2007年4月22日日曜日

NMLでマルティーヌ


��MLでボフスラフ・マルティーヌの室内楽を聴く。



アムラン(→hyperion)の演奏でも聴こうと思ったら、ゴドフスキーかマルティーヌしかない。アルベニスやアルカンはまだ収録されていないらしい。仕方ないのでカナダのレーベルANALEKTA(→公式サイト)によるマルティーヌの室内楽を聴いてみた。


ヴァイオリンはレーベルを代表するカナダの女性ヴァイオリニストAngele Dubeau(→公式サイト)、フルートはマリオンである。この組み合わせは何と言うか、とても素晴らしい。マリオンの的確なフルートに、硬質なアムランのピアノ。そしてデュボーの引き締まったヴァイオリン。2曲目 H.274ではアムランのハープシコードも聴ける。フルートとピアノためのソナタ H.308やフルートとピアノためのスケルツォ H.174Aではアムランとの掛け合いでマリオンのフルートが冴え渡る、結構快感。他の曲もリズミカルでベタ付かない、これは持っていてもいいかも。というか、こういう曲を小ホールでピリリと聴きたい!


ちなみにマルティーヌは宮下誠氏の「二十世紀の音楽」では下記のように数行説明されている。宮下氏的には余り重要な作曲ではない様子。


ヤナーチェク以降、チェコを代表する作曲家の一人。(中略)無調、新古典主義など同時代西欧前衛の影響を受けながらも、象徴的、叙情的な独自の音楽を多く生み出した。


説明の通りマルティーヌの曲からは前衛や無調より抒情面を感じ、懐かしささえ覚える。アムランのピアノを聴く筈が、マリオンのフルートでマルティーヌを堪能するハメになってしまった。まあ、これはこれでいい。あ、デュボーもいいと思うよ。


当然のことながら、マルティーヌは今年の「熱狂の日」でも取り上げられる重要な作曲家(→作曲者説明)である。ついでながら熱狂の日で取り上げられるヤナーチェクの曲は以下らしい(>どれも行けないけど)。


  • おとぎ話(チェロとピアノのための)
  • 草陰の小径を通って 第1集
  • 霧の中で
  • ピアノ・ソナタ 変ホ短調「1905年10月1日 街頭にて」
  • 弦楽のための組曲
  • 野鴨(無伴奏合唱)
  • 狼の足跡(女声合唱、テノール、ピアノ)
  • 天にいますわれらの父よ(テノール、合唱、ピアノ)
  • コンチェルティーノ
  • 弦楽四重奏曲 第2番「内緒の手紙」


さあ、今日は引きこもっている時間はない。お出かけっと!

モーツァルト:ピアノ協奏曲 K.414、K.467、K.488/ファジル・サイ





  1. ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414
  2. ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
  3. ピアノ協奏曲 第23番 イ長調 K.488
  • ファジル・サイ(p)
  • チューリヒ室内管弦楽団、ハワード・グリフィス(cond)
  • naive V4992

随分前に買って*1)iPodにも入れて何度も聴いていた曲なんですが、まだ感想を書いていませんでしたので、ちょっとだけ記して*2)おきましょう。


モーツァルトのピアノ・ソナタであれほど個性的な演奏をしたサイですから、ピアノ協奏曲となると一体どうなってしまうのだろう、彼の個性は発揮され得るのだろうかと若干の不安を持って聴きはじめた盤ではありましたが、まさにここには紛れもないサイの演奏が、そしてサイの美学がぎっちり詰まっていました。やっぱりサイのモーツァルトは素晴らしい。

例えば冒頭のK.414が始まったと同時に、低くかすかな唸り声が入ります。これが耳障りという人も居るでしょう。しかし、その繊細な舞うがごとき演奏からは、サイがすぐにモーツァルトの音楽世界に没入していることを知らせてくれます。協奏曲でも、サイの弱音のピアノのタッチ、鳴らし方、唄い方は絶妙であります。緩徐楽章のAndanteの美しさときたら、ここを聴くためにだけでも何度も本盤を取り出したくなります。

K.414の軽いジャブの後は、あまりに聴き慣れた名曲のK.467です。グリフィス率いるチューリヒ室内管弦楽団も小気味良い軽さでオケを鳴らしているようです。さりげなく滑らかに入るサイのピアノの明確さ、少し暗転するモーツァルトの翳と陽の妙。モーツァルトを聴く至福がこの最初の数分間に凝縮されています。サイのピアノとオケによる波状攻撃は、この曲を初めて聴くかのような興奮と哀しみと悦びを与えてくれます。

そしてサイ・オリジナルのカデンツァのドキドキする展開、茶目っ気とユーモアと美しさ、・・・言葉は余りにも無力か。Andanteの夢見るような旋律は、安穏とした午睡ではなく、モーツァルト特有の喪失の予感が巧みにオブラートされているかのよう。これまた眩暈がするほどにメランコリック。水晶を通して乱反射する硬質な陽光。終楽章ラスト近くのピアニッシモは冗談ではなく息が止まるかと思うほど。

最後のK.488も、これまた長調の明るくメランコリックなモーツァルトが炸裂しています。川田朔也氏は「CDジャーナル」に、

ショッキングなほど音を切る23番第1楽章のカデンツァが如実に示しているように、サイが目指すのはスタッカートを軸にした軽い音作り。同じ23番第2楽章のスタッカートを、譜面通りに、しかもやや強調して弾き、嬰ヘ短調の憂愁に異分子を混入させたかのような奇異さで耳を引きつける

と書き(→amazon)、宇野功芳氏は日本版のライナーで

シンプルな「K.488」の第2楽章は、あの長い主題を最弱音だけで進めてしまうが、それでいてだれず、小手先に終わらず、その独白がなんともいえない。

と絶賛しています。この余りにも有名な嬰ヘ短調のAdagio。確かにモーツァルトのペーソスではある。くぐもったペダルワークによる旋律、強調されたスタッカートによる上昇。霧の中、着地点も目標も見えない彷徨。聴きようによっては、ここにない、どこか他の場所に通じる場所に向って歩むかのような趣さえ感じます。それだけに終楽章が始まったときには、こちら側の世界にグッと引き戻された思いさえしてホッとします。モーツァルトって、やっぱりコワイ。そして、演奏からこんな「夢」を見させてくれるサイに改めて感服。

  1. サイは私が注目している鍵盤奏者の一人。Clala-Flalaのエントリは音盤DBから。
  2. ちっとも「ちょっとだけ記して」おくことはなりませんでした。聴く作業と同時進行的に文章をしたためていると、私の場合、大体こういう情動優先の文章になってしまうんですよね、反省。

NMLでシェーファーとかIJAとか


風が強かったものの、久しぶりに天気が良かったのに、ひきこもってます・・・(^^;;;



#CredoさんとTakuyaさんが絶賛しているので、何気に聴いてみたNML提供によるシェーファーの「冬の旅」



シェーファーは初めてだけど、Takuyaさんの以下の例えは、思わず吹き出すほどに絶妙!座布団10枚!


フィッシャー=ディースカウのは、舗装も電化もされてないようなドイツの辺鄙な農村を、人生に絶望したくたびれたお爺さんが足を引きずりながら歩いているような感じでしたが、このシェーファー&シュナイダーは、ICEに乗ってベルリンのツォー駅から出発し、車窓から寂しげな眼差しで去っていく街の景色を眺めているような、そんな感じです。

ベルリンに行った事もないしICEになんて乗ったこともないけど。NMLにはバッハやハイドンの曲などが納められています。この歌声で、シェーンベルクとかベリオとか聴いたら、かなりクラクラするかもしれない・・・。



��MLといえば、こんなのもあったので聴いてみた。


IJAの切れ味に、ムローヴァのヴァイオリンが乗っかります。ムローヴァのヴァイオリンには、あまり親しんでいないので感想は保留。とりあえず忘れないようにメモということで。それにしてもNMLでIJAが聴けるなんて!

2007年4月21日土曜日

桐野夏生:魂萌え!





団塊の世代の大量退職時代を迎え、熟年離婚という言葉が珍しくなくなった現在において、桐野氏が問う改めての夫婦あるいは家族、そして個人としての女。



彼女の作品は、「黒い作品」にしても本作のような「白い作品」にしても、閉塞的な状況にある現代女性の解放とサバイバルをテーマにしています。今回は夫の定年と突然の死という、どこにでもありそうな事件を通して、いままで「のほほんと」暮らしていた主婦が、様々なことに目覚める過程(解放)と、その後の人生を生き抜く決意みたいなもの(サバイバル)を描いている点で、まさに桐野氏の作品世界です。


前半は寡婦となった敏子に言い寄る男性とのヨロメキ遍歴を読まされるのか、といささかゲンナリしたものですが、やはり桐野氏です、そんな安易な方向に作品を流しません。


この小説には「OUT」や「グロテスク」に見られたようなサスペンスや非日常はありませんが、それゆえに、読むものと等身大の話題であり、自らを問い直すことになります。上巻は見ていられないほどに無知で世間知らずであった彼女が、最後は清濁を含めて受容しながらも生きていけるようになったことは、小説的ファンタジーです。しかし、何かをきっかけとし、自己を問い直し、「不満」という言葉で片付けて見ないようにしている現実と向き合うことの重要さ、そして、そんなネガティブな要素から逃げていては損であることを、この小説は教えてくれます。


あの日、関口の機嫌が悪くて、私に不満があるんだろう、と尋ねた。私はこう答えたのよ。『不満というものが何かも忘れた』って。関口は衝撃を受けたみたいで、こう言った。『わかった。後で話がある』って。


ささやかに、「恙無く」生きようとする市井の大勢に対する、かなり強いエールでもあります。それにしても、彼女の小説では、既に昭和的家族観は完全に崩壊していますね・・・。


蛇足ですが、高村薫と同様に、私は桐野氏はミステーリー作家であるという意識が希薄であろう感じているので、こういう小説展開は、彼女にとってごく自然の成り行きだと思っています。

2007年4月17日火曜日

[読書メモ]高村薫:晴子情歌


以下は、高村薫の「晴子情歌」(→感想はこちら)に興味のある人にしか面白くないと思います。




本小説は晴子という女性に軸を置いた「情歌」であるということを忘れてはならない。彼女の何と言うこともない、時代の中ではありふれた人生を、晴子の書く手紙という形で作者は丹念に救い上げている。その「書く」「掬い取る」という作業そのものに本小説の意味がある。掬い取る人生に対する慈しみといとおしみ。そして取るに足らない人生の何たる重さか。そして、そこに生きるということの本質がある。多様な読み取りと、汲んでも尽きぬ深みがある。


「書く」ということによって晴子は、自分の人生を刻み続ける。三十年以上に渡る夫婦の帰着が、夫に描かせた油絵、「青い庭」の中のたった3センチの自身の姿であったとしても。それは彼女自身の譲れない矜持であり、自己発見、自己確認、自己定着という痛ましいほどに些細ではあるが確かな作業であった。彼女は絵の中で福澤家に住み続け永遠の位置を得る。それが彼女の勝ち取ったもの。


彼女が手紙を通して刻み続けたのは「情歌」。すなわち、彼女の堰き止められた思い、彼女の「情」の歌、あるいは彼女の恋心でもある。彼女の抱いたささやかで実現されなかった、そして自分でさえ意識していたのかさえ知れない多くの思い。それらを彼女は息子に書き送った。「情」という火とともに。その息子こそ、この世で彼女の唯一の分身ではなかったか。


その息子は、これまた福澤家の男の特徴である「放浪する半身」を有した男、自分自身を特定、固定できない。女と平気で酷薄に別れ、そしてそれをまた客観視する半身。何をも信じられず、それでいて何かを信じたく、いつも皮膚をチリチリさせている。彼の苛立ち、所在の無さの原因は何か。彼の背負っているもの全てに対する苛立ちか、あるいは怨み? 高村小説共通の主人公キャラだ。


彼は母の手紙を読みなが母を捜し、自分を確認する。大学を出ながらにして漁業の道に進み、自分自身を捨てながら、実は母なる海に身を委ねて放浪している。彼が大学で専攻した烏賊の生態、生物学的特質を思い出そう。では彼は何者であったのか。


彼の最終的な結論がラストの数ページに凝縮される。確かに母の思いは生の歓喜と孤独の中で確かに伝わったか。


俺はひとりだ。母もひとりだ。------お母さん。


この膨大なる小説の中で、ただ一行。他の全ての箇所から、温度差を持って浮き上がる、このラストの一行。そこから彰之の第二章が始まるのか。

俺たちのR25時代、R25つきぬけた男たち






音楽家14人、作家10人、コメディアン・キャスター6人、スポーツ選手・格闘家6人、映画監督など5人、俳優5人、漫画家4人、イラストレータ・コピーライター2人、アーティスト1人、会社員(ゲーム名人)1人、総勢54人が文庫本2冊の簡単なインタビュー記事掲載者達の職業であります。とかく元気のないらしいR25世代に対する、メッセージといいますか、いまをときめく有名な方々も、25歳前後は悩んでいたんだよ、という企画らしいです。



私も社会に入りたての頃は、理想と現実の、そして今までの生活と社会人のギャップや上下関係に悩んだりしたものです。自分が大切にしていた多くの事を犠牲にしなくてはならないことや、先の見えないこれから始まるレースみたいなものに怖気付いて迷ってしまったことも確かです。社会人になる前に、よく考えれば良かったと思わなかったわけでもありません。


そんな社会人としての思春期にある君たちに、頼もしい「アニキ」達が、恥ずかしい失敗談を含めて語ってくれる・・・。結構なことでございます。読んでいて、私のようなヲジサンには名前さえ初めて知る人も少なくはないものの、社会で大成した方の言葉ですから傾聴に値する金言も少なくはありません。


しかし、なんといいますか、R25世代の「憧れの対象」が彼らに代表される職業なんですか? 偶像化し、伝説化し、自分もできれば彼らのように生きたいと考える対象が、先の54名に代表されているのですか?


彼らに共通することは、「好きなことを追求してきた、組織の枠にはまらずに自分の能力を信じ、自らをプロデュースし、成功してきた」という図式のようです。本当にR25世代は、そんな(しんどい)生き方に憧れるのでしょうか? 彼らでなくてはR25世代の琴線に触れないのですか? 


雑誌「R25」はリクルート社の、そして文庫本化は日経新聞社が行っています。夢を語るのも結構ですし、若者を鼓舞することも結構ですが、現実から目をそらせてはいけません。私には、とても面白い本でしたから、この本が「目くらまし」であるとは言いませんよ。しかし・・・何だか方向が違わないかと・・・、日本は技術もビジネスも捨てて、国際的にはサブ・カルチャーで生きていくってワケ?(>本も企画者も、インタビューされた人たちも、決してそうは言っていませんが・・・、やっぱアタマの固いヲジサンなんでしょうかね、わたしゃ)






2007年4月16日月曜日

高村薫:晴子情歌





高村薫の「晴子情歌」をやっと読了、とてもではないが、安易な感想など私には歯が立たない。従って、以前書いた読書メモ(ここここ)の続きになりましょうか。


そもそも何と言う小説でありましょうかと読みながら呆然とし、決して面白い内容の本ではないものの、それでも読むことを断念はできない、そういった類のもの。しばらく中断して再び読み始めると、ああそうであったなと、漁船の中で母晴子からの手紙を読む彰之になる。そして晴子の実像を探そうとする自分。



ストーリを書いても仕方がありません。ここには昭和という大きな「時代」と、そこを生きた人間が確かに描かれています。しかし、それでいながら、晴子や彰之の、淳三や康夫の、人間に対する、どうしようもない興味のなさ。あるいは自分の人生に対する諦念や無関心は何なのかと。これは昭和人的な感覚ではないのではないかと思う点も否定できず。


筒木坂、土場、野辺地や魚場の船上での圧倒的な、そして高村的しつこさを備えたリアリズムに反して、主人公たちの所在のなさ。彼らは何を求めているのか。高村小説に共通の「ここでないどこか」を茫とあるいは無意識に希求し、自分さえも客観視し突き放しながら放浪する半身*1)に委ねるという有り様。あるいは爆発する水*2)か。ニヒリズムでもシニシズムでもない。晴子の天性の呑気さと、彰之の自分が何者であるのか分からないとでも言うような、皮膚がチリチリするような焦燥。そうだ、彰之は合田なんだと。


この小説の描いた世界は、あまりにも壮大で、私の拙い筆致ではその片鱗さえ掴むことができません。青森という片田舎で晴子の目を通した半生を描きながら、その周辺を轟音を上げて動いている政治と世界。それの息吹を語らせることはあっても、それはまだ「晴子情歌」のテーマにはならない。すなわち本作品は「新・リア王」に至る、壮大なる序章であるのだと。市井の人間や生活と、時代を動かした政治との対比。関係と無関係。夫婦、家族、そして人間模様。時代は動いても、野辺地の土間の空気がしんとして動かないように、変わらない世界がある。それが昭和という時代であったのか。


それを書きたいがために、そして彰之という男が何を求め掴むのかを書きたいがために、高村氏は筆を取り続けるのか。

しかしそれは、「晴子情歌」後のテーマです。この小説はその題名にもあるとおり、「晴子」の「情歌」です。晴子が何ゆえに息子にこんなに膨大な手紙を送り続けたのか、という点に対しての言及こそ、おそらくは成されなければならないでしょう。この点も今は保留です(→少し書いた)。


この壮大な小説は、系図を見ながら読むのに限ります。私は読み終わって、下のサイトに詳細な系図があるのを知りました。また過去拙レビュ参照用に高村薫インデックスを作っておきました。




  1. 伊藤静雄の「晴れた日に」の一節。(「From 2005.04 Roomazi dokusyo nikki」→http://kens-bar.blogzine.jp/200504/2007/01/post_b297.html 参照)
  2. 谷川雁の詩の一節。どちらも、作品テーマに関わる重要なタームであると思うが、今は語る言葉なし。

2007年4月14日土曜日

Vivaldi Operas








  1. La verita in cimento
  2. Juditha triumphans
  3. L'Olimiade
  4. Orlando finto pazzo


  • Academia Montis Regalis,Alessandoro De Marchi
  • Concerto Italiano,Rinaldo Alessandrini
  • Ensemble Matheus,Jean-Chistophe Spinosi
  • naive OP30401



naive社から出されているヴィヴァルディのオペラ集を聴いてみました。4つのオペラからのコンピレーションもので、演奏者も雑多です。こういうアルバムの印象は得てして茫洋としてしまうのですが、じっくりとアリアを聴きこみますと、ヴィヴァルディの才能の多彩さに目を見張る思いがしてきます。というか、イロイロな人が絶賛している通り、splendid!!です。



演奏は四つのペラを下記の三つの団体が演奏しています。


  • Juditha triumpahns「勝利のユディタ」」, Orlando finto pazzo「狂気を装うオルランド」/Academia Montis Regalis,Alessandoro De Marchi
  • L'Olimpiade/Concerto Italiano,Rinaldo Alessandrini
  • La verita in cimentoEnsemble「試練の中の真実」/Ensemble Matheus,Jean-Chistophe Spinosi

その四つのオペラからのアリアを総勢11人の歌手陣が唄っています。ライナー・ノートではその関係が分かりにくいので表にしてみました。[9]と[13]はオーケストラだけの曲です。




この中で一番驚かされたのは[12]番、《Orlando finto pazzo》からのアリア、Lo stridor, l'orroでしょうか。この不安過ぎるアリアは何度も聴いて癒されるという類のものではありません。しかし、この音楽の奇妙さ、異彩さ、凄さは聴いてみないと分からないかもしれません。ソプラノのいきなりハイキーにスパイラルアップする多少の狂気さえ感じられる歌は、実にゾッとするほどの和音を奏でる弦が伴奏しています。中間部はレチタティーヴォ的になってハープシコードやハープ(?)などに乗って唄われます。これがバロック時代のメロディなんでしょうか、バロック・オペラの範疇内なんでしょうか。だとしたら深過ぎます、バロック音楽という世界は。いや、それとも、ヴィヴァルディの独創性なんでしょうか。それを判断するほどに私はバロックやヴィヴァルディに無知すぎます。


《la verita in cimento》からの[14][15][16]そして[8]はSpinosiの演奏。彼の演奏方法については賛否があるようです。確かにかなり鋭角的で硬質な弦の響きは耳障りと感じる人もいるかもしれません。しかし私には非常に新鮮であり、しかもクリアさ、抜けた空気感、そしてバロック時代のザラつきのような息吹を感じ、それはそれで受容します。


その中で[14]はAnima mia, mio benは五重唄です。前半と後半のしっとりとした歌、中間部の急な部分の差が素晴らしい。[15]のMi vuoi tradir, lo soはアレグロのアリア。ヴィヴァルディの技巧が炸裂し、Spinosiの伴奏がこれでもかとばかりに迫ってきます。ヴィヴァルディが良く好んで用いるようなフレーズが散りばめれ、驚くほどの歯切れの良さで展開します。スピード感と強烈なアクセントが爆発するSpinosiの最たる演奏は[4]のAgita infido flatuでしょうか、もう息もできぬほどの演奏。あたかもイタリアの渓谷を流れる激流か。


Spinosiとて、ガリガリやるだけが能ではありません。[1]の天から降ってきたのではないかとさえ思えるカウンター・テナーの歌声による悲痛な歌、Tu m'offendiや、ソプラノのアリアである[8]Amato ben tu sei la mia speransaは張り裂けそうなばかりの思いをしっとりと聴かせてくれます。


ここにはSpinosiばかりでなく、Alessandriniの演奏も納められています。比べて聴くとSpinosiの演奏との違いが際立ちます。例えばコントラートによる[3]Gemo in un punto e fremo。スピード感がありながらも、どことない余裕と厚みがあります。刺激的な演奏ではあるものの、鋭角に過ぎない彼の演奏センスが光ります。ソプラノの[5]Lo seguitai feliceは官能的でいながら力強いソプラノが脳天を貫きます。[10]の二重唱も捨てがたい、珍しいバス独唱の[11]も聴きのがせません・・・。


[2]のVieni, me sequera fidaには、何とchalumeauという、クラリネットの先祖のような楽器(→Wikipedia)が使われています。[2]と[6]を唄うメゾ・ソプラノKozenaの声も極めて魅惑的、眩暈がしそうです。[7]Andeo,volero,grideroは《Orlando finto pazzo》から、バルトリのヴィヴァルディ集にも納められているアリア。iTunesにこれらの曲は入れてありますので、両者を比べて聴いたりしています。


という具合に、イチイチ書いていてはキリがありません。とりあえず、本アルバムを言及しているサイトをリンクして終わりとします。他にもあるんでしょうが、探せませんでした。


2007年4月12日木曜日

ハイドン:ピアノ・ソナタ/ファジル・サイ


  1. ピアノ・ソナタ第37番ニ長調 Hob.XVI:37
  2. ピアノ・ソナタ第43番変イ長調 Hob.XVI:43
  3. ピアノ・ソナタ第35番ハ長調 Hob.XVI:35
  4. ピアノ・ソナタ第31番ホ長調 Hob.XVI:31
  5. ピアノ・ソナタ第6番ハ長調 Hob.XVI:10
  • ファジル・サイ(p)
  • naive V5070
ハイドンの鍵盤曲に私は全く馴染みがありません。従って、サイ*1)のピアノで初めての曲に、しかも愉悦の宝庫であるハイドンを聴いていいものか*2)、若干の迷いはありました。しかしモーツァルトの世界でも異色ではありながらも、実は極めて繊細で真っ当な音楽を聴かせてくれたサイでしたから、やはり聴かないわけにはいきません。 サイは本アルバムで、ハイドンの曲に対する愛情と敬意をライナーで示し、演奏においてハイドンの曲の魅力を余すところなく伝えてくれています。ハイドンの鍵盤曲は、おそらく(他の作曲家に比し)技術的にはそれ程難しくないのでしょうが、平易と思われる曲、あるいは聴きなれた曲から驚きと輝きを引き出すことにかけてサイは天才的です。 アルバムはHob.XL:31の軽快なallegroから始まります。最初から唸り声も聴こえ早くもファジル・サイ節が炸裂です。ハイドン的な明確な明るさを、サイが楽しげに軽やかに奏でます。バッハを思わせる深みをたたえた、サラバンドを模した荘厳なLargoの中間楽章を経た終楽章の対比は鮮やかで、この1曲だけでハイドンの鍵盤曲とサイの演奏にノックアウトです。 バッハを思わせるといえば、極めて完成度の高いHob.Xl:31も魅力的です。allegrettoは確かにバッハ的ですが、それをはさむ両端楽章の鍵盤の高度な技術はまさにハイドンの世界です。 ハイドンの持つ明確さ、明朗さ、至福感は、どの曲からも聴くことができます。例えばHob.Xl:35のallegro con brioときたら。これまた輝かんばかりの明るさ。あたかも子犬と戯れる少女の幸福。無数のシャボン玉が舞う緑と光あふれる公園。サイがどの曲のどの楽章をイメージしたかimpression of two little girls playing the gardenといった言葉そのままの世界。続く打って変わった雰囲気に驚かされるadagioの美しさ。疲れた子供が午睡する、それを眺めるゆったりとした時間の流れ。ああ、これ以上の至福がありましょうか、本当にここは涙が出るほどに美しくそして軽い。サイの絶妙のペダルワークによるソフティケーとされた弱音の美しさには溜息以外発することができません。もっとも、ハイドンの明と暗の対比、あるいは光と翳の対比は、モーツァルトのような深さとか、何か深淵を覗きこんでしまったかのようなところはありません。(というか、それがモーツァルトのモーツァルトたる所以なのですが・・・) ハイドンの真作かどうか疑われているHob.Xl:43にしても、ライナーにも書かれているように、それがこの曲を堪能することの支障になるものではありません。両端楽章における粒立ちの良い音の転がり、弱音部の羽毛を地肌に着るような肌触り、強打部の品の良いそれでいて決然とした表現。サイのピアニズムを充分に味わいつくせます。クレバーなハイドンの洒脱でそれでいて高度な遊戯。 ◇
  1. サイは私が注目している鍵盤奏者の一人。Clala-Flalaのエントリは音盤DBから。
  2. 2004年来日時にハイドンを演奏しており、評論家の宇野功芳氏はその演奏を絶賛している(→梶本音楽事務所)

2007年4月6日金曜日

[NML]ニマ・ベン・ダヴィドのクープランなど


��MLの今週の一枚は仏ALPHAのクープランのヴィオール曲が紹介されています。



こういう曲は、雑誌やネットで見つけても「買おう」というところにまで踏み切れない。それだけにNMLは大変にありがたい。Nima Ben Davidはフランスを中心に活躍するヴィオール奏者。


NMLの推薦文は、


華やかさや煌びやかさではなく、まるで冬の夕陽に包まれているかのような哀愁を帯びたヴィオール。


一方でGoldberg The early-music portalというサイトで、本CDが以下のように紹介されている(→ここ)。同じ盤の紹介でも、随分印象が違う。


Her playing is technically assured, with a lovely tone, beautifully articulated, and musically compelling. The whole effect is sumptuous, voluptuous, captivating.


いずれにしても、ゲットせずとも一聴の価値ありかと。


If you don't yet have these works in your collection, don't wait. Even if you have Kuijken or Savall, you won't regret adding this reading to your collection. Most warmly recommended.

2007年4月3日火曜日

ヴィヴァルディ:Arie d'Opera








  1. La Candace RV 704
  2. La Silvia RV 734
  3. La vertia in cimento RV 739
  4. Tito Manlio RV 738
  5. Tieteberga RV737
  6. Medea e Giasone RV 749.13
  7. 'Zeffiretti che sussurrate' RV 749.21


  • Sandrine Piau(S)、Ann Hallengerg(Ms)、Paul Agnew(T)、Guillemette Laurens(Ms)
  • Mode Antiquo, Federico Maria Sardelli
  • naive OP30411


naive社から出されているヴィヴァルディ・エディションからFoa28を聴いてみました。Foa28は、ヴィヴァルディの個人選のアリア集で1717年から1721年の間に作曲されたものとされています。この中には47のアリアとアンサンブルが含まれており、ヴィヴァルディのアリアの多様性を知るのに格好の選集となっています。何の目的で編まれたか判然とはしませんが、いくつかの失われたオペラ・アリアなども含まれており貴重な音源です。


本アルバムは、その中からソプラノ5曲、メゾソプラノ5曲、テノール4曲、四重唱1曲、二重唱1曲の全16曲が選ばれています。ソプラノはバロック界を代表するSandrine Piau、テノールはPaul Agnewです。それぞれのアリアは6つのオペラからのもので、RV749.13のみ元オペラを特定できていません。





その中ではPiauが唄う、'Zeffiretti che sussurrate'RV749.13'が何といってもこのアルバムで特筆モノでしょうか。「四季」を思わせるヴァイオリンの旋律に導かれて、何とも匂い立つような歌声で唄われます。ソプラノに呼応するエコー(aria co eco)、Vieni, vieni o mio diletto (Come, come, my beloved)で始まる中盤の力強い歌声への変化、そして再び冒頭の響きの再現。たった5分の曲の中に、これほどの技巧と美しさを湛えていようとは。何度聴いていても飽きないラストの超高音の凄さ。


Piauといえば、アルバム冒頭に納められた《LA CANDACE 第1幕》からのアリア'Certo timor ch'ho in petto'も素晴らしいの一語。Piau節全開といいますか、力強く美しく、そしてキモチの良いほどの抜けです。イタリアの乾いた空、ベタついたところなど微塵もない。


同じオペラからの'Usignoli che piangete'は、鳥(ナイチンゲール)を模した極めてアクロバティックな曲。鳥といえば'Quell augellin che canta'も鳥が歌う声を模してアリアを歌わせています。


アルバムでPiauのソロは全部で5曲あります。'Mio cors'io ti credessi'は一転して短調のアリア。《LA SILVIA》の中から冷たく嫉妬深いNerinaが、恋人Nisoに対する秘められた怨みをみたいなものを、弦の短調なユニゾンに乗って切々と唄います。技巧的なアリアとは全く趣が違う、オペラの筋は分からないけど、こんな女性に恨まれたらコワイなと。ヴィヴァルディの音楽の作り方は、確かにうまいですね。




メゾ・ソプラノの曲も随分と聴かせてくれます。Ann Hallengergの唄うL'innocenza sfortunata'など、始まったら思わずにウキウキとして一緒になってリズムを刻んで鼻歌まで歌ってしまうほどです。オペラ《TIETEBERGA》の筋など全く知りませんが、不幸な女王を救って裏切り者を懲らしめろと唄っています。ソレ、ソレ、パシィ~ッ!!です。


イマひとつ弱いかなと思ったテノールのPaul Agnewにしても、何度も繰り返し聴いていると、これはこれで柔らかくて良いではないかと思えてきます。重唱も勿論のこと良いです。最後の曲'lo son fra l'onde d'irato mare'はメゾソプラノとソプラニーノの二重唱といったところ。輝かしい音色で締めくくってくれるのも嬉しい(技術的には、難しいんだろうなあ・・・リコーダーだもの)。


買った当初は、オペラ・アリア集というオムニバス的な作りから、軽く聴きながしてオシマイにしていたのですが、それではとても勿体無いことに気付いたわけです。しかし、こんな具合に1曲ずつ書いていたらキリがありません。とにかくに、ビックリし、うっとりし、惚れ惚れし、スッキリし、ワクワクします。ヴィヴァルディ恐るべし、であります。


敬意をもって、TakuyaさんのエントリにTBしておきます。生Piau聴いてみたいなあ(^^)

2007年4月2日月曜日

パトリック・ジュースキント:香水


映画「パフューム~ある人殺しの物語」の原作は1985年にパトリック・ジュースキントによって書かたベストセラー小説です。映画を観た後読んでみたのですが、かなり印象が異なります。


映画と小説を比べることは愚で、それらは別物と考えた方が良いことは本書においても変わらないことは承知しているものの、それでも比べてしまうのですよね。主人公グルヌイユの描き方が余りにも異なりますので。小説では生まれながらにして「悪意」を持った存在として明確に描かれます。誤って殺してしまった少女の香りを再現したい、などというメルヘンチックな結論に至るお話しではありません。





人間離れした嗅覚とブレンドさせる天才的能力を持ったグルヌイユは、香りの持つ「力」に気付いて以来、匂いの創造者として、香りで他者を支配するという野心のため現在を耐える人生を選択します。作者が何度も書いているように、彼はまさに「毒虫」。人間的な感情、神などというものははなから理解していません。



彼の作り出した究極の香水も、全く神聖とか崇高な効果などは上げていない。処刑場での奇跡の場面では、


誰もが青い服の小男によって、自分の一番敏感なところをまさぐられ、しっかと掴まれたような気がした。性的な中心に命中。


そして誰彼構わずの大乱交。万余の人間の饗宴。地獄絵さながらの光景だったというのが小説の描写。


しかし、その中で彼は残酷な事実に気付くことになります。自分こそ神と勝利を味わったその直後に、自分の人間に対する憎悪さえも、彼らから憎悪を持って反応されないことに。再度に渡る存在の否定。一度目は生れ落ちた直後に母親から。ニ度目は自分に体臭がないということに起因する自己による存在の否定、そして三度目の支配したはず他者からの絶対的な存在の否定、純粋さと恐るべき孤独。もはや彼に残された道は、ラストに至る道しかないと考えたのはごく自然です。


それにしても、ジュースキントのこの小説、あらゆるところに悪意に満ちたウィットが散りばめられています。こういうセンスがドイツ人のユーモアなんでしょうか(黒すぎる)。パリに戻ってのラストシーンも小説こそ強烈。彼が一筋もあまさず地上から消え失せていた。という事が「意味」していたもののおぞましさと後味の悪い「笑い」!


しかし「匂い」というものに、これほどまでに拘ること、更には体臭と個の存在をこれ程まで強烈に結びつける文化は日本にはないように思えます。

2007年4月1日日曜日

映画:パフューム~ある人殺しの物語




音楽をベルリン・フィルとラトルが担当というだけで、クラ界ではそれなりの話題性があるハズなんですが、定期巡回しているブログではTakuyaさんとyusukeさんのところにエントリがあるくらい。そろそろ上映期間も終わりに近づきましたので観てきましたが、直後の第一印象としては随分とおぞましい映画を観てしまったなと。映像の綺麗な官能サイコパス映画と捉えても良いけど、それだけぢゃあ、つまらないので少し・・・



おぞましさは、映像のグロさや主人公グルヌイユの猟奇性に起因するわけではありません。それは犯罪性とか人間の生活にまみれた汚濁とか醜悪さの中から、群集はおろか司祭や為政者までをも支配してしまうほどの力と神聖さを獲得するという、そのこと。彼の「行為」と目的の無垢さと純粋さ、その純粋な悪意に胸が悪くなる程のおぞましさがある。


彼が自身、体臭を持たないと気付いた時、彼は自分の存在の欠落に気付きます。しかし、それをきっかけとして彼が人間的感情を欠落させたわけではありません。彼には天賦の才能(「香り」の世界のモーツァルトに匹敵する天才性)がありながらも、人間性をもともと有してはいなかった。それ故にかどうかは分かりませんが、失われた香り(彼が初めて嗅いだ女性ではなく、それは最初から失われていた)への強烈な焦燥と固執、地獄のような欠落を埋めるために神をも怖れぬ邪悪な行為を続け、その結果が神をも惑わす奇跡に繋がる・・・なんて茶番を、いったい正視できましょうか。


いや、いや、それでも正視してしまうのです。全くに意表を付く処刑場のシーンは苦笑を禁じえないと同時に、このクライマックスが何故に必要であったのかと、やはり考えざるを得ない。すなわち彼の獲得した全能性は彼を幸福にはしない、彼の欠落を埋めることもない、悪意の野望は実現しない。彼の与えた奇跡は一過性のもので、万人の記憶に留めたくない類のものであった。


人間性すなわち愛を欠落したままの彼は、生まれた場所に引きずられるかのように帰り、自らの存在証明である香水の魔力ゆえに群集に蛙(=グルヌイユ)のように押しつぶされて死ぬというのは余りにも暗示的です。彼の存在はその瞬間に無と帰しましてしまいます。ああ、やりきれません。


それにしても、映像における18世紀のパリの描写のリアルさよ。街が汚いだけではなく、衣服も人も汚い、手も首も爪も!汚れて真っ黒であるということ。そういう世界から生まれた香水。香水は日常を聖へ、汚濁を清浄へ、処女性から性愛へ、そして憎悪を愛へと導くということか。いやァ~、本当にドイツ人の考えることは、良く分からんス。やっぱ香りと同じで文化の違いなんでしょうか。


あれ?ラトルは?ベルリンは?