2007年12月24日月曜日

デ・ニース追記


kimataさんはデ・ニースを「華」ではなく「花」と評しましたが、間違いなく彼女は生まれながらにしてスターの素質を有しているように感じます。CDを一聴して人をひきつけてしまう能力、またはオペラの舞台で観客を虜にしてしまう魅力。それは本当に「一瞬」のことで、人は彼女に魅入られてしまったことにさえ最初は気づかないかもしれません。場を一瞬にして自分のものとしてしまう能力こそが、スターとか一流のソリストに見出されるものです。


そういう意味からはお嬢さん芸を思わせる「花」よりもむしろ「華」が適切という気もします。しかしそれでも「花」と書きたい欲求も抑えることが出来ないほどに、彼女の歌声は瑞々しい。歌う空間にパッとばかりに花びらが舞い上がります。それは彼女の鍛錬された歌唱力のなせる業で、そのパワーには驚きさえ感じます。


芸術的な深みという点では十分とは言えないかも知れません。しかし、こういう才能が年齢と経験を重ねることで、どのように変化をしていくのか、楽しみな演奏家です。


梅田望夫:ウェブ時代をゆく


本書はITが普及した現代はにおいて、旧来型の組織や職業のあり方が大きく変容するだろうことを、グーグルなどの先端企業や福澤諭吉を引き合いに説明し、若者に対し「人はなぜ働くのか」「いかに働き、いかに学ぶか」を示しています。オープンソースが成功するような社会においては、大組織のような枠組みだけではなく、他にも生きる道があることを、自らの経験をもとに繰り返し説明しています。ドラッカーの本と同様に、単なるITやビジネス本ではなく、人生の指南書という意味合いが強い本です。





旧来型の組織とはいかなるものでしょう。一言で言えばネットの特質を有効活用していない、あるいはできない組織ということでしょうか。ネットの特質が何かは本書に繰り返し書かれています。私は自分なりに「フラット化」「自然発生的知のヒエラルキー」「空間的・時間的概念の消失」「同時性」「一対多あるいは多対多結合」と考えています。そこから得られる「知」のエネルギーは確かに凄い。


梅田氏の主張は彼自ら認める楽観主義がベースになっているものの、ネットを善なものと肯定し、そこに多くの可能性を求め多様な選択をするという生き方は、既にどっぷりと旧来型組織の構成員に成り切っている私にとっても充分に刺激的内容でありました。


自分に即して考えるなら、私は現在46歳ですから、あと15から20年間はどこかで働き続けることになります。私はどちらかといえば旧世代に属しますから、梅田氏の言うように見事に大組織適応性を高めてサバイバルしてきたわけです。ちなみにP.93の7つの設問は幾つかの部位を除いてかなり合致します。これからもその傾向を強化することはあっても変えることはないでしょう。また私と同じ組織で働くパートナー(あえて、上司とか部下とか同僚とか定義せず)にも、同じ資質を求めるでしょう。しかし、ネットの重要性については、仕事にどこまで利用しているか否かは別としても今更なことです。


梅田氏が主張するのことで、最も引っかかったことは「好き」ということをとことん突き詰めるということ、そのことです。「好き」なことをやって飯を食えるようになる。そのためにはどうするか、ということなのですが、彼は徹底的な思考実験にも似た事を繰り返しながら追求することが必要だと書いています。それを彼は「ロールモデル思考法」として説明します。これは単に誰々のようになりたいとか、誰々のような生活がしたいとかの曖昧なものではありません。


自分の内から湧き出てくる何かが具体的にみえずとも、「ある対象に惹かれた」という直感にこだわり、その対象をロールモデルとして外部に設定する。そしてなぜ自分がその対象に惹かれたのかを考え続ける。それを繰り返していくと、たくさんのロールモデルを発見することが、すなわち自分を見つけることなのだとわかってくる。自分の志向性について曖昧だったことが、多様なロールモデルの総体として、外部の世界からはっきりとした形で顕れてくる。(P.120)


このロールモデルは一回やったら終わりではなく、行動と新しい情報により、次々に消費し再構築してゆくものだと梅田氏は言います。その中で、自らをコモディティ化しないようにロールモデルの引き出しを少しずつ増やす努力をしていったという戦略は見事です。


私は、今まではどちらかといえば「好きこと」よりも「やるべきこと」を選択してきました。親や世間からは「好きなこと」で飯を食うのは困難だと言い聞かされ、その道に進む人を若干斜めの目で見てたことも否定できません。しかし、現在においては、やり方次第で自分の能力に対価を払わせることは可能なのだというのが梅田氏の主張です。


これらの提言は、これからの若者にのみ当てはまる戦略ではないように思えます。多様性と流動性のもつ力、ネット社会が提供するパラダイムを、私たちとて無視することなどできません。氏の提言する内容は、最終的には個人のサバイバル戦略であり、よりよく生きるための示唆を含んでいます。それ故に自らを前向きに考える者の琴線に触れる部分があるのだと思います。

デ・ニースのヘンデルに完敗!


これも、CLASSICAや#Credoを始めとするブログで強力にオススメ*1)だったCD。実はネットで話題になる前から買っていたのだけど、封を切る気力がなくて、やっと最近聴いてみたのです。いやはや、皆さん絶賛する訳が分かりました。まだ20歳のデ・ニースですが、若さがはちきれんばかりとでもいいましょうか。歌唱力の瑞々しさ、のびやかさ、躍動感、これは惹かれますね、まさに現代的な表現というのでしょう。




handel arias/Danielle de Niese

Danielle de Niese(s)、Les Arts Florissants・William Christie

DECCA 475 8746






ラメントな歌を歌っても、どこか明るさを感じます。同じヘンデルを歌ってもコジェナーのような「暗い情念」とは無縁です。これ程の明るさや突き抜け感はどこから生じるのかと思って調べてみますと、スリランカとオランダの血筋でオーストラリアに生まれ、国内で多くのコンクールに入賞した後,ロスアンジェルスに移り,15歳でロスアンジェルス歌劇場でプロデビュー*2)なのだそうです。


ライナーによりますと、両親は彼女の音楽的才能を伸ばすため6歳の頃からピアノ、歌、ダンスのレッスンを学ばせたようです。歌手としてのキャリアも若くして(ってまだ二十歳だって!)積んでいて、13歳にしてタングルウッド音楽祭に参加したのは最年少記録というとらしいです。


歌とともにダンスの才能もあり、彼女のインストラクターはダンスに専念するように言ったそうですが、彼女は歌を選んだようです。


"but singing has always been my main focus, the thing I get the most joy out of. It's the ultimate way I can express myself"


そうなんですね、この歌に対する彼女の愛情が、このアルバムからは溢れだしていて、それが聴くものをとことん圧倒してしまうのでしょう。彼女のダンスの才能が、ヴィヴィッドな躍動感として歌にあらわれているというのは私の思い込みかもしれませんが、コケティッシュにしてリズミカルに跳ねる彼女の姿が目に浮かぶようです。


というのも、kimataさんが紹介されていたDeccaの映像も良いのですが、ためしに、彼女を一躍有名にした'Giulio Cesare in Egitto'(2005年グラインドボーン)のYou Tubeの映像を観てください。



何と言っても、この小気味良い動き、猫のように軽いステップ、チャーミングな首の振り方! たった1分ちょっとの映像を何度観たことでしょう。同じ舞台での以下も必見でしょうか。



なんと優雅な動きでしょう。歌いながら、こんなに細やかな表現をするとは・・・! どちらも共演はサラ・コロニーのようです。




そんなデ・ニースの本アルバムは、得意のヘンデルのアリアから彼女自らヒロインの曲を集めたようです。


"I picked a lot of strong heroines who sing the strongest melodic and dramatic music possible, while also looking for intelligent characters in some of the lesser-known Handel operas"


という具合にして衝撃的にして必殺ビームを照射する本アルバム、必聴かと。内容に入る前に力尽きました! 顔立ちは私好みではありませんが、彼女の才能と歌唱力に撃沈です*3)



  1. ダニエル・デ・ニースのヘンデルに言及したブログ。他にもありそうですが、当面はこのくらい抑えておけばよろしいかと。


    CLASSICA

    #Credo

    Classical CD Information & Reviews

    おやぢの部屋2 ここではニースに関する話題がいくつか散見されます。http://jurassic.exblog.jp/4194020/←こことか。

    CLACLA日記
  2. 'Classical CD Information & Reviews'から引用
  3. 顔で歌を聴くわけぢゃありませんから。にしても、「情念」よりも「若さ」に惹かれるとは、やれやれぢゃわい・・・

2007年12月23日日曜日

小川洋子:まぶた ほか



薬指の標本』の独特の世界に惹かれ、標題作が収録されている短編集を読んでみました。やはり彼女の独特の静謐な、透明な世界は健在です。そして作品に通底する、いとおしさとか、生とか死のありよう、あるいは偏執的なフェティシズムを感じ取ることができます。


本作には8つの短編が収められています。作品の雰囲気によって大きく二つに分けられるように思えますので、それぞれについて少しだけ感想を書いてみます。




第一群は、『飛行機で眠るのは難しい』『中国野菜の育て方』『詩人の卵巣』『リンデンバウム通りの双子』。そして第二群は『まぶた』『お料理教室』『匂いの収集』『バックストローク』としてみました。


第一群の作品は、人生における、言葉には出来ない「いとおしさ」とか「はかなさ」そして「生きる強さ」みたいなものを感じ取ることができます。作中人物たちは、何かを相手に提示せざるを得ず、それを受け取った者は、何か大切なものを引き受けます。提示されるものは一応に「死」の匂いがします。しかし受け取った者はには、ひそやかだけども確かな「生の光」が芽生えます。


ここら当のことを堀江敏幸さんは文庫本解説で「小さな死の塊」かすかな命の影、あるいは死とひきかえでなければ得られない体温のありかと表現しています。あまりにも的確な表現で、付け加えることがありません。それらは、ガンガンと主張するようなものではなく、ひっそりと、当人同士にしか分からないやり方、あるいは呼吸や触れ合いを通して、直接的にしか伝わらないもののようです。それゆえに秘めやかで、壊れやすく感じるのでしょうか。


第二群の作品は、より肉体性を感じる作品です。生と死の匂いはここでも健在で、かつフェティシズム的な雰囲気や、乾いたエロティシズム、あるいは、矢張りなのですが過去とか死の匂いを感じます。『匂いの収集』は『薬指の標本』にも繋がるホラーさえ感じる作品になっています。ちょっと滑稽で奇妙な『お料理教室』も、背反するものを未分化なままに提示しているように思えます。


『バックストローク』では、主人公はアウシュビッツを訪れたところから回想を始めています。アウシュビッツそのものが本作のテーマではありませんが、小川氏は中学時代に読んだ「アンネの日記」に大きな影響を受けていると言いますし、アウシュビッツにも興味を持っているようです。死者から生きている者が何を汲み取るのか、ということは彼女の大きなテーマなのであろうと思います。彼女が肉体やその一部に(決て生々しい肉体や息遣いではなく)拘るのは、自己と他者を、あるいは生と死をつなぐインターフェースとして身体を捉えているからかもしれません。


そういう意味からは、便宜的に作品を二つのカテゴリーに分けましたが、改めて考えると意味はなさそうです。
しかし・・・万人受けはしませんね、こういう作品群は。

2007年12月22日土曜日

やっとコジェナーのヘンデルを聴いてみました


古楽系ブログで今年随分と話題になったヘンデル、そして、一部で評判の分かれるコジェナーのヘンデル・アリア集を、やっと、そしてボチボチ聴いています。ヘンデルもコジェナーも私には全く未開拓分野ですから、とやかく言うことはできません。コジェナーの唄い方がヘンデルに合っているのかという問題もありますが、彼女の古楽に対するアプローチとともに、聴き逃すことのできない盤と言えます。



Ah! mio cor/HANDEL ARIAS

Magdalena Kozena(ms)、Venice Baroque Orchestra Andrea Marcon

ARCHIVE 477 9547






ライナーを読みますと、コジェナーはヘンデルに現代にも通ずる人間の心理とドラマを読み取っており、劇中の人物の情感を的確に表現するために、あざといまでの歌唱力を駆使しているようです。収録曲のタイトルを眺めるだけで、ちょっと凄いですよ。



  1. 歌劇「アルチーナ」~ああ、我が心よ! お前は踏みにじられた!
  2. オラトリオ「ヘラクレス」~どこへ逃げたらよいの?
  3. 歌劇「アグリッピーナ」~ああ、不安が迫り来る
  4. 歌劇「エジプトのジュリオ・チェーザレ」~希望がこの心を照らしつつある
  5. オラトリオ「ヨシュア」~ああ!もし私にジュバルの竪琴があれば
  6. 歌劇「アリオダンテ」~不貞の女め、情夫の胸に戯れるがいい
  7. オラトリオ「テオドーラ」~眩しき太陽よ―深き闇よ
  8. 歌劇「ガリアのアマディージ」~苛烈なる地獄より呼び出さん
  9. 歌劇「オルランド」~ああ、地獄の妖怪め! ― 冥府の番犬ケルベロスが ― 美しい瞳よ、どうか泣かないでおくれ
  10. 歌劇「アリオダンテ」~暗く不幸な夜のあとには
  11. 歌劇「リナルド」~私を泣くがままにさせて



彼女の過剰さが話題となった*1)、たとえば9曲目の「Orlando」での歌唱、あるいは2曲目の「Hercules」で演ずるDejaniraの表現。どちらも狂気を身にまとった女性の、引き裂かれんばかりの心情が、凄まじいばかりに迫ってきます。これは確かにバロックの表現を越えているのではと感じる部分です。しかし、バロックがおとなしく神聖で美しいばかりの音楽であったというのは、私のような不勉強な者の勝手な思い込みかもしれないのです。


コジェナーがMarc Minkowskiと仕事をしているときにuglyに歌うことの効果を学んだと言います。


Baroque music is not all about beauty; sometimes you need a sound that may be not so lovely yet says so much more about the text, and particularly the character's madness at that moment.


��曲目の「Alcina」からの女王Alcinaの嘆きも真に迫ってきます。まさに女神のように振舞っていたAlcinaが、人生において初めて恋に落ちた心情を歌っています。この歌をブラインドで聴いてヘンデルの作であると、バロックに詳しくない人が特定できるでしょうか。あるいは伴奏がバロック・オーケストラから現代のものに変ったとしたらどうでしょう。


These are special moments which everyone can find deep in their own experience.


それほどまでにヘンデルの音楽は豊穣であり、そして、それを歌うコジェナーの表現は、「ある意味において」的確だといえます。ただ、ただ、コジェナーのパワーに圧倒されっぱなしです(失笑)。


ヘンデルのアリアは長くて眠くなるという印象がありましたが、ヴィヴァルディのそれに負けず劣らずに技巧的な曲もあり、また、ラストの有名な曲を始めとして、信じられないくらいに美しい曲も収録されており、ヘンデルのアリアは確かにバロック歌手やバロックファンにとって至宝であるなと思った次第です。
もっとも、心情が大切だからと、歌詞の対訳を調べ劇の背景を調べてアリアの意味づけを行う程には、今はパワーがありません・・・。


こういうヘンデルに対して、ブログ「庭は夏のひざかり」のSonnenfleckさんは下記のように書いています。


このアリアに限らずあんまりヘンデルや古楽を聴いてる実感がないのがこのアルバムの特徴で、最強の個性派女優としてのコジェナーが前面に押し出されて来、彼女のスタイルによる何か新ジャンルのうたを聴かせてもらってる感じ


他に例えるとすると、「バルトリの歌うヴィヴァルディ」みたいなものなんでしょうか。私にはそこのところがまだ判断つきません。もう少しヘンデルのアリアを聴いてみる必要がありそうです。



  1. コジェナー、ヘンデルで見つけたエントリ

    おやぢの部屋2

    庭は夏の日ざかり

    ぶらぶら、巡り歩き

2007年12月10日月曜日

小川洋子:薬指の標本




小川洋子という作家の作品が映画化もされ話題になっていることは知っていました。しかし積極的に読みたいリストには入ってはいませんでした。日経新聞夕刊で12月3日から「人間発見」という企画で『物語の森の観察者』と題する彼女とのインタビュー記事が5回にわたって連載され、記事を読んでみたところ、作品にも興味を持ちました。


小学校の頃は体も小さく、色々なことがみんなと一緒にできず、図書館だけは楽しかったという少女が大人になって。小説を書き始めた頃は最も重要なのは自分自身だったということ。一番知りたいのは自分で、それが最も深い闇だったと自覚していた彼女。彼女の創作はどこに飛翔したのかと。





最初に読んだのが、代表作の一つである『薬指の標本』。評判とおり透明で静謐な作品です。どこかを突付くと、そこからこなごなに壊れてしまいそうなくらいに繊細で、微妙なバランスで保たれた世界。ディテールはリアルでありながら全く現実離れしています。標本を作ってもらうということと、それを作るということ。


「封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。繰り返し思い出し、懐かしむための品物を持ってくる人はいないんです。」


と説明する標本技師。彼は地下室で標本つくりに没頭し、それを保管し続けます。「標本」にして所有するということとは。主人公である彼女は、標本技師に抱かれながら問いかけられます。


「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」


その二人が、標本技師が彼女にプレゼントした靴をキーとしながら、秘められた関係性に陥っていきます。


「これからは、毎日その靴をはいてほしい」

彼女に、あまりにぴったり過ぎる靴。靴が彼女の足を侵食する。その束縛と解放がないまぜとなって、秘められたエクスタシーにまで昇華されてゆきます。

「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」


「標本」とは、いわば部分と時間を閉じ込めた小世界。その中に収められたモノは永遠に残ったとしても、それを包括していた全体としての存在は消えているということ。存在の消失と永続性、フェティシズムと乾いたエロティシズム。束縛されることで自己を解放するというアンビバレンツな衝動、むしろエロスよりはタナトスか。非常に雰囲気と香りを伴ったフランス人好みの作品かもしれません。



文庫に収められている、もうひとつの『六角形の小部屋』という作品も、『薬指の標本』に劣らずに不思議な小説です。しかし、ここでも語られるのは主人公の心、そして束縛と解放。


どちらも、ひたすら自己の内面に静かに降りて行くような作品。自分の心の井戸の底に何が沈んでいるのか、当の自分にも分からない、井戸の底にチラリと見えた水面がどんな色をしているのか。その水は透き通っているのか、はたまた黒く濁っているのか、毒なのか。


小川氏の小説は始めて読みましたが、この静謐さや幻想性は非常に儚い。性的な描写も女性の視点のそれだし、まるで少女の夢想した世界のよう。まだ彼女の作品は短編ニ作のみ、誤読している可能性はありますが、続けて幾つか読みたいと思わせる作家でもあります。

2007年12月3日月曜日

村上龍:半島を出よ



村上龍の「半島を出よ」を読みました。発刊時に随分と話題になりましたし、アマゾンのレビュ数も多い。日本を舞台にした近未来小説であり、過激なエンタテイメントであり、かつ村上氏らしい問題提起になった小説です。膨大な資料から着想を得ての作品つくりは、小説も企画と組織力による企業活動に近いと思わせます。活字密度と、内容の綿密なプロットとディテールから、硬派な小説のイメージですが、そこは村上氏、物語としての面白さの方がウェイトが大きい。それが本書の良い所でもあり、欠点でもあるかなと。

「あとがき」にもあるように、『13歳のハローワーク』チームを中心として取材や資料手配を行ったらしく、協力者が幻冬舎の石原正康常務、日野淳氏、岩垣良子氏、篠原一郎氏というのですから。まさに小説のイシハラグループではないですか。

物語は壮大で一気に読ませます。しかし問題提起の割にはラストが安直で、「最後の家族」や「希望の国のエクソダス」ほかにも通ずる願望的楽観主義を感じます。と、ここまで書いて、ちょうど6年前に読んだ「最後の家族」の感想を読み返してみました(普通は滅多に自分の感想など読み返しませんが)。

村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。
自分で言うのもなんですが、これはそのまま「半島を出よ」に当てはまりますね、というかテーマに関しては付け加えることがない。繰り返しはしませんが「自立」ということに関しても村上氏のスタンスは全く変わりません。特にイシハラグループのモチベーションとありようは印象的です。


日本の経済的衰退と国際的な地位の低下という状況、政治の機能不全、国民の平和ボケ、それらがもたらす悲劇的な日本の未来は、今はまだ小説ほど酷くはないものの、確実に日本の現況を言い当てています。日本の状況は6年前よりも悲観的なカンジがするくらいです。

「半島を出よ」とは、北朝鮮人のことではなく、日本人が中国大陸の半島の一部であると見立てて、日本人に向けて放たれた強烈な一語であるようにも思えます。

私はこの作品のどこが好きかといわれれば、間違いなくラストとなりましょうか。中学二年のイワガキが学校や家族に馴染めないでいる中、イシハラたちに出会う。そこでイワガキは彼らが集まる倉庫で、何も話さずにソファにただ座って時を過ごしている四人に会う。

だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。
ワガキは邪魔をしているような気になって帰ることにする。明日も来て良いかとの問いに、イシハラは答える。
「それは、お前の自由だ」
息苦しく絶望的描写も多い本小説において、ここだけは、ある種の解放と、限りない平和が漂う部分です。