2007年2月27日火曜日

[NML]嗚呼、桶が聴きたい=デイヴィス、クレンペラー


「カラヤンとフルトヴェングラー」(中川右介)を電車の中で興奮しながら読んでいたもので、突然に「オケが聴きたい!」となった。NMLの2月のラインナップを見ていたら下記の曲が見つかった。時間がないからツマミ食したところ、あまりにも美味しかったので_〆(^ ^。)メモメモ

��>本書の3名の演奏を聴かないところがミソである)




グレイトは1996年のライブ録音。うあァァ~・・・、やっぱり「グレイト」は偉大だ。カペレ万歳、デイヴィス最高。終楽章しか聴かなくてゴメンよ。時間のあるときに全部聴くっ! なんて堂々としていながら、キラキラとした演奏なんだろう。


クレンペラーのベト7は1955年盤はモノラル。1955年といえばクレンペラーがフィルハーモニア管の首席常任指揮者になった年。先の書でも登場する有名なウォルター・レッグの導きによりEMIに録音されたものらしい。これも終楽章だけしか聴いていないのだが、キレの良い颯爽とした演奏。


��番は3楽章と終楽章を続けて聴いた(NMLもギャップレス再生に対応してもらいたいものだ)。これもテンポもよく、余りにも素晴らしい演奏だったので、最初に戻って第一楽章を後から聴くというマヌケなことをしてしまった。


半端にしか聴いていいないのに、クレンペラーについても、これ以上書くとsyuzoさんに睨まれそうなので詳しくはこちらを参照されたい。NML改めて恐るべし。

2007年2月26日月曜日

NMLの功罪・・・てほどでも


��MLで聴いた音楽の感想を書くのって、誰かも書いていたようにちょっと後ろめたい・・・。正規に音盤買わないで、解説も読まないでPCを通したチープな再生装置で聴いて「音盤の感想気取りかよっ」みたいな・・・。でも月1890円払っているんだから、「立ち読み」した本でエントリ立てるよりいいぢゃないか、とか・・・。


だから、もうやめたいんですよね、NML聴いてのエントリなんて・・・と思っていたのに。


kimataさんお薦めのファイの「熊」聴いてみましたよ、これは他の盤も聴いてみたいと思わせる演奏ですな。ハイドンなんて、アダム・フィッシャーとかアーノンクールくらいしか聴いてないかも。Schweizer_Musikさんお薦めのエネスコの終楽章は祈りにも似た平和で美しい音楽で驚きます。yusukeお薦めはサン=ジョルジュですか・・・、サリエリだってまともに聴いたことないのに、そこまでフォローしきれませんっ!(>と言いながら聴いている)


・・・ですから、お願いですから、もうやめて欲しいんです、NMLの音盤紹介は、キリがありませんっ!買ったCDが全然聴けていませんっ!中川右介氏の「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬舎新書)という抜群に面白い本も、一気読みができませんっ!!天気が良いのに外出もしないで、引きこもり状態ですゥっ!!こんなことでは、クラヲタになってしまいま・・・す・・・

2007年2月25日日曜日

内田樹:下流志向~学ばない子どもたち、働かない若者たち



本書は内田氏の5時間近い講演内容をまとめたものです。内田氏が以前より自らのブログに書き続けてきた内容ですので、それらに一応目を通している人には、それほど目新しい知見があるわけではないものの、改めてまとめて彼の考えに触れると、イロイロと考えさせられてしまいます。


氏は、学ばない、働かない若者が発生した原因について「今の子供たちが労働主体として自分を立ち上げる以前に、消費主体として自己を確立している」という仮設を立てています。




消費は金銭と商品の「等価交換という無時間モデル」を前提としていのだそうです。ですから、消費を前提として確立された自己は、教育とか労働とか時間軸で考えなくてはならない活動さえ「自分にとって意味があるかないか(交換に値するか)」という狭い尺度で計ってしまうのだそうです。そういうような事が延々と書かれています。それ自体は非常に鋭い洞察であります。「等価交換の無時間モデル」と言うことが、ちょっと分かりにくいのですが、言いたいことは理解できます。


「等価交換の無時間モデル」ということを、私なりに考えると、自らの時間をどこまで対象にさく事ができるのか、ということに還元されるように思えます。内田氏は生徒が学校で授業を聞く対価として払っているのは不快という貨幣(P.47)であるとしています。面白い見方ですが、ちょっと理解しにくい。不快という「感情」ではなく、むしろ「不快な思いをしている時間」と考えた方が分かりやすい。「自らの時間の切り売りと、それに対する見返り」という簡単な観点から考えればスッキリします。


最近の新聞を見渡すだけで「ROI(投資利益率 )」とか「レバレッジ」などのビジネス用語が目に付きます。レバレッジとは金融用語として理解されていますが、要は「テコの力」、手持ち資金より多い金額を動かすこと。そんな言葉を使って「レバレッジ・リーディング」なんて本も出版されているようです。また最近の健康ブームの中で「デドックス」ということも流行っていますが、自分の老廃物を目で確かめるという行為が流行っているのだとか。


もう一つの例えで考えると、最近の男性は中年を含めてファッションに目覚めたことを指摘する人は多い。これらの行動も「デキてモテるビジネスマンへ(アッという間に)変身したい」という速効性を求める心理から来ているのでしょう。時間をじっくりかけて内面を磨くことで自分を高めたという従来型の時間モデルが過去のものとなったことを意味しているのかもしれません。納豆ダイエットに踊った人も同様かもしれません。


効率化とは、自らの時間(労力)を切り詰め速効性を得ようとする動きです。個人の最大のリソース、すなわち資源とは時間でしょう。イロイロなところを速効性と等価交換の無時間モデルが支配し、そこに消費の網が張り巡らされている。いや逆か、あらゆるところが消費に結びつくから無時間モデルになったのか。


成る程と関心ばかりもしていられません。そういう消費の網の目にさらされた我々と次の世代から等価交換とか消費によらない「時間モデル」を取り戻さない限り、ニートや格差問題どころか、福祉問題さえ解決できないことを本書は示唆しているようです。


内田樹氏ですから強引な解釈は多いものの、本書を読む程度の時間を割くことは、あなたにとって「損」にはならないはずです(笑)

2007年2月23日金曜日

[NML]Sophie Yatesのクラヴサンでヘンデルの組曲を聴く

Sophie Yatesの演奏によるヘンデルの鍵盤曲をNMLで聴いてみました。Vol.2では組曲No.1~5を、Vol.3ではNo.6~9を聴くことができます。




ヘンデルはJ.S.バッハやドメニコ・スカルラッティと同年の1685年に生まれています。スカルラッティはホロヴィッツに限らず、ピアノ奏者が時々取り上げる作家ですから少しは馴染みがあるのですが、考えてみるとヘンデルの鍵盤曲など私はさっぱりです。ヘンデルの諸作品を聴きながら気付きます。Yatesが良いとか言う以前に、私は古楽どころかヘンデルが何者であったのかさえ知らないことに。


第5番ホ長調(HWV 430)の終曲は「調子の良い鍛冶屋」として有名ですが、変奏曲としては少し単純。むしろ短調の曲に魅力を感じます。特に第7番ハ短調(HWV 432)の終曲のPassacaille(パッサカリアの主題と3つの変奏)は、かなり激しい調子となり鍵盤を駆け巡り、聴いていてドキドキします。重層的な音符の重なりは、オルガン的な雰囲気さえ漂わせ感動的でさえあります。

2007年2月21日水曜日

[NML]Sophie Yatesのクラヴサンを聴く

Sophie YatesのクラヴサンをNMLでもう少し聴いてみました。







これもラモーのクラヴサン集です。Yatesの芳香が充分に伝わってきます。Suite in AのGavotteは平易で可憐なテーマの変奏曲になっています。レースが連なっているかのようなフレーズは繊細にして華やかで、そして少し哀しい。むせ返るくらいの華麗なる音符に彩られて、最後は激しいまでに変奏してゆく様はなかなか圧巻で、何度も繰り返して聴いてしまいます。最後のLa Dauphine in G minorも短い曲ながらキリリとした一品。どの曲もそうですが、どうしてラモーはこんなに切迫した音楽を描いたのでしょう。




ラモーに比べるとL.クープランは悪くはないんだけど、聴いていてちょっと飽きてしまうところがあるかな・・・。というか、余りにも気持ちよくて、そのまま眠ってしまいました(_ _)ZZzzz...


Yatesのクラヴサンは、ヘンデルのセットもCHANDOSから供給されているようで、確かにこれはキリがありません。

2007年2月19日月曜日

国立新美術館と黒川紀章展



六本木の東京大学生産技術研究所(生産研)の跡地に建設された国立新美術館に行ってきました。企画展示が目的というよりは、建物を観に行く事が目的、建築家 黒川紀章の設計によります。うねるようなガラスの曲面の写真は新春のマスコミ紙上を賑わしました。生産研の建物は、もとはといえば旧歩兵第三聯隊兵舎として利用されていたものです。この建物はわが国最初の本格的鉄筋コンクリート造兵舎建築として建築的価値を有していたとともに、2.26事件の舞台ともなった歴史的意義を持っていました。


当然、建築学会などは保存を要望していましたが、取り壊され左のような「断片」が別館として免罪符的に残されて現在に至ったわけです。




私は過去の老朽化した建物をむやみに保存するという立場には与しませんが、経済効率を全面肯定した破壊と再生にも疑問を感じています。この建物がどういう経緯で黒川氏の設計となったかは分かりませんが、いずれにしても自ら収蔵作品を持たないというコンセプトで国内最大級の展示場(14,000㎡)を有する壮大な建物が出来上がりました。



1月21日(日)~3月19日(月)にかけて「黒川紀章展 -機械の時代から生命の時代へ-」という展覧会も開催されており彼の作品を振り返ることができます。


その中で黒川氏は、自らの代表作である「ソニータワー大阪」が建築家 大江匡氏の計画で建替えられることに対し、「本気か!」と訴えています。展覧会入ってすぐに、建物の写真とともに、とてつもない大きさのキャッチ(文字)が目に飛び込みますので、事の次第を予め知ってはいても、かなりドキリとします。「国立」の名の下の企画展で個人名指しでの批判は、かなりのものです。


中銀カプセルの構想をオフィスビルに(ショールーム)として展開した重要な作品であったが、取り壊され建築家大江匡氏が新計画をつくっていると聞いている。 本気か!


黒川氏は相当怒っているようです。展覧会出口では紋付ハカマ装束に日本刀を携えて来館者を睨んでいます。



私は黒川氏の建築に共感したことは、ほとんどありませんし、いわゆる彼らの唱えたメタボリズム建築も、ちっとも良いとは思いませんので、解体されることも時代の流れかなという気はします。彼の作品に「都市文化遺産」としての価値があるとしたら、それはコンセプトにおいてであるように思えるのです。メタボリズム、サスティナブル建築という概念には賛同しますよ、間違ったことは言っていませんから。


そもそも、黒川氏だけに限りませんが建築家というのはムツカシイ言葉で自らの作品を語りたがります。黒川氏のキーワードは「共生の思想」「メタボリズム」「唯識思想」などなど・・・、凡人の私には何のことやらです。彼のコンセプト・ワークと出来上がった建物の落差に眩暈を覚えることもしばしばです。


だからというわけではないのですが、どうも私は凡人理解不能な言葉を吐くタイプの建築家という人種が信じられません。建築において重要なのは使い、住むことです。デジカメや車や炊飯器にコムツカイ コンセプトや哲学は不要なように、建築だけが思想にまみれているのは、建築家の傲慢を吐露するための呪文でしかないと考えるのは私だけでしょうか。写真のように「断片」を残された旧歩兵第三聯隊兵舎は(表参道ヒルズの同潤会アパートでもそうだったように)、無残としかいいようのない姿を晒しています。



バルトリ/ヴィヴァルディ集


バルトリが好きであるかどうかは別としても、私がヴィヴァルディについて認識を改め、そしてバルトリの凄さを知ったのは、紛れもなくYou TubeにあったAgitata da due venti(これこれ(*1)であったことは白状しておきましょう(*2)


そしてこのアルバムは、バルトリがミラノの古楽器アンサンブル「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」と共演した、まさに攻撃的にして挑発的なヴィヴァルディ集です。想像以上に刺激的な盤に仕上がっています、まさに両者の面目躍如といったところでしょうか。全く飽きさせずに最後まで聴きとおしてしまいました。






The Vivaldi Album/Cecilia Bartoli


  1. 歌劇「テンペーのドリッラ」RV.709~そよ風のささやきに 
  2. 歌劇「グリゼルダ」RV.718~恐ろしい嵐のあとは 
  3. 二つの瞳に真(まこと)ささげて窶(やつ)れゆくのは 
  4. 歌劇「狂乱を装ったオルランド」RV.727~「何を言っているのかしら?…私は行こう,飛び行こう,叫ぼう」 
  5. 歌劇「テルモドンテに向かうヘラクレス」RV.710~ささやく春のそよ風よ 
  6. 歌劇「忠実なニンフ」RV.714~むごい運命に苦しめられる魂は 
  7. 同~言ってください,ああ 
  8. 歌劇「ジュスティーノ」RV.717~不運な小舟は 
  9. 同~運命よ,おまえは私を招いたが…私には胸中,それほどに強き心がある 
  10. 歌劇「オリュンピアス」RV.725~さまざまな愚かさのなかで…我われは凍る冷たい波間の船 
  11. 歌劇「ファルナーチェ」RV.711~凍りついたようにあらゆる血管を 
  12. 歌劇「バヤゼット(ティムール)」RV.703~海もまた沈めようとするようだ 
  13. 歌劇「テウッツォーネ」RV.736~戦闘ラッパの


  • アントニーニ(ジョバンニ) (con), シュウテン(サイモン) (con), イル・ジャルディーノ・アルモニコ, バルトリ(チェチーリア) (sop), アルノルト・シェーンベルク合唱団
  • DECCA 466 569-2




バルトリの歌唱力は、例えば最初の一曲を聴くだけでも驚愕としか書きようがありません。物凄いスピードで上下する音程、震えそして煽るかのような旋律、鉈でザクリと切り取ったかのようなキレの良さ、そして独特の存在感と太さを持った声音。別な見方をすると、かなりアクが強いと言ってもいい。聴く方にも、ある程度の許容力と体力が必要です。


しかし、一度その魅力に取りつかれてしまうと、もういけません。バルトリが良いのかヴィヴァルディが凄いのか自分でも判然としないまま、両者のかもし出す音楽はスパイラルのようにカラダ中を駆け巡ります。次第に血中ヴィバルトリ濃度が高まり、ついには脳内麻薬様物質が分泌されていくかのようです。


ヴィヴァルディは好みの旋律を使いまわすことが多かったのか、例えば1曲目などは、そのまんま「春」になっています。以前エントリした、「オリンピアーデ RV.725」のDel'aura a sussurarでも同じように使われていた旋律です。11曲目は、さながら「冬」でしょうか。


ヴィヴァルディの歌劇はスピノージの演奏などがネット上で話題なんですが未聴です。次あたりは聴いてみようとおもっています。



  1. ちょっと、というか、かなりコワイ・・・
  2. Sandrine Piauのこの映像("Alleluia" RV626 )やこの映像("Spirat anguis inter flores" RV630)もスゴイかった・・・

2007年2月18日日曜日

[音楽メモ]ラモーのエントリ

先日ラモーをNMLで聴いたと書いた。その後、いくつかのサイトでラモーに関する記事を目にしたのでメモしておこう。




青柳恵介:風の男 白洲次郎



グローバル化とか国際化という言葉が日常的な昨今において、白洲次郎が改めて読まれ再評価されているということ。TVなどで紹介されることもあり、初めて白洲の素顔を知る若者達は素直に彼の生き様を「カッコイイ」と評するかもしれません。


組織に縛られず、戦後の占領下にありながらも日本人としての自らの主張を崩さなかった姿勢、飄々と生きながらも戦後政治の中に確たる足跡を残した存在感、多くの企業の会長や役員を勤め、80歳になってもポルシェを乗り回す姿・・・。確かにこんな日本人が今の世の中にいるかと。





本書は白洲正子氏が親しくしていた青柳恵介氏に「白洲語録」をまとめて欲しいとしてまとめられたもの。従って、白洲次郎の足跡を忠実に辿るというよりは、白洲次郎に親しい人たちが白洲を偲ぶというような書になっているようです。それ故に、彼に対する深い敬意とともに、ともすると伝説化あるいは神聖視の一歩手前の気配が漂います。それらを差し引いて読むならば、彼の颯爽とした素顔に触れられる思いがします。書題に「風の男」とあるように、読後に一陣の風の吹かれたような清々しさが残り共感と感動を覚えます。でもやっぱり、ちょっと「ズルイな」というヤッカミを感じることも否定できませんが。


彼のスタイル、あるいは「Noblesse Oblige」という精神は、欧米のそれであり英国留学によって養われたものででしょうが、彼にはそれを自然に行える下地がもともと備わっていたのでしょう。日本人であることの矜持を忘れないながらも日本人の枠には留まらなかったこと。日本という狭い枠だけで日本を捉えるのではなく、世界的視座において日本を位置づけ国益を主張すること、こういう姿こそ国際人であるのかと。


彼を知ることで、改めて日本人であることとか国際化ということを思い直さざるを得ません。

2007年2月17日土曜日

[雑感メモ]国を愛する心


「国を愛する心じゃなくて、人を愛する心でしょう! 子どもに教えなきゃいけないのは」


音楽ジャーナリスト林田さんの奥さんのお言葉にハッとする。(いまの子どもに「ゆとり」なんかない~LINDEN日記)


余裕のある子供と、ない子供も二極化しているかもしれない。そもそも「人を愛する心」は「教えられる」ものなのか?他者へのリスペクトの欠如、貧困な社会参加意識。国益の尊重とファナティックな祖国への愛情、埋めがたい欠如感を埋めるための共同体幻想、愛国感。「人を愛する心」といったときの「人」のもつスコープ。

ガッティ/ヴィヴァルディのヴァイオリン・ソナタ集






ヴィヴァルディ:ヴァイオリンと低音のためのソナタ集 Op.2より


    第2番/第3番/第4番/第7番/第1番/第9番/第5番


  • Enrico Gatti(vn)、Ensemble Aurora

  • Glossa GCD921202M




私は古楽ファンであったことも、更にはヴィヴァルディの音楽を好んでいたわけでもありません。従ってネット上の古楽ファンの方々が絶賛している、エンリコ・ガッティの演奏について、あれこれと述べる語彙を持ち合わせてはいません。


ある人は、店頭で視聴した途端に耳を奪われて動けなくなってしまった。。Sonnenfleckさん)と書いています。ということで、かなり期待して聴き始めたのですが、期待はずれが半分、期待以上が半分という交錯した感想が第一印象。



期待はずれは、私がヴィヴァルディの音楽に求めた「ヴィヴァルディ的刺激」が希薄な曲であった点。これはOp.2というヴィヴァルディ初期の作品である所以と理解、幾人かが指摘しているようにコレルリ的と言われれば、ああそういうものでしたかと合点。期待以上であった点は、今更私が繰り返すまでもないこと。ガッティの演奏の確かさと瑞々しさ、アンサンブルの快楽、音楽がヴィヴィッドでカラダの芯の深いところまで何の抵抗もなく染みわたっていくことの心地よさに浸るのみ。


「フルーティーさ」「ほのかな甘み」「可憐さ」「可愛さ」「蜜がとろりと滴るような美音」などの修辞が感想に踊っていますが、私が聴き取ったのはそういう所謂女性的な特性ではなく、音楽に立ち向かう確たる姿勢と端正さ、そして力強さであります。作品の輪郭が抒情に流れずにくっきりとしている。しかし演奏は全然堅苦しくない、アンサンブルのさざめきに乗って自在にガッティがカラフルに描き踊る。決して扇情的にならずに興奮を作り出す品の良さときたら、あちこちのフレーズで震えがくるほどです。


ああ、確かに・・・ガッティって、何だか分からないけれど「良く効く薬」みたい、あまりにも素敵かもしれない!(>1枚しか聴いていないので判断留保、しかしiPodには即入)

2007年2月13日火曜日

TACETによるバッハの録音




J.S.Bach:Partitas

  1. Partita BWV1002
  2. Partita BWV1004
  3. Partita BWV1006

  • Florin Paul(vn)
  • TACET 10
  • Falicon,Nice,France




西ドイツのTACETからフローリン・パウルの演奏するバッハを聴いてみました、とにかく録音が凄いと知人が強く薦める盤です。


フローリン・パウルは1958年ルーマニア生まれのヴァオリニスト、使用楽器は1968年製のストラディヴァリ。録音には西ドイツの伝説的とも言われるコンデンサ・マイク、Neumann U47が2本使われています。オーディオの比較視聴にも使われているらしい本盤。


早速、当方の貧弱な再生装置(+ヘッドフォン)で聴いてみたのですが、確かにこれは驚きですね。ヴァイオリンの音の伸びやかさと深み、そして艶やかさが余すことなく伝わってきます。フォルテに至っても音にトゲトゲしい部分は全くありません、全く惚れ惚れするような録音です。


偏見を恐れずに書くならば、この録音の凄さはヴァイオリンの原音を忠実に再現とかいった微分的なアプローチではなく、音が連綿と繋がっていく積分的な広がりにあるように思えます。空間に響く適度なエコーが至福の音楽空間を展開します。チープな装置でも、その片鱗は伺えるようです。


本来的には、録音云々を評するような環境を有してはいませんので、この程度にて失礼。演奏は素直だと思います、とりあえずiPodに入れておくこととしました。

2007年2月12日月曜日

天気が良いので、ラターとかラモーとかタリスを聴いて、うたた寝する



三連休中日。今日は溜まった新聞を読んだり、片付けをしたり、買い物をしたり、散髪に行ったり、音楽を聴いたりなどで気ままに過ごす。




��MLを聴く環境をバージョンアップさせた。といっても、安価なミニ・コンポをPCに繋いだだけなのだが音質は劇的に向上。通販で頼んだパーソナル・チェアも届いた、これもかなり快適。かくなる上は、更なる引きこもりライフ目掛けて一直線!てか?(>それにしても部屋が更に狭く!)



ちなみに、Naxosが薦めるままに数枚をタラタラと聴く。



これは林田さんの推薦盤、ラターのレクイエムは本当に心洗われる。


あと山尾さんが推薦するタリスの合唱曲も聴いた。こちらも多声の合唱があまりにも心地よく、外は富士山さえ見える好天だというのに、昼間からうたた寝をしてしまった。



ラモーの作品集は《Les Cyclopes(一つ目の巨人)》が入っているもの。なぜ、今ラモーの曲なのかはここ

ラモーのクラヴサン、ロココ趣味とはいいながらも、重く激しい、いいぢゃない、これは(^^;;;Cuckstonは男性的で結構激しく、Yatesは女性的で繊細にして清楚。《Les Cyclopes》もいいが、《Tambourin》なども聴き比べてみると面白い。どちらが好みかは、その時の雰囲気による、ロココイメージで聴くなら後者か?  いつか時間があったらじっくりと聴いてみたい曲集だな(>と言いながら、二つの盤は通して聴いてしまったが)。



ところでNaxosの推薦タイトルはアクセスするたびに盤が入れ替わってしまう。もう一度聴こうと思っても、カタログ番号でもメモしておかなければ検索にかなりの時間がかかる(探しきれないこともある・・・)のが難点。推薦タイトルの林田さんや山尾さんの文章も、どうやったら再度読めるのだろう?


またプレイリストに登録しても、原盤へ1クリックでアクセスできるサービスも(何故か)提供されていない。再生した曲の個人情報をDBに保存しユーザーにマッチした推薦盤を提供するという機能もなさそうだ。従って、こうしてセッセと気になる曲はメモしておくしか当面はなさそうである。



新しいCDを買う意欲やまともなCDレビュを書く意欲は、いまだ減退中。

2007年2月4日日曜日

[個展]日高理恵子展




日高氏は一貫してモノクロームの見上げた樹木を描き続けている作家です(参考サイト)。日経新聞で紹介された記事を観て、何やら気になって仕方がなくて観に来た個展。



最初に絵を観たときには、もっと細密な絵を描く人であったかと思ったのに、近づいてみると、ボウボウと結構大雑把な筆致。あれ、これは思い違いであったかと一瞬落胆したものの、実はそんな技巧的なものが彼女の絵にとってモンダイではないと気付きます。


彼女の絵は、その作品に近づいているときにではなく、絵からかなり離れて鑑賞することによって、驚くべき空の輝きと深さが感知されるようにできています。会場正面に掲げられた3点の絵は、高さも間隔もマチマチに配されているのですが、これが「一体」の作品であることにも気付かされます。そうしてみると、この白く塗られた小さな個展空間そのものが、単なる絵画作品を鑑賞する場ではなく、インスタレーションの場そのものと思われてくるのです。


空間に漂う静謐さ。樹木をそして葉の一枚一枚を丁寧に描いていながらも、そこには具象を超えた抽象があり、類稀な空間表現があります。具象でありながら余計なものが削ぎ落とされた洗練、「ミニマル」な表現と解説パンフにはありますが、そんな窮屈な反復ではない、どこかスコーンと底の抜けた感じが気持を共振させます。


彼女が今回の個展に使っている画材は岩絵具。以前はドライポイントという銅版画も技法として用いていたようです。先日私は「素材はテーマや思想を規定するのか」と書きましたアクリル絵具には、画面を皮膜のように覆ってしまう感覚があって馴染まないという日高氏。それに対する応えとして他の個展での日高氏自身の文章を以下に引用しておきましょう。


岩絵具や胡粉、特に胡粉には何か表層が呼吸している感覚があります。胡粉そのものの質感や光をキャッチする受容体ともいえるような一粒ごとの存在感が、私の感じた空間、空気や光を表現するのに適している

テーマが素材が規定するのか、素材がテーマを規定するのか、どうでもいいようなことなんですがね・・・。




2007年2月2日金曜日

[NML]吉松隆:天使はまどろみながら他

再び先に紹介したCHANDOSの吉松隆のアルバムから、



このアルバムは、あちこちで評価が高いようだが、クラシック音楽に馴染みのない人にも受け入れられる内容になっている。というか、これを「クラシック音楽」と評して良いものなのか、いや、「クラシック音楽」って何なのか・・・、この手の話題こそ不毛か。



《鳥は静かに》は弦楽オーケストラによる静かな音楽。静かにというくらいなので、ゆったりと抒情的な音楽が流れる。これは確かに良い・・・。武満的な晦渋さは感じない。それ故ヒーリング系とくくられてしまえば、それまでか。曲を聴いていると、それだけで救われる。


《天使はまどろみながら》も吉松的なピュアさ、イノセントさが際立つ。弦楽オーケストラの響きは怜悧にして哀しいくらいに美しい。田部のピアノは積極的には使われていないが、音楽世界にマッチする。天使の~というよりは、蒼い氷河の下で静かに溶ける水の音を聴いているかのような気に(私は)なる。


《白い風景》は弦楽オケ、チェロ、フルートそしてハープによる曲。やっぱりフルートの音色って好きだなあと思う。


いいぢゃないか、こういう曲を「好き」と言ったって。

[Wanted]ガッティのヴィヴァルディ


ここまで激賞されれば入手せずばなるまい・・・



この他のサイトでも言及しているエントリがあった気がするけれど失念。

[NML]吉松隆:ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」


引き続き、吉松隆の音楽をNMLで聴く、本日は田部京子のピアノで「メモ・フローラ」。




テーマは宮沢賢治による。花畑(スコア)に花(メロディ)を植えてゆくというイメージ。吉松的なリリシズムが感じられるが、美しく、繊細すぎるきらいもある。特にPetals(花びら)と題された第二楽章。許容可能なギリギリの線で限りない美しさ、和音の重なり、そして静謐さ。これをどう捉えるか。美しくて何が悪いという開き直り。


谷山浩子的なピュアさを感じるというのは、大きな勘違いか。

2007年2月1日木曜日

[NML]ヴィヴァルディ、吉松隆、ブラームス


本日はNMLで以下の曲をつまみ聴き。




ヴィヴァルディの「勝利のユディータ RV.644」は、昼休みの視聴。アリアだけを聴いている。ストーリーまだ全然理解していない。


吉松隆とネーメ・ヤルヴィとロンドン響によるブラームスは、イギリスCHANDOSによるNML1月の新着。NMLで吉松と須川の音楽を聴けとは、なんて幸せなことであろうか。