2007年1月30日火曜日

[読書メモ]「週刊文春」林真理子:《夜ふけのなわとび》


ここ2~3年間で地球温暖化が顕在化、それとともに人間も急速に毀れ始めたという林真理子の友人の指摘。


週刊誌をにぎわすバラバラ殺人事件。自己のプライドと優越感の保持。自分が一番好き、他者とのバランスの欠如。自然界と人間界の同時的秩序の崩壊というのはうがち過ぎ。


宗教色を薄めたスピリッチュアルなものへの傾斜。自己の正当化、自己の高揚。他者に認めらてもらいたい、保証してもらいたいということ。プライドを引き裂かれた自己は、その存在をリセットするしか術がないという悲劇。

2007年1月28日日曜日

[展覧会メモ]日高理恵子展

日経新聞に紹介されていた展覧会。


  • 日高理恵子 展 小山登美夫ギャラリー 2007年1月27日(土)~2月24日(土)


日高は日本画の人。ただし、日本画、洋画という分類に意味があるのか、素材はテーマや思想を規定するのか。

単純にモノクロームの「見上げた樹木」の世界、そして「そらの眩しさ」を体験してみたい・・・


2007年1月23日火曜日

[番組メモ]納豆ダイエットの捏造問題


発覚してみれば局幹部の謝罪する姿。不二家やゼネコンの談合問題を叩く当のマスコミが正義を振りかざすことの偽善。



こんな大人の言うことを子どもが信じるわけがなく、結局バレなければ何でもありの大人の世界。業界に自浄能力など期待できるのか。などと批判しながらも、その自らもどこかの疲弊した「組織」に属さざるを得ないこと。天に向けた唾は自分に降りかかり、沈む泥舟の輩が他人の泥舟を笑う姿はもはや喜劇を越える。



当の番組はたまたま観たが、無意味にケバイ番組セットに意味のない出演者、甲高いナレーターの声。猥雑さと醜悪さ、実験も言えない内容のテストと結果。子ども相手の番組か、これは? 面白ければ何でも是認するという体質にゲンナリ。


納豆食って誰もが痩せるなら関西人以外は皆んな健康体だとバカバカしく思い、最近にわかに市民権を得た「メタボリック」なる言葉の裏に潜むものさえ考えてしまう。


そんなに痩せたけりゃ、消費する以上に摂取しなければいいだけのこと。自分も寝正月で増えた体重を減らすべく、軽い運動と食事のコントロール。おかげで増えた3kgは、数日で元に戻した。

[読書メモ]高村薫:晴子情歌(上)


それにしても「晴子情歌」は読みにくく。大体において、左様に文才のある女性=母親というものが存在するということが虚構か。母と息子の希薄さと濃密さ、二人の関係はどこに向かうのか、互いに何を求めているのか。高村の作為を感じるが、それでも読むことを止めることはできない。


だらだらと綴られる手紙は、世間の動きと隔絶されたかのような青森や北海道を舞台とすることで、対極的に隠された世界を炙り出す。生活と政治ということ。それは生きる意味ということでさえないかも知れない。


2007年1月22日月曜日

[番組メモ]NHKスペシャル「Google革命の衝撃」


番組で描かれた内容は既知のことばかり。「"検索"が人生を変える」というサブタイトルには疑問。


しかし生活パターンや思考回路は変わった。自分の忘れた記憶がインターネットの中に存在するということ、記憶さえ検索にゆだねるということがもたらすこと。記憶の外在化。個人的な日誌を書くという行為を紙でするのと、閉じたディスクの中で行うのと、ネットで展開することの違いは何か。検索システムというハード面だけではない違い。「検索可能性」ということ。検索できないものは何か。検索できないことの価値。



2007年1月18日木曜日

[NML]ヴィヴァルディ:BIS-CD-1426/FL23171:スターバト・マーテル RV 621




BIS-CD-1426:Vivaldi:Stabat Mater in F minor, RV 621


Jakub Burzynski, counter-tenor

La Tempesta,Jakub Burzynski, conductor









FL23171 Vivaldi:Stabat Mater in F minor, RV 621


Marie-Nicole Lemieux, contralto

Tafelmusik Baroque Orchestra

Jeanne Lamon, conductor









ヴィヴァルディの宗教曲の中ではRV621《スターバト・マーテル》もはずせないもののようです。Naxos MLでは上の二つの盤を聴いてみました。


Stabat mater dolorosaとは「悲しみに暮れる御母は佇みたもう」という意味で、マリアの悲しみをしのび、苦しみをともにすることを通して神の恩寵が得られるように祈るというような歌らしいです。カウンター・テナーと弦合奏、通奏低音で描かれた短調の音楽は深い慈しみに満ち、宗教音楽としての美しさが込められているかのようです。


1998年にJakub Burzyn'skiによって設立されたポーランドのLa Tempestaによる演奏は、冒頭のStabat mater dolorosaから打楽器(!これが効果的)と通奏低音が強調された非常に劇的な演奏が印象的です。Jakub Burzyn'skiは指揮とともにカウンター・テナーとしても活躍しています。Quis est homo qui non fleret(かくも責め苦を負う)やEia Mater(さあ、御母、愛の泉よ)での超絶的な高音にも驚かされます。ラストのAmenは二つのバージョンで唄っており後者の方がより技巧的。演奏がヴィヴィッドで胸に迫ります。あまりのことに続けて三度も聴いてしまいました(^^;;


1979年設立のカナダの古楽グループTafelmusik Baroque OrchestraとコントラアルトのMarie-Nicole Lemieuxの演奏は、La Tempestaの激しい演奏を聴いてしまうと表現の違いに戸惑います。あれほどLa Tempestaで打ち鳴らされていた打楽器は使われていません。従って概ねゆっくりと、そして静謐な深い祈り感じる演奏に仕上がっていて、こちらの方が泣けますか。二つを続けて聴くと同じ曲とはとても思えませんね。

2007年1月17日水曜日

[NML]ヴィヴァルディ:グローリアへの序章 RV.639、グローリア RV.588



8.557445 VIVALDI:Jubilate, o amoeni chori, RV 639 - Gloria in D major, RV 588


Jane Archibald(S), Nils Brown(T), Anita Krause(Ms)

Aradia Chorus,Aradia Ensemble

Kevin Mallon, conductor




ヴィヴァルディのグローリアにはRV589と番号違いのRV588というものもあります。こちらはRV589に比べて知名度がかなり低いようです。



Naxos MLのこの盤では、RV639グローリアへの序章に続いてRV588が演奏されています。RV639はアルト独唱による演奏で、痙攣するかのごときアルト歌唱の技巧を聴くことができます。アルト独唱からシームレスにグローリアの合唱がかぶるところは、なかなか良いです。オルガンがラリラ・ラリラ・ラリラと脳天気に鳴り響き、アルトと合唱が渾然となっていく様は結構快感です。単純な音楽が好きな私は、何度もこの部分を繰り返して聴いてしまいます。


RV589でソプラノとアルトの二重唱が美しかったLaudamus te.は、ここでも二重唱、どちらも魅力的です。付点のリズムが楽しかったDomine Fili unigenite,Jesu Christe.は、こちらでは男女の合唱による荘厳なカノン
、アルト独唱のQui sedes ad dexteram Patris,miserere nobis.もかなり雰囲気が異なります。こうして全体を通して比べながら聴くと(*1)、RV589はやはり曲としての完成度が高い。RV588の方は何だかのんびりした感じがあります。そこがまた良いと言えなくもありませんが。


どちらも良い曲です。合唱関係者とか余程のヴィヴァルディ・ファン(*2)でもなければ、聴く機会などなかった曲であったと思いますのでNMLに感謝です(^^)



  1. Naxos MLの場合ストリーミング配信なので曲単位で比較するには向かない。結局、プレイリストにアルバムを登録し、曲単位でチマチマと聴き比べることになる。曲やアーティストの解説もないし、ちょっと不便ではある(>つーか、贅沢な要求か)。

  2. ヴィヴァルディについてはネットで探せる範囲のことしか調べていないという横着さ、それにしてもヴィヴァルディに関する記述は、実のところネットでは驚くほど少ない。

2007年1月16日火曜日

[NML]ヴィヴァルディ:グローリア RV.589



PH04019 VIVALDI: Gloria, RV.589

Marta Filova, soprano / Marta Benackova, mezzo-soprano

Tadeusz Strugala, conductor





8.550767 VIVALDI: Gloria, RV.589

Oxford Schola Cantorum

Northern Chamber Orchestra

Nicholas Ward, conductor





ヴィヴァルディは若くして聖職に入り司祭となっていますので、宗教曲も多く残しています(*1)。中でも有名なのはグロリア(RV.589)ということになっています。さっそくNaxos MLで聴いてみました。



これはミサ曲の中からグロリアの部分だけに曲を付けたもの、いかにもヴィヴァルディらしい管弦楽器の使い方で陽気に始まります。Gloria in excelsis Deo.(天のいと高きところには神に栄光)と男女の混声合唱と管弦楽の軽妙な掛け合いが曲に喜びをもたらしています。続いて短調に変わり、Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.(地には御心に適う人に平和あれ)と男女の合唱がカノン風に歌われます・・・


全曲で30分程度なのですが、全体を通して聴いてみると、曲としては悪くないのですがヴィヴァルディらしい技巧性や楽しみに欠けるきらいはあります。宗教音楽ですから仕方ないですね。


キリスト者でない私にとっては、この中でオススメといえるのは、Laudamus te.(われら主をほめ)。長調によるソプラノとアルト(メゾ・ソプラノ)の二重唱です。それとDomine Fili unigenite,Jesu Christe.(主なる御ひとり子、イエス・キリストよ)でしょうか。こちらは男女の混声合唱による付点音符の弾むようなリズムカルな曲。Qui sedes ad dexteram Patris,miserere nobis.(父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。)はアルトによる技巧的な曲、。


Naxos MLのうち、上記の二つを聴いてみましたが、どちらかというとPH04019の方が良いかなあ(というか、評価以前だな、まだ)。



  1. クラシックサイトとしては老舗であるKenichi Yamagishi 氏のサイトをつらつら見ていたら、ヴィヴァルディの宗教音楽については下記のように記述してあったので引用しておく。


    器楽作曲家としてのヴィヴァルディは生前から全ヨーロッパにおいて有名であったが、彼の宗教作品は長くヴェネツィアから出ることはなかった。そのため叙任された司祭の地位にあったにもかかわらず、彼は宗教作品を全く書かなかったのだと考えられていた。しかし、1920年代末にヴィヴァルディの個人的手稿のコレクションが発見されてようやく、彼の作品目録に50曲以上の宗教作品が加えられた。

     その中でも急速に有名になったのが「RV.589」のグローリアである。第2次大戦後にリコルディ社から楽譜が出版されて、合唱の主要レパートリーとなった。



[読書メモ]高村薫:晴子情歌(上)

小説から漂ってくる時代の雰囲気や空気というもの。晴子の手紙や富子の写真を通して見えるもの。時代の動きや政治と思想、若者たちの言動。晴子の手紙から一歩離れたところに存在する「世界」


市政の庶民でしかない主人公の、歴史の動きの中では何と言うことはない人生と、実は彼女たちのフレームを規定している政治的なもの。パラレルな世界で交わらない。高村が次作として「新リア王」を書くことになる動機、あるいは前奏曲。


「純文学」と「エンタテイメント」。エンタテの要素を剥ぎ取ることにより漂うものの、古典文学の持ちえた壮大な物語の復原。?


2007年1月15日月曜日

[NML]ヘンデル:イギリス・オラトリオからの二重唱集



BIS-SACD-1436 イギリス・オラトリオからの二重唱集

Carolyn Sampson, soprano / Robin Blaze, counter-tenor

Orchestra of the Age of Enlightenment

Nicholas Kraemer, conductor




NAXOS ML ハマってしまいますね(^^;;; 今日は#CredoのkimataさんがNMLで聴いて思わず購入してしまったという、キャロリン・サンプソンとロビン・ブレイズのヘンデル。ついでですから聴いてみました。



いやァ、これまた良い。普段雑誌で紹介されていても、おそらくは購入までには至らないこういうテの曲をネットでいつでも全曲聴けるというのは、かなり画期的なことかもしれません。


声楽や古楽系も全くフォローしていない私ですから、ロビン・ブレイズのカウンター・テナーを聴くだけで、もううっとりです。本を読むBGMにでもと思ったのに、思わず聴き惚れてしまいました。収録されている曲はどれも明るく暖かな雰囲気。サンプソンのソプラノとの絡みが何とも品が良い。端正にしてふくよかな芳香が香る。こういう音楽を聴いているだけで何だか得をした気になって、幸せな気分になれます。


ちょっとネットでググってみますと、両者とBCJ共演しており、今年のBCJの演奏会にも来日してカンタータを歌うそうです。半年以上も先の演奏会の予定など入れられないのですが、とりあえずはメモっておきましょう。

2007年1月14日日曜日

[NML]ヴィヴァルディ:ソプラノのためのモテット集



FL23099 ヴィヴァルディ:ソプラノのためのモテット集

Karina Gauvin, soprano

Chambristes de Ville-Marie




ついでなのでNAXOS MLから、もう一つヴィヴァルディの声楽曲を聴いてみました。これは、《Motet, Sum in medio tempestatum, RV 632》、《Motet, O qui coeli terraeque, RV 631》、そして《Psalmo, Laudate pueri Dominum, RV 600》からのもの。



それにしても、ヴィヴァルディの声楽は快楽に近い!ワーグナーとは対極のところの官能を刺激します。随所にヴィヴァルディらしい高度な技巧を凝らした声楽を聴くことができます。オススメを一曲だけ書こうと思ったけれど、どれも素晴らしいくて選べませんでした(^^;;;


ソプラノ独唱はKarina Gauvin。高度な技巧部分も抑制が効いた柔らかな声音で好感が持てます。彼女の公式サイト(近頃更新はされてない様子)を見ますと、ヘンデルやバッハの他にフランスものも録音しているようです。

2007年1月13日土曜日

[NML]ヴィヴァルディ:オリンピアーデ



HCD32022 VIVALDI: L'Olimpiade (Highlights)

Gyorgy Kaplan, tenor / Maria Zempleni, soprano / Kolos Kovats, bass / Klara Takacs, mezzo-soprano / Istvan Gati, baritone / Jozsef Hormai Horvath, tenor / Lajos Miller, baritone / Aniko Peter Szabo, harpsichord / Zsolt Bartha, cello,
Budapest Madrigal Choir,
Hungarian State Orchestra,
Ferenc Szekeres, conductor




あちこちらで時々話題になっているNaxosミュージックライブラリ。気に入った盤は手元に欲しいと思うものの、ちょっとだけ聴いてみたいとか、知らない曲を買うにはちょっと勇気もいる。ということでNaxosミュージックライブラリに登録してみました。



で、手始めに聴いてみたのがコレ(ヴィヴァルディの歌劇「オリンピーアデ」)。いやあ、これは良い! #Credoのkimataさんが、しきりにヴィヴァルディのエントリをするので気になっていたのですが、たしかにハマりそうな曲ばかり。


何と言っても、コーンと底の抜けたような明るさ、乾いた響きが心地よい。そして、ヴィヴァルディの有名な曲の断片(*1)があちらこちらに聴こえる面白さ。残念ながらNaxosでは曲の解説などがありませんから、何を唄っているのかは全くわからないのですが、流して聴いているだけで自然と心が浮き立ちます。


  1. Del'aura a sussurar (Chorus) などは、断片どころか、誰でも知っているヴィヴァルディのアノ超有名曲ママぢゃない!


2007年1月7日日曜日

サイモン・シン:暗号解読

No Image


絶妙の筆致で読ませてくれたサイモン・シンによるフェルマーの最終定理に続く、暗号解読にまつわるドラマ。


なんといっても、あれだけの数学的難問にまつわる物語を、感動さえ与えながら数学史と人間ドラマとして仕立て上げたサイモン・シン、本書の面白さはまさに折り紙付きです。amazonのカスタマーズ・レビュも現段階で47もあることが、それを裏付けています。分厚い本が、またたくまに繰られていく、これぞ読書の快楽。





暗号作成に素数や量子論までが使われているなどという、いままで雲を掴むような話だったことを、いとも簡単に思わせてしまうところがシンの凄さでしょうか。難しいことが難しく書かれていない、分かりやすく、それでいて本質的。そしてワクワクするほどに面白い。技術紹介は、無理に「引き下げ」ているわけではなく、何故そういう技術が必要なのかから始めるから流れが分かる。そして、そういう高度な技術や技術者に対する強いリスペクトがある。


暗号作成者と暗号解読者の激闘、戦争の持つもう一つの姿、コンピューターテクノロジーを含めた科学の進歩などが次々とあぶり出されてきます。そして技術論や科学史を描きながらも、しっかり人間を描いているところに感動があります。主要な人物は可能な限り写真が挿入されており、シンの書く人物像を補ってくれる点も効果的です。


多くの孤独な天才達の物語にも興味は尽きませんが、印象的な点をひとつだけ上げるとすると、暗号解読(ドイツ軍のエニグマ機の暗号)にかけた英国の意思決定と行動力でしょうか。ブレッチレー・パークに可能な限りの人材を集めよと指示し、数学者や言語学者のみならず、焼き物の名人、元プラハ美術館の学芸員、全英チェス大会のチャンピオン、トランプのブリッジの名人に至るまで幅広く集めたということ。


八方手を尽くせとは言ったが、ここまで文字通りにやるとはな(P.244)

ブレッチレー・パークに集まった暗号解読者たちを訪ねた時のウィンストン・チャーチルの言葉です。


まさに組織は「人の強みを生かす」ように(人の弱点を補うように)作られ、各人が確実な成果を上げたということ。結果としてチューリング・マシンを初めとして、コンピュータ科学の第一歩を踏み出したこと。まさに「プロジェクトX」の世界であります。


恐怖こそは暗号解読の主たる駆動力であり、逆境こそはそれを支える基盤なのかもしれない。十九世紀末にフランスの暗号解読者を駆り立てたものも、強大化するドイツを目の当たりにした恐怖と逆境だった。(P.198)


戦争とともに発達した暗号は、現在ではIT技術と深く結びつき私たちの生活に不可欠なものになりました。現在は戦争の恐怖ではなく、個人を含めた情報保護という観点から高度な暗号が求められています。暗号の進歩は量子暗号システムが可能になったとき、そこで止まるとシンは最後に書きます。


物理学の歴史の中でもっとも成功を収めた理論である量子暗号によれば、(解読することは(*1))原理的に不可能なのである。(P.463)

あまりにも壮大な戦いの終焉。
  1. 本文では

    アリスとボブが取り決めたワンタイム・パッドの鍵をイヴが正しく傍受することは

    と書かれています。アリスが情報発信者、ボブが受信者、イヴはそれを傍受しようとする第三者。暗号の作成と解読には「鍵」の授受が一番の問題なのです。

2007年1月6日土曜日

丸山眞男:自己内対話


私は政治学や日本の政治思想史に興味があるわけではありません。従って丸山の膨大な全集や代表作である『日本政治思想史研究』などを読むことはないと思います。本書を手にとったのは、中野雄氏の「丸山眞男 音楽の対話」という本を読み、丸山という知の巨像が生み出した音楽観について興味を持ったからです(*1)


ひと時絶版になっていたようですが、銀座の教文館でたまたま発見、お正月休みにやっとゆるりと読むことができました。




実のところ「音楽」に関する話題は少ないのですが、ベートーベンやショパン、フルトヴェングラーやカラヤンなどに対する見方はなかなか面白いものがありました。


例えば、ベートーヴェンの情熱とショパンのそれとのちがい。


両者とも既成形式をこえる。しかし、ベートーヴェンの場合は、生の充溢が形式をこえるところに必然に新たな形式が生まれている。構成の美そのものは崩れない。(中略)ショパンはいわば最初からくずれている。(P.111 1954年の手帖から)


例えば、ショパンとシューマンのちがい。


ショパンとシューマンの音楽の美しさは、ともにそのたゆたうような不安定性のなかにある。(中略)しかし、ショパンの場合には、そうした「不安定性」がそれ自体彼の音楽の中に構造としてある。ビルト・インされている。だからショパンは不安定性の美の古典たりうる。シューマンはちがう。彼のは安定と不安定の間を動揺しているような、そうした種類の不安定だ。(P.164)


カラヤンは思想のない、しかし、才能のある指揮者と一刀両断。


今度(1966年)で、三たびきくカラヤンとベルリン・フィルのなんという絢爛としたむなしさ!。(中略)フルトヴェングラーの即興性と、カラヤンの計算された恣意性(P.239)


しかし、そういう丸山もカラヤンが振った「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死を聴き、


あの熱っぽくムンムンするような緊張の連続-それを思い出すだけでも私の全身の毛穴に妖しい旋律が走る。(P.254)


と書きます。丸山の音楽観に同意するかしないかは別としても、バッハのマタイ受難曲を引き合いに出し、知識人の間に支配的な日本の「庶民主義」に対して


もうそろそろ引き下げデモクラシーから決別したらどうか(P.125)

という主張には、丸山の根幹を支えている精神が読み取れます。彼があの東大紛争の時に何を考え、評論家やタレント教授、そしてジャーナリズムに対してどういう思いを持っていたのか。「東大」を始めとする「権威」をどう捉えていたのか、実はこちらの方が本書の主幹であります。そして当然のごとく、こちらの方が断然に面白い。


「自己内対話」とは、


自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然自我と対話すること(P.252)


と書きます。丸山の知の断片たるノートではあるものの、その一文一文は地中に根を張っているような深みに満ちています。


戦後の「理念」に賭けながら、戦後日本の「現実」にほとんど一貫して違和感を覚えて来た私の立場の奇妙さ!(P.246)


丸山は階級関係と政治のような捉え方をしたせいか、左翼的という印象を持たれるらしい。しかし、上の一文を読む限りにおいて、左翼的という事の無意味さを思い知ります。


  1. 興味をもったきっかけは、瑞紀さんという方から以下のコメントを頂いたせいでもある。残念ながらこのエントリの後、ブログがいったん崩壊したため、コメントはローカルPCのHDにテキストデータとして残しているのみである。

    『音楽の対話』が届いたら、いかに件の鈴木氏の本が

    「引き下げデモクラシー」に合致するか、お解りいただけると思います~。。

    その後、面白く読めるところもありましたが、ハラ立つことも多し(苦笑)。

    DATE: 09/06/2005 01:56:04 AM



    鈴木氏とは、音楽評論家の鈴木淳史氏のことである。彼が「引き下げデモクラシー」に該当するかは判断を保留したい。


2007年1月3日水曜日

P.F.ドラッカー:経営者の条件


��.F.ドラッカーの多くの著書から12作品をセレクトした「ベスト・オブ・ザベスト」の第1巻、「The Effective Excecutive」が原題です。本書が書かれたのは1964年。


「経営者の」と邦題にあるため誤解されやすいのですが、決して「経営者」のための指南書ではありません。ドラッカーの他の本にも言えるように、これは組織で働く人のための本であり、すなわちマネジメントの本です。さらに言えば成果をあげるために自らをマネジメントする方法についての書です。





「まえがき」にある次の言葉ほど重いものはありません。


ほかの人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である。


私はこのフレーズを読んだときに、軽い衝撃さえ受けました。マネジメントの本質がここにあります。


本書はまず、エグゼクティブとは行動する者であり、物事をなす者であるとし、組織で働くエグゼクティブがいかにして成果を上げるかということについての提言が書かれています。


ドラッカーの本はすべからく人間を「組織」に結び付けます。一人の人間が成し得ることは小さく、組織的活動をすることで個人を越えることができ、組織で成果を上げることが自己実現(*1)の前提になるとの立場です。


ドラッカーの言葉で一番大きく影響を受けたのは、「自分が何をしたいか、ではなく、自分は(組織に対して)何ができるのか」を問えというものです(*2)。自分の能力に向き合うことで、自分の役割も立場も、そして成果も見えてくるのです。


第一に身につけるべき習慣は、なされるべきことを考えることである。何をしたいかではないことに留意してほしい。(P.3)


我々の世代は組織で働くことを「歯車」(*3)であるかのような否定的な印象で捉えるように教育されてきたような気がします。それが偏狭な見方でしかないことをドラッカーは教えてくれます。「組織」は人の弱みを無力化する、「強み」に焦点を当てろとの主張には目から鱗です。自ら属する組織が、あまりに「弱み」ばかりを嘆いてはいないかと自問せざるを得ません。


本書の内容は全てが至言でありまから各章の最初の数行だけを読むだけでも充分意味があります。自分のメモとして抜粋しておきます。


序章 成果をあげるには

    成果をあげるには、近頃の意味でのリーダーである必要はない。

第1章 成果をあげる能力は習得できる

    成果をあげることがエグゼクティブの仕事である。成果をあげるということは、物事をなすということである。企業、病院、政府機関、労働組合、軍のいずれにあろうとも、エグゼクティブは常に、なすべきことをなすことを期待される。すなわち成果をあげることを期待される。

第2章 汝の時間を知れ

    通常、仕事にについての助言は「計画せよ」から始まる。(中略)計画は紙の上で消える。よき意図の表明に終わる。実行されることは稀である。

第3章 どのような貢献ができるか

    成果をあげるには、自らの果たすべき貢献を考えなければならない。手元の仕事から顔を上げ目標に目をむける。組織の成果に影響を与える貢献は何かを問う。そして責任を中心に考える。

第4章 人の強みを生かす

    優れた人事は人の強みを生かす。弱みからは何も生まれない。(中略)組織は、人の弱みを意味のないものにすることができる。組織の役割は、一人ひとりの強みを共同の事業のための建築用ブロックとして使うところにある。

第5章 最も重要なことに集中せよ

    成果をあげるための秘訣を一つだけ挙げるならば、それは集中である。成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に一つのことしかしない。

第6章 意思決定とは何か

    地位のゆえか知識のゆえかは別として、組織や組織の業績に対して重大な影響を及ぼすような意思決定を行うことを期待されている者こそエグゼクティブである。エグゼクティブは成果をあげるために意思決定を行う。

第7章 成果をあげる意思決定とは

    意思決定とは判断である。(中略)はるかに多いのは、一方が他方よりもたぶん正しいだろうとさえいえない二つの行動からの選択である。

終章 成果をあげる能力を習得せよ



どの頁を読んでも考えさせられます。そして、本書は組織で働く者(*4)に今でも希望と意味を与えると思います。


  1. 「自己実現」という言葉はクセモノです。先に批判的な事を書いた「健全な肉体に狂気は宿る」(内田、春日)の中で、「自己実現」ってことばも、もう死語にして欲しいと内田氏は主張していました。
    「自己」って単体で存在するものではなくて、人間たちを結びつける社会的なネットワークの中でどういう役割を演じるかということで事後的に決まってくるものなんですから。(P.51)


    内田氏の「自己」に対する定義には同意します。この後に内田氏は、

    (就職活動をしている学生たちは)「自分はこれがしたい」ということは一生懸命言うんだけれど、「自分は他人のために何ができるのか?」という問いは思いつかない。(P.52)

    と書いています。まさにドラッカーの言う「組織」と「成果」に対する言及になっています。そこから何故「自己実現」否定に繋がるのか、私の考える「実現」と、ロスト・ジェネレーションの「実現」の意味合いが違うのでしょうか。

  2. 私は新しい部下が配属された場合、彼が7年目以上であれば真っ先に「君は何ができるのか、何が得意で、何ができないのか」と聞くことにしています。たいていの者はキョトンとして問われた事の意味さえ理解できない顔をします。ある程度私の下で働いた部下には、今の君のミッションとコミットすべき事を説明せよと問います。これにもキョトンとした顔をされることがあります。上司としての私の指導不足を痛感する瞬間です(^^;;; (>え?自分がこの問いに答えられるかって??)

  3. 「労働者=組織の歯車」という図式はプロレタリア時代のものの名残であり、現在の知識労働者にとって当てはまるアナロジーであるかは疑問です。知識労働者が志向するフラットな社会においてはなおさらでしょう。

  4. 世の中には組織を必要としない能力の持ち主も居ます。そういう人はドラッカーの書の対象ではないのでしょう。何でも自分で出来て、成果を上げられるのですから。


2007年1月2日火曜日

内田樹、春日武彦:健全な肉体に狂気は宿る


「健全な肉体に狂気は宿る」という秀逸なタイトルに惹かれて買った本。内容は内田樹氏と精神科医 春日武彦氏の対談(ということになっている)をまとめたもの。


タイトルの言葉は春日氏が放った言葉(P.164)、精神病は身体が悪くなると治る傾向にあるらしく、精神病は身体が健全であって初めて成立するというような意味らしい。この本に特徴的なように、放談に近い内容ですから、その点を深く議論したものではありません。成る程と思う見方ではあるものの、言葉の持つインパクト以上のヒネリはなく、肩透かしな感じは否めません。(つまり粗雑ということ)





この本は、誰に向けて書いた本なのでしょう。帯に「自分探し」禁止!!とありますから、最近の朝日新聞が作り出したがっている「ロスト・ジェネレーション」(*1)に対してでしょうか。世代論で捉えることの危険性は本書でも説かれています(第1章 世代論に逃げ込むな)。それでも、ここに書かれていることは一面的に過ぎるような気もして、素直に頷くことはできません。


そもそも、本書は「対談」ではありえませんしね。春日氏が結構面白い視点で話し始めるのに、すぐに内田氏がその10倍くらいの語量で自分のことを延々と話し始める・・・、この調子ですから実は最後まで読み通すのが結構苦痛でした。最初から「対談」ではなく内田氏の本と思って読めば、面白く読めたのかもしれません。本書を読んだあと、内田氏と春日氏のどちらを読みたいと思うかといえば、間違いなく私は春日氏です。


とはいえ、内田氏の持論である「自分が一番分からない」「次に自分が何を話すか分からないが、そういう分からない主体こそが自分であり、自らの言葉だ」という主張はここでも健在です。この主張は非常に深いものがあると感心はしていますし、そういうことを表現できる内田氏には敬意も感じています。でも、内田氏がここで話す内容は、春日氏のコメントに触発されて論理を飛躍させた「分からない自分」を装った自己談義と感じてしまい、おいしくいただけません。


私は、今更「自分探し」をやり始めることはありませんので、いくらリサイクル書店で安くて他にめぼしい本が見当たらなかったからといったって、この手の本を読む必要はなかったのでしょう。朝日の指摘するような「自分探し」とか「個性」を求めての無間地獄に陥っている人(*2)には助けになる本なのかもしれませんから、本書を全否定はしません(*3)。それに、実は至言も含まれていますので、とみきち読書日記にTBしておきます。


  1. 朝日の定義は、ガートルード・スタインのそれになぞらえて、日本の25~35歳代、失われた10年に就職年齢に達した、いわゆる「置き去り」世代を指す。

  2. 今年は2007年問題のひとつ、すなわち「団塊の世代」が大量定年を迎え始める年です。彼らの裕福さや価値観と対極にあるのが団塊の世代の子供、すなわち「ロスト・ジェネレーション」という構図で、ニートやフリーター、そして格差問題を考えるという視点は多いですね。日経新聞は「サラリーマン2007」と題して、団塊の世代の特集を組んでいます。

  3. 内容以前に、粗雑な本(新書に多い)の造り方に憤りを感じます。この頃の新書に共通のことで、今更憤っても仕方ないです。