブログだしね)


2007年7月23日月曜日

スティーブ・ジョブズ-偶像復活



この本をどのような目的あるいはコンテキストに当てはめて読むかで読後感は変わるかもしれません。Appleの創業者にして最近のiPodのヒットをとばしたジョブズの波乱に満ちた半生を一気に読ませる筆致で描いて見せた作者の力量は見事です。多少の誇張やジョブズに対する偏見が透けてみえようとも、とにかく本書は圧倒的に面白いのです。


ビジネス書として読んだ場合、彼の性格や行動が破天荒であり天才的過ぎるので、一般人が参考にできることは少ないというアマゾンの読者レビュも目にします。





まあ、それはそうでしょうが、先に紹介した「ビジョナリー・カンパニー」や「ビジョナリー・ピープル」を思い出しながら読んでみると、ケーススタディとして結構面白く読めます。


ジョブズはアップル創業前に、スティーブ・ウォズニアックという天才と強引にコンビを組みます。


ブルーボックスという成功例もあるのだから、また、何かを作って売れるんじゃないかと思われた。問題は、その何かとは何なのかだった。
(P.50)


これなど、まさに「まずバスに乗せる人を決め」てから行く先を決めるという「ビジョナリー・カンパニー2」の指摘そのままです(残念ながらAppleはビジョナリー・カンパニーとしては選定されていません)。


スティーブ・ジョブズは、家庭やオフィスにコンピューターを売ることを通じて世界を変えられるというビジョンを提示した(P.75)


これは「ビジョナリー・カンパニー」で提唱された基本理念やBHAG(Big Hairy Audacious Goals=のるかそるかの冒険的な目標)に当たるものでしょうか。ジョブズは自分が具体的に何をするのかについては紆余曲折するものの、自分がどうありたいのかは理解しており、そのことに驚くべき情熱とエネルギーを賭けたことが分かります。


こうしてジョブズを考えてみると、経営トップの中には、ジョブズ的な性格を有している人も少なくはないでしょう。それであっても、誰もがジョブズにはなれないという事実、ジョブズはジョブズでしかない。ジョブズのような才能は、世界でも極めて稀であり、それ故にiCON=偶像になったわけです。彼の考え方や生き方をマネてもジョブズにはなれないんですよね。



本書の主眼がジョブズの人間的成長という面に重きを置いているとしたならば、それは成功しているといえましょう。ジョブズを知る上では格好の書です。でも、何故Appleが魅力的なのかは、依然として謎のままです。


また、ジョブズがAppleに果たした役割についても(それは映画会社pixerについても同様です)、かなり限定的な描かれ方をしています。それでも、パーソナル・コンピューター、アニメーション映画、音楽の三つの業界で多大な影響力を与えたのはジョブズの手腕であると説明しています。


デザイン・センス、卓越したプロモーション能力、論理を超えた直観力、組織を導くカリスマ性だけでは数十年に渡り、巨大な組織を率い、消費者を惹きつけておくことはできないハズです。そこのところが本書の記述からはクッキリ見えてこずに、少しもどかしさを感じないわけではありません。

2007年7月21日土曜日

美しい国へ、とてつもない日本




参院選真っ只中、自民党がどこまで議席を確保できるかが焦点になっているようです。「美しい国へ」を書いた安倍政権は支持率が低下しており、指導力不足からか、どうも人気がないようです。対する麻生氏はどうでしょう。「アルツハイマー」失言*1)で足元を掬われなければ良いですが。

実は私は期日前投票を既に行っています。どこに投票したかは明言しませんが、「積極的に投票したい政党や候補者がいない」という事実と、政治に対する期待度の薄さに、このままでは日本はマズイのではないかと思っています(>かといって具体的な行動は何もしませんが)。

政治家として安倍氏と麻生氏を比べるつもりはありません。それでも両者の本を読み比べると彼らが政治家として何をしたいのかは良く分かります。二人とも日本を立て直したいという点では一致しています。ということは日本は「ダメ」な国になってしまったのでしょうか。

だとすると、それは一体いつに比べて「劣って」いるのでしょう。近代国家成立以降であるならば、日清・日露戦争に勝利した明治から大正時代ですか、大東亜戦争の時代ですか、あるいは終戦処理とその後の経済的復興の時代でしょうか、いや「JAPAN AS NO.1」と呼ばれた時代でしょうか、はたまた・・・。

考えるに、日本が世界に対して大きな発言力を有していた時代、あるいは日本の去就に世界が注目していた時代というのは、過去にあったのでしょうか。トヨタやソニーを始めとする日本を代表するメーカーは、品質、コスト、そしてブランド力など海外に大きな影響力を与えました。しかし経済的効果から離れて、国際政治的な面での日本の影響力を考えたとき、日本は海外からどう見られているのでしょう。日本は本当に「落ちた」のでしょうか。

麻生氏は日本も捨てたものではない書きます。失った自信を取り戻させようとするのは結構なことです。日本の一部の人たちは歴史的には自虐的な過去を、国際間においては米国追従を嘆く姿勢に傾きがちです。では、日本はどの分野においてリーダーとなりたいのでしょう。日本としての存在感を、どこで出したいのでしょう。麻生氏はサブカルチャーなどは日本発で世界が注目していると説きます。またアジアにおいてしなやかなネットワークを作りたいと書きます。

それもいいでしょう。日本経済新聞を読んでいますと、日本が狭い国内の豊富な消費力に甘んじいる間に、グローバルな標準からズレてしまい、国際的な競争力を削いでしまったという論調が目につきます。日本がモタモタしている間に、韓国、中国、インド、ロシア、そして北欧などの諸国が凄まじい勢いで力を付けてきいます。結果的に高度な技術力があるにも関わらず、日本の地位は相対的に低下しているのだと。

��月に中国に仕事で行きました。読むのと見るのでは大違い、中国の目覚しい発展ぶりには度肝を抜かされました。それも20年前の卒業旅行依頼の中国訪問でしたから、その差異は尚更でした。他の国々も程度の差こそあれ同様なのでしょう。

そういう変化の激しい状況の中にあって、日本は国際的にどういう地位を占めたいのか(国連の常任理事国になりたいとか、そういう表層的なことではなく)。ビジョンからブレイクダウンして日本の国内政策はどうあるべきなのか。こういう問題は経済主導ではなく、やはり理念=政治の問題だと思うのです。国家も企業も個人も、その点での行動原理は同じであるように思えます。

麻生氏も安倍氏も、本に書いてあることは簡単な言葉で書かれていますから理解はできます。異論もありますが許容範囲内でしょうか。しかし、そこからさらに大きな枠組みや物語が伝わってこないのは残念です。

日本は国際社会の中で何をしたいのか、日本国の「生きがい」は何なのでしょう。日本はビジョナリーな国なんでしょうか、経済発展においてではなくてですよ。

  1. 麻生外相は、国内の農産物が高いと思われがちだとしてコメの価格に言及。1俵1万6000円の日本の標準米が、中国では7万8000円で売られているとしたうえで「どっちが高いか。アルツハイマーの人でもわかる。ね。こういう状況にもかかわらず、中国ではおコメを正式に輸入させてくれませんでした」などと述べた。(7月19日 朝日新聞電子版より)











2007年7月18日水曜日

ビジョナリー・ピープル



ビジョナリー・カンパニー 時代を超える生存の原則』と『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』が極めて秀逸な本であったので、本書も期待して読んでみました。著者のジェフリー・ポラスはスタンフォード大学ビジネススクール名誉教授、「ビジョナリー・カンパニー」の著者の一人でもあります。


ところが訳がマズいのか、なかなか読み進められない。その上、前著に比べて今ひとつインパクトがありません。紹介されている人物が、日本人には余り馴染みのない人で占められているため親近感が沸かず、自分に引き込んで読めないという点もあるかもしれません。





ビジョナリー・ピープルとは、時の人や浮き沈みのあったカリスマ的リーダーではなく、自分自身の成功を定義し、最低20年以上その分野で長く続く影響を与えられるようになった人とされています。多くのリストから1000人に絞込み、最終的に200人を越える人とのインタビューを行ったそうであります。途方もない労力の結果、本書が出来上がっています。


私はこういう本を読むにつけ、「ビジョナリー・カンパニー」を読んで感じたように、このような研究に、これほどの綿密な計画と労力を払う人種と職業があるということ、そのことに驚きと感動をまず覚えます。


さて、内容はそれほどインパクトがなかったとは書いたものの凡作ではありません。紹介されているビジョナリーな人物が持つ楽天性、前向きな性格、そして情熱には、ほとほと参ってしまいます。間違っても私はビジョナリーな性格を有していないなと思い知らされます。


彼らには人生の意義が明確に見えており、自分が何をすべきか分かっています。「成功」を明確に定義しており、自分の内実と不連続なものとしてそれを位置づけています。


本書の第二章冒頭に書かれている次の言葉は、働くものや、働かないでいる者にとっても深く突き刺さります。


最近は、自分のしていることを好きになるのが大事、という議論が盛んになっている。(中略)多くの人たちにとって、本当の生きがいというのは、そうあって欲しいという感傷的な空想で終わってしまう。


実はこれが問題で、自分の大好きなことをしないのは危険なのだ。自分のしていることに愛情を感じない人は誰であれ、愛情を感じている人にことごとく負けてしまう。(P.54)



おそらく、これは極めて真実なのでしょう。しかし、それを実現できている人は、いったいどれほどの割合なのかと。本書を読み通して、そこに描かれていた人物の生き様を知った後で序章の次の一文を再読すると改めてハッとするはずです。


つまり、長期間にわたって続く成功と密接な因果関係があるのは、個人にとって重要な何かを発見することであって、企業にとっての最高のアイデア、組織構造、ビジネスモデルではない(P.9)


ここで定義される「成功」とは富や名声や権力のことではないことは勿論。


ビジョナリーな人にとって、成功の本当の定義とは、個人的な充実感と変わらない人間関係を与えてくれる、そして自分たちが住んでいるこの世界で、自分にしかできない成果を上げさせてくれる、そんな生活や仕事のことだ(P.30)


さて、自らに問いかけたとき、いかがか・・・。

2007年7月17日火曜日

サイモン・シン:暗号解読

絶妙の筆致で読ませてくれたサイモン・シンによるフェルマーの最終定理に続く、暗号解読にまつわるドラマです。なんといっても、あれだけの数学的難問にまつわる物語を、感動さえ与えながら数学の歴史と人間ドラマとして仕立て上げたサイモン・シンです。本書の面白さは「読めば分かる」としか言い様がありません。amazonのカスタマーズ・レビュも現段階で47もあることが、それを裏付けています。分厚い本が、またたくまに繰られていく、これぞ読書の快楽。

暗号作成に素数や量子論までが使われているなどということが、いままで雲を掴むような話だったのに、いとも簡単なことのように思われてしまうところがシンの凄さでしょうか。難しいことが難しく書かれていない、分かりやすく本質的で、そしてワクワクするほど面白い。技術紹介は、無理に「引き下げ」ているわけではなく、そういう技術や技術者に対するリスペクトが感じられます。

暗号作成者と暗号解読者の「暗号文」をめぐっての激闘、それに戦争の持つもう一つの姿、コンピューターテクノロジーを含めた科学の進歩の歩みをあぶり出します。そして技術論や歴史を描きながらも、しっかり人間を描いているところに感動があります。主要な人物は可能な限り写真が挿入されており、シンの書く人物像を補ってくれる点も効果的です。

[NML]ベリオの《フォークソングス》


iPodがご臨終になった今、こうなったらオレにはNMLがあるワイと開き直り、今日はベリオの《フォークソングズ》(1964)を聴く。これはベリオが妻で声楽家であるキャシー・バーベリアンのために書いた曲。


ベリオと聞いて怖れるなかれ、林田氏が推薦しているように、この曲集は限りなく美しい。体の奥に、抵抗もなくすーっと入ってくる。伴奏も簡素ながら曲に非常にマッチしています。ところどころに挿入されるフルートの響きが実に素敵。11曲の曲集はイタリアやアルメニアなどの民謡がベースになっているそうです。

1曲目から唖然、2曲目は、言い知れぬ既視感に誘われるかのような優しさに包まれます。3曲目では思わず感涙・・・10曲目の《Lo fiolaire》も素晴らしい・・・。何を唄っているのかは分からねど、です。メゾ・ソプラノのJean StilWellの歌声も聴きやすい、短いので二度ほど続けて聴いてしまいました。




2007年7月3日火曜日

外山滋比古:思考の整理学


筆者の外山滋比古氏は、英文学者にしてエッセイスト。一読して、文章が旨いなあと。著者が一番書きたいことは、情報や思考を整理する方法ではなく、考えるとはどういうことなのかということのようです。本書の出版は1986年。まさにこれから本格的なコンピューター社会を迎える前兆が感じられつつあった20年前にあって、コンピューターにまかせられることはまかせ、自ら考える主体的なアタマとなる必要性を問いています。本書を学校教育が「飛行機型」の人間を作らずに「グライダー型」の人間ばかり作っているとの主張から始めていることからも、それは明らかです。









氏の考える=発想スタイルはというと「考えに考え抜く」というものではなく「発想は寝て待て的」なものであるようです。アイデアを「発酵させる」「寝かせる」、そして整理するということは「忘却させる」ということなのだと。また、ものを考えるには、「朝飯前」という言葉があるように朝が良いと書いています。


とはいえ、氏の「朝」というのは8時頃であり「朝」の状態を再現するために、朝食は食べずブランチに、食後は本格的な昼寝というスタイル。めまぐるしい現代人のそれでないことは確か。アイデアを「寝かせる」という氏の推奨するスタイルが当てはまるのは悠長な学者か、あるいは企業の研究員くらいではないのか、という思いもしないではありません。毎日が課題や問題山積みの企業活動においては、意思決定タイミングは極めてスピーディーでなくてはなりませんから。


メモとメタ・ノートという考え方も、今となっては全く目新しいものではありません。「複数の手帳を使い分ける」とかの題名で、文具店の販売促進に一役買っている雑誌が定期的に書店の棚を占拠しているのは良く目につくところ。考えてみればブログというツールは、私にとってはノートとメタ・ノートの間のようなものですし、「書く」ことによって安心して「忘れる」ことが出来るのも事実。


しかし、ここで更に気付くのですが、毎日の判断にせよ長期的な意思決定にせよ、自分の無意識の中に「忘却」させていたアイデアや願望と無縁であるということまでは否定はできません。若い時には実現できなかったけれども、ある年代になってやっと実現可能な環境かつポジションになったということも、ないわけではないなあ、と思ったりもします。


「とにかく書いてみる」という章には深く頷いてしまいました。


書き進めば進むほど、頭がすっきりしてくる。先が見えてくる。もっとおもしろいのは、あらかじめ考えてもいなかったことが、書いているうちにふと頭に浮かんでくることである。


「自分が何を話すか自分で分かっていない」と言ったのは内田樹氏。確かにそうであるよなあと。そういう意味でも「思考の整理法」とかその手の類書とは一線を画しているようにも思え、氏の考え方は充分に現代でも通用するのだと思います。

2007年7月2日月曜日

[TV] 言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~


7月1日のNHKでETV特集「言葉で奏でる音楽~吉田秀和の軌跡~」が放映されていました。最初の十数分を見逃したものの、他に並ぶ者のいない音楽評論家の姿を眺められたのは、なんだかとても僥倖であったと思います。


彼の音楽評論は、結構読んでいます。『主題と変奏』などの初期評論も、一時絶版であった全集を神田古本街で探しまわって入手したものです。彼の文章には音楽や芸術への愛が溢れていて、素直に敬意を感じるのですよね。そして、音楽評論の内容云々を越えてしみじみとした気持ちになってしまうのです、それが彼の文章の魅力でしょうか。


そんな吉田氏が、カメラに向かって語る言葉にも偽りはなく、真摯な姿勢が滲み出ており、やはり文章通りの人であったなあと思い嬉しく思ったものです。


戦後、吉田氏は内閣情報局を辞します。引き止める上司に「食べていくくらい、なんとかなるだろう」と応え、音楽について書く道に入ります。「書きたいことはあったし、書こうとしているものは、世界で誰も書いたことのないものだと分かっていたから」なのですとか。小林秀雄について語る時の彼の逡巡。「小林さんの文章にはカデンツァがない。飛躍がある」という批判。「小林秀雄よりも自分は音楽を語れると思った」「彼よりもずっと『音楽』を勉強している」という自信。でも、「あの文章(『モオツァルト』 )はまさに小林氏にしか書けないもの」なのだと。そこに彼の小林氏に対する複雑さが込められています。


原稿用紙に万年筆を走らせ、雑誌に載せる楽譜は自ら写譜しヤマト糊で貼り付ける。原稿を書くということは「こういう手作業」から生ずるものなのだと、そして原稿を書くことよりも、校正することの方が「楽しい」のだと。そして、自らの手作業の楽しさについて、画家のドガを引き合いに出してこう説明します。「ドガが木の葉っぱを一枚一枚描いているのを、詩人のヴェルレーヌが、面倒ではないかというようなことを尋ねた。ドガは画家というのは、そういう風にして葉っぱを描くことそのことが楽しいのだよと答えた」 


あまりにも有名な「ひび割れた骨董品」の書評についてもコメントしていました。私は、吉田氏がそれを語るときの、言い知れぬ深い愛惜をこめた悲しい口調を、吉田氏の映像とともに忘れることはないでしょう。そしてまた、次の言葉も。


結局は、バッハ、モーツァルト、ベートーベンに尽きるなア。バーバラが死んだ後、音楽を聴く気にもならなかったけれど、バッハの音楽は邪魔をしないんだ。

インタビューアは堀江敏幸氏でありました。不勉強にして私は彼を知りません。どうやら小説家にしてフランス文学者らしいです。吉田氏と対談できるという機会を得たにも関わらず、インタビュアーとしては少々役不足と感じられたことは否めません。

2007年6月29日金曜日

展覧会:「MONET モネ大回顧展」



新国立美術館で7月2日まで開催されている《MONET 大回顧展》に行ってきました。木曜日と金曜日は20時まで開館していますので、会社を定時に退社し18時から警備員に追われて会場を後にする20時過ぎまで、たっぷりとモネを鑑賞することができました。


モネは私が美術部に在籍していた高校時代の、お手本の一人であり、憧れの画家でありました。例えば《かささぎ》(1868-69)の雪景色など惚れ惚れするほどで、この画集のこの絵のページを開いて、自ら雪景色の画題に取り組んだこともあるほどです。あまり有名ではない《ボルディゲラ》シリーズの圧倒的な力強さも色の使い方を含めて随分と画集を食い入るように見たものです。


ですから、このブログでも何度かモネについては言及しています(→展覧会:パリ/マルモッタン美術館展ほか)。今回、モネを回顧するという展覧会で、改めて初期の作品から最晩年の作品まで通して観ることで、モネの多作さと執念のような絵画にかける思いに、ほとほと打たれてしまいました。




今でこそモネは広く人口に膾炙し、日本人のみならず世界の人から愛される画家となりました。しかし、モネの活動時代は彼の画風はかなり前衛的なものであったはずです。彼の画布に刻まれた絵筆の跡は、画家として当然有する確たるデッサン力に裏打ちされた挑戦的なまでの勢いと思い切りの良さ、「光の変化」を追い求める執念が渦巻いているかのようです。


モネのデッサン力と画力は、マネ風の《コーディベール婦人》(1968)年を観ると一目瞭然です。もうひとつ私が注目したのはチケットにもなっている《日傘の女》(1886)をもとに、画商デュラン=リュエルの注文で描かれた同題材の鉛筆デッサンです。この簡素な、そして早描きのようなタッチのデッサンからは、油絵以上に風の動きや空気の香り、輝く光が伝わってくるのです。何かのCFでこの油絵を動かしている作品がありましたが、そんなチャチな細工など全く不要なほどに絵が動いていることに素直に驚きました。


これほど確かな技量と情念の持ち主が、晩年に白内障と診断され、だんだんものが見えなくなっていくと分かったときの焦燥と苦悶は一体どれほどであったか。彼の絵は、1980年代の油の乗り切った時期のものや、睡蓮の連作も好きですが、私はやはり画布に狂ったように絵の具がのたくりうっている1920年代の一連の絵に、またしても慄然としてしまうのです。モネがどのような思いで絵筆を取り、画布に定着させていたのか。絵にまじまじと近づいて、あたかも自分が描くかのように、その筆致を追うにつけ眩暈のような感覚さえ覚えてしまうのです。


良く観ると、《日本風太鼓橋》(1918-24)などの絵のいくつかに、モネのサインがないことに気付きます。これらの絵は、誰のためでもなく、自らを鎮めるために自らのために描いたものなのでしょうか。色は暗いというのとも違う。ヴァーミリオンやクリムソンレーキのような赤を多用した画面。筆致は荒々しく、モネの内面がそのまま表出したかのようでさえあります。あたかも作曲家が交響曲など描くかたわら、ひたすらに弦楽四重奏やピアノ曲を作曲するかのようなバランスの取り方。この時期に、彼は非常に静的な睡蓮シリーズを延々と描いているのです。


とにかく作品数は多いですから、モネ好きにはたまらない展覧会であることだけは確かです。会期もあとわずかです。興味のある方は行って損はしないと思います。

2007年6月19日火曜日

[NML]ブルックナー 交響曲第3番 第1稿と第2稿を聴く


ブルックナー交響曲第3番を聴いた話を先日書いた。別に他のブログに触発されて、これを聴いたわけではないのだが、クラシック音楽のひとりごと のmozart1889さんも、たまたま最近この曲を聴かれたことをブログで知った次第。

(→http://www.doblog.com/weblog/myblog/41717)。


ノヴァーク版には第1稿から第3稿までの改訂稿があること、ブル3の副題が《ワーグナー》であることなどを、その後始めて知った。



ワーグナーの響きは第二楽章にいくつかの主題が表れる。第3稿では、かろうじて《トリスタン》的な和音を聴き取ることができるのみだったが、第1稿ではあからさまに《タンホイザー》のかの有名な断片が表れる。これには、かなりびっくりする。というのも、ブルックナーとワーグナーというのも、音楽的な特徴やベクトルは全く異なったものと意識していたので。


第1稿のその他の楽章も注意して聴いてみると、まだブルックナーらしくない響きもちらほら。第1稿から第3稿に向け、徐々にワーグナー的要素が減じ、逆にブルックナーの音楽に近くなっていくのは興味深い。


第1稿はティントナーで、第2稿はギーレンの演奏で聴いてみた。どれもNMLに納められている。ギーレンのブルックナーは如何にと思ったが、この演奏だけ聴けば結構立派であるしオケも結構鳴ってる。悪くはない。だからといって感動するかというと、これはまた別ではあるが。


2007年6月18日月曜日

ガッティでストラデッラのオラトリオ《スザンナ》を聴く(2)

ガッティの《スザンナ》を聴くの、第二回目です。

演奏者

Glossaのライナーには演奏者についての言及が全くありませんので、ネットで調べてみました。

演奏のアンサンブル・アウロラは1986年設立の団体。ガッティが音楽監督を務めています。彼らの使用楽器は以下のようになっています。

  • Enrico Gatti (Violin - L. Storioni, Cremona - 1789)
  • Claudia Combs (Violin - S. Klotz, Mittenwald - 1746)
  • Gaetano Nasillo (Cello - B. Norman, London - ca. 1710)
  • Giancarlo de Frenza (Double Bass - G. Sgarbi, Rome)
  • Loredana Gintoli (Double Harp - Thurau - 1990, aft Domenichino)
  • Anna Fontana (Harpsichord - R. Mattiazzo, Bologna - 1987)
  • Francesco Baroni (Organ - F. Zanin, Codroipo - 2000)

ガッティのヴァイオリンは、クレモナ黄金期最後の名人ロレンツォ・ストリオーニ(1715-1820)の手によるものなのですね。1789年製ですから、ストリオーニの油の乗り切った時期の楽器のようです。

対するC.Combs(左)は、イタリアではなくミッテンヴァルトの楽器なのですね。だからといって、私に楽器の音の違いや性格の違いが分かるってわけぢゃありません。とりあえず(役に立たない)薀蓄としては、おさえておかなくてはです。


このオラトリオは登場人物が5人しかいません。先ほども書いたように、スザンナ、ダニエル、二人の長老(審判官)、それにナレーターです。私はバロクーではないばかりか、歌劇系・歌手系にも全く疎いので、彼や彼女らの名前を聞いてもさっぱりです。有名なんだかレパートリーは何なのか分からないで聴くのも何なので、軽くググってみました。私の英語力は中学生レベルですから、いつもこんなことをしているワケではありません。

  • Emanuela Galli (Soprano - Susanna)
  • Barbara Zanichelli (Soprano - Daniel)
  • Roberto Balconi (Countertenor - Narrator)
  • Luca Dordolo (Tenor - Second Judge)
  • Matteo Bellotto (Bass - First Judge)


ソプラノのE.Galliはイタリア・バロックを中心としたレバートリーで活躍している歌手です。CD Universeによると(→こちら)、バッハ、Bassani、Durante、Jommelliなどを録音しています。

特にモーツァルトと同時代に活躍したイタリアのN.Jommeli(1714-1774)の作品はスペシャル・レコメンデッドされてます。ちょっと欲しいかも。あとMonteverdiの曲も録音していますね。



もう一人のソプラノはダニエル役のB.Zanichelliです。ダニエルがソプラノとは、聴いていて意表をつかれましたが、なかなか良いです。彼女の場合は、バロックばかりではなく、ワーグナーやシュトックハウゼンなどロマン派や現代音楽でも幅広く活躍しています。現代音楽やイタリアの重要な作曲家を中心に演奏しているdedalo ensembleの一員としても活躍しているようです。



カウンター・テナーのR.Balconi は公式サイトがあります。English Baroque SoloistsやらIl Giardino Armonicoなどの著名団体とも演奏しているようで、カウンター・テナー界では有名な方なのでしょう。Marcello、Buxtehude、Monteverdi、Vivaldiレコーディングも多いですね。今後もバロックを聴いていればお世話になる方なのかもしれません。

写真は公式サイトからの無断借用ですが、にしても、顎に手をおいて写真を撮られるアーティストって以外と多いです、なんでなのでしょう。


さて、邪悪な恋心を持った長老は二人います。審判官2であるテノールのL.Dordoloは、ググっても紹介が出てきません。CD UniverseではMonteverdiなどCD録音は多いようです。

最後は審判官1のバスM.Bellotto、こちらも紹介文は出てきませんが、naiveのヴィヴァルディ・エディションの中でアレッサンドリーニによるVespri per l'Assunzione di Maria(→CD Univers)に、この人の名前があります。Bellottoのバスを聴きたくてこの盤を買う事はないと思いますが、アレッサンドリーニなら聴いてみたいかなと。ジャケも綺麗だし。

ということで今日も、演奏者を調べるだけで疲れてしまいました。曲の感想は当分お預けです。

2007年6月15日金曜日

[NML]テンシュテットのブル3に驚愕


とんでもない演奏を聴いてしまった、それもNMLで! 


メジバロももう行けないし、ガッティのオペラはチマチマ訳しながら聴いてはいるが、仕事も相変わらず忙しいし、ということで、天秤座+AB型のバランス感覚ゆえベタな方にベクトルが傾いた。そして、何気にブルックナーの3番を聴いてみようという気になったのである。


そもそもブル3はCDさえ持っていない。従って、あまり期待していなかったし、軽い気持ちで聴きはじめたのだ。





しかし、これは何と言う演奏であろうか。そして、これはブルックナーなのだろうか。いや、確かに、第一楽章冒頭の弦とホルンの静かな始まり方、盛り上がる部分でのオーケストレーションの騒々しさはブルックナーではある。しかし、だ。第二楽章の半音階など、一瞬トリスタンだし、マーラーを思わせるところもある。


テンシュテットが振るのは、バイエルン放送響。1976年11月4,5日のミュンヘンでのライヴ録音だ。実のところテンシュテットのブルックナーは少ない。この演奏も正規版としてファン待望の盤として発売された。


それにしてもだ。全く予想を覆す演奏である。ブル3がこんなにも面白い曲であったなんて! 何度感嘆符を付けても足りない。どんな演奏かは、私の拙い感情的な感想を読むより以下を参照すると良く分かる。




その凄まじさは、許氏がおそらく生で聴けばホールの天井が抜けるのでは、いやそれより聴いている人間の神経が持たないのではと驚愕するであろうことと書くように、第一楽章から全開なのである。この爆発するエネルギーと重さはどこから生ずるのか。フォルテッシモにおける、何処までも突き抜ける金管の咆哮、恐ろしいほどの低弦の分厚さ、打楽器の確かさ。弦の旋律の滑らかさと質量感。ああ、なんていいオケなんだ。


ちょっとでも聴いてしまうと、鷲掴みにされたまま終楽章まであっという間に連れて行かれる。第一楽章も凄いが、第三楽章のスケルツォから終楽章にかけては、もはや言葉も発せられない。ダダダ・ダッダッダッの付点的な、いかにも野暮なスケルツォにミニマル音楽のような弦の伴奏が絡まり、猛烈な演奏を繰り広げる。 終楽章冒頭はゲンダイ音楽さえ彷彿とさせるが、それも一瞬で、再び凄まじい熱い激情の奔流が渦巻く。ラストのティンパニのロールのクライマックスは鳥肌もの。


いやはや、再度問う。これはブルックナーなのか。これがブルックナーなのか。いや、それに意味はない。これもブルックナーの一つの姿なのかもしれない。細かいことは私には分からない。私は何度も聴いた。そして、こういう演奏を心底凄いと思う。こういう盤があるから、クラ聴きは止められない。


ただし、好みは分かれる、保障はしない。そして、こんな演奏をNMLで聴いていていいのか?(>いいって、買わなくて) こんな演奏に感動する私は、やっぱり、冷静なバロクーにはなれないか(苦笑)

2007年6月11日月曜日

ガッティでストラデッラのオラトリオ《スザンナ》を聴く


エンリコ・ガッティとアンサンブル・アウロラがGLOSSAレーベルに初録音した、ストラデッラの《スザンナ》を聴いてみました。ガッティの演奏を聴きたくて買った盤でしたが、聴いてみれば曲そのものも、ストラデッラも興味深く、一度聴いただけでCD棚に納めるのがもったいないと思える作品です。ということで、防備録的に調べたり感じたりしたことを書いておきます。(モトネタはネットとCDブックレットという安易さです)

本CDと、オラトリオの解説、それにストラデッラの生涯について、クラシック通販ショップ「アリアCD」に詳しいので、興味のある方は、まずそちらをご覧になると良いと思います。

(→http://www.aria-cd.com/oldhp/yomimono/vol25.htm)




  • Emanuela Galli (Soprano - Susanna)
  • Barbara Zanichelli (Soprano - Daniel)
  • Roberto Balconi (Countertenor - Narrator)
  • Luca Dordolo (Tenor - Second Judge)
  • Matteo Bellotto (Bass - First Judge)
  • Enrico Gatti (Violin - L. Storioni, Cremona - 1789)
  • Claudia Combs (Violin - S. Klotz, Mittenwald - 1746)
  • Gaetano Nasillo (Cello - B. Norman, London - ca. 1710)
  • Giancarlo de Frenza (Double Bass - G. Sgarbi, Rome)
  • Loredana Gintoli (Double Harp - Thurau - 1990, aft Domenichino)
  • Anna Fontana (Harpsichord - R. Mattiazzo, Bologna - 1987)
  • Francesco Baroni (Organ - F. Zanin, Codroipo - 2000)
  • Glossa GCD921202M

ストラデッラについて


ストラデッラ(1644-1682)は17世紀イタリアで活躍した作曲家ですが、その浮気性のため殺し屋につけ狙われ、遂には暗殺者の刃で命を落とすという放蕩人生を送ったことで有名です。そこから「ストラデッラ伝説」が生まれ、彼の生涯そのものがオペラや小説、詩などの題材にされたりしています。

その生涯はかなり脚色されているようで、実際のところは不明な点も多いらしいのです。音楽よりも生涯が有名とは言え、彼は「1670年代のイタリアで最も優れた音楽家」でありましたし、その功績はコンチェルト・グロッソ(正式にはコレッリのOp.6が当様式の最初の作品とされている)や、レチタティーヴォに弦の伴奏を付けるなど、音楽的イノベーションにも加わってたそうです。(→日Wikipedia

《スザンナ》について


《La Susanna》はオラトリオです。従って聖書を題材としているのですが、ストーリーはかなり性愛的なものに偏った内容になっています。
《スザンナ》は旧約聖書《ダニエル記》補遺的に記載された逸話。スザンナといえば純潔の象徴。物語を簡単にまとめると以下のようなもの。

美しいスザンナが沐浴しているときに、二人の長老二人が覗き見をし関係を迫る。スザンナは当然に拒絶。逆恨みした長老たちは、スザンナを逆に姦通罪で訴える。牢獄の中でスザンナは神に助けを求める。すると預言者ダニエルが現れ、二人の長老を尋問し矛盾を暴く。スザンナの無実が実証され、二人の長老は死刑とる。


まあ、自分の生涯をさておいて、いかにもストラデッラ的なテーマです。

バロックの世にあって、一般大衆には官能的なものと宗教的なものが一体となって表現されることに規制はなかったようです。このCDのカバーに使われているのは、16世紀から17世紀に活躍したカラヴァッジオ派の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)による《水浴のスザンナと老人たち(Susanna ei Vecchioni)》。彼女18歳のときの最初の作品です。にしても好色な長老たちです・・・。(→日Wikipedia)




スザンナは画家たちにとっても興味深い甘美な対象であるのか、かのレンブラントも何作か描いているんですよね。例えば下。流石にレンブラントだけあって格調高いですが、結局はエロヲヤジのレイプ未遂というわけで(→解説はこちら Salvastyle.com)。宗教を題材として、それを隠れ蓑に女性の裸を描き眺めていたというワケですな。



こちらはイタリアのバロック時代の画家Guercino(1591-1666)によって書かれたスザンナ。こちらの方が好色じみたエロヲヤジの姿を的確に捉えていますね。



下のスザンナの方が有名でしょうか。ティッツアーノと並ぶルネサンスの代表的画家 ティントレット(1518-1594)のスザンナ。スザンナがエロティックです。禿ヲヤジの視線がいかにもイヤらしいですね。高校時代、こんな絵を観てドキドキしたことを思い出します。



スザンナが誘惑的なポーズであっては、本オラトリオは成立しません。やっぱりイタリア・バロックの画家であるGuido Reni(1575-1642)のスザンナが一番でしょうか。驚きによって目を見開いたスザンナ、いかにも悪そうな長老たち・・・。しかし、こんな老人でも性的欲求が・・・強いのね、イタリア人って。騒ぐなったって、大声出しますよ、フツー。



描かれた
エロヲヤジスザンナの事を調べていたら、なかなか先へ進めません(藁)。

《スザンナ》のリブレットはモデネーゼの詩人でありフランチェスコ会のセクレタリーでもあったGiardiniによって書かれており、大きくは二つのパートに分かれています。前半がスザンナ沐浴の場面、後半が牢獄から裁判の場面です。

ガッティが作曲家ストラデッラに目をつけた事は興味深い点です。音楽を聴いてみると分かりますが、作曲家の性格は淫蕩ではあっても、音楽的には聴くべき点が多く、そして極めて美しいのです。ストーリーを知らずに聴いていると、妙なるアリアの連続に思わず聴き惚れてしまうのですから。

配役はスザンナと預言者ダニエルがソプラノを、ナレーターがコントラート、そして二人の長老(=エロヲヤジ=審判官にして悪党)をテノールとバスが担当し、これにコーラスが加わります。当然のこと、ガッティは指揮とバイオリンを担当です。

ということで、音楽の話題は日を改めることとしましょう・・・。いつになるかは分かりませんが。