2007年3月31日土曜日

安藤忠雄 特別企画~2006年の現場 悪戦苦闘


東京ミッドタウンにできた安藤忠雄設計による21_21 DESIGN SIGHT(→公式HP)に行ってきました。オープン特別企画は「安藤忠雄 2006年の現場 悪戦苦闘」(→公式HPより)という、まさにこのスペースを造るためのメイキングのような企画展。黒川紀章の国立新美術館でのオープン企画と異なり、ここに入るには1000円が必要です。


建物の殆どは地中に埋められており表参道ヒルズ直島地中美術館など最近の安藤作品のスタイルが踏襲されています。


展示内容は、主として本建物が現在の形に至るまでの数多くのエスキスやスタディ模型が時系列に並べられており*1)、ひとつのプロジェクトにかける無数のアイデアと労力を知ることができます。また東京で現在進行形の5つの新プロジェクトについても俯瞰できます。




伊藤豊雄の建築展でもそうでしたが、安藤氏も素材感とか現場の肌触りに拘ります。特に安藤氏は昔から職人と一体になって建築を造るという意識を強烈に打ち出しています。建築家のイメージなりディテールを具現化するには数多くの他者を介さないと実現できない。自らのアタマと手が一致していない。安藤氏は自分の世界観を他者に向って徹底的に語り、自ら描き、コミュニケーションによってそれを理解させ、恐るべきパワーでカタチにします。彼は啓蒙者であり教育家でもあり革新家でもあるわけです。


もっとも、そうして出来た空間に共感を覚えるか否かは個人的な問題になります。それでも彼の存在と活動には敬意を覚えます*2)。大きなガラス面からの光は、地下の中庭を通してホールや展示空間にまで柔らかく届きます。極めてストイックでシンプルなコンクリートの壁に、際立ったエッジ。若者は彼の研ぎ澄まされたデザインに共感を呼ぶのでしょうか、来館者にも若い人が多い。


ワンパターンと言ってしまえばそれまで、しかしやはり説得力はある。少なくとも彼の建築は今の時代には合っているのように思えます。安藤のモチーフを用いた空間が東京においても増えることは、否定すべきものではないと考えます*3)




  1. これで1000円かよ、事務所に積んでいたものを寄せ集めて企画展なんて、安易過ぎる!などと不満に思ってはいけない。作家のイメージの変遷に直接触れることができる点にこそ観るべきものがあるのだと・・・思おう。
  2. 好きか嫌いかと言われれば・・・、独逸ロマン派も良いけどたまにはクセナキスだって聴いてみたいだろう、みたいな。ん?ちょっと違うか(<--かなり)
  3. クライアント側が、あまりにも無難に安藤氏や隈氏などの流行作家を選ぶことに疑問を感じないわけではない・・・。またかよみたいな、世界にはもっともっと前衛的な作家がいるのに、みたいな。

 


2007年3月26日月曜日

[NAXOS ML]ハイドン:ピアノ三重奏曲

syuzoさんがハイドンのピアノ三重奏曲が良いというものだから、NMLをガサガサ*1)やってGryphon Trioによるアルバムを聴いてみる。


Gryphon Trio*2)はトロントを拠点としたカナダのトリオ。ハイドンばかりではなく、ベートーベン、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、モーツァルトそしてカナダの作曲家の音楽も録音している。


演奏は鋭角的なバロックではない、Prestoもひたすらに柔らかいので安心してハイドンの明るさを満喫することができる。練習曲みたいなものですって? とんでもない! 確かに一聴して平易なようですが、この楽しさときたら!まさに春ってカンジかなァ。有名な25番の第2楽章Poco Adagioの優雅さときたら*3)




  1. ネットなので「ガサガサ」なんて音はしない、書くなら「チクチク」である。
  2. Annalee Patipatanakoon, violin、Roman Borys, cello、Jamie Parker, piano
  3. いい加減、買ったCDの感想書けよと言われそうですが・・・

2007年3月25日日曜日

山本七平:日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条


毀誉褒貶、賛否両論の多い山本氏の本(初出1975~76年「野生時代」)、2004年初版以来19版を重ねています。帯の奥田硯会長が「ぜひ読むように」とトヨタ幹部に薦めた本というキャッチが効いています。世界の大企業と真っ向勝負をして時価総額を高めているトヨタの会長が薦めるのですから最強です。


私にとって山本氏とは「胡散臭い」というイメージが刷り込まれています。学生時代は朝日新聞、本多勝一的な思想の影響を少なからず受けていましたし、イザヤ・ベンダサンの名で出した「日本人とユダヤ人」も成る程と感心する以上に浅見氏の批判の方が印象に残っています。ですから今更山本氏の本を読むことに抵抗はあったのですが、あれから私も随分齢を重ねました。




もっとも、虚心に読むならば、山本氏のメッセージは割りと素直に現代に生きる私に届いてくる。山本氏の根底にある、自虐的な日本人観に違和感や嫌悪感を覚える人もいましょうが、許容できる部分と、そうではない部分を切り分けて味わってみれば、考えなくてはならない点は多々あるのだと思います。


本書は、軍属としてフィリピンに赴き、捕虜となった小松真一氏が、戦争当時に書き綴った「虜人日記」と「敗因二十一ヶ条」をベースに、太平洋戦争の敗因とその後の日本について言及した本です。太平洋戦争に対する疑問や反省、敗因分析の妥当性にのみ論点を見出すと、山本氏の提示した問題点を矮小化してしまいます。私は所謂「山本学」に私は精通しているわけでもないので、欧米と比較した「日本人論」として読むこともしません。


そうした中から抜き出したエッセンスは、組織論と意思決定という点。本書を貫くのは各章で繰り返される「組織内における自己規定の問題」に尽きています。そして明確に、通常の自己と組織の自己が連続したものとして規定されていることが重要であると説いています。

本書の最後の4行は、私には衝撃的な一文でした。


戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を! どこに自由と、それに基づく自由思考と、それを多人数に行う自由な談義があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だわれわれを拘束しているということである。(P.311-312 「第十二章 自由とは何を意味するのか」)


この言葉は、戦中の国民の潜在的意見(すなわち国民の日常性における戦争への疑問と不信、実生活との乖離、厭戦観)が世論になりえず、国の基本方針となり得なかった、ということにつながっていると思います。


敷衍するなら太平洋戦争の敗因は日本の意思決定の誤りであると山本氏は言っています*1)。日本国の指導者が、戦争突入という最も高レベルにおける戦略的意思決定において、意見の対立を封印し虚偽の報道により形だけのコンセンサスを獲得し、それゆえに正しい現状認識、政府決定に対する高度のコミットメント、そして組織的問題解決能力を備えていなかった*2)ということ。


もっと小さな組織体、企業であれ組織内の部署であれ、同じような状況が今も再現されており、組織内の「自由」が封印*3)されているのだとしたら、日本(組織)は敗れ続けて当然なわけであります。




  1. 本書では当時の日本の状況と、米国の最後通告である「ハル・ノート」に関する論議については一切触れていない。「太平洋戦争に意味がない」とする主張は、氏の戦争体験がベースとなっており、その意見に意味がないとは思えない。
  2. 「日本軍の強さ」が中小企業・零細企業的個人の持つ"芸"に依拠し、客体化できる"技術"ではなかったとする指摘は面白い。現代において、"芸"は"技術"に転用できない、という氏の指摘を過去のものとすることができているだろうか。
  3. 日本は「組織」ということを、ネガティブな要素として捉える感覚がないだろうか。特に最近の若者にその傾向が強いように思える。しかし、現代に生きる人間は何らかの組織に属さざるを得ない。その組織内で「自由」が制限されている故に、組織から離れたときに「解放感」を感じる。あるいは「解放」されたいがため、日本においては「ブログ」的なものが隆盛なのかと、要らぬことまで考えた。個と組織が不連続ということなのだろが、個と組織は連続すべきものであるのか?という命題もある。

2007年3月19日月曜日

ハイドンに満たされる休日


syuzoさんがハイドンに嵌っているようです(ハイドン2007/03/11)。このごろ頻繁にチェックする古楽系ブログでもハイドンの話題は尽きない。今日はWhittardのアール・グレイを淹れ、SEEDS ON WHITESNOWのエントリ(トーマス・ファイとその仲間たち-ハイドンとベートーヴェンの録音を通じて-2004/6/20)*1)などを読みながら、NMLでトマス・ファイとハイデルベルグ交響楽団の演奏を聴いてる。



SEEDSNOWさんも指摘している例えば第39番 ト短調。冒頭のフレーズが一瞬ではあるがモーツァルトの弦楽五重奏曲 第4番 ト短調 K.516を思い出させる。ハイドンのそれはモーツァルトの短調ほど内的には陥らず、随所にハイドン的明るさが解放される。


ファイの演奏はキビキビとして推進力があり、それでいて美しい*2)。一度聴きだしたら止まらない。こういう演奏をNMLで聴ける幸せと、「所有していない」ということの不満とストレス。





  1. このエントリには(も?)恐ろしい数のコメントが続いている・・・

  2. などと評せるほど私は古楽に接していない。正直に書いておくが、まともにアーノンクールさえ聴いていないのである。こんなことでクラ・サイトしていて良いのだろうか・・・


2007年3月17日土曜日

香山リカ:知らずに他人を傷つける人たち~モラル・ハラスメントという「大人のいじめ」



最近の新書は「タイトル」が売れ行きを大きく左右するそうです。本書も「モラル・ハラスメント」という聞き慣れないけれど、あれ?もしかして、あのこと?と一瞬心の中に暗い影が差し、恐る恐る本書を手にとってしまう、という人もいるかもしれません。


香山氏によると2006年末に起きた、妻による夫撲殺バラバラ切断事件はもしかしたら日本ではじめてのモラル・ハラスメント、モラハラが引きがねとなった殺人事件なのではないだろうか(P.6)とプロローグに書いています。それを読むと、モラハラという言葉を本書で初めて知ったとしても、やっぱり・・・そういうことかと自省の念を深めます。そうするともはや、「新書だし、香山氏の本だし、買うほどのこたねーや」という気持ちを圧することができるほどには気が強くはない自分を認めてしまいます。




モラル・ハラスメントという言葉はフランスの女性精神医学者、マリー=フランス・イルゴイエンヌ医師の著書に出てくる言葉だそうで、モラル・ハラスメントとは、ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことと定義されています。本書は意外と気付かないうちにモラハラ被害に合っている多くの人に、「それはモラハラなんだ、自分が悪いと思わないで解決をみつけよう」と訴えると同時に、モラハラを引き起こす原因について、欧米と日本の差異を説明しながら、最後にモラハラ被害者にならないための方策について書かれています。


読み通してみれば、家庭内や職場だけではなく、人間関係が成立する場においては当然のことばかりなのですが、我が身に振り返ってみれば、痛いところが一つや二つではなく猛省する次第。特に相手に対する厳しさや思いやりのなさは「肥大化し歪んだ自己愛的性格」に基づく行動との指摘は確かに本質をついているように思えます。


モラハラについて思い当たる人は、本書をじっくり読んでもらうしかないのですが、それでも本書の指摘で考えてしまったのは以下の点。人がふたり集まればモラハラは起こるというくだりで、


もちろん、両方(「権力の乱用」と「心の問題」)ともいっさいない「心が健全な人どうしの対等な関係」も理屈上は存在しうるのだが、それがきわめてむずかしいことは、男女関係のあり方を見ればわかる(中略)人間は本来的に対等な関係よりも権力の差がある関係、非対称的な関係の方が落ち着くのかもしれない(P.28~30)


精神科医ともあろうものが、単純な事例だけで上のような仮設を立てて良いものか若干の疑問を感じないわけではありません。


権力的制約のない条件における人間関係における秩序の発生と維持の仕方については、熟考すべき問題のように感じます。香山氏自らが指摘しているように、パワハラと暴力の塊であるようなスポ根マンガやドラマが、高度成長期の日本で受容されていたということ。現在においては「オレ様化」「おひとりさま」「自分探し」という言葉が流行る様に、他者よりも「自己」に愛情のベクトルが向う傾向が指摘されています。社会的成熟(?)は自己愛的性格の人間を増加させるものなのか、あるいは時代がそれを解放するだけなのか。これらは経済、社会、そして文化・宗教的背景と密接に結びついてはいないでしょうか。社会と人間精神に関する深い洞察が必要な気がしています。

2007年3月12日月曜日

NMLに新レーベル!

何かと話題のNaxos Music Libraryですが、LINDEN日記によりますと新たに6レーベルが参加。ヒストリカルものも増えているようです。


にしても、NMLのビジネスモデルは、どこで収益を上げているのですか?NMLを通じてCD購入というのは増えているのでしょうか?「ウェブ人間論」にあった、ロングテール部分に貢献があるのですか?今ひとつ私には判然としません、誰か教えていただけるとスッキリします。

2007年3月11日日曜日

梅田望夫・平野啓一郎:ウェブ人間論


本書を読んだ第一印象は、amazon カスタマーズ・レビュの「じゃま」さんの感想に近い。「ウェブ進化論」に比べて深みがないとの感想もamazonにはありましたが、私は本書は「進化論」とは別物として読みました。

平野氏はネットの持つ閉塞性と個人の人間性についてある種の拘りと可能性を感じ取っている。所謂匿名性における人間性の解放と、それによる社会へのアクセスと変容みたいなもの。それに対し梅田氏は、自らのIT関連に関わってきた豊富な経験をもとに、ネットをもっと明るく、流動的たものとして捉えている。

一番端的なのは、平野氏がリアルな世界(「公」)を個性の表現を排除してしまっている社会領域(P.78)と定義し、匿名性の自己をネットで公開するというある種の二重生活(P.84)を続ける人が、今後その二重性とどう折り合いを付けるのかということ、あるいは匿名性からリアル世界の変容を期待する発想がある。しかし梅田氏はもっと多角的で楽天的です。そういう二重性をバランスとして機能して破綻しない(P.85)と言い切ります。

この考え方の違いは、ネットを通じた個人の「サバイバル戦略」ということに繋がります。二人の考え方の差異は、自分と本書の中での二人とのネットに対する差異を炙り出すことになりました。

梅田氏の「ウェブ進化論」は非常に話題になった本として、本書でも繰り返し話題にされています。私があの本を読んで考えたことGoolge的な企業がもたらす社会が、今後どのようにパラダイムシフトしてゆくだろうか高度に発展してゆくIT社会において、今後の組織と人間はどのように関わってゆくのかテクノロジーはどこまで人間を幸福にするのかということでした。その答えがここで得られたわけではありませんが、若干考え方は進み、深まった気もします。

私は7年以上もサイトを細々と開設し、ブログも4年目に入っています。リアル社会でもそれなりの地位を確立していますのでリアル社会が辛くてネットに逃避しているわけではありません。それなのに、私がネットを続けている理由があるとしたら、ウェブを通じた個人知の拡大の可能性、知の連携とネットワークに大きな魅力を感じているからです。平野氏が類型化した5パターン(P.73)とは微妙に異なるというか、そうはっきりと区分ができない。

平野氏の人間の変容という観点に絞ってみれば、やっぱり多くの人が自分で自分を言語化してゆくようになった(中略)逆に自分を錯覚してしまったり、固定化してしまったりする(P.185)という観念論に対して梅田氏は、そういう変容の仕方を肯定的に捉え、自分にとって心地よい空間を、無限性から切り取っていくらでも造れるのだから、そういう方向へ人間は変容していく(P.186)と返します。私も、以前は前者のように考えていましたが、今は後者の考え方に近いです。個人の「ある断片」においては、リアル世界よりもネット世界の方が「自分の居場所」が見つかり、幸せに生きやすいということなのだと思います。





2007年3月9日金曜日

本田直之:レバレッジ・リーディング


著書の本田氏の「読書」とは所謂ビジネス書のこと。仕事で役に立つ本をできるだけ多読するためにどうしたら良いか、というテーマを扱ったもの。精読よりも多読を薦めるのは、同じテーマでも違った本を読むことによる反復習得と多角的な方面からの見方を養うため。


良書の選び方から、いわゆる「速読」とは違う読み方のポイントを要領良く、それが何故必要なのかを説明してくれます。著者の最終的な目的は、多く本を読んで知識を溜めることではなく、一つでも実践すること。それが1500円の本を15万円の価値(リターン)にするのだと。




この手の内容の類書は多いため、目新しいものはありません。それでも、私がこれはと思ったのは「レバレッジ・メモ」を作って繰り返し読む、ということと、本棚の整理方法でしょうか。前者は、本の中で線を引いたり頁を折ったりなどした部分を、後で(自分の言葉を補いながら)書き写し、そのメモを繰り返し読み実践することが重要だということ。一度読んだ本は、よほど名著でない限り読み返さなのだと。本棚の整理方法は、役に立った本を上の取り出しやすいところへ、あまり面白くなかったものは下段に置くというもの。本棚が一杯になったら下から捨てれば良いので合理的なのですと。本田式読書法は本を折ったり、線を引いたり、書き込んだりしますから(誰でもやっていると思うが)、リサイクル書店では売れないのです。


私もこうしてセッセと読書メモを作っていますが、本田氏のメモはもっと実践的です。私も一時実践したことがあるのですが、結構メンドいんですけどね。また、私は割とだらない本も買ってしまいますから、そういう本は、いつかブックオフってやろうと思って読むので、線とか折り目とか付けにくい。だから、くだらない本ほど綺麗なまま読み終える、なんだか貧乏臭いっすね(^^;;;


そういう貧乏性の私ですから、当然本書は「レバレッジ・リーディング」を実践して読んでいまして、おかげで、本屋の立ち読みで30分もかかりませんでした。(自腹切って買うのが筋らしいですが・・・やっぱ、それ程の内容ではないなと・・・あ、ゴメンなさい、立ち読みの感想なんて書いて・・・)

2007年3月8日木曜日

仏naive社とファジル・サイ


仏naive社のヴィヴァルディ・エディションは、古楽系ブログで度々紹介されているように、ジャケットが抜群に素敵だ(→amazonHMV)。

最近相次いで創刊されている女性月刊誌の表紙写真よりも、よっぽどいい。どこかドキリとするセンスで、梅も見ごろな3月、紅梅意欲をそそる。例のマンドリン盤ビバルディも今なら視聴可能。

naive社のサイトを見たところ、トップページがファジル・サイなので驚いた(アクセスする時期によって異なるかもしれない→こちら)。どうやらハイドンのソナタを録音したらしい(2007.2.20発売)。解説はフランス語と英語に切り替えて読むことができる。1分半くらいのサワリだけ視聴できるのだけど、サイの明るいピアノが楽しい、唸り声も健在なり。サイのファンとしては、買いか?

大橋弘昌:負けない交渉術―アメリカで百戦錬磨の日本人弁護士が教える


私は仕事がら、毎日とは言わなくてもかなりの頻度で交渉の場にのぞんでいます。相手が百戦錬磨あるいはやり手の担当者の場合は、「これは適わないな」などと思うこともあります。こちらもそれなりに場数を踏んでいますから、交渉の落としどころを見極めながら、相手の印象や雰囲気、そして話す内容など様々な(一次)情報を頼りに、更にそれを逐次修正しながら、話し方や態度を微妙に変えながらカードを見せてゆく戦術を取ります。


交渉はお互いの利得を少しでも大きくしようとする、ある意味で「パイの奪い合い」みたいなもの。交渉テーブルは千差万別ですから、誰にでもマッチする方法論などはないと思っています。





そうではあっても、交渉の最終到達点といえば「負けない」こと。更に言えば、著者も指摘するように当方は勿論のこと相手にも利得が感じられる「ウィン・ウィン」の交渉であるという点には大きく同意するものです。それが極めて難しいから「交渉術」とか「説得術」に関する本が売れるのであり、私のような交渉ベタが、セッセとこういう本を読んでしまうわけです。


著者の大橋氏はニューヨーク州の弁護士。自らの体験をもとにして、主に日本人が欧米人などと交渉する上で心がけなくてはならないポイントを平易にまとめています(→amazon)。1500円もする本ですが、出張の飛行機とか新幹線の片道程度で読めてしまう活字量と文章です。ベストセラーになった「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」と読書感が似ています。


だからと言って、本書を軽んじてはいけません。当然のことしか書いていないと言ってしまえばそれまでです。私は結構普遍的で大切なことが書かれていると思います。頁を繰りながら何度も立ち止まり、今現在進めている幾つかの交渉テーブルを思い出し、反省したり赤面したり、地団太踏んだり、そして決意を新たにしたりしています。


もっとも、私は基本的にゲームや賭け事は全くやりませんし、駆け引きというものが基本的に苦手な人間なので、本来的には実務の場で交渉なんてしたくはないのですがね・・・。世の中には、人間関係をアッという間に築いてしまい、社内は勿論、交渉相手だろうが同業他者だろうが、皆を見方に付けてしまえる人というのも存在し、そういう人には「交渉術」なんて姑息な言葉は不要なんだろうなと、つくづく思います。

2007年3月7日水曜日

中川右介:カラヤンとフルトヴェングラー


私は現在本書の感想を、フルトヴェングラーの1947年5月25日、ベルリン復帰コンサートのCDを聴きながら書いています。本書ではティタニア・パラストは開演前から異常な熱気に包まれていた。切符を正規のルートで買えた幸運な人、ダフ屋に法外な金額を払って入手した裕福な人、家具を手放してでも聞きたいと思った熱狂的な人・・・・・・二千人の観客は、その時を待った。(p.159)と書かれている、いわゆる伝説の演奏のひとつです。ファンには特別の思い入れがある演奏なのだと思います。私はフルトヴェングラーの同曲異演と比べるほどには熱心ではありませんが、それでもベートーベンの「運命」の迫力には改めて圧倒されてしまいました。




中川氏はあとがきで次のように書きます。


音楽を聴くのに、その演奏者についての情報は不要だ、純粋に音楽を聴くべきだ、という考え方がある。もっともな意見ではあるが、私はそうは思わない。(中略)そう思って聴くのと、そうでないのとでは、感動の度合いがまったく違う。(P.307)


この考え方には異論もあると思うので今はこれ以上突っ込むつもりはありません。私は1947年の演奏を聴きながら、本書の内容を感慨深く思い出し、そしてやはり涙ぐんでしまいました。音楽が純粋に持つ力以上のものを、意識的にせよ聴きとってしまいます。


本書は「クラシックジャーナル」に連載されていたものを全面改稿したものらしく、最近の「の★だめ」によるクラシックブームを当て込んでの本ではなさそうです。それであっても「の★だめ」を卒業し少しヒストリカルな音盤を漁る人であれば、いずれは目にするであろう逸話を、戦前から戦後のひとつの時代にかけてシームレスに読むことができます。


内容はカラヤンとフルトヴェングラー、そしてチェリビダッケの3名に焦点を当て、権力闘争と人間模様を書くという筋立て。三人の指揮者の音楽観については全く触れていません。マニアには重大な、しかし一般リスナーには些細な(あるいは無意味な)評価(=私観)を排しています。そのため本書はクラシック音楽にあまり親しんでいない層にも面白く読むことができ、作者の意図は成功していると思います。すなわち権力闘争やゴシップ好きな、そして華やかな世界の舞台裏の世界を覗き見たいという、人の持つ下種で多少悪意に満ちた、しかしごく自然な好奇心を十分に満足させてくれます。


ただし三者の描出の仕方は比重としては圧倒的にフルトヴェングラーが重い、そして、フルトヴェングラーの優柔不断さにと政治的無知さについては、結構厳しい口調での批判を込めています。チェリはここでは「実力はあるけどイヤな奴」としか読めない(笑)


中川氏はあとがきで、登場人物の言動はすべて文献資料で確認した事実に基づいているが、人々の内面、感情については、想像して書いた部分がある、感情や心理はひとつの解釈にすぎないと書きます。私は、敢えて作者が主観を持って書き上げたことで非常に興味深い「物語」を描出できたように思えます。すなわち「帝王」という存在が生まれた「物語」を。


カラヤンがフルトヴェングラー生きている間はもちろん、死した後も伝説と闘わなくてはならなかったとする論には考えさせられます。そして現在の三者に対する評価を考えると、中川氏ならずとも歴史の皮肉を感じるとともに、一時代の恐ろしくもすばらしい才能の開花に身震いさえ覚えます。


最後にしつこいのですが、再び中川氏の言葉をあとがきから引用しておきます。


「人柄のいい人」の、「お上手な演奏」など、聴きたくない。すごいものを聴かせてくれるのなら、どんな悪人でもいい


確かに私が聴きたいのは(いつもというわけではないにしても)感動させてくれる音楽です。人間性と音楽などと論じるのは野暮なことなんでしょうか。